メッセージ - イザヤ書カテゴリのエントリ
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
暗黒を照らすひとりのみどりご(イザヤ9:1-7)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書9章1-7節を基に、闇から光へ、苦しみから喜びへと導かれる救いについてのメッセージ。
【聖書箇所】
イザヤ書9:1-7
【慰めの言葉】
苦しみのあったところに闇がなくなり、光栄を受けるようになる。
【励ましの言葉】
神は沈黙の後も必ず語りかけ、光を与えてくださる。
【戒めの言葉】
罪を悔い改めず、立ち返らないと、長く苦しむことになる。
【勧めの言葉】
イエス・キリストという一人の男の子に頼り、その主権と平和のうちに生きよう。
【悔い改めの促しの言葉】
罪に染まった生活から速やかに立ち返り、光の中を歩もう。
【***詳細***】
今日、私たちが恵みをいただく御言葉は、イザヤ書9章1-7節です。ここでは、闇と苦しみの中にいた人々に光が照らされ、喜びが与えられるという希望に満ちたメッセージが語られています。
まず1節を見てみましょう。「しかし、苦しみのあったところに、闇がなくなる。先には、ゼブルンの地とナフタリの地は、恥ずかしめを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川の向こう、異邦人のガリラヤは、光栄を受けた。」
ここで言及されているゼブルンとナフタリの地は、イスラエルの北部に位置し、異教の影響を最も受けやすい地域でした。彼らは最初に罪に染まり、また最初に敵の攻撃を受けるような場所だったのです。しかし、神は彼らに光を与えると約束されました。
これは私たちにとって大きな慰めとなります。たとえ私たちが罪に染まり、世の影響を強く受けていたとしても、神は私たちを見捨てず、光を与えてくださるのです。
2-3節では、「闇の中を歩んでいた民が、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が照らした。あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられました。」と続きます。
ここで注目すべきは、光が照らされた後の変化です。人々は増え、喜びが増し加えられたのです。これは、神の光が私たちの人生に入ってくると、それまでの苦しみや闇が一掃されるだけでなく、積極的な祝福と喜びがもたらされることを示しています。
4-5節では、「彼らの重くのしかかったくびきと、肩の杖と、彼らを虐げる者の杖を、あなたはミディアンの日のようにお破りになりました。戦場でとどろく靴、血にまみれた着物はみな、焼かれて火の燃料となります。」とあります。
ここでは、神の光がもたらす解放と勝利が描かれています。私たちを縛っていた罪のくびきが打ち砕かれ、私たちを虐げていた敵が打ち負かされるのです。そして、戦いの道具や血に染まった衣服が燃やされるという描写は、神がもたらす平和を象徴しています。
そして6-7節で、この救いと光をもたらす方について語られます。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
ここで預言されている「ひとりのみどりご」こそ、イエス・キリストです。イエスは、単なる人間ではなく、神の主権を持ち、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれるお方なのです。
イエス・キリストの支配は増し加わり、その平和には限りがありません。彼は正義と公平によって国を治め、それは永遠に続くのです。
このメッセージから、私たちは二つの道を選ぶことができます。一つは、ゼブルンやナフタリの地のように、主に立ち返らず、自分の好むことをし続け、結果として奪われ、搾取され、奴隷化されていく道です。もう一つは、イエス・キリストを受け入れ、光の中を歩み、イエスの主権のうちに生きていく道です。
私たちは、イエス・キリストという一人の男の子により頼み、いつでもこの不思議な助言者に救いを求め、力を得るべきです。イエスの支配を永遠に受け入れ、幸いと祝福と栄えのうちに過ごしていくことができるのです。
【結論】
今日のメッセージを通して、私たちは神の驚くべき恵みと救いの計画を見ました。たとえ私たちが深い闇の中にいたとしても、神は光をもたらすことができるのです。その光は、イエス・キリストを通してもたらされます。私たちは、このイエス・キリストに頼り、その主権のもとに生きることで、真の平和と喜びを見出すことができます。今日から、私たちの人生の主権をイエス・キリストに委ね、その光の中を歩む決意をしましょう。
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イザヤ8章ではイスラエルの王アハズのかたくなさによって、主が何度も立ち返りなさいと言っているのに、それでも全く立ち返らない「かたくなさ」を見た。
アハズは預言者イザヤによってしずかにして信頼しなさい、と言われていたのに、アッシリアの王に勝手に頼って、しかも、偶像の設計図まで取り寄せる余計な「走り回り」をしていた。
そんな中で、主はイザヤをはじめ主を畏れ敬う民に対して言われた事は、かたくなな世の者に見習うな、という事であり、おしえとあかしに尋ねなければならない、と勧めた。
主に対し徹底的にかたくなを貫き通し、あくまで主に聞かない、徹底して、御言葉を軽んじる、者に対し、備えられている事は、法則的に、8章の最後の通りである。
イザヤ8:21 彼らはしえたげられ、飢えて国の中を経あるく。その飢えるとき怒りを放ち、自分たちの王、自分たちの神をのろい、かつその顔を天に向ける。
8:22 また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いやられる。
神が人を罰する、という場合、必ず、次の順番である。それは、
人が神を無視して自分勝手なことをする → 神が人を罰する
という順番がある。だから私達は、罪が私達を打って、神に打たれる、という事を十分注意して、そうならないように未然に防がなくてはならない。
主に従わない人を、苦しい目に合わせる。主はあらかじめ、預言者イザヤを通して立ち返るように促したが、立ち返らない。それなら苦難が重くされる。それでも立ち返らないなら、さらに苦難が重くされる。しかし、主はいつまでも人を打っておられるお方ではない。
9:1 しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
ゼブルンの地とナフタリの地、イスラエルの北であり、真っ先に異邦人と和合し、染まってしまった地である。
同時に、罪ゆえの災いも真っ先に受けてしまう地でもある。
世と和合し、罪と和合し、聖なるおもむきを失ってしまったイスラエルに対し、罪のゆえのとばっちり、悲しみ、闇、それを主は、無くしてくださる。
ゼブルンとナフタリ、主の宮からはなれていた。
主の御言葉から、遠くはなれていたら、真っ先に異邦の教え、異邦の拝むもの、異邦の価値観にすぐに感染して、染まってしまう。だから、宮から離れる事ないように気をつけるべき。
9:2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
この箇所はマタイでも引用されている。イエス様がガリラヤで宣教を始めた時に。
闇が最も深い時に、光があらわれる。
アッシリア、バビロン、メディア、ペルシア、ギリシヤ、ローマ.
光が登ったのは、ローマの時、だから、罪にどっぷり浸かりきっているなら、何世代に渡っても光は上らない。
力ある者が来ては踏みにじられ、してきた。
私達には既にイエス様が来られ、何か起きた時、イエス様に助けを求めるなら、速やかにイエス様が助けに来てくださるが、しかし、立ち返らない、という事であれば、(主は確かにあわれんではくださるが)、しかし、その助けは、蹂躙され奪われ下敷きにされた、さらにその、ずっとずっと後に、である。だから、私達の側が悔い改めて立ち返るほうが、よほど立ち直りの近道である。
イエス様が現れる時、全ての闇は光へ、全ての死は、いのちへと飲み込まれていく。
イエス様が来られる前までは、本当に暗闇だった。人は絶望し、マラキから預言が絶えて400年、ずっと空白の期間を過ごし、人々がメシヤを求める声、その呼び声をかける人々の上に、大きな光が照った。
9:3 あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。
死を待ち望む以外にないような人々n上に、光を照らしてくださる。
主が与えてくださった豊かな実り、主が育てて下さったもの、、、主が光を照らしてくださると、いのちが育って、多くの実りがもたらされる。
このような祝福お受けた人は、やることなす事、全て健やかに祝福されてしまう。あまりに利益が、あまりに収穫が多くされ、あたかも、戦争して勝ってぶんどりができるかのようになる。
この「ぶんどり」、戦争で勝利した側がする事であるが、この箇所の「敵」は悪魔サタンである。
つまり、悪魔サタンにとらわれていた人達、悪魔サタンが不当に占拠していた数多の良いもの、それを、私達が分捕ったという喜び楽しみ。主が与えてくださる実りと、主が勝ち取らせてくださるこのぶんどりに、私達は喜び楽しむのである。
9:4 これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。
9:5 すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。
まことの光なるイエス様が、太陽としてのぼり、死の陰の地に住んでいた彼らの重荷、また、彼らを打っていた鞭や杖、それらは、ミデヤンの日になされたように、粉々に砕かれる。
御言葉に背く事には、ひたいの汗と労苦があり、罪の刑罰、すなわち鞭とつえが、必ずともなう。
9:5 すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。
罪の飲み食いや取引をする内に、人の血を流したり、返り値をあびたり、あるいは、自分が、より強い者から血を流されたりする。そうした血に汚れたふくやくつ、義の太陽なるキリストが昇る時、火のえじきとなり、もやは罪穢れは焼かれて清められる。
自分も相手も傷を与え、傷つけ合い、罪を犯しあい、血を流したり流させたり、、、神の目から見れば私達の姿は、みんな、血を流しているように見える。その様を、「すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣」、それを、わらのように燃やす。わらに火がつけられると、たちまち一瞬にして燃えて灰になるように。
主はどのようにして、死の影の地に住んでいた人達に、光を照らしてくださるのか。。。
それは、ひとりのみどりごによって、である。
9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
このイエス様が来て、1-5節の全てを解消する!
全世界を覆っていた、ながらく覆っていた分厚い、しつこい闇、死、その中へと投じられたひとつの光。
その光によって救われる「光」とは、ひとりのみどりご。
主イエス様は、ひとりのみどりごとして私達のために生まれて下さった。
主の御名を呼ぶ個人にも生まれ、主の御名を呼ぶ集団に生まれ、また、主の御名を呼ぶ国にも生まれてくださる。
どういう方か。
9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
Isa 9:6 For unto us a child is born, unto us a son is given: and the government shall be upon his shoulder: and his name shall be called Wonderful, Counsellor, The mighty God, The everlasting Father, The Prince of Peace.
主権は、英語でガバメント、すなわち政府。つまりイエス様の肩に政府が置かれる。
日本の政府は国会議事堂や内閣府に置かれているが、神の国の支配権は、イエス様の肩に置かれている。
国に申請する時は、いつも役所に行ってしなくてはならないが、神の国においてはそんな面倒は無い。イエス様の御名によっていつでもどんな時でも、まどろむ事なく、眠ることのないイエス様に申し上げる事ができる。
全ての権威、点においても地においても、イエス様の肩にあるから、どこかに行ってやる事もない。したい事を、したい時間に、移動する事なく、全部できてしまう。
なぜなら、大祭司の肩には、イスラエルの名を負って記念としている。大祭司は、イスラエル十二部族の名を肩に負いつつ主の御前に出て執り成しのつとめを為すのだ。(出エジプト記28:9-12)
「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」 英語では、「Wonderful, Counsellor, The mighty God, The everlasting Father, The Prince of Peace.」
主は、どんな悩み、問題、しつこい解決不能な事さえ、解決へと導いてくださる Wonderful, Counsellorであり、力ある神。仕事で忙しくてなかなか助言を求められなくても、私達の主イエス様は、いつでも、求めて、いつでも助言を求める事ができる。この、神の国のガバメントは、月曜から金曜の9時から17時まで、などという限定は無いし、なになにの書類を整えなければ受理しません、も無い。いつでも、永遠の父の求め、不思議な助言が与えられ、力ある神の力が行使され、平和の君、そのあらゆる善き事を、いつでも、求める事ができるのだ。
イエス様はまた、平和の君、プリンス・オブ・ピースである。あらゆる不和、あらゆる争いごと、それはイエス様の元に行けば、平和へとつくりかえられる。
9:7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
Isa 9:7 Of the increase of his government and peace there shall be no end, upon the throne of David, and upon his kingdom, to order it, and to establish it with judgment and with justice from henceforth even for ever. The zeal of the LORD of hosts will perform this.
これを行うのは、私達の努力ではなく、主の熱心が、この事を行ってくださる。
イエス様の主権、ガバメントは、どんどん増し加わって、そしてそれは、平和であり、限りなく、ダビデの王座につき、その王国を、とこしえまで。エバーラスティング。終わりが無い。それが、闇の中に住んでいる人達の上に照り渡る光。それが、彼の威光であり、力であり、ご性質である。
私達には、2つの道がある。
ゼブルンやナフタリ、のように、ずっと立ち返らないで、自分の好むことをやり続けて、ひたすら、ほかの強い人から奪われ、搾取され、奴隷化され、ずっと続けるか。その一つの道を選ぶか。
それとも。もう一つの道、イエス様を受け入れて、イエス様の主権の内に歩んでいくか。
イエス様すなわち、ひとりのみどりごに依り頼んで、いつでも不思議な助言を得て、力を得て、支配を得て、幸いへと祝福へと栄の内にとこしえまで生きる皆さんでありますように。
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
頑なに主を頼みとしない者が受ける分(イザヤ8章)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書8章を中心に、神への信頼と人間の不信仰について語られたメッセージ。
【聖書箇所】
イザヤ書8章2-4節、5-10節、11-16節、17-22節
【励ましの言葉】
主を聖なる方とし、恐れおののく者には、主が聖所となり守りとなってくださる。
【戒めの言葉】
人々が恐れるものを恐れず、主のみを恐れよ。占い師や霊媒に頼らず、神の教えと証しに尋ねよ。
【***詳細***】
今日のメッセージは、イザヤ書8章を中心に、神への信頼と人間の不信仰について語られています。
まず、2-4節で、イザヤは息子の名前を「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(分捕りは早く、略奪は速やかに)と名付けるよう命じられます。これは、ダマスコとサマリアが滅ぼされることを預言するものでした。
「それは、この子がまだお父さん、お母さんと呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリアの分取り物がアシリアの王の前に持ち去られるからである。」(イザヤ8:4)
この預言は、アハズ王が恐れていたアラムとイスラエルの王が速やかにアッシリアによって滅ぼされることを示しています。神は、まだ生まれていない子供の名前を用いて預言することで、アハズ王に神への信頼を促そうとしました。
しかし、5-10節では、ユダの民が神を信頼せず、アッシリアに頼ろうとしたことが批判されます。
「この民が緩やかに流れるシロアの水をないがしろにして、レツィンとレマリアの子を喜んでいる。」(イザヤ8:6)
神は、彼らが頼ろうとしたアッシリアが逆にユダを滅ぼすことを預言します。これは、人間の力に頼ることの愚かさを示しています。
11-16節では、イザヤは神から特別な警告を受けます。
「この民が謀反と呼ぶことを、あなたがたは謀反と呼んではならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。おののいてはならない。」(イザヤ8:12)
ここで神は、イザヤに人々の恐れや陰謀に巻き込まれないよう警告しています。代わりに、万軍の主を聖なる方とし、主のみを恐れるよう命じています。これは、困難な時代にあっても、神のみに信頼を置くべきことを教えています。
17-22節では、イザヤの決意と、不信仰な者たちへの警告が語られます。
「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みをかける。」(イザヤ8:17)
イザヤは、たとえ神が御顔を隠しておられるように見えても、主を待ち望む決意を表明しています。一方で、占い師や霊媒に頼る者たちは、真の光を見出せないと警告しています。
「もし、この言葉に従って語らなければ、その人には夜明けがない。」(イザヤ8:20)
このメッセージ全体を通して、神は私たちに次のことを教えておられます:
-
人間の力や知恵ではなく、神に信頼を置くこと。
-
世の中の恐れや陰謀に惑わされず、神のみを恐れること。
-
たとえ困難な時代であっても、神の言葉に従い、主を待ち望むこと。
-
占いや霊媒など、神以外のものに頼らないこと。
これらの教えは、現代を生きる私たちにも大きな示唆を与えています。世界が混沌とし、不安が広がる時代にあっても、私たちは神の言葉に立ち返り、主に信頼を置くべきです。
「教えと証しとに尋ねよ。もし、彼らがこの言葉に従って語らなければ、その人たちには夜明けがない。」(イザヤ8:20)
この御言葉に従って生きる時、たとえ周りが暗闇に包まれていても、私たちの内には光が輝き続けるのです。
【結論】
困難な時代にあっても、人間の知恵や力ではなく、神のみに信頼を置き、御言葉に従って生きることが重要である。そうすることで、私たちは世の光として輝き、神の守りの中に留まることができる。
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
主に期待しない・求めないアハズ王(イザヤ7章):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書7章を基に、アハズ王の不信仰と、神の憐れみ、そしてインマヌエルの預言について説かれたメッセージです。
【聖書箇所】
イザヤ書7:1-25
第二列王記16:5-16
【戒めの言葉】
主を信頼せず、世の力に頼ることの愚かさを戒めています。
【励ましの言葉】
主に信頼して歩む者には、主が安らかな眠りを与えてくださいます。
【***詳細***】
今日のメッセージは、イザヤ書7章1節から25節を中心に展開されます。この箇所は、ユダの王アハズの時代に起こった出来事を描いています。
まず、1-2節を見てみましょう。
「アラムの王レツィンとイスラエルの王レマルヤの子ペカがエルサレムに攻め上ったが、これを攻め取ることはできなかった。ダビデの家に、『アラムがエフライムと同盟を結んだ』という知らせが入ると、王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように動揺した。」
この状況下で、神はイザヤを通してアハズに語りかけます。3-9節で、神はアハズに恐れないよう命じ、敵対する二つの国は「くすぶる燃えさし」に過ぎないと言います。そして、「もし、あなたがたが信じないなら、長く続くことはできない」(9節)と警告します。
さらに神は、アハズに印を求めるよう促します。「あなたの神、主に、しるしを求めなさい。深い所のものでも、高い所のものでも求めなさい」(11節)。しかし、アハズは偽善的な態度で拒否します。「私は求めません。主を試みません」(12節)。
この拒否に対し、イザヤは有名な預言を宣言します。「見よ。おとめが身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(14節)。この預言は、はるか後の時代に、処女マリアを通して生まれるイエス・キリストを指し示しています。
イザヤは続けて、アッシリアの侵攻と、それに伴う荒廃を予言します(17-25節)。これらの預言は、アハズの不信仰にもかかわらず、神が依然としてユダの民に語りかけ、未来を示していることを表しています。
しかし、アハズは神の警告を無視し、アッシリアの王に助けを求めます。第二列王記16章では、アハズがアッシリアの王に贈り物を送り、「私はあなたのしもべ、あなたの子です」(7節)と言ったことが記されています。さらに、アハズはダマスコで見た異教の祭壇の模型を作らせ、エルサレムの神殿に設置しました。
このアハズの行動は、神への不信仰と、世俗の力への依存を如実に示しています。彼は神の約束を信じるのではなく、自らの知恵と世の力に頼ることを選びました。
私たちもしばしば、アハズのような態度をとることがあります。困難に直面したとき、神の約束を信じるのではなく、世の知恵や力に頼ろうとします。しかし、聖書は私たちに、「主に信頼して歩む者には、主は安らかな眠りを与えてくださる」と教えています。
詩篇127篇1-2節は次のように語ります。
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起き、おそくまで座り、労苦の糧を食べることは、むなしいことだ。主は、愛する者には、眠っている間に必要を満たしてくださる。」
私たちは、世の設計図ではなく、神の設計図に従って生きるよう召されています。神の言葉には、私たちの人生のための完全な設計図が含まれています。例えば、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」(マタイ5:8)という御言葉があります。これは、心の清さを追求することで、神との親密な関係を経験できるという設計図です。
【結論】
今日のメッセージから、私たちは次のことを学びます:
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困難な時こそ、神に信頼することの重要性
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世の知恵や力ではなく、神の約束に頼ることの必要性
-
神の言葉に含まれる人生の設計図を見出し、それに従うことの大切さ
私たち一人一人が、アハズの失敗から学び、どんな状況でも主に信頼し、主の道に歩む者となりますように。アーメン。
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
くちびるに炭火を当てられて(イザヤ6章):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書6章を中心に、預言者イザヤの霊的体験と唇の清めについて語られた説教。
【聖書箇所】
イザヤ書6章
【励ましの言葉】
神様の前に出て、自分の罪深さを知り、唇を清めていただくことで、主に用いられる者となれる。
【戒めの言葉】
私たちの唇は火であり、不義の世界である。言葉で多くのことを失敗するので、唇を制御することが大切。
【悔い改めの促しの言葉】
イザヤのように、自分こそが贖われる必要があると気づき、唇を清めていただく必要がある。
【***詳細***】
今日の聖書箇所は、イザヤ書6章です。この章では、預言者イザヤが神の御前で霊的な体験をし、自身の罪深さを悟り、唇が清められる出来事が描かれています。
イザヤは、それまでイスラエルに対する災いの予言をしてきましたが、この6章の経験を通して、自分こそが災いを受けるにふさわしいものであったと悟ります。「ああ、私はもうだめだ。私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」(イザヤ6:5)
この体験は、主を見ること、主の聖なる有様を見てしまうこと、その圧倒的聖に触れるときに起こります。人は本当に絶望しかなくなってしまいます。イザヤは、自分が唇の汚れた者であることを認識し、神の前に立つことができないと感じたのです。
私たちの唇、言葉の力についても語られました。**「私たちは言葉で非常に多くのことを失敗するものですけれども、この唇を立派に制御できる人は、完全なものだ」**とヤコブの手紙にあるように、唇を制御することの重要性が強調されました。
また、唇は火であり不義の世界であるとも言われています。一言で人の人生を台無しにしたり、他人の人生を傷つけたりすることがあります。言葉の力の大きさを認識し、慎重に使う必要があります。
預言者イザヤの経験から、私たちも自分の罪深さを認識し、神の前に出て清めを求める必要があることが語られました。イザヤの唇が清められたように、私たちも清められる必要があります。
「すると、私のもとにセラフィムの一人が飛んできたが、その手には祭壇の上から火ばさみでとった燃え盛る炭があった。彼は私の口に触れて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」(イザヤ6:6-7)
この箇所は、イエス・キリストの贖いの予型として解釈されました。祭壇の炭火は、私たちの罪の身代わりとなったイエス・キリストを表しています。イエス様は十字架上で私たちの罪を負い、私たちの身代わりとなって処罰を受けてくださいました。
そのため、イエス様を信じる人々は、肉体的な処罰を受けることなく、罪が取り除かれ、清められるのです。これは、連帯保証人の例えで説明されました。イエス様は私たちの罪の連帯保証人となり、私たちが返済できない罪の借金を支払ってくださったのです。
この恵みを知ることで、私たちはイエス様への感謝と、主に用いられたいという思いを持つようになります。イザヤのように、自分の罪深さを認識し、主に清めを求めることが大切です。
そして、清められた唇で主を賛美し、主の言葉を宣べ伝える者となることができるのです。説教者は聴衆に向けて、イザヤのように主の御前に出て、唇を清めていただくように促しました。
【結論】
私たちは皆、イザヤのように神の聖さの前に立ち、自分の罪深さを認識する必要があります。そして、イエス・キリストの贖いによって清められ、主に用いられる者となることができます。日々、自分の言葉に気をつけ、主を賛美し、人々を励ます言葉を語る者となりましょう。
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
主を敬わない者へのさばき(イザヤ5:18-30):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書5章18-30節を中心に、神の言葉をないがしろにする罪とその結果としての裁きについて語られた説教。
【聖書箇所】
イザヤ書5:18-30、マラキ書3:13-18
【戒めの言葉】
神の言葉をないがしろにし、軽んじることは大きな罪である。神がいないかのように振る舞い、悪を行う者たちに対して、神は必ず裁きを下される。
【励ましの言葉】
神を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前に記憶の書が記される。神は彼らを憐れみ、宝として扱われる。
【***詳細***】
本日の説教は、イザヤ書5章18節から30節を中心に展開されました。この箇所は、神の言葉をないがしろにし、罪を重ねる者たちに対する警告と裁きの預言です。
まず、18-19節では、「嘘を手綱として、とがを引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち」について語られています。これは、罪に罪を重ね、神の憐れみを踏みにじる者たちの姿を表しています。彼らは神の存在を疑い、挑発的に「彼のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たい者だ」と言います。
説教者は、このような態度が「神はいない」という思いの現れであると指摘します。詩編10:4を引用し、「悪者は、傲慢を顔に表して、神を尋ね求めない。その思いは、神はいないの一言に尽きる」と述べています。
次に、20-23節では、善悪を転倒させ、賄賂によって正義を歪める者たちが非難されています。特に、「酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけて豪の者」という表現に注目し、これが単なる酒の問題ではなく、正しい判断を鈍らせるものの比喩であると解説しています。
説教者は、現代のクリスチャンにも当てはまる警告として、「正しいことを忘れさせる酒、物事を正しく裁くことをやめさせる酒、それは皆さんにとって何でしょうか」と問いかけます。これは、神の言葉や真理を忘れさせ、正しい判断を鈍らせるものすべてを指しています。
24-25節では、神の裁きの描写が続きます。「火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯草を舐め尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も塵のように舞い上がる」という強烈な表現で、神の言葉を侮る者たちの運命が語られます。
特に重要なのは、「彼らが万軍の主の教えをないがしろにし、イスラエルの聖なる方の御言葉を侮ったからだ」という部分です。神の言葉を軽んじることが、すべての罪の根源であることが強調されています。
26-30節では、神が遠くの国々から敵を呼び寄せ、イスラエルを罰する様子が描かれています。「その矢は研ぎ澄まされ、弓はみな張っており、馬のひずめは火打石のように、その車輪はつむじ風のように思われる」という描写は、迫り来る裁きの恐ろしさを表しています。
説教者は、これを現代のクリスチャンへの警告として解釈し、「神様の御言葉を教えられて、それを世と天秤にかけて、世の方をとって、世の方が何か正しい、神の言葉は奇情の空論、夢見事のようにしている」態度を戒めています。
さらに、マラキ書3:13-18を引用し、神を恐れる者たちの態度と、彼らに対する神の約束を対比的に示しています。「その時、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された」という箇所は、神の言葉を大切にする者たちへの励ましとなっています。
説教の結びでは、「どうか皆さんは、主の御言葉にしっかりと留まって、そして本当に正しい主の御言葉を伝え、それも主の憐れみ、主を恐れを敬う人に対しては、主は本当に憐れんでくださることを、これを忘れることなく、しっかりと御言葉を伝えて歩む皆さんでありますように」と会衆に勧めています。
【結論】
神の言葉を軽んじることは重大な罪であり、必ず裁きをもたらす。しかし、神を恐れ、御言葉を尊ぶ者たちには、神の憐れみと祝福が約束されている。私たちは常に神の言葉に留まり、それを大切にし、正しく伝えていく者とならなければならない。
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
ぶどう畑についての愛の歌(イザヤ5:1-17)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書5章を基に、神の愛とイスラエルの背信、そしてキリストの贖いについて語るメッセージ。
【聖書箇所】
イザヤ書5:1-17、ヨハネ15章、ガラテヤ5:22-23
【戒めの言葉】
主が期待されたのに、イスラエルは酸いぶどうを実らせてしまいました。私たちも同じ過ちを犯さないよう気をつけましょう。
【励ましの言葉】
たとえ私たちが酸っぱい実を結んでしまっても、十字架上のキリストを仰ぎ見るなら救われます。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちの酸っぱくなってしまった人生を主に差し出し、新しい始まりを与えていただきましょう。
【***詳細***】
今日、私たちが恵みをいただく御言葉はイザヤ書5章1節から17節までです。ここで主は、ぶどう畑をモチーフにしてイスラエルの人々にあることを知らせようとされます。
まず1-2節を読みます。
「私は歌おう。その葡萄畑についての我が愛の唄を。我が愛する者は、よく越えた山腹に葡萄畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良い葡萄を植え、その中に矢倉を建て、酒船までも掘って、甘い葡萄のなるのを待ち望んでいた。ところが、酸い葡萄ができてしまった。」
主は愛の心をもって、また喜びをもって、期待をもって、甘いぶどうのなるのを期待して、よく手入れしてぶどうを植えられましたが、しかし酸っぱいぶどうがなってしまって、主は悲しまれました。
愛という言葉は非常に私たちにも麗しく響くものですが、同時に愛の心は甘く麗しいのですが、同時に酸っぱくもなりやすいものです。自然界のぶどうは、しっかりと手入れして正しく用いれば甘いぶどう酒はできるはずですが、ここでできてしまったものは、しっかりと管理されて、いろんな手入れもされたにもかかわらず、自分の意思を持っているかのように酸っぱいぶどうになってしまいました。
7節で主ははっきりと言われます。「大和の葡萄畑はイスラエルの家であり」と。主はよく人々、また私たちをブドウに例えることをよくなさいます。例えば詩編128編や、ヨハネ15章で、「私は真のぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われています。
主は私たちが豊かな実を結ぶことを期待しておられます。ガラテヤ5章22-23節には、「しかし、御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあります。これらの実を私たちが結ばせるならば、本当に私たちは主に甘い実を祈らせて、主に喜ばれるのです。
しかし、主がよく手入れしたブドウ園、イスラエルが結んだものは、酸っぱい実でした。主はせっかく成してくださった良い業に対して酸っぱさを返したイスラエルに対して、3節以降で裁きを宣言されます。
「私が我がブドウ畑に対してすることを告げよう。その垣を取り除いて、食い荒らされるままにし、その石垣を崩して、踏みつけられるままにする。私はこれを荒れ果てるままにしておく」
親の愛を一心に受けて育つのですが、子供は親の愛がわからず親に対してひどいことをしたりします。子供が親の愛、そして親がどんなに偉大なことをして、どんなに自分のために骨を折っていろいろな苦労をしてくれたか分かるのは、親の元を離れた時です。
社会に出て、人々から虐げられたり、恥をかいたりすると、初めて「ああ、私の父母が私をこんなに愛してくれたのか」と気づくのです。神の愛も同じです。私たちが困難に直面したとき、初めて神の愛の大きさに気づくのです。
8節以降には、人々が主の愛に対していかに悪いことを返したかが記されています。例えば、貧しい人々から搾取し、自分たちだけが富を独占するような行為です。こういった行為に対して、主は11節で「ああ、朝早くから強い酒を追い求め、夜更かしをして、葡萄酒を煽っている者たち」と警告されます。
このような人々に対する裁きが13-14節に書かれています。「それゆえ、我が民は無知のゆえに捕らえ移される。その貴族は飢え、群衆は渇きに悩む。それゆえ、よみは欲望を大きくし、限りなく口を開く。彼らの栄華も、そのにぎわいも、そのどよめきも、その中で喜び騒ぐ者も、みなそこに落ち込む」
しかし、こうした裁きを通して、人々は正しい道に立ち返るのです。高ぶる者は低くされ、低くされた者が高くされるのです。
そして、このメッセージの最も重要な点は、イエス・キリストの十字架です。イエスは十字架上で、酸っぱくなってしまった人間性、人が身勝手にして罪に罪を重ねて酸っぱい実りを実らせた、その人のあらゆる苦さ、酸っぱさ、営みを全部十字架の上で飲み尽くしてくださいました。
イエスが十字架上で「渇く」と言われたとき、人々は酸っぱいぶどう酒を差し出しました。イエスはそれを受け入れ、「完了した」と言われました。これは、人間のあらゆる酸っぱさ、あらゆる罪の営み、それを全部イエスが身代わりになって完済してくださったことを意味します。
【結論】
私たちの酸っぱくなってしまった人生を、十字架上のキリストに差し出しましょう。キリストは私たちの罪を赦し、新しい始まりを与えてくださいます。これからは、真のぶどうの木であるキリストにつながり、御霊の実を豊かに結ぶ者となりましょう。そうすることで、神と人を喜ばせる永遠の祝福の歩みが始まるのです。
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
7人の女にすがりつかれる男とは(イザヤ4章)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書4章1-6節を基に、真の夫であるイエス・キリストへの信頼と、それ以外のものを頼りにすることの愚かさについて語られたメッセージ。
【聖書箇所】
イザヤ書4:1-6、イザヤ書11:1-5、黙示録7章
【戒めの言葉】
主以外のものを頼りにすることの愚かさと、その結果もたらされる災いについて警告しています。
【励ましの言葉】
真の夫であるイエス・キリストだけを頼りにし、その守りと祝福の中に生きることを勧めています。
【***詳細***】
今日のメッセージは、イザヤ書4章1-6節を中心に展開されています。この箇所は、イスラエルの民が主を離れ、偶像や世俗的なものを頼りにしたことによって引き起こされた災いと、そこからの回復の預言を含んでいます。
まず、1節で描かれている「七人の女が一人の男にすがりつく」という状況は、バビロン捕囚時代に実際に起こったことを反映しています。戦争によって多くの男性が死亡し、捕囚となったため、女性たちが結婚相手を見つけられない状況に陥ったのです。しかし、この預言は単に歴史的な出来事を語るだけでなく、私たちにも適用される霊的な真理を含んでいます。
説教者は、この状況を現代の私たちの生活に当てはめ、主以外のものを「夫」として頼りにすることの愚かさを指摘しています。お金、地位、名誉、美しさなど、世俗的なものを頼りにする生き方は、結局のところ空しく、災いをもたらすのです。
「そういった頼りにならないものに対して主、子自身は証をするんですね。これはこのように頼りにならないよ。あなたが頼りにした権威、力をどうやって地に落ちていくのか見てみなさい。」
一方で、2節以降に描かれている「主の若枝」は、メシア、すなわちイエス・キリストを指しています。イザヤ書11章1-5節を引用しながら、説教者はこの「若枝」がイエス・キリストであることを明確にしています。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊が留まる。」(イザヤ11:1-2a)
イエス・キリストこそが、私たちの真の夫であり、頼るべき唯一の存在です。4-6節では、主が私たちを清め、守り、祝福してくださることが描かれています。
「主はシオンの山のすべての場所、その会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それは、すべての栄光の上に大幕となり、かつ天幕となり、昼は暑さを避ける影となり、嵐と雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」(イザヤ4:5-6)
この描写は、黙示録7章に描かれている天の光景とも呼応しています。説教者は、黙示録7章14-17節を引用し、イエス・キリストが私たちの真の守り主であることを強調しています。
「御座についておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。」(黙示録7:15b-16)
最後に、説教者は聴衆に対して、イエス・キリストだけを頼りとし、その守りと祝福の中に生きることを勧めています。
「どうか皆さん、このイザヤ書3章の愚かな夫、愚かな女、この二の鉄を踏むことなく、本当に誠の夫であるイエス様だけを頼りとして、本当にイエス様ご自身が皆さんの覆いとなって、幕屋となって、守って、その幸いにいつまでも預かる皆さんでありますように。」
【結論】
私たちは、この世のはかないものではなく、真の夫であるイエス・キリストだけを頼りとして生きるべきです。イエス・キリストは私たちを清め、守り、祝福してくださる唯一の存在です。この真理に立ち返り、主との親密な関係の中で生きることが、真の幸いと祝福への道なのです。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
愚か者や未熟者が指導者になる国の性質(イザヤ3章)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書3章を通して、主に逆らう者への裁きと、主に立ち返ることの重要性を説く説教。
【聖書箇所】
イザヤ書3:1-26、1:17-20
【戒めの言葉】
偶像礼拝や占いに頼るのではなく、主に立ち返るべきである。
【勧めの言葉】
主の御声を喜んで聞き、主と論じ合うことで、罪深い者も清められる。
【悔い改めの促しの言葉】
人や物事を頼りにするのではなく、主に聞き従うことを決心し、罪を告白すべきである。
【***詳細***】
今日恵みをいただく御言葉は、イザヤ書3章1節から26節までです。この箇所は、主がエルサレムとユダから誘いと頼りを取り除かれることを告げています。イスラエルがずっと主に逆らい続けてきたからです。
イザヤ書3:9には、**「彼らの顔つきが、そのことをあらわしている。彼らは罪をソドムのようにあらわして、隠そうともしなかった。」**とあります。罪を犯すことを躊躇せず、むしろ大っぴらに罪を犯している様子が描かれています。
罪には種類があります。自分の弱さゆえに犯してしまい、後悔する罪と、恥じることも恐れることもなく平然と犯す罪では、大きな違いがあります。後者の罪を主は厳しく裁かれます。
13節では、「主は論争するために立ち上がり、民を裁くために立つ。」とあります。ここでの「論争」は、主が一方的に叱責する意味です。その理由が14-15節に書かれています:「あなた方は葡萄畑を荒れ捨たらせ、貧しい者からかすめたものをあなた方の家に置いている。なぜあなた方は我が民を砕き、貧しい者の顔をすりつぶすのか。」
イザヤ書1:17では、**「善を成すことを習い、公正を求め、強いたげる者を正し、身なし子のために正しい裁きを成し、やもめのために弁護せよ。」**と命じられています。しかし、イスラエルの指導者たちはこれに反する行いをしていたのです。
そのような状況の中で、イスラエルの人々は主に立ち返るのではなく、単に着るものを持っている人に頼ろうとしました。これは非常に愚かな選択です。人を造られ、人の本質を最もよく知っておられる主に立ち返るべきなのに、単に外見や富に頼ろうとしたのです。
16-23節では、シオンの娘たちの高慢さと、彼女たちが身につけている様々な装飾品が列挙されています。これらは本来、主から与えられたものであり、愛する人から贈られたものであるはずです。しかし、彼女たちはそれらを用いて偶像や占い、頼りにならないものに色目を使っていました。
そのため、主は24-26節で厳しい裁きを宣告します:「良い香りは腐った匂いとなり、帯は荒縄、結い上げた髪はハゲ頭、腫れ着は荒布の腰巻きとなる。その美しさは焼け傷となる。」
しかし、希望がないわけではありません。イザヤ書1:18-20には、次のように書かれています:
「さあ、来たれ。共に論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし、あなたがたが快く従うなら、地の良いものを食べることができる。しかし、もしあなたがたが拒み、そむくなら、剣にのまれる。」
ここで主は、たとえ罪深くても、主に立ち返り、主の声を喜んで聞くなら、赦しと祝福があることを約束しておられます。私たちは、人や物事を頼りにするのではなく、主に聞き従うことを決心し、罪を告白する必要があります。
【結論】
私たちは知らず知らずのうちに、また時には知っていながら罪を犯してしまいます。しかし、主は私たちが立ち返ることを待っておられます。主の御言葉を喜んで聞き、従順に歩むなら、この地上において主が用意された良いものを収穫することができます。今日の御言葉を心に留め、主に立ち返る決心をしましょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
全ての高ぶりは低くされ、主が高められる(イザヤ2:1-22)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書2章に基づき、終わりの日における主の山の高められることと、人間の高ぶりが低くされることについての説教。
【聖書箇所】
イザヤ書2章1-22節
【励ましの言葉】
主の光に歩み、主の道を求めることで、平和と祝福が与えられる。
【戒めの言葉】
金銀や武力、人間の力に頼るのではなく、主のみを高く仰ぐべきである。
【悔い改めの促しの言葉】
高ぶりを捨て、主の御顔の輝きを求めるよう促している。
【***詳細***】
イザヤ書2章は、ユダとエルサレムについての預言で始まります。「終わりの日」に起こることとして、主の家が山々の頂に堅く立てられ、すべての国々がそこに流れ来ると預言されています。
この「終わりの日」は、使徒ヨハネが「今は終わりの時である」(ヨハネの手紙第一2:18)と言ったように、既に私たちの時代にも適用されます。つまり、イザヤの預言は今日の私たちにも関係しているのです。
主の山に上り、主の道を学ぼうとする人々の姿が描かれていますが、これは今日の教会に集う私たちの姿でもあります。主の言葉を求めて集まる私たちは、まさにこの預言の成就の一部なのです。
さらに、主の言葉が広まるところには平和がもたらされると言われています。「彼らは、その剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し。国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」(イザヤ2:4)これは、福音によって人々の心が変えられ、争いをやめ平和を求めるようになることを示しています。
しかし、イスラエルの民に対しては厳しい言葉が続きます。彼らは主の道を捨て、世俗的な力や富に頼るようになったためです。「その国は、金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は、馬で満ち、その戦車も数限りない。その国は、偽りの神々で満ち、彼らは自分の手で作ったもの、指で作ったものを拝んでいる。」(イザヤ2:7-8)
このような世俗的なものに頼る者たちは、主によって低くされると預言されています。「その日には高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主お一人だけが高められる。」(イザヤ2:11)
主が襲いかかるものとして、自然の偉大さを表す「レバノンの杉」や「バシャンの樫」、人工的な防御を表す「高い山々」や「そびえる峰々」、「そそり立つ塔」や「堅固な城壁」、そして商業の力を表す「タルシシュのすべての船」や「すべての美しい船」が挙げられています。これらは人間が誇りとするものの象徴です。
しかし、主が立ち上がって地を震わせられるとき、人々は恐れおののき、岩の洞穴や地の穴に隠れようとします。彼らは自分たちが作った偶像さえも捨て去ります。「その日、人は拝むために作った銀の偽りの神々と、金の偽りの神々を、もぐらやこうもりに投げやる。」(イザヤ2:20)
最後に、イザヤは「鼻で息をする人間を頼りにするな。そんなものに何の値打ちがあろうか。」(イザヤ2:22)と警告しています。これは人間の力の儚さを指摘し、ただ主のみを頼りとすべきことを強調しているのです。
この預言は、私たちに重要な教訓を与えています。私たちも時に、富や力、人間の知恵などに頼ろうとする誘惑に陥ります。しかし、それらは最終的には無力であり、むしろ主の御顔の輝きを避けさせる原因となります。
私たちは instead、主の光を慕い求めるべきです。「さあ、ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」(イザヤ2:5)という呼びかけに応えましょう。主の御顔の輝きの中に留まり、主の言葉に聴き従う者となりましょう。そうすれば、かつて人を傷つける道具であった私たちの言動が、御霊の実を結ぶ道具へと変えられていくのです。
【結論】
高ぶる心を捨て、主の光の中を歩むことで、真の平和と祝福を得ることができる。人間や世俗的なものではなく、ただ主のみを頼りとすべきである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
不純物は精錬されて消え失せる(イザヤ1:21-31):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書1章21-31節を基に、イスラエルの堕落と主の裁き、そして悔い改めと贖いについて語られたメッセージ。
【聖書箇所】
イザヤ書1:21-31
【戒めの言葉】
教会に通いながら罪を悔い改めず、同じ罪を繰り返す者は、不純物として取り除かれる危険がある。
【勧めの言葉】
真の悔い改めと、それにふさわしい実を結ぶことが求められている。
【悔い改めの促しの言葉】
自分の罪を認識し、胸を打ち叩き、涙を流して悔い改め、二度と同じ罪を犯さないと決心することが必要。
【***詳細***】
今日の御言葉は、イザヤ書1章21節から31節までです。この箇所は、イスラエルに対する主の失望と、悔い改めへの促しから始まっています。
主は、かつて正義と公正が宿っていたエルサレムが、今や不義に満ちた街となってしまったことを嘆いています。「かつては忠信であった町、どうして遊女となったのか。昔は公平で満ち、正義がそのうちにやどっていたのに、今は人を殺す者ばかりとなってしまった」(21節)と主は言われます。
主は、イスラエルの堕落を具体的に指摘されます。「お前の銀は金かすになった。お前の良い酒も水で割ってある」(22節)。これは、純粋なものの中に不純物が混ざってしまった状態を表しています。本来は良いはずの銀や葡萄酒が、混ぜ物によって価値を失ってしまったのです。
さらに主は、指導者たちの腐敗を非難されます。「お前のつかさたちは反逆者、盗人の仲間。皆、賄賂を愛し、報酬を追い求める」(23節)。正義を守るべき立場にある者たちが、逆に不正を働いているのです。
このような状況に対し、主は厳しい裁きを宣言されます。「ああ、私のあだに思いを晴らし、私の敵に復讐しよう」(24節)。主は、イスラエルの中にある敵、つまり主に逆らう者たちを裁かれるのです。
しかし、主の目的は単なる破壊ではありません。「しかし、お前の上に再び我が手を伸ばし、お前の金かすをあくのように溶かし、その浮きかすを皆のぞこう」(25節)。これは、純粋な銀を得るために不純物を取り除く精錬の過程を表しています。主は、イスラエルを清めて、本来あるべき姿に戻そうとされているのです。
「 こうして、あなたのさばきびとをもとのとおりに、あなたの議官を初めのとおりに回復する。」(26節a)。主は、イスラエルの指導者たちを正しい者に立て直そうとされています。
そして、清められたイスラエルの将来について、主は希望に満ちた約束を与えられます。「その後あなたは正義の都、忠信の町ととなえられる」(26節b)
この箇所から、私たちは重要な教訓を学ぶことができます。私たちもまた、教会に通い、クリスチャンとして生活しているつもりでも、知らず知らずのうちに不純物を混ぜてしまっているかもしれません。純粋な信仰が、世俗的な考えや行動によって汚されてしまう危険性は常にあるのです。
主は、「シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる」(27節)と言われます。ここで重要なのは、「悔い改める者」という言葉です。単に教会に通うだけでなく、真に悔い改め、主の前に立ち返る者が贖われるのです。
バプテスマのヨハネの言葉を思い出しましょう。「悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ3:8)。悔い改めは単なる言葉だけではなく、具体的な行動の変化を伴うものでなければなりません。
私たちは、自分の罪を認識し、胸を打ち叩き、心を裂き、涙を流して悔い改めなければなりません。そして、二度とその罪を犯さないと決心し、主の助けを求めて歩む必要があります。
主は、「背く者は、罪人と共に破滅し、主を捨てる者は、失せ果てる」(28節)と警告されます。悔い改めない者、主を捨てる者には厳しい裁きが待っているのです。
しかし、主の目的は私たちを滅ぼすことではありません。主は、私たちを清め、純粋な信仰を持つ者としたいのです。「 あなたがたは、みずから喜んだかしの木によって、はずかしめを受け、みずから選んだ園によって、恥じ赤らむ。 」(29節)。ここでの「樫の木」や「園」は、偶像礼拝の場所を指していると考えられます。主は、私たちが頼りにしている偽りの神々や世俗的な価値観が、実は何の役にも立たないことを示されるのです。
「つわものがあさくずに、そのわざはひばなになり、そのふたつとももえたってこれをけすものがいない」(31節)。ここでの「つわもの」は、自分の力を頼みにする者を表しています。しかし、主の前では、人間の力など何の価値もありません。
私たちは、自分の中にある不純物、主の御心に反するものを取り除いていただく必要があります。それは時に痛みを伴う process かもしれません。しかし、それによって私たちは純粋な信仰を持つ者となり、主に用いられる器となることができるのです。
【結論】
今日の御言葉は、私たちに厳しい警告と同時に、希望に満ちた約束を与えています。私たちは、自分の罪を認識し、真摯に悔い改め、主の清めを受け入れる必要があります。そうすることで、私たちは「正義の街、忠心な都」の住民として、主に喜ばれる者となることができるのです。主の恵みによって、私たちが日々、悔い改めと信仰の歩みを続けていくことができますように。アーメン。