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バテ・シェバを慰めるダビデ(2サムエル記12:24-31)
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ダビデは姦淫の罪を犯した故に、これからその報いを受けて行かなくてはならないが、主に罪を指摘された以降のダビデは、正面からそれと向き合っていく。
『ダビデは妻バテシバを慰め、彼女の所にはいって、彼女と共に寝たので、彼女は男の子を産んだ。』(2サムエル記12:24)
ダビデはバテ・シェバを通して苦い経験をしたが、それで彼女を捨て去ったり疎んじたりする事はなく、しっかり彼女を慰めた。
何しろ彼女は、ただ一方的に、ダビデの罪故に災難に引き込まれたのだから。
彼女は、体を洗っている所を勝手にダビデ王に見られ、勝手に情欲を抱かれ、一方的に呼び出され、姦淫の相手とされ、夫ウリヤは謀殺され、ただ一方的に王の妻とされた。
そして生まれて来た子は、王の罪の故に死んでしまった。
そんな目に遭わせた彼女を疎んじるなど、御前においてとんでもない事だ。
ダビデは彼女を、根気よく慰める責任がある。
『ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。そして預言者ナタンをつかわし、命じてその名をエデデア(「主に愛された」の意味)と呼ばせられた。』(2サムエル記12:25)
世界的に有名な、あの知恵に満ちた王・ソロモン王は、このようにして生まれた。
ところでソロモンは、かの事件の後、すぐに生まれたわけではない。
彼は4男であり、彼が生まれるに至るまで、色々な紆余曲折があったようである。
『エルサレムで生れたものは次のとおりである。すなわちシメア、ショバブ、ナタン、ソロモン。この四人はアンミエルの娘バテシュアから生れた。』(1歴代誌3:5)
ダビデとバテ・シェバとの間に生まれた最初の子・シメアは、ダビデの罪ゆえに主に打たれて死んでしまった。
シメアの名の意味は「聞く、うわさ」であり、彼が生まれた時、ダビデの姦淫やウリヤ謀殺について、色々なうわさ話が聞かれていたのかもしれない。
次男ショバブの名は「堕落する、反逆的な、手に負えない」という意味である。
バテ・シェバの、その時のダビデに対する態度がそうだったかもしれないし、あるいは、子は母の胎にいる時、母の状況や精神状態に影響を受けやすいものであるが、そのため子が反逆的で手に負えなくなってしまったのかもしれない。
また、3男ナタンの名は「与えられる、置かれる」という意味である。
ダビデとバテ・シェバとの間に、段々落ち着きが与えられて行ったのだろう。
そして4男、ソロモンは「平和」という意味である。
ようやく平和な心で子が生まれた事を喜び祝い、平和の子となったのかもしれない。
『さてヨアブはアンモンの人々のラバを攻めて王の町を取った。ヨアブは使者をダビデにつかわして言った、「わたしはラバを攻めて水の町を取りました。あなたは今、残りの民を集め、この町に向かって陣をしき、これを取りなさい。わたしがこの町を取って、人がわたしの名をもって、これを呼ぶようにならないためです」。そこでダビデは民をことごとく集めてラバへ行き、攻めてこれを取った。』(2サムエル記12:26-29)
元々、アンモン人との戦いが発生した時から、ダビデの怠慢がはじまり、そうして一連の事件が起きたのであるが、その間、ヨアブの活躍によって、戦いは大体の収束をつけてきた。
そしてダビデは、ヨアブの促しによって、戦いの指揮をとる立場へと戻り、勝利し、こうしてアンモンは平定された。
このように外敵は平定されたものの、次章以降、ダビデは外敵ではなく身内から、すなわち、子と子の間の問題で、苦々しい経験をしていく事となる。
姦淫は、産んで増えて行く「いのち」に対する冒涜であり、姦淫をする人は、生まれてくる子や身内の「いのち」から災いを返されてしまうものだ。
ダビデ王のバテ・シェバとの馴れ初めは、最悪に類するものだが、主は、人のそのような「最悪」を「最善」へと造り替える事ができるお方であり、彼らの間に生まれた子を用いて、主は、全人類救済のご計画を遂行していく。
罪を犯した男女の、いのちが呪われてしまった歩み。それはエデンの園以降、全人類に重くのしかかるものであるが、ダビデがバテ・シェバを根気よく慰め続けたように、人がいのちを大切にし営んで行く所なら、主はそこから救いのご計画を遂行されて行くのだ。
罪のない人が死ぬ代わりに、罪人が生かされる(2サムエル記12:15-23)
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- 執筆 :
- pastor 2015-8-28 23:40
罪のない人が死ぬ代わりに、罪人が生かされる(2サムエル記12:15-23)
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ダビデは自分の罪を主に認めたゆえ、主は彼の罪を見過ごしにして下さったため、彼は主に打たれて死ぬ事や聖霊が取り上げられたりする事からは免れたが、彼の犯した罪の報いは、彼自身が刈り取る事になる。
『さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。ダビデはその子のために神に嘆願した。すなわちダビデは断食して、へやにはいり終夜地に伏した。ダビデの家の長老たちは、彼のかたわらに立って彼を地から起そうとしたが、彼は起きようとはせず、また彼らと一緒に食事をしなかった。』(2サムエル記12:15-17)
主がダビデに言われた通り、その子に、死の兆候が現れる。
生まれたばかりの自分の子が、死の苦しみに遭っている様を見るのはとても辛い事であるが、ダビデはそれ以上に辛い事情がある。
本来、死の苦しみを受けるべきは、罪を犯した「自分」のはずなのに、その自分はぴんぴんしていて、その代わりに何もしていない自分の子が死の苦しみを味わっているのだ。
ダビデの辛さは、どれ程だっただろう。
彼は、自分が犯した罪の大きさを思い知り、苦しんだだろう。
それで彼は、必死に主のあわれみにすがり求めたのだが、結局祈りは聞かれず、その子は七日後、死んでしまった。
『罪の支払う報酬は死である。』(ローマ6:23前半)
姦淫の罪の報いは死であり(申命記22:24)、また、目には目、歯には歯、という事は、ダビデが無実の人を剣で殺したからには、剣によって撃たれるのが正当だ。
主の敵・サタンが大いにあなどり、ダビデを訴えるとするなら、残念ながら、サタンの訴えは理にかなってしまっている。
かと言って、主がこのダビデの罪をそのまま過ごしにするなら、主の「義」が立たなくなってしまう。
一体どうして、ダビデは生かされるのだろうか。
それは、罪なき命の、身代わりの死によって、である。
私達もそうだ。
本来、私達が犯した罪の刑罰を受け、死ななくてはならない罪人のはずである。
しかし、その私達が罪赦され生かされるとするなら、それは、神の一方的な贈り物の故だ。
その「贈り物」とは、すなわち、罪なきお方・生ける神の御子イエス・キリストである。
彼の身代わりの死によって、私達は生かされた。
そういう訳で、以下のように書かれてある。
『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。』(ローマ6:23)
『七日目にその子は死んだ。ダビデの家来たちはその子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。それは彼らが、「見よ、子のなお生きている間に、われわれが彼に語ったのに彼はその言葉を聞きいれなかった。どうして彼にその子の死んだことを告げることができようか。彼は自らを害するかも知れない」と思ったからである。しかしダビデは、家来たちが互にささやき合うのを見て、その子の死んだのを悟り、家来たちに言った、「子は死んだのか」。彼らは言った、「死なれました」。』(2サムエル記12:18-19)
家来たちは、思っただろう。
7日も断食して祈り続ける程、熱情的に懇願していたのに、それが叶わずに、子が死んでしまった。彼はその熱情を一体どこに持っていくだろう?
悲しみのあまり後を追っおうとするだろうか。それとも「神様ひどい」とばかりに自暴自棄になるだろうか。色々思い巡らしたかもしれない。
しかしダビデは、彼らの想像を超えた行動を取った。
『そこで、ダビデは地から起き上がり、身を洗い、油をぬり、その着物を替えて、主の家にはいって拝した。そののち自分の家に行き、求めて自分のために食物を備えさせて食べた。』(2サムエル記12:20)
彼は、それまでの熱情的な祈りと断食を一切止めた。
そして真っ先にした事は、身をきれいにし、主の家に入って、礼拝した事だった。
もし、子が死んだと悟ったとたん、何日ぶりかで身体を洗えるとか、何日ぶりかで食べられるといった事に、真っ先に飛びついたとしたら、彼は本当は冷酷で、子を愛していたのではなく、ただのパフォーマンスで断食や祈りをしていたに過ぎない。
また、もしダビデが「こんな事をした主はひどい」と言って主を恨んでいたなら、彼は身を清めて礼拝するなど、しなかっただろう。
しかしそうではない。
彼は真っ先に、主の前に出て、礼拝したのだ。
彼は、自分のした悪と、それに対して主がなさった事を100%受け入れ、同意したからこそ、主の御前に身を清め、礼拝を捧げ、もはや自分の願いや執着は捨て去ったのだ。
これこそ、神の民が取るべき主への従順である。
イエス様も、ゲツセマネの園で、「この杯(十字架)を過ぎ去らせて下さい」と血の汗を流す程、必死に祈った。
しかし、御父の御旨はイエス様が十字架に架かられる事だと示された時、イエス様はそれを100%受け入れ、堂々と十字架へと歩んで行った。
私達もダビデやイエス様にならい、主の御心が示されたなら、それがどんな道であれ、従順して歩むべきなのだ。
イエス様は私達の身代わりになって死んで下さった。そして、よみがえって下さった。
それ故、私達もダビデのように、主のなさる事に同意し、全て自分の願いや執着を主の前に捨て、身を清めて礼拝し、正しく食事をとり、イエス様に生かされた命を感謝しつつ、正当に生て行くべきなのだ。
犯してしまった罪の刈り取り(2サムエル記12:7-14)
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『ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、』(2サムエル記12:7)
ダビデは、主に見放されたサウル王がどんな悲惨な軌跡を辿ったのかを見ていたので、預言者から「あなたがその人です」と言われた時、冷水を浴びせられたようにぞっとしただろう。
主がどのようなお方であるかを理解しているならしている程、主の怒りを買う事がいかに恐ろしいかを知っており、自分がそのような状態にある時、心落ち着かないものだ。
主に扱っていただくべき罪や弱さ、至らなさを、いつまでも放置して呻いたまま何ヶ月も何年も過ごすのは、不健康であり、速やかに御前に出て取り扱っていただくべきだ。
『どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。』(2サムエル記12:9)
もし御言葉に記されている事(例えば、姦淫をしてはならない、殺してはならないという記述)を知りながら、それでもそれを犯すとするなら、御言葉なる主を軽んじ、御言葉なる主の目の前で悪を行っているものである。
警察官を目の前にするなら、誰も万引きはしないであろうが、そのようなレベルの問題ではなく、主のことばによって造られたこの世界の中で、主のことばによって造られた私達は、決して、神の臨在から離れる事は出来ないのものであり、例えば、アダムとエバがいちじくの葉で腰を覆ったり木陰に隠れたりする事は、全く無意味な事なのだ。
『あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。』(2サムエル記12:9-10)
ダビデは「剣」を用いて罪なき人の血を流した。
それ故今後、剣による災いに悩まされる事になる。
事実、ダビデから生まれた子の内、3人は剣で殺されてしまう。またダビデ自身、将来、剣から逃れなくてはならなくなってしまう。
『主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。』(2サムエル記12:11-12)
ダビデはもうひとつ、姦淫という罪を犯した。
それ故、彼は姦淫で「はずかしめられる側」となり、事実この言葉の通り、ダビデの娘タマルは異母兄弟によって辱められ、ダビデの側女もダビデの子アブシャロムによって、白昼公然と辱められてしまう。
『ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。』(2サムエル記12:13)
ダビデはこの時、王の権威をふるって、耳に痛い事を言う預言者を殺す事もできたであろうが(実際、歴代の王達は預言者を迫害し殺した者も多くいた)、ダビデはそれをせず、正直に罪を認めた。
主は確かにダビデの罪を見過ごして下さった。
しかし、犯罪を犯した人は相応の服役をしなくてはならないように、彼が行った事の報いは、彼自身が受けなくてははらない。
『しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。』(2サムエル記12:14)
ダビデが犯した「姦淫」は、いのちの誕生への冒涜行為であり、剣によって罪なき人を殺害するという罪もした。
それ故、ダビデ自身は報いを受けなかったが、彼が産んだいのちが、その報いを受ける事になってしまった。
ダビデは、自分の罪の故に死ぬのではなく、罪を背負い、報いを刈り取りつつ生きなくてはならなくなった。
罪の刈り取りは、必ずある。しかし主は、人が一度罪を犯せば罰の中に永遠に閉じ込めたままにされるお方ではない。
懲らしめられて悔い、主に帰ろうとする人を、主は憐れまずにはいられない。(エレ31:18-22)
あなたがその男です(2サムエル記12:1-7a)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)
前章では、ダビデが今までして来た素晴らしい功績や栄誉を、まるでひっくり返してしまうような、罪深い有り様を見た。
ダビデがした悪は、うまく隠しおおせたかのように見えたが、主は全てを見ておられ、その指摘と報いとをされる。
『主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。』(2サムエル記12:1)
預言者ナタンはかつて、ダビデに永遠に続く家を建てる、という主の言葉を伝えたが、今回、ダビデの隠れた罪を指摘しに来た。
『「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。』(2サムエル記12:1-3)
この話中に出てくる富んでいる人は、ダビデの事を指し、貧しい人とその羊は、ヘテ人ウリヤとその妻バテ・シェバを指している。
この話中の、貧しい人の有り様から、バテ・シェバはウリヤと結婚して以来、彼と一緒の器から食物を食べ、一緒の器から飲み、彼の懐で寝て、とても慕わしく過ごしていた様子が伺える。
ウリヤは元々、イスラエルが忌むべき異邦の民・カナンのヘテ人であったのに、まことの神・主に立ち返り、イスラエルの民に加えられ、彼の純粋な信仰と誠実さと、そして、戦士としての有能さの故に、ダビデの三十勇士の一人に数えられた。
以前は暗闇の民であったのに、今は神の民とされ、与えられた恵みの日々に喜びつつ、愛する妻と共に日々を送っていただろう。
しかし、その幸いな日々は、ダビデ王によってある日突然奪われてしまう。
『時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた「人(イシュ:男)」のために調理した」。』(2サムエル記12:4)
ここで「旅人」と訳されているヘブライ語は「ヘイレフ」、流れる、あるいは旅人の意味であり、また、話中ではこの旅人は「男性」である。
ダビデに流れ来た「男の性欲」という旅人を満足させるため、ダビデは、自分の所に大勢いる妻からは取らず、誠実なウリヤが唯一大切にしている妻、バテ・シェバを取って、ダビデの「男の性欲」を満足させた。
ダビデは、この事を隠れて行ったが、覆われているもので露わにされないものは無い。(ルカ12:2-3)
『ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。』(2サムエル記12:5-6)
ダビデは話中の金持ちに、激しく怒り、死刑宣告をし、なおかつ、四倍にして償いをしなくてはならないと宣告した。
律法には、羊一頭を盗んだ場合、四倍にして償うよう記されてはいるが、死刑にせよ、とまでは書いていない。(出エジプト記22:1)
ダビデは、この喩えが自分に向けて語られた事に気付いていなかったように、人はそれ程、自分が神と人との前に犯してきた罪の数々を覚えておらず、それでいて、他人の犯した罪をよく覚えており、その裁きを、主の基準よりも厳しくし、そうして自分自身を罪に定めてしまうのだ。
『だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。』(ローマ2:1-3)
人はなぜか、なんとなく思っている。
「自分は、さばきを免れる」と。
それでいて他人の罪はありありと覚えていて、「さばき主」の立場に立ち、相手への仕返しや報いは、大げさに増し加えようとするものだ。
『それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。』(ローマ2:4-6)
主は、私達が罪を告白し、悔い改め、主に立ち返って救われる事を願っておられる。
悔い改めるなら、神の豊かな慈愛と寛容によって赦してもらえる。
しかし、主に罪を指摘されても悔い改めず、サウル王のように言い訳したり、力づくで自分の罪を覆い隠そうとしたり、あるいは歴代の王たちがしたように、神から遣わされた預言者を迫害したり、抹殺するなら、その人はさばきの厳しさを増し加えるための燃料を、さらに積み上げているのだ。
ダビデに預言者ナタンが遣わされた時、ダビデは悔い改めた。
だから、彼は今も偉大な王として、その栄誉が語り継がれているのだ。
私達にも、罪が指摘された時、悔い改めの道と、自分の好き勝手な道を貫き通す事と、どちらを選ぶだろうか。
権力者によって流されて来た血と涙とを覚えておられる主(2サムエル記11:16-27)
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- pastor 2015-8-21 23:50
権力者によって流されて来た血と涙とを覚えておられる主(2サムエル記11:16-27)
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ヨアブが「ウリヤを謀殺せよ」というダビデの手紙を受けた時、彼は特に詮索したり戒めたりする事なく、命令をそのまま実行する。
ヨアブもかつてアブネルを剣で謀殺したので、そのようなはかりごとに対する拒否反応は無かったのだろう。
『ヨアブは町を囲んでいたので、勇士たちがいると知っていた場所にウリヤを置いた。町の人々が出てきてヨアブと戦ったので、民のうち、ダビデの家来たちにも、倒れるものがあり、ヘテびとウリヤも死んだ。』(2サムエル記11:16-17)
あの罪なき誠実な戦士・ウリヤは、死んでしまった。
ウリヤだけでなく、ダビデの家来達の中からも、何名か倒れる者があった。
直接手をかけたのはアモン人であるが、ダビデが指示し、敵の手を利用して、殺させたのだ。
剣を用いる者には剣がつきまとい、罠を張る者は、やがて、自らが張った罠にかかってしまう。
『ヨアブはその使者に命じて言った、「あなたが戦いのことをつぶさに王に語り終ったとき、もし王が怒りを起して、『あなたがたはなぜ戦おうとしてそんなに町に近づいたのか。彼らが城壁の上から射るのを知らなかったのか。』(2サムエル記11:19-20)
ヨアブは、あらかじめダビデが言いそうな事に対してアドバイスをしている。
イスラエルの軍は、敵の城壁に接近し過ぎる事は、禁じ手だった。
その理由は、以下の事があったからだ。
『エルベセテの子アビメレクを撃ったのはだれか。ひとりの女が城壁の上から石うすの上石を投げて彼をテベツで殺したのではなかったか。あなたがたはなぜそんなに城壁に近づいたのか』と言われたならば、その時あなたは、『あなたのしもべ、ヘテびとウリヤもまた死にました』と言いなさい」。』(2サムエル記11:21)
これは士師の時代、エルベセテ(=エルバアル=ギデオン)の子・アビメレクが、敵の城壁に近づいて火をつけている所を、一人の女が彼に石臼を投げ落として頭蓋を割り、それで殺された事に由来する。(士師記9章)
ダビデ自身、戦士であり、聖書にも通じていたので、聖書の記述やイスラエルの歴史を元に、戦いの時はこうしなさい、これはしてはいけない、と、常々指示していたのだろう。
それで、「城壁に近づき過ぎると危険だ」という戦訓は、全兵士が知っている基本中の基本だったのだろう。
聖書の記述を元にして、普段から戦訓や教訓を部下に徹底させる点、ダビデは偉大であるが、今回彼がした事は、決して偉大とは言えない。
『こうして使者は行き、ダビデのもとにきて、ヨアブが言いつかわしたことをことごとく告げた。使者はダビデに言った、「敵はわれわれよりも有利な位置を占め、出てきてわれわれを野で攻めましたが、われわれは町の入口まで彼らを追い返しました。その時、射手どもは城壁からあなたの家来たちを射ましたので、王の家来のある者は死に、また、あなたの家来ヘテびとウリヤも死にました」。』(2サムエル記11:22-24)
この報告から、ウリヤが死んだ時の様子を伺う事ができる。
敵は、城壁の町から出て来て野に出てきた所を、ヨアブたちは迎え打ち、そこで敵が後退して城壁の中に入ろうとした時、ヨアブはウリヤに追い打ちをかけるよう命令し、彼らが城門に近づいた所を、弓で射掛けられてしまい、それでウリヤは討ち死にして、こうして全て、ヨアブの手はず通りに運んだのだろう。
ヨアブは、このようなはかりごとを巡らす点においてはとても聡いが、そのような彼の死に際は、決して平和なものではない。(1列王記2章)
『ダビデは使者に言った、「あなたはヨアブにこう言いなさい、『この事で心配することはない。つるぎはこれをも彼をも同じく滅ぼすからである。強く町を攻めて戦い、それを攻め落しなさい』と。そしてヨアブを励ましなさい」。』(2サムエル記11:25)
ダビデは、ヨアブが予期した通りに責める事はせしなかった。かえって、「励ましなさい」と伝えた。
ダビデは、ウリヤの死を聞いて、ほっとしただろうか。
自分のした悪が公になる事を防げて、ほっとした気持ちもあっただろう。
しかし、それ以上に、罪の責め苦の嵐が吹き荒れていたのではないだろうか。
なぜなら、彼の罪が全て明らかにされた時、彼は『わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。』(詩篇51:3) と、後になって告白している。
また彼は、詩篇32編で次のように書いている。
『わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。
わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。』(詩篇32:3-5)
ダビデは、罪を犯した事を黙っていた時、苦しみ、うめいたようである。
罪を隠し黙っている時、主の御手が重くのりかかり、骨が疲れ果てるような、夏の日照りで渇ききるような変調を、心にも、そして体にも来らせてしまうのだ。
しかし、主に罪を認めそれを告白する時、罪の代価は支払わねばならないが、それらの責め苦からは解き放たれ楽になるのだ。
『ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために悲しんだ。その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。』(2サムエル記11:26-28)
ダビデは一時、面目を保てたかもしれない。
その罪はうまく隠しおおせて、これから後、覚えられる事は無いと思ったかもしれない。
しかし主は、一人の義人の不当に流された血を覚えておられ、また、それによって流された全ての涙も、覚えておられる。
主は、ウリヤの死とその妻の涙が忘却の闇へと葬り去られて行く事を、許さない。
主は、不当に虐げられ助けを求める人達には救いであるが、彼らを不当に虐げる側にとっては、恐ろしい主である。
ウリヤ。それは、主の光という名である。
主の光がダビデの闇をあばき、そしてこの事は容赦なく明るみに出され、永遠の書物に記され、新約聖書の最初の章・イエス・キリストの系図には堂々と「ウリヤの妻」の表記が記されている。
王が人妻と寝て、その夫を謀殺する。
それは世では決して珍しい事ではなく、あたかも当たり前のように公然と行われ、それで幾多の人々の命と涙が、闇の中へと葬り去られているかのように見えるが、主は、それら一つ一つの流されてきた血潮と、涙とを、覚えておられる。
さばきは、神の家から始まる。だからダビデは、他のどの王も当然しているかのような事でも、真っ先に光を当てられ、「さばかれた」のだ。
そして実は、王や権力者がその力を利用して強奪するあらゆる搾取についても、ただ、さばきが遅らされているだけで、やがては主の正当な主のさばきが行使されるのだ。
ウリヤという主の光に照らされて(2サムエル記11:6-15)
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ウリヤの妻と寝たダビデは、その後、彼女を身ごもらせたという事を聞いた。彼はそれを隠蔽する工作に出る。
『そこでダビデはヨアブに、「ヘテびとウリヤをわたしの所につかわせ」と言ってやったので、ヨアブはウリヤをダビデの所につかわした。ウリヤがダビデの所にきたので、ダビデは、ヨアブはどうしているか、民はどうしているか、戦いはうまくいっているかとたずねた。そしてダビデはウリヤに言った、「あなたの家に行って、足を洗いなさい」。ウリヤは王の家を出ていったが、王の贈り物が彼の後に従った。』(2サムエル記11:6-8)
ダビデがウリヤを呼び寄せたのは、彼を、妻が待っている家に帰らせて「妻と寝る」事をさせるためである。
そうすれば、妻が身ごもっている事のつじつまがあい、ダビデとウリヤの妻の情事を、闇に葬る事が出来るからだ。
ウリヤ以外の兵士たちにとって、ダビデがウリヤを呼び出した事は、うらやましがられる事だったろう。
危険な戦線を離れ、王に直接戦況報告をする栄誉が与えられ、そして、妻が待っている家に帰って一緒の時を楽しめるのだから。
戦いの現場から久しぶりに妻の所へ帰った兵士は、当然、妻と愛の交わりをするだろう、、、ダビデはそう目論んだのだが、なんとウリヤは、それをしなかった。
『ウリヤはダビデに言った、「神の箱も、イスラエルも、ユダも、小屋の中に住み、わたしの主人ヨアブと、わが主君の家来たちが野のおもてに陣を取っているのに、わたしはどうして家に帰って食い飲みし、妻と寝ることができましょう。あなたは生きておられます。あなたの魂は生きています。わたしはこの事をいたしません」。』(2サムエル記11:11)
彼はなんと誠実な人だろうか!
同志達も上官も、そして、イスラエルの神・主も、戦いに出て野営している。
それなのに、自分だけ家に帰って妻と楽しむ事など、イスラエルの王であるあなたの前には、決してできない、と言うのだ。
それに引き換え、ダビデ王は一体、何をしたのだろうか。快適な王宮で昼寝をするにおいても、女と情事を楽しむにおいても、ウリヤとは全く逆の事をしていたではないか。
ダビデは、ウリヤ(主の光)が、眩しくて仕方なかったに違いない。
『ダビデはウリヤに言った、「きょうも、ここにとどまりなさい。わたしはあす、あなたを去らせましょう」。そこでウリヤはその日と次の日エルサレムにとどまった。ダビデは彼を招いて自分の前で食い飲みさせ、彼を酔わせた。夕暮になって彼は出ていって、その床に、主君の家来たちと共に寝た。そして自分の家には下って行かなかった。』(2サムエル記11:12-13)
ダビデは今度は、ウリヤを、ダビデの目の前で飲ませ、酔わせた。
もしかすると、”綺麗事”を言っている彼も、酒に酔ったなら、我慢する心を手放して、家に帰り、妻と寝るかもしれない、と思ったのであろう。
しかしウリヤは、酒を飲まされても、主と主君とに対する忠誠を失わなかった。
ダビデはますます主の光に照らされ、さぞ眩しかっただろう。そして、恐れも生じただろう。
主と共に歩んでいる人は、本人にはその気は無くとも、うしろ暗い闇を抱えている人が見るなら、眩しくて、恐れを抱かせるものだ。
もはや、自分の罪を隠す手立てを、失ってしまったダビデ。
全てを告白して赦しを乞うか、それとも、あらゆる力を駆使し、あくまで「光」を覆い隠そうとするかの、二者択一が迫られたが、ダビデは非常に残念な決断をしてしまう。
『朝になってダビデはヨアブにあてた手紙を書き、ウリヤの手に託してそれを送った。彼はその手紙に、「あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させよ」と書いた。』(2サムエル記11:14-15)
以前のダビデを知っている私達には、到底信じられないような事を、彼はするようになってしまった。
王としての権威を用い、この、有能で誠実な部下を謀殺する指示を、彼自身に持たせてヨアブに届けさせたのだ。
第一サムエル記のダビデ登場から、第二サムエル記の10章までだけを読むなら、ダビデは偉大な王だった。
しかし、この11章1節からの、たった15節を読むだけで、ダビデがそれまでして来た素晴らしい信仰の実績は、全て色あせてしまう。
人は罪と肉に心を許し、その方面に意図して歩むなら、いとも簡単に、なし崩し的に転落してしまう事を、私達キリスト者は、心して気をつけるべきである。
あたかも、仕事から離れてリゾート地で羽を伸ばしたいと切に願うかのように、正しい義の歩み・御霊にある歩みを離れて、肉欲のリゾートで罪の羽を伸ばしたい、と、日々心で願望している人は、ダビデのように、いつ積み上げて来た信頼や名声を失墜してしまっても、おかしくはない。
肉欲の発散はバケーションなどではなく、罪と死に追い使われる過酷で苦々しい奴隷生活の発端である事、そして、御霊にある歩みこそ、罪と死の束縛から開放された真のバケーションである事を、私達キリスト者は真に知るべきだ。
肉欲発散という誤った選択をし続ける事の恐ろしい罠(2サムエル記11:1-5)
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- pastor 2015-8-19 23:00
肉欲発散という誤った選択をし続ける事の恐ろしい罠(2サムエル記11:1-5)
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『春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ダビデはヨアブおよび自分と共にいる家来たち、並びにイスラエルの全軍をつかわした。彼らはアンモンの人々を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。』(2サムエル記11:1)
ダビデは、強力なシリヤとの戦いには、自ら全軍を率いて戦い、打ち破って平定したが、残すアンモンとの戦いには自分は行かず、部下たちに任せ、エルサレムの王宮に留まっていた。
ダビデには、少しの「なまけ」が始まっているが、なまけを放置するなら、諸々の良くない物事を呼び寄せてしまう。
『なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。それゆえ、貧しさは盗びとのようにあなたに来り、乏しさは、つわもののようにあなたに来る。』(箴言6:9-11)
『さて、ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、 王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、ひとりの女がからだを洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。』(2サムエル記11:2)
部下たちが命の危険を冒して戦っているのに、ダビデは、日中に寝、夕暮れに起きる、という事をしている。
ダビデの「なまけ」がさらに成長している事がわかる。
さて、ここはダビデが”たまたま”屋上を歩いていると、”たまたま”女が身体を洗っている姿が見えた、と、日本語では受け止められるが、原語を見ると、そういうわけではないようだ。
この「歩く(ハーラフ)」には、ヒットパエル態が使われており、すなわち、彼は「自分から、自覚的に、自発的に」屋上を歩いたのであり、また、美しい女が体を洗っているのを「見た」という言葉は「ラアー」であり、すなわち、ダビデは「心して、楽しみつつ、見た」のである。
ユダヤでは、夕暮れに屋上で水浴びをする、という事は多々ある。
なぜなら律法上の「汚れ」を受ける事は頻繁にあり、その汚れを清めるためには、日が沈むまでに体を洗って清くするべき事が、律法で命じられているからである。
つまり、ダビデが”敢えて”夕暮れ時に、眺めのいい王宮の屋上に出て歩いたのは、もしかしたら、そのような「のぞき」をする意図があった事も、十分考えられる。
あの偉大な王ダビデが、部下たちが皆戦いに出ている時期、昼に寝て、夕暮れ時に起き出し、意図的に宮殿の屋上に登り、女が水を浴びているのを楽しみながら見る。
あのダビデが、そんな事を、と驚くかもしれない。
しかし、昨日まで清く正しく歩んでいた人が、今日、信じられないような不祥事を犯してしまう、という事は、ニュースでは頻繁に流れている。
なぜなら、御霊にある正しい歩みと、肉にある罪の歩みは、日々の瞬間瞬間の決断と選択に依るものであるため、たとえ100日間、御霊にある歩みをしていても、101日目には霊的に怠けて、肉欲の赴くままに罪を犯してしまう、という事は、十分あり得るからだ。
あたかも、仕事という「オンタイム」から離れて、「オフタイム」にリゾート地で羽を伸ばすように、正しい義の歩み・聖なる御霊の歩みを何やら”勤め事”のような「オンタイム」とし、余裕が出来た時には、肉欲のリゾートで罪の「羽伸ばし」を満喫したい、という価値観・世界観で生きているとしたなら、いつ、今まで積み上げてきた信頼や名声を一気に失ってしまう大転落をしても、おかしくはない。
あまたの有名な先生や、偉人聖人と言われている人々が奈落へと転落して行った「夕暮れ時」を、私達も心して取り組まなくてはならない。
人は、肉の体をまとっているため、意識して御霊の歩みをしないなら、自動的に肉の歩みをするものである。そのほうが肉の体はラクだからだ。
日々を御霊にあって歩み続けているなら、その方向性が習慣づけられ、半自動的に御霊の選択と歩むが出来るのだが、ひと度油断し、昔歩んでいた肉の歩みをなつかしんで、そちらに思いを馳せて、実行してしまうなら、そちらの方へと、のめり込んで行ってしまうものであり、やがては、主の介入なしには抜け出し不可能となってしまう。
『ダビデは人をつかわしてその女のことを探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありません か」。』(2サムエル記11:3)
ダビデは「見る」だけで終わるではなく、その女について調べさせ、素性を突き止めさせるという、また一歩「誤った方向への選択」をした。
その女は、エリアム(名の意:神の民)の娘であり、ヘテ人ウリヤ(名の意:主の光)を夫に持つ、人妻であった。
エリアムも、ウリヤも、共にダビデ30勇士の一人であり(2サムエル記23章)、ダビデとイスラエルに尽くしている有能な部下である。
『そこでダビデは使者をつかわして、その女を連れてきた。女は彼の所にきて、彼はその女と寝た。(女は身の汚れを清めていたのである。)こうして女はその家に帰った。』(2サムエル記11:4)
なんとダビデ、ついに、「人妻と寝る」という、律法では死罪に当たる罪(レビ20:10)を、選択してしまった。
ダビデは、彼女は神の民(エリアム)の娘、主の光(ウリヤ)の妻であると聞いておりながら、彼女を寝とってしまった。
ひと度、肉欲の暴走に自ら火をつけるなら、歯止めは効かないものだ。
『女は妊娠したので、人をつかわしてダビデに告げて言った、「わたしは子をはらみました」。』(2サムエル記11:5)
ダビデ達は、一夜かぎりのこの逢瀬によって、子を宿す。
日本では、身ごもる事は「おめでた」と言うが、当の男女にとって「めでたくない」身ごもりは、全て、罪の結果だ。
ダビデはこの章で、「聖」か「罪」かを選択する場面で、ことごとく、罪のほうを選択して行った。
最初、夕暮れ時に屋上を自ら進んで歩いたのは、ちょっとしたいたずら心や、ふざけ心の類からだったかもしれない。
しかし、意図して罪の選択をし続けるなら、だんだんその道から離れられなくなり、ついには、王たる者、偉大なものに相応しくない行動へと発展してしまう。
私達はそれを治めなくてはならない。
罪を治める事は、可能である。
どのようにしてか。それは、法則に乗る事によって、である。
「キリスト・イエスにある”いのちの御霊の法則”は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)
この”いのちの御霊の法則”こそ、罪と死の法則に対抗する唯一の手段である。
全ての人は、重力の法則に縛られ、地上から離れられない。しかし、飛行機に乗るなら、地上を離れる事が出来る。
同じように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗るなら、罪と死の法則から離れる事が出来るのだ。
飛行機に乗って飛ぶ事には自分の能力や頑張りは関係無いように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗る事も、自分の能力や頑張りは関係無い。
どうしたらこの法則に乗っかる事が出来るのだろうか?
それは「継続的な選択」の問題であり、肉によらず聖霊によって歩み続ける「選択」を日々、し続ける事によって、である。
肉に委ねるのではなく、聖霊に委ねて生きる時、きよい生き方をする事に霊は安息を覚え、罪の生き方をする事に苦しさを覚えるものである。
聖霊にゆだねて生きる時、罪を犯す事や、肉欲を満足させる事はもはや「リゾート」ではなくなり、御霊にあって歩む生き方こそ「リゾート」となって、ますますその方面を生きるようになって行く。
ダビデは早い段階で、肉に生きる選択を止め、御霊にある選択をするべきだった。
それをしなかったため、どんどん、戻る事が困難になってしまったのだ。
御霊にあって歩み、罪や恥、したくない悪から開放された「バケーション」を楽しむ皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
勝利につぐ勝利を進むダビデ(2サムエル記10章)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)
前章ダビデは、サウル王の子孫・メフィボシェテに恵みを施したが、今回はアンモンという隣国にも恵みを施そうとする。
『この後アンモンの人々の王が死んで、その子ハヌンがこれに代って王となった。そのときダビデは言った、「わたしはナハシの子ハヌンに、その父がわたしに恵みを施したように、恵みを施そう」。そしてダビデは彼を、その父のゆえに慰めようと、しもべをつかわした。』(2サムエル記10:1-2a)
この、アンモン人ナハシの名は、1サムエル記11章で登場する。
当時、サウルがまだ王になりたての時、ナハシはイスラエルを痛めつける者として攻め寄せ、ヤベシュ・ギルアデの住人に対し、片目を抉りだす事を条件に和睦に応じよう、と、傲慢に振る舞っていたが、主によって奮い立たされたサウルに返り討ちにあって、退散した。
それをきっかけにサウルは名実ともに王として立ったが、その後ナハシがどうなったのかは記述が無い。
その後、どのような成り行きがあったのかはわからないが、アンモン人ナハシは、ダビデに対して真実を尽くすようになったようである。
実際、ナハシの息子ショビは、後にダビデがアブシャロムにクーデターを起こされた時、ダビデを助けてやった。(2サムエル記17:27)
そのナハシが死んだ、という事で、ダビデは代わって王になった息子・ハヌンにも、恵みを施そうとする。
ところが彼は、ダビデに、恩を仇で返す。
『ダビデのしもべたちはアンモンの人々の地に行ったが、アンモンの人々のつかさたちはその主君ハヌンに言った、「ダビデが慰める者をあなたのもとにつかわしたのは彼があなたの父を尊ぶためだと思われますか。ダビデがあなたのもとに、しもべたちをつかわしたのは、この町をうかがい、それを探って、滅ぼすためではありませんか」。そこでハヌンはダビデのしもべたちを捕え、おのおの、ひげの半ばをそり落し、その着物を中ほどから断ち切り腰の所までにして、彼らを帰らせた。』(2サムエル記10:2b-4)
当時、「ひげ」という部位は、男性にとって栄光をあらわす部位であり、ひげを抜かれる事は非常な恥辱であった。
それも、中途半端に半分に切り落とし、また、服も半分に切り取られ、隠し所をあらわにした状態で帰させたのだから、相当の侮蔑である。
『人々がこれをダビデに告げたので、ダビデは人をつかわして彼らを迎えさせた。その人々はひじょうに恥じたからである。そこで王は言った、「ひげがのびるまでエリコにとどまって、その後、帰りなさい」。』(2サムエル記10:5)
ダビデは、このような侮辱を受けた使者を思いやった。しかしすぐさまアンモンを攻撃しに行くという事はしなかった。
この、ダビデとアンモンのやりとりから、イエス様と人間とのやり取りを写し見る事ができる。
アンモンは、ダビデから差し伸べられた恵みの使者を、恥辱と侮蔑で返したように、私達人間も、偉大な王キリストから福音を告げ知らせに使わされた人に、恥辱を与え、一方的に与えられた尊い恵みに汚物を塗るような、恩を仇で返すような事をして来た。
そして、そういう事をしてもすぐに裁かれないのをいい事に、さらに図に乗って失礼な事をするのである。
『アンモンの人々は自分たちがダビデに憎まれていることがわかったので、人をつかわして、ベテ・レホブのスリヤびととゾバのスリヤびととの歩兵二万人およびマアカの王とその一千人、トブの人一万二千人を雇い入れた。ダビデはそれを聞いて、ヨアブと勇士の全軍をつかわしたので、アンモンの人々は出て、門の入口に戦いの備えをした。』(2サムエル記10:6-8)
アンモン人は、一方的にダビデの使者に恥辱を与えたばかりでなく、戦闘態勢も一方的整え、他国と連合してダビデの国に反逆した。
それでダビデは、迎え撃つために、将軍ヨアブを送り出す。
『ヨアブは戦いが前後から自分に迫ってくるのを見て、イスラエルのえり抜きの兵士のうちから選んで、これをスリヤびとに対して備え、そのほかの民を自分の兄弟アビシャイの手にわたして、アンモンの人々に対して備えさせ、そして言った、「もしスリヤびとがわたしに手ごわいときは、わたしを助けてください。もしアンモンの人々があなたに手ごわいときは、行ってあなたを助けましょう。
勇ましくしてください。われわれの民のため、われわれの神の町々のため、勇ましくしましょう。どうぞ主が良いと思われることをされるように」。』(2サムエル記10:9-12)
ヨアブの言葉からは、固い意志と結束がにじみ出ている。
互いに不足を補い合って、神の民のため、その町々のため、戦おう、と。
彼は「どうぞ主(エホバ)が良いと思われることをされるように」と言って、この強力な敵と戦う根拠は、主(エホバ)にあると宣言した。
現代の私達も、主のため、教会のため、兄弟姉妹のために罪や誘惑と、そしてサタンと戦うべきであり、互いの不足分や弱い部分を補いあうべきである。
そのように、私達が主に根拠を置き、教会のため、兄弟姉妹のために敵と相対する時、主は勝利を与えて下さる。
『ヨアブが自分と一緒にいる民と共に、スリヤびとに向かって戦おうとして近づいたとき、スリヤびとは彼の前から逃げた。アンモンの人々はスリヤびとが逃げるのを見て、彼らもまたアビシャイの前から逃げて町にはいった。そこでヨアブはアンモンの人々を撃つことをやめてエルサレムに帰った。』(2サムエル記10:13-14)
敵がいかに強力であっても、主にあって正当に立ち向かうなら、敵の側は恐怖に支配され、逃げ惑うのだ。
いかに相手のほうが多勢で強くても。
ギデオンの時は、三百人が十二万以上を打ち破ったし、ヨナタンの時は、たった2人で、何万もの敵を恐れさせた。
いかに相手が強く、また自分が弱く見えようとも、主にあって立ち向かうなら、主が勝利を得させて下さるのだ。
『しかしスリヤびとは自分たちのイスラエルに打ち敗られたのを見て、共に集まった。そしてハダデゼルは人をつかわし、ユフラテ川の向こう側にいるスリヤびとを率いてヘラムにこさせた。ハダデゼルの軍の長ショバクがこれを率いた。』(2サムエル記10:15-16)
次は、シリヤが形勢を立てなおそうとして援軍を呼びかけ、イスラエルに対抗しようとした。
しかし今度は、ダビデ自らが戦いに入った。
『この事がダビデに聞えたので、彼はイスラエルをことごとく集め、ヨルダンを渡ってヘラムにきた。スリヤびとはダビデに向かって備えをして彼と戦った。しかしスリヤびとがイスラエルの前から逃げたので、ダビデはスリヤびとの戦車の兵七百、騎兵四万を殺し、またその軍の長ショバクを撃ったので、彼はその所で死んだ。』(2サムエル記10:15-19)
戦車七百に騎兵四万を打ち倒す。素晴らしい戦果である。
どんな敵にも主に信頼して恐れず、信仰をもって戦いに向かうなら、主は勝利を与えて下さるのである。
『ハダデゼルの家来であった王たちはみな、自分たちがイスラエルに打ち敗られたのを見て、イスラエルと和を講じ、これに仕えた。こうしてスリヤびとは恐れて再びアンモンの人々を助けることをしなかった。』(2サムエル記10:19)
このようにダビデは、勝利につぐ勝利を得て、とんとん拍子に栄えて行った。
この10章までは、ダビデは勝利と繁栄の光の下で栄えて行ったが、しかし、次章を境に、その栄えは陰に入る。
それは、ダビデは勝利と成功によって慢心し、サタンにつけ込まれる隙を作ってしまうからだ。
恵みと祝福の螺旋階段を登って行くには(2サムエル記9:1-13)
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- pastor 2015-8-14 23:50
恵みと祝福の螺旋階段を登って行くには(2サムエル記9:1-13)
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『時にダビデは言った、「サウルの家の人で、なお残っている者があるか。わたしはヨナタンのために、その人に恵みを施そう」。』(2サムエル記9:1)
ダビデは周囲の敵を平定し、主から多くの祝福を受けた。それで彼は、恵みを施すおおらかさが生まれた。
なにしろダビデは、この章だけで3度も「恵みを施そう」と言っている。(1,3,7節)
恵みとは、本来それを受けるに値しない者が、ただ一方的に「いただく」ものである。
恵みを受ける人に少しでも主を恐れ敬う心がある人なら、大きな恵みをいただいた時、ゆとりや満足が生まれるばかりでなく、同時に恐れも生じ、自分も誰かに恵みを施さなくては、という気持ちになる。
そのような人は、ますます主への恐れ敬いが生まれ、喜んで分け与えるようになり、ますます祝福されて行くというサイクルに乗り、周りの多くの人に恵みを施して行くようになって行くが、恵みを受けても感謝が無く主を敬わない人は、ただ小さな恵みを受けたっきりで終わってしまう。
『王は言った、「サウルの家の人がまだ残っていませんか。わたしはその人に神の恵みを施そうと思う」。ヂバは王に言った、「ヨナタンの子がまだおります。あしなえです」。王は彼に言った、「その人はどこにいるのか」。ヂバは王に言った、「彼はロ・デバルのアンミエルの子マキルの家におります」。このサウルの孫、ヨナタンの子は、ロ・デバルに住んでいた。』(2サムエル記9:3-4)
このロ・デバルの地名の意味は「牧草地なし」「言葉なし」。ヨルダン川東側、ヤボク川の北に位置したと考えられている。
かのサウル家の生き残り、ヨナタンの子は、そんなへんぴな土地で、マキルという人の家を間借りし、ひっそり住んでいた。
おそらく、ダビデを恐れていたからだろう。
なにしろサウルはダビデを悪くあしらったし、また当時、新しく王になった場合は、前の王の一家一族を絶やして謀反を防ぐのが通例だったからである
しかしダビデは、そんな世の通例とは真逆の行動をする。
『ダビデ王は人をつかわして、ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家から、彼を連れてこさせた。サウルの子ヨナタンの子であるメピボセテはダビデのもとにきて、ひれ伏して拝した。ダビデが、「メピボセテよ」と言ったので、彼は、「しもべは、ここにおります」と答えた。ダビデは彼に言った、「恐れることはない。わたしはかならずあなたの父ヨナタンのためにあなたに恵みを施しましょう。あなたの父サウルの地をみなあなたに返します。またあなたは常にわたしの食卓で食事をしなさい」。』(9:5-7)
ダビデはまず「恐る事はない」と、声をかけた。
きっとメピボセテは、震えおののいていたのだろう。
しかしダビデは、自分はあなたに恵みを施すつもりであなたを探し、自分の所に住まわすために呼んだのだ、と、言葉をかけてやった。
しかも、祖父サウルの領地を返し、ダビデの子達と共にいつもダビデの食卓にあずかれる者とした。
ダビデ、なんと太っ腹でおおらかなのだろう。
イエス・キリストの恵みも、そのとおりである。
私達もメピボセテのように、本来は殺されて同然の者だった。
暗黒の地でひっそりと神の目を避けて、ただ、さばきを恐れて暮らしているような者だった所を、王の王であられる主は探し、呼び出してくださり、父祖や自分自身が犯して来た罪は一切、免除してくださり、神の子達と共に天の食卓にあずかる者とされた。
『彼は拝して言った、「あなたは、しもべを何とおぼしめして、死んだ犬のようなわたしを顧みられるのですか」。』(2サムエル記9:8)
少し前にも聞いた言葉である。
そう、ダビデも7章18節で、主に申し上げている。
「主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。主なる神よ、これはなおあなたの目には小さい事です。主なる神よ、あなたはまたしもべの家の、はるか後の事を語って、きたるべき代々のことを示されました。ダビデはこの上なにをあなたに申しあげることができましょう。・・・。」(2サムエル記7:18-20)
ダビデは、神様から驚くばかりの恵みを受けたから、大いにゆとりが生まれ、恵みを施したくて施したくて仕方のない程のおおらかさを身につけたのだ。
私達も、誰かに恵みを施すとするなら、まず、私達自身が神様からの恵みを既に受けていると、充分に知り、感じ、感謝しなくては出来ない。
また、ダビデやメフィボシェテが告白したように、自分自身がいかに取るにたりないかを覚えていなくてはならない。
そうでないと、恵みを受ける事を当然のものとして高慢で恩知らずになり、振り出されてしまうからだ。
『ヂバは王に言った、「すべて王わが主君がしもべに命じられるとおりに、しもべはいたしましょう」。こうしてメピボセテは王の子のひとりのようにダビデの食卓で食事をした。・・・メピボセテはエルサレムに住んだ。彼がいつも王の食卓で食事をしたからである。彼は両足ともに、なえていた。』(2サムエル記9:11-13)
私達もキリストにあって、本来そういう者ではないのに、天の御国の食卓に連なる者とされた。
主から大きな恵みを受けた私達は、ダビデのように、さらに他の人達にも施すべきだ。
そうするなら、ますます主に祝福されるサイクルに乗り、さらに周りの多くの人に恵みを施せるようになって行くからだ。
勝利に勝利を重ねる義と平和の王(2サムエル記8:1-18)
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8章は、ダビデが周辺諸国と戦って勝利した記録が記されているが、この章で重要なキーワードは、「主はダビデにすべてその行く所で「勝利を与えられた(ヤシャー:広くされた、守られた、救われた)」。」である。
主がダビデの行く先々で守り、救われ、イスラエルの支配領域を広くされたのだ。
ダビデはまず、イスラエルをひっきりなしに攻めていたペリシテを平定し(1節)、またイスラエルに度々攻撃を仕掛けていたモアブも平定した。(2節)
言葉にするならわずか1行足らずだが、それはヨシュアの時代以降、イスラエルのどんな王も士師も出来なかった事だ。
彼が成し遂げたのは、そればかりではない。
『ダビデはまたレホブの子であるゾバの王ハダデゼルが、ユフラテ川のほとりにその勢力を回復しようとして行くところを撃った。そしてダビデは彼から騎兵千七百人、歩兵二万人を取った。ダビデはまた一百の戦車の馬を残して、そのほかの戦車の馬はみなその足の筋を切った。
ダマスコのスリヤびとが、ゾバの王ハダデゼルを助けるためにきたので、ダビデはスリヤびと二万二千人を殺した。そしてダビデはダマスコのスリヤに守備隊を置いた。スリヤびとは、ダビデのしもべとなって、みつぎを納めた。主はダビデにすべてその行く所で勝利を与えられた。』(2サムエル記8:3-6)
ダビデは、ゾバとダマスコの連合軍にも勝利し、シリヤばかりでなく、さらに北のユーフラテス川沿いにまで影響力を及ぼして行った。
ダビデが勝ち取った領域は、イスラエル史上、かつて無かった程の広い範囲である。
主がアブラハムに与えると約束された地は「エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで」だったが、その範囲にダビデは近づいて行った。
このように彼は多くを勝ち取り、多くをぶんどったばかりでなく、ダビデの知らなかった国の王も、彼に平伏して貢を納めた。(2サムエル記8:7-10)
『あなたは民の争いからわたしを救い、わたしをもろもろの国民のかしらとされました。わたしの知らなかった民がわたしに仕えました。彼らはわたしの事を聞くと、ただちにわたしに従い、異邦の人々はきて、わたしにへつらいました。異邦の人々は打ちしおれて、その城から震えながら出てきました。』(詩篇18:43-45)
こうして彼は多くの金銀を得たが、ダビデはそれらを主ために蓄えた。
『ダビデ王は征服したすべての国民から取ってささげた金銀と共にこれらをも主にささげた。すなわちエドム、モアブ、アンモンの人々、ペリシテびと、アマレクから獲た物、およびゾバの王レホブの子ハダデゼルから獲たぶんどり物と共にこれをささげた。』(2サムエル記8:11-12)
彼が得た多くの分捕り物や貢物は、主のために聖別して捧げたのは、主のために聖なる宮を建てる事に用いるためである。
私達も、主から勝利を頂いたのであるなら、勝利を下さった主に捧げ、尊い事に用いるべきである。
『こうしてダビデはイスラエルの全地を治め、そのすべての民に正義と公平を行った。』(2サムエル記8:15)
ダビデはその地を平定し、正義と公平によって治めた。
彼はまさしく後に来られるキリストをよく表している。
『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。』(イザヤ9:6-10)
また、ダビデの周りには、有能な部下たちが各々の成すべき務めを果たしていた。。
『ゼルヤの子ヨアブは軍の長、アヒルデの子ヨシャパテは史官、アヒトブの子ザドクとアビヤタルの子アヒメレクは祭司、セラヤは書記官、エホヤダの子ベナヤはケレテびととペレテびとの長、ダビデの子たちは祭司であった。』(2サムエル記8:16-18)
なおここで、ダビデの子たちは「祭司であった」と日本語で訳されているが、「祭司」と訳されたヘブライ語は「コーヘン」、司祭の他に、審判、王子、チーフとも訳せる。(KJVでは「chief rulers」)
キリストも王の王として全てを治め、彼に従う人達も、神の子とされ、王として治めるのである。
『あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』(黙示録5:9-10)
私達も、キリストにあるなら、ダビデのように選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神の民である。(1ペテロ2:10)
ダビデが本来カナン地方に居てはならない敵達を次々と打ち破って行った。
同じように、人々を苦しみの内に閉じ込める悪霊や病気、その他、人に害を為すあらゆる呪いの産物は、私達キリストにある聖徒達が、信仰により、キリストの権威を行使するなら、打ち破る事が可能なものである。
主は教会に、イエスの名による権限を与えられた。それはハデスの門さえ、立ち向かう事が出来ない。
教会が地で繋いだものは、天において繋がれ、地で解いたものは、天においても解かれている。
そして私達は、キリストにあって、行く所どこにおいても、暗闇に勝利し、サタンに囚われた人々を自由にし、彼らをキリストの元に導いて凱旋し、サタンの支配から正しいキリストの支配へと移す平和の使者とされているのである。