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メッセージ - 定期祈祷会メッセージカテゴリのエントリ

五つのパンと二匹の魚:人の国では1人分。神の国では5千人分!(ルカ9:10-17) 早天祈祷会 2026年2月18日(Wed)

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【概要】

目の前には行き倒れになる危険がある5千人の群衆。手元にはわずか五つのパンと二匹の魚…!

しかし、持っている僅かなもの全てを主に差し出す時、人の限界をはるかに超える神の王国が到来する!

あなたは人の王国の限界内で生きるか、それとも神の国の無限の担い手となるか?

https://bit.ly/4aBLnMJ

【聖書箇所】

ルカ9:10-17

【励ましの言葉】

神の国は不足から始まるのではなく、私たちがまず差し出すところから始まります。イエス様の手から渡された恵みを流し出せば、必ず人々は満足します。

【勧めの言葉】

神の国に積極的に参加しましょう。観客席ではなく、フィールドに出て神の働きに参与する者となりましょう。自分のタラントを地面に埋めず、活用していくことが求められています。

【AIによる文字起こし】

今朝、恵みをいただく御言葉は、ルカによる福音書の9章10節から17節です。では、初めに10節と11節を一緒に読みましょう。

「さて、使徒たちは帰ってきて、自分たちのしてきたことを報告した。それから、イエスは彼らを連れてベツサイダという町へ密かに退かれた。ところが、多くの群衆がこれを知ってついてきた。それでイエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、癒しの必要な人たちをお癒しになった。」

今日で4回目になりますが、主日からずっと5000人への給食の場面を、四つの福音書の並行箇所から学んでいます。主日はヨハネ、月曜日はマタイ、昨日はマルコ、そして今朝はルカによる福音書からです。イエス様がわずか五つのパンと二匹の魚を持って5000人以上を養ったその場面を、四つの方向から見ることになります。

ルカの福音書はお医者さんであるルカが書いたもので、理系的な思考の持ち主です。本当に他の福音書にはない観点を持って、具体的なところを詳しく記しています。

ルカの福音書独特なところで、まず10節では「使徒たちは帰ってきて、自分たちのしてきたことを報告した」と書いてあります。他の箇所にはこの部分がありません。弟子たちは行った先々でイエス様の言われた通りになったこと、すべての必要が満たされたこと、イエス様の御名を用いれば悪霊が追い出され、病が癒されたことを、喜びの報告として次々と伝えたことでしょう。

そして弟子たちは働いてきましたから、疲れてもいました。ですから、イエス様は彼らを連れてベツサイダという町へ密かに退かれました。ベツサイダという町、具体的な町の名前が出てきます。これは「漁師の家」あるいは「食物の家」という意味です。ですから、この漁師たち、人間を取る漁師たちが養いを受けるところ、食物が満ち溢れたところです。そこに密かに退かれました。これは彼らだけで行って休むためでした。

けれども11節、「ところが多くの群衆がこれを知ってついてきた」とあります。それに対してイエス様は、昨日のマルコの箇所では、羊飼いのいない羊のような有様を見て深く哀れんだと書いてありました。そして今日のルカの箇所においては「喜んで彼らを迎え」とあります。

本当になぜ喜んで彼らを迎えたのでしょうか。イエス様も喜ばれるのです。本当に私たちは、時には羊飼いのいない羊のようにさまよい、何をしたらいいのかわからない。周りに獣が牙をむいてきそうな、自分の力ではどうしようもないような、そういう時にイエス様を頼っていく。そういう羊たちがイエス様のところに来る様、しかも5000人以上です。この様を見て、イエス様は喜ばれるのです。

私たちは時に働きに疲れて、ああ休みたいな、ようやくここで休めると思ったら、電話がかかってきて、また仕事に行かなければいけない。ああ、またかと思うかもしれません。しかしイエス様は、本当にこの疲れて行き場を失っている羊が自分のところに頼ってくる、そういう場面においては、いついかなる時も喜んで迎えてくださるのです。また私たち主の働き人も、本当にそのようにイエス様の性質を身に帯びるべきなのです。

イエス様はここで「喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し」と書いてあります。これはルカ独特です。神の国のことを話した、と書いてあります。まず神の国を語られること、これがイエス様のなさることです。奇跡よりもまず前に、その前に、またパン、体の必要よりももっと前に、まず神の国のことをイエス様はなさるのです。「神の国とその義をまず第一に求めなさい」と書いてありますね。

私たちも同じです。イエス様に対して用事があるのは、パンが満たされることだけ。パンの必要が来たら、やっとイエス様のもとに行って、パンの必要が満たされて満腹したら「ああ、ありがとう」と言って、イエス様のもとを去っている。また自分の好き勝手をする。ここには神の国はないですね、皆さん。

神の国、今日の重要なキーワードです。神の国、ギリシャ語原典から見ますと、これは神様の支配領域ということです。あの国、この国、いろんな国がありますけれども、しかしこの神の国という時には、そこがどの国、あの国であったとしても、そこが神の支配領域であるとするならば、そこが神の国です。神の国、それは神様が支配するところで、ここも神の御国になれば、もう本当にそこかしこ、そこが神様の支配の領域になる。皆さんが神様に支配されているとするならば、皆さんが行く先々が神の国になります。

あるお家では、あの旦那さんが支配する国になっているかもしれません。あるところではそうじゃなく、奥さんが支配する国になっているかもしれませんが、けれども、その人その人が神様の支配下にあるならば、そこが神の国になるのです。

ですから、まずパンの必要とか、あるいは何か奇跡的なことが起こることを期待するといったよりも、まず神の国、神の支配が及ぶことをまず求めなくてはならないです。なぜなら、人が支配する国では、五つのパンと二匹の魚は、これは一人以上養えない、満ち足りないです。人の支配する国では、五つのパンと二匹の魚しか手元にない。目の前5000人いるとすれば、もうどうぞ群衆たちお帰りください、それぞれで食べ物を調達してください。これが人の国ですけども、神の国とは五つのパンと二匹の魚でもって5000人以上が満ち足りて、なおかつ働き人の分の籠もいっぱいに満ち溢れる。それが神の国なんです。だから人の支配を捨てて、神の支配、神の国をまず第一に求めなさいということが、ここにおいてルカの福音書においては語られているのです。

イエス様がこの人々の御前に立って、群衆たちに神の国のことを教えられた。そして、その瞬間、そこがもうすでに神の国となっていきました。「癒しの必要な人たちをお癒しになった」とも書いてあります。ですから、癒しの業が起こるのです。癒されなくてはならない人がイエス様のもとに癒しを求めて走っていたからです。

病気の子供を抱えたお母さんがそこにいたことでしょう。その子供を癒してください。イエス様は癒してくださったことでしょう。また病気を持った人、もう本当にこの寂しいベツサイダにわざわざ歩いていくことは大変だったことでしょう。そんな彼が、イエス様のことを見つめたら、イエス様の方がこちらを見つめているのです。イエス様は癒しが必要な人をご存知です。イエス様の眼差しを彼は感じて、イエス様のもとに引き寄せられていったことでしょう。そしてイエス様が癒してくださったことでしょう。

イエス様は皆さんのことも見つめておられます。皆さんをあのこと、このことから解放したい。癒してあげたい。罪を清めてあげたい。それがイエス様のまなざしです。皆さんはイエス様の御前において、本当に自分自身を差し出す。そして神の国が、その支配権が及ぶことをまず大事に皆さんが求めて、そして癒しをいただき、必要の満たしをいただく。そのことがここにおいて成立するのです。

このイエス様が夕暮れまでずっとこの神の国のことを語り、また人々を癒し、その業を行っていきました。でも弟子たちは、このイエス様の神の国のことに目を留めていたのですが、空を見てみると、もう夕暮れが迫っています。日が傾いています。夕日の影が伸びてきています。すると弟子たち、不安になってきたんです。不安の心が広がり、また空腹のお腹がググっとなってくるんです。

で、それで12節見ますと、「12人が御もとに来て、『この群衆を解散させてください。そして、周りの村や部落に行って宿を取らせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちはこんな人里離れたところにいるのですから』」。まあ、もっともなところです。けれども、このこんな寂しいところ、この群衆たちを解散させて、もう5000人、男子だけでも5000人、女性も合わせれば1万人ぐらい。そんな群衆を、まあ各自がそれぞれの村や部落に行って宿を取らせてください。何か食べることができればいい。

弟子たち、なんとなく、ちょっとそれ無理なんじゃないか、こんな辺鄙なところで、それでこんな人数、宿ね、一気にこんな1万人も収容する宿なんて、果たしてあるんだろうか。まあないだろうな、というところがあったかもしれません。とにかく人間の力ね。神の国ではなく、人の国ではそんなもんなんです。神の国が支配する国に対して、人間の支配する国というものは、どうしても不足をきたらせ、不足を数え、そして人間的な思考で、この五つのパンと二匹の魚しかないとするならば、それを1万で割れば、一人頭ね、ほんの小さなパンくずぐらいしか、何ミクロンしか一人頭ないみたいな、なんかそんな風になってしまうんですけど、そこは人の考え、神の国の考えは違います。

神の国の考えは計算ではなく、イエス様に持っていくところから始まるんです。イエス様に持って行けば、そしてイエス様にお与えすれば、イエス様の支配、神の国がそこに広がっていくんです。神の国はですからね、足りるから始まるということではなく、まず差し出すことから始まるんです。

もう一度言いますと、神の国は皆さんの側が差し出すところから始まります。なんか受け取って満ち足りたから始める。これ、人間の国です。人間の国は自分の手元にあるもので何か始めようとしますし、手元にないんだったら、神様に求めるんではなく、人に求め、人に追求し、人から奪い、かき集めて、そこから始める。これが人間の国。けれども、神の国はまず皆さん自身から差し出すところから始まるのです。

「あなた方が与えなさい」。イエス様がおっしゃいます。13節で「イエスは彼らに言われた。『あなた方で何か食べるものをあげなさい』」。イエス様は、この弟子たちが解散させてくださいというのに対して、イエス様は「あなた方で」、無茶ぶりのように聞こえますけども、「あなた方で何か食べるものをあげなさい」。これね、チャレンジです。

神の国は皆さん、弟子がまずそこに参与する世界です。参政党っていう党がありますね。参加する政治の党。皆さんも神の国の政治に参加する。そこから神の国が始まるんです。神の国は、あの傍観者の国ではありません。神の国は観客席の側のものではなく、この観客席ではなく、グラウンドに出て、そのフィールドに立って、神の政治に積極的に参加するところから始まるのが神の国です。まず皆さん側が差し出すところから始まります。そしたら皆さん一人一人のその差し出したところから神の支配が始まっていくんです。

神の国は、自分がもう装備が十分整ったから、さあ、いざ出陣ではなく、主が今行けと言われたら、装備はともかく、そして足を一歩踏み出すところから始まります。イエス様は「あなた方が行って与えなさい」とこの場面でおっしゃいました。これがまずイエス様の側の挑戦です。それに対して私たちは答えて参加するものです。

信仰者は観客席で育つものではなく、競技場に、フィールドに出て育つものです。積極的に働きに参加するものこそ、多くを実らせるんです。五タラントを預けられたら、その五タラントを活用しに行く。二タラントだったら二タラントを活用しに出ていく。一番良くないのは、タラントを地面の中に埋めて活用しない、参加しない。これが神の国において悪い怠惰なしもべだということになってしまうんです。

だから私たちは積極的にそれを活用して活用していけば、神の国がどんどんどんどん広がっていくんです。タラントのたとえでイエス様が話された時、タラントで活用して損失を出しましたなんてこと、一つもなかったです。必ず五タラント活用したら、五タラントもう余分に儲けました。損しましたはない。これが神の国です。皆さんが神の国のために行くならば、必ずそれが広がっていくんです。

で、そしたら、この人々を座らせなさいっていうふうにイエス様は言われました。14節では「それは男だけでおよそ5000人もいたからである。しかし、イエスは弟子たちに言われた。『人々を50人ぐらい組にして座らせなさい』」というふうに言いました。弟子たちはそのようにして全部を座らせたと書いてあります。座らせる、食事の体制を取らせることです。

で、ここで、組にしてということが語られました。他の福音書でも、この座らせる時に50人ぐらい、あるいは100人ぐらい、そういう組にして、まあ、いろんなグループに、まあ何人いる、各グループごとに人数は違いますけれども、それで組にして座らせる。これは何を意味するか。これはこの神の国というものは、共同体の中で、それが行われるということです。

共同体から離れて、離れて離れ離れになっては、このイエス様から割いていただく恵みを流し出していくこともできませんし、受け取ることもできないんです。必ずこのイエスキリストの集いの中で、これは行われるんです。まずはイエス様の手から、手にあるパンがイエス様の手で割かれました。で、そのパンが割かれたものは弟子の手に渡りました。弟子は受け取りました、イエス様から。で、イエス様から受け取ったパンを、さらに弟子たちはこの共同体の中に出て行って、そのイエス様からいただいた恵みを割いて、また配る。また配る。これは決して尽きないんです。

イエス様からいただいた恵みを共同体ごとに配り、そして共同体の中では人の手から人の手にまた渡っていって、そして人から人へと、手から手へと、この神の国は広がっていくものなんです。神の国の性質、それは人から人へと流れ出していくものです。いや、流し出していくものです。自然に流れていくものではない。人の側がこの参与をするんです。参政党、神の国の参政権を皆さん持っており、そしてそれに積極的に参加するべきなんです。

まあ、世の中の参政党は、あの人の政治が行われる党なんですけども、しかし、神の国は神の国の政治が行われるところであり、それは皆さんが積極的に参加してこそ初めて働きが行われるものです。参加しないならば何も起これません。参加してこそ起こっていくものです。そしてそれは弟子の手から人の手と、人の手からさらに人の手と、イエス様の恵み、イエス様のパン、これが流し出されていくものです。

16節見ますと、「するとイエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた」と書いてあります。人の手から人の手へと渡りました。イエス様が祝福してくださったもの、それがまず我ら主の働き人の手に渡り、それが世に渡っていく時、人々の間で奇跡が起こるんです。

17節、「人々は皆、食べて満腹した。そして余ったパン切れを取り集めると、12カゴあった。」アーメン。イエス様から手渡された恵みを主の働き人が割いて、それを手から手へと渡していく時、流し出していく時、人々は満腹するんです。

今、つくばみらいの地において働きを皆さんしていますね。準備をしていますけれども、そこの人々は満腹するんです。満足するんです。イエス様の手から渡されたものを皆さんが流し出せば、それを受け取った人々は満腹するんです。だから皆さん、不信仰に陥ってはなりません。果たしてこれ、人々が満足するんだろうか。いやいや、イエス様の手から渡されたものを人に渡せば、必ず人は満足するものなんです。

イエス様の手から渡された、これを果たしてこんなパンが裂かれた、こんな小さなもの、人の手に渡って、人からなんだ、こんな、なんか怒られたらどうしようかって、そんな不安があることは一切なし。神の国のものは人々に流れ出して満足させるものです。もし相手が満足しない、怒るってキーとなるとするならば、それは神の国の人ではなく、ああ、じゃああなたには神の国の恵みふさわしくなかったですね。じゃあ、他の人に渡します、になればいいんです。

私たちは本当にこのイエスキリストの恵み、これを人に流し出していくべきものです。神の国においては、誰かが持て余して、誰かが飢えるということないんです。共産圏の人々、誰かが持て余して、誰かが飢えるということが非常に顕著な、そういう国、国です。共産圏の国や一部の人が持て余して、他の人々大多数が飢えている。これが人の国です。神の国では、そういったことはありません。誰かがいっぱい持っていて、ある人々が飢えている、それではありません。神の国は不足で始まったものは、満ち足りて余りあっていっぱいになることで終結するものです。

人の国が、初めはいっぱいあったものが、どんどん人がそれを奪って奪ってパイを、それを得て、ある人は賄賂を持って、で、そして有効に進めて、で、賄賂を集める側がどんどん肥え太って、で、賄賂を差し出さなくてはならない側がどんどん痩せ細っていく。これが人の国。けれども、神の国はわずかな、五つのパンと二匹の魚しか、わずかしかなかったものが、増え広がって、増え広がって、満ち足りて終わる。これが神の国です。

今日、ルカの福音書の方からのこの箇所においては、皆さんにチャレンジが与えられています。皆さんは果たして参加型でしょうか、それとも見物型になるでしょうか。イエス様は「あなた方は与えなさい。あなた方が働きなさい」というふうに言っておられます。皆さんの今持っているパンは小さいかもしれないです。けれども主は言われます。あなたのそのパンをまず差し出しなさい。あなたの力は小さいかもしれないけれども、信仰を持って、この参加する時、皆さんのタラントは倍に倍に広がっていくものです。一番良くないのは、タラントを地面の中に埋めたままであるということでした。

神の国は誰かがやってくれる国ではありません。皆さんが、自分が参加するものです。皆さんが今日その一歩を踏み出して、参加して、どんどんと多くを稼いでいく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

【結論】

神の国は、私たちがイエス様から受け取った恵みを積極的に人々に流し出していくところから始まります。観客席ではなく、フィールドに立って神の働きに参加する時、わずかなものでも神の祝福によって多くの人を満足させることができます。神の国とその義をまず第一に求め、自分のタラントを活用して、神の支配が及ぶ領域を広げていく者となりましょう。

 

霊・肉ともに満腹させてくださる真の羊飼いイエス様(マルコ6:30-44) 早天祈祷会 2026年2月17日(Tue)

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【概要】

しばしの休息のために寂しい所に来たイエス様と弟子たちを待ち受けていたのは、羊飼いのいない羊のような大群衆! 疲れ果て、飢えと病に苦しむ彼らを前に、イエス様は深い憐れみを抱く。 そして、弟子たちの常識を覆す驚愕の指示が下される! 「あなた方で彼らに何か食べるものをあげなさい」。 手元にあるのは、たった五つのパンと二匹の魚のみ。 この状況でイエス様はいかにして5000人以上もの人々を満腹させたのか? その奇跡の根源は、まことの羊飼いイエス様の、はらわたがちぎれるほどの深い憐れみにあった。

【聖書箇所】

マルコ6:30-44(特に34節を宣言)

【慰めの言葉】

イエス様は真の羊飼いとして、今日も一人一人を深く憐れみ、羊飼いのいない羊を探し求め、見つけ、抱き上げ、御前へと連れて行ってくださる主です。

【励ましの言葉】

ないもの尽くしの時こそ主を望むべき時です。自分に人がいない時、ものがない時、ことができない時、あらゆるない尽くしの時に、イエス様を呼び求めることができます。イエス様は私たちのないものを満たしてくださる方です。

【勧めの言葉】

とるもとりあえず、イエス様のもとに行くべきです。自分たちにできる限りのことを行い、問題をイエス様に持って行くとき、イエス様が働かれます。小さな信仰のかけらをイエス様にお捧げするとき、イエス様は皆が見て、聞いて、触れることのできる主となられます。

【AIによる文字起こし】

今日恵みをいただく御言葉は、マルコによる福音書の6章30節から44節です。はじめに皆さんと一緒に34節を宣言したいと思います。

「イエスは船から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコ6:34)

羊飼いであられるイエス様、あなたは今日も、その一人一人を、羊飼いのいない羊を憐れむ心を持って、羊を探し求め、羊を見つけ、羊を抱き上げ、羊飼いの檻へとあなたの御前へと連れて行ってくださる主であられることを感謝いたします。

素晴らしい主イエス・キリスト、御名を褒め称え賛美いたします。イエス様は昨日も今日もいつも同じです。最近、主日ではヨハネの福音書から、そして月曜日はマタイの福音書から、男性だけでも5000人、女性も合わせると1万人以上を、わずか五つのパンと二匹の魚で豊かに満腹させて養ってくださったところを見てきました。今日はマルコによる福音書から、マルコさんの視点でこの同じ場面を見ていきたいと思います。

このマルコの福音書を見ますと、そもそもの事の発端は、イエス様が図らずもこのことをしたということがわかります。もともとお弟子さんたちが、この使徒たちが、イエス様のもとに来て、自分たちの宣教報告をするんですね。それで31節では、イエス様は「さあ、もうあなた方だけで寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」と言われたんです。この弟子たちが疲れて帰ってきて、それでしばらく休むという意図を持って、イエス様はこの働き人にしばしの安息をもたらすようにと、寂しいところに行かれたんですね。

31節に書いてあります。「人の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。」

本当に働き人は、ゆっくりする時間がなかなか取れないということで、イエス様はこの弟子たちをしばし休ませようとしたんですが、それで船で行って、寂しいところへと行こうとするんですね。

ところが33節で見ますと、「多くの人々が彼らの出て行くのを見、それと気づいて方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先についてしまった。」と書いてありますね。

多くのイエス様を求める人々がいたんです。方々の町々から。このイエス様のもとに行けば、あらゆる煩いが癒され、また問題が解決され、そして心がカラカラだった心が潤され、満たされるということで、多くの人々が、このイエス様とそのご一行が寂しいところに行かれるにもかかわらず、5000人以上の人々が寂しいところに集団で行くんですね。

その中には病気の子供を抱えた母親がいます。彼女も、イエス様があ、向こう岸に行かれたと聞いて、徒歩でこの病気の子供を抱えていくんですね。本当に母親というものは、子供が良くなるために熱心なものです。杖をついたおじいちゃんもいたことでしょうね。そのおじいちゃんも、本当にもう体が言うことが聞かない。にもかかわらず、イエス様があの向こう岸の方に行ったということであるならば、もう杖をついて、一生懸命、一生懸命イエス様のもとに駆けつけていきます。

その中には、病を抱えた人、体がもう言うことを聞かない、もう体の痛みを抱えている、あるいは悪霊につかれて、もうどうにもならなくなっている、そういう人たちも、みんなこぞって、イエス様が寂しいところに行かれたっていう、その一点を目指して、みんなでなんとかして、もう大変なところでも、またこのお方に望みを持っている人も、みんな、このイエス様が、またそのご一行が船で行った先、そこをめがけていくんですね。

弟子たち、向こう岸が見えてきました。ああ、ようやくこれで休めるのかなって思いきや、その向こう岸の方を見てみると、大勢の群衆が走ってくるのが見えるんですね。自分たちが船をつけようとする、その船をつけるその場のところに、もうすでに群衆たちが出来上がっておりました。弟子たちは「あれ、寂しいところで休むんじゃなかったのかな」って。でも群衆たちがたくさんいる。「ああ、これまたまだ、自分たちのミッションが続くんだな」と思ったことでしょう。あるいは「ああ、ちょっともう勘弁してよ」って、もしかしたら思った働き人もいるかもしれないんですけど。

イエス様はここで、皆さんと一緒に宣言した34節を見ますと、「イエスは船から上がられると多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深く憐れみ、色々と教え始められた。」

本当にスプランクニゾマイの心を持って。スプランクニゾマイ、はらわたがちぎれるような心だと昨日見ましたね。この羊飼いのいない羊のような、そういう有様であるこの群衆。そうです。彼らからすれば本当にそうなんです。

当時、確かに宗教はありましたね。形式がありました。律法もありました。神殿に行くと、律法学者やパリサイ人たちが、この御言葉を教えてくれるんですけれども、しかし、そこには何か、憐れみ、愛、赦し、その恵みは欠けていたんですね。あたかも羊飼いのいない、本来羊飼いとなるべきこの宗教指導者たちがその役割を果たさないで、ただ大上段に、「あれせい、これせい、罪を犯したのか。それではダメだ」と、そういうふうに、ばっさり切り捨てるかのような。本当は慰め癒しをいただきたくて神殿に来たはずの彼らが、そこには癒しも憐れみもない。そういう状況、まさに彼ら、羊飼いのいない羊たちのような有様だったんですね。

本当に教会というところは羊たちが本当に養われてしかるべきところですね。教会にいる皆さんは、本当に教会に来る人々にとって、良き羊飼いのような立場になっているでしょうか。彼らを本当に御言葉でもって養い、また疲れているところを癒し、励まし、そして本当にイエス様によって元気づいて世に送り出す、そのような役割と働きを、皆さんはなっているでしょうか。良き羊飼いでしょうか。私たちは本当にイエス様という真の良き羊飼いに習うべきです。

この大勢の群衆の中には、本当に病気の赤ちゃんを抱えた母親が走ってきたことでしょう。杖をついたおじいちゃんも来たことでしょう。病気でもう足が痛い、腰が痛い。そういう彼らでもこんな寂しいところに来て、そしてイエス様からなんとか癒しをいただきたい。また御言葉をいただきたい。そんなにして来た、そういう大勢の人々がいたことでしょう。

冒頭で宣言したのはエゼキエル書34章だったんですけれども、そこにおいても、羊飼いを失った羊たちの本当に疲れた有様、そしてそんな彼らを憐れまれる神様の姿があり、そしてこの本来、羊を養うべき羊飼いの立場である、その指導者たちに対しての、そのお叱りの言葉もある。それがエゼキエル書の34章なんですけれども、とにかく神様は憐れむんです。羊飼いのいない羊たちを憐れみ、そしてその憐れみは腹の奥底から湧き上がるようなスプランクニゾマイという、はらわたがちぎれるような思いでもって、「ああ、この羊なんとかしなければ、ああ、ここを汚している羊だ。ああ、心に傷を、病を抱えている羊だ」と、そういう深い憐れみの心を持っておられるのが皆さんの主イエス様です。

イエス様は真の神の御子、キリスト、そしてまことに皆さんを救う主、救い主と言われております。救うお方なんです。一人一人を、現代の皆さんを救う主、それはイエス様です。イエス様はまず憐れまれたと書いてありますね。深い深い憐れみの感情を持って憐れまれる。その次に、色々と教え始められたと書いてあります。御言葉を持って養われるイエス様です。御言葉でもって教えられる。

この箇所は、5000人にパンを食べさせてあげるというところがメインに見えるかもしれないですけど、まずパンの必要の満たしの前に、イエス様の深い憐れみが真っ先にあるんです。その次に御言葉を持って教えられることがあるんです。そうして、パンの必要を満たすんです。

パンだけ当てにして集まってくる、まあ、そういう人もいるかもしれません。けれども、覚えていてください。まず、パンの必要な満たしの前に、憐れまれる主イエス様の存在があるということ。そしてまた御言葉をもって養い、御言葉でもって何をするべきであるのか、何をしてはならないのか。どういうところへ行くべきであり、どういう人と連合するべきであり、どういう人と離れるべきであり、どういう罪から離れるべきか、色々と教え始められたイエス様のその御言葉をまず皆さんがいただいて、そしてようやく必要な満たしがあるんですね。

そのうち遅くなってきますね。辺鄙なところです。この店もない。また近くの町まで歩いても何時間かかる。そういう辺鄙なところに大勢の群衆が集まって、そろそろみんなも疲れて、お腹も空き出して、そして病を抱えている人もいるし、もう病気の子供を抱えたお母さんもいる。もう帰るのも一苦労大変な、あるいはもうすでに帰る力も残っていないような、そういう人もいる。そういう状況において弟子たちは危機感を覚えるんですね。

「ここはもう辺鄙なところです。イエス様、もう時間も遅くなりましたし、みんなを解散させてください。近くの町や村に行って、めいめいが食べるものを買うように各々にさせてください」って言うんですね。もうこのところ、この場所において、1万人ほどの群衆がおります。辺鄙なところですね。現代でも、もう辺鄙なところにおいて、突然大規模なイベントが起こって、そこで開催されて、もうその周辺のコンビニだとか、また自動販売機も、もう空っぽになるような、そういう状況、現代でも起こりますね。当時はもっと大変な状況でした。

弟子たちは「どうかもう、なんとかして、彼らもう解散させて、食べるもの、彼ら自身で調達させるようにしてください」っていうんですね。人間としては、まあ、そういうふうに思うことでしょうけれども、イエス様、ここで無茶ぶりをするんですね。

37節では、「すると彼らに答えて言われた。あなた方で、あなた方で、彼らに、あの人たちに何か食べるものをあげなさい。」と言うんですね。

12弟子、せいぜい12人分の食事が、まあ、もしかしたらあったかもしれませんし、まあ、もうなかったと思われるんですけども、でもわずかな食料しかない。12弟子に、イエス様が「あなたたちで働き人たち、あなたたちがこの群衆を養いなさい」と言うんですけども。

弟子たちの中で計算が始まります。「弟子たちは言った。私たちが出かけて行って、200デナリものパンを買って、あの人たちに食べさせるようにということでしょうか。」まあ、ここは私たち人間の限界ですね。本当にそういうふうに考える以外にないんですね。

200デナリ。彼ら持っていたか持ってなかったかわかりません。持っていたとしても、もう近くの町々村々に1万人分の食事を買って、12人で買って持って帰る。ちょっとこれはとてつもないことですね。弟子たちとしてはもうどうすればいいのかわからないんですけれども、この弟子たちの良いところは、イエス様にその問題を持って行ったところですね。

「私たちがこれからすることでしょうか。イエス様。イエス様、どうするんですかね。私たち200デナリしかありません。いや、200デナリももう実は持ってないですね。そしてもう目の前に1万人以上の群衆を私たち12人でなんとかする。ちょっとこう、イエス様、これどうなんでしょうかね。」

イエス様に持って行ったところ、イエス様が、何をすればよいのか、一体どうしたらあなた方12人でこの1万人ほどの群衆を養うことができるのかを、イエス様が教えてくださるんですね。

38節で、「するとイエスは彼らに言われた。パンはどのくらいありますか。行って見てきなさい。彼らは確かめて言った。五つです。それと魚が二匹です。」

彼ら持っているものを、とるもとりあえず、彼らできること、群衆のところに行って、そしてパンはどのくらいあるか見てきたんですね。で、見てきたところ、あの少年が五つのパンと二匹の魚を持っていたっていうことを、ヨハネの福音書において書いてあるのを主日見たんですけども。

イエス様、皆さんが、とるもとりあえず、皆さんでできるベストを行って、そしてイエス様の御旨の通りにしようと頑張った皆さんに対して、あとは主が働かれるんです。皆さんの限界まで達した皆さんのその持ち物、足りない。あとはイエス様に対して報告をしたら、あとはイエス様が働かれる番です。

39節を見ますと、「イエスは皆をそれぞれ組にして青草の上に座らせるよう、弟子たちにお命じになった。そこで人々は百人、50人と固まって席についた。」

イエス様は青草の上にこのお腹を空かせた群衆を座らせました。詩篇23編を思い出します。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます。主は私の魂を生き返らせ、御名のために、私を義の道へと導かれます。」

主の御名のゆえに。主の御名、これは本当に汚れがない御名、主の御名のプライドにかけて、この羊たちを養うんです。イエス様は真の羊飼い、真の牧者。羊飼いのいない羊たちを見て深く憐れまれる真の牧者、それが私たちの主です。皆さんの主です。

この皆さんがもし足りないということであるならば、とるもとりあえず、イエス様のもとに行くべきです。この大勢の群衆たち、とるもとりあえずイエス様の元に行きました。本当に疲れた体を鞭打ってでも行きました。また、その中には本当に病気の子供を抱えた母親もいたことでしょう。老人もいたことでしょう。とるもとりあえずイエス様の元に行きました。そして先々のことを全然彼ら考えていなかったような。それを人は「知恵がなかった。自己責任だ。飢えても自己責任だ」と、そういうふうに突き放すような冷たい社会。その中でもこのイエス様を求めていった群衆に、イエス様は必要の満たしを与えてくださる。病の癒しを与えてくださる。そして、必要な御言葉を持って養ってくださるんです。

「主は私たちの魂を生き返らせ、御名のために私たちを義の道へと導かれる。たとえ死の影の谷を歩むことがあっても、災いを恐れることはない。」それは私と伴う主です。主は、たとえ皆さんが死の影の谷を歩むことがあっても、一緒に伴って歩いてくださる。そのゆえに私は恐れることがない。

イエス様は緑の牧場に彼を伏させました。そして彼を憩ませ、この今手元にある五つのパンと二匹の魚、これを天に向かって感謝を捧げて、祝福して、そしてパンを裂いて、弟子たちにその裂いたパンを渡されました。そして二匹の魚も同じようにされました。

奇跡が起こったんですね。魚二匹しかなかったはずなのに12弟子に行き渡り、12弟子はそれをさらに大勢の群衆に行き巡らせ、そして大勢のこの5000人の1万人ほどの群衆が食べて、満腹したと書いてありますね。

42節になると、「人々は皆食べて満腹した」んです。イエス様、このようなことがおできになるお方なんです。しかも、しかも43節。「パン切れを12の籠にいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。パンを食べたのは男が5000人であった。」と書いてありますね。

大勢の群衆はなんと、わずかな少年のお弁当の捧げ物、これでもって大いに満腹させました。このこと、現代も起こるんです。なぜ。イエス様は現代にも生きているからです。このイエス様により頼むのであるならば、この羊飼いなる主に、イエス様により頼むのであるならば、イエス様が必ず皆さんの必要を満たしてくださいます。

イエス様が必要を満たします。このイエス様が皆さん一人一人に伴われる主であり、そして皆さんがたとえ敵の前であっても、荒野の中においても、宴会を設け、「敵の前で宴を設け」と詩編23編に書いてあります。病という敵、悪魔サタンという敵。日ごと、仕事において、家庭において、人間関係において迫りくる敵。この敵の前で宴会を設けてくださる主イエス様。イエス様、今日も緑の牧場へと皆さんを導きたい真の羊飼い主です。愛、憐れみ、赦し、その恵み、満ちた主です。

当時、羊飼いがいない羊たちのような有様の群衆を見て、深く深く憐れみ、はらわたがちぎれる思いを持って憐れんで、彼らを癒し、御言葉を持って養われた主イエス様、今日も皆さんの主です。このイエス様により頼み、イエス様にすべての問題をイエス様へと打ち明け、そしてこのイエス様から解決をいただき、今日もイエス様にあって豊かに満腹していく皆さんでありますように。

今も生きて働かれるあなたが私たちの主であるということは、なんと幸いなことでしょうか。このような神はどこにもおりません。世の中の宗教は、私たちにあれしろ、これしろと要求し、またお金やまた奉仕を要求し、しかし本当にその中において傷つき倒れた羊たち、そんな羊たちを深く憐れみ、羊飼いのいない羊のようだとおっしゃられる主を褒め称え、感謝いたします。

そして、あなたのところにおいては、豊かな御言葉の養いがあり、また具体的に私たちの体に必要なパンの養いがあり、そして本当にあなたにあって、私たちは深く安息する羊として御前において休める。その幸いを感謝いたします。一人一人がこの真の羊飼い主に気づきますように。真の羊飼い主にあって、あなたの必要な満たしを得ますように。病が癒されますように。また悪霊が追い出されますように。そして本当に羊飼いであるイエス様のもとで、とこしえに永遠の天国に至るまで、あなたに養われて導かれていく一人一人でありますように。

ないもの尽くしの時こそ主よ、あなたを望むべき時です。主よ、私たちが足りている時にあなたを望むことはありません。ない時に私たちはあなたを信仰をもって臨み、そのイエス様を大勢の人の前で、イエス様が神であることを明かすことができます。主よ、この時間、私たちは学んだ通り、自分に人がいない時、自分にものがない時、自分にことができない時、あらゆるない尽くしの時に、あなたを呼び求めることができますように。

イエス様、人にはイエス様は見えません。人はイエス様を触ることもできません。人はイエス様を聞くこともできません。でも、この見ることも、聞くことも、触ることもできないイエス様を、いつ私たちは証しできますでしょうか。イエス様が私たちのないものを満たしてくださる時、その満たされた状況を通して、私たちの信じるイエス様が主であり、神であることを証しすることができる唯一の時です。

今も人にはイエス様は見えません。イエス様を聞こえません。イエス様を触れることもできません。でも、信じる私たちを通して、私たちがイエス様をこの状況の中に招き入れ、そしてイエス様にこの状況を委ね、そして私たちの小さな信仰のかけらをイエス様にお捧げした時、イエス様はみんなが見て、聞いて、触れるイエス様になります。

イエス様、今日の御言葉を通して、あなたはこのような信仰をもって、私を主とし、私が民の神であることを証ししなさいと養ってくださったことを感謝します。私たちのこの信仰が、人々にイエス様を見せる信仰、聞かせる信仰、触れる信仰へと導く、その道しるべとなることができますように。私たちをあなたが用いてください。

【結論】

イエス様は真の羊飼いとして、羊飼いのいない羊のような群衆を深く憐れみ、御言葉で養い、そして五つのパンと二匹の魚で1万人以上を満腹させられた。この奇跡は、私たちがないもの尽くしの時に、とるもとりあえずイエス様のもとに行き、自分たちのできる限りのことを行い、問題をイエス様に委ねる時、イエス様が働かれることを示している。イエス様は昨日も今日もいつも同じ方であり、現代も生きて働かれ、私たちの必要を満たしてくださる。私たちの小さな信仰のかけらをイエス様にお捧げする時、イエス様は人々が見て、聞いて、触れることのできる主となられる。

五千人を養う奇跡 - 深い憐れみで養われる真の王(マタイ14:13-21) 早天祈祷会 2026年2月16日(Mon)

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【概要】

ヘロデをはじめ「世の王」は、己の欲望のために聖なる者を殺す。 しかし真の王イエスは、深い憐れみ「スプランキニゾマイ(はらわたがちぎれる思い)」をもって、憐れまれる主。 イエス様が祝福された五つのパンと二匹の魚で、五千人以上の群衆はみな満腹し、 弟子たちの数だけの籠いっぱいの恵みが残された。 果たして現代の私たちは、自分の不足を計算して諦めるのか? それとも真の王に、憐れみの主に全ての問題を持っていって、彼の全能の力を引き出すのか?

【聖書箇所】

マタイ14:13-21

創世記22章(アブラハムとイサクの物語)

【慰めの言葉】

イエス様は今も生きて働かれる主であり、私たちの状況を見て深く深く憐れまれるお方です。はらわたがちぎれるほどの憐れみをもって、私たちを助けたいと願っておられます。

【励ましの言葉】

不足しているから諦めるのは世の中の方法です。不足しているならそれをイエス様のところに持っていく、これが信仰者の方法です。イエス様はわずかなものでも祝福して、多くの人々を富ませることができるお方です。私たちが世の人とイエス様との橋渡し役となり、とりなしの祈りをし、イエス様を伝えるならば、主はその人に働くことができるようになります。

【勧めの言葉】

真の王イエス・キリストを選び、自分を十字架につけてイエス様についていくならば、イエス様がすべての必要を満たし、罪を清め、赦し、永遠の命へと導いてくださいます。自分が持っているものがわずかでも、たくさんあっても、それをイエス様のところに持っていき、「これを用いてください」「この私を用いてください」と主に自分自身を手放すなら、主が祝福して与えてくださいます。

【AIによる文字起こし】

今朝、恵みをいただく御言葉は、マタイによる福音書14章13節から21節です。最初に20節を一緒に宣言しましょう。

「人々は皆、食べて満腹した。そしてパン切れの余りを取り集めると、12の籠にいっぱいあった」(マタイ14:20)

アーメン。ハレルヤ。イエス様はあの時代、この奇跡を行われました。今この時代においても、そのイエス様が確かに私たちの主であり、この奇跡を私たちを通して行いたいと願っておられる主であることを感謝いたします。

素晴らしい主の御名を褒め称え賛美いたします。主は今も生きて働かれるお方です。仏像は物で生きていないのですけれども、皆さんの神様、主は生きて働かれる主であることを感謝いたします。

その主は私たちと深く関わり、私たちを愛しておられ、私たちの日常において、皆さんと交わりたい、共にコミュニケーションをしたいと願っておられる主です。その主は皆さんを助けるお方、救い主と言われる救うお方なんです。私たちには救われなくてはならない諸々があります。パンが不足している、お金がない、病気である。イエス様は福音書の中において、それを全部解決してくださった方です。悪霊を追い出し、また本当にいろいろな病を、患いを癒し、罪を赦される。そして極めつけは、十字架の死によって、私たちの身代わりとなって、私たちの罪を処罰してくださり、そしてイエス様の永遠の命と引き換えに、私たちの命の身代わりとなって、私たちに命を与えてくださり、永遠の命を与えてくださり、そしてイエス様は死んでくださいました。身代わりになって、そして復活してくださいました。このイエス様が皆さんの主、皆さんの神です。

今日の箇所は、五千人にパンを与えてくださった奇跡です。この出来事、マタイの14章に配置されておりまして、この五千人のこの奇跡の直前に何があったかというと、バプテスマのヨハネの処刑がありました。ヘロデ王によるそのヨハネを処刑する場面からなんですけれども、ここには、世の中の王と真の王の対比がもう明らかに示されております。

このヘロデという世の中の王というものは、自分の気に食わないことがあると、自分に何か聖なることを言ってくるものを殺す。世の中の王というものは、自分の好き放題をやるのが世の中の王です。対して真の王イエス様は、この皆さんを救うため、自分を殺すのです。自分の死をもって皆さんを生かす王です。世の中の王は殺しにかかります。自分の保身のため、自分の命を永らえさせるため、自分の気に食う気に食わないによって人を殺す。けれども、イエス様は人を生かす王です。

このヘロデの祝宴の中において、一人の娘がダンスをして、それでそれをヘロデは気に入ったので、お前の好きなものをあげようと、国の半分でもやれるのだからと言いました。そこでその娘は母親と相談して、じゃあバプテスマのヨハネの首をくださいと言いました。それで結局、宴会の余興となって、バプテスマのヨハネの首ははねられてしまったんです。イエス様が、女から生まれた者の中で最も偉大だと言われていたバプテスマのヨハネが、真理を語ったがゆえに、このようにして宴会の余興になって殺されてしまいました。

本当に世の中の王というものは、このように自分の好むことであるならば、もう聖なるものを殺すということをするんですけれども、しかし、真の聖なる王は、私たちに命を与えてくださり、また憐れんでくださり、そして私たちにすべて必要なものをイエス様は惜しみなく与えてくださるお方なんです。

真の王とするのは、どちらにするか。世の中の王にするか、それとも真のイエス・キリストというお方を王とするか、これが皆さんに問われております。私たち自身が王になりたいとするならば、結局、聖なるものを殺す羽目になってしまうんです。私たちは自分を十字架につけて、そしてイエス様についていく。するならば、イエス様が真の王として皆さんのすべての必要を満たしてくださり、皆さんの罪を清め、赦し、永遠の命へと導いてくださるんです。これが真の王なんです。だから人々は、イエス様についていくことができるんです。

このマタイの箇所においては、イエス様、寂しいところに行かれるんです。13節にこうあります。

「イエスはこれを聞くと、船でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた」(マタイ14:13前半)

イエス様は寂しいところに行かれました。そうすると人々がついてくるんです。イエス様こそ真の王だとしている人々が、群衆が、

「それと聞いて、町々から歩いてイエスの後を追った」(マタイ14:13後半)

と書いてあります。群衆が、このイエス様が船で向こう岸の方に渡っていかれたということを聞くと、このイエス様を本当に真の王としたい、もうヘロデという王は嫌だ、真の王イエス様だと、荒野であろうが徒歩でガリラヤ湖をぐるっと徒歩で回って、町々から歩いてイエス様の後を追って追いかけていくんです。真の王、憐れみの王イエス様だから、人々はついていくんです。しかも病気の人たちもその中にいるんです。

14節にこうあります。

「イエスは船から上がられると、多くの群衆を見、彼らを深く憐れんで、彼らの病人をいやされた」(マタイ14:14)

深く憐れむ、憐れまれるお方です。イエス様は憐れみの王です。この憐れみ、ギリシャ語でスプランキニゾマイと、はらわたがちぎれるほどの憐れみです。深い深いうめきを伴った憐れみ。この人を見ると、もう腹がキューッとなって、ああ、なんとかしてあげたい、助けてあげたい、そのような深い憐れみがこのスプランキニゾマイであり、イエス様、この多くの群衆を見たところ、本当に彼らは羊飼いのいない羊のようだと、はらわたがちぎれる思いで、深く深く憐れんで、それで彼らの病気を癒されたというふうに書いてあります。

イエス様はスプランキニゾマイの主として、今現代も生きて働かれるお方です。イエス様は皆さんの状況を見て、深く深く憐れまれるお方です。皆さんが、あの人を救われてほしいな、あの人、病気が癒されてほしいな、そういうふうに思って、皆さんが主に祈ると、主は皆さんよりも深い憐れみ、皆さんがはらわたがちぎれるほどの思いで祈ることがあったでしょうか、あるでしょうね。けれどもイエス様は、常々人を見るたびに深く憐れんで、はらわたがちぎれるほどの思いで、その人のために何とかしてあげたいと願われる主です。

皆さん、ぜひその世の人とイエス様との橋渡し役に皆さんがなってください。皆さんがとりなし祈り、またその人にイエス様を伝えるのであるならば、皆さんが橋渡し役となって、イエス様はその人に働くことができるようになるからです。この主は今も生きて働かれるお方、スプランキニゾマイの志を持って人を憐れまれる主です。

そのようにしてイエス様がこの群衆に向かっていろいろと教えておられましたところ、だんだん時間が経っていくんです。15節では、

「夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。ここは寂しいところですし、時刻ももう回っています。ですから、群衆を解散させてください。そして村に行って、めいめいで食物を買うようにさせてください」(マタイ14:15)

弟子たちは計算します。もうそろそろ解散させた方がいいと。もうここは寂しいところ、荒野です。寂しいところですし、時刻ももう回っています。彼らは、この状況、これはまずい状況になってきたと思うんです。荒野ですし、大勢の群衆がおります。そして彼らは徐々にお腹が空き始めてしまいます。このままだと行き倒れが出てしまいかねません。この荒野、人があまりいないところ、寂しいところに大勢の群衆がいきなり来るとどういうふうになるのか。

たとえば鈴鹿サーキット、年に一度、イベントで世界中から人々が集まって、そのイベントの日はもう何万もの群衆がそこに集うんです。そうすると鈴鹿のその地方、コンビニとかお店とかが普段あまりないんです。普段は人口が少ない、そういう田舎というか、そういうところなんです。そこに一度に大勢の群衆が集まると、その日だけ物が不足するんです。レストランもまた、コンビニももう本当に品切れ状態になってしまうんです。

本当にそういう状況、荒野というような辺鄙なところに一気に人が集まったら危険な状態になるんです。弟子たちはそれを計算しました。もうここは寂しいところですし、もう時刻も回っていますから、群衆を解散させてください。それで彼らはお腹が空いてます。めいめいが村に行って、めいめいで食物を買うようにさせてくださいと言うんです。

人間の計算、それは不足を計算します。どのくらいになったら不足をきたすのか。これはまあ、会社や、また私たちの日常、計算するので、買い物にあらかじめ行ったり、またあらかじめ準備をしたりするものです。そして計算をしてみて、不足しているというふうに弾き出したら、諦めたり、あるいはそちらの方面はしないとか、そういったことをするんですけども。

しかし、主の計算は人間の計算と全く違うんです。主のイエス様はこの人間の不足を超越するんです。イエス様はおっしゃいます。あなたが不足している、じゃあ、その不足を私のところに持ってきなさいというふうにイエス様はおっしゃるんです。

イエス様は、この後16節から言いますと、

「しかしイエスは言われた。彼らが出かけていく必要はありません。あなた方であの人たちに何か食べるものをあげなさい」(マタイ14:16)

って言うんです。イエス様の無茶ぶりがここに出ました。

皆さん、目の前に五千人の子供たちがおります。子供たちだんだんお腹を空かせます。皆さんが「どうかこの子供たちをめいめい親のところに返してください」って、彼らはお腹が空き始めましたから、そこでイエス様が、あなた方働き人たち、あなた方が出て行って、あの子供たちに何か食べ物をあげなさい。無茶ぶりされたら、どうするでしょうね。無茶です。イエス様、ちょっとないんですよね。こんな五千人もの子供たちに私が料理するんですかって。まあ、現実的なところではそういうふうに言うかもしれないですけど、皆さん、イエス様が無茶ぶりをする時は、イエス様なりの理由があるんです。

イエスはもうあらかじめ備えが、ご自身で何をしようか、もうイエス様の心の中であるから、だから、そういった無茶ぶりをする。イエス様はどこからというふうに聞いたんです。いくらとは聞けませんでした。どこからこの備えが来るのか。皆さん、必要な備えはどこから来るでしょうか。イエス様です。アーメン。イエス様から来るんです。イエス様は、彼らが出かけていく必要はありません。あなた方であの人たちに何か食べるものをあげなさいと言われました。

じゃあ、この弟子たち、どのくらい持ってるんでしょうかね。17節見ますと、

「しかし、弟子たちはイエスに言った。ここにはパンが五つと魚が二匹より他はありません」(マタイ14:17前半)

と、弟子たちは言います。

「するとイエスは言われた。それをここに持ってきなさい」(マタイ14:17後半)

アーメン。

この弟子たちが持っているもの、それはパンが五つと魚が二匹です。あなたたちで彼らに食べさせてあげなさいというからには、この弟子たちが持っているこのわずかなものをもって、この彼らを食べさせてあげることはできるんだっていうんです。

弟子たちとしては、一体どうしてこんなわずかな食料で、こんな五千人以上って思うかもしれないですが、しかしイエス様はその持ってるわずかなものを持って、この五千人を養うことができるんだっていうんです。

皆さんのお財布の中、いくらあるでしょうかね。まあ、わずかしかなかったとしても、イエス様はそのわずかを用いて、大勢の子供たちを養うことができるようにしてくださるお方です。イエス様にはそれができます。アーメン。だから私たちは、今不足してますとか心配したり思い悩んだり、あるいはイエス様抜きで何か無茶ぶりして心配そうな顔して、懸念顔してする必要はなく、ただ不足をイエス様に持っていけばいいんです。

皆さん、不足しているから諦める。これ、世の中の方法です。しかし、主の計算は不足であるならば、その不足を私のところに持ってきなさいって言うんです。あなたの財布で五千円を食べさせなさい。皆さんが無茶ですよって言うんじゃなくて、じゃあイエス様、あなたにおできになるんですねって言って、財布をイエス様に渡す。それが皆さんのするべきところ。不足しているなら諦める。これは人間の方法。不足しているならそれをイエス様に持っていく。これが皆さん信仰者の方法です。

イエス様のところに、この五つのパンと二匹の魚が持っていかれました。するならば、イエス様はどうするか。19節を宣言します。

「そしてイエスは群衆に命じて草の上に座らせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げてそれらを祝福し、パンを裂いて、それを弟子たちに与えたので、弟子たちは群衆に配った」(マタイ14:19)

アーメン。

イエス様はまずそれを受け取りました。天を見上げました。それを祝福されました。そしてそのパンを裂いて裂いて、弟子たちに与え始められました。本当に、これ、イエス様の方法です。イエス様はパンを裂かれます。最後の晩餐においても、イエス様はパンを裂かれて、弟子たちに渡されました。これは私の体です。私を覚えてこれを行いなさいと言われました。私たちの本当にイエス様の裂かれた体、これをいただいて、その裂かれたものをまた裂いて、また隣に渡して、人に手渡して、こうしてイエス様の御体を、イエス様の救いを、その必要の満たしを、それぞれに届けていくんです。

イエス様は祝福してくださいました。イエス様が祝福されたもの、これは、ほんのわずかなものであっても、多くの人々を富ませることができるんです。貧しい者が持っているものはわずかでも、その人が主を恐れるものであるのであるならば、そのわずかなものは、大金持ちのたくさんのもの、持ってるものに勝ると書いてあります。

皆さんの仕事、それはたとい皆さんの持ってるものがわずかでも、あるいはたんまりあったとしても、どっちでもいいんです。それをイエス様のところに持っていって、イエス様、これを用いてください、あるいはイエス様、この私を用いてください、ここに私がおりますと、主に皆さん自身を手放すのであるならば、主が皆さんを用い、祝福して、与えてくださるんです。主は本当に私たちにとって必要なものをすべて満たしてくださるお方です。

では、20節と21節を宣言します。

「人々は皆食べて満腹した。そしてパン切れの余りを取り集めると、12の籠にいっぱいあった。食べたものは女と子供を除いて男5000人ほどであった」(マタイ14:20-21)

アーメン。

人々は食べて満腹したんです。ほんのわずかなお菓子を細々とみんなに分けたのではないんです。みんな満腹するまで食べ尽くして、それまでずっとこのパンが裂いても裂いても決してなくならないという奇跡がずっと行われ続けていったんです。そしてこのみんなが満腹してパンが余りました。もう食べきれないよっていう群衆が残したパン切れ、それを集めてみると、12の籠にいっぱいあったって書いてあります。

さあ、12は何の数字ですか。弟子たちの数字です。働き人たちの数字です。この教会によって、働き人、何人かおりますけれども、その数分だけ籠いっぱいにパンが余るという状況なんです。

ここ最近、教会では、もう不思議なことに買ってもいないのに牛乳が余り、ネギが余り、またお米もなんか今、まだまだ余っていて、当分なくなりそうにないです。本当に不思議です。主はこうしてすべて必要を満たしてくださるんです。皆さん体験して、皆さんその奇跡を今、現実に食べてます。ネギにしろ牛乳にしろ、お米にしても、そうです、主は必要を満たしてくださるんです。

今日、皆さんにお話ししたいことは、イエス様が私たちの必要を満たしてくださるお方だということです。そして、働き人の分も満たしてくださるのです。今日、皆さんに覚えておいてほしいこと、それは皆さん、不足があるならイエス様のもとに持っていきましょうということです。

人間は計算して不足しているならば諦めます。あるいは、もうあらかじめ不足しているとケースを弾き出したら、そもそもそちら方面には行かない、しない。これが人間の方法です。

けれども、イエス様の方法は、まずイエス様の命令ありきです。「あなたはあちらに行きなさい」と言われて、弟子たちが「いや、あちらの方に行くには到底資金が足りません」ということであるならば、「じゃあその不足を私のところに持ってきなさい」ということなのです。

そして、イエス様のもとに持って行ったら、もう不足していたはずが満ち足りる。むしろ、それが余りあるほどの満ち足りた様になっていくんです。

冒頭で宣言したところ、アブラハムの場面です。アブラハムはもうこの時、本当に信仰が成熟しておりました。イサクを連れて、それでモリヤの山地へ、主が命じられました。「あちらに行って、あなたの独り子、イサクを捧げなさい」と言うんですけども。

アブラハムはそれに対して躊躇なく、翌朝すぐにイサクを連れて、モリヤの山に向かっていくんですけども、その途中でイサクが、「お父さん、この火と薪はあるんですけども、けれども、生贄となるための羊がありません。一体どこにあるんですか」と尋ねました。

アブラハムは「お前が生贄だよ」なんて言わないんです。アブラハムは信じているんです。「神ご自身が全焼の生贄の羊を備えてくださるのだ」と信じているんです。

もっとも、アブラハムはイサクを捧げるつもりで連れてきたんです。けれども、信仰を持って、このイサクが死んだとしても、しかし全能なる神様は生かしてくださるお方であり、そしてイサクの代わりになる羊を、全焼の生贄の羊を備えてくださるのだと、はっきりとあらかじめ宣言しております。「神様が備えてくださるのだ」と。

皆さん、イエス様がこの皆さんの身代わりの羊となって神に捧げられました。主は備えてくださる方です。主は皆さんの身代わりを備え、また皆さんの必要を備え、そして皆さんの不足を充当して余り余らせてくださるお方、働き人である皆さんを満たしてくださるお方です。

主は皆さんに向かって言われます。「不足がある。だったら私のところに持ってきなさい。あなたの持ち物を」と。五つのパンと二匹の魚、それで十分だと。皆さんのお財布に1570円。それで十分だと。

主は、皆さんから受け取ったものを天を見上げて、祝福して用いてくださるんです。多くの人々を養うために、主はそのようなお方です。

この主に信頼しましょう。主に期待しましょう。主が皆さんの必要を満たしてくださり、また皆さん自身が本当にこの主を通して大いに主の働きを見て、多くの人々を皆さんを通して養う、そのことに用いられる皆さんでありますように。

今日も私たちに、わずかしかないからできないと思ってはいけないと教えてくださったことを覚えて感謝いたします。わずかばかりであっても、持っているものをあなたに差し出す時、委ねる時、あなたが事をなしてくださるということを今日も私たちに繰り返し教えてくださいました。

私に不足があったとしても、あなたには不足がないということを覚えて、イエス様にすべてを委ねる私たちでありますように。そして、イエス様の全能の力を引き出すことができる私たちでありますように。

今日も私たちに祭司としての務めが与えられていることを感謝します。これから神と人との間においてとりなす者として、まず私たち自身が整えられるように祈っていきます。神と人との御前に立って、祭司として、力ある聖めの働きができますように。今日、私たちを用いてください。私たちがとりなしを祈ることによって、すべての疫病や災いが退いていきますように。祈りの力を与えてくださることをありがとうございます。

【結論】

イエス様は世の王とは全く異なる真の王です。世の王は自分の保身のために人を殺しますが、イエス様は私たちを生かすために自らを捨ててくださいました。イエス様は深い憐れみ(スプランキンズマイ)をもって、私たち一人ひとりを見ておられ、はらわたがちぎれるほどの思いで助けたいと願っておられます。

人間は不足を計算して諦めますが、イエス様の方法は違います。わずかなものであっても、それを主のもとに持っていくとき、主は天を見上げて祝福し、多くの人々を養うために用いてくださいます。アブラハムが「神ご自身が備えてくださる」と信じたように、私たちも主に信頼し、期待しましょう。

私たちは自分を王とするのではなく、イエス様を真の王として受け入れ、自分を十字架につけてイエス様に従っていく必要があります。そして、世の人々とイエス様との橋渡し役となり、持っているものを主に委ねるとき、主の全能の力が現れ、私たちを通して多くの人々が養われるのです。私たちに不足があっても、主には不足がありません。主は必要を満たし、余りあるほどに豊かにしてくださる方です。

 

主が先んじて険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕く法則とは(申命記1:29-30) 早天祈祷会 2026年2月10日(Tue)

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【概要】

神が先に進んで勝利する驚異の法則「アニ・パニーム・ハラク」とは? 目の前の強大な敵、堅固な要塞に絶望する時、私たちはどうすれば? 主は「私があなたの前に進み、険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕く」と宣言! この原則に従い、富と力を神の栄光と次世代のために用いたロスチャイルド家の秘密とは?

【聖書箇所】

  • 申命記1:29-30

  • イザヤ45:2

  • イザヤ45:6

【励ましの言葉】

主があなたがたに先立って行かれ、エジプトにおいてあなたがたの目の前でしてくださったその通りに、あなたがたのために戦われる。主は険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折ってくださる。

【勧めの言葉】

油注がれた者として、与えられた富や力、賜物を主の栄光のため、礼拝の回復のため、次世代の教育のために用いなさい。自分の満足や快適さのためだけに使ってはならない。

【***詳細***】

それでは、申命記1章29節から30節を皆さんで一緒に宣言しました。

「それで私はあなたがたに言った。おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったその通りに、あなたがたのために戦われるのだ。」

主が先に立って進んでくださり、私たちのために、もう先にあなたが勝利してくださるその幸い、その恵みを感謝します。アニ・パニーム・ハーラフ。この箇所に書かれているように、私たちも本当にこのイスラエルの民に続き、あなたが先んじて行かれるところ、あなたがもうすでに勝利をしてくださったところに、ただ行って、具体的に勝利を収め、そこを勝ち取り、そしてあなたの御国のものとしていく者たちでありますように。

ここ最近、アニ・パニーム・ハーラフについて、公園大学でキム・ヒョンジョン博士から習いました。「アニ」は「私」という意味、「パニーム」それは「顔」、御顔です。主の顔が先立って「ハーラフ」、歩む。これは「行く」という意味もあり、また「歩む」という意味にもなります。主ご自身の顔がそこにもう先に行って、そこを主が占領して、そこに勝利して、そして「私が先に進んでいくから、そこにあなたも来て、そこを占領しなさい」。これがアニ・パニーム・ハーラフです。

今日の申命記の1章30節にこのアニ・パニーム・ハーラフが出てきます。キム先生はヘブライ語のわかりやすい表現として、アニ・パニーム・ハーラフという単語で説明してくださっています。

今日の箇所、この御言葉は申命記にあります。申命記といえば、いよいよイスラエルの旅が40年の旅路を終えて、これからこの約束の地に占領しに、具体的にヨルダンを超えて進みゆく、まさにその場面に立っているところにモーセを通して語られた言葉です。

彼らの目の前に映っているのは横たわるヨルダン川。雪解け水でもう水が満々と湛えております。そして強い敵。40年前、彼らの父親の世代は、その敵があまりにも強そうなのを見て、もう尻込みをして、「これから、もうこの約束の地は占領できない」というふうに言って、尻込みをしたゆえに、もう荒野の40年を経ることになってしまいました。

中途半端に神様の約束を信じて中途半端でやめてしまうと、こういうことになってしまうんです。ある讃美歌にあるように、「わずか漕ぎで遠く乗り出さず、返す波に飲まれてしまった船もろともに」という歌詞の通りになってしまうんですね。

だから私たちはもう信仰によって一歩踏み出したら、もうあとはもう全部、神様の約束が成就することを委ねて、一歩一歩一歩一歩進んでいけばいいんです。

彼らがいよいよ約束の地に入ろうとする時、待ち構えていたのは、その父親世代が尻込みした強い敵であり、また堅固な要塞城壁であったり、そしてなおかつ自分たちの戦いの経験のなさ、武器もない。40年間ずっと荒野をさまよっていた。特に訓練も受けていない。その前は奴隷だった。

そういう弱い自分を見つめ、また強い敵の堅固な城塞を見てヨルダン川を見てという現実だけを見るとするならば、もう目で見るとするならば絶望しかないんですね。

信仰者というものは、目で見えるところによらずなんです。ただ、主のお言葉を握りしめて進んでいくのであるならば、そこはことごとく安全なんですね。

主は今日の箇所において、この真実の順序を教えてくださっております。順序ですね。どういう順番か。「あなたがたの前を進まれる主があなたがたのために戦われる」と書いてありますから、ここにはっきりとした順番があります。

まず戦うのはあなたがたではない。あなたがたが準備するのでもない。主が先に行って、順番は、主がまず先に行って、そして主が戦われる。主が戦って、もう勝利をした。その後にあなたが続きなさいということです。

主は本当に「この私が先に行って、敵をあなたの手に渡す」。これがイスラエルにおける勝利の戦いの法則です。主がまず先に進んでいく。そして主が進まれる音を聞いたのであるならば、あなたは進みに行きなさい。

ダビデに対しても、「まずあなたはこの森の中で伏せていなさい。そしてバルサム樹の林の上で行進の音が聞こえたならば、あなたは進んでいきなさい。もう主が先んじて神の軍団の兵隊がバルサム樹の林の上からもう進み行って、そして敵を打ち取っている。真上ではもう主が打ち取っている。だからあなたがたはそのバルサム樹の上の行軍の音が聞こえたら、あなたも進み行きなさい。したら勝利するから」。

これがこの神の国の戦い。神の国の戦いは血肉によらず、剣や盾によらず、主ご自身が先に行って勝利をしてくださって、その後に皆さんが続く。それならばこの具体的な勝利、現実の勝利が皆さんのものになる。これがこの神の国の戦いです。これがアニ・パニーム・ハーラフ法則です。「私があなたの前に進みゆく」アニ・パニーム・ハーラフです。

これが今、つくばみらいの地においてなされていることを覚え、感謝いたします。去年、一昨年、ちょうど一昨年、このつくばみらいの物件、オークション物件で、もういろんな不動産の競合たちがそこを狙っていたんですね。昨日、ある不動産屋さん、つくばみらいの方に行ったところで、その不動産屋さんも「実は私もあそこの物件を狙っていたんですけどね、本当にいいところを勝ち得ましたね」っていう、そういう言葉をいただきました。

主ご自身がまず先に進んで、アニ・パニーム・ハーラフして先に行って進んでくださり、そしてそこを勝ち取る。それが神の民の戦いの法則であり、神の民がこの地上の国を占領して、そこを神の国に塗り替えていく、その法則です。

この法則が最も劇的に現れたのがイザヤの45章、皆さんが毎日宣言していますね。イザヤ45章、冒頭でも宣言しました。そこにおいて登場するのは神の民ではないクロス王という異邦の王様です。

「主は油注がれた者、クロスにこう仰せられた」というふうに始まるんですけども、「主が油注がれた者」、これは何も油注がれる者っていうのは、祝福を受けるに値する者ではなく、主の役割を託された者、主の使命を託された者です。

旧約において、油注ぎは王様に特に注がれますし、また祭司に対しても注がれます。預言者に対しても注がれます。神様からの特別な役割をあなたに任じたということで、油を注ぐんですね。

油注がれたから何か祝福を受けるんだとか、なんか力を受けて活躍するんだとか、そういった意味ではなく、主の役割をあなたに託したから、その力を持って、その油注ぎの聖霊の油を持って、あなたは進みゆき、神の国を勝ち取りなさいっていうことなんですね。

「私は油注がれた者だから、私の預言、私の癒し、私の不思議なパワー、これを見なさい」、そういう自慢させるためにではないんです。もしそんな主の油注ぎを、そんな自分勝手な自分の名誉のために使うとするならば、サウル王みたいに取り上げられてしまうんですね。かえって悪い霊が遣わされてしまいます。気をつけるべきです。

イザヤ45:2を皆さんと一緒に宣言したいと思います。せーの。

「私はあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。」

アーメン。「私があなたの前に進んで」、パニーム・ハーラフですね。主ご自身が先に進んで、あらかじめ険しいところを平らに平定してくださって、そして皆さんが歩きやすいように、つまずくことないように平定してくださる。

皆さんの行く先々、つくばみらいの先々、主ご自身が先に進んで平定しておられ、そしてあらゆるこの障害を取り除けてくださるんですね。「青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る」とありました。アーメン。

一昨年は、このつくばみらいにおけるこの競売物件という鉄の扉、鉄製の扉を打ち砕いてくださいましたね。もういろんな強豪たちがそこを狙っている、そうしたものも鉄のかんぬきへし折って、そこ私たちのためにその門を開いてくださいました。意味があるからです。そこにおいて神様の栄光を表すために、皆さんを用いるために、主が皆さんに対してこの扉を開いてくださったんですね。

これ、申命記の1章30節と全く同じ構図ですね。まず主が先に進む。そして主ご自身が戦って、そしてその主があらゆる障害を取り除いて、私たち神の民がそこに進んでいけるようにというふうにしてくださる。

どうして主はそこまでして整えてくださるのか。なんで主はこんなにも特別扱いを私たちにしてくださるのか。その理由、それがこのイザヤ45の6節にあるんですけども、6節じゃあ皆さん一緒に宣言します。せーの。

「それは日の昇る方からも西からも、私のほかには誰もいないことを人々が知るためだ。私が主である。ほかにはいない。」

アーメン。その理由、それは主が栄光を受け取るためです。もう東からも西からも主ご自身、「私、主以外には誰もいないということを人々が知るためだ。私が主である。ほかにはいない」。アーメン。目的はただ一つ、主の栄光という目的です。

クロス王は、この彼に与えられた特別扱い、また与えられた権力、また莫大な富。彼は本当に奇跡的にバビロンに勝利し、そしてペルシャ王国を打ち立てたんですけども、なんでそういうふうに彼に特別扱いがなされ、彼に莫大な権力と富が与えられたか。

クロスは、これを自分の快適さだとか、自分の名声だとかのために用いませんでした。彼はそれを何に用いたか。彼はそれを神の民イスラエルをイスラエルに帰還させて、このバビロン捕囚を解いて、世界中散り散りになっている神の民イスラエルをイスラエルに集めさせて、神殿再建を命じました。神殿の復興、礼拝の復興のために、このクロス王は用いられたんですね。礼拝を回復するためにです。

今この時代、皆さんも同様です。礼拝を回復するべきです。日本において、およそ400年前、初めて日本に福音が伝えられてきた当時、もうリバイバルが起きたんです、実は。戦国の世の中において、福音が伝えられて、そして福音を素直に受け入れた人々が多く起こされたんですけど、しかし、当時の支配者たちが、このキリスト教を脅威だとみなして弾圧したんですね。徹底的に迫害しました。

そして日本の福音の炎はあたかも消えたかのように見えたんですけども、しかし、細々と親の世代から子供の世代へ、子供の世代から孫の世代へ、福音を密かに伝えていった。本当に日本の中において、この次世代への教育において大成功した先人たちがいたんです。

今この時代においても、本当にこの礼拝の回復、昔、この勝手に神殿が、日本における礼拝が荒らされて破壊されてしまった。それを復興させたいという願いを持つ皆さんに対して、主は油注ぎ、あらかじめアニ・パニーム・ハーラフして、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折り、隠された財宝を皆さんのものとして、そしてこのあらゆる礼拝の復興のために必要なものを皆さんのために備えてくださるんです。

本当に今、栄光の富が必要な状態です。今このままこの教会を運営したら、来年30名、子どもたちが30名から60名になるとしたら、場所が足りないんですね。本当に栄光の富が必要です。皆さん、祈り求めましょう。主は隠されたところの宝、秘められている宝を皆さんに与えると、この御言葉を握りしめて進み行きましょう。

礼拝を回復しましょう。子どもたちがこぞって礼拝をするように。またその親たちも、本当にこの子供たちが、福音によって、御言葉によって変えられた様をびっくりして、我も我もと、本当にイエス様を信じるようになり、そのことに用いられる皆さんでありますように。

この私たちも、この栄光の富を得たとするならば、それをこそ、その時こそ気をつけて、主が私たちを顧みてくださったことを忘れないようにして、そして本当にそれを主のために用いるべきです。

使命が託されるということ。これは神様の栄光のためです。なんでユダヤ人がこの国を失っていたにもかかわらず、彼らが財をなして世界を陰で操るかのような、そこまで力を持ったのか。それは彼らが神のために用いようとしていたからですね。

ユダヤ人、特にロスチャイルド家、ありますね。ロスチャイルド家の家訓としては、この財を得たら、富を得たならば、それを次の事業とか慈善活動とか教育福祉に回しなさいっていうことなんですね。

もうお金を、財を得たら、ただ自分のために囲い込みをして、自分の楽しみのためにだけ使う。これ、真実のお金持ちではありませんね。成り金です。ただの二世代、三世代後にもう潰してしまいます。

なんでロスチャイルド家があんなにも代々お金をどんどんどんどん富を増し加えていったかというと、その得た財、事業によって得た財を次々に教育に回し、福祉に回し、慈善活動に用い、そのようにしていったから。だから神様、さらに財を与えていくんです。今日の法則ですね。

もし油注がれるのであるならば、もし富が与えられるのであるならば、それは神様の栄光のためであり、礼拝の回復のためであり、次世代の教育のためにそれを用いるわけですね。ロスチャイルド家も次世代のために用いていったから、だからどんどんどんどん祝福されて、神様から、「この家には財をどんどん持ち越えて与える。私の喜ぶことをする」っていうことで、そのロスチャイルド家はどんどん富を増していったんですね。

富は得たら、それを主のために回す。次世代のために回す。そして主の栄光をどんどんどんどん回復させる。これが本当に大事なことです。

けれども、もし私たちが得た財を、また得た富、力、権力、また油注ぎを、これをただ自分の満足や自分の良かれのために、自分の快適さのためだけに使うとするならば、それはもうそれを取って、誰か別の人にあげてしまうことになります。

皆さんはそのようなことで人生終わってはなりませんね。皆さんは本当に主の栄光のために、また神の御国のため、次世代のために、この与えられたタラント、賜物、財を、どんどんと用いて、そしてこの日本という国に礼拝を立て上げる。

クロス王が用いられたごとく、今この時代の皆さんもそのように油注がれて用いられていきますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

【結論】

主は私たちの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折ってくださる。主は秘められている財宝と密かなところの隠された宝を私たちに与えてくださる。それは主が神であり、私たちの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることを私たちが知るためである。ただ主こそ神であるということを私たちがまず知り、人々が知り、そうして神の国がこの日本に、今この時代にどんどんと広がっていくために、私たちは呼び覚まされている。御言葉をしっかりと握りしめ、そして主の御旨に従って進み行き、どんどんと勝利し、勝ち取って、そこを神の国化していくことができますように。

 

主の恵みの限りない広さ、高さ、深さ(詩篇103:8-12) 早天祈祷会 2026年2月9日(Mon)

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【概要】

今、自分の人生が、あたかも狭い枠の中に囚われ、息苦しさを感じていませんか? 自分を縛る常識や罪の性質から解放されたいと願うでしょうか。 神の恵みは、空よりも高く、広く、深いと真理の言葉は言います。 主はあなたの罪を、東と西が永遠に交わらないように、遠く引き離される! この圧倒的な愛と自由の世界を、知りたいでしょうか?

【聖書箇所】

詩篇103:8-12、イザヤ55章(言及)

【慰めの言葉】

主は憐れみ深く、情け深いお方であり、はらわたがちぎれるほどの慈しみをもって私たちを見ておられます。主はいつまでも怒ってはおられず、私たちの罪に従って扱うことをせず、咎に従って報いることもありません。

【励ましの言葉】

主の恵みは天が地よりもはるかに高いように、私たちの上に大きく注がれています。私たちは狭い枠の中に自分を閉じ込めるのではなく、主が用意してくださった限りなく広い自由の世界に進み行くべきです。

【勧めの言葉】

罪を犯したら、自分で自分を牢獄に閉じ込めるのではなく、すぐにイエス様のもとに走って行き、「主よ、私は罪を犯しました。イエス様の血潮で清めてください」と祈るべきです。主の血潮を携えて、大胆に恵みの御座に進み出ましょう。

【***詳細***】

今日、恵みをいただく御言葉は詩篇103篇8節から12節です。はじめに11節と12節を皆さんで一緒に宣言します。

「天が地上はるかに高いように、御恵みは主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちの背きの罪を私たちから遠く離れさせる」アーメン、ハレルヤ。

今朝、素晴らしい主イエス・キリストの御名を褒め称え、賛美いたします。主は私たちを恵もうとして待っておられるお方ですね。父なる神様は私たちに恵みたいと待っておられるお方ですけれども、けれども私たちは本当に時に何かとても狭い領域の中で窮屈に暮らしているかのような感覚に陥ることがあるかもしれません。

もしかしたら、今までの人生ずっとなんか窮屈な針のむしろの中にいるかのようにして、もう右に行けば何々だから、左に行けば人に迷惑がかかるから、前に進めばなんか制度があれこれだから、ちょっと私はもう前にも後ろにも行けない、なんか狭い、とても窮屈なところで生きているかのような、もう狭く窮屈でものがいっぱいあると、もうこんな風にして寝なきゃいけない、なんかとてもいびつな感じですね。人生そのようないびつな形で住んでいないでしょうか。とても窮屈な思いがして、あっち行ったらこう、こっちに行ったらこう、そういうなんかぎこちない世界で住んでいる方も、もしかしたら今そういう窮屈さを感じている方も、もしかしたらおられるかもしれないですけども。

でも主が私たちを導こうとしておられるところは、限りなく広い自由な世界なんですね。なぜなら、真理はあなた方を自由にすると書いてあります。アーメン。自由というものは、ただ単に私たちが好き放題して良いということではありません。この主の秩序の中における自由です。その自由、罪を犯す、犯さない、罪を犯してもいいんだという、そういう自由ではなくて、主がしっかりと祝福の道を歩んで、自由意志を持って、あ、この道が本当に素晴らしいのだ、この道は災いがもたらされるから、この道は行かないんだ、そういう選択の自由があるんですね。

そして本当にこの選択の自由をいただくためには、正しい知識が必要です。よく親御さんが自分の子供を自由な育て方をしたいということで、クリスチャンの親でさえも、子供が何を信じるのも自由だ、子供が生物学的には男子として生まれたのに、女子として生きることも自由だ、そういった自由は全くもって不自由、むしろ本当に永遠の滅び、全くの不自由さをもたらす、そういう道になってしまいます。その罠に陥ってはなりません。

真の自由というものは、イエス・キリストにある自由。イエス様がおっしゃった真理はあなたを自由にする。これはこの神様の秩序の中における自由ということですね。私たちは本当にこの神様の用意してくださった、広い、おおらかな、また気前の良い、そういう神様の用意してくださった、限りなく広い自由の世界に進み行くということを神様は望んでおられるんです。

主は本当に気前が良いお方ですね。ケチケチしているお方ではないですね。ケチケチ、これ、狭い世界の話です。お金がこれしかないからだから、広々とした家ではなくて、狭い家を買おうということになってしまうんですね。本当に私たちは主から、気前が良い主から大いなる、もう素晴らしい未来を約束されている。ですから私たちは本当にこの主が用意してくださった、限りなく豊かな恵みの世界の中で生きるということを、この道をこそ模索すべきであり、また主はそのように素晴らしい大きなお方であるということを信じて進み行くべきです。

本当に、特に私たちを窮屈にしているものは、やはり罪ですね。自分はこれこれのような罪があるから、自分は、私はふさわしくないから、私はどうせこういう人間だから、私はどうせ罪深いから、そんなところに立たない、そういった言葉、まるで自分で自分のことを牢屋の中に自分で閉じ込めてしまっているかのようにして、それであれもできない、これもできないっていうことに陥ってしまうんですけど、しかし詩篇は全く違った風景を皆さんに見せてくださいます。

今日の詩篇の103編において、ダビデは歌うんですけども、8節の方、じゃあちょっと皆さんと一緒に宣言します。8節。

「主は憐れみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである」アーメン。

ここで使われている憐れみ深いという言葉、原語においてはお母さんが子供を抱いている時のような心境、もう内臓が震えるほどの慈しみですね。新約聖書にスプランクニゾマイ、皆さんよく使うと思うんですけど、スプランクニゾマイは、はらわたがちぎれるほどの憐れみ、慈しみですけども、主は本当に皆さんのことを、はらわたがちぎれるほどになんとかしてあげたいという、そういう感情を伴った深い慈しみ心、憐れみの心を持って皆さんを見ておられるんです。

神様、遠く遠く離れた世界から冷たく引き離すような、そういうあるいは冷たくさばくような、そういう神様ではなく、むしろ罪の中でまみれている皆さんを本当に何とかしてあげたい、はらわたがちぎれる思いで皆さんのことを見ておられる、そういう愛の神様です。

さらに主はこういうふうに続くんです。9節見ますと、9節。

「主は絶えず争ってはおられない。いつまでも怒ってはおられない」アーメン。

本当に神様はいつまでも怒ってはおられないと書いてあります。私たちは違いますね。なんか怒りを、もう後生大事に握りしめているかのような、あの人の憎たらしい、この人、あのことが許せない、っていうのは、もう本当に握りしめて、怒りを長く保っているから、そういう価値観だから、神様もきっとそうじゃないかと思うだろうかって。でも聖書は書いてあります。主は絶えず争ってはおられない。いつまでも怒ってはおられない。アーメン、アーメン。

主は出エジプト記においても繰り返して語られているのは、主は憐れみ深く情け深い神、怒るのに遅く、恵みと誠に富む、アーメン。主は本当に怒るのに遅いお方です。もし人間が罪を犯したのであるとしたら、たちまち天から降りてきて、もうぶん殴るような、そんな神様だったら、もう何発殴られたかわからないですね。もう罪を犯しがちなけども、私たち、本当に河合先生がよく金曜の礼拝で21項目、私たちの死に値する罪、それを本当に罪を犯しているにもかかわらず、けども、主は怒るのに遅い。そして人が立ち返るのを待っておられます。

なんとかして、裁かれる前に、この主の恵みのただ中に来ることを主は望んでおられるんです。もし主が怒るのに速い神だったら、もう人間はたちまち滅ぼされてしまっておりました。創世記で、もうアダムとエバが早速罪を犯して、カインの時代からもう早速罪が全地にはびこって、そこからもう千年以上も経ってから洪水がようやく起こっているですね。

洪水が起きたのも、もう本当に人の中に罪がはびこって、その当時の世界が、例えば十億人の人口だったら、十億人総出で殺人鬼十億人、みんなそれぞれ不品行の、そういうものたち、そういう世界でもう義人と言いますか、そうじゃない人が世界で8人しか残らなくなって、もうその8人を今にも飲み込まれそうになってしまったように起きた洪水でしたね。

主はまことに憐れみ深く、怒るのに遅いお方、本当に救われたいと願っておられるゆえに、どんなあくどい人であっても、すぐに裁くことをしないで、むしろ立ち返ることを待っておられるのが、これが主です。そんな主ですから、私たちがどうして自分で自分のことを私、罪深いから、私、神様の前にふさわしくないからといって、あれこれ制限する必要があるでしょうか。

もしそう感じるのであるならば、主の恵みの御座に進み出て、折にかなった助けをいただくために、大胆に進み出ようではありませんか。書いてありますね。私たちは、どうしてそれができるのか。功(いさお)なけれど、主の血潮により御前に出ることができると賛美しておりますね。功なんて言うんですか、あの、そういう、それに値するということ、値することではない、私だけど、確かそういう意味ですね。

功はなけれど、けれども、主の御前に進み出ることができるのは、イエス様が十字架で血を流してくださって、そして私たちの身代わりに罰せられてくださったから。だから私たち、功はなけれど、主の血潮によって主の恵みの御座に進み出ることができるんです。

もし皆さんの罪悪感、あるいは自分はふさわしくない、そういった思いに駆られているとするのであるならば、主の血潮を携えて御前に進み出ればいいんです。そしてイエス様、私、このような者です。主よ、あなたの血潮でもって清めてくださり、私をふさわしい者として、あなたが見ておられることを感謝します。あなたの恵み、憐れみがこんなにも海よりも深く、空よりも広いことを感謝します。その深さ、広さでもって、この者をあなたのその知識を持って清め、またその深い深い憐れみの中に私を浸し込んでください。そういうふうに祈ればいいんです。

主はいつも争っておられない、怒ってはおられないお方、誠に情け深い恵みと誠に富んだお方、恵みと誠に、リッチなお方であると書いてあります。

さらに詩篇の103編の10節の方で書いてあるんですけども、じゃあ10節、皆さんと一緒に宣言します。

「主は私たちの罪に従って私たちを扱うことをせず、私たちの咎に従って私たちに報いることもない」

これ、とてつもなくすごい慰められることはですね、主は私たちの罪に従って扱うことをしない。私たちが日々犯す罪、また本当に自分はふさわしくない、そういう感覚。この罪に従って扱うことはしない。私たちの咎に従って私たちに報いることもないと書いてありますね。私たちの常識はここで崩れ去ります。

私たちの常識としたら、悪いことしたらその分だけ罰を受ける、っていうものですけども、しかし主はそういった計算をなさらないんです。イエス・キリストにあって。イエス・キリストにある者は、そのような計算ではないんですね。イエス・キリストになければ、もうあの21項目で死罪に当たる罪、たちまち日ごと、もうすぐにでも犯してしまいます。けれども、イエス・キリストの血潮によりて、私たちは、この主は計算外だ、あなた方がもう今まで犯してきた罪はもう計算の外にするということにしてくださるんです。

この私たちの咎、本当にこれは私たちはあるんですけども、しかし主はそれに従って報いることをしない恵みの時間があります。恵みの時間のうちに、この主の血潮の陰に隠れる人は、その計算がさらになしにされるんですね。けれども、その恵みの時間に、あ、自分は何しても罰されないんだって調子に乗っていると、その恵みの時が過ぎてしまいます。

やがてそういう時が来てしまう前に、私たちはイエス・キリストの血潮によって、イエス様、許してください。イエス様、助けてください。その主により頼む者は、本当に主はそのような罪を許してくださるお方ですから、私たちは本当に何か罪を犯したらすぐに主のもとに行くべきです。

何か罪を犯してしまったら、ああ、やっちゃった、やっちゃった、自分はダメだ、自分はダメだって言って、その牢獄に閉じ込まったままで主のもとに行かないとするならば、それは悪魔サタンが喜ぶことです。皆さんは悪魔サタンが喜ぶことをしてはなりません。主が喜ぶことをしましょう。

主が喜ぶこととは、罪を犯したらすぐに主のもとに走って行って、主よ、私は罪を犯しました。イエス様の血潮で清めてください。そういうふうに言うことですね。

皆さんの子供が、歩いていて、転んでしまって、たまたま運悪く泥んこの水たまりのところにべちゃってなって、もう服が汚れてしまった。その子供はああ、服を汚しちゃった。もうパパとママには嫌われるんだ、会えないんだって言って、それで子供が狭い牢獄の中で閉じこもって、一人で閉じこもっていったら、そんな子供ね、ちょっとあれですね。むしろ子供は汚れたんだったら、親のもとに行って、パパ、ママ服汚しちゃったって、走っていくものですね。

皆さんは神の子供であるなら、罪で汚れたなら、むしろイエス様のもとに走っていくべきなんですね。それをイエス様は望んでおられるんです。

さらに11節も皆さんと一緒に宣言します。11節。

「天が地上はるかに高いように、御恵みは主を恐れる者の上に大きい」アーメン。

天はもう本当に計り知れない高さです。どこまで行っても行っても届かない。それが天です。主の恵みは、皆さんがする後悔よりもはるかに高い。主の恵みは、皆さんが自己評価する自己評価よりもはるかに高い。主は皆さんの、主の恵みは皆さんの上に注がれて注がれて、それは天よりも高い、なるほどの高い高い恵みを、主は皆さんに注いでおられるんです。どうして小さい領域で縮こまって自分ダメだ、あっち行ってもダメだ、こっち行ってもダメだにとどまっているでしょうか。主の恵みは空よりも天よりもはるかに高い、アーメン、その主の恵みに皆さんは飛び込んでいくべきなんです。

そしてさらに12節でこういうふうに締めくくられているんですけども、12節。

「東が西から遠く離れているように、私たちの背きの罪を私たちから遠く離れさせる」アーメン。

この東と西、決して交わらないものです。東と西がくっつくということはありえないですね。どれだけ歩いても歩いても、近づいていくことはできません。主は皆さんの背きの罪を、遠く、もう東と西が遠いように、もうお互いがタッチできないように、私たちの背きの罪を私たちから遠く離れさせてくださる、引き離してくださったんです。十字架によって。

ですから、私たちは、この十字架によって、罪は東と西がもう決して交わらないかのようにして引き離してくださったんです。それなのに、私たちどうでしょう。もう神様が遠くに投げ捨てた罪も、なんかもう一度持ってきて、拾い集めて、これ私の罪ですって言って、罪を後生大事に持ち歩くかのような。そうやって、それは真実ではありませんね。

この背きの罪で、これ、ただ単に、あの、知らないで犯した罪ではなく、知って犯した罪で、そしてあえてわざと、これが罪だと知って犯した罪、そのような背きの罪、これを私たちから遠く離れさせると書いてあるんです。

私たちは罪に戻ることがあるかもしれません。けれども、あ、戻ったと感じたのであるならば、あ、清くなりたい、思ったのであるならば、すぐにイエス様の懐に飛び込んで、イエス様、助けてください。イエス様、罪を犯しました。すぐにイエス様のもとに飛び込んでいってください。

主の恵みは天よりもはるかに高く、また罪を皆さん東西が分離しているごとく分離させてくださるのが私たちの主です。アーメン。これほどの素晴らしい主は、神様が他にいるでしょうか。本当に私たち自身の罪、火のように赤くても雪のように白くしてくださる。書いてありますね。アーメン。まことに主は高い広いお方、また本当に気前が良い、そういうお方です。

冒頭で宣言したところは、イザヤ書の55章なんですけども、そこも全く同じようなことが書いてあるんですね。私の思いはあなた方の思いとは異なり、私の道はあなた方の道と異なる。天が地よりも高いように、私の道はあなた方の道よりも高く、私の思いはあなた方の思いよりも高い。アーメン。

私たちは本当に狭い世界で、これが世界だと縮こまった考え方をするんですけど、しかし、主の思いはあなた方の思いよりはるかに高いんです。天が地よりもはるかに高いごとく。皆さん、飛行機に乗ったことありますね。もうどんどん離陸していくと、地上が小さく小さく、地上の人が、また車がどんどんどんどん、もう塵の塵としてなくなってくるほどになりますね。

神様の視点から見れば、皆さんのその罪、それは本当に塵の塵として見てくださるお方です。皆さんがイエス様に行くのであるならばです。けれども、皆さんがイエス様にないとするならば、もうすぐに皆さん、21項目の罪のどれかで犯して、もう死罪に当たる死に値する罪になってしまいます。だからイエス様にいつも皆さんにより頼むべきなんです。イエス様、助けてください。イエス様、自分を本当にこの罪から汚れから清くしてください。いつでもイエス様に、イエス様のもとに、すべての罪を投げて、またあるいはイエス様のもとに走り寄って、イエス様から直接この罪の清めをいただく。また主の空よりも高い恵みをいただくべきです。

私たちは何かと自分を小さい枠にはめ込んでしまいます。皆さんは世の光なんですね。世の光を、枡の中に閉じ込める者はいないって、イエス様はおっしゃいましたね。この燭台をベッドの下に置く者はいないって言いましたね。なんでそんなことをする人がいるのかって普通、人間、常識的に考えて、なんで灯火を枡の下に置こうとするのか。そんな人間、常識的にいないよって思うんですね。

でも、私たちの霊的な有り様がそうなんです。もう枡、自分という枡の中に押し込んで、主の恵みはこんな枡、こんなぐらいだって。いやいや、主の恵みは天よりもはるかに高いと書いてあります。自分の能力はこの枡のこのぐらいしかないんだって、なんでそんなこと思うんですか。主は皆さんを、こういう者だって、そういう思い込みから解放してくださる主です。主には解放ができます。天よりも高い主の恵みが皆さんを解放してくださいます。この主の恵みに浸し込まれましょう。

【結論】

神様の憐れみや恵みは、私たちが自分で決めつけたものよりはるかに高い、広く高く、深いものです。だから私たちは神様のもとに行くべきです。するならば、イエス・キリストの血潮によって、私たちの罪は東と西が引き離されたごとく引き離され、もう私は罪を握りしめる必要はないんです。主の赦し、主の気前良さ、これは天よりも高い。アーメン。今日から私たちは、本当にこの空よりも高い主の恵みの下で生きて、そして本当に自分自身の枡の中にとどまることはなく、本当にこの主の高い高い空の下で自由に息をして、自由に主の恵みのただ中で歩んでいく私たち共々でありますように。

 

異端者を裁く「正義の」使徒サウロの痛み(使徒9:1-9) 早天祈祷会 2026年2月5日(Thu)

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【概要】

使徒パウロ(サウロ)がダマスコへの途上でイエス・キリストと劇的に出会い、キリスト教最大の迫害者から最も偉大な伝道者へと変えられた場面。イエス様と出会った経験こそが私たちの最大の宝であり、それを生涯証しし続けることの大切さを学ぶメッセージ。

【聖書箇所】

使徒9:1-9

第一コリント15:8-10

【励ましの言葉】

イエス様と出会った経験は、あなたの宝です。それは神の一方的な恵みによるものであり、あなたの力ではありません。神の恵みによって、あなたは今のあなたに変えられたのです。

【慰めの言葉】

あなたがイエス様を信じているゆえに迫害されるとき、それはあなたを迫害しているのではなく、イエス様を迫害しているのです。イエス様はあなたと一つであり、あなたの苦しみを共に担ってくださいます。

【勧めの言葉】

キリストと出会った経験を後生大事に握りしめ、機会があるごとに証ししましょう。宣教や伝道を諦めてはいけません。今は理解できない人も、後に感性が開かれて救われるかもしれないからです。

【***詳細***】

今日、恵みをいただく御言葉は使徒行伝9章1節から9節です。皆さんで共に1節と2節を宣言しましょう。

使徒9:1-2「さて、サウロはなおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂宛の手紙を書いてくれるよう頼んだ。それはこの道の者であれば、男でも女でも見つけ次第、縛り上げてエルサレムに引いてくるためであった。」

今朝のこの御言葉は、パウロがイエス様と出会った場面です。パウロはこの経験を生涯、本当にとても大切に大切に握りしめました。実際、使徒行伝において、このサウロからパウロに変わった場面、イエス様と出会って人生が変えられた場面を、このパウロは使徒行伝の中において、今回の箇所を含めて3回も書いているんです。

その後、行く先々において、「なぜお前はこのイエス・キリストを信じたのか、なぜキリストを宣べ伝えているのか」と裁判の場面で問いただされた場面において、いつもパウロは、このイエス様との強烈な出会いの場面を証ししました。

もし皆さんが「なぜあなたはイエス様を信じているんですか」と問われた時、皆さんもイエス様と出会ったその証しをするんです。イエス様と出会う前、自分は本当にイエス様を傷つけ、迫害する者だった。けれども、イエス様と出会った。そしてイエス様と出会った次第はこれこれこうでした。この経験ゆえに私は変えられて、そしてキリストを伝える者になったのです。私たちも本当にこのパウロのように、イエス様と出会った場面を絶えず証しする者でありたいですね。

このパウロは、そのパウロと名乗る以前はサウロでした。パウロの名前の意味は「小さき者」。しかし、その前のサウロは「人から望まれる者」、あるいは「大いなる者」という意味だそうです。この9章においては、まだパウロはサウロでした。

サウロはこの主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、そして大祭司のところに行って、大祭司の許可を得るために行きました。どんな許可か。それはこの道の者、すなわちキリスト者であるとするならば、それは男でも女でも見つけ次第、縛り上げてエルサレムに引いてくる、その権限を得るためでした。男でも女でもです。子供でもだったでしょうね。

キリストを信じる者であるとするならば、この者を逮捕して縛り上げて、エルサレムに引っ張ってきて、牢屋にぶち込んで、あるいは死刑宣告が裁判で取り沙汰とされるならば、もう賛成票に投じる。それほどまでにキリストに対する迫害、この道の者に対する迫害する意欲に満ちておりました。なぜか。それは、それが正しいと信じて疑わなかったからです。

このサウロ、彼はパリサイ派の者でした。もうキリストに対して熱心に迫害するぐらい、もうユダヤ教に対して熱心な者でした。キリスト教が信仰の異端集団だと思い込んでいたんですね。それゆえに、このキリストを信じる者は異端だと。異端の者は死刑に値する。そういう義憤と言いますか、自分は正しいと信じて疑わない、それによる憤り、それに燃えて、このキリストにある者を牢屋にぶち込んでいきたい、そういう意図に燃えてはいたんですけども。

けれども彼は後に告白しております。キリスト者を牢屋にぶち込むたびに、男も女も子供も、その牢屋にぶち込んでいくたびに、彼は痛みを覚えていたんですね。あたかも棘のついた棒を蹴るような、そういう痛みを。このキリストを迫害する都度、迫害する都度、彼自身、痛みに思っていたんですね。

彼が異端だと聞かされて、そして迫害して牢屋にぶち込むたびに、あるいは死刑宣告をするたびに、その賛成票を投じるたびに痛みを覚えておりました。棘のついた棒を蹴る時、そう想像すると痛いですね。けれども、本当にそのような痛みをパウロはこの時覚えていたということを後に彼は証ししております。

なぜなら、キリスト者、異端だと思っていたキリスト者、それを引っ捕らえるたびに、そのキリスト者がとてもなんか凶悪な犯罪人の趣をしていないんです。とっても清らかな善良な趣をしているんです。

パウロはこの少し前、ステパノというキリスト者が議会で捉えられて、そして尋問されて、証しする場面に立ち会い、そして、その後、このステパノを石打ちの刑として、そしてこの石打ちの証人として、その石打ちをする人々の着物を預かる役目を負いました。このステパノの殉教の場面に立ち会ったんですね。

ステパノはこの信仰の異端の先鋒として、多くの人々を惑わしているということで、しかも神の御名を汚したという理由で、石打ちの刑に会うんですけども、この時、サウロはその場面に立ち会っておりました。

ステパノは石を投げつけられます。普通であるならば、その死刑宣告を受けて、もう人生最後です。異端として石打ちの刑に処せられて、石がこのステパノに当たっていくけれども、ステパノは全然、なんかもう罪深い死刑人の最後にのような成り立ちじゃなくて、とてもとても清らかな成り立ちでした。あたかも御使いのように顔が輝いておりました。

そして、その命を引き取る最後、叫ぶんですね。「主よ、どうかこの罪をこの人たちに負わせないでください」って、そう叫んで息を引き取るんですね。なんと石を投げている人を執り成しながら、神様に執り成しながら、御使いのような輝いた表情で息を引き取る。これ、一体どういうことだ。

異端の新興宗教集団、排除するべきなのに、けれども自分が捕らえた者は息を引き取った。それまでサウロは本当に葛藤を覚えておりました。彼は本当にガマリエルという偉い人の下で、このパリサイ派の教育を受けました。もう今で言うところの東大です。エリート中のエリート、これ以上のいい大学はないというほどのエリートとして、パウロは以前、サウロですね、サウロだった時はそういう道を歩んでおりました。

そして自分はもう律法においては、もう他の人々には引けを取らないほどの、もう自分はその道に通じた者であるという誇りを持っておりました。律法によっては欠点が一切ない者だと、自分も他人も自他共に認めておりました。

そんな彼自身、葛藤を覚えていたのは、それは彼は、良いことは何であり、悪いことは何であるか、それを知り尽くしておりながら、自分の中に罪が潜んでいるということ。自分は善をしたいのに、しかし、かえってしたくない悪を行っているという葛藤を彼はずっと覚えていたんですね。

律法を持っているにもかかわらず、また自分はそれのようなエリートであったという自負がある。自分だけでなく、他人も認めていたにもかかわらず、自分の中に罪があるというその葛藤を覚えておりました。

それなのに、このステパノという異端の新興宗教の者は、とてつもなく清らかな有り様で、自分が到達できなかった、あの聖なる領域に到達しているかのような、そういう有様。それを見て、彼は歯ぎしりしたんですね。自分が到達していないのに、なんでこの者はこんなに清らかな成り立ちなんだ。

ますますこれは危険な宗教だということで、この脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行って、この道の者であるならば、男でも女でも逮捕して、そしてエルサレムに牢屋に引きずって、死刑宣告を、ますますしなくてはならないという殺害の意に燃えたんです。

けれども、彼がキリスト者を引っ捕らえれば引っ捕らえるほど、棘のついた棒を蹴るような痛みを覚えていたんですね。そんな葛藤を覚えつつも、ダマスコの方に行きました。ダマスコのキリスト者たちを捉えるために行ったんですね。

けれども、3節と4節、皆さん一緒に宣言しましょう。

使徒9:3-4「ところが、道を進んでいってダマスコの近くまで来た時、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。」

これが彼の人生が変えられた経験でした。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きました。

ダマスコの近く、ダマスコのキリスト者たちを迫害するために、もうキリスト者を見つけたならば、すぐに引っ捕らえるためにダマスコの近くまで来た。その時、彼は天からのまばゆい光、それに照らされました。もう太陽よりもはるかに輝く光ですね。これ真昼です。昼、太陽の下にありました。けれども、その太陽よりももっと強い光、もう地に打ち倒れるぐらいに打ちのめされるぐらいに強い光です。

こんな光は悪魔サタンが放つはずがありません。神、光を創造された神以外の者が、こんな光を放つはずがありません。その光の中で声がするんです。「サウロ、サウロ」と2回名前を呼ばれました。名前を知っておりました。その光の主人はもう主である他にはありません。

その主が「なぜわたしを迫害するのか」と言うんです。彼としては熱心に神に仕えて、そしてその熱心さは正しいと自負しておりました。自分は正しいんだ、神に正しく仕えているのだと思い込んでおりましたが、しかしなんとこの光の主人が、「なぜわたしを迫害するのか」と、そういうふうに言うんですね。

じゃあ5節、みんなで一緒に宣言しましょう。

使徒9:5「彼が『主よ、あなたはどなたですか』というと、お答えがあった。『わたしはあなたが迫害しているイエスである。』」

サウロとしては、もう本当にわけがわからなかったんです。自分が神に正しく仕えていると思い込んで、そしてイエスを迫害しておりました。それで、その迫害するためにダマスコまで来たけれども、こんな強い光、もう神以外にはこんな光は放つことができない、そのような光。それに照らされて、打ちのめされて、しかも「なぜわたしを迫害するのか」と、この光の主人は言うんですね。

この光の主人はイエス様です。そのイエス様は、「なぜわたしの弟子たちを迫害するのか、なぜわたしを信じる者を迫害するのか」とは言わず、「なぜわたしを迫害するのか」と言いました。

皆さんがイエス様を信じている。そして皆さんがイエス様を信じているゆえに家族から、あるいは子供から迫害をされるとき、それはその家族は、子供は皆さんを迫害しているのではなくて、イエス様を迫害しているんです。イエス様の弟子を迫害することイコール、イエス様を迫害しているんです。イエス様はそのように宣言しました。

皆さんを迫害する人、皆さんがイエス様を信じているということゆえに、皆さんのことをよくなく言う人がいるかもしれません。それは皆さんを迫害しているんではなくて、イエス様を迫害しているんです。

サウロは言います。「主よ」、「主よ」と言います。先に言って、その次に「あなたはどなたですか」と言うんですね。もうサウロとしては、この光の主人は、自分が主と呼んでいる主以外にはありえないけれども、「あなたはどなたですか」と、もう主だと言っときながら、「あなたはどなたですか」と矛盾するかのようなことを叫ばずにはおれなかったんですね。

「わたしはイエス、あなたは迫害していたんですか。あなたに仕えていたつもりだったのに、じゃあ一体あなたは一体どなたなんですか」。そういうふうに言うと、お答えがありました。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」

このサウロはイエスが異端の教祖人だと思っておりました。異端の教祖だと思っていました。ところが、この光の主人は、なんと「わたしはイエスである。あなたが迫害しているイエスである」とそういうふうに言いました。

さらにイエス様は言われます。「立ち上がって町に入りなさい。そうすればあなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

イエス様はこの時サウロに、「あなたがしなければならないことはこれこれだ」というふうに言わないで、「町に入りなさい。町に入れば、そうすれば、あとしなければならないことが告げられるはず」、ある人を通して、「あなたがしなければならないことが告げられるはずです」ということを、イエス様はここで、イエス様、直接あなたのしなければならないことを言うのではなく、人を通して、弟子を通して、「あなたのしなければならないことが告げられるはずですよ」というんですね。

皆さんも、イエス様と出会った経験があるかと思います。ある人はこのサウロのように、ある人、突然イエス様の声を聞いて。私は直接イエス様の声を聞いてということではありませんでした。御言葉を通してだったんですね。ある人は夢を通してかもしれません。私もイエス様に関わった夢を見たことはあります。

ある人は、まあ大勢のケース、イエス様と出会う場面において、まあ、イエス様から直接声を聞くのは、まあ少数かもしれませんけれども、多くのケースは人づてだったことでしょう。道で伝道しているキリスト者、伝道者を通して、ある人はトラクトを通して、ある人はこのキリスト教放送番組を通してかもしれません。人づてであることが、多くのケースですね。

このサウロも直接イエス様と出会ったことは出会いました。けれども、しなければならないことを伝えられたのは、人づてを通してでしたね。その後で会うアナニアという人、キリスト者を通してしなければならないことが告げられました。

宣教というものは人間に託されているんです。私たちに託されております。私たちのこの宣教の愚かさを通して、神様はこの福音が伝えられ、全世界に伝えられていることを定められたと書いてあります。

彼はそういうわけで立ち上がって、これからどうするべきか町に入って、そしてしなければならないことを告げられることを待つ身となります。

7節を見ますと、「同行していた人たちは、このサウロに同行していた人たちですね。同行していた人たちは、声は聞こえても誰も見えないので物も言えずに立っていた。サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。彼は3日の間、目も見えず、また飲み食いもしなかった。」

同行していた人々がおりました。その人々は、この声を聞いていたんですね。けれども、誰も見えない。このサウロは光、とてつもなく強い光に打ちのめされて、目が見えなくなりました。けれども、この同行していた人は目が見えました。光に打ちのめされることもありませんでした。

なぜでしょうか。サウロだけが打ちのめされ、強い光を見て、この声の内容をしっかりと聞き取って、打ちのめされました。「主よ、あなたはどなたですか」「わたしはあなたが迫害しているイエスだ」。それをはっきりと理解して打ちのめされました。けれども、この同行していた人々は、なんと声は聞こえても誰も見えない。

この声、確かフォーネというギリシャ語だったと思います。これは、あの声、音というふうに訳され、あるいはノイズというふうにも訳することができる、確かそういう単語だったと記憶しているんですけども。ですから、このイエス様の声は、ある人にとってはもう衝撃的に人生を塗り替えるほどのその声として聞くんですけど、しかし、ある人にとってはノイズとしか聞こえない。

ある人にとっては本当に賛美がノイズにしか聞こえないという人がおり、ある人にとっては、賛美がもう本当に心が震えて涙が流れるほどの、そういう声に聞こえる、音に聞こえる。本当に不思議です。

なんである人にとっては、このイエス様の声がノイズ類にしか聞こえない。ああ、つまらないな、早く終わらないかなって。ああ、このキリストの宣言。もうつまらないな、早く終わらないかなと言って、ペラペラペラペラって、もう宣言を、主の祈りも、「天にまします我らの父よ」みたいな。ある人にとってはこのノイズにしか聞こえないけれども、ある人にとってはもう本当に尊い尊い主の祈りを、ああ、「天にまします我らの父よ」、本当に感動を持って祈る。これ、感性でしょうね。

この同行していた人たちには声がノイズにしか聞こえませんでした。けれども、じゃあこの人はもう生涯救われない人なのかというと、そうとはわかりません。その後、もう本当に感性が開かれて、ああ、あの時パウロが出会ったあの人の声はこんなにあんな声だったんだっていうふうに変えられたかもしれないですね。それはわかりませんけれども、確定していること、それがあります。

それはね、その人にとって、この時は救われていなかったかもしれないけれども、そのうちに救われるかもしれない。だから皆さん、宣教すること、伝道すること、これ諦めてはならないんです。今はそういう状況であっても、後で感性を与えられて救われるかもしれない。

とにかく皆さん、わかるべきことは、この、ある類の人にとって、キリストの声はノイズにしか聞こえないこともある。間違えてもある人にとっては、もう本当に心を触れて人生変えられるほどの声になるかもしれません。そういうものなんですね。

サウロにとっては、本当にこの人生変えられるほどの衝撃を受けたキリストの声でした。イエス様は本当に私たちの人生を変えるお方です。今日のこの箇所において、本当にもう「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というこの声は、サウロにとって人生が変わった、名前も変わった経験でした。

イエス様と出会った経験、これこそが皆さんの宝です。サウロは後にパウロと名乗り、自分は小さき者だ。なぜ、自分は神の教会を迫害したからだ。

第一コリント15:8-10で、パウロはそこにおいて、本当に最も大切なこととして、あなたに伝えた福音。それは、イエス・キリストがこの世に来られて、十字架にかかられて、全人類の罪を背負って死なれたこと、そして復活されたこと、そして大勢の人々に現れて、そして最後には月足らずで生まれたような、こんな私にも現れてくださった。「最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました」と、第一コリント15章8節でパウロは告白しております。

「私は使徒の中で最も小さい者。パウロ、小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」

今日の使徒行伝の箇所においては、もう本当に迫害の意に燃えていた者でした。それが正しいと思っていたんです。この者を打ち叩き、この者を迫害すること、これが神の意に沿ったものだと迫害の意に燃えていたけれども、後になって本当にとてつもなくひどいことをした。自分は主を打ち叩いていた。自分はイエス様を打ち叩いていた、迫害していた。まことに自分は小さな者だ。使徒と呼ばれる価値のない者だ。

「ところが神の恵みによって私は今の私になりました」と告白しております。「そして私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私は他のすべての人たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」

神の恵み、一方的な恵みによって、こんな最も小さき私がキリストのために働く働き人になれた。これは神の恵みだって。

今、皆さんが神様のために働いている、皆さんは神様の恵みですね。皆さんの力ではなく、本当に皆さんがイエス様と出会ったのは神の恵みです。だから誇ることはできませんね。唯一誇るとしたら、キリストにあって神の者とされたこと、ただこれだけです。

パウロは本当にこの時、キリストにあって作り変えられました。そして、このキリストと出会った経験を後生大事に捉えられて、裁判の席に引きずり出された時も、この自分の無実を弁明するのではなく、キリストと出会ったことを証ししました。

それで、そういうわけで、以前の者から今の私に変えられて、だから今、私はキリストを伝えているのですと。もう王様と出会うたびに、また捉えられて、裁判の席に引きずり出されるたびに、彼はこれを告白しました。

皆さんも告白するんです。キリストと出会った経験、これこそが皆さんの宝です。

今日、皆さんにお伝えしたいこと、それは皆さんにとっての宝、それはキリストと出会ったことです。それを後生を大事に握りしめて、機会があるごとに証ししましょう。私がキリストにあって変えられた次第はこれこれですと。キリストはこういうお方です。

皆さんもキリストの証し人として用いられていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。

【結論】

イエス・キリストと出会った経験こそが、私たちの最大の宝である。パウロは最大のキリスト教迫害者から、最も偉大な伝道者へと変えられた。それは彼自身の力ではなく、神の一方的な恵みによるものであった。私たちも、イエス様と出会った経験を後生大事に握りしめ、機会があるごとに証しする者となろう。キリストの証し人として用いられていくことが、神の恵みによって救われた者の歩みである。宣教や伝道を諦めず、今は理解できない人々も後に感性が開かれて救われることを信じて、キリストを伝え続けていこう。

 

縛りを解き放ち、恵み深みへ漕ぎ出そう!(ルカ5:4-6) 水曜夜礼拝

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【概要】

神様の恵みは限りない海のようであり、私たちは恐れず深みへと漕ぎ出していくべきです。主の御言葉に従い、自分のコントロールを手放して神様の導きに身を任せる時、そこには豊かな恵みと祝福が待っています。

【聖書箇所】

ルカ5:4-6

【励ましの言葉】

  • 主が招かれる先は、危険が渦巻いているところではなく、恵みが渦巻いているところです

  • 一歩一歩進むたびに、そこには恵みの備えがあり、恵みの体験があり、喜びがあります

  • ある程度まで進むと、あとは楽に主の恵みの流れのままに乗っていくことができるようになります

【勧めの言葉】

  • 友綱を解いて、固定概念や社会的な常識から解放され、沖へ漕ぎ出しましょう

  • お言葉通りに従うこと、これが沖へ出る信仰です

  • 信仰によって深みに漕ぎ出していき、途中で手放さないことが大切です

【***詳細***】

今晩恵みをいただく御言葉は、ルカによる福音書の五章四節から六節です。みんなで一緒に宣言しましょう。

「話が終わると、シモンに『深みに漕ぎ出して、網を下ろして、魚を取りなさい』と言われた。するとシモンが答えて言った。『先生、私たちは夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした。でも、お言葉通り、網を下ろしてみましょう。』そして、その通りにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。」(ルカ5:4-6)

愛するイエス様。あなたは今日も今も生きて働かれ、私たちにお言葉をくださり、そして沖に出て網を降ろしなさいと語られることを覚えます。主よ、私たちにとっての沖とはどこでしょうか。私たちは何をすべきでしょうか。どこに網を降ろすべきでしょうか。

今日、この讃美歌408番「父なる神の恵みは」を朝礼拝で賛美し、昼礼拝で賛美し、そして賛美しているうちに、どんどんどんどん嬉しくなってきました。そうだ、神様の恵みは深い深い、広い広い、もう限りがない恵みは、神様の恵みは海のようだと。皆さんの神様は、そのような広く高く深い恵みを用意しておられる神様です。

この讃美歌408番の一番はこうです。「父なる神の恵みは限りなき海ぞ。友綱を解きて沖へ漕ぎ入れてみようや。」

この神様の恵みは深い、もう先が見えない、底もわからないような海です。そして人はそれが理解できない、わからないですね。そして人は自分の何かコントロールできる、そういう場所にとどまりたがるものです。また足が地についた地面に立って、そして何か物事をやりくりしたいところが、普通の人かもしれません。

けれども神様は、この友綱を解きて沖へ出でてみようやというふうに言うんですね。岸を離れる、そして沖へ入れてみなさい。確かに海というところ、これは怖いところに見えるかもしれません。けれども、神様の恵みの海は、もう限りなき恵みがたくさんあるんですね。そしてその恵みは世の人は見ることができません。そして自分のコントロールではない、その恵みの流れに背を任せて進むということに恐怖を感じるかもしれません。けれども、主が招いておられること、それはあなたは深みに漕ぎ出していきなさいということ、これを言われます。

ペテロは、この自分の漁業で昨晩、もう一晩中働いてきました。もう自分は漁師歴何年、ペテロはプロですから、もう何年もあったでしょう。そんなそのプロ集団が、何人がかりで、この網を一晩中しても取れなかったということを言ったんですけれども、しかし、でもイエス様、あなたのお言葉通りにいたしましょう、お言葉通りにしたかったんですね。

イエス様のお言葉が、たとえどんなに自分の理解を超えていようとも、お言葉通りに従うこと、これがとても大切です。このお言葉通りに従うこと、これが沖へ出る信仰です。このイエス様のお言葉が沖へ出なさいならば、お言葉通りに実行すること。これがイエス様の恵みを体験する、その恵みの広さ、高さ、深さなど、それを体験できるそのコツなんですね。

サビの部分は、「沖へ出でよ、岸を離れ。主の恵みのただ中へ、いざ漕ぎ入れよう。」もう自分でコントロールできるところを、また足が地につくところを、そこを離れて、そして主の恵みの真っ只中、沖の方には主の恵みが渦巻いている。そちらの方に信仰によって、漕いで漕いで進んでいきなさいということを、このサビの部分で繰り返しているんですね。

この漕ぐということ、これ、私たちの側の責任です。友綱を解くということ、これ、私たちの責任です。今まで縛られていた固定概念や、また社会的な常識、そしてこうすれば成功する、こうすれば失敗するといった、そうした諸々、これを友綱を解いて、その縄目を縛られている縄目を解いて、沖へ漕ぎ出してみようよ。それが今日の賛美であり、今日の御言葉です。

二番のところでは、「世の人は岸に立ちて沖をば見るのみ、主の恵みの深さなどあえて知らんとせず」。世の人は安全で無難なところにとどまるものです。世の中の人は、キリスト教、なんとなく知ってるよね。神様が何か恵みがあるらしいね。あそこには何かすごいのがあるかもしれないね、キリスト教では。でも私はこの沖には出ないよ。この安全なところにとどまり続けたいよ。そういう人々、そういう人々はただ岸に立ちて、その遠くを見ているだけなんですね。遠くの方に恵みの潮が渦巻いている。でも自分は参加しない。後で思うんです。ああ、参加しておけばよかったなと。

本当に主が、何々しなさいと言われた時、あそこに行きなさい、これこれに加入しなさいと言われた時、そこに行って、あるいは加入して、その主の導きの通りにして、そして時間が経った後で、その結果はわかるんです。主が真実だった、主が本当だった、本当に自分がそこに参加していればよかったっていう側に立つか、それともああ、あの時、信仰を奮い立たせて、深みに漕ぎ出して、網を下ろしてよかったという側に立つか。これは皆さんが行動するかどうかにかかっているんです。

主は、恵みの潮が渦巻く沖へと招いておられます。そこは未知の世界かもしれません。けれども、主が招かれるのでしたら、その未知の世界に飛び込んでいくべきです。主が行きなさいと言われる先は、そこはもうまだわからない、よくわからない未知の危険が渦巻いているところだと人は思いがちかもしれないんですけど、しかし、主が言われるのであるならば、そこは危険が渦巻いているところではないんです。恵みが渦巻いているところなんです。ですから、主が言われている通り、恵みの深みへと漕ぎ出していくべきです。

まず、この私たちの信仰のスタンス、これは一歩踏み出すということ、友綱を解いて、自分の縛りを解いて、そして主の言われる方向へ一歩踏み出すこと。これがこの信仰の歩みです。

本当に今年に入ってから、私たち、今まで歩んだことのない道を進んでいきます。本当にこれから子どもたちがどんどんと、このティアに集ってくるということ。まだ私たちは目に見えていないかもしれません。けれども、準備していくうちに、一歩一歩、オールを漕いで、友綱を解いて、そして本当に今までの未知の領域へと入っていくたびに、そこはことごとく恵みが渦巻いているところだということが分かります。

ケアの物件、阿部先生が祈って与えられて、本当に奇跡的な形で与えられましたね。そこが与えられてからというもの、本当にそこを整える毎日、その日々が本当に恵みの毎日でした。自分ではやったこともない、その内装工事だとか、その諸々の作業、その一つ一つのうちに、主が今日はこれだよね。明日のことは私たちはわからないけれども、今日これをやったら、また明日するべきことが見えて、またそれをするための知恵も与えられ、またそのスキルも与えられ、また本当にその道は安全でした。

危ない、なんか素人が工事するって危ないって思えるかもしれません。確かに危ないと見れるようなことはあったかもしれませんけども、でも、ことごとく安全でした。ですから、オールを深みへと漕いでいくたび、漕いでいくたび、そこには恵みの備えがあり、また恵みの体験があり、喜びがあり、本当に毎日、もう喜び楽しみの連続でしたね。そして今、準備を進めている今も、もうその準備に行く都度喜びに溢れております。その行く道はまだ私たちにはわからないかもしれない。未知の歩みかもしれないけれども、その一つ一つの行く先々に主の備えが必ずあります。

三番のところでは、「あるものはわずか漕ぎて、遠く乗り出さず、返る波に飲まれたり、船もろともに」。これは、わずかしか漕がない。信仰で始まったけれども、いざ漕ぎ始めると、だんだんその未知の領域、怖くなっていって、信仰で漕ぐことをやめて、そして中途半端な、遠くでもなく、近くでもない中途半端で不安定なところにとどまってしまって、で、そこで取り残されてしまうということがあるんですね。

信仰で始まった歩み、それを最後まで続けないところで、荒野というところでとどまっていて、そして信仰をそれ以上奮い立たせない、怖くなってエジプトに帰ろうと言い出した彼ら、もう波に飲まれて、荒野という波に飲まれてしまいましたね。信仰によって深みに漕ぎ出していかない、そういう不安定なところにおいては、本当にむしろ危険なんです。

ヤコブ一章において、疑う人は、疑う人は風に吹かれて揺れ動く海の波のようです。もう疑いこそが海の波になるんです。返す波、疑いという海の波に飲まれて、もう船もろとも、もう海に投げ出されてしまうということになっては皆さんなりません。ひとたび、主が乗っておられる船に乗ったんでしたら、もうせっかくですから、オールを漕いで、主が言われる通りに、もうその沖を目指して、主がここが恵みだ、ここに網を下ろしなさい、ここでいっぱい魚が取れるよ、ここでいっぱい命が取れるよ、そういうところに至るまで、ずっと漕ぎ出して行くべきなんです。

だから私たちは初めからこの主の御言葉に委ね尽くして進んでいくべきなんです。

四番が、この総まとめで重要なところです。「乗り出せ沖をさして、恵みの潮の背に流されて、すべてを主に任すまでは」。この賛美の最後で、主の恵みの潮、これ潮流です。潮は潮流、潮の流れと書きます。この主の潮の流れを背中に受けて、すべてを主に任してというところに至るまで、この乗り出すべきだっていうことが書いてあります。

もう主が、乗り出せと言われるポイントまで進めば、今度はオールを漕がなくても、あとはその波が、潮流が来て、皆さんの背中を押し流していて、そしてあとはその潮流に任せて進んでいくべきなんです。潮流を、一度サーフィンのように乗っかったら、もうあとは自分のコントロールでオールを漕ぐのではなく、ただ主のその波、主の潮流にただ背中を預けて、そして主がここに行かせたいというポイントまで、あとは乗っかっていくんです。楽なんですね。

ですから、ある程度まで進むと、あとは楽に主の恵みの流れのままに乗っていくことができるようになっていくんです。波に乗る。これは自分のコントロールはもう完全に手放して、全面的に神様のイエス様のコントロールにお任せして、そして神様の導きに乗っかっていく。これは信仰がない人にとっては恐ろしく感じるものかもしれません。けれども、主のコントロールと皆さんのコントロールどっちが正確で強いかというと、もうはるかに主の方に任すことが本当に私たちにとって幸いであり、また正確なんです。

今日の結論ですけども、本当にこの、まずは友綱を解いて、今までの固定概念、縛られている考え、これを解いて、そして恵みの沖に、まず、皆さん自身の手でオールを漕いで、主が行きなさいと言われ、導かれる行くべきところ、そこを目指して進んでいくべきなんです。主がこのビジネスをしなさいと言うんでしたら、そのビジネスをして、そして本当にこの最後まで、たとえ途中で何か怖くなっても手放すべきではないんです。もし途中で手放してしまうのであるならば、返す波に飲まれたりということになってしまいがちです。

だから私たちは、最後まで主がこの道を示されたのであるならば、それをしっかりと手放さないで、主の恵みの潮が来る、そのポイントに至るまで、ずっとそこを目指して漕ぎ続けていくことするならば、あとは主が背中を押して流れに身を任せて、そして本当に多くの命を獲得できるポイント、そこへと導いてくださるんです。

私たちは恵みの潮に乗っかっていることを感謝いたします。主よ、途中で投げ出すということがありませんように。ただ、あなたの御旨に従い、あなたの御心に沿ったところ、そのポイントへと、私たち自身の手で、オールで漕いで漕いで、そしていよいよあなたのその恵みの潮が背に流されるままで、主よ、そこに至るまで、しっかりと信仰を活用して、そこへと至ることができますように、どうか助け導いてください。主よ、今年、また多くの命を、主よ大量で大量で取らせてくださいますように獲得させてください。

そして本当にあなたに向かって、ペテロとヨハネたちが本当にあなたにすべてを投げ出してついていったごとく、私たちも人間を取る漁師として、また導き進ませてください。今、ティアにおける活動をしております。主よ本当にその一つ一つの活動において、あなたがこれが道だ、これに歩めと、今、一歩一歩進ませておられることを感謝いたします。

どうか私たち自身が本当に途中で立ち止まることなく、恐れて退くものではなく、また中途半端なところでとどまるでもなく、本当にあなたの恵みの潮が渦巻いてる、その恵みの深みへと漕ぎ出していくものでありますように導いてください。

【結論】

まず友綱を解いて、今までの固定概念や縛られている考えを解放し、恵みの沖へと自分自身の手でオールを漕いで進んでいきましょう。主が示された道を、たとえ途中で恐れが来ても手放さず、主の恵みの潮が来るそのポイントに至るまで漕ぎ続けるならば、あとは主が背中を押して流れに身を任せ、多くの命を獲得できるポイントへと導いてくださいます。お言葉通りに従うこと、これが沖へ出る信仰であり、イエス様の恵みの広さ、高さ、深さを体験できる鍵です。

 

終末の時代を備えるにあたっての、良い例と悪い例(マタイ25:1-13) 2026/02/04水曜昼礼拝

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【概要】

イエス様は十人の娘のたとえを通して、花婿である主を迎える準備について語られました。賢い五人は油を用意していましたが、愚かな五人は用意していませんでした。主との日々の交わりこそが、主を迎える真の準備です。

【聖書箇所】

マタイ25:1-13

【励ましの言葉】

私たちは今、花婿なるイエス様を迎える花嫁のような立場にあります。イエス様はやがて、稲妻が東から西にひらめくように、誰の目にも明らかな形で来られます。

【勧めの言葉】

日ごとの主との交わりを大切にし、時間やエネルギーを主のために用いることが必要です。一夜漬けの信仰ではなく、日々の積み重ねが大切です。

【戒めの言葉】

その場しのぎの信仰、一夜漬けの信仰では、主を迎える準備は整いません。主との人格的な交わりを持たなければ、主から「知らない」と言われてしまいます。

【***AIによる文字起こし***】

今日、恵みをいただく御言葉は、マタイによる福音書25章1節から13節です。まず1節から4節を一緒に読みましょう。

「ここで天の御国は、たとえて言えば、それぞれが灯火を持って花婿を出迎える10人の娘のようです。そのうち5人は愚かで、5人は賢かった。愚かな娘たちは、灯火は持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分の灯火と一緒に、入れ物に油を入れて持っていた」(マタイ25:1-4)

今、私たちは、例えて言えば花嫁のようなものです。結婚を控えた花嫁で、もうあとすぐで花婿が迎えに来るという、そういう状況です。まことの花婿はどなたでしょうか。イエス様です。

今、イエス様は見える形では来ていないのですけど、やがて、もう誰の目にも明らかに、稲妻が東から西にひらめくように、そのようにして来るとイエス様はおっしゃいました。ですから今、私たちは、そのお迎えをする準備をする段階なんです。

今この準備をする段階をどのようにして過ごすべきであるのか、またどのように過ごしてはならないのか、それが今日のイエス様の例え話の中にあります。

イエス様がおっしゃったのは、天の御国は、例えて言えば、それぞれが花嫁たちが灯火を持って花婿を出迎えるような、その十人の娘のようです。そのうちの5人は賢く、5人は愚かだったんですね。そして、彼女たちはもうすぐ来るということで、灯火を持って待っていました。

けれども、思った以上に、花婿が来るのは遅くなります。まだまだ来ない、来ない。もう最初は立って待っていた彼女たちですけども、だんだんくたびれて、足がしびれて、夜、もう髪の毛も夜露に濡れてきます。そして、ランプの火が小さく揺れるのを、ぼんやり眺めながら、私の主人花婿はまだかな、まだかなって眺めるようになって。そして、だんだんだんだん、まぶたがとろんと重くなって、そして、誰からともなく一人座り込み、また一人座り込みで、そしてみんなが頭をなだれて、とうとう眠りに落ちていきました。

夜も半ばが過ぎた頃でしょうか。その時、真夜中の静けさをつんざく声が向こうから聞こえてくるんです。「そら、花婿だ。迎えに出よ」。みんなが一気に目が覚めるんですね。それでもう振動が高くなります。いよいよこの時が来たか。それで、その10人の娘たちは一斉に目が開いて立ち上がって、そして花婿を迎えるために必要な灯を整えるんですけども、そのうちの賢い5人は、その灯の他に油を用意していました。愚かの5人の方は油を用意しておりませんでした。

いざ花婿が来たということで、火を、ランプを整えるんですけども、しかし、その愚かな方の娘にはですね、その灯火がもうボンボンジュっていって消えてしまったんですね。あ、これは大変。せっかく花婿をお迎えするという、こんな大事な時に、灯火の火が消えてしまった。油がもう残っていない。

それで、その5人の娘たちは、油の用意をしていた5人に頼み込むんですね。「お願いです。油を少し分けてください」。もう私たちの灯火、こんな消えそうな暗闇の中で、必死に差し出されるランプで。

しかし、賢い乙女たちは、断らざるを得ないんですね。「いいえ、ダメです。分けてしまったら、もう私の分まで足りなくなってしまいます。それよりもお店に行って、自分の分を買ってきなさい」というふうに言うんですね。

彼女たちはもう迷いながら、もう確かにもう油がないからどうしようもない。どうも分けてくれそうもない。だからそこで彼女たちは、夜、お店、空いてるお店に行って、そして走っていくんですね。花婿がもうすぐ来るというその場を、彼女たちは離れざるを得ませんでした。

そして、その彼女たちが買いに行っている間、扉が開いて花婿が入ってきます。そして、そこにいた5人の花嫁たち、油をしっかりと用意していた彼女たちの灯火は、煌々と光が灯っていて、その花婿を迎えて、そして花婿はそんな乙女たちの本当に灯火が、こんな夜の半ばでもはっきりと灯して光を放っている彼女たちに満足して、そして彼女たちを迎えて、そしてこの花婿の家へと歩いて行き、そしてその婚礼の扉が閉められて、そしていよいよ宴が始まりました。この5人の乙女たちは、「ああ、いよいよ待ちに待った私の花婿と結婚するんだ」と喜び勇んだことでしょう。

さて、その残りの5人はどうしていたか。ようやく油を手に入れたようです。そして、元のところに走っていくと、もう誰もいなくなっていた。「あ、じゃあもう花婿が来て、そして婚礼の席に行ったんだ」ということで、彼女たちはその花婿の家の方に、走っていくんです。そして、灯火に火を灯して、煌々と光を灯して、そして行ってみると、なんと婚礼の扉が閉まっているんですね。

彼女たちは、息を切らしてね、「ご主人様、ご主人様、開けてください」って言うんですけども、しかし、扉の向こうから声がするんですね。「確かなところ、私はあなた方を知りません」。

彼女たちのことを、この花婿は「確かなところ、あなた方を知りません」と言うんですね。とてもなんか恐ろしい感じがしますね。

この話、イエス様は言われます。はっきりとイエス様はこの話について、たとえ話について結ばれる言葉は「だから目を覚ましていなさい。あなた方はその日その時を知らないのです」。イエス様は「だからしっかりと目を覚ましていなさい」というふうに言われました。

この、目を覚ましているということ。彼女たち、最初眠りましたね。夜遅い。それで花婿が来るのがいつなんかわからないということで。確かに彼女たちは眠ったんですけども。これですね、イエス様が最後に語られ、「だから目を覚ましていなさい」。これどういうことか。きっとですね、これ24時間目を覚まし続けていなさいということではないんですね。眠るなということではありません。

十乙女5人5人、10人合計全員が、あの花婿が来るのが遅くなって眠ってしまったんです。体力は持ちません。人は眠らなければ体力が持たないんですね。ただですね、大事なことは、いざ目が覚めた時に準備が整えられて、いつでも迎えられる側の5人と、目が覚めた時に迎えられない側の5人に分かれました。準備があったか準備がなかったか。

ですから、いざ花婿が来た時、本当にもう夜半の頃、人々が眠り出すような、そういう時間になるかもしれない。いや、むしろそういう時間になるのだから。だからしっかりと整えていなさい。しっかりとこの灯火を消すというようなことがないように、整えているべきなんですね。

じゃあ、どのように整えていくべきか。ここの9節のところで、賢い娘たちは、「あなた方に分けてあげるには、この愚かな5人に私の油を分けてあげるには到底足りません。それよりも店に行って自分のをお買いなさい」というふうに言うんですね。

夜中の、もう人々が眠るような頃にお店がやってるのか。そういうところあるんです。まあ、カンボジアに行った時ですね、夜中道路を走っていて、何か果物欲しいねって言って、え、こんな真夜中に果物売ってるところあるのかなって思ったんですけど、なんと道端に、もう結構あるんですね。あの、果物売っていて、そしてハンモックで寝ていて、いつお客さんが来てもいいように、露店でそういうお店がありました。

まあ、とにかくこの夜、油を買いに行くという行為、これ明確に、商取引の行為を前提としております。要するに、何かのお金だとか、あるいは物々交換だとか、対価を支払って、そして油を買ってきなさいっていうことを彼女たちは言ってるんですね。つまり彼女たち、この愚かな娘には、その油は持っていなくても、その油と物々交換できるような、あるいはお金は彼女持っていたんですね。

花嫁、もうお金とかその物々交換するためのものなんて持たなくてもいい。こんなネックレスとか、そうしたこれと物々交換してくださいとか、そういったことよりも、賢い乙女は最もこの婚礼において備えるべき重要な油をあらかじめ交換していたんです。けれども、この愚かな5人の方は、もういつでもこの花婿が迎える、たとえ遅くなっても大丈夫なようにという、その備えの油を物々交換していないで、お金は持っている花嫁、けれども油は持っていない花嫁だったんです。

皆さん、今この時、この時代、皆さんは交換するべき、主がいつ来ても大丈夫なように、皆さんの時間、また皆さん自身のそのエネルギー、それを物々交換して、主がいつでも来られてもいいように備えをしていくということ、これ、日ごとのこの生活が大事なんですね。

彼女たちは、いつか必要になるねということはわかっておりました。夜、夜半過ぎ頃、油がつきるかもしれないね。それ、いつ用意してもいいということは分かっておりましたけども、しかし、今ということをしなかったですね。それをその場しのぎ、その場しのぎ信仰と言います。まあ、今こうして灯火が燃えてるからいいや、今このようにしていられるから、なんか、もう花嫁然としているでしょうねっていう感じで、え、なんか自分で自撮りしたりとか、灯火を持った花嫁姿みたいな。そんなことにうつつを抜かして、準備をしていないとするならば、その場しのぎ信仰、一夜漬け信仰になってしまうんですね。

皆さん、信仰と受験は一夜漬けではできないものです。日ごとの積み上げ、日ごとの準備、これをし続けていく信仰こそが大事なんですね。

この油、聖霊の油というふうに、まあよく言われるんですけども、けれども、聖霊の油は、聖霊は物々交換で売買ができません。あのシモンという異端の人が、このペテロから、この聖霊の賜物をお金で買おう、買おうとして、「どうかその賜物を私にください」って、お金を差し出しましたけども、そんなことが退けられましたね。聖霊は物々交換できない。

じゃあ、彼女たちが今ここで、市場に行って物々交換しに行ったのは一体何だったのか。それ、まさに皆さんの時間であったり、今この時を主に対して、この時間を神様の国と物々交換するか、皆さんの持ち物を神様の国と物々交換するか。それをしっかりと皆さんは日ごと積み上げていくべきなんです。それは、いざあ、もう主が間近に来られるということですね。それ、いざという時にさっと物々交換はできないものなんです。

ある生徒さんがこういう質問をしました。「私、確かにイエス様の教えは、いいんだけれども、でもちょっとまだね、やりたいことをたくさんやりたい。だから主が来られるという、いざという時に、あ、イエス様、ごめんなさい、イエス様、あなたを信じますって言ったら、天国に行きますよね」。けれども、ここを見るとどうも、そんなにうまくはいきそうにないですね。

普段からの物々交換、普段からの主に、いかに皆さんがイエス様と時間を共にし、いかに皆さんが日々イエス様に向かって祈り、また御言葉を蓄え、また本当に主のために労し、また主のゆえに忍耐し、主のゆえに本当に心を注いでいるか。本当に主とのその日々の交わり、これは、まさに日々の物々交換です。

それだけはそればかりは、このいかに、愚かな乙女が、もう灯火が消えそうです。「あなたの油を分けてください」って言っても分けられないですね。これは本当に本人自身がいかに日々主の御前に積み立ててきたか、これによりけりなんです。

この愚かな方の花嫁、「ご主人様、ご主人様、開けてください」と、扉を叩きましたけども、けども、このご主人様は、「確かなところ、私はあなたを知りません」と言っております。この花婿、本当は知ってるはずですね。けれども知らないという。本当に主との交わりを日々していないとするならば、であるならば、この、いざ、主人の方からは知らない宣告をされてしまうんですね。

ここの知らないということ。オイダーというギリシャ語ですね。ギリシャ語で知るということにおいては2種類あります。オイダーとギノスコー。このギノスコーというのは、もう関係の中で本当に相手のことを経験的に知るということ。そして、この場面で使われたオイダーの方は、あなたのことをもう知覚的には知ってるというだけのもの。

この花嫁に対して主は、あなたこと、あなたのことを経験的も知覚的にも知らないし、また本当にあなたのことを知らないよ。これすなわち、あなたは、あなたは確かに灯火は整えていたかもしれない。けれども、あなたはその待っている間、何をしていたのか、私との交わりをしていなかったじゃないか。神の民として、その主との本来の本質的な交わり、祈り、賛美、そして本当に主との人格的な交わりをしていなかった。だから、あなたのことをそういった面において、あなたは知らない。あなたは神の国の民としてカウントされていないものだ。そういうことになってしまうんです。

皆さん、神様との関係は関係です。コミュニケーションしたり、共に喜んだり、共に悲しんだり、共に嬉しがったり、そうした関係、この積み重ね、それこそかけがえのないものであり、私たちが今この地上で生きてる間に物々交換をしていくべきものです。支払って、イエス様のために時間を支払い、イエス様のために力を支払い、イエス様のために本当に思い、心、感情を注ぎ、主に支払い、その積み立てがこの油なんですね。これは物々交換できるものではありません。

どうか皆さん、今、本当に主がいつ来られようとしているかわかりません。あなたは毎日イエスのそばを歩んでいるか、花婿なるキリストを迎えに出られるか。皆さんはしっかりと今、もう一夜漬け信仰はダメです。しっかりと日々イエス様と交わりましょう。イエス様との関係を築き、そしていざ主が来られたぞという時にすっくりと目覚めて起き上がって、灯火に火をつけて、煌々と照らして、主をお迎えする、その準備がいつでも整っている皆さんでありますように。

【結論】

主を迎える準備は、一夜漬けではできません。日々の主との交わり、祈り、御言葉、主のために労すること、忍耐すること、そうした積み重ねこそが油です。この油は誰かから分けてもらうことはできず、私たち一人一人が日々主との関係の中で積み立てていくものです。いつ主が来られても、煌々と灯火を灯して主をお迎えできるよう、今日から主との親密な交わりを大切にしていきましょう。

心配するのはあなたの仕事ではない、主の仕事だ(詩篇55:22) 早天祈祷会 2026年2月4日(Wed)

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【概要】

ダビデが親しい友に裏切られた痛みの中で学んだ、すべての重荷を主に委ねることの大切さについてのメッセージ。心配することは私たちの仕事ではなく、主の仕事である。主に委ねるとき、主が私たちを支え、心配してくださる。

【聖書箇所】

  • 詩篇55:22

  • 詩篇55:16-17, 20-21

  • 第一ペトロ5:7

【慰めの言葉】

  • 主は私たちのことを、私たち自身が心配する以前から心配してくださっている

  • 主は天から降りてこられて、私たちの友となり、身代わりとなって十字架にかかってくださった

  • 主は白髪頭になっても私たちを背負ってくださる

【励ましの言葉】

  • すべて疲れた人、重荷を負っている人はイエス様のところに行けば休ませてもらえる

  • 主に委ねるとき、主が私たちをサポートし、支えてくださる

  • 主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない

【勧めの言葉】

  • あなたの重荷を主に委ねなさい

  • 思い煩いを自分の中でぐるぐる思い巡らすのではなく、主に向かって祈りとして捧げなさい

  • 心配は私たちの仕事ではなく、主の仕事である。私たちの仕事は主に委ねること

AIによる文字起こし

詩篇55編の22節を皆さんと共に宣言しました。「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたのことを心配してくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」

主イエス様は、私たちのことをじっと見ておられ、私たちが思い煩う以前から、もうすでにすべてを御存じです。すでに主が先んじて進んでくださり、私たちのことを私たち自身よりも心配し、すべての準備を整えて、今待っておられることを感謝します。

今年に入ってから、毎朝ここに立つようになって、日々の働きもしています。かなり時間がなかったり、体調がきつかったりしても、それでも守られて、とても充実した日々を送っております。ここに立つたびに、16年目になりますが、毎回本当に御言葉を取り次ぐことに、果たしてこんな者が立っていいんだろうかという恐れがあります。これは何年経っても消えません。ある種の重荷があります。

主の働きをするには、ある種の重荷があるということは確かなところです。けれども、このすべての重荷を主にお委ねする時、本当に軽やかな思いで、御前において奉仕をすることができるようになります。

先ほど賛美した202番は、「罪、重荷を除くは血の力」で始まります。罪の重荷があり、また聖なる重荷もあります。すべてを主にお任せするならば、本当に重荷だなと思っていたものから身が軽くなるんです。

今日の箇所において、詩篇55篇はダビデが書いた詩篇ですが、彼も本当に人生の中で多くの悩みを経験しました。先週はサムエル記からダビデの話を見てきましたが、本当にダビデは信仰の勇士で、ゴリアテに立ち向かう様は勇ましかったです。彼の心の中に一切の不安はありませんでした。むしろ不安、心配しているのは王様であったり、大人たちでしたが、少年の心には一切それがありませんでした。

なぜ彼は聖なる憤りに満たされていたからです。彼の陣営が嘲られているのに、自分より長く生きてきた大人たちが何も対処していない。主がいるのに、なんで主が目の前におられるのに、主が陣営の中に歩まれるのに、なんで彼らはあたかも主を度外視しているかのようにしているんだという、聖なる憤りに満たされて、もう不安とか恐れは一切吹っ飛んでいたんでしょう。

主に満たされる時、主の血潮に満たされる時、すべての罪、重荷は、またあらゆる煩いは全くかき消されて、ただ主の平安、あるいは憤るべき時には主の憤りに満たされて、そして大胆に進みゆき、勝利を勝ち取っていくものになるんです。

今日の箇所においてもダビデが記したんですが、ダビデはなぜこんなにも恐れ、不安になっているか、なぜ心痛んでいるか。それは敵がダビデを憎んでいるからではありません。むしろ本当にダビデと共に歩んだ信仰の同志である者が、こんなあくどいことを、共に主に捧げものを捧げに行った仲間が、そんなあくどいことを自分に企んで、貶めようとしている。それでとても心が突き刺されるんです。

憎たらしい相手が皆さんのことを貶めても、あまり傷つかないかもしれません。しかし、むしろ皆さんの身内の方、親しい友達と思っている人が皆さんを突き刺す時はとてもとても痛みます。ダビデは本当にそのことを嘆いてこの詩篇55篇を記したんですが、その都度ダビデは何をしたか。

詩篇55篇16節では、「私が神に呼ばわると、主は私を救ってくださる」と言っています。いつも彼は神に呼ばわりました。その都度、敵が憎たらしいことをした。それに対してダビデが神様抜きで仕返ししようとすることは、あまりありませんでした。

唯一、聖書に記されているのは、ナバルがダビデに愚かなことをして怒らせた時です。もう怒りに駆られて、武器を取れ、彼らを討ち滅ぼしてやろう、一族郎党と、もう憎しみに駆られてそういうこともありました。けれども、アビガイルという賢い女性がダビデに思い起こさせてくれました。「本当にあなたは王様になる器だから、そんなつまらないことで怒って、手を血に染めて罪を、後々そういう汚点を残すようなことはしないでください」と頼みました。本当に賢い女性です。

ダビデは本当にこのアビガイルと、ほんのわずかなその会合で、もうこのアビガイルを妻にしたら、どれほど自分は助かるだろうと思ったんでしょう。ナバルが死んだ後、早速アビガイルを妻として迎えました。

本当にこのように人が罪に陥ろうとする時、もう怒りに身を任せて一族郎党討ち滅ぼせという人を止めて、それをなだめて慰める人。これは本当に皆さんにとってかけがえのない人となり、また皆さんがそういう働きをする時、その相手にとって皆さんがかけがえのない人になるんです。

ダビデはこの時、そんな親しい仲間から、一緒に礼拝に捧げた仲間がそういうことをして、むしろ本当にダビデが一番助けを必要としている時に、敵側の勢力になって、自分を嘲り、自分を刺し貫く。そういうことをしたから、ダビデは本当にもう剣で心をえぐられるかのような痛みを覚えて、そして主に呼ばわったんです。

詩篇55篇17節は、「夕、朝、真昼、私は嘆きうめく」と言っております。痛んだんです。彼は1日に3回祈ったということよりも、1日中祈らずにはおれなかったんです。夕方、朝、真昼、夕方から始まり、朝も真昼もずっとずっと主に向かって嘆きうめいているんです。夕暮れの疲れの中で、また夜、朝、昼、そうした現実の重さの中で、彼はそのたびに主に向かって嘆いたんです。すると主は私の声を聞いてくださると続きます。

これは何度でも何度でも主に向かってうめきを、心の思いの丈を主に向かって流し出す、流し出す。思いの丈を自分の中でぐるぐる思い巡らす。これはどんどん病んでいってしまう人の特徴です。その思い煩いをずっと頭の中でぐるぐる思い巡らしていくとどうなるか。悪霊がそれをとても好み好むんです。

本当に焼肉を焼いていると芳しい香りで、美味しそうだなって、寄っていきたい思いに駆られます。皆さんが本当にこの憎しみとか恨みだとか、悲しみをぐるぐる思い巡らしていると、「ああ、これがいい匂いだな」って言って寄ってくるんです。

サウルがまさにそうでした。このダビデに対する妬み、また憎しみ、そして本当に自分が受け入れられたいという、そういう思い。それをぐるぐる神様にではなく、自分の思いでぐるぐる巡らしていたら、彼は悪霊につかれてしまって、ダビデが竪琴を弾いている時に槍をダビデに投げて殺そうとしました。二度も。しかも自分の跡取り息子、ヨナタンに向かっても槍を投げました。これ、ずっと憎しみ、恨み、妬みを思い巡らしていると、そういう風になってしまうんです。

本当に思いの丈、これは自分の頭でぐるぐるではなく、天に向かって主を、夕ごと、朝ごと、昼ごと、主に向かってうめく。すると主は聞いてくださると続けます。私たちもこのダビデのように、いつでもいつでも主に委ねるんです。

ダビデの苦しみは本当に深刻なものでした。詩篇55篇20節で、彼が自分の親しい者にまで手を伸ばし、本当に味方だと思っていた人からの攻撃。これ、とても辛いものです。21節では「彼の口はバターよりも滑らかだが、その心には戦いがある」と。本当に唇では油のように滑らか。もう本当によくするっと滑っていくような、そういう滑らかな唇。もうスルスルと口から流し出すような優しい言葉、柔らかい声で。けれども、その裏には、その舌の裏には刃が、カッターナイフがあるんです。もう麗しい言葉で「ああ、いいね」って言っておきながら、ブサッと、もう心許したところで切りつけるような、そういう感じです。

これ、本当にダビデだけの話ではありません。皆さんもそうです。イエス様も自分とパンを一緒に食べている弟子に裏切られた。「私に向かってかかとを上げた」と。イエス様でさえ、そういう経験をしたんです。本当に神の人であるからには、こういう裏切りが、世の中と関わる都度、いつもこういった傷、痛み、これを経験するものです。

でも、神様はそんな痛みを分からないとは言っていないんです。今日の中心的な言葉、それは「あなたの重荷を主に委ねなさい。主があなたのことを心配してくださる」です。主があなたのことを心配してくださる。

皆さん、心配するのは皆さんの仕事ではないんです。心配するのは主の仕事。皆さんの仕事は主に委ねること。するならば、主が皆さんの心配を請け負ってくださり、そして皆さんを心配のネタの解決へと動いてくださるんです。

けれども、心配ネタをいつもぐるぐる思い巡らしているとね、寄ってたかってくるのが悪霊、サタンです。そして皆さんをもっと良くない思いに引きずり込んでいってしまうんです。だから、あなたの重荷を主に委ねよう。

重荷、ここにのしかかっているあのこと、このこと、その重荷、それを主に委ねなさい。もう自分自身で我慢し続けてきた気持ちも、また言えなかったあのこと、このことも全部、主に、聞き取れる神様にお委ねするんです。全部ダビデのようにぶちまけるんです。

もう本当にダビデの詩篇を見ているとですね、ここまでえぐいことを言うのか。でもこれですね、敵に向かって言ったらえぐい罵詈雑言ですけども、しかし、主に向かって思いの丈をぶちまけるならば、それは祈りになるんです。皆さんは罵詈雑言を人に向けてではなく、主に向けて祈りを捧げるべきです。したら、主があなたのことを心配してくださる。

この「主があなたのことを心配してくださる」、これ、原文では主が支えてくださる、主がサポートしてくださるという意味です。ただ単に主は天から眺めて見ているわけではありません。ある人は思うかもしれません。神はもう天高く座していて、そしてただ下の方、人間を眺めているだけだって。いや、そんなことではないんです。

主は天から降りてこられて、皆さんの友となり、皆さんの身代わりになって十字架にかかってくださった。それがイエス様です。主は皆さんのことを心配し、心にかけておられ、天から降りてきて、そしてずっと主がサポートし、支えてくださりたいと、主はそのように思っておられます。

けれど、皆さんが主に委ねないのであるならば、主はサポートしようがないんです。皆さんのパソコンが壊れた時、サポートに電話しない限りはずっと壊れたままです。皆さんのメーカーである神様に、サポートセンターに、天のサポートセンターに、なんでサポートを求めないのか。

主がサポートしてくださるから、主が心配してくださるから、だから主に全部思いの丈をぶちまけて、するならば、皆さんの思いは自分の肩からイエス様へと移るんです。イエス様は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。私があなたを休ませてあげるから」と言われました。

この罪の重荷も、また世の中の重荷、あるいは主からいただいた聖なる務めの重荷。これはすべてイエス様にお委ねしなさい。イエス様のところに行く。すべて疲れた人、重荷を負っている人は、イエス様のところに行って、イエス様のもとで安息を得るべきです。

冒頭で宣言したところは、第一ペトロ5章7節なんですが、ここでも新約でも同じことがペトロを通して語られております。第一ペトロの手紙では、これペトロが、もうすでに迫害が始まったその教会に対して、イスラエル12部族に対してというよりも、本当にこの神の民に対してですから、これ、今、現在の皆さんにも語っています。重荷を負って、迫害や、あるいは色々な困難の中にある聖徒のためにペトロが書いたのが第一ペトロの手紙ですが、ペトロは5章7節でこう言っております。

「あなた方の思い煩いを一切神に委ねなさい。神があなた方のことを心配してくださる。アーメン。」

旧約でも新約でも書いてありました。神があなた方のことを心配してくださる。あなた方の仕事は心配することではない。神に委ねること。心配はあなたの仕事ではないよ。神の仕事だよ。だから、あなたの思い煩いは、心配は全部神様にお委ねしなさい。そしたら神様があなたのことをすべてのよしとしてくださるんです。

これから教会の営業活動って、昔ピンポン営業ってありました。私もそのバイトをしたことがあるんですが、あれ、なかなか勇気がいります。もうドアを開けて出てきた人が怖そうなお兄さんで、怒鳴られたらどうしようか。若かりし時、そういったバイト、もうビクビクしながらしたこともありましたけども、けれども、重荷を主にお委ねする、これ主の仕事だと思いながらしていけば、今はピンポン営業でなくて、通りに出ていって、3分ブリッジ、知らぬ人に声をかけてするんですけども、あれも、この主抜きでは、ちょっともうできないです。

この人に声をかけようとしたら、ああ、ちょっと若い女性だな。ナンパだと思われたらどうしようか。やっぱここ通り過ぎようかって。あ、この人ちょっと強面だな。ヤクザだったらどうしようかとか。

いや、主が、この人に声をかけなさいっていう、その御声、あるいは救うべき魂ですから、この主に、魂を救うのは私の仕事ではなく、主の仕事だと。主に委ねるならば、もう結構簡単に、「こんにちは」って、「ちょっと3分だけよろしいでしょうか」、意外と声かけられるものです。

私たちは仕事、いろんな重荷があります。教会の運営もそうですし、また世の中における仕事もそうです。ビジネス、そうです。子育て、重荷に感じる時あります。親との関わりや、また友人との付き合いも、もう本当に重荷、重荷なことあります。これ全部主に委ねなさい。主はあなたのことを心配してくださるから、と書いてあります。

この教会開拓の時も、河合先生が本当に主からの聖なる重荷を委ねられました。新しい教会を開拓しなさいって。設立資金もない時に与えられて、ああ、重荷だなって。でも設立資金が与えられました、これ。喜ぶどころか、ああ、重荷に感じたんです。

そして教会いざ立てて、そして運営においても、本当に思い煩いのような。もうなんで、神様、あなたは設立資金までくださったのに、いざ立ててみたらなんで早速もう教会が今にも倒れそうな、こんなことになるんですかって。

その時、主の声を聞いたんです。「教会はあなたが運営しているんですか、私が運営しているんですか」って。「いや、あなたが運営しているんです」って。「だったら、あなたの仕事は私に、今これこれの必要があるからと、私に求めることじゃないのか。なんであなたが1から10まで全部この問題を解決しようとするのだ」と。

そういう経験も河合先生もしてきました。本当に今、目の前でやろうとしていること、果たしてこれがうまくいくんだろうか。なんで今、神様が始められた仕事を、もう今すぐにでも風前の灯火のように消え去りそうなんですか。

主に委ねましょう。主に告白しましょう。重荷を主に委ねましょう。アーメン。主が皆さんのことを、もう皆さんが心配する前から、主が心配しておられて、そして主の恵みにあずかることができるんです。

主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらないと、今日の箇所に書いてあります。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。アーメン。

けれども、皆さんが重荷を自分で背負いっぱなしならば、揺るぎっぱなしです。けれども書いてあります。主は、主が心配してくださるから、重荷を主に委ねるなら、主は決して揺るがされるようにはなさらない。アーメン。

主に向かって手放しましょう。主に委ねましょう。主が皆さんを心配してくださり、主が皆さんを背負ってくださり、白髪頭になっても主が背負ってくださり、そして主が平安、安息、主にある成功、勝利、そこへと導かれていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

【結論】

あなたの重荷を主に委ねなさい。主があなたのことを心配してくださる。心配することは私たちの仕事ではなく、主の仕事である。思い煩いを自分の中でぐるぐる思い巡らすのではなく、ダビデのように、朝も昼も夜も主に向かって祈りとして捧げるとき、主は私たちの声を聞いてくださる。主は天から降りてこられて、私たちの友となり、身代わりとなって十字架にかかってくださった。主に委ねるとき、主が私たちをサポートし、支えてくださり、主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。すべてを主に委ね、主にある平安、安息、勝利へと導かれていこう。

 

主のいましめを守っていること、これこそ私の永遠の財産(詩篇119:55-56) 早天祈祷会 2026年2月3日(Tue)

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【概要】

天に宝を積むことの大切さを教えるメッセージ。地上の富ではなく、主との交わりと御言葉を守ることこそが真の財産であることを詩篇119篇から学ぶ。

【聖書箇所】

  • 詩篇119:55-56

  • マタイ6:19-21

【励ましの言葉】

主の御言葉を守り、夜ごと主の御名を呼び求めて祈ることは、どんな地上の富よりも価値ある宝です。主との交わりを持ち続けるなら、天に決して廃れることのない財産が積み上げられています。

【勧めの言葉】

地上に宝を蓄えるよりも、天に宝を蓄えることを選び取りましょう。日々主と交わり、祈り、御言葉を守る生活こそが、永遠に残る真の財産となります。

【***AIによる文字起こし***】

今日、恵みをいただく御言葉は、詩篇119篇55節と56節です。皆さんで共に宣言したいと思います。

「主よ、私は夜にはあなたの御名を思い出し、またあなたの御教えを守っています。これこそ私のものです。私があなたの戒めを守っているからです。」(詩篇119:55-56)

アーメン、ハレルヤ。愛するイエス様、あなたこそ我が相続財産、あなたこそ私たちの報酬です。イエス様、あなたが共にいますということを私たちは宣言し、そしてあなたが共にいますというからには、すべてのものが私たちにも与えられますことを感謝いたします。

今朝も素晴らしい主の御名を褒め称え、賛美いたします。イエス様は、皆さんにとっての相続財産であるということ、これを始まった瞬間からいただきましたね。皆様、イエス様が伴われているということ、日々皆さんと伴われるイエス様にあって作り変えられているでしょうか。今年に入ってから変わったという人いますでしょうか。

変わりましたね。私の目から見て、確かに皆さん変わりました。主こそ、イエス様こそ皆さんの相続財産ですね。そして、皆さんの相続財産としたからには、イエス様が皆さんと伴われて、日々の歩みを、皆さんを作り変えて、御霊に満たされ、またある人はもう日々御前で祈ることがチャレンジで示されて、それを努力して、本当に日々作り変えられていっております。

今日の御言葉なんですけども、この56節「これこそ私のものです。私があなたの戒めを守っているからです」。これ、原文のニュアンスとしては、私があなたの戒めを守っていること、これこそが私の財産です。私の全財産ですね。それはお財布の中にある小銭全部ということではなく、私の財産、全財産は主の戒めを守っていること、これが私の全財産です。そういうニュアンスがあるんです。

韓国にこの間まで結構長く行ってたんですけども、イ・ヨンチョル先生と会ってきました。3分ブリッジの先生ですね。イ・ヨンチョル先生が言われますには、彼ら教会のある聖徒を目に留まったそうです。

その聖徒はですね、もう本当に今にも破産しそうな、もう本当に貧しい、貧しい、そういう境遇にあったんですね。けれども、彼は本当になけなしの心で主に仕えて、なんとかして主に喜ばれようと、そういう努力をしている方です。で、ある日、その聖徒さんから家庭におもてなしのために呼ばれたということですね。それでその聖徒さんのところに行きました。あらかじめこの御言葉を取り次ごうとメッセージを準備してから、その聖徒さんのところにお家に行ったんですけども、行ってみました。で、まあ、質素な家具があって、そして本当に質素なおもてなし。けれども、本当に心のこもったおもてなしをお食事を用意してくださって、ヨンチョル先生を待っていたんですね。

それでまあ、お食事の前にですね、その用意したメッセージをいざ語ろうとしたんですけども、けれども、彼はその準備しておいたメッセージを語ることを聖霊様からストップされました。で、語れないんですね。「主よ、今、何も準備していない状況になってしまいました。あらかじめ準備していたものが語るなと、あなたの仰せです。私はどうしたらいいんでしょうか」。で、ある御言葉が示された。それが今日のこの詩篇の御言葉ですけども、それでしばらくイ先生が御言葉を語る唇を黙っておりました。その聖徒はちょっと心配げな顔を覗き込んだんですけども、御言葉が示されたイ先生が言われたんですね。

「あなたはすごく富まれた方ですよ。とても富んでいるんですよ、あなたは。」

その聖徒さんはびっくりして、「いえ、私は特に富んでいるというものではないですけれども、なんでですか」と答えたんですね。そしたらイ先生はこの詩篇の119篇55節と56節、これを宣言したんですね。

じゃあ、もう一度皆さんで宣言しましょうか。詩篇の119の55節からです。

「主よ、私は夜にはあなたの御名を思い出し、またあなたの御教えを守っています。これこそ私のものです。私があなたの戒めを守っているからです。」

アーメン。

この聖徒さんは本当に涙、涙を流しました。夜ごと主の御名を思い出し、本当に「主よ、主よ、今の状況をなんとかしてください。主よ、助けてください」。夜ごと主の御名を思い出し、そして主の御教えを必死で守っております。時にはその掴んでる手がもう力が抜けてずり落ちそうになるけど、それでもなお主の御教えを守ろうと掴んでいます。これがあなたの財産だ。誰よりも富んでいる。あなたの財産だ。「これこそ私のものです。私があなたの戒めを守っているからです」。主の戒めを守ること、これこそが何よりの、あなたにとっての持っている素晴らしい宝だっていうんですね。この聖徒さんは本当に涙、涙しました。

私たちは世の中において自慢と思えるもの、あるかもしれません。世の中の人にとっては、私にはこの能力がある、私にはこのスキル、この経験がある、この仕事についている、これでこの財産、この銀行口座の残高、これこそ私の財産だと思うかもしれないんですけども、けれども、皆さん、真理の観点からすればですね、皆さんの財産というものは天に積まれている財産、これが真の財産なんです。

地上の宝、世の中にはお金持ちと言われる人はあまたおりますけれども、しかし、本当に主の御教えを必死で守っている人、本当になんとかして主の御言葉を守りたい、主に喜ばれたい、今助かりたい。それでもう本当に群衆をかき分け、かき分けして、イエス様の御衣にすがって、そういう志を持っている。その主に対する志、これが真の財産だということを今日の御言葉が示しているんです。

冒頭で宣言した箇所は、マタイによる福音書の6章20節と21節なんですけども、19節のところにはイエス様はおっしゃってます。

「自分の宝を地上に蓄えるのはやめなさい。そこは虫とサビで傷物になり、また盗人が穴を開けて盗みます。」(マタイ6:19)

この地上の財産、これはですね、虫が食います。錆びつきますね。そればかりじゃなく、盗人が来て穴を開けて盗んでしまう。どんなにどんなに蓄えて蓄えたとしても、しかし他の人が取っていってしまうということですね。

ソロモンは誰よりもたくさんの宝を蓄えました。金、銀、宝石を至るところから集めたけれども、結局主を求めないで、そうした地上の名声、富、そうした諸々を追求した結果、彼の人生の最後は虚しい虚しいものになってしまいました。地上において宝がある。その宝はやがて傷物になり、虫と錆でダメになってしまい、また盗人がその盗んで生きいってしまいます。

ソロモンの財産を受け継いだのは彼の息子、レハブアムというものでしたけども、アモン人の息子でした。主を知らなかったんです。彼はですね、ソロモンが蓄えた財産をたった5年で散財してしまいました。彼が王様になってから5年後にエジプトが攻めてきて、その宝を全部奪っていってしまったんです。一体、親が蓄えた宝、どこに行ったか。道楽息子に渡った、神様を知らない息子、そしてその道楽息子が散財してしまった。地上で宝を蓄える、神様よりも地上の富、宝を追求するような人は結局虚しいんです。

だからイエス様は「地上に宝を蓄えるよりも、むしろ自分の宝は天に蓄えなさい。そこでは虫もサビもつかず、盗人が穴を開けて盗むこともありません」(マタイ6:20)。

アーメン。

かの聖徒さん、本当に主の御言葉を必死で守ろう、必死で主に夜ごと御名を呼び求めて「主よ助けてください、主よ助けてください」と主と交わりを持って、主にのみ頼みとする。それが彼の決して廃れない宝だったんですけれども、皆さんはどれほど天上に宝を蓄えているでしょう。日ごと祈っているでしょうか。日ごと主と交わっているでしょうか。皆さんの日ごとの主との交わり、日々の主に対する祈り、それが皆さんの宝です。どれほどその宝のバロメーターが上がってるでしょう。

昔通ってた子供の時の教会学校はですね、教会に行くとそのシールをもらえて、で、それでこの表が貼ってあって、来た日をシールを積み立てていくんですね。で、それでこれがあなたがどれほど神様と交わりを持ったか、そのそれが一目でわかる表だよっていうふうに先生に言われて。で、それで本当にシールをもらうのを楽しみにして貼る都度、また自分がそのグラフの山が高いほど、まあ誇りに思ったものですけども、皆さん、祈れば祈るほどに、主と交われば交わるほどに、神様からそのご褒美のシールをいただいて、そしてその宝は決して奪われることも、虫が、サビがつくこともない、皆さんにとっての廃れない宝です。

イエス様が言われたのは、「あなたの宝のあるところにあなたの心もあるからです」(マタイ6:21)というふうに言いました。皆さんの宝は一体どこにあるでしょうか。皆さんの心は一体どこに置かれているでしょうか。銀行口座でしょうか。あの株券でしょうか。皆さんの宝はイエス様においてください。イエス様が皆さんの相続財産です。イエス様こそ、皆さんの受けるべき報酬、報い、イエス様こそ、皆さんにとってのお給料としてください。するならば、その日々が本当に天上においてあのシールのように本当に積み上げられていて、天国に入った時に、本当に神様から喜ばれ、ご褒美を受けて、そしてその地上で蓄えた宝に従って、皆さんがボーナスの報いを受けるんですね。

地上においてイエス様を信じること、これは天国に入るための切符ですけれども、信じれば救われたんだから、それでいいやだと、天国で財産が積み上がってないんですね。行いです、行いが。皆さんの信仰による行い、皆さんのイエス様との交わり、これが宝となって天上に積み上がっていく。そしてそれは決して永遠に廃れることはないものです。

皆さんの永遠の住まいを、本当にあらゆる素晴らしい飾りで飾りつけたいでしょうか。天上において質素な家、また本当に地上で多くの行いを積み上げてきた宝でいっぱい満ちた家、皆さん、どちらに住まいたいでしょう。永遠に。どうせだったら宝、多くの宝を天国に蓄えていきましょう。皆さんは本当にこの地上において、イエス様とよく交わり親しみ、そして本当にこの真の宝を天に積み上げる。そして本当に主から「誰よりもあなたが富んでる」そんなに言われる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福いたします。

【結論】

真の財産とは、地上の富や名声ではなく、主との日々の交わりと御言葉を守ることです。夜ごと主の御名を呼び求め、御教えを必死で守る生活こそが、天に積まれる決して廃れることのない宝となります。イエス様を私たちの相続財産とし、日々祈り、主と交わることで、天に永遠の財産を積み上げていく歩みをしていきましょう。地上の宝は虫とサビで傷物になり、盗人に奪われますが、天の宝は永遠に残ります。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです。

 

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