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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主が耐えられない程忌み嫌う礼拝(イザヤ1:10-20)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
この説教は、イザヤ書1章10-20節を基に、主に喜ばれる真の礼拝について語っています。
【聖書箇所】
イザヤ書1章10-20節
【戒めの言葉】
虚しい礼拝や見せかけの信仰を捧げることを戒めています。
【勧めの言葉】
主の前に出て、主と論じ合い、悔い改めて清められることを勧めています。
【悔い改めの促しの言葉】
罪を認識し、主の前に出て悔い改め、清められることを促しています。
【***詳細***】
この説教は、イザヤ書1章10-20節を基に、主に喜ばれる真の礼拝について語っています。説教者は、イスラエルの民がソドムやゴモラと同じように罪深くなっていたことを指摘し、彼らの礼拝が主に喜ばれないものとなっていたことを説明します。
まず、10-11節で、主は彼らの多くの生贄を喜ばないと述べています。「あなた方の多くの生贄は、私に何になろう、と主は仰せられる。私は、お羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。」これは、形式的な礼拝や儀式が主の心を満たさないことを示しています。
12-15節では、主は彼らの礼拝や祭りを重荷に感じ、彼らの祈りを聞かないと言っています。「あなた方の新月の祭りや礼祭を私の心は憎む。それは私の重荷となり、私は担うのに疲れ果てた。」これは、心からの悔い改めや信仰がない状態での礼拝や祈りは、主に受け入れられないことを示しています。
特に15節では、「あなた方が手を差し伸べて祈っても、私はあなた方から目をそらす。どんなに祈りを増し加えても聞くことはない。あなた方の手は血まみれだ。」と厳しく述べられています。これは、罪を悔い改めずに捧げる祈りは聞かれないことを意味しています。
しかし、16-17節で主は解決策を提示します。「洗いきよめよ。自らを清くせよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。悪を行うのをやめ、善を行うことを学べ。」これは、悔い改めと善行の実践を求めるものです。
18節は非常に重要な約束を含んでいます。「さあ、来たれ。共に論じ合おう。─主は言われる─ たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」この箇所は、真摯な悔い改めと主との対話を通じて、どんな大きな罪も赦されうることを示しています。
説教者は、この「論じ合う」ということの重要性を強調しています。単に形式的に教会に来るのではなく、主と真剣に向き合い、対話することの必要性を説いています。
19-20節では、従順さの重要性が語られています。「もし、すすんで聞き従うなら、あなたがたは地の良い物を食べることができる。しかし、もし拒んで逆らうなら、剣に食べられる。」これは、主の言葉に従順であることの祝福と、不従順の結果を明確に示しています。
説教の結びでは、私たちが「ミミズ」のような罪深い状態から、主の赦しによって「羊」のように清められ、主に導かれる者となることができると励まします。
この説教全体を通じて、形式的な礼拝や祈りではなく、心からの悔い改めと主との真摯な対話、そして従順な生活の重要性が強調されています。
【結論】
真の礼拝は、形式的なものではなく、心からの悔い改めと主との真摯な対話、そして従順な生活から生まれます。私たちは自分の罪を認識し、主の前に出て清めを求め、主に喜ばれる生き方を実践していくべきです。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
預言者とは(イザヤ1:1-9)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書1章1-17節を基に、預言者の役割と真の預言の本質について解説するメッセージ。
【聖書箇所】
イザヤ書1:1-17
【戒めの言葉】
真の預言者は耳障りの良いことだけでなく、主の怒りや戒めも正確に伝えなければならない。
【勧めの言葉】
預言を受ける側も、それを真剣に受け止め、悔い改めて従う必要がある。
【悔い改めの促しの言葉】
イスラエルの民への悔い改めの呼びかけを通して、私たちも罪を悔い改め、主に立ち返るよう促される。
【***詳細***】
本日の御言葉はイザヤ書1章1節から17節です。イザヤ書は旧約聖書の大預言書の一つであり、ユダ王国の王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に活躍した預言者イザヤの預言が記されています。
まず、預言という言葉の本質について考えてみましょう。預言とは、ただ単に未来のことを当てることではありません。預言の漢字は「預かる言葉」と書きます。つまり、神様から言葉を預かって、それを人々に伝えることが預言なのです。
「預言の霊はイエスの証しです」(ヨハネの黙示録19:10)
と聖書にあるように、真の預言は必ずイエス・キリストを指し示すものでなければなりません。
預言者の役割は非常に重要であり、同時に危険を伴うものでした。偽りの預言をすることは、旧約時代には死罪に値するほど重大な罪とされていました。なぜなら、神の権威ある言葉を偽って伝えることは、多くの人々を誤った道に導くことになるからです。
イエス様もこう警告されています:
「しかし、この小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましです。」(マタイ18:6)
真の預言者は、人々の耳に心地よいことだけを語るのではありません。時には王や民衆の怒りを買うような厳しい言葉も語らなければなりません。そのため、多くの預言者が迫害され、殺されてきました。
イザヤ書1章の冒頭で、主は預言者イザヤを通して、イスラエルの民に対する怒りと嘆きを表明されています:
「ああ、罪を犯す国、とがの重い民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」(イザヤ1:4)
主は、イスラエルを大切に育てた子どものようだと言われます。しかし、その子どもたちは主に逆らいました。牛でさえ飼い主を知っているのに、イスラエルは主を知ろうとしません。これは、私たち人間の姿を映し出しているようです。私たちも時として、神様の恵みを忘れ、自分勝手な道を歩もうとしてしまいます。
主は、イスラエルの民の罪深さを厳しく指摘されます:
「頭はことごとく病み、心はことごとく弱っている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ。」(イザヤ1:5-6)
これは、罪に染まったイスラエルの惨めな姿を表現しています。罪は私たちの全身、全人格を蝕んでいきます。そして、その傷は自分たちの力では癒すことができないのです。
しかし、主は完全に見捨てることはされません:
「もし万軍の主が、私たちに少しの生き残りを残されなかったなら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていただろう。」(イザヤ1:9)
ここに主の憐れみが示されています。たとえ多くの者が罪を犯しても、主は必ず残りの者を残されます。これは、私たちに対する主の変わらぬ愛と忍耐を表しています。
預言者の役割は、親が子どもを正しく導くのに似ています。子どもが間違ったことをしたとき、親は厳しく叱ります。しかし、それは子どもを傷つけるためではなく、正しい道に立ち返らせるためです。同様に、預言者の厳しい言葉の裏には、神の深い愛があるのです。
私たちは、この御言葉を通して何を学ぶべきでしょうか。
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神の言葉を軽んじず、真剣に受け止めること。
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自分の罪を認め、悔い改めること。
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周りの人々の悪い行いに同調せず、神の道を歩むこと。
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神の愛と憐れみを覚え、感謝すること。
私たちも、この世で「預言者」としての役割を果たすよう召されています。つまり、神の言葉を正しく理解し、それを周りの人々に伝える責任があるのです。時には耳障りな言葉であっても、愛をもって真理を語る勇気が必要です。
同時に、自分自身も神の言葉に従順であることが求められます。神の戒めを守り、罪を悔い改め、日々主との関係を深めていくことが大切です。
【結論】
イザヤ書1章の御言葉は、私たちに悔い改めと神への立ち返りを促しています。神の愛と憐れみを覚えつつ、同時に神の聖さと正義を忘れずに歩む者となりましょう。そして、私たちも現代の「預言者」として、神の真理を周りの人々に伝える者となれますように。