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ツロの富は積み立てられず、主の前に住む人々へ渡る(イザヤ23:10-18)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
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- pastor 2015-11-14 17:38
ツロに対する宣告 - 搾取システムにより富を得た海の商人の災い(イザヤ23:1-9)
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- pastor 2015-11-7 10:37
イザヤ書講解説教メッセージ
ツロに対する宣告 - 搾取システムにより富を得た海の商人の災い(イザヤ23:1-9)
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AIによる要約
【概要】
本日の御言葉は、イザヤ書23章に記された、海と貿易・権力の交錯の中で神の戒めと救いを語る預言です。聖書の記録を通し、今の社会の中での富や権力の乱用、そして神に全てを委ねる信仰の大切さが説かれています。
【聖書箇所】
・イザヤ23:1-9
・エゼキエル28:16
・第一テモ6:17
・黙示録18:7-13
【戒めの言葉】
・自分の富や権力に誇り、高慢になってはならない。
・人々からの富や利益を不正に得ようとする行為は、神の御心に反する。
【励ましの言葉】
・主に信頼し、御国の価値観に生きる者は、決して飢えることも不足することもない。
・たとえこの世のしくじりであっても、神は真心を尽くす者に恵みと祝福を注がれる。
【悔い改めの促しの言葉】
・今一度、私たち自身が追い求める「楽して得る富」の誘惑から離れ、神に立ち返る心を持つべきです。
・この堕落した取引や不正な経済活動を捨て、神の御前に正しい歩みを示すよう懇願しましょう。
【勧めの言葉】
・日々、神の御言葉を学び、己の心を清める努力を怠らず、真の豊かさを追求しましょう。
・隣人を思いやる実践的な愛のある生き方に回帰し、互いに助け合う社会こそ、神の国の姿です。
【***詳細***】
本日、私たちはイザヤ書23章1節から9節を中心に、海と港を舞台にした古代の貿易の現状と、そこに見られた神の戒めについて学びました。イザヤ書23章では、かつて繁栄した港町、ツロおよびその周辺の地域が栄え、富と権力を背景に商いを行い、多くの民の生活を左右していた現状が語られています。「通路に対する宣告。タルシュの船を泣きわめけ、通路は荒らされて家も港もなくなったと」とあるように、これらの繁栄は決して永続するものではなく、神の定めによって打ち砕かれる運命にあると預言されました。
説教の中盤では、当時の海洋貿易の仕組みについて詳しく触れ、ツロやシドン、さらには地中海沿岸の他の都市が果たしてきた役割が語られました。かつて、遠隔地の珍しい物資―動物、穀物、特産物など―を取り引きし、その富を蓄えた商人たちは、自己の利益のために国家や民衆を犠牲にする存在となりました。しかし、神はこのような不正な商い、自己中心的な富の追求に対して厳しい警告を発されています。実際、この堕落した貿易システムは、単なる経済活動を超えて、国家や政治、さらには宗教の領域にも影響を及ぼし、世の中の不正義に満ちた構造を生み出しました。
さらに、説教では、豊かさを得るために働く者たちの生活や、彼らの生活基盤がどのようにして崩れていくのかも示されました。人は自分自身が労苦して作り上げたものに、自信と誇りを抱くものですが、その裏には神の御摂理に逆らった結果、自己中心的な生き方に陥る危険性が潜んでいます。イザヤ書の預言は、言わばこの現実への戒めであり、単に古代の物語として終わるのではなく、現代の私たちにも多くの示唆を与えています。現代においても、企業や政治家が富や権力を追求するあまり、正しい道から逸れてしまうケースは多々見受けられます。私たちは、そのような時代にあって、いかにして神の御心に沿った行動を取るべきかを問い直さねばなりません。
また、説教の中盤から後半にかけては、エゼキエル書28章の一節(特に16節)や第一テモテ6章17節、そして黙示録18章の記述にも触れています。エゼキエル書28章では、かつて高慢と自己満足に満ちた存在が、いかにして神の裁きを受けるかが描かれています。この預言を通して、誇り高ぶる者は決して神の御前に立つことができず、また、その地位は一時的なものでしかないという真理を告げられています。さらに、第一テモテ6章17節は、お金持ちに対して、どのような態度であってはならないかを具体的に指示しており、神に信頼し、決して富に希望を置かないようにとの戒めが含まれています。
そして、黙示録18章では、堕落と不正に基づいた繁栄が突如として打ち砕かれる様子が鮮明に描かれています。商人たちがかつて享受した繁栄や誇りも、神の正義の前では無価値なものとなり、全世界の権力者たちがその転落を目の当たりにすることになります。これらの聖書箇所は、ただ単に古代の歴史の一片として読むのではなく、現代社会において、道徳的・霊的な価値観の混乱から逃れるための警鐘として受け取るべきです。
さて、説教の中で強調されるのは、我々が単にこの不正な取引や富の追求に染まるのではなく、神の国に基づいた生き方を選ぶことの重要性です。現代社会では、企業が利益追求のために従業員をただの資源と見なす風潮があり、富の偏在が大きな社会問題となっています。このような状況下で、私たちは神から与えられた、本来の豊かさ―すなわち、隣人への愛、互いに助け合う心、そして日々の生活の中にある細やかな恵み―に目を向ける必要があります。
具体的には、私たちは以下の点を心に留めるべきです。まず、自分自身が誇り高ぶり、自己中心的になっていないかを日々省みること。富や成功を得ても、それを神の賜物として受け取り、感謝の心を忘れずにいること。第二に、他者を搾取するような考えや行動に走らないこと。経済活動やビジネスにおいても、真摯な努力と誠実さを持って取り組み、隣人や社会のために貢献することを目指すべきです。そして第三に、もし自分が今までの生き方において誤った方向に向かっていたならば、悔い改め、神に立ち返る決意を新たにすることです。これは、決して恥ずべきことではなく、むしろ神の恵みによって新たな歩みを始める大切な機会なのです。
私たちがこのような神の御言葉に耳を傾け、心から悔い改めるならば、神は必ずや我々を正しい道へと導いてくださいます。実際、多くの信仰者たちは、日々の試練や富の誘惑に打ち勝ち、神への信仰を中心に据えた生活を送っています。これは、単に経済的な成功や社会的地位を超えた、本来の人間の幸福であり、神の国に生きる者の真の豊かさなのです。
最後に、私たちはこの御言葉を胸に刻み、日々の生活の中で実践することの大切さを再認識しましょう。商いによって得られる一時の富に惑わされず、神が与えてくださる実りある愛と恵みに従い、謙虚で正しい道を歩むことが、真の安らぎと幸福へとつながるのです。今一度、私たちはこの戒めと励ましを心に留め、社会の中でどのように生きるべきかを熟考し、それを実践していく責任を持たねばなりません。神の国の価値観に基づき、互いに愛し合い、ともに豊かな実りを結ぶ共同体として生きることが、私たち一人一人に課せられた使命であると信じます。
【結論】
私たちは、古代の預言に示された通路や港の栄光とその崩壊から、富や権力に溺れる危険性と、神への信頼の大切さを学びました。日々の生活の中で、神の御心に従い、謙虚かつ誠実に生きることで、真の祝福と安らぎの中へと歩んでいくよう努めましょう。主イエス・キリストのお名前によって、皆さまが神の恵みと平安に満たされますように。
イザヤ書講解説教メッセージ
執事シェブナと宮内長官エルヤキム(イザヤ22:15-25)
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【概要】
本日のお言葉は、イザヤ書22章15節から25節を中心に、神に完全に信頼する生き方と、世の力に頼ることの儚さを伝えています。神の戒めと慰めの中で、私たち自身の選択が未来を決定するという重いメッセージです。
【聖書箇所】
・イザヤ22:15-25
・イザヤ30:1-3
・イザヤ36:3
・黙示録3:7
【慰めの言葉】
神は、苦難と混乱の中にあっても、心を寄せる者を決して見捨てず、助けと慰めを与えてくださいます。絶望の時にも、その愛は変わらず、私たちを包み込みます。
【励ましの言葉】
どんなに困難な状況でも、主に信頼し歩む者には、希望と力が与えられます。自分の力だけに頼らず、神の助けを受け入れることで、真の安らぎと成長が実現されるのです。
【戒めの言葉】
誇り高く、現実的な力に頼ろうとする者は、神の御前に厳しい戒めを受けます。神のご意志を無視し、自己の利益や人間の知恵だけを信じる行いは、最終的に混乱と破滅を招くことを忘れてはなりません。
【勧めの言葉】
この御言葉は、私たち一人ひとりに、主の道を選び、謙虚に神に頼る生き方を勧めています。世の誇る力に目を奪われるのではなく、日々の信仰生活の中で神の導きを求める大切さを示しています。
【悔い改めの促しの言葉】
もし今まで、己の力や世の知恵に頼って生きてきたなら、今一度、心から悔い改め、主に寄り頼む決意を新たにしてください。神は常に、真に心を改める者に新しい恵みと再生の道を開かれます。
【***詳細***】
本日の説教では、まずイザヤ書22章15節から25節に記された、イスラエルの高官シェブナに対する神の宣告について語られました。神はその誇りに満ちた生き方を厳しく戒め、彼が自分のために高い墓を掘り、自己の地位や権威に誇りを抱いたことを非難されました。神はシェブナに対して、誇り高い行いが全く無意味であり、むしろそれが家の恥と堕落につながると告げます。ここには、どんなに豪勢な建築物や人間の力があっても、神の御心に逆らうならば、結局はその力は打ち砕かれるという厳然たる現実が示されています。
また、説教の中盤では、同じくイザヤ書30章の1節から3節を引用し、エジプトや他の国の力に頼ろうとする者たちへの戒めが語られました。イスラエルの民は、現実的な軍備や人間の知恵を頼りにしようとした結果、真の救いから遠ざかってしまう危険性を持っていることが指摘されました。神は、いかなる強大な世の力にも代えがたい、ただ主に対する信仰こそが確かな救いであると強調されました。実際に、イスラエルはその時代において、エジプトやアシリアといった外敵に頼るよりも、主に心を向けることで救いを得た歴史があるのです。
さらに、イザヤ書36章3節に記されるように、勇敢な士官たちであっても、神の前ではその傲慢さが打ち砕かれる運命にあるという点が示されました。具体的には、シェブナと対照的に、ヒルキヤの子であるエリアキムが神に従い、信仰によって国を支えた姿が描かれています。説教者は、エリアキムの謙虚な態度と、神の命令に忠実な姿勢が、たとえ小さな力でも大いなる結果をもたらすことの象徴だと説きました。
なお、説教の後半では、黙示録3章7節の御言葉が引用され、ダビデの家の鍵の権威についても触れられました。「彼が開くと閉じるものはなく、閉じると開くものはない」という約束は、真に信仰のある者には神の祝福が与えられ、また不信仰に陥れば王国失墜の危機があるという、重大な真理を示しています。ここで語られる「釘」の例えは、どれほど堅固に打ち付けられたものでも、信仰が腐ればそれ自体が脆くなり、支えていた全てのものが崩れてしまうという教訓として、私たちに深く語りかけています。
この説教全体を通しての核となるメッセージは、信仰によって生きることの大切さです。偉大な権威や豊かな物質的安全を誇示しても、もし主への信頼が欠けていれば、その基盤はいつか必ず壊れてしまいます。実際、イスラエルの歴史は、偽りの安全や人間の知恵だけに頼った結果、悲劇や捕囚を経験してきました。対照的に、真に主に信頼する者は、どんな困難な状況にあっても、神の守りと恵みによって守られ、永遠の祝福が約束されるのです。
説教者は、具体例として、古代イスラエルの高官シェブナとエリアキムの対比を取り上げました。シェブナは自らの有り余る権威と豊かな財産に安心を抱いていましたが、その結果、神の怒りを買い、家の栄光を失いました。一方でエリアキムは、たとえ小さな役職であっても、心から主に従い、その従順な信仰により神の恵みを受け、イスラエルの未来に希望を与える存在となったのです。この点は、私たち一人ひとりにも当てはまります。たとえ地上的には小さな立場であっても、主に心を寄せ、その導きに従うならば、真の意味での繁栄と祝福が与えられるのです。
また、説教では現代における「地下シェルター」や「迅速な逃走」といった比喩を用い、私たちが直面する現実の災厄や不安定な状況に対して、物質的な安全策ではなく、信仰に基づく心構えが最も重要であるという教えが説かれました。どれだけ最新の安全設備や防衛力があっても、人間の力に頼る限り、永続的な安心は得られません。むしろ、主にすがり、毎日の祈りと悔い改めを通して神との交わりを深めることこそが、真の守りとなるのです。
最後に、この御言葉は私たちに自由な選択を迫っています。世の中の誇る権力や知恵にとらわれるか、あるいは謙虚に神に従う道を選ぶか。その選択が、私たち自身の未来はもちろん、永遠の行く末をも決定付けるのです。説教者は、集まった皆さんに対し、「私たちは今、この瞬間に、心から神に従う選択をし、主の御名によって生きる決意を新たにしましょう」という強いメッセージを送っています。そして、主の祈りを通して、一人一人が新たな信仰の力を体験し、自らの生活の中で具体的に主の御旨を実現していくことを励ましています。
【結論】
この御言葉は、私たちに誇り高い現実の力に頼るのではなく、謙虚に主に従って生きることの大切さを教えています。シェブナの失墜とエリアキムの栄光を通して、どんな小さな信仰でも主により頼むならば、真の祝福と守りが約束されるのです。私たち一人ひとりが、この真実を心に刻み、日々の生活の中で主の道を選び取るよう、改めて祈り求めましょう。
幻の谷に対する宣告 - 悲しみ悔い改めるべき時に宴会騒ぎをした都(イザヤ22:1-14)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2015-10-14 20:41
イザヤ書講解説教メッセージ
幻の谷に対する宣告 - 悲しみ悔い改めるべき時に宴会騒ぎをした都(イザヤ22:1-14)
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【概要】
本日のメッセージは、イザヤ書22章に記された「幻の谷」(エルサレム)への裁きの宣告です。神からの警告や幻を軽んじ、人間の力や武器、目先の快楽に頼ったイスラエルの民の姿を通して、真の悔い改めと神への信頼に立ち返ることの重要性を学びます。危機に際して自暴自棄になるのではなく、最後まで主に望みを置き、主の言葉に聞き従う生き方を促します。
【聖書箇所】
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イザヤ22:1-14
-
Iコリント15:32-34
【戒めの言葉】
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神からの幻や預言の言葉を軽んじ、それに従わないなら、厳しい裁きが臨みます。
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危機が迫る時、武器や人間の知恵に頼り、それらを計画し備えた神ご自身に目を向けないことは愚かなことです。
-
「どうせ明日は死ぬのだから」と享楽にふけることは、神の救いの力を軽んじ、悔い改めの機会を自ら放棄する行いです。
-
悪い交わりは良い習慣を損ないます。神を恐れない者たちの言葉に耳を傾け、同調してはなりません。
【悔い改めの促しの言葉】
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主が警告し、悔い改めを呼びかけられる時、泣き悲しみ、頭を丸め、荒布をまとい、心から罪を告白し主に立ち返るべきです。
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どんなに絶望的な状況に見えても、自暴自棄にならず、最後まで主に望みを置き、助けを求めなさい。主は悔い改める者を決して見捨てません。
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過去の過ちを認め、主に赦しを請い、主の前に清く正しい生活を送る決意をしましょう。
【勧めの言葉】
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主の言葉に耳を傾け、それを心に留め、従順に生きることが大切です。
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目を覚まして正しい生活を送り、罪から離れなさい。神についての正しい知識を持ちましょう。
-
交わる相手を選び、互いに励まし合い、信仰の道を歩む良い友を持ちましょう。
【励ましの言葉】
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主は、私たちが犯した罪のゆえに私たちを見捨てることはありません。悪人の一人も滅びることを願わず、私たちが悔い改めて立ち返るのを待っておられます。
-
主の叱責を侮らず、速やかに悔い改めるなら、主は豊かに恵みを施してくださいます。
【***詳細***】
今日、恵みをいただくみ言葉はイザヤ書の22章1節から14節です。イザヤ書22章1節から14節。初めに5節までをお読みいたします。
「幻の谷に対する宣告。これは一体どうしたことか。お前たち、皆屋根の上に登って。喧騒に満ちた騒がしい街、おごった都よ。お前のうちの殺された者たちは、剣で刺し殺されたのでもなく、戦死したのでもない。お前の首領たちはこぞって逃げた。彼らは弓を引かないうちに捕らえられ、お前のうちの見つけられたものも遠くへ逃げ去る前に皆捕らえられた。それで私は言う。『私から目をそらしてくれ。私は激しく泣きたいのだ。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めてくれるな。』なぜなら、騒乱と蹂躙と混乱の日は、万軍の神、主から来るからだ。幻の谷では城壁の崩壊、山への叫び。」(イザヤ22:1-5)
お祈りいたします。愛する主よ、今日もあなたが直接御言葉を我らに語ってください。このしもべの唇と、またこれにあずかる一人一人の耳を開いて、天の御座から流れ来る命の水、愛、憐れみ、赦しの水が豊かに我らに注がれますように。それを飲み干すことができますように。どうかこれからが、ただ、あなたの愛、憐れみ、赦し、恵み、それに満ち満ちたひと時でありますように。イエス様、助けてください。これからの一切をあなたの御手に委ねて、私たちの貴き主、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。
今日のこの22章は、「幻の谷に対する宣告」と題されています。この「幻の谷」とは一体どこでしょうか。続く内容からして、これはエルサレムであることが明らかになります。エルサレムは三方を谷で囲まれており、そして非常に主からの幻が頻繁に示された都でもあります。北側以外の三方は、ケデロンの谷やヒノムの谷などに囲まれ、天然の要害となっていました。ですから、ヨシュアの時代からダビデの時代に至るまで、イスラエルはそこを異邦人から攻め落とすことができませんでした。エブス人が住んでいましたが、ダビデがそこを攻略し、それ以降は神の都、神の民の首都として、イスラエルを代表する都のような立ち位置でありました。
その幻の谷に対する宣告です。まず1節、「これは一体どうしたことか。お前たち、皆屋根の上に登って。喧騒に満ちた騒がしい街、おごった都よ。」あまり良い言われようではありません。人々が屋根の上に登って騒いでいる、そんな光景が描かれています。
そしてこの都に対する宣告ですが、2節には、殺された者たちがたくさんいるけれども、「剣で刺し殺されたのでもなく、戦死したのでもない」とあります。そのような死体がたくさん転がっているのを、イザヤは幻の中で見ています。これは、敵の剣によって殺されたのではなく、飢饉や内紛によって互いに殺し合ったり、餓死したりした人々で都が満ち溢れることを示しています。
また3節を見ますと、「お前の首領たちはこぞって逃げた。彼らは弓を引かないうちに捕らえられ」とあります。指導者たちは戦いもせずに逃げ出すのですが、遠くへ逃げる前に捕らえられてしまう、そう預言されています。
イザヤがこの預言をしていた当時、イスラエルにとって最も脅威となる大国はアッシリアでした。しかし、このイザヤの預言は、アッシリアによって成就したのではなく、もっと後の時代、バビロンが大国になった時に、確かに成就しました。バビロンがエルサレムを包囲した時、この都の中では、バビロンの兵士の剣によって殺された者よりも、むしろ、わずかな食糧を奪い合って互いに殺し合った人々、あるいは飢え死にした人々で満ち溢れました。そして、3節の首領たちについても、バビロンが包囲した後、イスラエルの首領たちはこっそりと都を捨てて逃げ出しますが、すぐにバビロンの兵に見つかり、まだ遠くに逃げないうちに捕まってしまうという、このことも成就しました。
預言者イザヤはそのような、将来起こる悲惨な有様を幻で見て、それで4節でこう言います。「私から目をそらしてくれ。私は激しく泣きたいのだ。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めてくれるな。」当時のユダの人々にとっては、確かにアッシリアの脅威はありましたが、まさかここまで悲惨な崩壊が来るとは思っていなかったかもしれません。イザヤはその悲劇を前もって見て、深く嘆いているのです。
なぜなら、これらのことは5節にあるように、「万軍の神、主から来るからだ」と説明されています。「幻の谷では城壁の崩壊、山への叫び」。主からの幻、主からの預言、主の御言葉が何度も何度もこの都にあったのですが、しかしイスラエルはそれに従わなかった様子が、6節以降のところに書いてあります。
「幻のない民は滅びる」という箴言の言葉がありますが、幻が示されても、それに従順しないとするならば、なおさら厳しい戒めが臨んでしまいます。神が示してくださる幻や警告に従わず、自分たちのやり方で対処しようとしたイスラエルの姿が描かれています。
6節以降を見ますと、「エラムは矢筒を負い、戦車と兵士と騎兵を引き連れ、キルは盾の覆いを取った。お前の最も美しい谷は戦車で満ち、騎兵は城門に立ち並んだ。こうしてユダの覆いは取り除かれ、その日、お前は『森の宮殿』の武器庫に目を向けた。」(イザヤ22:6-8)とあります。矢筒、戦車、騎兵、兵士、盾、武器…要するに、これらのものに頼ったのです。主からの幻が示され、主から預言が示されても、目の前に戦争の危機が迫ってくると、彼らは主の言葉ではなく、自分たちの武器に頼ったのです。
9節からはこう続きます。「お前たちはダビデの町の城壁の破れの多いのを見て、下の池の水を集めた。」この下の池は、ヒゼキヤ王がアッシリアの攻撃に備えて作った貯水池のことです。イザヤはヒゼキヤに助言を与え、王は主により頼みつつ、地下水路を掘って貯水池を造りました。さらに10節から11節前半には、「また、エルサレムの家を数え、その家を壊して城壁を補強し、二つの城壁の間に貯水池を造って、古い池の水を引いた」とあります。様々な防衛策を講じたのです。
しかし、11節の後半にはこうあります。「しかし、お前たちはこれをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかった。」ヒゼキヤ王の時代には、王はまず主に祈り、主により頼んでこれらの備えをしました。しかし、その後の時代の王たちや民は、これらの物理的な備え、つまり貯水池や城壁、武器といったものには頼りましたが、それらを備えるように知恵を与え、助けてくださった神ご自身のことはすっかり忘れてしまったのです。彼らは、城壁を直し、貯水池を造り、家々を数えた人間の努力は覚えていても、その全てを導き、可能にしてくださった神を覚えていませんでした。
ヒゼキヤ王の時代、彼はまず主により頼み、荒布をまとって断食し、主に祈願しました。その上で、必要な水の確保や城壁の補強など、戦争に備える措置を施しました。しかし、ヒゼキヤの後の王たちは、主により頼むことを全くせず、ただ目に見える武器や防衛設備に頼ったのです。彼らは、素晴らしい備えを「なさった方」、つまり主なる神に目を向けず、昔からこれらを「計画された方」である神を目にも留めなかったと、イザヤは嘆いています。
ヒゼキヤ王は、主にお伺いを立て、様々な指示をいただき、その通りに実行しました。その後の王たちは、ヒゼキヤが残した貯水池も城壁も武器も民の数も家々も、全て引き継ぎました。しかし、一つだけ引き継がなかったものがあります。それは、主に伺いを立てるという祈りの信仰、主に信頼する信仰です。これだけは引き継がなかった。だから、このような悲惨な結果になったのです。
どんなに多くのものを持っていても、どんなに多くの兵士がいても、どんなに自分が強いと誇っていても、主に伺いを立てる信仰を持たずに生きるならば、槍一本放つことなく負けてしまうのです。これが、不信仰に至った者の結末です。彼らは武器を集めましたが、2節、3節を見ると、その武器を一切使わずに、武器を放置して逃げたとあります。一生懸命かき集めた武器は全く役に立たず、ただ武器を集めるという骨折り損に終わり、逃げるという恥をさらしたわけです。神なしの力、神なしの武器、神なしの城壁は何の助けにもなりません。
バビロンに攻め囲まれる時、その日、主は本当に悔い改めなさい、と呼びかけられました。12節です。「その日、万軍の神、主は、泣け、悲しめ、頭を丸め、荒布をまとえ、と呼びかけられたのに」。主は、髪を剃り、荒布を身にまとい、断食し、罪を悲しんで泣き叫び、悔い改めるようにと命じられたのです。イザヤを通して語られたように、もしそのような危機が目前に来たならば、大声で「主よ、あなたの言われた通りのことが私たちに起こりました」と告白し、地にひれ伏し、自分の罪を悔い改めなさい、そうすれば何とかなる、と主は言われたのです。
なのに、13節には何と書いてあるでしょうか。「見よ、お前たちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊を屠り、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、『飲めよ、食らえよ。どうせ明日は死ぬのだから』と言っている。」主が悔い改めを呼びかけているまさにその時に、彼らは「どうせ助からないのだから、今のうちに楽しもう」と、やけくそになって宴会を開いたのです。家にある、今までもったいないと大切にしていた家畜を殺して食べ、飲んで騒いだのです。
この、人間の質の悪いところ、クリスチャンであっても質の悪い者は、大変なことがあった時に絶対に悔い改めません。手持ちのもので飲めや食らえやと、やけっぱちになるのです。これは、主の力を軽んじ、「どうせ私を救ってくださらないだろう、そんな力があるわけない」と、自分で自分を見限っているのです。しかし、イエス様は一度も私たちを、私たちが犯した罪のゆえに見捨てたことはありません。主は、私たちがどんなに罪を犯していたとしても、「もうこいつはダメだ」と見限って捨てたことは一度もありません。悪人の一人も滅びないことを願っているのが主です。ですから、どんなに大変なことが自分の目の前にあるとしても、自暴自棄になって自分の命を見捨ててはいけません。最後まで主に望みをかけ、悔いて主に立ち返り、助けをいただこうとする、この立ち返りの信仰が私たちには必要なのです。
主は、悔い改めなさい、泣き悲しみなさい、自分の罪を悲しみなさい、荒布をまとって、頭を丸めて、ただひたすら主に祈願しなさい、と語られました。預言者が神の言葉を預かって「悔い改めなさい。今知っている悪事をやめて、自分の好むことをやめて、ひたすら主に祈願しなさい」と叫んでいる時に、この幻の谷の民は、幻を聞くのではなく、「ごちそうだ!喜び楽しめ!どうせ明日は死ぬのだから!」と言ったのです。
だから、14節で主はこう言われました。「そこで万軍の主は私の耳に啓示された。『この罪は、お前たちが死ぬまでは決して赦されない』と、万軍の神、主は仰せられた。」神の言葉に耳を傾けず、悔い改めを拒否し続ける者たちに対する厳しい宣告です。
この「飲めや食らえよ。どうせ明日は死ぬのだから」という言葉は、第一コリント人への手紙15章にも出てきます。32節から34節をお読みします。
「もし私が、人間的な動機からエペソで獣と戦ったのなら、何の益があったでしょう。もし死者が復活しないのなら、『さあ、飲み食いしようではないか。どうせ明日は死ぬのだから』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。悪い交わりは良い習慣を損ないます。目を覚まして正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私は、あなたがたを辱めるためにこう言っているのです。」(Iコリント15:32-34)
パウロはここで、死者の復活の望みがないなら、人生は刹那的な快楽を追求するだけものになってしまうと警告しています。「悪い交わりは良い習慣を損なう」とは、まさにイザヤ書の民が陥った状況です。「どうせダメだ」「みんなやっている」と言う人々の言葉に流され、悔い改めから遠ざかってしまうのです。皆さんの周りにも、「そのくらい平気だよ」「大丈夫だよ」と罪を軽く見る人がいるかもしれません。しかし聖書は、そのような人は「悪い友」であり、むしろ「それはダメだよ、気をつけよう」と忠告してくれる人が「良い友」だと言っています。
目を覚まして正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持ちなさい、とパウロは勧めています。この34節の言葉は、当時のコリント教会の中に、不信仰な者たちの言葉に影響されて、「どうせ死ぬのだから」と投げやりな生き方をしている人々がいたことを示唆しています。主は、そのような者たちに「目を覚ませ!」と呼びかけておられるのです。
友達が悪ければ良い習慣が損なわれる。交わる相手に自分も染まっていくのです。この良くない悪い友達、彼らは「どうせ明日は死ぬのだ。さあ飲み食いしようではないか」と言います。そういう人々に交じっているならば、本当に断食して悔い改めなさいと言われても、その悪い方になぜか人間はなびいてしまうのです。悪い方へと平均化されてしまう。だから本当に友達、交わる相手には私たちは気をつけるべきです。
天国の望みもなく、復活の望みもない人は、この地上での望みが全て崩れると、刹那的な快楽に走ります。しかし、天国と復活の望みを持つ人は、地上での望みが絶たれても、その永遠の望みを捨てることはできません。だから、安易に悪い行いをすることができないのです。
神様から戒めを受けても、預言者から御言葉をいただいても、それでも自分の好むこと、「飲めや食らえや、どうせ明日は死ぬのだ。いや、もしかしたら死なないかもしれない。今までずっと死なないで来たから、たまたまあの預言者は厳しいことを言っているけれども、でもどうせ明日も同じだ」などと、そのような考えに同調してはなりませんし、また皆さん自身が、そのような不信仰な者になってはいけません。
クリスチャンの中にも、「御言葉、御言葉と言っても、あれは昔の言葉だよ。この時代に合わないよ」と言う人がいます。そのような人は、今日の聖書によれば、私たちに災いをもたらす「悪い友」です。
当時の幻の谷の民、エルサレムの人々は、主からの幻や御言葉がひっきりなしに示されていたにもかかわらず、そのような悪い影響に染まり、多くの人々が預言の言葉を聞きませんでした。「泣け、悲しめ、頭を丸めて、荒布をまとえ」という幻が示されたのに、それを無視し、軽んじました。愚か者は叱責を侮るのです。そのような人は打ち叩かれ、その都から退場させられてしまいます。
彼らは、「この言葉を無視しなさい。食べて飲んで楽しもう」と言い、その言葉に従った結果、エルサレムは陥落し、国は滅びました。この時、バビロン捕囚を逃れて散り散りになった人々がイスラエルの地に戻るまで、実に長い年月がかかりました。ある計算によれば、紀元前586年のエルサレム陥落から1948年のイスラエル建国まで、約2500年です。もしテキストで3500年とあるのは、さらに古い時代からの離散を含めているのかもしれませんが、いずれにせよ、非常に長い間、国を失っていたのです。
最後に主は「悔い改めなさい」と言われました。髪の毛をむしり取りながら「ごめんなさい」と悔い改めるべき時に、「いや、悔い改めたところで何ともならないよ。助かりっこないよ。どうせ死ぬんだから、飲めや食えや、それで死のう」と言っている者たちの言葉を聞いたために、助かるべきイスラエルが助かることができず、一人一人が助かることができず、国を失い、多くの民が捕囚とされ、あるいは離散していったのです。
「やめなさい」と言われたことをやめないで軽んじると、「どうせ」という言葉に甘んじていると、自分の身に何が起きるかということを、今イエス様は、聖書の御言葉を通して私たちに教えておられるのです。「もう少し寝よう、もう少し横になろう、もう少し居眠りしよう」。その「もう少し」が、自分の身を滅ぼすことになるのです。二度としてはいけないことは、してはいけないのです。
それをやってしまって、イスラエルは滅びました。いざという時になってからでは遅いのです。主の預言、主の言葉が与えられた時に、しっかりと悔い改めて立ち返るならば、主は豊かに恵みを施してくださるのですが、主の叱責をことごとく侮ったら、もう遅いのです。災難がつむじ風のように襲う時、主を呼び求めても何の答えもなくなってしまうのです。
【結論】
幻の谷、エルサレムは、主からの豊かな幻と御言葉をいただきながら、それを無駄にしてしまいました。どうか私たちは、主からの幻や戒め、宣告をいただいたならば、それを無駄にすることなく、しっかりと聞き従いましょう。断食すべき時は断食し、悔い改めるべきことは悔い改める。そのような、飲めや食らえやという愚かな性質を私たちのうちから全く抜き取ってくださるように、主に祈り求めましょう。悔い改めるべき時にしっかりと悔い改め、私たち自身の中にある滅ぼされるべき性質を、主の御前に差し出し、滅ぼし尽くしていただきましょう。そして、主の御前に清く正しく生きることができるように、祈り求め続けましょう。
(この後、祈りと主の祈り、祝祷が続きますが、設問の指示に従い、説教内容の結論までとします。)
ドマ(エドム)に対する宣告とアラビヤに対する宣告(イザヤ21:11-17)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2015-10-7 19:20
イザヤ書講解説教メッセージ
ドマ(エドム)に対する宣告とアラビヤに対する宣告(イザヤ21:11-17)
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メッセージ音声
【概要】
本日の御言葉は、イザヤ書21章11節から17節の預言を中心に、神が与える祝福の本質と、その祝福を軽んじた時に訪れる戒めの時を示しています。私たちが正しい生き方を選び、神の御心に従うことで、昼の光のような豊かな祝福と未来が約束されるというメッセージです。
【聖書箇所】
-
イザヤ21:11-17
-
創世記27:39-40
-
ルカ23:8-9
【戒めの言葉】
日常生活において、神から賜る祝福を自己中心的な行いや軽率な判断で粗末に扱うと、神の厳しい戒めが下され、暗い時代が訪れる危険性があることを警告します。
【励ましの言葉】
どんな困難な状況下でも、私たちは神に真摯に心を寄せ、互いに助け合いながら輝く昼のような人生を歩むことができると信じ、希望を持って進むよう励まします。
【悔い改めの促しの言葉】
これまでの歩みを振り返り、神の御言葉を軽んじた過去を悔い改めることにより、真の祝福へと立ち返る心を今一度求めましょう。
【***詳細***】
本日の説教では、まずイザヤ書21章11節から17節において、預言者が「土間に対する宣告」を通して、エドムの民に与えられた警告を伝えていることに注目します。ここで使われる「土間」という語は、元来エドムを象徴する象徴的表現であり、ヘブライ語の「ドゥマー」(沈黙)に通じる意味を持っています。すなわち、エドムの民は神の御言葉に対して無関心あるいは軽んじる態度を取った結果、重大な祝福を逃し、暗い夜のような時を迎える運命にあったという戒めが込められているのです。
この預言は、古代のイスラエルとその周辺諸国に対する神の審判として語られているだけでなく、現代の私たちにとっても大きな意味を持ちます。たとえば、創世記27章39節から40節に記されているエサウの物語に見るように、長男の権利や祝福は、決して軽んじてはならない貴重なものであり、たとえ得られた富や地位があっても、その背景にある神の御計画や御心を軽視すれば、取り返しのつかない結果を招くのです。エサウは、父イサクの祝福を不適切な欲望に流された結果、弟ヤコブにその権利を奪われてしまいました。これは、神が与えた祝福を正しく受け止める重要性を私たちに強く示しています。
次に、説教はエドムのみならず、アラビヤに対する預言へと話を展開します。アラビヤの住民は、古代から豊かな地下資源や裕福さに恵まれていたにもかかわらず、その富を弱い者や困窮する者のために活用せず、自己中心的な利益の追求に走りました。預言者は、こうした態度に対する神の裁きを警告すると同時に、真の祝福とは、神が用意された恵みを正しく分かち合い、困っている人々を助けることでしか成立しないという教えを強調しています。すなわち、外面的な豊かさや一時的な経済的成功は、神の御言葉によって生かされる正しい行いの上に成立するものであり、それを怠れば、いつかは失われてしまう運命にあるのです。
また、ルカ23章8節から9節において、イエス様に対して誤った態度で臨む人々の姿が描かれています。権勢や名声にとらわれ、自分の利益ばかりを追い求める人は、イエス様の真理を正しく理解せず、神のご意志を軽んじる結果となります。その態度は、かえって神の厳しい裁きを招くこととなり、真の救いと祝福から遠ざかってしまいます。ヘロデの例が示すように、神の前ではどのような権力や名声も無力であり、私たちは常に謙虚な心で神の御心に従うべきであるという戒めを、改めて心に刻む必要があります。
このように、今日の御言葉は、私たちに二つの重要なメッセージを伝えています。ひとつは、神が与えてくださる祝福は、ただ単に贈られるものではなく、正しい行いと謙虚な信仰によって維持されるべき貴い賜物であるという点です。もうひとつは、祝福を乱用し、自己中心的に扱ってしまった場合、その結果として暗い夜の時が訪れ、神の祝福が取り返しなく失われるという厳しい現実です。預言者は、友や隣人、そして自分自身を顧みることの大切さを、具体的な歴史的背景と本質的な霊的教訓をもって語っています。
私たち現代のクリスチャンは、古代の預言に学び、自分たちの日常生活において神の御言葉をどのように実践すべきかを常に問い続けなければなりません。経済の変動や社会の混乱の中で、骨身にしみるような試練に直面することもありますが、その一方で、互いに助け合い、真の意味での「昼」の生活を追求する努力が求められています。正しい裁量で祝福を分かち合い、弱い者を助ける行いこそが、神から賜る本当の富であり、また永遠の命への道であるのです。
この説教を聞く私たちは、今一度立ち止まり、自分自身の行いを見つめなおす必要があります。もし過去に自己中心的な決断や、祝福を当たり前と考えていた部分があれば、心から悔い改め、神の御心に立ち返るべき時です。そして、明るい昼の光の中で、互いに愛と敬い合いながら歩む生活を誓い、周囲の弱者や困っている者に惜しみなく助けの手を差し伸べることで、神の祝福に相応しい者となるよう努めることが大切です。
最後に、預言者が記された言葉が、ただ歴史の中の出来事を伝えるに留まらず、現代を生きる私たちへの生きた教訓であることを強く理解しましょう。神は、私たち一人ひとりに対し、正しい歩みと誠実な信仰、そして愛の実践を期待されています。日々の祈りと聖書の学びを通して、私たちは神の御心に従い、真に祝福された人生を歩むことができるのです。どうかこの御言葉をもとに、悔い改めと共に新たな一歩を踏み出し、昼の光のような明るい未来を迎えられるよう心からお祈りいたします。
【結論】
神が与える祝福は、単なる偶然や恵みではなく、正しい生き方と謙虚な信仰の上に築かれる貴重な賜物です。私たちは、過去の誤りを悔い改め、神の御言葉に従い、互いに助け合う愛の実践を通して、明るく祝福に満ちた昼の人生を歩むことを心に誓いましょう。アーメン。
海の荒野に対する宣告 - バビロンの哀歌を歌う者達(イザヤ21:1-10)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2015-9-30 18:10
イザヤ書講解説教メッセージ
海の荒野に対する宣告 - バビロンの哀歌を歌う者達(イザヤ21:1-10)
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メッセージ音声
【概要】
本日のメッセージは、イザヤ書21章1〜10節と黙示録18章の預言を通して、神の義なる裁きと正しい生き方への呼びかけを語ります。バビロンの滅亡の預言や、信者に対する戒め、励まし、悔い改めの促しが込められています。
【聖書箇所】
・イザヤ21:1-10
・黙示録18章
【戒めの言葉】
神は不正や不品行に満ちた世の制度を断罪され、誇り高く堕落した者たちには厳しい裁きが下されます。私たちは日々の生活の中で、偶像崇拝や不正な取引、自己中心的な行いを改める必要があります。
【励ましの言葉】
たとえ今の世の中が混迷し、あふれる悪に心が揺れるとしても、神は決してご自分の民を見捨てられません。正しい行いと忍耐によって、私たちはいつか神の光り輝く御国に迎え入れられるのです。
【悔い改めの促しの言葉】
自身の罪や過ちに気づいたならば、真摯に悔い改め、心を整え神に立ち返る勇気を持ちましょう。神の恵みは、悔い改める者すべてに与えられる恵みの道しるべです。
【***詳細***】
今日、私たちはまずイザヤ書21章1〜10節の美言葉から、神の啓示を受けるためにその御言葉に耳を傾けます。「海の荒野に対する宣告」という導入の言葉は、荒涼とした地に吹き荒れるつむじ風のような恐ろしい力が迫っていることを示しているのです。イザヤは、この荒野と称される場所に、神の厳しい裁きが下されることを預言として語っています。私たちはこれを神が与えられた真実の言葉として受け止め、日々の心を整え、謙虚に神に立ち返るべきであると改めて教えられます。
説教の中盤では、イザヤが語る預言は、かつてバビロンとして知られた国の未来やその運命と深く結びついています。バビロンは、チグリスとユーフラテスに挟まれ、肥沃な土地と同時に荒廃の影をも持つ国として描かれており、そこでは高慢な商人たちや堕落した生活があふれていました。イザヤは、そのバビロンがいまだ大国として成立していない時代に、将来大いなる国へと成長し、やがて神の裁きを受ける運命にあることを明確に示されました。預言者自身は、当時の政治情勢―アッシリアの圧力や国々の罪深い行い―を前に、深い悩みと恐れを抱きながらも、神の啓示に従い、真実を伝える苦しみを味わっていました。
また、イザヤの預言は、単に古代の歴史的事実を語るにとどまらず、現代に暮らす私たちに対する警告とも受け取ることができます。今日の社会においても、不正な取引や愛欲、誇り高い生き方が横行し、まるであの荒廃したバビロンのような状況が見受けられます。神はそのような世の堕落に断固として立ち向かわれるお方であり、私たち信者もまた、戒めと自己反省の心を持ち続けるべきだということを預言の中から学ばせていただきます。
説教の中盤部ではさらに、イザヤによる幻の中で示された恐ろしいビジョンが詳しく語られます。幻の中で、預言者はある苦しみと心の乱れを体験します。まるで、女の出産に似た苦痛―それは神からの重大な警告の証であり、罪のない民の血が流される悲劇を予告するものでした。人々は、堕落や裏切りに満ちた生活を送る中、その破滅の日がいずれ訪れることに気づかず、慶事に耽るばかりでした。物見の塔に登り、騎兵や戦車の動向を目にする中で、勇ましい兵士たちは神の裁きを告げる鐘のように、注意を促されるのです。ここでの預言は、ただ単にバビロンという古代都市の運命を告げるだけでなく、どんなに華やかな生活があったとしても、神の正義は必ず成就するという普遍の真理を示しています。
説教は次第に、ぼんやりとした過去の出来事から今日の現実、さらには将来に向けた啓示へと展開していきます。私たちの目の前には、旧約の預言と同様に、新約の黙示録18章に記された、バビロンの最終的な滅亡と裁きの光景があります。黙示録では、バビロンが不信仰に溺れた結果、神の怒りによって断罪される様子が詳細に描かれています。地上の商人たちは、その豪華な生活と不正な取引のために大いに悲しみ、国々の民はその深い裏切りに対して激しい怒りを示します。偶像崇拝と高慢な態度によって栄えたその都市は、やがて血と涙と苦悩の中で滅び、神の正義の現れとして、すべての民にその教訓を与えるのです。
このような聖書の預言の言葉は、私たちに現代のあらゆる堕落と不正に対しても、変わることのない神の裁きがあることを思い出させます。同時に、信者として私たちは、自らの心を清め、罪を悔い改め、日々の生活の中で正しい行いを積み重ねることを求められているのです。悔い改めることは決して恥ずかしいことではなく、神の恵みによって救われるための大切な一歩であります。また、私たちが正しい道を歩むとき、神はその正義と慈愛によって、私たちの肉体的な試練や迫害をも救い、最終的には花嫁として光り輝く姿で天に迎え入れてくださるのです。
説教の後半では、今日の世界の現状にも目を向けられます。中東やその他の地域では、権力争いや不正な武器取引が日常的に行われ、悪徳な者たちが交錯する中で、信者が迫害され、血が流されるという悲劇が現実のものとなっています。聖書に描かれるバビロンの破滅の予告は、現代においても真実として重みを持ち、私たちに「今こそ心を整え、神に立ち返るべき時である」という戒めのメッセージを与えているのです。悪徳な力に取り巻かれる世界で、私たちが守るべきは、常に正義と真実、そして神に基づく愛ある生き方です。不正が横行する中で、信者たちは互いに助け合い、励まし合いながら、神の教えの下で自らの使命を果たしていく必要があります。
最後に、黙示録18章に記された裁きのビジョンが語られた部分では、バビロンの都が突然滅び、その街に染み付いた罪の血や、不正な取引によって得られた富が、すべて神の前で裁かれる様子が力強く描かれています。そこでは、神の生徒たちが立ち上がり、その正しい行いと忍耐、そして悔い改めの心をもって、真の花嫁のような姿で天に迎え入れられる日が約束されているのです。私たちは、日々の生活の中で自らの内面と向き合い、神の前に謙虚になること、また、迫害や誘惑に対して堅固な意志で立ち向かうべきであると強く訴えられています。
このように、イザヤ書と黙示録の預言は、古代の出来事に留まらず、現代の私たち一人ひとりに大切な示唆を与えています。不正と堕落がはびこる世の中においても、神は必ず御心にかなう者を導き、最終的にはすべての悪を裁かれるお方です。私たちは、毎日の生活の中で正しい道を歩むために、悔い改めと自己反省を怠らず、忍耐強く神の御言葉に従うよう努めるべきです。たとえ厳しい試練が待っていたとしても、神の約束は決して揺らぐことはなく、未来に希望と光があることを信じ、歩みを進めるのです。
【結論】
バビロンの滅びと神の正義の預言は、今の私たちに自らの生き方を改める大切な機会を与えています。正しい行い、悔い改め、そして忍耐をもって日々を過ごすことで、私たちは神の御言葉にふさわしい光り輝く花嫁として、永遠の救いに迎え入れられるのです。主イエスキリストのお名前によって祝福されるよう、今日も心新たに歩んでいきましょう。
将来と希望の預言が成就せず災いが成就してしまうケース(イザヤ19:16-20:6)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2015-9-26 1:54
イザヤ書講解説教メッセージ
将来と希望の預言が成就せず災いが成就してしまうケース(イザヤ19:16-20:6)
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【概要】
本日の御言葉は、イザヤ書19章16節〜20章6節およびエレミヤ書29章11節〜12節から、エジプトをはじめとする国々に対する神の裁きと、真に主へ立ち返るなら救いと祝福が与えられるという希望のメッセージを学びます。人は偶像や人間の力に頼るとき、いずれ真実の救いを見失うが、真心から主に従えば必ず神の慈悲が現れることを示しています。
【聖書箇所】
・イザヤ書19:16-20:6
・エレミヤ書29:11-12
【戒めの言葉】
自らの誤った信仰や偶像に頼る姿勢を断ち切り、偽りに頼ることの危険性を厳しく戒め、主に立ち返る決意を促しています。
【励ましの言葉】
主に従い、悔い改めた者には、いかなる困難の中でも救いと平安、将来への希望が与えられるという確かな励ましが伝えられています。
【悔い改めの促しの言葉】
過去の誤りや罪深い行いを、深い悔い改めによって清め、心を新たに主の御名に身を委ねるよう、私たちに強く求められています。
【***詳細***】
本日私たちが頂戴する恵みの御言葉は、イザヤ書19章16節〜20章6節に記されている、エジプトに対する預言です。ここで神は、エジプトの民が自らの偽りの神々や偶像、そして霊媒や口寄せといった人間の知恵に頼り、安心感を得ようとしていたことに対し、厳しい裁きを宣告します。冒頭では「その日、エジプトの民は万軍の主が振り上げる裁きの光景を目にし、深い恐れに襲われる」と告げられ、民は恐怖に陥ります。これは、ただ単に罰を与えるためではなく、悔い改めと主への立ち返りを促すための御措置なのです。
また、イザヤ書の後半部分では、エジプトに一度は厳しい災いが予告されるものの、最終的には主に立ち返ることで真実の救いと祝福が約束されると語られています。この変転は、エジプトのみならず、私たち一人一人の生活にも深く関係しています。どんなに国や個人が自らの力や偶像に頼っても、その頼りは限りあるものであり、決して永遠の安心をもたらすものではありません。むしろ、私たちが心から救い主であるイエス・キリストに立ち返り、御言葉に従順であれば、神は必ずや慈愛深い恵みをもって私たちを救い、未来に希望ある平安を与えてくださるのです。
さらに、エレミヤ書29章11節〜12節の御言葉は、神が私たち一人一人のために、災いではなく平安と希望に満ちた計画を立てておられると明言しています。「わたしはあなた方のために立てている計画をよく知っている。それは災いではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」というこの御言葉は、現代に生きる私たちにも深い安心と励ましを与えてくれます。困難な局面に立たされるたび、また世の中の混乱や不安の中で、私たちは偶像や自己の力に頼りがちですが、本当の救いは神の御言葉に従う信仰の中にあるのだと示されています。
預言者イザヤがかつて、救いの印として自身が裸になって裸足で三年間エジプトを歩いたという行為は、単なる奇行ではなく、神から与えられた生きたメッセージでした。彼は、この行いを通して、エジプトの民に対し「真の救いは、自分自身の力や偶像に頼るのではなく、主へ立ち返ることにある」という厳粛な警告を伝えようとしました。イスラエルの民は、イザヤのその姿を目の当たりにし、真摯に心を改めるべき時が来たことを悟りました。一方で、悔い改めずに自分を信頼し続けた者たちは、いずれ神の正義の裁きに遭い、罪の代償を受ける運命にあるという戒めが込められています。
この御言葉は、単に古代のエジプトに関する預言にとどまらず、私たち現代人にとっても多くの示唆が込められています。具体的には、家庭や社会、国家において、私たちが偶像や人格主義、自己中心的な考え方に頼るならば、いずれそれらは裏切り、不完全なものとして露呈するという現実を思い起こさせます。だからこそ、私たちは常に主に立ち返り、真の救いと平安を追い求めることが大切です。神は、どのような状況にあっても、本当に心から悔い改める者を決して見放すことはありません。むしろ、そのような者に対しては、時間や状況を超えて確固たる祝福と希望をお与えになるのです。
さらに、教会という共同体において互いに励まし合い、神の御言葉に従って生活することが、私たち個々の信仰をより強固なものにしていきます。信仰を持つ仲間と共に集い、祈り、そして御言葉を学ぶことは、個々人が立ち返る勇気を持ち、日常生活で神の御導きを受け取るために非常に重要な意味を持ちます。互いの悔い改めと賛美の中で、神から与えられる希望と未来の計画が、具体的な形として現れるのです。
最後に、私たちに対する神の呼びかけは、「自らの罪を認め、心の奥底から悔い改めよ。そして、真実に主に立ち返り、御言葉に従い歩むならば、あなたの人生に真の救いと祝福が訪れる」というものです。今日の御言葉を通して、私たちは自分自身の内面を省み、どんな時も神の慈愛と導きを求める決意を新たにするべきです。たとえ一時の過ちや傲慢があったとしても、主はいつでも私たちを迎え入れ、真に救いへと導いてくださいます。
【結論】
神の計画は、私たちが自らの誤りを悔い改め、真心から主に立ち返るならば、どんな災いも救いと祝福へと変えるという普遍的な真実です。今日の御言葉を胸に刻み、日々の生活の中で主の御声に耳を傾け、謙虚な心で従順に歩むことを誓いましょう。主イエス・キリストのお名前によって、皆さんに平安と希望、そして無限の祝福が豊かに注がれますように。アーメン。
エジプトに対する宣告 - 偶像礼拝者の混乱と搾取の運命(イザヤ:)
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- 執筆 :
- pastor 2015-9-16 23:33
イザヤ書講解説教メッセージ
エジプトに対する宣告 - 偶像礼拝者の混乱と搾取の運命(イザヤ19:1-15)
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【概要】
本日の説教は、イザヤ書19章2節〜15節を中心に、エジプトに対する神の宣告と、偶像礼拝の混乱、そして真の神に立ち返った時に与えられる命の水の恵みについて語られています。神の戒めと同時に、真理を求める者への慰めと励ましが込められた御言葉です。
【聖書箇所】
・イザヤ19:2-15
・エゼキエル47章(比較対象として引用)
【戒めの言葉】
偽りの神々に頼り、偶像崇拝にふける者は心が分裂し、混乱に陥ります。真の神から離れては国も人も衰退していくという警告です。
【悔い改めの促しの言葉】
誤った導きに惑わされず、まずは自分自身と国全体が真の神に立ち返る必要があります。心の奥底にある弱さや罪深さを洗い清め、悔い改めの祈りを捧げるべきです。
【励ましの言葉】
たとえ現実が混乱し、偶像や占いに溺れる社会に囲まれていても、神はいつも忠実に命の泉を流し出されます。真の信仰に根ざす者は、内に注がれる生の水によって潤い、揺るがぬ希望を得るでしょう。
【慰めの言葉】
主イエス・キリストを信じる者には、苦難の中にも神の愛と導きがあります。どんなに荒れ果てた時も、神の恵みは枯れることなく流れ続け、心に平安と喜びをもたらします。
【***詳細***】
今日、私たちはイザヤ書19章2節〜15節の御言葉を通して、神がエジプトという国に対してどのような宣告をされ、どのような戒めと約束を与えているかを聞きます。冒頭、預言者イザヤは「エジプトに対する宣告」を語り、エジプトの偽りの神々の前に、神の真実な裁きと警告が垣間見えると告げます。たとえば、「主は早い馬に乗ってエジプトに来る」との言葉は、神の迅速で厳正な裁きが迫っていることを象徴しています。ここで、エジプトはただ単に地理的な国としてだけではなく、偶像崇拝や不信仰、そして堕落した心の象徴として描かれています。
説教の中盤では、エジプトという国が多くの神々を祭り、遺跡や絵画にも数多くの偶像が記されている現状が語られます。かつては、イスラエルの民をも圧迫するほどに栄えていたエジプト。しかし、その偽りの繁栄は、奴隷制度に代表されるような強圧的な統治と、真実からの逸脱によって、本来の祝福ではなく呪いへと転じる運命にあると預言されています。こうした過去の歴史と共に、現代においても、私たちの社会には占いや口寄せ、霊媒といった、神でないものに頼ろうとする風潮が広がっています。
この説教では、エジプトの預言の後半部分にも焦点が当てられています。神は、エジプトが悔い改めて主に立ち返るならば、その立場を逆転させ、エジプトとアシリアがともに神を賛美する時が来ると約束されています。しかし、この約束は、過去の成就があったのか、あるいは未だ来るべき未来の約束なのか、議論が分かれるところでもあります。預言は、いつか本当にすべての国々が主の御前にへりくだり、神の前に整えられるその日が必ず訪れるという希望も同時に示しているのです。
また、この御言葉の中で特に象徴的な部分は、エジプトの自慢であったナイル川の水が干上がるという描写です。イザヤは、海から水が引き、ナイル川やその支流が枯渇し、運河の水が臭くなっていく様子を記しながら、偽りの神々によって養われる国の栄光の儚さを強調します。水は生命の源であり、本当に必要なものであるのに、偽りに頼る者は、その源すらも取り戻せなくなるという戒めがここに込められているのです。
しかし、一方で、エゼキエル書47章の預言を参照するかのように、神殿から流れ出る水は決して尽きることがなく、いずれは荒れた大地に新たな命をもたらすと約束されています。神が与える命の水は、真に神を信じ、主に頼る者に注がれ、彼らの心を潤し、また周囲の人々にまでその豊かな祝福を広げていくのです。これは、ただ単に自然現象としての水の回復という以上に、霊的な回復−真の信仰に基づく再生−を象徴しています。
続いて、説教はエジプトの歴史や現実における偶像礼拝の実態に目を向けます。エジプトがかつて栄えた背景には、奴隷たちの酷使と、それにより得られる一時的な栄光がありました。しかし、その栄光は真の祝福ではなく、後には必ず衰退を招くと預言されています。偶像崇拝に慣れ、占いや口寄せによって指導を求める社会では、心が分裂し、人々の判断力が失われ、自らを破滅へ導く結果となると警告されます。
特に、現代社会においては、テレビやインターネットを通して次々と占いの情報が提供され、国民は指導者や政治家を選ぶ際にも、結果だけを重視する傾向があります。これは、誤った価値観に基づく選択を招き、長期的には国家全体を破滅の道へと駆り立てるものです。説教者は、かつて占い館がほとんど存在しなかった時代と比較し、現状の変化について語りながら、私たちがどのように真の神の導きに立ち返るかを問いかけます。
さらに、説教は政治的・社会的現状にも触れています。指導者が自らの利益や安易な約束に飛びつく結果、国全体が混乱し、税金や借金問題から抜け出せなくなっている現状が嘆かれます。人々は、自分自身や国を救うために、一体どのような指導者、そしてどのような政策に賭けるべきかを真剣に考え直す必要があるという教訓が込められています。誤った導きに従えば、必ずやその報いは自分たちへの苦しみとなって現れるのです。
そして最も重要な教えは、私たちが頼るべきは、決して変わることのない真の神であるという点です。神でないものに心を委ねることは、結局は命の泉を失い、心が枯れてしまう結果に繋がります。一方、イエス・キリストを主として信じる者は、神の与える永遠に尽きることのない命の水によって、内面から潤され、真の祝福を受けることができます。説教は、神の前に悔い改め、真摯な信仰を立て直すよう迫ります。
この御言葉を通して、私たちが学ぶべきは、日常生活においても、神以外のものに頼る生活はいつか必ず自滅を招くという真理です。私たちは、どのような困難な時でも、神の御声に耳を傾け、正しい導きを求める必要があります。たとえ国や社会が混乱し、占いや偽りの価値観が蔓延している中でも、主の霊が流れ込み、再び命の水として溢れるその日を信じ、歩みを進めることこそが、真に blessed な生き方であると説かれています。
最後に、主の祈りをもって礼拝が締めくくられ、天にいます我らの父の御名を賛美し、国と民に平和と祝福が訪れるようにとの願いが述べられます。信仰の仲間たちが互いに励まし合い、神の前に謙虚に立つことで、偶像礼拝や誤った導きに背を向け、本来の真理を取り戻し、豊かな命と未来を共有できると信じさせる御言葉です。
私たち一人ひとりが、この御言葉に触れ、心に刻むべきは、いかなる状況にあっても、神だけが変わることなく、永遠に命を与える源であるという確信です。もし、偽りのものに心を委ねていたなら、今こそ改めて、真の救いを求める時であり、神の裁きと恵みに気づく時であると強く訴えられています。皆さんが、これらの戒めと希望に耳を澄ませ、自身の生き方を省み、本当の安らぎと祝福の源である神へと立ち返ることを心から願います。
【結論】
神は、偶像や偽りに依存する者たちに厳しい裁きを下されると同時に、真実に悔い改める者には尽きることのない命の水を注ぎ、国と人々を新たに導かれます。私たちは、どんな時も真の神を主とし、悔い改めと立ち返りをもって日々を歩むことによって、神の祝福と平安を受けることができるのです。
クシュに対する宣告 - 神に伺い出る異邦人への憐れみ(イザヤ18章)
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- 執筆 :
- pastor 2015-9-9 14:58
イザヤ書講解説教メッセージ
クシュに対する宣告 - 神に伺い出る異邦人への憐れみ(イザヤ18章)
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【概要】
本日の説教は、イザヤ書18章の預言を中心に、異邦の国々に対する神の愛と裁き、そして混沌の時代にあっても主に信頼し歩む大切さを示しています。神はどんな状況下にあっても、心から祈る者に変わらぬ恵みと救いを与えてくださいます。
【聖書箇所】
・イザヤ18:2-7
・(また、九州やエチオピアへの預言の背景を示す文脈として)イザヤ20章の預言の一部も参照
【慰めの言葉】
主は、灼熱の太陽の下に現れる濃い雲のように、激しい日々の中でも心に涼やかな慰めと安心を与えてくださいます。
【励ましの言葉】
どれほど混乱した世の中であっても、神は常に私たちの傍におられ、信仰を持って祈り続けるならば、その恵みと導きが必ず実を結ぶと励まされています。
【戒めの言葉】
世俗の喧騒や祭りの騒ぎに流されることなく、常に神の声に耳を傾け、自らの心を清めることが求められています。もし神から離れてしまえば、かつてイスラエルや周囲の国々に見られたように、厳しい懲罰が訪れる恐れがあります。
【勧めの言葉】
家庭や教会での礼拝、祈り、賛美を通して、常に神の御顔に触れ、その恵みを受け入れる生活を大切にし、互いに助け合うことが強く勧められています。
【悔い改めの促しの言葉】
もし私たちの心が誤った道に迷い、神から疎遠になっていると感じるならば、深く悔い改め、真摯な心で主の元へ立ち返るよう促されています。
【***詳細***】
本日の御言葉は、まずイザヤ書18章2節から7節の預言の朗読から始まりました。この箇所では、遠い異邦の国―その国は古代において大国として恐れられ、背が高く肌の滑らかな民が住む国―に対して、迅速な使者がパピルスの船に乗り、神の命令を伝える様子が描かれています。ここでの言葉は、ただ単に遠い昔の歴史的事象を記述するのではなく、現代における私たちへの重要な示唆として伝えられているのです。
この異邦の国、後にエチオピアとして呼ばれる国は、その国力の強さと多くの川が流れる肥沃な土地として知られていました。しかしその一方で、周囲を取り巻く強大な国々、特にアッシリアの脅威に晒される中で、神は自らの御計画に従って、この国に特別な役割と祝福を備えられたと預言されています。預言者は、この国の民へ、迅速な使者を送り、神のお告げと共に、彼らが悔い改めと内省、そして徹底した信仰の歩みを進めるよう促しています。
また、預言の中には、激しい太陽が照りつける中で突然現れる濃い雲の比喩が登場します。この比喩は、暑い日に現れる日陰と梅雨のような恵みの雨を想起させ、極めて過酷な環境下でも神がその民に慰めと潤いを与えてくださるという希望を示しています。つまり、どんなに不安定な時代や環境であっても、主は私たちの上に常に御顔を輝かせ、必要とされる恵みを注いで下さるという確固たる保証なのです。
さらに、聖書の中では、エチオピアとユダヤ人以外の民との交わりが強調されています。新約聖書においては、エチオピアの宦官がイエス・キリストの御名に預かり、洗礼を受けた出来事が記されており、これは異邦人に対しても神の御恵みが満ち溢れていることの表れです。エチオピアという遠い国が、古代より神の御心に従い、その歴史の中で祝福を受けたことは、私たちにとっても大きな励ましです。国境や人種、文化の違いを超えて、神の愛と救いは普遍的に与えられているという真理がここにあります。
一方で、預言は厳しい戒めも伴っています。たとえば、かつてイスラエルやその周辺の国々が、神への不従順と誇りによって災いを招いた歴史を思い起こさせます。もし私たちが、家庭や教会での祈りを疎かにし、世俗の誘惑に流されるならば、神の厳しい裁きや懲罰が下される可能性があるのです。これは決して罰としてではなく、真に神との正しい関係を保つための必要な戒めとして示されています。私たちは、日常のあらゆる瞬間において、神の御言葉を心に刻み、互いに励まし合いながら歩むことが求められているのです。
現代においても、世界は依然として戦争や政治的不安、異常気象など多くの試練にさらされています。こうした混乱の中で、私たちは一層、主に信頼し、その御顔を仰ぎ見る必要があります。たとえ外の世界が騒然としていても、家庭や教会という聖なる共同体の中では、神の御恵みと平安が豊かに流れ出しています。私たちが真摯な祈りと賛美に励むならば、どんな苦難も乗り越えることができると、聖書は私たちに教えてくれています。
また、エチオピアやセバの女王が遠い南から知恵を求め、またエチオピアの宦官が信仰によって新たな命を得た出来事は、神が歴史の中でいかに広く恵みを注いできたかを示す象徴です。これにより、私たちも自分自身の立場や背景に関係なく、主の計画に従って歩むことができるという希望を抱かされます。神は常に「悔い改めに立ち返る者」に対して、恵みと祝福を惜しみなく与えてくださるお方であり、それは今を生きる私たちにとっても変わることのない真理です。
そして、説教の終盤に差し掛かるにつれ、私たちは主の祈り―「天にまします我らの父よ…」―の深遠な意味に思いをはせるように促されます。この祈りは、単なる形式的な言葉ではなく、私たち一人ひとりが神との親密な交わりを実感し、絶えず心を新たにするための道しるべとなるものです。祈りを通して、日々の生活の中に神の御顔の光を迎え入れるとき、私たちは確固たる信仰によってその混乱や恐れを打ち破る力を得るのです。
また、教会における礼拝や家庭での小さな祈りの時間が、私たちの心だけでなく、共同体全体に神の恩寵を呼び起こすことを強調されています。互いに励まし合い、助け合うことの大切さは、単に個々の信仰の力を高めるだけでなく、全体としての霊的な強さへと結びついていきます。神が常に私たちに向けられるその慈愛の光を絶やさずに、困難や試練の中でも前向きに歩むことこそ、真に祝福された生き方であると説かれているのです。
最後に、私たちはこの説教から、混沌とする現代の中でも神の御言葉に従い、悔い改めと祈りを通して心を清め、主の御顔に近づくことの重要性を再認識することが求められていると理解します。たとえ外の世界がいかに荒れ狂っていても、神は眠ることなく、常に私たち一人ひとりの上に御顔を照らし、その愛と恵みを注いでくださいます。私たちが真摯な態度で主に仕え、互いに励ましながら日々を送るならば、その祝福は決して尽きることはありません。どうか、私たちがこの御言葉に導かれ、確かな信仰を持って歩む日々を重ねることができますように。
【結論】
結局のところ、私たちは混乱と不安に満ちた時代の中でも、神の御言葉に従い、心から悔い改め、祈りと信頼をもって主の恵みを受けることが最も大切です。エチオピアへの預言とその歴史的証しは、国境や時代を超えて神の愛が広がっていることを示しています。常に主の御顔に近づき、その恵みの中で歩む決意を新たにし、平和と希望を抱いて生きていきましょう。
ダマスコに対する宣告 - 神の民と交わる異邦人への憐れみ(イザヤ17章)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2015-9-5 23:26
イザヤ書講解説教メッセージ
ダマスコに対する宣告 - 神の民と交わる異邦人への憐れみ(イザヤ17章)
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メッセージ音声
【概要】
本日の説教は、イザヤ書17章をもとに、ダマスコに対する神の宣告と、罪に陥った民への厳しい警告、そして悔い改めと神の憐れみの望みについて語られています。
【聖書箇所】
・イザヤ17:1‐11(ダマスコに対する宣告、イスラエルとの関わり、そして残された憐れみについて)
【慰めの言葉】
主は、厳しい裁きの中にも、ご自分につながり信頼する人々にわずかでも憐れみのしるしを残される方です。
【戒めの言葉】
私たちは、偶像やこの世の価値観に流されると、神の民としての誇りを失い、滅びの危機にさらされるという真実を、決して忘れてはなりません。
【悔い改めの促しの言葉】
自らの罪と弱さを認め、神の前に心から悔い改めることが、救いと再生への唯一の道であることを、改めて訴えています。
【勧めの言葉】
日々の生活において、真の信仰と献身をもって神に立ち返り、世俗的な誘惑に屈しない堅固な意志を持って生きるよう努めるべきです。
【***詳細***】
本日の説教は、まず冒頭で「イザヤ書17章」を読み上げながら、ダマスコに対する宣告の御言葉に触れています。冒頭の一節では、ダマスコが「取り去られ、町で滅び、廃墟となる」と預言され、これは単に古代のシリア地方の一都市が破壊されるという歴史的出来事だけではなく、私たちの罪深い状態、すなわち神に背いた結果としての霊的な廃墟状態を象徴していると語られました。説教者は、自分たちが犯してきた罪や、神と人との関係を乱すあらゆる行為を、全面的に投げ捨て、清められた存在となるよう、神に整え直していただくことを願う祈りを捧げます。
次に、説教はダマスコというシリア地方の中心都市が、かつてアラムという国の中で果たしていた重要な役割や、北イスラエル王国との活発な交流に触れます。当時、ダマスコは文化と交流の中心地として輝いていましたが、同時にその繁栄の影で不誠実な信仰や、偶像に頼る生活が横行していたと指摘されます。すなわち、イスラエルとの交流の中で、真実の神を信じる姿勢が薄れ、他国の価値観や神々に頼ろうとする態度が見られたため、神の怒りが下される結果となったのです。説教者は、これを現代のクリスチャンに対する警告としてとらえ、世の中の享楽や誤った価値観に流されると、結局は神から受けるべき憐れみさえも遠ざかってしまう現実を告げています。
また、イザヤ書の中で語られる裁きの中には、ただ断罪だけでなく、厳しいながらもごくわずかに神の憐れみが残されるという希望のメッセージが含まれています。例えば、預言の一部では「二節以降」や「三節」において、ダマスコやエフライム(北イスラエル王国)の運命が厳しく宣告される一方で、神がわずかな残りの民に対し、栄光と救いをもたらすという描写がなされます。これは、たとえ罪深い状態にあっても、真に主に立ち返る者は神の恵みを受け入れることができるという希望でもあります。残されたわずかな実が、木の最も高い場所にあるために人には取ることができないように、神はご自身に忠実な人々を決して見捨てません。
さらに、説教の中盤では、イスラエルの民が偶像崇拝へと走り、本当に与えられた「ブドウの種」を神から受け取るのではなく、他国のものに頼ってしまったという事実が挙げられます。その結果、彼らは自分たちが育てた見かけの実(偽りの祝福)を、神の厳しい裁きによって刈り取られてしまうことが語られます。現代の私たちにおいても、社会の中で作り上げられる価値観や、自分たちが自ら築き上げた偶像に依拠する生活は、いずれ神の前で厳しく問われることとなります。説教者は、こうした危険性を具体的な例えを用いて力強く伝え、私たち一人一人に対し、本来あるべき神との正しい関係を取り戻すため、悔い改める決断を促しています。
その後、説教は国々の民や大水の轟のような勢いを例に出して、神の裁きの速さと確実さについても語られます。たとえ、どれほど巨大な勢力であっても、神がお叱りになると、それは風の前のもみ殻のように散ってしまいます。実際に、アッシリアという大国がイスラエルを囲むほどの軍勢を率いても、神の一声によってその威勢は一朝にして崩壊したという歴史的事実が示されています。これは、今を生きる我々に対し、世の権勢や自らの力に頼ることの無意味さを強調するものです。
そして、説教の終盤では、教会に属する私たちが、神の御前にふさわしい働き人として清められるべきだという決意が表明されます。私たちは、世俗の価値観に染まってはならず、神の御心に従う真実の信仰者として、日々の生活の中で自らの行いを省みるよう促されます。自分自身で築いた祭壇や作り上げた神々、さらには他国の成功や文化に傾倒することは、結局は神から離れる道であると戒められています。説教者は、今この瞬間に自分の心を神に開き、悔い改め、真の信仰に立ち返る決断をするよう、会衆一人一人に手を差し伸べています。
最後に、説教は実際の祈りの時間へと移行し、イエス・キリストの御名によって、私たちの愚かさを嘆き、悔い改めと更新を求める祈りが捧げられます。私たちは、神の御前にあって自らの弱さを認め、再び確かな信仰の歩みを始めるための内面的な変革を熱心に願わなければなりません。主の祈りをもって、日々の糧と罪の赦し、そして試練に負けない強い信仰を求めるその祈りは、現代のクリスチャンにとっても非常に大切なものであると強調されています。
このように、イザヤ書17章の御言葉を通して、我々は神からの厳しい警告とともに、悔い改めるならば必ず与えられる憐れみと救いの希望を学びます。世の権勢やその他のものに心を奪われるのではなく、たった一人一人が自らの内面を見つめ、神の御前に清く立つ決意を新たにするよう求められているのです。私たちがもし、一度でも立ち止まり、自分の行いと信仰を正しく省みるならば、神は必ずその心を清め、御前にふさわしい使徒として整えてくださいます。
【結論】
イザヤ書17章の御言葉は、ダマスコと北イスラエルの運命を預言するとともに、私たちに真の信仰と悔い改めの決断を迫っています。たとえ過ちや偶像に流れる時があっても、神は真心で立ち返る者に憐れみと救いの望みをお与えになります。私たち一人一人が自らの罪を認め、神の御前に清く立つ決意を新たにし、世の誘惑に惑わされることなく、真実の神の国を築く働き人として生きるよう、祈りと決意を新たにしましょう。