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メッセージ - 2サムエル記カテゴリのエントリ

悪しき者に占拠された都の中で働く御国のスパイ達(2サムエル記15:24-37)
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祭司たちも、契約の箱を担ぎつつ、ダビデに従って来ていた。
『アビヤタルも上ってきた。見よ、ザドクおよび彼と共にいるすべてのレビびともまた、神の契約の箱をかいてきた。彼らは神の箱をおろして、民がことごとく町を出てしまうのを待った。そこで王はザドクに言った、「神の箱を町にかきもどすがよい。もしわたしが主の前に恵みを得るならば、主はわたしを連れ帰って、わたしにその箱とそのすまいとを見させてくださるであろう。』(2サムエル記15:24-25)

かつてダビデは、主を慕い求める心が強かったゆえに、契約の箱を自分の町へと運び込んだものだが、ダビデはそれを、町へ戻すように指示した。
主の箱がダビデと一緒にある、という事は、それもまた「ダビデの側に主がおられる」事のアピールにはなったであろうに、ダビデはそんな事はしなかった。
主は、人の手で造られたものに住むのではなく、全地に主の霊が満ち、主の眼差しは全世界に注がれている事を、ダビデは知っていたのであり、また主の御心であるなら、主はダビデが慕い求める主の家へと再び戻し、再び主を礼拝できる恵みにあずからせてくださる、と、信じていたのだ。

『しかしもし主が、『わたしはおまえを喜ばない』とそう言われるのであれば、どうぞ主が良しと思われることをわたしにしてくださるように。わたしはここにおります」。・・・ ダビデはオリブ山の坂道を登ったが、登る時に泣き、その頭をおおい、はだしで行った。彼と共にいる民もみな頭をおおって登り、泣きながら登った。』(2サムエル記15:26-27)
ダビデは今、涙と悲しみの内にキデロン川を渡り、オリーブ山を登って、主を礼拝する場所へと向かっている。
そして、「主が良しと思われることをしてくださるように」と言って、幸いも災いも、何もかも主に委ねる従順を見せた。

イエス様も全く同じく経験された。オリーブ山の所で、主に祈った。
『イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。』(ルカ22:39-42)
まことにダビデは、来るべきメシヤ、ダビデの子孫キリストの雛形である。

『王はまた祭司ザドクに言った、「見よ、あなたもアビヤタルも、ふたりの子たち、すなわちあなたの子アヒマアズとアビヤタルの子ヨナタンを連れて、安らかに町に帰りなさい。わたしはあなたがたから言葉があって知らせをうけるまで、荒野の渡し場にとどまります」。そこでザドクとアビヤタルは神の箱をエルサレムにかきもどり、そこにとどまった。』(2サムエル記15:27-29)
ダビデは祭司たちにエルサレムの動向を知らせる役割を託し、こうして彼らは、神の箱と共にエルサレムへと戻った。

『時に、「アヒトペルがアブサロムと共謀した者のうちにいる」とダビデに告げる人があったのでダビデは言った、「主よ、どうぞアヒトペルの計略を愚かなものにしてください」。』(2サムエル記15:31)
天才的なアドバイザーであるアヒトフェルがアブシャロムと一緒にいる、という状況は、ダビデ達にとって脅威であっただろう。
ダビデは彼の「計略を愚かなものにしてください」と祈ったが、同じように私達も、神の民を陥れるような天才的なたくらみを、無効にして下さい、と、祈る事が出来る。

『すなわち、聖書に、/「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」/と書いてある。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。』(1コリント1:19-20)
『兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。』(1コリント1:26-29)

『ダビデが山の頂にある神を礼拝する場所にきた時、見よ、アルキびとホシャイはその上着を裂き、頭に土をかぶり、来てダビデを迎えた。』(2サムエル記15:32)
ホシャイはダビデの友であり、相談役である。
彼はダビデと行動を共にしたいと願い出たが、ダビデは彼に別の役割を与える。
『ダビデは彼に言った、「もしあなたがわたしと共に進むならば、わたしの重荷となるであろう。しかしもしあなたが町に帰ってアブサロムに向かい、『王よ、わたしはあなたのしもべとなります。わたしがこれまで、あなたの父のしもべであったように、わたしは今あなたのしもべとなります』と言うならば、あなたはわたしのためにアヒトペルの計略を破ることができるであろう。
・・・あなたがたは聞いたことをことごとく彼らの手によってわたしに通報しなさい」。そこでダビデの友ホシャイは町にはいった。その時アブサロムはすでにエルサレムにはいっていた。』(2サムエル記15:33-37)

こうしてダビデは、何名かをスパイとしてエルサレムに留め、またホシャイを”埋伏の毒”として、アブシャロムの所に送った。
エルサレムにはアブシャロムが入ったが、この都の中には何名か、ダビデから遣わされた働き人達、ダビデに報告する人、ダビデのために有利に働く”スパイ達”が入っている。
今私達も、この暗闇の世へとキリストに遣わされて、この世で起きている出来事をキリストへ報告し、キリストのために働く”スパイ達”である。

ダビデはこの時、預言者ナタンを通して主に言われていた通り、まさに剣に追いかけられている状況だ。
ダビデはそれに対し、主にへの100%の従順をもって甘んじて受けている。
聖書が一貫して示している事は、主は、主に忠実な神の民を、いつまでもはずかしめにあわせて置くような事はなさらない事である。

『主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。
主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を/捨てられないからである。』(哀歌3:22-31)

ダビデ王に従った異邦の戦士たち(2サムエル記15:17-23)
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ダビデ王に忠誠を貫いて、王と一緒に都落ちして行く人々もいたが、その中には、特に、異邦人たちが多かった事が記されている。
『彼のしもべたちは皆、彼のかたわらを進み、すべてのケレテびとと、すべてのペレテびと、および彼に従ってガテからきた六百人のガテびとは皆、王の前に進んだ。』(2サムエル記15:18)
ケレテ人はペリシテの地域に住んでいた人々で、彼らは共に、ダビデ王の親衛隊として側で仕えていた。(2サムエル記8:18、20:23、1歴代誌18:17)
また、ガテもペリシテの地である。ダビデはサウル王に追われていた時、そこに滞在していた。(1サムエル記27章)

『時に王はガテびとイッタイに言った、「どうしてあなたもまた、われわれと共に行くのですか。あなたは帰って王と共にいなさい。あなたは外国人で、また自分の国から追放された者だからです。あなたは、きのう来たばかりです。わたしは自分の行く所を知らずに行くのに、どうしてきょう、あなたを、われわれと共にさまよわせてよいでしょう。あなたは帰りなさい。あなたの兄弟たちも連れて帰りなさい。どうぞ主が恵みと真実をあなたに示してくださるように」。』(2サムエル記15:19-20)
イッタイを頭とするガテ人達は、ダビデを訪ねて来たばかりだ。それも、昨日。
彼らが来た時、イスラエル国はちょうど急変時で、ダビデは今日、都落ちして逃げている。
そんな状況だと言うのに、ダビデ王について来ようとした彼らに、ダビデは、自分の所に帰るように、と促すのだが、彼はそれを拒み、それでもダビデ王について行く、と言うのだ。
彼らは、ダビデの人柄に惹かれて来たのであろうし、武人として一度決心した忠誠を守る心もあっただろう。しかし彼らには、もっと高貴な動機があった。

『イッタイは王に答えた、「主(エホバ)は生きておられる。わが君、王は生きておられる。わが君、王のおられる所に、死ぬも生きるも、しもべもまたそこにおります」』(2サムエル記15:21)。
そう、彼らには「主(エホバ)」に対する信仰があったのだ。
彼ら、イスラエルの神・主に頼ろうという動機でイスラエルに来たのであり、そして彼らはアブシャロムではなく、ダビデを選んだ。

ダビデにこれからついて行く事は、いつ終わるとも知れない流浪と逃亡の生活に入る事を意味する。
常識的な観点で見るなら、ダビデ王はいつにでもアブシャロムに追い着かれ、殺されてしまうか分からない状況だ。
しかし、主に信頼する人々には、分かるのだ。主は、アブシャロムの側にではなく、ダビデの側におられる、と。
アブシャロムは、礼拝さえ、自分が王に成り上がるための道具とした。しかしダビデは、心底から主を敬い、主に信頼し、主に従順するがゆえに、主の懲らしめを甘じて受けている。(詩篇3篇)

ダビデについて行った当時の異邦の戦士たちに、私達もならうべきである。
今が旬の指導者が、いかに美しく、魅力的で、有能で、破竹の勢いがあり、周りの皆がなびいても、ただ一点、主を軽んじるような者であるとしたなら、その者について行かない方が良い。
かの異邦の戦士たちは、アブシャロムを選ばず、事実上敗北して都落ちしているようなダビデのほうを選んだ。
その理由は、ただ、ダビデが主に信頼し、主もまたダビデを愛しておられる、という点で。

ダビデのひいおばあさんであるモアブ人ルツも、同じ信仰だった。
彼女も「信仰」によって、ナオミに付いて行ってイスラエルに入った。
常識的に考えるなら、ナオミについて行く事には何のメリットも無く、結婚の望みも将来も見えないのに、この、夫と息子たちを失ってしまった一人の老女と共にイスラエルの神・主を頼りにして一緒にイスラエルに行こうとした信仰を、主は豊かに省みられた。
ルツは後に、栄光の家系へと嫁ぐ幸いを得、ダビデ王家の母となり、イエスキリストの系図に載る幸いを得た。
私達もルツのように、また、かの異邦の戦士たちのように、油注がれた王・キリストにより頼み、その御翼の陰に宿るなら、大いなる栄光と、豊かな報いがあるのだ。

『ダビデはイッタイに言った、「では進んで行きなさい」。そこでガテびとイッタイは進み、また彼のすべての従者および彼と共にいた子どもたちも皆、進んだ。』(2サムエル記15:22)
ダビデは、彼らとのわずかな言葉のやり取りで、この、昨日来たばかりの異邦の戦士たち六百人は、信頼に足る、と判断し、一緒に行動する事にした。
主に信頼する人同士は、霊と霊が共鳴し、理解する事に多くの時間や言葉はいらないものだ。

『国中みな大声で泣いた。民はみな進んだ。王もまたキデロンの谷を渡って進み、民は皆進んで荒野の方に向かった。』(2サムエル記15:23)
ダビデ王はまさに、後に来られるメシヤ・イエス様の雛形である。
イエス様もキデロンの谷を通って、オリーブ山で祈られ、十字架を背負って”都落ち”する時も、大勢のユダヤ人達はあざけり罵ったけれども、少数の異邦人達や、見捨てられてしまったような人々が、泣きながらイエス様について行った。
そしてイエス様は、後によみがえり、全能の父なる神の右に座し、世のどの王よりも高く上げられ、多くの異邦人達の救いの望みとなられた。
ダビデ王を偉大だと認知するユダヤ人達は、全て、イエス様こそ来るべきダビデの子・メシヤである事を、認知するべきだ。

手練手管で王になろうとするアブシャロムと、油注がれて王になったダビデ(2サムエル記15:7-17)
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アブシャロムは、心で長い間企んでいた陰謀を、ついに実行に移す。

『四年の終りに、アブサロムは王に言った、「どうぞわたしを行かせ、ヘブロンで、かつて主に立てた誓いを果させてください。それは、しもべがスリヤのゲシュルにいた時、誓いを立てて、『もし主がほんとうにわたしをエルサレムに連れ帰ってくださるならば、わたしは主に礼拝をささげます』と言ったからです」。王が彼に、「安らかに行きなさい」と言ったので、彼は立ってヘブロンへ行った。』(2サムエル記15:7-9)

アブシャロムは、主への誓いを果たす為にヘブロンへ行って礼拝させて下さいとダビデに許可を求めたが、それは偽りであった。
彼が「礼拝」を捧げに行くのは、主に誓っていた事を果たすためではなく、あらかじめ設定していた謀反の引き金を引くためであった。
つまり、彼がヘブロンで礼拝をささげる事が、彼が王となる事の合図として用いられたのだ。
『そしてアブサロムは密使をイスラエルのすべての部族のうちにつかわして言った、「ラッパの響きを聞くならば、『アブサロムがヘブロンで王となった』と言いなさい」。二百人の招かれた者がエルサレムからアブサロムと共に行った。彼らは何心なく行き、何事をも知らなかった。アブサロムは犠牲をささげている間に人をつかわして、ダビデの議官ギロびとアヒトペルを、その町ギロから呼び寄せた。徒党は強く、民はしだいにアブサロムに加わった。』(2サムエル記15:10-12)

ここに議官・ギロ人アヒトフェルが登場するが、当時、彼が考え出すはかりごとは、神の言葉のように思われる程、優れたものだった。(2サムエル記16:23)
アヒトフェルはバテ・シェバの祖父にあたり(2サムエル記11:3, 23:34)、ダビデの事を快く思っていなかった可能性は、大いにある。
アブシャロムはそんな彼に、「敵の敵は味方」として、謀反に加わるよう呼びかけたのだろう。
こうしてアブシャロムは、四年の歳月をかけて多くの人の心を掴んで行き、また、アヒトフェルというダビデに敵対的で強力な相談役も得、ぬかりの無い裏工作を巡らして行ったため、ダビデ王権の転覆を成功させるには充分となったが、それに対しダビデ王はどう対応したか。

『ひとりの使者がダビデのところにきて、「イスラエルの人々の心はアブサロムに従いました」と言った。ダビデは、自分と一緒にエルサレムにいるすべての家来に言った、「立て、われわれは逃げよう。そうしなければアブサロムの前からのがれることはできなくなるであろう。急いで行くがよい。さもないと、彼らが急ぎ追いついて、われわれに害をこうむらせ、つるぎをもって町を撃つであろう」。』(2サムエル記15:13-14)
ダビデ王の対応は、一切抵抗する事なく、エルサレムの都を出て逃げる事だった。
その理由も、アブシャロムが剣で攻め入って、エルサレムの中から犠牲者が出るといけないから、であった。

まったくもって、ダビデ王の行動原理と、アブシャロムの行動原理は、逆である。
ダビデ王は、あくまで平和を動機として行動した。
彼は、自分の手練手管を用いず、全て主に依り頼み、それも、かつては自分のいのちを付け狙って来たサウル王を、二度も見逃してやった程だった。
対して、アブシャロムは、主に頼らずに自分の手練手管に頼って世渡りして行く性質で、しかも、「主への礼拝」さえ自分のはかりごとの材料にしてしまう程だった。
彼は結局、天地を創られた主は彼の「主」ではなく、自分のはかりごとのほうが、彼の「主」だったわけである。

大多数の人は、何も抵抗せずに無様に逃げるダビデより、手練手管に長けて地道に裏で準備して行くアブシャロムのほうを、心強いと思うであろう。
しかし、決定的にダビデの方が勝っている点がある。
それは、ダビデは主により頼み、主に信頼している、という点だ。
アブシャロムは、はかりごとや手練手管を用い、偽りの礼拝を引き金にして自分が王だと名乗ったが、それに対してダビデは、羊を飼っていた時に主に見出され、一方的に主から油注がれ、王となった。
主が味方するのは、どちらだろうか。それは、一目瞭然である。

主を除外したはかりごとや手練手管の成果物は、やがてはぼろが出て、そちらを頼りにした人々はやがて恥を見るようになる。
『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。』(詩篇1篇)

『王のしもべたちは王に言った、「しもべたちは、わが主君、王の選ばれる所をすべて行います」。こうして王は出て行き、その全家は彼に従った。王は十人のめかけを残して家を守らせた。王は出て行き、民はみな彼に従った。彼らは町はずれの家にとどまった。』(2サムエル記15:15-17)
それまでダビデ王が歩んできた、主に対する誠実な歩みを見て、彼について行った人達も、少なからずいた。
こうしてダビデ王は都落ちするのだが、彼はどのような心境で、自分の名がつけられた都から落ち延びて行ったのか。
彼は詩篇3編にて、その心境を記している。

『ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌。主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。』(詩篇3:1-4)
彼の心は、主に向いていた。助けの源を、主へと求めた。
いかに周りの人々が、「彼には助けがない」と言い合っているような状況であっても、それでも彼は主を盾とし、「主がわたしに答えて下さる」と信仰告白した。

ダビデのこのような祈り、久しぶりな気もする。
彼がサウルに追われていた時、よくこういう祈りをしていた。
ダビデ王は確かに一時、罪を犯した。その時、彼の罪は、神との間の隔たりとなって、祈る事もできなかっただろう。
しかし、彼は自分の罪を告白し、悔い改め、そして主が与えられる災いをも甘んじて受ける従順によって、主との交わりを回復した。

『わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。わたしを囲んで立ち構える/ちよろずの民をもわたしは恐れない。主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです。』(詩篇3:5-7)
ダビデは、息子に反逆され都落ちしてしまうような、悲しんで然るべき状況であっても、安らかに眠りにつく事が出来た。
主は、主を愛し、拠り所とする人には、平安と安らかな眠りを与えられる。しかし、悪い事をたくらむ者には、平安も安息した眠りも無いのだ。

『救は主のものです。どうかあなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。』(詩篇3:8)
ダビデは、この詩の最後を、祝福で終えている。
それ程平安でゆとりのある心持ちだったのだ。

嘘をつく人は、その嘘がばれないようにするためにさらに嘘を重ね、誰にどの嘘をついたか色々の事を覚えて行かなくてはならないように、はかりごとをたくらむ人は、一々色々の事を覚え、考え、心配しなくてはならない。
しかし主に信頼し、主が全てを思い図って心配して下さる事を信じている人は、人を祝福するゆとりがあり、そして彼が発した祝福は、本人に返ってくるのだ

ダビデにこの度の事が起きたのは、元々はダビデの弱さ、罪、愚かさゆえだったかもしれない。
しかし、そんな無知、愚かさ、弱さにあっても、それでも主に向ける人は、主が守り、主がそれら全てから救い出し、悪い方向へ動いてしまった物事さえも、主は最善へと転換させて下さるのだ。

周到な反逆の企みをするアブシャロム(2サムエル記15:1-6)
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アブシャロムは、それまで願っていた父との面会がようやく叶ったのだが、それは非常に儀礼的なもので、アブシャロムは逆に憎しみを募らせるものとなってしまい、彼はこの会合以降、父ダビデの気を引こうとして来たそれまでの心を反転させ、ダビデ王に反旗を翻しクーデターを引き起こす準備を始めてしまう。
『アブサロムは早く起きて門の道のかたわらに立つのを常とした。人が訴えがあって王に裁判を求めに来ると、アブサロムはその人を呼んで言った、「あなたはどの町の者ですか」。その人が「しもべはイスラエルのこれこれの部族のものです」と言うと、アブサロムはその人に言った、「見よ、あなたの要求は良く、また正しい。しかしあなたのことを聞くべき人は王がまだ立てていない」。
アブサロムはまた言った、「ああ、わたしがこの地のさばきびとであったならばよいのに。そうすれば訴え、または申立てのあるものは、皆わたしの所にきて、わたしはこれに公平なさばきを行うことができるのだが」。』(2サムエル記15:2-4)

アブシャロムが父ダビデ王に反逆するためにまず行った事は、人の心を地道に掴んで行く事だった。
通りに毎日立ち、ダビデ王に裁判してもらおうとする人を待ち伏せして、親しげに声をかけ、その人の訴えに耳を傾け同情し、王はあなたの望み通りに動いてくれないが、もし自分なら正しくさばきが出来る、と吹き込んで行く。
こうして、ダビデ王に対する良くない思いと、またアブシャロムに対する好感を植え付けて行く。

人々がダビデ王にさばいてもらいたいと持ち寄る案件は全て、地方の長老では対処できないような難解なものであるはずである。
だから当然、訴えをした人の思い通りには行かない事もあるだろうし、また裁判が長引く事もあるだろう。
そのように、ダビデに訴えるさばきは、ある程度の不自由さを我慢しなくてはならないものであるのだが、アブシャロムは、そこを突いたのだ。

『そして人が彼に敬礼しようとして近づくと、彼は手を伸べ、その人を抱きかかえて口づけした。アブサロムは王にさばきを求めて来るすべてのイスラエルびとにこのようにした。こうしてアブサロムはイスラエルの人々の心を自分のものとした。』(2サムエル記15:4-6)
アブシャロムは、王子という高貴な身分であり、比類なき美貌の持ち主である。その彼が自分から人に手を差し伸べ、抱きかかえて口づけする。
当然、人々は感動し、そして噂するだろう。
あの美しいという噂の王子様・アブシャロムを、私は見た、そればかりでなく、こんな私に自ら近づいて来て、抱き寄せて口づけして下さった。
親しげに声をかけ、わたしの訴えに同情して下さった。
それに引き換えダビデ王は、対応が遅くて随分待たされた挙句、自分の思う通り裁きをしてくれなかった、など。
このように、人々の間では、アブシャロムの美しさと優しさ、有能さが、そして、ダビデの「無能さ」が、広まって行っただろう。

この地道な活動は、ボディブローのように徐々に、そして着実に効いて行く。
アブシャロムは、持て余した時間を、ただ人々に取り入って同調し、ダビデの悪い噂話を流す事に使えるが、ダビデ王は日々、人々のさばきを実際に考え、たとえ訴えに来る人が望まない結果であろうとも公平なさばきをしなくてはならないし、それだけでなく、色々な仕事も同時に抱え持っており、日々その対応に追われている。

会社や教会などの集団の中で、具体的に何か仕事をするわけでもなく、暇を持て余し、ただ上の権威の良くないうわさ話を撒き散らしつつ、自分の所に人々を引き寄せようとする人を放置させておくなら、彼の言葉はがんのように広まって、その組織をどんどん腐らせて行く。
パウロはローマの聖徒たちに、そのような人々について警告している。
『さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。』(ローマ16:17-18)

このように、アブシャロムは周到なはかりごとを巡らし、彼自身の美貌や知恵、能力を駆使して、確実にダビデを貶めようと、また、自分が王になろうと、謀った。
ダビデは、アブシャロムが何をしようと企んでいたのか、感づいていたのかどうかは分からないが、ダビデが取った対応は、やはり「放置」だった。

いずれにせよ、イスラエルという「神の領域」において王となるのは、人の能力やはかりごとに拠るものではなく、ただ神によってなるものである。
アブシャロムは、生まれ持った美貌や手練手管、知恵と能力を駆使して王になろうとした。
しかしダビデが全イスラエルの王になったのは、主が王として下さるという約束に信頼して、一切自分の手練手管を用いず、ただ主がなされるがままに委ねて、そうして王となった。
人々は、アブシャロムのような人の方が、頼りがいがありそうだ、王としてふさわしい、と考えがちだが、最終的には、ダビデのように主に信頼して自分のはかりごとを捨てる人の方が主に守られ、生き残るのである。
人々は、外見の良さや甘言に騙されやすいもので、そのように外見や甘い言葉につられてしまう人の歩みは安定に欠いている。
しかし、人間の悪だくみやはかりごとに関わらず、ただ主に信頼する人の歩みは、決して揺るがされる事はない。

子が親のものに火を放つ時(2サムエル記14:18-33)
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『そこで王はヨアブに言った、「この事を許す。行って、若者アブサロムを連れ帰るがよい」。ヨアブは地にひれ伏して拝し、王を祝福した。そしてヨアブは言った、「わが主、王よ、王がしもべの願いを許されたので、きょうしもべは、あなたの前に恵みを得たことを知りました」。そこでヨアブは立ってゲシュルに行き、アブサロムをエルサレムに連れてきた。』(2サムエル記14:21-23)
ダビデは、ヨアブに遣わされた知恵深い女によって、息子アブシャロムが放置されたままの状態にあるのは、良くない、という事を諭された。
ダビデはそれを受け入れ、アブシャロムをエルサレムに連れて来る事を許すのだが、『王は言った、「彼を自分の家に引きこもらせるがよい。わたしの顔を見てはならない」。こうしてアブサロムは自分の家に引きこもり、王の顔を見なかった。』(2サムエル記14:24)
アブシャロムと会っていない3年の間、ダビデの心はアブシャロムへと向いていた(14:1)、はずなのに、彼をエルサレムへ呼び寄せた途端、ダビデはそれとは裏腹の行動を取っている。

『さて全イスラエルのうちにアブサロムのように、美しさのためほめられた人はなかった。その足の裏から頭の頂まで彼には傷がなかった。アブサロムがその頭を刈る時、その髪の毛をはかったが、王のはかりで二百シケルあった。毎年の終りにそれを刈るのを常とした。それが重くなると、彼はそれを刈ったのである。アブサロムに三人のむすこと、タマルという名のひとりの娘が生れた。タマルは美しい女であった。』(2サムエル記14:25-27)
アブシャロムは、類を見ない魅力的な人物だった。
「足の裏から頭の頂まで」非の打ちどころが無く、また髪も豊富で、美しい娘も生まれている。

彼は外見が魅力的だけではなく、非常に有能な人物で、人の心を掴む事に長けており、正しい事を断行する勇気も、決断力も、それを実現させるための知恵も、忍耐力も、全て兼ね備えている。
そのような面を見るなら、彼は、次に王となるに申し分無い器として、人々の目に映っていたかもしれない。
ただ一点、ダビデの長男を謀殺した、という点を除くなら。

『こうしてアブサロムは満二年の間エルサレムに住んだが、王の顔を見なかった。』(2サムエル記14:28)
アブシャロムは父の近くに呼び寄せられたものの、さらに2年、放置されてしまった形になる。
ダビデがどのような心境で、どのように判断して、そのようにしたのかは記されていないため、聖書学者の間でも色々な憶測が為されているが、父親が息子を敢えて放置するなら、息子がどのように出るのか、それは容易に想像できる。

『そこでアブサロムはヨアブを王のもとにつかわそうとして、ヨアブの所に人をつかわしたが、ヨアブは彼の所にこようとはしなかった。彼は再び人をつかわしたがヨアブはこようとはしなかった。そこでアブサロムはその家来に言った、「ヨアブの畑はわたしの畑の隣にあって、そこに大麦がある。行ってそれに火を放ちなさい」。アブサロムの家来たちはその畑に火を放った。ヨアブは立ってアブサロムの家にきて彼に言った、「どうしてあなたの家来たちはわたしの畑に火を放ったのですか」。』(2サムエル記14:29-31)
ヨアブは、アブシャロムをエルサレムに引き寄せるよう取り計らった張本人であるが、どういう訳か、彼までも、アブシャロムの2度の呼びかけを放置し、彼がかつてした事とは裏腹の行動を取っている。

アブシャロムに対しては、ダビデも、ヨアブも、なぜか裏腹の行動を取る。
一体何が問題で、アブシャロムはこのようにされてしまうのか。
彼はあまりに有能過ぎる故、危険と判断されたのか、あるいは単に、父ダビデの弱さ故なのか、あるいはもっと他に理由があるのか、それらは分からない。
一つ確かな事は、親はあまりにも子を放置するなら、子から何かの形で火をつけられてしまう、という事だ。

『アブサロムはヨアブに言った、「わたしはあなたに人をつかわして、ここへ来るようにと言ったのです。あなたを王のもとにつかわし、『なんのためにわたしはゲシュルからきたのですか。なおあそこにいたならば良かったでしょうに』と言わせようとしたのです。それゆえ今わたしに王の顔を見させてください。もしわたしに罪があるなら王にわたしを殺させてください」。』(2サムエル記14:32)
ここに、アブシャロムの心の叫びが垣間見える。
アブシャロムは、ずっと父ダビデに会うことも赦されず、何のコミュニケーションも許されず、かといって何の処断も下されず、右に行っていいのか左に行っていいのか分からない状態のまま、ずっと放置されていた。
もし処罰されるべきなら、はっきり処罰してほしい、それがたとえ死刑でもかわない、とにかく、うやむやなまま放置される事だけは、我慢ならない。
それが、子供の本心である。

『むちと戒めとは知恵を与える、「わがまま(シャラーハ:追い遣る、放任する)」にさせた子はその母に恥をもたらす。』(箴言29:15)
子供と正面から向き合わず、子供が望ましくない事をしても、それに対して何も処断を下さず、ただ放置しておくとするなら、子はやがて、親に火をつけるようになってしまうのだ。

『そこでヨアブは王のもとへ行って告げたので、王はアブサロムを召しよせた。彼は王のもとにきて、王の前に地にひれ伏して拝した。王はアブサロムに口づけした。』(2サムエル記14:33)
こうして、父と子の何年ぶりかの再会が実現したというに、ただ儀礼的な挨拶をした以外は、特に記されていない。
アブシャロムが切望して来た、何年ぶりかの父との再会。
それなのにアブシャロムは、「子」として「父」とコミュニケーションが出来なかった。
妹が陵辱されて以来、感じてきた悔しさ、忍耐して来た辛さ、やってしまった事のうしろめたさ、一人放置されていた事の寂しさ、人々に理解されない事の苦しさ、そうした事を打ち明ける事が出来なかった。
あまりにも親子関係の「親しさ」が無い、ただ上下関係だけが強調された、儀礼的な挨拶だけの再会に、アブシャロムはどんなに失望しただろう。

アブシャロムはこの再会の後、父ダビデ王になんとか会って話しあおうとして来た努力の方向性を反転させ、父・ダビデに反逆し、クーデターを起こす準備をするようになってしまう。

この第二サムエル記14章は、ダビデも、ヨアブも、アブシャロムに対して、裏腹な行動ばかりを取ってきた。
人の心も営みも、移ろいゆくものであり、時に裏腹の行動を取り、時に反転するものである。

第二サムエル記13章と14章で、主は全く沈黙しており、主が何かを語られたとか、何かされたといった記事は、一切無い。
ただ人の思い図りと、裏腹さだけが記されている。それらはなんの益ももたらさず、ただ崩壊へと向かうのみである。
『人はみな草のごとく、/その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。』(1ペテロ1:24-25)

なすべき正しい事を知っているなら(2サムエル記14:1-17)
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ダビデは、彼の長男アムノンが妹のタマルを犯した事について、特に何もせず2年放置したため、タマルの兄アブシャロムがアムノンを復讐で殺してしまう事件となってしまった。
それから3年が経ち、ダビデはアブシャロムの事を「気にかけて」はいたものの、実質的には、放置状態であった。
将軍ヨアブは、この状態は良くないと、一計を案じ、テコア出身のある賢い女を喪に服しているかのように装わせ、王の元に行って「これこれの事を語りなさい」と言付けさせた。

『テコアの女は王のもとに行き、地に伏して拝し、「王よ、お助けください」と言った。王は女に言った、「どうしたのか」。女は言った、「まことにわたしは寡婦でありまして、夫は死にました。つかえめにはふたりの子どもがあり、ふたりは野で争いましたが、だれも彼らを引き分ける者がなかったので、ひとりはついに他の者を撃って殺しました。
すると全家族がつかえめに逆らい立って、『兄弟を撃ち殺した者を引き渡すがよい。われわれは彼が殺したその兄弟の命のために彼を殺そう』と言い、彼らは世継をも殺そうとしました。こうして彼らは残っているわたしの炭火を消して、わたしの夫の名をも、跡継をも、地のおもてにとどめないようにしようとしています」。』(2サムエル記14:4-7)

彼女が訴えた状況は、ダビデがその時陥っている状況にとても似ている。
ダビデの子も、一方が一方を殺し、生き残っている方が、ないがしろにされている状態だ。
元々、アブシャロムに殺されたアムノンは、律法では絶たれるべき罪を犯したのに、一切咎めなく2年も放置されたままだった。そこをアブシャロムが復讐したのだが、彼は事実上、逃亡先に追放されたままの状態だ。
ダビデはそんなアブシャロムに、何の処断も下さないまま、今度は三年も放置したままの状態である。

『王は女に言った、「家に帰りなさい。わたしはあなたのことについて命令を下します」。テコアの女は王に言った、「わが主、王よ、わたしとわたしの父の家にその罪を帰してください。どうぞ王と王の位には罪がありませんように」。』(2サムエル記14:8-9)
ダビデ王は、彼女が「こうして下さい」と具体的な訴えを言う前から、その訴え内容を察知し、家に帰りなさいと言った。
彼自身に身に覚えがあるから、彼女が訴えたい内容は分かっていたのだろう。

『王は言った、「もしあなたに何か言う者があれば、わたしの所に連れてきなさい。そうすれば、その人は重ねてあなたに触れることはないでしょう」。女は言った、「どうぞ王が、あなたの神、主をおぼえて、血の報復をする者に重ねて滅ぼすことをさせず、わたしの子の殺されることのないようにしてください」。王は言った、「主は生きておられる。あなたの子の髪の毛一筋も地に落ちることはないでしょう」。』(2サムエル記14:10-11)
ダビデ王は、兄弟を殺した彼女の息子は保護され、死ぬことはない、と約束した。
ダビデがその処断を下した時、彼女は唐突に言う。

『女は言った、「どうぞ、つかえめにひと言、わが主、王に言わせてください」。ダビデは言った、「言いなさい」。女は言った、「あなたは、それならばどうして、神の民に向かってこのような事を図られたのですか。王は今この事を言われたことによって自分を罪ある者とされています。それは王が追放された者を帰らせられないからです。』(2サムエル記14:12-13)
彼女が「王は自分を罪あるものとしている」と言った道理は、すなわち、王は彼女に「兄弟を殺した息子は保護され死ぬ事はない」と処断したのに、王自身、それを守っておらず、「王が追放された者を帰らせられない」事だ。
すなわち王は、兄弟を殺した息子アブシャロムを放置したままにしているのに、他人にそのような処断を下すのは、矛盾している、と。

『人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。』(ヤコブ4:17)
もしも、なすべき正しい事を放置したままにするなら、する程、よけいに物事を混乱させてしまう。
放置された側には、どんどん良くない感情が蓄積されて行き、さらには別の大きな罪を犯させてしまうきっかけを作ってしまう事にもなりかねない。

『わたしがこの事を王、わが主に言おうとして来たのは、わたしが民を恐れたからです。つかえめは、こう思ったのです、『王に申し上げよう。王は、はしための願いのようにしてくださるかもしれない。王は聞いてくださる。わたしとわたしの子を共に滅ぼして神の嗣業から離れさせようとする人の手から、はしためを救い出してくださるのだから』。
つかえめはまた、こう思ったのです、『王、わが主の言葉はわたしを安心させるであろう』と。それは王、わが主は神の使のように善と悪を聞きわけられるからです。どうぞあなたの神、主があなたと共におられますように」。』(2サムエル記14:15-17)

彼女はやはり知恵深い。
王よ、あなたはこれこれの悪いことを行っています、という裁く言葉で終わるのではなく、王は聞いて下さる方、王は滅んでいこうとする人を救って下さる方、王は民草を安心させて下さる方、王は神の使いのように善と悪を聞き分けられる方だから、自分は進み出て言う決心がついた、と、ダビデ王がどういう人格の持ち主であるかを突いて来て、そして最後を祝福の言葉で終えている。
私達も、目上の人に提言をする時は、このように相手がどういう良き性質を持っているかを突いて、祝福の言葉で終える知恵を身に着けたい。
そして私達が主に申し上げる時も、主がどのようなお方であるかを突く時、主はその祈りを聞いて下さる事が多い。(創世記18:25、32:9、2歴代誌20:6-9)

今回、ヨアブはこの知恵深い女を通して、ダビデが放置したままにしている事を先に進ませるよう促した。
『あなたの手に善をなす力があるならば、これをなすべき人になすことを/さし控えてはならない。あなたが物を持っている時、その隣り人に向かい、「去って、また来なさい。あす、それをあげよう」と言ってはならない。』(箴言3:27-28)
私達も、もし、為すべき正しい事を知りながら、また、その力が与えられておりながら、それを未だにしていないとするなら、今すぐ実行すべきである。

放置という対処 - いつ爆発するか分からない時限爆弾(2サムエル記13:28-39)
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ダビデ王子の兄妹間で起きてしまった姦淫事件について、親であるダビデも、加害者のアムノンも、果たされるべき責任は果たされず、指導や懲らしめも無いまま、また、被害者のタマルに対する正当な補償も手付かずのまま、二年の歳月が経った。
ダビデもアムノンも、特に何もしないままに時が過ぎ、事件の重大さは月日を追うごとに段々薄れて行ったようであるが、タマルの兄アブシャロムは、その間、沈黙を守りつつも、復讐心を心に育んでいた。
そして時が熟したと見られる時、彼は遂に行動を起こす。

『そこでアブサロムは若者たちに命じて言った、「アムノンが酒を飲んで、心楽しくなった時を見すまし、わたしがあなたがたに、『アムノンを撃て』と言う時、彼を殺しなさい。恐れることはない。わたしが命じるのではないか。雄々しくしなさい。勇ましくしなさい」。アブサロムの若者たちはアブサロムの命じたようにアムノンにおこなったので、王の子たちは皆立って、おのおのその騾馬に乗って逃げた。』(2サムエル記13:28-29)
アムノンは、自分が強姦した相手の兄・アブシャロムが主催する宴席で、酔って、上機嫌になった。
自分が陵辱した相手の兄の前で、酔って上機嫌になれるようなアムノンの神経を見ると、やはり彼は、「自分がした事」への後ろめたさは、持ちあわせていなかったのだろう。
そこを彼は刺され、殺された。
こうして、預言者ナタンを通して主が警告した通り、ダビデの家に、剣の災いと、姦淫の恥がつきまとうようになってしまった。
それは、ダビデ自身が犯した姦淫と血の罪の結果である。

『しかしダビデの兄弟シメアの子ヨナダブは言った、「わが主よ、王の子たちである若者たちがみな殺されたと、お考えになってはなりません。アムノンだけが死んだのです。これは彼がアブサロムの妹タマルをはずかしめた日から、アブサロムの命によって定められていたことなのです。それゆえ、わが主、王よ、王の子たちが皆死んだと思って、この事を心にとめられてはなりません。アムノンだけが死んだのです」。』(2サムエル記13:32-33)
このヨナタブは、アムノンに、タマルと二人きりになれる方法を入れ知恵をした、あのずる賢い男である。
つまり、彼がこれら一連の事を起こした張本人とも言える。
彼は「アムノンの友人」であると言いつつも、そのアムノンが殺されてしまった事について、動揺なく報告できる神経の持ち主であり、また、彼自身の言葉からは、自分もこの事を引き起こした事の一端を担っているというような悔悟の念が、微塵も感じられない。
『鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。』(箴言27:17)
アムノンは実に、自分の身を滅ぼす「悪い友」を持ってしまったようである。

『彼が語ることを終った時、王の子たちはきて声をあげて泣いた。王もその家来たちも皆、非常にはげしく泣いた。』(2サムエル記13:36)
ダビデ王も、王子たちも、家来たちも、心から悲しんだ事だろう。こんな罪の応酬が、王家の中で起きてしまったのだ。
第三者から見れば、アムノンのような、妹を力づくで犯すような者は、死んで然るべしと思えるかもしれないが、しかしダビデは、彼ら全員の父である。どれ程、心刺されただろう。
また、私達の父なる神様は、私達・主にある兄弟姉妹同士でいがみあい、殺し合い、はずかしめ合うとするなら、どれ程心痛められるだろう。

『しかしアブサロムはのがれて、ゲシュルの王アミホデの子タルマイのもとに行った。ダビデは日々その子のために悲しんだ。アブサロムはのがれてゲシュルに行き、三年の間そこにいた。王は心に、アブサロムに会うことを、せつに望んだ。アムノンは死んでしまい、ダビデが彼のことはあきらめていたからである。』(2サムエル記13:37-38)
アブシャロムは長男を殺した後、母の故郷ゲシュルに逃れた。ゲシュルの王タルマイはアブシャロムにとって祖父である。
ダビデはアブシャロムを心にかけており、あれから3年も過ぎた後、ダビデはアムノンの事についても慰めを得たため、彼はアブシャロムに会う事を、切に望んでいた。

アブシャロムは、ダビデにとって、大事な長男アムノンを殺した、張本人である。
しかし、アムノンはアブシャロムに殺されても仕方ない事をしたのであるし、アブシャロムの殺意を汲み取りもせず放置し放ったらかしのままにしたのは、親であるダビデである。
だから、お互い会いたいとしても、いざ会った時、自分をどういう立ち位置に置いて接して良いのか、どう話を切り出せば良いのか、互いに分からなかったのではなかろうか。
それで3年という期間、互いに何も切り出せないままの「放置の状態」だったのではないだろうか。

もしダビデがアブシャロムを呼び寄せて、長男を殺した事について懲らすとするなら、それなら、なぜアムノンは懲らさずにいて、今更アブシャロムだけ懲らすのか、と言われると、何も言えないだろう。
ダビデは、「懲らすべき事を何もせず放置したまま」という、非常にまずい対応をした故に、それによって首根っこ掴まれ、子たちにもはや何も出来ず、そのダビデの「何も出来なさ」が、今度はアブシャロムをも滅びへと導いてしまう。

面倒くさい事をすぐに対処せず、「放置」したままにする。それは楽かもしれない。
しかし放置されればされる程、その期間に沸々と育ってしまう良からぬものがあり、やがてそれが爆発するなら、取り返しの付かない悲惨な事になってしまう事が多々あるという事も、忘れてはならない。

私達も、このダビデ王家のいびつな親子関係から、学ぶべきである。
親子同士、あるいは家族同士、普段からしっかり心を通じ合わしておくべきであり、もし何かを犯したなら、すぐに懲らすべきは懲らし、責任を取らせるべきはしっかり取らせるのだ。
そうでないと、状況はどんどんいびつに、不健全になって行ってしまい、ついには取り返しの付かない事になってしまうから。

人の心は、愚かさに繋がれている。
御言葉という杖によって、それが断ち切られる。
私達は普段から御言葉によって養われ、互いに教え戒めあいつつ、愚かさを除き去り、そうして信仰の継承をしっかりして行く者でありたい。

子を懲らさない事は、子を滅びへと導く事(2サムエル記13:20-27)
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『兄アブサロムは彼女に言った、「兄アムノンがあなたと一緒にいたのか。しかし妹よ、今は黙っていなさい。彼はあなたの兄です。この事を心にとめなくてよろしい」。こうしてタマルは兄アブサロムの家に寂しく住んでいた。ダビデ王はこれらの事をことごとく聞いて、ひじょうに怒った。』(2サムエル記13:20-21)

このわずかな節から、ダビデ王が長男アムノンを普段、どのように扱って来たかが、大体想像できる。

ダビデ王は、この一連の事件を「聞いてひじょうに怒った」事は書いてあっても、その事でアムノンを懲らしたり、責任を取らせたりした記述は無い。
今回の被害者・タマルは、兄アブシャロムの家でわびしく住んでいた、という事は、ダビデは、アムノンが取るべき責任を取らせず、そのままにしていた、という事だ。
つまりアムノンは、普段から、衝動的・突発的に何かをしてしまった時も、大目に見られ、その事の責任を取らされて来なかったと想像できる。
だからあの事をたくらみ、「今回もなんとかなる」「律法にはああ書かれてあるけれど、自分はこれをしても、罰は及ばない」などと思って、事を起こしたのだろう。

確かにダビデも、律法に照らすなら、死ぬべき罪を幾つか犯している。
しかし、ダビデが赦され、生きながらえているのは、少なくとも彼は自分の罪を認め、悔い改め、そして自分が被害を与えたバテ・シェバに対しては、しっかり責任を取ったからだ。
それなのにアムノンは、お咎めなしのまま放置されてしまっている。
とするなら、それはアムノンを滅びへと至らせてしまう事だ。
『むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。』(箴言13:24)
『子を懲らすことを、さし控えてはならない、むちで彼を打っても死ぬことはない。もし、むちで彼を打つならば、その命を陰府から救うことができる。』(箴言23:13-14)
『「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。』(ヘブル12:5-7)

聖書は、子を懲らしたりむちを加える事によって、子から愚かさを削ぎ落とし、悪から救い出すようにと色々な箇所で示している。
しかし現代日本では、懲らしめはタブー視されている。
そのようにして育てられた子は、アムノンのように、激しく思うと歯止めが効かなかったり、何か事を犯しても、それを自分が責任を取る事をすっかり抜かしてしまうようになってしまうものだ。
ダビデは、アムノンを懲らしめたり、責任を負わせたりする事をしなかった。それが為に、彼を滅びと至らしめてしまう。

ダビデは、アムノンと同じような事をした過去を持っているため、うしろめたさがあったのかもしれない。それで強く言えなかったのかもしれないが、相手が自分と同じ罪を犯したなら、なおさら、経験した者としていっそう強く言うべきだった。
ダビデは、姦淫の罪を指摘された時、詩篇51編でこう告白している。
『あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。そうすればわたしは、とがを犯した者に/あなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。』(詩篇51:12-13)
彼は、もし自分を赦して下さるなら、「とがを犯した者に/あなたの道を教え」ましょう、と、この時約束している。
しかし彼はそれをしなかった。
こうして、何も取り扱われないまま、月日が過ぎていく。

『アブサロムはアムノンに良いことも悪いことも語ることをしなかった。それはアムノンがアブサロムの妹タマルをはずかしめたので、アブサロムが彼を憎んでいたからである。』(2サムエル記13:22)
タマルの兄・アブシャロムは、表向き、何もないかのように装っていたが、心はそうでななかった。
ダビデは特に何もしないまま、アムノンは平然としたまま、そして、アブシャロムは殺意の心を熟成しながら、2年の月日が過ぎて行き、そしてある日、事件が起きてしまう。

一度に強姦加害者の親、強姦被害者の親となってしまったダビデ(2サムエル記13:7-19)
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アムノンは、彼が恋い焦がれる妹のタマルと、二人きりの状況をつくり出すため、仮病を装い、妹に看護してもらいたいと、父ダビデに要望した。

そして二人きりになった時、彼は、神の国において「あってはならない事」をする。

『タマルが彼に食べさせようとして近くに持って行った時、彼はタマルを捕えて彼女に言った、「妹よ、来て、わたしと寝なさい」。タマルは言った、「いいえ、兄上よ、わたしをはずかしめてはなりません。このようなことはイスラエルでは行われません。この愚かなことをしてはなりません。わたしの恥をわたしはどこへ持って行くことができましょう。あなたはイスラエルの愚か者のひとりとなるでしょう。それゆえ、どうぞ王に話してください。王がわたしをあなたに与えないことはないでしょう」。』(2サムエル記13:11-13)
彼らは、律法を知っていた。
イスラエルの中では、兄妹同士の間は、結婚するどころか、肉体関係を持つなど、もっての外である事が書かれてある。(レビ記18章)
だからタマルは「このようなことはイスラエルでは行われません。この愚かなことをしてはなりません。」と叫んだのだ。
タマルは、王に話しましょう、王がなんとかしてくださる、と話したが、アムノンは聞かなかった。
彼もまた、これはイスラエルの中では叶わない事だと感じていたのだろう、だからこそ彼は策を弄し、人払いをして、強引に事を遂げようとしたのだ。

『アムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、タマルよりも強かったので、タマルをはずかしめてこれと共に寝た。』(2サムエル記13:14)

アムノンは力づくで事を為してしまった。
彼の父・ダビデも、同じように、王権というパワーを用いて、交わってはならない人妻と、事を為した過去がある。
交わってはならない女性に激しい欲情を抱き、力づくで、強引に、その欲求を捌けさせる。
皮肉にも、父ダビデがした罪をそのまま息子が為し、そして、ダビデの娘は強姦の被害者となった。
子供は親の背中を見て育つ。
良い事も悪い事も、親がした事を、子は見習ってするものだ。

『それからアムノンは、ひじょうに深くタマルを憎むようになった。彼女を憎む憎しみは、彼女を恋した恋よりも大きかった。アムノンは彼女に言った、「立って、行きなさい」。』(2サムエル記13:15)
結局これが、彼がずっと抱いていた「恋心」の正体である。
それは「これが欲しい」「あれが欲しい」「何をしてでも手に入れたい」といった、ただの「激しい情欲」だったのだ。
『欺き取ったパンはおいしい、しかし後にはその口は砂利で満たされる。』(箴言20:17)
禁断の木の実をこっそり食べる時、それは甘美な味かどうかは分からないが、一つはっきりしている事は、それは口にした途端「じゃり」に変わり、神経に触るような苦々しい思いに満たされ、取り返しがつかなくなるものである。

『タマルはアムノンに言った、「いいえ、兄上よ、わたしを返すことは、あなたがさきにわたしになさった事よりも大きい悪です」。しかしアムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、彼に仕えている若者を呼んで言った、「この女をわたしの所から外におくり出し、そのあとに戸を閉ざすがよい」。』(2サムエル記13:16)
アムノンは、ただ一度きり、ほんの数分で終わる「欲情の発散」を遂げるため、彼女の一生を台無しにし、そして事を為し終えたら、彼女を捨て去った。
それもまた当然、神の国においては、重大な違反である。

聖書において、肉体関係を結んで良いのは、唯一、結婚相手に対してのみであり、そして結婚とは、相手の伴侶に対し、自分を”唯一の異性”としてコミットする事である。
すなわち、女性は相手の男性に唯一専属的な「女性」となり、男性は相手の女性に唯一専属的な「男性」となり、相手以外に「性」は開放しないのだ。
この聖書の価値観は、以下に定められている律法からにじみ出ている。

『男が、人と婚約した女に野で会い、その女を捕えてこれを犯したならば、その男だけを殺さなければならない。その女には何もしてはならない。女には死にあたる罪がない。人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件だからである。これは男が野で女に会ったので、人と婚約したその女が叫んだけれども、救う者がなかったのである。』(申命記22:25-27)
このような強姦事件の場合は、「人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件」に相当すると言われている。
つまり、男が力づくで女性を犯す行為は、その女性を殺したも同然の行為であり、その女性の貞潔や人格、将来を殺すばかりでなく、その女性がコミットした相手の心をも、ぐちゃぐちゃに踏みにじる行為なのだ。

そしてまた、婚約前の状態で肉体関係を持ったとするなら、死刑ではなく、一生涯、相手に対しコミットする責任が生じる。
『まだ人と婚約しない処女である女に、男が会い、これを捕えて犯し、ふたりが見つけられたならば、女を犯した男は女の父に銀五十シケルを与えて、女を自分の妻としなければならない。彼はその女をはずかしめたゆえに、一生その女を出すことはできない。』(申命記22:28-29)

アムノンはようするに、律法に照らすなら、死刑に当たる罪を幾つも犯したわけである。
それを自分は王の長男だという事で、何事も特に罰されないまま、のうのうと暮らしている。
しかし、義が行われる神の国においては、そのまま何事も無く過ごせるという事は無い。

『この時、タマルは長そでの着物を着ていた。昔、王の姫たちの処女である者はこのような着物を着たからである。アムノンのしもべは彼女を外に出して、そのあとに戸を閉ざした。タマルは灰を頭にかぶり、着ていた長そでの着物を裂き、手を頭にのせて、叫びながら去って行った。』(2サムエル記13:18-19)
当時のイスラエルで「長そでの着物」は、日本の「振袖」のように、未婚の処女が着るものである。
彼女はその袖を裂き、泣き叫びながら出て行った。
もはや彼女は、アムノンの一方的な陵辱の故に、処女ではなくなってしまい、一生、ひっそり暮らしていかなくてはならないと絶望したからだ。

こうしてダビデは、強姦被害者の親、強姦加害者の親、近親相姦が起きた家の親、という、実に恥ずかしい立場になってしまった。
ダビデ王の家の中で、このような忌ま忌ましい罪が行われてしまう・・・。いかに栄光の王族の家といえども、肉欲に燃料投下し罪を放置しておくなら、その真っ只中でも忌ま忌ましい事が行われるものだ。
だから私達は、日々霊的に目を覚まして、誰も罪に陥ることが無いよう、聖徒の交わりにおいて互いに励まし合い戒め合う必要があるのだ。
『あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。』(ヘブル3:13)

遂げてはならない欲情が沸き起こる時(2サムエル記13:1-6)
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ダビデは、家の中から災いが湧き起こる事を、主から警告されていた。(12:11)
なぜなら「姦淫」という罪はいのちへの冒涜であり、家系や子孫などの「いのち」から反撃を受けるものだからだ。

『さてダビデの子アブサロムには名をタマルという美しい妹があったが、その後ダビデの子アムノンはこれを恋した。』(2サムエル記13:1)
アムノンも、アブシャロムも、ダビデがヘブロンで王だった時に生まれた子達である。
アムノンはダビデに最初に生まれた「長男」であるため、王位継承の筆頭者ではあったが、彼は良い信仰の持ち主ではなかった。

彼は異母の妹であるタマルに恋をした。
近親者との結婚は、神の民の中では「あってはならない」事である。(レビ記18章)
してはならない事、叶わない事であるなら、その欲求が沸き起こった初期の段階で、思いと意思、感情をコントロールしておけば、何でもなかったが、彼はそれをコントロールせず、情の流されるままに思い巡らし、それを募らせてしまった。

してはならない事への欲情が沸き起こった時、その事を思い巡らす事は、その欲情に対し燃料を投下する事であり、ますます燃え上がって、やがて手がつけられなくなってしまう。
若者が、叶えてはならぬ欲情に焦がれてしまう時、それを消火するために、シンプルかつ強力な方法がある。
それは、御言葉を暗記する事によって、である。
『若い人はどうしておのが道を/清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。』(詩篇119:9)

実際、謂れのない強烈な情欲や、自己嫌悪感、深い悲しみなど、あらゆる負の思いが来た時、試てみると良い。
箴言のどこかを2,3節も暗記(あるいは暗記する努力)をするなら、その僅かな時間で、そのような思いは消えて無くなる事を体験するだろう。
実際、天声教会の80%以上の聖徒たちはテフィリンを実践し、それによって頭脳が活性化し、どうしようもない傷や性質が改善され、人格も品性も整えられている事を、日々実感している。
(御言葉教育「テフィリン」の効用について: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=2463&cid=3  http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=2493&cid=3

『アムノンは妹タマルのために悩んでついにわずらった。それはタマルが処女であって、アムノンは彼女に何事もすることができないと思ったからである。』(2サムエル記13:2)
アムノンが悩んでわずらった理由は、彼女は「処女であって、何事もすることができない」点だった。
つまりアムノンの望みは、処女である彼女に、何事かをしたい、けれども、御言葉を恐れ敬う周囲の環境ゆえに、自分にはそれができない、そのようなジレンマを抱えていたのだ。
アムノンにとって、自分の肉欲のほうが御言葉よりも主人であり、御言葉は彼にとって「足かせ」以外の何者でもなかった。
自分の思いや意思、感情を御言葉の前に平服させるのが神の民のたしなみであるが、彼はそのたしなみを持っていなかった。

肉と御霊、どちらを主人とし、どちらに仕えるか。それによって、いのちを刈り取るか、それとも死を刈り取るかが決まってしまう。
『自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』(ガラテヤ6:8)

『ところがアムノンにはひとりの友だちがあった。名をヨナダブといい、ダビデの兄弟シメアの子である。ヨナダブはひじょうに賢い人であった。彼はアムノンに言った、「王子よ、あなたは、どうして朝ごとに、そんなにやせ衰えるのですか。わたしに話さないのですか」。アムノンは彼に言った、「わたしは兄弟アブサロムの妹タマルを恋しているのです」。』(2サムエル記13:3-4)
心の思い悩みを何でも打ち明けられる友人を、人は「貴重」「何よりの宝」と言うかもしれない。
しかし、友人関係の平和さを重視するあまり、聞き心地は良くても、御言葉には反するアドバイスをするとするなら、それがかえって滅びの元となってしまう。
『あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる。愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである。』(箴言27:5-6)
事実、この友人の「全く御言葉に基づかない助言」が、アムノンを滅ぼしてしまう事になる。

『ヨナダブは彼に言った、「あなたは病と偽り、寝床に横たわって、あなたの父がきてあなたを見るとき彼に言いなさい、『どうぞ、わたしの妹タマルをこさせ、わたしの所に食物を運ばせてください。そして彼女がわたしの目の前で食物をととのえ、彼女の手からわたしが食べることのできるようにさせてください』」。』(2サムエル記13:5)
賢い彼がした助言は、単なる「彼女とふたりきりになれる妙案」だった。
彼は、アムノンの劣情を遂げさせようとしてこの提案をしたのかどうかは分からないが、ある女性に対して情欲を持った男を、その女性と二人きりにさせるのは、決して良い助言ではない。

神の国に属する人が、結婚してはならないような相手を欲しがり、妙案と力づくでものにしてしまうのは、滅びの元である。
ノアの洪水は、神の子達が、人の娘たちのいかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで妻とした事が発端だった。
それによって生まれた者達が、力づくの原理で地上に悪を増大させ、心に計る事がみな悪に傾くようになってしまったため、人の寿命は引き下げられ、ひいては、大洪水が引き起こさ、その世代の者達は滅びてしまった。(創世記6章)
ダビデも、結婚してはならない女性に欲情をいだき、権力で「もの」にしたが、彼はそれを悔い改めた事によって、死は免れた。
しかし、その罪の刈り取りは、子孫の中にはびこってしまう事になる。

遂げてはならない欲情への対処方法は、ただ、御言葉を摂り入れる事によってである。
私達は努めてそれを実行し、自分の家系に、罪や呪いの入り込む余地が無いようにしたい。

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