メッセージ - 1列王記カテゴリのエントリ
神殿の栄光とは(1列王記7:40-51)
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『ヒラムはまたつぼと十能と鉢を造った。こうしてヒラムはソロモン王のために主の宮のすべての細工をなし終えた。・・・ソロモンはその器が非常に多かったので、皆それをはからずにおいた。その青銅の重さは、はかり得なかった。』(1列王記7:40-47)
神殿の建物も、祭具類も、全て完成し整えられた。
そのために用いられた青銅や貴金属類の分量は非常に多かったが、これらは全て、ソロモンの父・ダビデの「主の宮を建てたい」という志によって始まり、ダビデはこれらを苦労して準備し、そしてソロモンが受け継いで、整えたものである。
ダビデは言っている。
「見よ、わたしは苦難のうちにあって主の家のために金十万タラント、銀百万タラントを備え、また青銅と鉄を量ることもできないほどおびただしく備えた。また材木と石をも備えた。あなたはまたこれに加えなければならない。」(1歴代誌22:14)
『またソロモンは主の宮にあるもろもろの器を造った。すなわち金の祭壇と、供えのパンを載せる金の机、および純金の燭台。この燭台は本殿の前に、五つは南に、五つは北にあった。また金の花と、ともしび皿と、心かきと、純金の皿と、心切りばさみと、鉢と、香の杯と、心取り皿と、至聖所である宮の奥のとびらのためおよび、宮の拝殿のとびらのために、金のひじつぼを造った。
こうしてソロモン王が主の宮のために造るすべての細工は終った。そしてソロモンは父ダビデがささげた物、すなわち金銀および器物を携え入り、主の宮の宝蔵の中にたくわえた。』(1列王記7:48-51)
このようにして、栄光に満ちた神殿は完成した。
しかし残念な事に、その栄光は、ソロモンの時代が最盛期で、それ以降、ただ下降の一途をたどる。
ソロモンの次の代は、親達が構築した七光りの上にあぐらをかいて傲慢になり、主を軽んじるようになり、結果、主の守りと祝福は去ってしまい、敵がのさばるようになり、攻めてきた敵をなだめるために、神殿の宝物倉を開いて、その尊い宝を敵に貢ぐようになり、そのように、財も栄光もただ浪費するようになってしまったのだ。
そして最終的には、神殿は異邦人によって破壊され、神殿の尊い器物は、ことごとく奪われてしまった。
『カルデヤびとはまた主の宮の青銅の柱と、主の宮の洗盤の台と、青銅の海を砕いて、その青銅をバビロンに運び、またつぼと、十能と、心切りばさみと、香を盛る皿およびすべて神殿の務に用いる青銅の器、また心取り皿と鉢を取り去った。侍衛の長はまた金で作った物と銀で作った物を取り去った。ソロモンが主の宮のために造った二つの柱と、一つの海と洗盤の台など、これらのもろもろの器の青銅の重さは量ることができなかった。
一つの柱の高さは十八キュビトで、その上に青銅の柱頭があり、柱頭の高さは三キュビトで、柱頭の周囲に網細工とざくろがあって、みな青銅であった。他の柱もその網細工もこれと同じであった。』(2列王記25:13-17)
ここには、第一列王記7章に記された明細と全く同じものがリストアップされているが、しかしそれらは、奪われて行ってしまったものの明細である。
第一列王記の初盤に記された明細には、栄えの絶頂期のような得意げな趣きがあったが、第二列王記の終わりは、絶望のどん底のような悲しい趣きとなってしまった。
結局、大切なのは建物や外見ではない。
人の、主を敬う心である。
せっかく富と栄誉がふんだんに与えられても、その人が主を軽んじ、主から離れてしまうなら、せっかく得た豪華絢爛な資産財産の明細は、単に、憎むべき敵に奪われて行くものの明細となってしまうのだ。
持たない者は、持っているものまで奪われてしまう、と書いてある通りである。
神殿とは、礼拝をする所だ。
そして神殿の器物の一つ一つは、主を礼拝するために用いるためのものだ。
神殿の栄光とは、何だろう。また、教会の栄光とは、何だろう。
それは、神殿や教会で礼拝される対象である「主の栄光」であって、建築したソロモンやヒラムなどの「人間の栄光」ではないのだ。
ソロモンの神殿が破壊された後、70年を経て、神殿は再び立て直されるのだが、破壊される前の豪華絢爛な有様を知っている老人たちは、立て直された後の神殿を見て、大声で泣いた。(エズラ記3:12)
『あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ。――エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ。――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ。――
あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。』(ハガイ書2:3-5)
捕囚から戻ってきた老人たちは、以前の神殿の有様と比べたら、無いにも等しい有様を見て、泣き叫んだが、結局、建物の美しさや大きさ、豪華絢爛さが大事なのではない。
金も銀も豊かに備えて下さる主こそ、大事である。
主は、礼拝者の心を見られ、その心が主に対し真実でまっすぐであるなら、主はその宮を「以前の栄光にも勝る」ようにされる。
『銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる』」。この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――万軍の主の御告げ。――」』(ハガイ2:8-9)
主は、金も銀も支配しておられるお方。
そして主は、私達を愛し、憐れみ、ひとり子のいのちまでも惜しみなく与えて下さったお方。
このお方こそ、主とするべきである。
祭司達が水の洗いをする「海」と洗盤(1列王記7:23-39)
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ヒラムは続いて、祭司が身を清めるための祭具である「海」を造った。
それは青銅の鋳物としてはとても大きく、贅の凝らされたものだった。
『また海を鋳て造った。縁から縁まで十キュビトであって、周囲は円形をなし、高さ五キュビトで、その周囲は綱をもって測ると三十キュビトであった。その縁の下には三十キュビトの周囲をめぐるひさごがあって、海の周囲を囲んでいた。そのひさごは二並びで、海を鋳る時に鋳たものである。その海は十二の牛の上に置かれ、その三つは北に向かい、三つは西に向かい、三つは南に向かい、三つは東に向かっていた。海はその上に置かれ、牛のうしろは皆内に向かっていた。』(1列王記7:23-25)
五キュビトの高さは、180cmの成人男性が、ばんざいした程の高さで、器の厚さは手のひらほど。
これ全部、青銅製である。青銅の器としては、かなりの大きさだ。
『海の厚さは手の幅で、その縁は杯の縁のように、ゆりの花に似せて造られた。海には水が二千バテはいった。』(1列王記7:26)
1バテは23リットルなので、46000リットルの水がその「海」に入った。
日本のガソリンを運ぶタンクローリーは大体20000リットルなので、その2倍の水が入ったのだ。
彼はさらに、洗盤を10個作る。
『また青銅の台を十個造った。台は長さ四キュビト、幅四キュビト、高さ三キュビトであった。・・・四つの車輪は鏡板の下にあり、車軸は台に取り付けてあり、車輪の高さはおのおの一キュビト半であった。車輪の構造は戦車の車輪の構造と同じで、その車軸と縁と輻と轂とはみな鋳物であった。』(1列王記7:27-33)
これら、洗盤をのせるための台は、縦横180センチメートルほどであり、風呂桶を大きくしたくらいのサイズで、車輪がついていて、移動が出来る。
これら、神殿の調度品のために用いられた青銅の分量は、はなはだ多かったため、ソロモンは分量を計らなかった。
また、ずっと後の時代、エルサレムがバビロンによって陥落した時、神殿の柱や「海」をカルデヤ人は破壊してバビロンへ運び去ったが、その青銅の分量はあまりに膨大だったため、彼らも計る事をしなかった。(2列王記25:13-16)
『このようにして十個の台を造った。それはみな同じ鋳方、同じ寸法、同じ形であった。また青銅の洗盤を十個造った。洗盤はおのおの四十バテの水がはいり、洗盤はおのおの四キュビトであった。十個の台の上にはおのおの一つずつの洗盤があった。その台の五個を宮の南の方に、五個を宮の北の方に置き、宮の東南の方に海をすえた。』(1列王記7:37-39)
このように、大きな「海」と、小さくて移動可能な「洗盤」十個を造り、神殿の庭に置いた。
これらのものは、祭司が神殿の務めに入る前に、身を浄めるためである。
主がモーセに幕屋建設を命じた時、祭司が聖なる所で務めに入る前には、水で洗いきよめるよう命じており、そのために、洗盤を造るよう指示されている。
『あなたはまた洗うために洗盤と、その台を青銅で造り、それを会見の幕屋と祭壇との間に置いて、その中に水を入れ、アロンとその子たちは、それで手と足とを洗わなければならない。彼らは会見の幕屋にはいる時、水で洗って、死なないようにしなければならない。また祭壇に近づいて、その務をなし、火祭を主にささげる時にも、そうしなければならない。すなわち、その手、その足を洗って、死なないようにしなければならない。これは彼とその子孫の代々にわたる永久の定めでなければならない」。』(出エジプト記30:18-21)
祭司が祭壇での務めをする前に、手足を水で洗い浄める事は、「永遠のおきて」として定められている。
だからソロモンも、祭司たちのために、これらのものを造らせたのだ。
祭司たちが務めの前に水で洗い浄める理由は、「死なないため」だと主は言っている。
祭壇や幕屋での奉仕は、それ程までに聖なる務めであり、清めないまま聖なる奉仕をする事は、主の怒りを招く事である。
今、私達も、主の務めを為すにあたって、かの祭司たちのように、清められた状態であるべきである。
私達は、どのような”水”によって身を清めるのか。
それは、キリストが語られた御言葉の水によって、であり、それは既に主が為して下さった。
『あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。・・・わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。』(ヨハネ15:3-5)
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26)
私達は、御言葉なるキリスト抜きには、浄められない。
もしキリストに繋がっていないのなら、主の御前に何も出来ないし、そして、しようとしてはならない。
だから、信仰が無い人は、いくら楽器の演奏が巧みだからと言って奏楽奉仕に任じてはならないし、会計やマネジメント力があるからと言って、教会運営を任せたりすると、大変な事になってしまうのだ。
私達は、世という旅路を歩いて来る時、どうしても、世や人々から罪や汚れを受けてしまう。
その汚れを、主は清めて下さった。
『夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。・・・
ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。』(ヨハネ13:4-10)
私達はイエス様に足を洗ってもらいっぱなしになっていてはならない。イエス様は、私達も互いにそのようにするようにと、模範を示されたのだ。
だから私達もイエス様にならい、兄弟姉妹どうし、御言葉の水でもって、互いに洗い合うべきであり、それはすなわち、御言葉という水によって霊的汚れを示し、教え、戒め、訓戒し、そして、イエス様の名によって祈り、きよめる事なのだ。
神殿の柱(1列王記7:13-22)
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13節以降は、神殿の諸々の調度品を造って行く過程が記されているが、まずは、それらを造るための特別な人の選別が行われた。
『ソロモン王は人をつかわしてツロからヒラムを呼んできた。彼はナフタリの部族の寡婦の子であって、その父はツロの人で、青銅の細工人であった。ヒラムは青銅のいろいろな細工をする知恵と悟りと知識に満ちた者(he was filled with wisdom and understanding and skill in working)であったが、ソロモン王のところにきて、そのすべての細工をした。』(1列王記7:13)
この銅細工人ヒラムは、ツロの王のヒラムとは別人であり、彼の父はツロの銅細工の職人、母はユダヤ人である。
おそらく、父からはツロの銅細工の技術を学び、母からは信仰を受け継いだのだろう。
荒野の幕屋の場合も、そのような、特別な技術や知恵を主から与えられた人が主から名指しされ、建設に当たるよう命じられている。
『主はモーセに言われた、「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。見よ、わたしはまたダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブを彼と共ならせ、そしてすべて賢い者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものを、ことごとく彼らに造らせるであろう。』(出エジプト記31:1-6)
彼らのような人は、「これこれのものを造りなさい」と言われたら、そのために必要な材料や手順も、全部、頭の中でイメージが組み上がるものだが、そのような知恵や技術、匠の技などの得意分野は、主から与えられるものであり、その与えられる能力を聖書では「賜物」と言う。
神の国の建て上げは、主から賜物を与えられた人がおのおの、それを発揮し合って建て上げていくものである。
『主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。そこで、こう言われている、/「彼は高いところに上った時、/とりこを捕えて引き行き、/人々に賜物を分け与えた」。』(エペソ4:5-8)
ヒラムが造った中で、真っ先に記されているものは、神殿を支える二本の大きな柱だった。
『彼は青銅の柱二本を鋳た。一本の柱の高さは十八キュビト、そのまわりは綱をもって測ると十二キュビトあり、指四本の厚さで空洞であった。他の柱も同じである。また青銅を溶かして柱頭二つを造り、柱の頂にすえた。その一つの柱頭の高さは五キュビト、他の柱頭の高さも五キュビトであった。・・・この柱を神殿の廊に立てた。すなわち南に柱を立てて、その名をヤキンと名づけ、北に柱を立てて、その名をボアズと名づけた。』(1列王記7:15-21)
ヤキンは「主が設立する」、ボアズは「力のうちに」の意味がある。
これら、特別な名前がつけられた柱は、神殿を支える重要な部分だった。
教会にも、柱と見られる人がいる。
使徒パウロは言っている。
『そして、かの「重だった人たち」からは――彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから――事実、かの「重だった人たち」は、わたしに何も加えることをしなかった。・・・”柱”として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。』(ガラテヤ2:6-9)
初代教会では、イエス様の12弟子だったヤコブやケパ(シモン・ペテロ)、ヨハネが「柱」として重んじられていた事がここから分かる。
そのように、柱のように重要な役割を担っている人が教会にはいるが、しかし「ヤキンとボアズ」の二本だけでは神殿を支えられず他の柱も必要であるように、人とは完全なものではなく、柱となっている彼らを支える人もまた、必要なのである。
パウロは、柱とされていたケパが非難すべき事をした時は、叱責によって彼を支えた。(同11-14節)
私達も、”聖所における柱”になることができる。
『勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:12)
勝利を得る者、聖所の柱となって新しい名が記される人とは、どのような人であるのか。
『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。・・・忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(黙示録3:8-10)
すなわち、主の言葉を忍耐して守り、主の御名を否まない人、そのような人は、勝利し、聖所の柱として用いられ、主の御そば近くから離れる事なく仕える事が出来、そして、世に来るべき試練の時に、主によって守られるのだ。
ソロモンの宮殿(1列王記7:1-12)
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『またソロモンは自分の家を建てたが、十三年かかってその家を全部建て終った。』(1列王記7:1)
ソロモンは、神殿のほかに、自分の住む家であり、仕事場でもある「宮殿」も建てた。
神殿は建てるのに七年要したが、宮殿は、十三年もかかった。
『彼はレバノンの森の家を建てた。長さ百キュビト、幅五十キュビト、高さ三十キュビトで、三列の香柏の柱があり、その柱の上に香柏の梁があった。四十五本の柱の上にある室は香柏の板でおおった。柱は各列十五本あった。また窓わくが三列あって、窓と窓と三段に向かい合っていた。戸口と窓はみな四角の枠をもち、窓と窓と三段に向かい合った。また柱の広間を造った。長さ五十キュビト、幅三十キュビトであった。柱の前に一つの広間があり、その玄関に柱とひさしがあった。』(1列王記7:2-6)
ソロモンの家である宮殿は、長さ百キュビト、幅五十キュビトで、神殿よりももっと大きかった。
主を礼拝する神殿よりも、ソロモンの住む家のほうが、大きさにおいても建築年数においても勝っていたからと言って、ソロモンはこの時から主をないがしろにしていた事にはならない。
神殿は、主が荒野でモーセに示された「幕屋」が元となっており、幕屋は、主から特別に「このように造りなさい」と、寸法や材料に至るまで細かく指示されていたため、逸脱してはならない寸法や造作があったのに対し、ソロモンが住む家は、彼が自由に設計し建築できるものだったのだ。
一キュビトおよそ45cmであるので、ソロモンの宮殿は、長さ45メートルほどである。
現代建築に比べれば決して大きいとは言えないが、当時の技術と用いられた材料からすれば、かなり豪勢なものであった。
もし、国の中にまだ助けるべき貧しい人がいるにもかかわらず、重税を取り立て、自分だけが豪勢な宮殿を建てるという事なら、問題であったろう。
しかし当時、全イスラエルは富んでおり、潤っていた。
主がそこまでイスラエルを祝福し、王であるソロモンに大いなる栄光と富を与えられた、というのであれば、それに相応しい豪華絢爛な宮殿を建てるのは至極当然であり、内外に対して、主と主の国イスラエルの威光を示す事になる。
多くのお金も、富む事も、元々悪い事でも良い事でもない。
ただ、これを得ようとして主を忘れてしまう危険性があるものではある。
事実、ソロモンの人生の後半は、神である主よりも、女を愛し、偶像礼拝に陥ってしまい、せっかく与えられた全ての贅沢な物事は、全て、むなしいものとなってしまった。
『この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。』(1テモテ6:17)
『これらはみな内外とも、土台から軒まで、また主の宮の庭から大庭まで、寸法に合わせて切った石、すなわち、のこぎりでひいた高価な石で造られた。また土台は高価な石、大きな石、すなわち八キュビトの石、十キュビトの石であった。その上には寸法に合わせて切った高価な石と香柏とがあった。』(1列王記7:9-11)
神殿と宮殿とは、素材や工法において違う。ソロモンは神殿と宮殿を、聖と俗という点で区別したのだ。
ソロモン宮殿は、のこぎりで引かれた石や香柏を素材としており、世俗的な工法が用いられたのに対し、神殿は、石切り場で整えられた石が用意され、建築現場では鉄器が一切使われず、静かに組み立てられ、内面にはケルビムの装飾や純金が施されるなど、聖別された材料や工法が用いられた。
『またソロモンはみずから審判をするために玉座の広間、すなわち審判の広間を造った。床からたるきまで香柏をもっておおった。ソロモンが住んだ宮殿はその広間のうしろの他の庭にあって、その造作は同じであった。ソロモンはまた彼がめとったパロの娘のために家を建てたが、その広間と同じであった。』(1列王記7:7-8)
ソロモンは、彼の仕事の場と生活の場を造り、そして特に、彼がめとったパロの娘のために家を建てた事が、記されている。
『ソロモンはパロの娘をダビデの町から連れ上って、彼女のために建てた家に入れて言った、「主の箱を迎えた所は神聖であるから、わたしの妻はイスラエルの王ダビデの家に住んではならない」。 』(2歴代誌8:11)
夫婦は本来、ひとつであるはずなのに、妻と一緒に聖なる所に住めない、というのは、なんとも寂しい事である。
彼が最初からヘブル人の女性と添い遂げていれば、そうならなかったものを、と思われる。
彼の代表的な妻は、どうやらこのエジプトのパロの娘だったようであるが、後にはさらに、七百人の王妃と三百人のそばめを持つようになり、さらに後には、ソロモンは彼女たちによって心が主から転じてしまい、ついには、女にそそのかされる形で、イスラエルを堕落と滅びへと向かわせてしまった。
結局、大事な事は、主を第一として愛しているかどうかなのだ。
富や女、その他、世のものを「愛する」時、健全な信仰から引き離されてしまう危険性が潜んでいる事に、我々は注意すべきである。
『世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる』(1ヨハネ2:15-17)
神の国とその義とを第一に求めるなら、世のものは「加えて」「付随的に」与えられるものであって、結局第一とすべきは、神の国と神の義なのだ。
神殿のきらびやかさより、人の心を評価される主(1列王記6:14-38)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1列王記
- 執筆 :
- pastor 2016-1-4 20:15
神殿のきらびやかさより、人の心を評価される主(1列王記6:14-38)
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続いて、ソロモンが神殿をどのように建てたか、さらに詳細な内容が記されている。
『彼は香柏の板をもって宮の壁の内側を張った。すなわち宮の床から天井のたるきまで香柏の板で張った。また、いとすぎの板をもって宮の床を張った。また宮の奥に二十キュビトの室を床から天井のたるきまで香柏の板をもって造った。すなわち宮の内に至聖所としての本堂を造った。宮すなわち本殿の前にある拝殿は長さ四十キュビトであった。宮の内側の香柏の板は、ひさごの形と、咲いた花を浮彫りにしたもので、みな香柏の板で、石は見えなかった。そして主の契約の箱を置くために、宮の内の奥に本殿を設けた。
本殿は長さ二十キュビト、幅二十キュビト、高さ二十キュビトであって、純金でこれをおおった。また香柏の祭壇を造った。』(1列王記6:15-20)
この、宮の内奥にある「本殿」は、幕屋における「至聖所」にあたる所で、そこに契約の箱が安置され、年に一度、大祭司が血を携えて入って全イスラエルの贖いをする。
この「本殿」の寸法も幕屋の二倍で、縦横高さそれぞれ二十キュビトの立方体である。
ソロモンの神殿は、主がモーセに造らせた荒野の幕屋の二倍の寸法になっているが、材料は全く違う。
主がモーセに「このように造らなければならない」と言って示された幕屋は、四層の幕から成っており、解体して携行したり、また組み立てたりする事が可能なテントである。
その一番内側は、ケルビムの織り込まれた幕、次にやぎの毛の幕、その上は赤くなめした雄羊の皮の覆い、一番外側は、じゅごんの皮のおおいであった。
だから、人々が「幕屋」を外側から見る時、それはじゅごんの皮で覆われた巨大なテントとして見えるので、あまり見栄えが良いものではなかったが、しかしその内側には主の栄光が輝いていた。
対してソロモンの神殿は、解体不能な建造物で、外側が石、その内は香木やいとすぎの板、さらにその内は、純金であり、外見からしても豪勢であった。
『ソロモンは純金をもって宮の内側をおおい、本殿の前に金の鎖をもって隔てを造り、金をもってこれをおおった。また金をもって残らず宮をおおい、ついに宮を飾ることをことごとく終えた。また本殿に属する祭壇をことごとく金でおおった。』(1列王記6:21-22)
この神殿の内側は、残らず金で覆われていたため、灯火を灯すと、上限左右の金の壁面が光を反射して、とても美しくきらびやかな様子であった事が想像できる。
ソロモンはさらに、本殿(至聖所)の中に、高さおよそ4.5mのケルビムを造った。(23-28節)
ケルビムは、主の栄光と臨在をあらわす生き物であり、また、聖なる領域と俗なる領域の間に立って守る主の使いでもある。
エデンの園は、このケルビム達と、全方向に回転する炎の剣とによって守られ、人は入れなくなってしまった。(創世記3:24)
『彼は宮の周囲の壁に、内外の室とも皆ケルビムと、しゅろの木と、咲いた花の形の彫り物を刻み、宮の床は、内外の室とも金でおおった。本殿の入口にはオリブの木のとびらを造った。そのとびらの上のかまちと脇柱とで五辺形をなしていた。その二つのとびらもオリブの木であって、ソロモンはその上にケルビムと、しゅろの木と、咲いた花の形を刻み、金をもっておおった。すなわちケルビムと、しゅろの木の上に金を着せた。』(1列王記6:29-32)
モーセの幕屋では、最も内側の幕にケルビムが織り込まれていたが、それは今や、周囲の壁にも現れるようになった。
主の栄光の臨在が外へと広がり、以前よりも大きくなっているのだ。
さらに、黙示録では、主の栄光の臨在はもっと顕著となり、天から降ってきた新しい都・エルサレムが、神殿の究極的な完成形として表されている。
『御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。・・・都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。』(黙示録21:10-16)
『私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。』(22-26節)
モーセの時の幕屋の至聖所は、縦横高さ10キュビトの立方体だったが、ソロモンの神殿では20キュビトの立方体となり、それが黙示録では、一万二千スタディオン(2220km)の立方体となっている。
もはや都そのものが至聖所となり、主の栄光の臨在が都のどこもかしこも照らし、太陽も月もいらないのだ。
アダム以来、エデンの園はケルビムによってガードされ、いのちの木に至る道を失ってしまったが、ほふられた小羊キリストの血によって自らを洗った聖徒達は、この都に自由に入る事が出来、いのちの木にあずかる事が出来る。
『第四年のジフの月に主の宮の基をすえ、第十一年のブルの月すなわち八月に、宮のすべての部分が設計どおりに完成した。ソロモンはこれを建てるのに七年を要した。』(1列王記6:37-38)
ソロモンは、7年がかりで神殿を造った。それは幕屋に比べれば非常に贅を凝らした造りだったが、後の時代には異邦人に破壊され、汚される事となってしまう。
なぜなら神は、神殿という”場”に特別に住まわれるのではなく、神殿で礼拝をする「人の心」にこそ働かれるからだ。
ステパノは、神殿冒涜の濡れ衣を着せられて、裁判の席に立たされた時、欺瞞に満ちているイスラエルの指導者達に言った。
『ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。
しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、『主が仰せられる、/どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、/地はわたしの足台である。これは皆わたしの手が造ったものではないか』。
かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」』(使徒7:46-53)
ソロモン以降の王たちも、また、使徒時代の人々も、神殿を重んじておきながら御言葉から逸脱し、その心は主から遠く離れ、表向きでは神を敬っているようでも実は主に背き、主の怒りを積み上げていたのだ。
結局のところ、主が評価されるのは、神殿のきらびやかさではない。
礼拝者の心である。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。』(1コリント3:16-17)
神殿や礼拝堂といった、建物の大きさやゴージャスさが重要なのではなく、神と対面する「人」こそ重要なのだ。
私達こそ、キリストが宿られる神の建物であり、そしてその土台は、キリストご自身である。
そして、このキリストという土台の上に、私達は神の家を立てていくのだが、どのように建てるべきか、それは、各人にかかっている。
『あなたがたは神の畑であり、神の建物である。神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。
そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。』(同9-13節)
神殿の構成と、私達キリスト者の関係(1列王記6:1-13)
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6章には、ソロモンが建てた神殿の詳細が記されている。
『イスラエルの人々がエジプトの地を出て後四百八十年、ソロモンがイスラエルの王となって第四年のジフの月すなわち二月に、ソロモンは主のために宮を建てることを始めた。ソロモン王が主のために建てた宮は長さ六十キュビト、幅二十キュビト、高さ三十キュビトであった。宮の拝殿の前の廊は宮の幅にしたがって長さ二十キュビト、その幅は宮の前で十キュビトであった。』(1列王記6:1-3)
神殿の機能と構造は、主が荒野でモーセに示された「幕屋」と同じであるが、その寸法は、荒野の幕屋の2倍となっており、また、幕屋よりもさらに尊い素材から造られている。
この「神と人とが相まみえる場」は、幕屋から神殿へと成長し、最後には、神と人とが永遠に共に住む永遠の都として、完成されて行く。(黙示録21章)
『彼は宮に、内側の広い枠の窓を造った。また宮の壁につけて周囲に脇屋を設け、宮の壁すなわち拝殿と本殿の壁の周囲に建てめぐらし、宮の周囲に脇間があるようにした。下の脇間は広さ五キュビト、中の広さ六キュビト、第三のは広さ七キュビトであった。宮の外側には壁に段を造って、梁を宮の壁の中に差し込まないようにした。』(1列王記6:4-6)
ソロモンが建てた神殿が、正確にどのような構造であったのかは、文字での説明しか残されていないため、図解によってはそれぞれに若干の違いは出てくるが、ソロモンが具体的にどんな神殿を立てたのかは、あまり重要ではない。
その事を思い巡らせる事は、知的には楽しい事だが、今、”私達”という「キリストが住まわれる神殿」は、一体どのような特徴を持っているのか、ソロモンが建てた神殿の性質から読み解いて行く事には大いに意義があるので、その観点から見ていきたい。
『宮は建てる時に、石切り場で切り整えた石をもって造ったので、建てている間は宮のうちには、つちも、おのも、その他の鉄器もその音が聞えなかった。』(1列王記6:7)
神殿の建設現場では、一切、鉄器の音が聞かれない程に、材料があらかじめ全て整えられていた。
当時の建築技術水準がとても高かった事を、伺い知る事が出来る。
なお、祭壇を建てる時は素材とする石は鉄器が当てられてはならず、「自然のままの石」を用いるよう、主がモーセに命じられている。
『またそこにあなたの神、主のために、祭壇、すなわち石の祭壇を築かなければならない。鉄の器を石に当てず、自然のままの石であなたの神、主のために祭壇を築き、その上であなたの神、主に燔祭をささげなければならない。』(申命記27:5-6)
『あなたがもしわたしに石の祭壇を造るならば、切り石で築いてはならない。あなたがもし、のみをそれに当てるならば、それをけがすからである。』(出エジプト記20:25)
ところで、ソロモンが石切り場で「切り整えた石」は、ヘブル語では「エベン・シャレーマー」、形容詞シャーレームの女性単数形であり、「自然なままの」「完全な」という意味である。
また、申命記にて、主がモーセに自然のままの石で祭壇を造るよう命じられたその「自然のままの石」は、「アヴェニーム・シェレモート」、これはソロモンの時の石の「エベン・シャレーマー」と同じ意味の、女性複数形である。
神にいけにえを捧げる「祭壇」は、人手が一切加えられない、自然のままの石たち(女性複数形)が用いられるよう命じられているが、ソロモンの神殿は、石切り場で整えられた(あるいは、自然なままの、完全な)、”単数形の石”によって建てられた。
これは、どういう事を意味するのだろう。
預言者ダニエルは、ネブカデネザル王の夢を解き明かした時、その夢の中では、ネブカデネザル王を筆頭とする帝国郡(バビロン、メド・ペルシア、ギリシヤ、ローマ)を象徴する巨大な像があった。
しかしその像は、人手によらずに切り出された一つの「石(男性単数形)」によって粉々に砕かれ、その石は、大きな山となって全土に満ちた。(ダニエル書2章)
この、人手によらずに切り出された(男性単数形の)石、それは間違いなくキリストを表している。
今、教会はキリストの花嫁(女性)であり、キリストこそ、唯一まことの夫(男性)である。
このキリストがあらわれた今、私達・信じた一人ひとり(教会:エクレシアすなわち召しだされた者たち)は、それぞれがキリストを宿す神殿であり(1コリント3:16)、キリストのからだを構成する各器官である。(1コリント12:27)
私達は生物学的には男女はあるが、霊的には、キリストにあって全て女であり、キリストこそまことの男性である。
キリストは私達教会のかしら、すなわち夫であり、私達・信じる者たちの信仰の土台石である。
つまり、主にいけにえをささげる「祭壇」を構成する石が、「女性複数形」であるのは、私達一人ひとりが「生ける石」であり、神によろこばれる霊のいけにえを捧げるためである。
次のように書いてある。
『この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ「生ける石」となって、「霊の家」に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。 』(1ペテロ2:5)
では、何によって神の家へと組み込まれ、建て上げていくのか。
それは、イエスを生ける神の御子とする信仰告白によって、である。
『そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ(ペトロス:岩盤(ペトラ)から切り離された石ころ、男性名詞)である。そして、わたしはこの「岩(ペトラ、女性単数名詞)」の上にわたしの「教会(エクレシア:集会、集まり、教会。女性単数名詞)」を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。』(マタイ16:15-18)
ペテロは、イエス様を「知らないと言った時、集いから切り離された、自立した、そして心細い一人の男性であった。
しかし彼が再びキリストの集い集まりなおした時、その集いの中に、復活のキリストというまことの夫が入ってきて下さり、その集いは強い岩盤(ペトラ)となって、黄泉の力も打ち勝てないほどの盤石なものとなり、教会は、いかなる迫害にあっても、決して廃れる事は無かったのだ。
そして預言者ダニエルが解き明かした通り、この人手によらず切り出された石は、人間によるローマ帝国を打ち破り、かえってキリスト教国へとしてしまったのだ。
すなわち、私達・キリスト者一人ひとりが、神であるキリストを宿す小さな神殿であり、神の家を築き上げる「生ける石」であり、それぞれが組み合わさって、岩盤(ペトラ)である教会となり、そして教会は、唯一夫なるお方・キリストの花嫁である。
『勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:12)
そして、祭壇の石には、鉄の道具が当てられてはならないのと同じように、キリストのからだを建て上げる私達一つ一つの石もまた、人手によって切り出されたり、加工されたりしてはならない。
誰でも、人間の知恵によってキリストを信じるものではないし、人の努力によって神に受け入れられる器になれるものでもない。
『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。』と記されている通りである。(1コリント12:3)
つまり、教会は、鉄の道具など人間の強制力によらず、自然に、聖霊の思うがままの導きによって、建て上げていくべきものである。
『そこで主の言葉がソロモンに臨んだ、「あなたが建てるこの宮については、もしあなたがわたしの定めに歩み、おきてを行い、すべての戒めを守り、それに従って歩むならば、わたしはあなたの父ダビデに約束したことを成就する。そしてわたしはイスラエルの人々のうちに住み、わたしの民イスラエルを捨てることはない」。』(1列王記6:11-13)
ここの、13節だけをピックアップするなら、神は決して捨てる事は無い、と見えるが、後の歴史を見ると、神に見放され追放された者であるかのような歴史をたどっている。
それは、12節の条件「主の定めに歩み、おきてを行い、すべての戒めを守り、それに従って歩む」事をしなかったからだ。
私達は、主の道を決して外す事なく歩み、神の家に組み込まれ、神殿の柱となるまでに、主と共に歩んで行きたい。
『忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:10-12)
異邦の王との共同作業により進められた神殿建設(1列王記5:1-18)
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- 執筆 :
- pastor 2015-12-23 23:40
異邦の王との共同作業により進められた神殿建設(1列王記5:1-18)
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『さてツロの王ヒラムは、ソロモンが油を注がれ、その父に代って、王となったのを聞いて、家来をソロモンにつかわした。ヒラムは常にダビデを愛したからである。』(1列王記5:1)
5章には、神殿建設の準備がいかに進められて行ったかが記されている。
その重要な役割を担ったのが、この、ダビデの代から親交のあったツロという国の王ヒラムである。
ツロはガリラヤ湖北西の海沿いにあり、古来より海洋貿易で栄えた。
ソロモン王が建築したエルサレム神殿建設の素材は、主に、このツロからのものであった。
神の民イスラエルの最も聖なる建造物の材料が、異邦の国に由来する、というのは、実に興味深い。
神であられる主は実に、異邦人をも含めた、全世界の主なのである。
『そこでソロモンはヒラムに人をつかわして言った、「あなたの知られるとおり、父ダビデはその周囲にあった敵との戦いのゆえに、彼の神、主の名のために宮を建てることができず、主が彼らをその足の裏の下に置かれるのを待ちました。ところが今わが神、主はわたしに四方の太平を賜わって、敵もなく、災もなくなったので、主が父ダビデに『おまえに代って、おまえの位に、わたしがつかせるおまえの子、その人がわが名のために宮を建てるであろう』と言われたように、
わが神、主の名のために宮を建てようと思います。それゆえ、あなたは命令を下して、レバノンの香柏をわたしのために切り出させてください。わたしのしもべたちをあなたのしもべたちと一緒に働かせます。またわたしはすべてあなたのおっしゃるとおり、あなたのしもべたちの賃銀をあなたに払います。あなたの知られるとおり、わたしたちのうちにはシドンびとのように木を切るに巧みな人がないからです」。』(1列王記5:2-6)
ソロモンはヒラムに、神殿建設のために必要な杉材を輸入したい旨と、その見返りに、望むものは何でも支払う事を申し出たが、彼の申し出の中には、「主(エホバ)」の御名が、頻繁に用いられている。
私達も、主にあって祝福されている事、そして主から知恵が与えられている事を、積極的に世の人にあかしして行くべきであり、そして、彼らも主の礼拝を建て上げるために、主の働きに参加するよう申し出るべきである。
『ヒラムはソロモンの言葉を聞いて大いに喜び、「きょう、主はあがむべきかな。主はこのおびただしい民を治める賢い子をダビデに賜わった」と言った。』(1列王記5:7)
ソロモンのこの申し出に、異邦の王ヒラムは喜び、主(エホバ)の御名を誉め称えた。
これは、ソロモンが主を正しくあかしした故だ。
私達も正しく主の御力と栄光と、そして主が為してくださったあらゆる良き事を人々にあかしする時、人々は喜びをもって、私達と交わりを持ちたいと願うようになるのだ。
『そしてヒラムはソロモンに人をつかわして言った、「わたしはあなたが申しおくられたことを聞きました。香柏の材木と、いとすぎの材木については、すべてお望みのようにいたします。わたしのしもべどもにそれをレバノンから海に運びおろさせましょう。わたしはそれをいかだに組んで、海路、あなたの指示される場所まで送り、そこでそれをくずしましょう。あなたはそれを受け取ってください。また、あなたはわたしの家のために食物を供給して、わたしの望みをかなえてください」。』(1列王記5:8-9)
この異邦の王は、豊かに恵みを下さる主から祝福を受けたソロモンと親交を持つ事が出来る事を、そして、その偉大なる主の事業に共に参加できる事を、とても喜び、ソロモンが受けた莫大な恩恵が、自分達の中に入ってくる事を喜んでいる。
神の民であるキリスト者は、世と分断して生きるべきではない。
主から祝福を受けたキリスト者は、その与えられた祝福を世へと流し出して行き、世も、私達を通して祝福の元なる主に繋げていくべきものなのだ。
『こうしてヒラムはソロモンにすべて望みのように香柏の材木と、いとすぎの材木を与えた。またソロモンはヒラムにその家の食物として小麦二万コルを与え、またオリブをつぶして取った油二万コルを与えた。このようにソロモンは年々ヒラムに与えた。主は約束されたようにソロモンに知恵を賜わった。またヒラムとソロモンの間は平和であって、彼らふたりは条約を結んだ。』(1列王記5:10-12)
1コルは約220リットルだから、その年間に輸出した量はかなり膨大である。
前章でも見た通り、ソロモンの家で消費される小麦や牛、羊は莫大な量であったが、しかしそれでも民は重税で苦しんだのではなく、それだけ貢を収めてなお平和に飲み食いして楽しんだのだ。
民が重い取り立てで苦しみ、王だけがふんだんに飲み食いするとするなら、ただの暴君であるが、ソロモンが健全な信仰に留まっていた時は、民も王も主の祝福で豊かに潤っていたのだ。
こうして主が賜った有り余った富みによって、異邦の杉材を輸入し、そうして神殿が建てられていった。
『ソロモン王はイスラエルの全地から強制的に労働者を徴募した。その徴募人員は三万人であった。ソロモンは彼らを一か月交代に一万人ずつレバノンにつかわした。すなわち一か月レバノンに、二か月家にあり、アドニラムは徴募の監督であった。・・・王は命じて大きい高価な石を切り出させ、切り石をもって宮の基をすえさせた。こうしてソロモンの建築者と、ヒラムの建築者およびゲバルびとは石を切り、材木と石とを宮を建てるために備えた。』(1列王記5:13-18)
木材や石材を切ったり運んだりするのは、確かに重労働であるが、しかし労働条件はなんと、3ヶ月ローテーションの中で1ヶ月だけ働き、後の2ヶ月は休む、というものだ。
日本では、「年間休日数」として120日という数字はよく見るが、当時のイスラエルはそれが逆転して、「年間労働日数」が120日くらいで、それだけ働いても充分労働者の生活が賄われるほどの報酬が払われていたのだろう。
労働条件までも、祝福につぐ祝福である。
異邦人たちは、イスラエルの民が、主に祝福されている有様を見、彼らを祝福してくださった主を誉めたたえ、共に主の事業に参加した。
こうして主に祝福された神の民イスラエルの富は、世界へと流し出され、こうして、全世界に主の栄光と富が、主のおしえと救いが、さらに流れて行くはずだった。
ところがソロモンは途中から主から離れ、女達にそそのかされ、偶像礼拝へと落ちて行ってしまい、主の人類救済のご計画が果たされるのは、もっと後押しになってしまった。
人は何度、主を残念がらせただろう。
元々、ソロモンに祝福が与えられたきっかけは、彼が「聞き従う(シェマー)」心を求めたからだった。
私達は常に主に聞き従う心をキープし、ますます祝福されて行く者でありたい。
ソロモンに与えられた莫大な祝福(1列王記4:1-34)
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イスラエルの人々は、神がソロモンに大いなる知恵が与えられたのを見て恐れ、彼がさらに大いなる者となって行く様がこの4章に記されている。
『ソロモン王はイスラエルの全地の王であった。彼の高官たちは次のとおりである。・・・』(1列王記4:1-6)
1節から6節までは、王の元での高官達の名前がリストアップされている。
その中には、ダビデ王の時代に、ダビデ王に仕えた人達の名前もちらほら登場する。
『ソロモンはまたイスラエルの全地に十二人の代官を置いた。その人々は王とその家のために食物を備えた。すなわちおのおの一年に一月ずつ食物を備えるのであった。その名は次のとおりである。・・・』(1列王記4:7-19)
7節から19節には、ソロモンがイスラエル全土に置いた、十二人の代官の名が記されている。
代官たちはそれぞれ、一年のひと月の間、貢を集めてソロモン王におさめていたが、王に納められる食料の分量は、とても膨大である。(後述)
『ユダとイスラエルの人々は多くて、海べの砂のようであったが、彼らは飲み食いして楽しんだ。』(1列王記4:20)
ダビデ王の時代、彼がイスラエルの人口を数えようとした所、ヨアブから「どうぞあなたの神、主が、民を今よりも百倍に増してくださいますように。」と戒められたが(2サムエル記24:3)今や、その数は数えきれないほどに多くなり、それでかつ、地の産物も豊かに採れたので、食料の心配をする事なく繁栄を楽しんだ。
繁栄は、神の祝福である。
主の御声に聞き従うなら、主がそのような大きな繁栄と祝福を与えて下さる事は、主がモーセの時から示して下さった約束である。
『もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」』(申命記11:13-15)
主の御声に聞き従うなら、どんなに産物が祝福されるか、ソロモン王が純粋な信仰を持っていた時の繁栄ぶりを見れば、わかる。
いや、主は当時のソロモン以上に祝福を与えて下さる事さえ、可能なお方である。
『ソロモンはユフラテ川からペリシテびとの地と、エジプトの境に至るまでの諸国を治めたので、皆みつぎ物を携えてきて、ソロモンの一生のあいだ仕えた。さてソロモンの一日の食物は細かい麦粉三十コル、荒い麦粉六十コル、肥えた牛十頭、牧場の牛二十頭、羊百頭で、そのほかに雄じか、かもしか、こじか、および肥えた鳥があった。これはソロモンがユフラテ川の西の地方をテフサからガザまで、ことごとく治めたからである。すなわち彼はユフラテ川の西の諸王をことごとく治め、周囲至る所に平安を得た。』(1列王記4:21-24)
王宮で消費される食料は、とんでもない分量だ。
1コルは約220リットル、だから王の食卓に一日にのぼった分量は、麦粉6600リットル、大麦は13200リットル、いかに王の家が豪勢であったかが、うかがえる。
こんなに食べ切れない程の食料を集めて、何になるのだろうか、と思うだろうか。
いや、主の祝福が下るなら、収穫が多すぎて、有り余ってしまうのである。
『わたしはあなたがたを顧み、多くの子を獲させ、あなたがたを増し、あなたがたと結んだ契約を固めるであろう。あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。』(レビ記26:9-10)
主の御言葉を守り行うなら、子供たちはおびただしく多くなって行く。それでいて、穀物倉から食料が尽きてしまう、という事も、一切無い。
新しい収穫物を倉庫に入れる時、そこには昨年穫れた作物がまだ残っており、それを捨てる、という事が、毎年あるのだ。
もっとも、主の祝福なしにこのような豪勢な生活を毎日送るとしたら、それは暴君である。
彼は晩年、人々から重税を取り立てる暴君として人々の生活を苦しめていた。
「ソロモンの一生の間、ユダとイスラエルはダンからベエルシバに至るまで、安らかにおのおの自分たちのぶどうの木の下と、いちじくの木の下に住んだ。」(25節)
ここは元々、「乳と蜜の流れる地」である。
主がアブラハムに与えられると約束されたこの土地は元々、これほど莫大な産物を生み出すものなのだ。
『もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。』(申命記28:1-6)
祝福される条件は、「主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば」である。
そうするなら、次の祝福が待っている。
『主は命じて祝福をあなたの倉と、あなたの手のすべてのわざにくだし、あなたの神、主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。主があなたに与えると先祖に誓われた地で、主は良い物、すなわちあなたの身から生れる者、家畜の産むもの、地に産する物を豊かにされるであろう。
主はその宝の蔵である天をあなたのために開いて、雨を季節にしたがってあなたの地に降らせ、あなたの手のすべてのわざを祝福されるであろう。あなたは多くの国民に貸すようになり、借りることはないであろう。主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。』(申命記28:8-13)
この祝福はまさに、ソロモン王が、主の御声に聞き従う心を求めた故であり、そしてこの時は実際、聞き従っていたからである。
しかし、聞き従う事をやめてしまって他の神々に向かうなら、それら祝福とは真逆のことが起こってしまう。
それは、徹底した呪いである。(申命記28:8-15節以降)
『ソロモンはまた戦車の馬の、うまや四千と、騎兵一万二千を持っていた。そしてそれらの代官たちはおのおの当番の月にソロモン王のため、およびすべてソロモン王の食卓に連なる者のために、食物を備えて欠けることのないようにした。また彼らはおのおのその割当にしたがって馬および早馬に食わせる大麦とわらを、その馬のいる所に持ってきた。』(1列王記4:26-28)
モーセは、王たる者は自分のために馬を多くしてはならないと、主の御言葉を伝えた。
『王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。また妻を多く持って心を、迷わしてはならない。また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。』(1列王記17:16-17)
ソロモンはこれからさらに多くの女をめとり、金銀を増やし、また、馬も多く増やそうとして行く。
彼が主から心を背けてしまう兆しが、既にあらわれているが、彼は父ダビデの故に、すぐに呪いが来るという事がない。
ソロモンに与えられたのは、富や栄誉ばかりではない。
『神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、また海べの砂原のように広い心を授けられた。ソロモンの知恵は東の人々の知恵とエジプトのすべての知恵にまさった。彼はすべての人よりも賢く、エズラびとエタンよりも、またマホルの子ヘマン、カルコル、ダルダよりも賢く、その名声は周囲のすべての国々に聞えた。彼はまた箴言三千を説いた。またその歌は一千五首あった。彼はまた草木のことを論じてレバノンの香柏から石がきにはえるヒソプにまで及んだ。彼はまた獣と鳥と這うものと魚のことを論じた。』(1列王記4:29-33)
彼には、世の中の知恵者では誰にも叶わない、素晴らしい知恵が与えられた。
彼は、文学的・芸術的感性ばかりでなく、建築学や自然科学、サイエンスの面でも、あらゆる方面のエキスパートだったのだ。
主は、これ程までに、富と栄誉を、そして知恵を与える事の出来るお方である。
これらが彼に与えられたのは、「主に聞き従う心」を求めたからであり、当初はそれを守って主のために正統に用いたからだ。
ただ彼の場合、主への誠実を最後まで貫かなかったから、この繁栄も続かず、子供たちにその知恵が継がれる事も無かった。
もしもソロモンが、最後まで、主への誠実を貫き通していたなら、もっともっと祝福され、富も、栄誉も、知恵も、増し加えられた所だろう。
主に聞き従うなら、これ程大きな富と栄誉、知恵、祝福が与えられる、という望みを持って、主に従って行きたい。
ソロモンが裁判で用いた、心を露わにする「剣」(1列王記3:16-28)
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- 執筆 :
- pastor 2015-12-18 23:50
ソロモンが裁判で用いた、心を露わにする「剣」(1列王記3:16-28)
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ソロモンは主に「聞き従う心」を求めた故に、主に喜ばれ、主は彼に大いなる知恵と、栄誉と、富とを与えられたが、それが大いに発揮され人々に知れ渡る出来事が起こる。
『さて、ふたりの遊女が王のところにきて、王の前に立った。』(1列王記3:16)
当時のイスラエルでは、何か事件が起きると、まずは十人の長に相談して判定してもらい、そこで解決できないならさらに百人の長、千人の長へと上訴して裁判してもらい、それでも解決できないなら、王に裁判してもらっていた。(出エジプト記18章)
『ひとりの女は言った、「ああ、わが主よ、この女とわたしとはひとつの家に住んでいますが、わたしはこの女と一緒に家にいる時、子を産みました。ところがわたしの産んだ後、三日目にこの女もまた子を産みました。そしてわたしたちは一緒にいましたが、家にはほかにだれもわたしたちと共にいた者はなく、ただわたしたちふたりだけでした。ところがこの女は自分の子の上に伏したので、夜のうちにその子は死にました。
彼女は夜中に起きて、はしための眠っている間に、わたしの子をわたしのかたわらから取って、自分のふところに寝かせ、自分の死んだ子をわたしのふところに寝かせました。わたしは朝、子に乳を飲ませようとして起きて見ると死んでいました。しかし朝になってよく見ると、それはわたしが産んだ子ではありませんでした」。
ほかの女は言った、「いいえ、生きているのがわたしの子です。死んだのはあなたの子です」。初めの女は言った、「いいえ、死んだのがあなたの子です。生きているのはわたしの子です」。彼らはこのように王の前に言い合った。』(1列王記3:17-22)
この事件は、二人きりの状況で起きたのだから、第三者の証人は望めない。
彼女たちはただ、多くの言葉で自分の正当性を主張するばかりで、物証や客観的事実を手がかりに解いていく方法を用いようとすればする程、混乱するばかりである。
この事件を担当して来たであろう長老たちは、ソロモンより人生経験が上だったとしても、皆、お手上げだった。
しかしソロモンは、物証や客観的事実に手がかりを求めず、神の知恵によって、「人の心の内を露わにするもの」を用いた。
『この時、王は言った、「ひとりは『この生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、またひとりは『いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのはわたしの子だ』と言う」。そこで王は「刀を持ってきなさい」と言ったので、刀を王の前に持ってきた。王は言った、「生きている子を二つに分けて、半分をこちらに、半分をあちらに与えよ」。』(1列王記3:23-25)
ソロモンが持ってきたものは、刀だった。
刀は切り分け、殺す。
しかし、神の知恵である「御言葉の剣」は、肉の心と霊とを切り分け、人の心の内を露わにする。
『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。』(ヘブル4:12-13)
『すると生きている子の母である女は、その子のために心がやけるようになって、王に言った、「ああ、わが主よ、生きている子を彼女に与えてください。決してそれを殺さないでください」。しかしほかのひとりは言った、「それをわたしのものにも、あなたのものにもしないで、分けてください」。すると王は答えて言った、「生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女はその母なのだ」。』(1列王記3:26)
この剣を前に、彼女たちは「多くの言葉のまくし立て」によって隠されていた心の内が、露わにされた。
一方は真実と愛と憐れみが、他方は偽りと妬みと殺意が。
御言葉の剣を前に、人は分断され、心の内が露わにされる。
真実を求めていた人には、真実と愛と憐れみが表面に現れ、涙したり、悔い改めたりする。
しかし悪い物事を心に蓄えている人は、「ばれたか」という悔しさと開き直り、怒りなどが露呈する。
御言葉の剣によって露呈した心の内の有様は、真実を求めていた人は、実に美しく、偽りを求めていた人は、実に醜い。
アブラハムも、「愛する息子イサクを捧げよ」という言葉の剣によって心の真実があらわにされ、一旦は失っていたイサクを信仰によって取り戻した。(創世記22章)
そうしてイサクと、後に生まれてくる彼の子孫達は皆、「主に捧げられ済みのもの」となったのだ。
私達も、救われて主のものとされるためには、御言葉という剣の前に、身も心も委ねる事が必要であり、それが、十字架の経験である。
その時、それまで生きてきた自分自身に対しては死ぬが、キリストが復活したように、私達も復活し、もはや罪には歩まない者となり、主のものとなり、永遠のものとなって、全く新しくされるのである。
『イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。』(1列王記3:28)
難解な事件は、一見、災いであるように見えたが、一転して彼の名誉を、そして、彼に知恵を与えて下さった神の名誉を、高めるきっかけとなった。
ソロモンはかつて若く、未熟で、兄のアドニヤに「自分が王になろう」とさえ言われた事もあった。しかしもはや、誰もソロモンを軽んじる者がなくなった。
彼に与えれたような主の知恵は、どうしたら与えられるだろう。
箴言2章に、その手法と順番が書いてある。
『わが子よ、もしあなたが/「わたしの言葉を受け」、わたしの戒めを、あなたの「心におさめ」、あなたの「耳を知恵に傾け」、あなたの「心を悟りに向け」、しかも、もし知識を「呼び求め」、悟りを得ようと、あなたの「声をあげ」、銀を求めるように、これを「求め」、かくれた宝を尋ねるように、これを「尋ねる」ならば、あなたは、「主を恐れることを悟り」、「神を知る」ことができるようになる。これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。』(箴言2:1-6)
まず、主の言葉を「受け」「心におさめ」る事。次に「耳を傾け」「心を向ける」事。また、「呼び求め」「声をあげる」事。そして、「求め」「尋ねる」事。
まずは主の言葉をただ「受ける」事から始まり、次に、耳と心を「傾ける」事、そして「口」を用いて、求めている事を告白する事、そして、宝物や銀を欲しがるような「欲しがり」さ加減で、求める事。
それをするなら「主を恐れることを悟り」「神を知る」ことが出来ると書いてある。
知恵とは何も、世渡り上手になるとか、誰をも論破できる能力といったものではなく、本質は「主を恐れる事」「神を知る事」なのだ。
主への恐れ無き「世渡り上手さ」や「論破能力」は、暴力でしかない。
主へのおそれを身につけた上で、そうしたものも与えられるのだ。
主に求め、主の知恵をいただき、それを正しく行使して、御心に歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ソロモンが主に願い求めたもの、それは知恵ではなく・・・(1列王記3:5-15)
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- pastor 2015-12-17 23:20
ソロモンが主に願い求めたもの、それは知恵ではなく・・・(1列王記3:5-15)
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ソロモンは当初、主を愛し、父ダビデの戒めに従って歩んでいた。
彼は、ギベオンという最も重要な「高き所」で、いけにえの動物千頭を捧げた日の夜、主が夢の内でソロモンに現れ、言われた。
『あなたに何を与えようか、求めなさい。』(1列王記3:5)
もし何か一つ願い事が叶うと言われたら、一体何を願うだろう。
自分の健康や、自分の富や名誉が増し加わる事を求める人は多いかもしれない。あるいは、憎い敵の不幸を求めるかもしれない。
ソロモンは、そうした事は一切求めず、主の御心に叶った事を願う。
『ソロモンは言った、「あなたのしもべであるわたしの父ダビデがあなたに対して誠実と公義と真心とをもって、あなたの前に歩んだので、あなたは大いなるいつくしみを彼に示されました。またあなたは彼のために、この大いなるいつくしみをたくわえて、今日、彼の位に座する子を授けられました。』(1列王記3:6)
ソロモンの兄たち、アムノンやアドニヤは、父ダビデ王の七光りを受けて傲慢になったが、ソロモンは違った。
彼は自分の父ダビデを「あなたのしもべ」と呼び、彼が「大いなるいつくしみ」が施されたのは、「誠実と公義と真心とをもって、あなたの前に歩んだ」ため、と、全ては主の恵みゆえである事を告白している。
ソロモンは知っていた。父ダビデが大いに祝福されたのは、主の選びと後ろ盾があったからで、もしそれが無いとするなら、王といえども何もない一人の人間に過ぎない、という事を。
『わが神、主よ、あなたはこのしもべを、わたしの父ダビデに代って王とならせられました。しかし、わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません。かつ、しもべはあなたが選ばれた、あなたの民、すなわちその数が多くて、数えることも、調べることもできないほどのおびただしい民の中におります。』(1列王記3:7-8)
彼はまた、自分は未熟な者である、と告白した。
神の国では、自分を低くする者が高くされ、自分を高くする者は低くされる。
アブシャロムやアドニヤは、勝手に自分が王になろうとして策を弄したが、御旨でない王座に着こうとした結果、刈り取った実は、滅びであった。
ソロモンは元々、神に王として選ばれていた者ではあったが、彼は「自分は王として相応しくない」と思っている点においても、兄たちよりは、御前で相応しかったのだ。
なぜなら、「自分は未熟だ」「自分は相応しくない」と思っている人は、ただ、主により頼むしかないからだ。
主により頼む事、それこそ、何より主の御前に用いられるに相応しいたしなみである。
そこで彼が主に願った事は、次の事だ。
『それゆえ、”聞きわける(シャマー)”心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪を”わきまえる(ビーン)”ことを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」。ソロモンはこの事を求めたので、そのことが主のみこころにかなった。』(1列王記3:9-10)
ソロモンは主に「知恵」が与えられるよう願い、それが主に喜ばれて、多くのものが与えられた、と知られているが、その「知恵」の内訳は「シャマーの心(聞きわける心、従う心)」である。
彼がそれを求めた理由は、主の民を正しく裁き、何が正しく、何が間違っているのかを「わきまえる(ビーン)」事を得るため、である。
聞き分ける「シャマー」の心。
これは、主にどんないけにえを捧げるよりも優れた事である。
サムエルは言っている。
『主はそのみ言葉に”聞き従う事(シャマー)”を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、”従うこと(シャマー)”は犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』(1サムエル記15:22-23)
主がもっとも喜ばれるいけにえ、それはシャマーの心、すなわち、聞く事、従う事である。
それを主は喜ばれた。
『そこで神は彼に言われた、「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう。』(1列王記3:11-12)
まさに、おし入れゆすり入れして、全てが加えて与えられるパターンである。
聞き分ける心、そして主に従う心、それは、全てに勝るものである。
『わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。もしあなたが、あなたの父ダビデの歩んだように、わたしの道に歩んで(ハーラフ)、わたしの定めと命令とを守るならば、わたしはあなたの日を長くするであろう」。』(1列王記3:13-14)
そしてさらに大事な事は「主の道に歩むこと」、すなわち、「聞き従う」と決心した初心をキープし続け、主と共に歩む事である。
そうするなら、栄えといのちは長く続く、と主は約束しておられる。
「主とともに歩む(ハーラフ)」、これは、信仰の先人達がみな行った事だ。
ダビデはそうだったし、アブラハムも、ノアも、エノクも、皆主とともに歩む性質の持ち主だった。
『ソロモンが目をさましてみると、それは夢であった。そこで彼はエルサレムへ行き、主の契約の箱の前に立って燔祭と酬恩祭をささげ、すべての家来のために祝宴を設けた。』(1列王記3:15)
彼はもはや、正統ではない礼拝場所である高き所を離れ、正当な礼拝場所、すなわち、主の契約の箱の所へ行って、そこで礼拝を捧げた。
こうして彼は祝福され、これから、おびただしく栄える事になって行く。
この時の彼のように、主の御声に聞いて従い(シャマー)、主と共に歩み(ハーラフ)、そうしてますます主に喜ばれる道を歩んで行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!