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メッセージ - 1列王記カテゴリのエントリ

シバの女王の来訪(1列王記10:1-13)
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『シバの女王は主(エホバ)の名にかかわるソロモンの名声を聞いたので、難問をもってソロモンを試みようとたずねてきた。』(1列王記10:1)
ここの記事は新約でもイエス様から言及されており、また、様々な芸術でも取り上げられている有名な出来事である。
彼女はソロモンの名声を聞くに及び、試みる(ナーサー:テストする、試す)ために、遠路はるばる来たが、ソロモンに与えられた知恵や富、その栄華の様は、彼女の想像をはるかに超えたものだった。

『彼女は多くの従者を連れ、香料と、たくさんの金と宝石とをらくだに負わせてエルサレムにきた。彼女はソロモンのもとにきて、その心にあることをことごとく彼に告げたが、ソロモンはそのすべての問に答えた。王が知らないで彼女に説明のできないことは一つもなかった。
シバの女王はソロモンのもろもろの知恵と、ソロモンが建てた宮殿、その食卓の食物と、列座の家来たちと、その侍臣たちの伺候ぶり、彼らの服装と、彼の給仕たち、および彼が主の宮でささげる燔祭を見て、全く気を奪われてしまった。』(1列王記10:2-5)
彼女は、何に「全く気を奪われてしまった」か。
ソロモンの知恵と、彼の宮殿、および、彼に仕える家来や侍臣たちの服装や立ち居振る舞いに至るまで、そして、礼拝の捧げものに対して、である。
私達もソロモンのように知恵が与えられ、そして、教会においても、礼拝においても、家においても、また、養っている息子娘の、服装や言葉遣い、立ち居振る舞いにおいても、そして、私達が礼拝するその礼拝においても、主の栄光を豊かにあらわし、証できるようになるために、祈るべきである。

『彼女は王に言った、「わたしが国であなたの事と、あなたの知恵について聞いたことは真実でありました。しかしわたしがきて、目に見るまでは、その言葉を信じませんでしたが、今見るとその半分もわたしは知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄はわたしが聞いたうわさにまさっています。
あなたの奥方たちはさいわいです。常にあなたの前に立って、あなたの知恵を聞く家来たちはさいわいです。あなたの神、主はほむべきかな。主はあなたを喜び、あなたをイスラエルの位にのぼらせられました。主は永久にイスラエルを愛せられるゆえ、あなたを王として公道と正義とを行わせられるのです」。』(1列王記10:6-9)
彼女は、ソロモンの有様を通して、そして、その国イスラエルの有様を見て、「あなたの神、主はほむべきかな」と、主の御名を褒め称えるに至った。
まことに、主に祝福された人は、その祝福された様を通して、主を知らない人が、主に立ち返るのだ。
「もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。」(イザヤ60:3) と記されている通りである。

クリスチャン、と言うと、貧相だけれどなんだか頑張っている、と考える人がいるかもしれない。
病だけれど、貧しいけれど、これだけ私達は頑張っています、といった所に、私達はずっと留まるべきではなく、むしろ神の子である神の民は、もっと健やかに、もっと栄え、富んだ者にされて然るべきである。
確かに自分自身の罪深さや、弱さ、不完全さを見るに、そんな大それた願いを求めるには相応しくない、と思えるかもしれない。
しかし主は言っている。
わたしが贖い主、すなわち、あなたの貧しさを覆い、罪の借金を買い戻す者である、わたしの所に来なさい、と。

『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。――主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。』(イザヤ41:13-14)
『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』(イザヤ43:1)
主がそのように言われているからには、私達もルツのように主のご好意にあずかって、大胆に御前に進み出るべきである。
それこそ主の目に「真実な行動」なのだ。(ルツ記3:10)

『ソロモン王はその豊かなのにしたがってシバの女王に贈り物をしたほかに、彼女の望みにまかせて、すべてその求める物を贈った。そして彼女はその家来たちと共に自分の国へ帰っていった。』(1列王記10:13)
こうして彼女は、イスラエルから多くのおみやげを持って帰って行ったが、彼女が持ち帰った何より素晴らしいものは、主の栄光である。

主の御言葉を信じず、主が為された奇跡を見ても信じなかった人々に対し、主は彼女を引き合いに出して次のように言っている。
『南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。』(マタイ12:42)
そう、彼女は、ソロモンを富ませ栄光を与えて下さった「主を信じた」のだ。

彼女は、ソロモンの富と栄光を見て、彼と彼に仕える人達は幸いだ、と言ったが、後から見ると、幸いなのは彼女のほうである。
なぜならソロモンのこの後は、浪費の人生となり、しまいに彼は「むなしい」が口癖のようになってしまったのに引き換え、彼女は、御言葉を聞いても信じない人を「さばく側」になっているからだ。

新約でソロモンについて言及されているのは、この箇所と、もう一つ、「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」という箇所である。(マタイ6:29、ルカ12:27)
結局大事なのは、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、ソロモンよりも美しく装わせて下さる主であり、ソロモンよりもさらに優れた御方、主イエス様を信じる事である。
ソロモンのように、世的な富を追求するあまり、主を忘れてしまうとするなら、本末転倒も甚だしいのである。

霊的妥協によって陰りを見せているソロモンの栄光(1列王記9:10-28)
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『ソロモンは二十年を経て二つの家すなわち主の宮と王の宮殿とを建て終った時、ツロの王ヒラムがソロモンの望みに任せて香柏と、いとすぎと、金とを供給したので、ソロモン王はガリラヤの地の町二十をヒラムに与えた。しかしヒラムがツロから来て、ソロモンが彼に与えた町々を見たとき、それらは彼の気にいらなかったので、彼は、「兄弟よ、あなたがくださったこれらの町々は、いったいなんですか」と言った。それで、そこは今日までカブルの地と呼ばれている。ヒラムはかつて金百二十タラントを王に贈った。』(1列王記9:10-14)
ソロモンは、今までの彼らしくない事をしている。
神殿建築の大きな功労者であり、長年親交の深かったツロの王・ヒラムに対し、彼のその労に対するお礼として、「無に等しい(カブル)」と称されるようなものを贈ったのだ。
偉大な知恵と、広い心と、多くの富が与えられたはずの彼であるのに、そんな事をしたのだ。

この時、彼の治世は24−5年目に入っており、残す治世は、15−6年ほどである。
もしかすると、彼の栄光も、既に陰りを見せていたのかもしれない。

栄光と富に陰りを見せてしまう原因は、御言葉に対する妥協である。
妥協が長く続けば続く程、祝福が留められてしまう事も長くなってしまい、既に与えられている栄光と富を、ただ浪費するしか無い循環に入ってしまう。

そもそも、イスラエルの土地を、異邦の国に賞与として与える事は、律法に反する事であり、ヒラムの気に入る・気に入らない以前の問題である。
『地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。』(レビ記25:23)
全地は主のものであり、特に彼らが住んでいる地・カナンは、子々孫々への相続が約束された土地である。
もし人が落ちぶれて、土地を手放さなくてはならなくなったとしても、その土地はヨベルの年には戻されなくてはならない、と、主が定められた程だ。
どんなにつまらない地であったとしても、それを異邦人に渡すなど、もっての他なのだ。

他にも、彼が御言葉に妥協したり、違反している点を、幾つか見いだす事が出来る。
ソロモンは、パロの娘のために、また、軍事的な町々のために、労働者を強制徴募して建築させた。(1列王記9:15-19)
異邦の女をめとる事も、また、馬をエジプトから多く輸入したり、自分のために金銀を多く増やす事も、律法には叶わない事である。(申命記7:3-4、17:16-17)

『すべてイスラエルの子孫でないアモリびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの残った者、その地にあって彼らのあとに残った子孫すなわちイスラエルの人々の滅ぼしつくすことのできなかった者を、ソロモンは強制的に奴隷として徴募をおこない、今日に至っている。しかしイスラエルの人々をソロモンはひとりも奴隷としなかった。彼らは軍人、また彼の役人、司令官、指揮官、戦車隊長、騎兵隊長であったからである。』(1列王記9:20-22)
これらの「アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびと」達は、本来、聖絶すべき者達として定められている。(出エジプト記34:11-12、申命記7:1-3)
しかしソロモンは妥協し、強制労働として働かせた。
これらの者達は、後々にイスラエルに災いする事になってしまう。

私達も、主から「取り除くべき」と言われたものに関しては、取り除く事を後回しにしてはいけない。
なぜなら、後回しにしてしまえばしてしまう程、それに慣れてしまい、情が芽生え、惜しむようになり、ますます、取り除く事が困難になって行ってしまうからだ。

『ソロモンは主のために築いた祭壇の上に年に三度燔祭と酬恩祭をささげ、また主の前に香をたいた。こうしてソロモンは宮を完成した。』(1列王記9:25)
もし彼が直接祭壇でいけにえを捧げ、香を焚いたとしたなら、大問題である。
アロンの子孫である祭司以外の者は、主の御前で香を焚いてはならないからだ。(民数記16:40)
ソロモンの子孫であるウジヤ王は、強くなるにつれて心高ぶり、彼自身が香の祭壇の上に香を焚こうとした所、祭司に戒められたが、彼は戒められた事について大いに怒り、強引に香を焚こうとしたまさにその時、彼の額にらい病が現れ、彼は死ぬまでそれに犯されたままであり、彼は、隔離された家に住まされ、主の宮と王の執務から切り離されてしまった。(2歴代誌26:16-23)

『ソロモンの工事を監督する上役の官吏は五百五十人であって、工事に働く民を治めた。パロの娘はダビデの町から上って、ソロモンが彼女のために建てた家に住んだ。その時ソロモンはミロを建てた。・・・ソロモン王はエドムの地、紅海の岸のエラテに近いエジオン・ゲベルで数隻の船を造った。ヒラムは海の事を知っている船員であるそのしもべをソロモンのしもべと共にその船でつかわした。彼らはオフルへ行って、そこから金四百二十タラントを取って、ソロモン王の所にもってきた。』(1列王記9:23-28)
ソロモンはこのように、大きな工事や海洋貿易を行って事業を拡大し、物質的には栄えたが、彼の霊的な妥協ゆえに、物質面でも陰りを見せつつあった。

主との関係を回復し、霊的な面での建て直しが行われるなら、物質的な面での祝福も後を追って来るものであるが、逆もまた真である。
霊的なことがおろそかになれば、物質的な面でも、後を追って衰退して行ってしまうものだ。
それは、現代を生きる私達においても、全く同じである。
私達はこの事をよく学ぶべきである。

神殿について祈ったソロモンの祈りへの、主の応答(1列王記9:1-9)
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『ソロモンが主の宮と王の宮殿およびソロモンが建てようと望んだすべてのものを建て終った時、主はかつてギベオンでソロモンに現れられたように再び現れ』(1列王記9:1-2)

主がかつてギブオンでソロモンに現れた時とは、主がソロモンに「あなたに何を与えようか、求めなさい」と促した、あの時の事だ。
ソロモンはその時、主にシャマーの心(聞いて従う心、わかる心)を求め、その願いが主に喜ばれ、主は彼に大いなる知恵と、栄誉と、富と、その他、あらゆる良きものを与えた。
あれから十数年、ソロモンは神殿を建設し終わり、その神殿について主が格別に目を注いて下さるよう祈り願ったが、主は、その祈りへの返答をされたのである。

『彼に言われた、「あなたが、わたしの前に願った祈と願いとを聞いた(シャマー)。わたしはあなたが建てたこの宮を聖別して、わたしの名を永久にそこに置く。わたしの目と、わたしの心は常にそこにあるであろう。』(1列王記9:3)
主は、ソロモンの願いを確かに聞かれ、そのとおりにされた。
主はその神殿を聖別し、主の御名を永久にそこに置き、いつもそこに目と心を注ぐ、と約束された。

主の目がいつも、その神殿に注視され、主の心がいつもそこに置かれている。何と素晴らしい事だろうか。
その神殿はまさにイスラエルの栄誉であり、ソロモンとしても、何にも増して誇りに思える事だろう。
しかし、いつも主の目が注がれている、という事は、逆に言うなら、それだけ迂闊な事はできないという事でもある。

人間が全能なる神を意識せず、誰にも見られていないと思って、平気で罪を犯し続けるなら、それは、監視カメラを前に盗みを働いているようなものだ。
かと言って、全能なる神の監視の目を気にして、本当はしたい「悪い事」をぐっと我慢して生きている事は、実に悲しい生き方だ。
私達はむしろ、愛と憐れみ、赦しに満ちた主のその眼差しを意識するべきである。

主は、私達の髪の毛の数さえ全てご存知であり、私達が胎児であった時も既に私達を見ておられ(詩篇139篇)、そればかりでなく、私達が生まれるはるか以前から、キリストにあって私達を選び、祝福のご計画を立てておられた。(エペソ1:3-5)
私達が立つのも伏すのも知っており、私達の舌に言葉がのぼる前から、既に、それを読み取っておられる。
愛と憐れみ、赦しに満ちたもう主は、私達の全ての思い煩いも、そして、私達の奥深くにある誰も知り得ないような傷ついた心の深みさえ、全てご存知なのだ。
だからこそ、何もかも打ち明ける事が出来る。
主は、たとえ牢の中にいようと、海深く魚の腹の中にいようと、ただ主に心を向けて祈るだけで、主とのコミュニケーションが繋がり、祈りを聞いて下さるのだ。(ヨナ書2章)
その主にいつも喜び、絶えず祈り、全ての事について感謝する生き方のほうが、断然、得であり、有意義な生き方だ。

『あなたがもし、あなたの父ダビデが歩んだように全き心をもって正しくわたしの前に歩み、すべてわたしが命じたようにおこなって、わたしの定めと、おきてとを守るならば、わたしは、あなたの父ダビデに約束して『イスラエルの王位にのぼる人があなたに欠けることはないであろう』と言ったように、あなたのイスラエルに王たる位をながく確保するであろう。』(1列王記9:4-5)
ここには、3つの動詞が出てくる。すなわち、主の前に「歩み」、主が命じたように全て「行い」、主の定めとおきてとを「守る」事。
これらをするなら、主がダビデに約束して下さった王権を、あなたにも継続させよう、と言うのだ。
私達も全く同じだ。
私達も主の御前に歩み、主の御言葉を守り行うなら、必ず祝福される事が約束されているのだ。

そして主は、ソロモンに、逆の場合についても釘を刺されている。
『しかし、あなたがた、またはあなたがたの子孫がそむいてわたしに従わず、わたしがあなたがたの前に置いた戒めと定めとを守らず、他の神々に行って、それに仕え、それを拝むならば、わたしはイスラエルを、わたしが与えた地のおもてから断つであろう。またわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げすてるであろう。そしてイスラエルはもろもろの民のうちにことわざとなり、笑い草となるであろう。』(1列王記9:6)
ここにも、3つの事が出てくる。
すなわち、主に「そむいて従わず」「戒めと定めとを守らず」「他の神々に行って、それに仕え、それを拝む」なら、主が御名を置かれたあの特別な神殿さえ、投げ捨ててしまう、というのだ。

私達も全く同じだ。
いかに素晴らしい教会を建てたとしても、主に背き、主の御言葉を守らず、イエス・キリスト以外のものにも救いを求めるとするなら、そのような教会やミニストリーは、御前から投げ捨てられてしまうのだ。

『かつ、この宮は荒塚となり、そのかたわらを過ぎる者は皆驚き、うそぶいて『なにゆえ、主はこの地と、この宮とにこのようにされたのか』と言うであろう。その時人々は答えて『彼らは自分の先祖をエジプトの地から導き出した彼らの神、主を捨てて、他の神々につき従い、それを拝み、それに仕えたために、主はこのすべての災を彼らの上に下したのである』と言うであろう」。』(1列王記9:8-9)
主は、神の民イスラエルに祝福を与える事を通して、異邦人に栄光を表された。
しかし、もし神の民イスラエルが御声に聞き従わない、という事であるなら、彼らに降される大きな災いを通しても、異邦人に栄光をあらわされる。
どちらにしても、ただ主の栄光はあらわれるのだが、主は、人が罪を犯して災いに遭う事を望んではおられない。むしろ祝福され、いのちを獲得する事を望んでおられる。

主は、真実なお方である。
私達は、肉に対して種を蒔くなら肉から滅びを刈り取るが、霊に蒔くならいのちを刈り取る事を、気をつけていなくてはならない。
『わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。』(申命記30:19-20)

奉献の祈りの後の盛大な祝賀式(1列王記8:54-66)
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『ソロモンはこの祈と願いをことごとく主にささげ終ると、それまで天に向かって手を伸べ、ひざまずいていた主の祭壇の前から立ちあがり、立って大声でイスラエルの全会衆を祝福して言った、「主はほむべきかな。主はすべて約束されたように、その民イスラエルに太平を賜わった。そのしもべモーセによって仰せられたその良き約束は皆一つもたがわなかった。』(1列王記8:54-56)
ソロモンは、それまで神殿奉献の祈りを、跪いて主に捧げていたが、それを終えると立ち上がってイスラエルの民全体の祝福の祈りに入った。
彼は祈りの最初に「主はほむべきかな」と主を賛美している。なぜなら主は、約束して下さった事を、何一つ違えず、誠実にその民に為して下さったからだ。

続いてソロモンは、イスラエルの民について3つの事を願い、執り成している。
『われわれの神がわれわれの先祖と共におられたように、われわれと共におられるように。われわれを離れず、またわれわれを見捨てられないように。われわれの心を主に傾けて、主のすべての道に歩ませ、われわれの先祖に命じられた戒めと定めと、おきてとを守らせられるように。主の前にわたしが述べたこれらの願いの言葉が、日夜われわれの神、主に覚えられるように。そして主は日々の事に、しもべを助け、主の民イスラエルを助けられるように。』(1列王記8:57-59)

つまり3つの願いとは、主が我々を「見捨てられないように」、「命じられた戒めと定めと、おきてとを守らせられるように」、「助けられるように」である。
主は私達を助け、決して見放さず、見捨てられないと、聖書に書いてあるが、それなら、この「主が自分達を見捨てられないように」「助けられるように」という祈りは、無駄なのだろうかというと、そうではない。

もし私達が、主の御言葉と主が為してくださった良きわざを軽んじてしまい、主への恐れを捨て、主から離れるとするなら、恐ろしい刑罰が待っている事は、旧約でも新約でも変わらない。
『モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:28-29)
だから、「主が我々を見捨てられないように」「助けられるように」「自分達を主の道に歩ませ、命じられた戒めと定めと、おきてとを守らせられるように」と祈る人は、主への健全な恐れがある証拠であり、またその人が、主の道を誠実に歩もうとする意図がある事の表明でもある。
だから、私達が「主は決して私達を見放さず見捨てられない」という信仰が、確信に至るまでは、大いにその祈りをするべきである。

『そうすれば、地のすべての民は主が神であることと、他に神のないことを知るに至るであろう。』(1列王記8:60)
ソロモンは、自分が祈った事の動機を、「地のすべての民は、主が神であることと、他に神のないことを知る」ためとした。
そう、神である主は、元から全世界の主であり、救いは何も、イスラエルに限定されたものではない。

主は、確かにアブラハムを選び、区別された。
しかしそれは、アブラハムの子孫であるユダヤ人「だけ」を救うためではなく、アブラハムの子孫であるユダヤ人を通して、全世界に救いがもたらされるためである。
「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:22-24)

つまり、救いは血筋や生まれつきによるものでなく、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によるものであり、そして真の礼拝は、何処かの神殿でするものでなく、霊とまことによって為すものである。
この救い主、イエス・キリストを世に輩出するために、父なる神はアブラハムを選ばれ、ユダヤ人を律法によって整えたわけである。

ソロモンは最後に、民に対し、くぎを刺す。
『それゆえ、あなたがたは、今日のようにわれわれの神、主に対して、心は全く真実であり、主の定めに歩み、主の戒めを守らなければならない。』(1列王記8:61)
祝福の日々とは、神がただ一方的に与えるものではない。
人の側にも、主に対して守るべき義務があり、それは、「神、主に対して、心は全く真実であり、主の定めに歩み、主の戒めを守」り続ける事である。

このように奉献の祈りと民への祝福は終わり、そして、盛大な祭りに入る。
『そして王および王と共にいるすべてのイスラエルびとは主の前に犠牲をささげた。ソロモンは酬恩祭として牛二万二千頭、羊十二万頭を主にささげた。こうして王とイスラエルの人々は皆主の宮を奉献した。その日、王は主の宮の前にある庭の中を聖別し、その所で燔祭と素祭と酬恩祭の脂肪をささげた。これは主の前にある青銅の祭壇が素祭と酬恩祭の脂肪とを受けるに足りなかったからである。』(1列王記8:62-64)
とんでもない分量のいけにえである。
確かにそれだけのいけにえを捧げられたソロモンの富んでいる様や、太っ腹さは、目を見張るものがある。
しかし私達は、ここからは、それだけの動物のいのちが犠牲となった事に、思いをはせるべきである。

なぜ、「いのちの犠牲」が発生するのか。
それは、人の罪の「つぐない」となるためであり、罪による死の「身代わり」となるためであり、そして、神との和解を成立させるためである。
私達は、尊い犠牲となっていのちを捧げられた、神の小羊イエス・キリストを覚えるべきである。
彼は、私達の罪を赦すため、私達の「死」を身代わりとして負うために、そして、私達と神との和解を成就させて下さるために、自ら犠牲となって十字架の上で捧げられた。
私達はこの主イエス・キリストをこそ愛し、彼と共に歩み続けるべきである。

『その時ソロモンは七日の間われわれの神、主の前に祭を行った。ハマテの入口からエジプトの川に至るまでのすべてのイスラエルびとの大いなる会衆が彼と共にいた。八日目にソロモンは民を帰らせた。民は王を祝福し、主がそのしもべダビデと、その民イスラエルとに施されたもろもろの恵みを喜び、心に楽しんでその天幕に帰って行った。』(1列王記8:65-66)
こうして、盛大な奉献式が終わった。
イスラエルにとって、まことに喜びと祝福の絶頂の時期である。
主を愛し、御言葉を守り行うなら、確かに、このような祝福を受ける。
しかし大事な事は、その誠実をキープし続け、主と共に歩み続ける事だ。

ソロモンは確かに幾千・幾万のいけにえを捧げた。
しかし、それよりも主が求められる事を、預言者ミカは記している。
『わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもって/そのみ前に行くべきか。主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。
人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。』(ミカ6:6-8)

捕囚先の地から神殿に向かって祈る場合(1列王記8:46-53)
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『彼らがあなたに対して罪を犯すことがあって、――人は罪を犯さない者はないのです、――あなたが彼らを怒り、彼らを敵にわたし、敵が彼らを捕虜として遠近にかかわらず、敵の地に引いて行く時』(1列王記8:46)
ソロモンが神殿で祈る人のために祈りの最後、7番目のケースは、イスラエルがもし将来、罪を犯し続けて敵に打ち負かされ、捕囚されて行った場合、捕囚先からこの神殿に向かって祈ったなら、その祈りを聞いて下さい、というものである。

主はもっと昔、イスラエルと契約を結ばれた当初の、モーセの時代から既に、イスラエルがもし主の御声に聞き従わず、懲らしめの災いを受けても、なお身勝手なふるまいを続けるなら、災いの「最終形態」として、敵国に捕囚されてしまう、という事を、あらかじめ警告しておられた。(レビ記26章、申命記28章)
残念ながら、イスラエルはその災いの最終形態にまで行ってしまった。
彼らは主に逆らい続け、預言者を通して主の警告を何度も何度も受けても、頑なに自分勝手なふるまいを改めず、主に逆らい続けたからである。
彼らが敵に打ち破られ、バビロンに捕囚されて行かれてしまった事件は、世界史に刻まれている通りである。

『もし彼らが捕われていった地で、みずから省みて悔い、自分を捕えていった者の地で、あなたに願い、『われわれは罪を犯しました、そむいて悪を行いました』と言い、自分を捕えていった敵の地で、心をつくし、精神をつくしてあなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた地、あなたが選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、あなたに祈るならば、』(1列王記8:47-50)
捕囚として連行されて行ってしまった時代、捕囚先の地で、この事を忠実に実践し続けた人がいた。
預言者ダニエルである。
彼は少年の頃バビロンに捕囚されたが、その地で誠実に主に従い続けたが故に主に愛され、捕囚先で大きな地位を得、バビロン、メディア・ペルシアの時代、彼は総理大臣に匹敵するような地位を保ち続けた。

バビロン帝国がメディア・ペルシアによって滅ぼされて、まだ間もない頃の事である。
『ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。』(ダニエル6:10)
この時、「署名された文書」とは、どの神にでも、何か願い事をする者があるなら、その者はライオンの穴に投げ入れてしまう、という法律である。(同7節)
それは、他の高官達がダニエルを陥れるためにわざわざ定めたものだった。
なにしろダニエルは、あまりに完璧な人だったため、他の高官達に妬まれ、彼の神、主に対する誠実を利用する以外に、彼を陥れる手段が無かったのだ。

ダニエルは、この法律が定められたのを知りながら、家に帰ると、いつも通り日に三度、神殿のほうに向かって主に礼拝する事を止めなかった。
窓を閉めれば誰にも見つからずに礼拝できたであろうに、それもせず、いつも通り堂々と主に祈願し感謝を捧げたのだ。
それでダニエルは、ライオンの穴に陥れられてしまったのだが、主はダニエルを守り、ライオンは一切ダニエルを害する事が出来なかった。
結局、ダニエルの信じる神の栄光と、ダニエル自身の栄光とがますます上がり、逆にダニエルを陥れようとした者たち全員、ライオンの穴に投げ込まれ、その者達は穴の底に落ち込む前に、ことごとくライオンに噛み殺されたのだ。(ダニエル6章)

『われダニエルは主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉により、エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを、文書によって悟った。それでわたしは、わが顔を主なる神に向け、断食をなし、荒布を着、灰をかぶって祈り、かつ願い求めた。すなわちわたしは、わが神、主に祈り、ざんげして言った、
「ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ、われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。われわれはまた、あなたのしもべなる預言者たちが、あなたの名をもって、われわれの王たち、君たち、先祖たち、および国のすべての民に告げた言葉に聞き従いませんでした。』(ダニエル9:2-6)

ダニエルは、主が働かれる日が近い事を、預言者エレミヤの言葉から知り、以下のソロモンの祈りを、そのまま実践したのだ。
すなわち、『捕われていった地で、みずから省みて悔い、自分を捕えていった者の地で、あなたに願い、『われわれは罪を犯しました、そむいて悪を行いました』と言い、自分を捕えていった敵の地で、心をつくし、精神をつくしてあなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた地、あなたが選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、あなたに祈る』事を、彼はそのまま実践した。

『あなたのすみかである天で、彼らの祈と願いを聞いて、彼らを助け、あなたの民が、あなたに対して犯した罪と、あなたに対して行ったすべてのあやまちをゆるし、彼らを捕えていった者の前で、彼らにあわれみを得させ、その人々が彼らをあわれむようにしてください。』(1列王記8:49-50)
ダニエルの他、多くの人々の祈りを主は聞いてくださり、実際に彼らをあわれみ、捕囚先から返して下さった。(エズラ1章)

『(彼らはあなたがエジプトから、鉄のかまどの中から導き出されたあなたの民、あなたの嗣業であるからです)。どうぞ、しもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いに、あなたの目を開き、すべてあなたに呼び求める時、彼らの願いをお聞きください。あなたは彼らを地のすべての民のうちから区別して、あなたの嗣業とされたからです。主なる神よ、あなたがわれわれの先祖をエジプトから導き出された時、モーセによって言われたとおりです」。』(1列王記8:51-53)
ソロモンはこうして、神殿で祈る人のための執り成しを終えた。

主がイスラエルが祈る祈りを聞かれる根拠を、ソロモンは、「あなたが、彼らを区別し選ばれたから」と言っている。
今や神は、イエス・キリストを信じる人には、何の差別も区別もなく、イエス・キリストの名によって祈る祈りを聞いて下さる。
結局私達は、自分が何か良い事をしたからとか、何か優れたものであるからとかいった理由によって主に願える者ではない。
ただ、主が一方的に憐れみをかけて下さるが故に、私達の祈りを主は聞いて下さるのだ。

私達が主の御言葉を忠実に守り行うなら、私達も、主に愛される者となる。
ダニエルはいつも欠かさず祈り続け、たとえ法律で禁止されても、それを止めなかったため、主から大いに愛された。

ダニエルが断食して祈りはじめてから、21日が経った時、主の使い・ガブリエルが、ダニエルに現れて、言った。
『”大いに愛せられる人ダニエル”よ、わたしがあなたに告げる言葉に心を留め、立ちあがりなさい。わたしは今あなたのもとにつかわされたのです」。彼がこの言葉をわたしに告げているとき、わたしは震えながら立ちあがった。すると彼はわたしに言った、「ダニエルよ、恐れるに及ばない。あなたが悟ろうと心をこめ、あなたの神の前に身を悩ましたその初めの日から、あなたの言葉は、すでに聞かれたので、わたしは、あなたの言葉のゆえにきたのです。』(ダニエル10:11-12)

ダニエルは「エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを、文書によって悟った」が、今、私達も、ダニエルが読んだその”文書”と全く同じものを持っている。その文書とはすなわち、聖書である。
ダニエルは、聖書の「エレミヤ書」からその日の近い事を悟ったが、その聖書を読むなら、現在を生きる私達にとって重要な日、すなわち、主が来られる日が、もう戸口まで迫って来ている事を悟ることが出来る。(マタイ24章)

ダニエルが不正な地の只中で、聖書から時機を悟り、イスラエルのために忠実に祈ったように、私達も不正な時代の只中で、主の来られる日に備え、この国のため、世界のため、そしてイスラエルのために執り成し、祈るべきだ。

異邦人が神殿に向けて祈る場合と、戦いに際して祈る場合(1列王記8:41-45)
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ソロモンの祈りの5番目のケースは、異邦人が主の宮に向かって祈る場合である。

『またあなたの民イスラエルの者でなく、あなたの名のために遠い国から来る異邦人が、――それは彼らがあなたの大いなる名と、強い手と、伸べた腕とについて聞き及ぶからです、――もしきて、この宮に向かって祈るならば、あなたは、あなたのすみかである天で聞き、すべて異邦人があなたに呼び求めることをかなえさせてください。そうすれば、地のすべての民は、あなたの民イスラエルのように、あなたの名を知り、あなたを恐れ、またわたしが建てたこの宮があなたの名によって呼ばれることを知るにいたるでしょう。』(1列王記8:41-43)
主の神殿はイスラエル人だけのものではなく、異邦人も主を礼拝する場所でもある。
イスラエルの民は現在、万軍の主を伝道する事には力を注がず、ただ、自分が救われた事に満足し、閉鎖的になってしまっているが、救いはユダヤ人だけのものではなく、異邦人のものでもある。

神は元々、全人類を救うために、一人の人アブラハムを選び、彼を通して全人類を救わせようとされた。
それは、イスラエル人の先祖・アブラハムが、主から呼びだされた時に、主が既に約束されていた通りである。
『時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。”地のすべてのやからは、あなたによって祝福される”」。』(創世記12:1-3)
ここで主が言われている通り、「地のすべてのやから」は、アブラハムによって、すなわち現在のユダヤ人を通して祝福されるはずであるが、ユダヤ人は古来から宣教に対しては消極的になってしまっている。
しかし今や、救いの福音はイエス・キリストに始まり、彼にあって救いを得た人は、次々と世界に出ていき、福音を宣教している。

異邦人の中で、一番最初にバプテスマを受ける恵みに与ったのは、エチオピア人の宦官だった。(使徒8章)
彼の、主に対する熱心は、並々ならぬものだった。
『すると、ちょうど、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、その帰途についていたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。』(使徒8:27-28)
彼のような異邦人は、当時のエルサレム神殿に行っても「異邦人の庭」から先には入れないし、また彼は宦官であるため、イスラエルの民に加えられる事は律法によって禁じられている。
彼はまた、高い地位で忙しい身にもかかわらず、女王に暇をもらって、エチオピアからはるばる礼拝のため上り、しかもその帰り道、彼は舗装されていない道を走りながら、サスペンション無しの馬車の中で、イザヤ書を朗読し、御言葉を思い巡らしていたのだ。
現在でも、礼拝から帰る車の中で(しかもサスペンションつきの車で舗装された道路を走っている中で)、御言葉を朗読するような熱心な人は、そういないだろう。
彼は、どれほど熱心に主を求めていた事だろう。

それ程までに主の宮を慕い、主の御言葉を慕う彼に、主は報いられたのだ。
彼のために主はピリポを遣わし、御言葉はイエス・キリストを示している事を伝え、そうして彼は、異邦人の中で一番最初にイエスを信じ、洗礼を受ける恵みにあずかった。
まさにソロモンが祈った通りである。主を慕い求める異邦人に対しても、主は恵みを施してくださるのだ。

続いて、6番目のケースは、イスラエル人が敵と戦う時に、主に向かって祈る場合である。
『あなたの民が敵と戦うために、あなたがつかわされる道を通って出て行くとき、もし彼らがあなたの選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、主に祈るならば、あなたは天で、彼らの祈と願いを聞いて彼らをお助けください。』(1列王記8:44-45)

旧約聖書の中には、敵と戦う時、主に祈って勝利したケースは、何度もある。
ダビデ王は戦いに出る都度、主に求め、主から知恵と力を得て勝利したし、ヨシャパテ王やヒゼキヤ王も、到底勝ち目の無い大きな戦いの時、ただ主により頼んで祈った結果、主ご自身が戦って下さり、大勝利を収めた。

『エチオピヤびとゼラが、百万の軍隊と三百の戦車を率いて、マレシャまで攻めてきた。アサは出て、これを迎え、マレシャのゼパタの谷に戦いの備えをした。時にアサはその神、主に向かって呼ばわって言った、「主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません。われわれの神、主よ、われわれをお助けください。われわれはあなたに寄り頼み、あなたの名によってこの大軍に当ります。主よ、あなたはわれわれの神です。どうぞ人をあなたに勝たせないでください」。
そこで主はアサの前とユダの前でエチオピヤびとを撃ち敗られたので、エチオピヤびとは逃げ去った。アサと彼に従う民は彼らをゲラルまで追撃したので、エチオピヤびとは倒れて、生き残った者はひとりもなかった。主と主の軍勢の前に撃ち破られたからである。ユダの人々の得たぶんどり物は非常に多かった。』(2歴代誌14:9-13)
アサ王の場合は、主により頼んでいた時は、素晴らしく祝福されていたが、その内傲慢になってしまい、主を忘れてしまった後の人生は悲惨だった。

私達も、社会に出て仕事をする時、戦いがある。
時には、礼拝に行きたくても行けないまま、戦わなくてはならない状況も出てくる。
しかしそれでも、その戦いの先で主に向かって祈るなら、その場面におられる主が祈りを聞いてくださり、勝利を与えて下さるのだ。
ソロモンが祈っている通りである。
『あなたの民が敵と戦うために、あなたがつかわされる道を通って出て行くとき、もし彼らがあなたの選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、主に祈るならば、あなたは天で、彼らの祈と願いを聞いて彼らをお助けください。』

主は何も、神殿にいつも居れる人だけの主ではない。
神殿にいつも居て、だらだら過ごして、何もしない人よりは、主に依り頼んで戦いに出る人のほうがよほど、主の御業の働かれる事を多く見ることが出来るのだ。

悩みの時に神殿に向かって祈る人々のための、ソロモンの執り成し(1列王記8:31-40)
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ソロモンは続いて、「これこれの人が、この状況で、この神殿にて祈る時、その祈りを聞いて下さい」というパターンを、7つの場合に分けて祈っている。

その一番目は、人と人との間で何かトラブルがあって、この神殿に来て主の御前に持ち込んで来た場合、主がそのさばきを正統に裁いてください、というものである。
『もし人がその隣り人に対して罪を犯し、誓いをすることを求められる時、来てこの宮であなたの祭壇の前に誓うならば、あなたは天で聞いて行い、あなたのしもべらをさばき、悪人を罰して、そのおこないの報いをそのこうべに帰し、義人を義として、その義にしたがって、その人に報いてください。』(1列王記8:31-32)
人は、正統にさばくという事が難しい。人は、他人の心に秘めている事や動機までも探り出す事ができないからだ。
時には、裁かれるべき不当な事が隠されたままであったり、あるいは、何も悪い事をしていないのに断罪されてしまう、という事もある。
神の民がこの神殿に持ってくるさばきを、全てを見透かしておられる主が正しく裁いてください、と、ソロモンは祈っているのだ。

『もしあなたの民イスラエルが、あなたに対して罪を犯したために敵の前に敗れた時、あなたに立ち返って、あなたの名をあがめ、この宮であなたに祈り願うならば、あなたは天にあって聞き、あなたの民イスラエルの罪をゆるして、あなたが彼らの先祖に賜わった地に彼らを帰らせてください。』(1列王記8:33-34)
2番目の場合は、敵に打ち負かされてしまった時、この神殿に来て、祈り願う場合である。

ソロモンは、「あなたに対して罪を犯したために敵の前に敗れた時」と言っており、「主に対して罪を犯す」事と「敗北する」事を一体とみなしている。
そう、神の民は、主に罪を犯したまま勝利に勝利を重ねる、という事は、ありえないのだ。
エリコに大勝利したヨシュアは、アイという小さな町での敗北を大いに憂慮し、主に切に祈り求めた結果、主は、イスラエルの民の、たった一人が犯した罪を指摘され、それを取り除くように言われた。
主は、純粋である事をその民に求められる。
最初から神に見向きもされていない者であるなら、罪を犯した状態で勝利に勝利を重ねる事は、あるだろう。
それは、その者が自ら滅びを積み重ねるためだ。
しかし、神の民が罪を犯したまま、それを放置する時、主はその事を気づかせ、悔い改めて主に立ち返らせるために、敢えて、敗北させられる。

私達も人生で敗北が重なる時は、自分自身に目を向け、自分の中に敗北の原因となっているような主に対する罪、主の御前に取り扱っていない罪があるのではないかと探るべきであり、それを取り除くべきなのだ。
だから、小さな敗北の時に大いに憂慮して主に導きを求めたヨシュアは、さすがなのである。

続いて、3番目のケースは、干ばつの時に主に祈り求める場合である。
『もし彼らがあなたに罪を犯したために、天が閉ざされて雨がなく、あなたが彼らを苦しめられる時、彼らがこの所に向かって祈り、あなたの名をあがめ、その罪を離れるならば、あなたは天で聞き、あなたのしもべ、あなたの民イスラエルの罪をゆるし、彼らに歩むべき良い道を教えて、あなたが、あなたの民に嗣業として与えられた地に雨を降らせてください。』(1列王記8:35-36)
私達も、人生の中であたかも天が閉ざされ、恵みの雨が一切降らないように感じる場合、やはり、自分の中に主の御前に取り扱われていない罪があるかないかを疑うべきである。

ソロモン達の住んでいる「約束の地」は、「乳と蜜の流れる地」と呼ばれてはいるが、しかしそこは、主の御前に罪を犯したままそれを残している人に対しては一切雨が降らない地と化してしまう。
『もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。・・・またあなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。主は、あなたの地の雨をほこりとされる。それで砂ほこりが天から降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。』(申命記28:16-24)

キリスト者もその「乳と蜜の流れる地」に住んでいるも同じで、もし主の御声に聞き従い、御言葉の通り守り行って歩むなら、そこは乳と蜜の流れる地として豊かな祝福を受ける。
しかし、もし主に聞き従わず、御言葉を守り行わないとなれば、その人生から恵みの雨は差し止められ、潤いの無い砂漠のような人生となってしまう。
「彼らがこの所に向かって祈り、あなたの名をあがめ、その罪を離れるならば、あなたは天で聞き、あなたのしもべ、あなたの民イスラエルの罪をゆるし、彼らに歩むべき良い道を教えて、あなたが、あなたの民に嗣業として与えられた地に雨を降らせてください。」
悔い改めて立ち返る人に、主はこのようにして下さるのである。

4番目は、色々な災いのケースが記されている。
『もし国にききんがあるか、もしくは疫病、立ち枯れ、腐り穂、いなご、青虫があるか、もしくは敵のために町の中に攻め囲まれることがあるか、どんな災害、どんな病気があっても、もし、だれでも、あなたの民イスラエルがみな、おのおのその心の悩みを知って、この宮に向かい、手を伸べるならば、どんな祈、どんな願いでも、あなたは、あなたのすみかである天で聞いてゆるし、かつ行い、おのおのの人に、その心を知っておられるゆえ、そのすべての道にしたがって報いてください。』(1列王記8:37-39)

ここに記されている色々な災いは「ききん」「疫病」「立ち枯れ」「腐り穂」「いなご」「青虫」、もしくは「敵のために町の中に攻め囲まれること」「災害」「病気」である。
これらの事が起きた時は、「その心の悩みを知って」この宮に向かって祈って願う時、主はそれを聞いて赦し報いてください、とソロモンは祈っている。

このケースでは、人々が特に「罪を犯した」とは明記されていない。
人は特段、罪を犯さなくても、主が何らかの理由で災いを送られる事はある。
例えば、訓練を与えて信仰を成長させるためであったり、敢えてその人にそのような所を通らせる事で鍛え、強めるためであったり。
そして、その人が主の宮に向かって手を差し伸べて祈る時、主がその祈りを聞いて、答えて下さい、とソロモンは祈っている。

『ただ、あなただけ、すべての人の心を知っておられるからです。あなたが、われわれの先祖に賜わった地に、彼らの生きながらえる日の間、常にあなたを恐れさせてください。』(1列王記8:39-40)
主は、一人ひとりの心を知っておられる。
主こそ、全ての人のの成り立ちと最善をご存知である。
いつ試練を与えられるか、いつ幸いと報いを与えられるか、そのタイミングとさじ加減は、完璧であり、全ての道に従って正統に裁き、正統に報いられるお方なのだ。

ソロモンの神殿奉献の祈り(1列王記8:22-30)
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ソロモンは主の栄光の雲が神殿に満ちた事を受け、民に対し、この神殿が建てられた事は、主にあって正統であり、自分の願いや意思ではなく、主が建ててくださった事を説いた。
その後彼は祭壇のほうに向き直り、主に祈る。22節から53節の彼の祈りは、神殿奉献の祈りであり、礼拝で代表祈祷する人も、大いに参考にできる所だ。

祈りとは、神様との会話であり、人が話をする時、誰を対象に話をするのかを明確にするため、名を呼ぶものだが、祈りもそこから始まるものである。
『ソロモンはイスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、手を天に伸べて、言った、「イスラエルの神、主よ、』(1列王記8:22-23)

私達が祈る時、神様との会話になっていない事も、多々ある。
例えば祈りが、自分自身を奮い立たせるためであったり、あるいは、巧妙に人を支配するための「言い聞かせ」であったり。
そのような、祈りの本体であられる主を無視した「祈りもどき」を防ぐために、私達も祈りのはじめに、祈りを聞いて下さるお方に、正しく呼びかける必要がある。

ソロモンは続いて、この神殿の主体であられる「イスラエルの神、主」は、どのような御方であるのかを、正しく宣言している。
『上の天にも、下の地にも、あなたのような神はありません。あなたは契約を守られ、心をつくしてあなたの前に歩むあなたのしもべらに、いつくしみを施し、あなたのしもべであるわたしの父ダビデに約束されたことを守られました。あなたが口をもって約束されたことを、手をもってなし遂げられたことは、今日見るとおりであります。』(1列王記8:23-24)主はどのようなお方か。
主は比類なき神であり、約束を誠実に成し遂げられたお方である、とソロモンは言った。
主の祈りも「天にまします我らの父よ」という呼びかけから始まるように、イエス様は教えられた。
自分が呼びかけた主は、一体どのようなお方であるのかを宣言してから祈る事によって「無駄な祈り」を、すなわち誰に向かって祈っているか分からないような、主にも人にも届かないようなだらだらした祈りを防ぐ事が出来る。

そしてソロモンは、主に願う。
『それゆえ、イスラエルの神、主よ、あなたのしもべであるわたしの父ダビデに、あなたが約束して『おまえがわたしの前に歩んだように、おまえの子孫が、その道を慎んで、わたしの前に歩むならば、おまえにはイスラエルの位に座する人が、わたしの前に欠けることはないであろう』と言われたことを、ダビデのために守ってください。イスラエルの神よ、どうぞ、あなたのしもべであるわたしの父ダビデに言われた言葉を確認してください。』(1列王記8:25-26)
 
彼の願いは、主がダビデに約束された事を、どうぞ守ってください、という事だった。
ダビデは死ぬ直前、主が彼に約束して下さった事を、ソロモンに言い遺している。
『「わたしは世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくなければならない。あなたの神、主のさとしを守り、その道に歩み、その定めと戒めと、おきてとあかしとを、モーセの律法にしるされているとおりに守らなければならない。そうすれば、あなたがするすべての事と、あなたの向かうすべての所で、あなたは栄えるであろう。
また主がさきにわたしについて語って『もしおまえの子たちが、その道を慎み、心をつくし、精神をつくして真実をもって、わたしの前に歩むならば、おまえに次いでイスラエルの位にのぼる人が、欠けることはなかろう』と言われた言葉を確実にされるであろう。』(1列王記2:2-4)

つまり、ダビデから続く子々孫々が、主の道に歩み、精神をつくし真実をもって主の前に歩むなら、王座は決して絶えることはない、という主の約束なのであるが、残念ながらソロモン自身が、彼の代で早速、その約束を破ってしまう事になる。
ソロモンから続く、歴代の王たちの多くは、主の道を捨て、主の怒りを招いた。
それでも主の真実は、どんなに人の不真実が長く続いても、違えることなく貫かれた。

人は確かに、弱い。不完全であり、罪があり、主に約束した事を守り通せない弱さがある。
しかし、人が主との約束を破ってしまった事で、自分の罪を悔い改めるなら、主はその人を大きな憐れみをもって赦される。
実際ダビデはそうだった。
しかし、主から警告を受けて無視し、敢えて主の忌み嫌う事を好き好んでするような人に対しては、主は御顔を背けられる。

『しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです。』(1列王記8:27)
日本人は、神社などの社(やしろ)や、自然界のもろもろの物に、神々が宿っている、と思う人は多い。
しかし主は、人が建てたどんな神殿にも、住まわれるような御方ではなく、空も、全宇宙も、そして永遠の天国も、主をお入れする事は出来ない。その事をソロモンは知っており、そう告白した。
では、神殿の存在は、無意味なのだろうか?それは違う。

『しかしわが神、主よ、しもべの祈と願いを顧みて、しもべがきょう、あなたの前にささげる叫びと祈をお聞きください。あなたが『わたしの名をそこに置く』と言われた所、すなわち、この宮に向かって夜昼あなたの目をお開きください。しもべがこの所に向かって祈る祈をお聞きください。しもべと、あなたの民イスラエルがこの所に向かって祈る時に、その願いをお聞きください。あなたのすみかである天で聞き、聞いておゆるしください。』(1列王記8:28-30)
ソロモンは、有限なる人が、無限なる神と、関わりを持てる場所として、この神殿を用いて下さい、と祈っている。
主を愛する人々が、この神殿に来て祈る祈りを聞いてください、この神殿に来てそれぞれが捧げる捧げものを受け取り、彼らの願いを聞いて、赦してください、と。

主は確かに無限なるお方であり、どこかの神殿や教会などの特別な場所に宿るわけではない、という事を、私達も知っているが、しかし教会のため、あるいは礼拝が行われる全ての場所のために祈る祈りは有効である。
私達は教会について、あるいは礼拝が行われる場所、空間、時間が聖別されるために、そして私達の生活の場、仕事の場のために、祈るべきである。

神殿を建てても栄光を失ったソロモンと、建てずとも栄光を受けたダビデ(1列王記8:12-21)
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『そこでソロモンは言った、/「主は日を天に置かれた。しかも主は自ら濃き雲の中に住まおうと言われた。わたしはあなたのために高き家、/とこしえのみすまいを建てた」。』(1列王記8:12-13)
モーセの時代にも、主は、濃い雲の内に臨在を現し、人々の前に現れた。
『主はこれらの言葉を山で火の中、雲の中、濃い雲の中から、大いなる声をもって、あなたがたの全会衆にお告げになったが、このほかのことは言われず、二枚の石の板にこれを書きしるして、わたしに授けられた。』(申命記5:22)

主の現れは、雲のように、何となくそこにはおられるとは分かるけれど、形はつかめないものであるが、確かにそこに「おられる」という感覚と、主の栄光とは、確かにある。
『もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。』(詩篇19:1-4)

私達は、主についての概念を限定する事によって「像(イメージ)」をつくってはならない。
主は無限なるお方であり、決して人間の小さい頭の中で定義づけされるようなお方ではないからだ。
『それゆえ、あなたがたはみずから深く慎まなければならない。ホレブで主が火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたはなんの形も見なかった。それであなたがたは道を誤って、自分のために、どんな形の刻んだ像をも造ってはならない。男または女の像を造ってはならない。』(申命記4:15-16)
私達にとって大事なのは、主を理解しようとする事ではない。主は、頭で理解しようとしてできるお方ではなく、主を「理解した」と思って思考停止してしまった人は、実は、知らなければならない程度の事さえ理解していないのだ。
私達が主の御言葉が与えられた時、なすべき事は、それを理解しようとする事ではなく、それに従って行動する事である。

『王は身をめぐらして、イスラエルのすべての会衆を祝福した。その時イスラエルのすべての会衆は立っていた。彼は言った、
「イスラエルの神、主はほむべきかな。主はその口をもってわたしの父ダビデに約束されたことを、その手をもってなし遂げられた。主は言われた、『わが民イスラエルをエジプトから導き出した日から、わたしはわたしの名を置くべき宮を建てるために、イスラエルのもろもろの部族のうちから、どの町をも選んだことがなかった。ただダビデを選んで、わが民イスラエルの上に立たせた』と。』(1列王記8:14-16)
ソロモンは会衆に向かい、この宮が建てられた成り立ちについて、そして、主が特別にダビデを選ばれた事について、主を褒め称えている。
この宮は、彼の父ダビデの、主を愛する心が発端となって、造られていったものである。
主はダビデを特に選び、神の民イスラエルを牧する者とした。

『イスラエルの神、主の名のために宮を建てることは、わたしの父ダビデの心にあった。しかし主はわたしの父ダビデに言われた、『わたしの名のために宮を建てることはあなたの心にあった。あなたの心にこの事のあったのは結構である。けれどもあなたはその宮を建ててはならない。あなたの身から出るあなたの子がわたしの名のために宮を建てるであろう』と。』(1列王記8:17-19)
元々、いと高き主は、人の手で造った家の内にはお住みにならない。天は主の王座であり、地は主の足台である。そしてそれらは皆、主の手によって造られた。(使徒7:46-53)
しかし主は、宮を建てたいと願ったダビデの純心な心を、「結構である」と言われた。あたかも親が、幼い子が、親を愛するゆえの、少々お門違いな事を言っても、いとおしむように。

ただ主は、多くの血を流してきたダビデは、主の宮を建ててはならない、と言われた。(1歴代誌22:7-9)
自分の腕や力づくなどによって、あるいは唇による言葉の攻撃によって、隣人を襲い、血を流し、物を奪う人は、主に喜ばれないのは当然である。
しかしダビデのように、神の国と神の民のために、力や知恵によって悪しき者と戦う人は、神の国において必要である。
ダビデが宮を建てるために多くを備え、その子ソロモンに宮のための材料を用意したように、主の礼拝の建て上げのためには、それぞれに違った役割があるのだ。

ダビデは、宮を建てる事は許されていなかった。そして彼の子、ソロモンが宮を建てたが、それは永遠のものではなかった。
人の手で造ったものは、永遠ではない。どんなに贅を凝らしたものであっても。
しかし、主を愛したダビデの栄光は、永遠のものとなった。
まことの宮の本体であられる主キリストは、永遠にダビデの王座に着かれ、ダビデの名は、永遠に栄光あるものとなった。

ソロモンは諸々の事業を拡張し、邸宅を建て、畑や庭園や男女の奴隷、多くのそばめを得たが、結局得たのは、むなしさだけであった。
彼は言っている。
『私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。』(伝道者の書2:11)

結局、ソロモンのように巨大な建造物を造ったり事業をする事よりも、ダビデのように、主を愛する事にこそ、私達の人生の力を注ぐべきなのだ。

栄光の雲が神殿に満ちる時(1列王記8:1-11)
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『ソロモンは主の契約の箱をダビデの町、すなわちシオンからかつぎ上ろうとして、イスラエルの長老たちと、すべての部族のかしらたちと、イスラエルの人々の氏族の長たちをエルサレムでソロモン王のもとに召し集めた。』(1列王記8:1)
神殿は完成し、全ての祭具も整えられた。
そして最後に、「契約の箱」、すなわちイスラエルの民と神との間における契約の本体、すなわち、契約の箱が、神殿の中の収まるべき所に安置される時、神殿としての役割が始まるのだ。

『そして彼らは主の箱と、会見の幕屋と、幕屋にあるすべての聖なる器をかつぎ上った。すなわち祭司とレビびとがこれらの物をかつぎ上った。ソロモン王および彼のもとに集まったイスラエルの会衆は皆彼と共に箱の前で、羊と牛をささげたが、その数が多くて調べることも数えることもできなかった。』(1列王記8:4-5)
神殿が完成した時、イスラエルがいかに家畜が増え祝福されていたかを伺い知る事が出来る。
しかし、前回も見た通り、大事なのは、祝福の源であられる神であって、これだけの家畜が捧げられる人間がすごいのではない。
人に敢えて賞賛を与えるとするなら、それだけの祝福を主から引き出せる程の従順と愛があった所だろう。

『そして祭司たちが聖所から出たとき、雲が主の宮に満ちたので、祭司たちは雲のために立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。』(1列王記8:10-11)
人が主を愛し、敬い、主に命じられた通りを守り行う時、聖なる主の栄光が満ち溢れる。
これと同じ事は、モーセの時代にも起こった。

『また幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の門にとばりをかけた。このようにしてモーセはその工事を終えた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。』(出エジプト記40:34-35)
主を礼拝する所を、主に命じられた通りに建て上げる時、主の栄光は満ち溢れる。
これはモーセの時代も、ソロモンの時代も、全く同じであり、そして今、私達の時代も全く同じである。

今、聖書は言う。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。』(1コリント3:16)
主の契約の箱、すなわち、主の約束の御言葉が、神殿の最も内奥なる所、すなわち、至聖所に収まった時、主の栄光が満ち満ちた。
それと同じように、私達という「神殿」の最も内奥なる部分、すなわち、私達の霊に主の約束の御言葉を収め、そして私達のからだで主の御言葉を守り行う時、主の栄光が、私達の内にも外にも、生活の全場面にも満ち満ちるのだ。

神殿の最も聖なる所に納められた契約の箱に入っている「あかしの板」は、英語では「the testimony」、ヘブライ語では「アイドース」、すなわち「あかし」や「証人」を意味する「アイド」の、女性形である。
契約の石板が女性形である事は、実に興味深い。
私達は、キリストに対しては、男も女も皆、「女」の立場である。
キリストこそ、全人類に対して唯一の主人であり、夫であり、そして教会はその妻、キリストの花嫁である。

旧約においては、神の言葉は石板に神の指によって記され、神の筆跡によって石の板に御言葉が刻みつけられたように、新約の今、神の言葉は私達の「心」に、神の指によって刻み込まれた。
『しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。』(エレミヤ31:33)
『わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。』(2コリント3:2-3)

新約の私達は、神の指によって、神の言葉が心に刻み込まれている。
そして新約の私達自身は、聖霊が宿る神の宮であり、幕屋に置かれた一つ一つの祭具のように、キリストの栄光のために用いられる者であり、そして教会はキリストの花嫁である。
私達自らを、キリストの言葉によって清めるなら、聖なる祭具としてますます聖なる事に用いられる器となって行き、ますます主の栄光がこの「宮」に満ち満ちて行くのである。

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