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メッセージ - 定期祈祷会メッセージカテゴリのエントリ

主の働き人に貧しい思いをさせず豊かに養って下さる主(2列王記4章)
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主は、主の働き人を決して貧しい思いのままにされないお方である。
第二列王記4章は、まことに主の働き人に対する保障がどのようなものであるのかという事例に満ちている。

4:1 預言者のともがらの、ひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのふたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。

彼女の夫は、負債を負ってでも主の預言者につかえていたが、そんな彼が死んでしまった。
残された彼女と子供達は、奴隷に売られる他は無いような状況であるが、しかし彼女は預言者の所にその問題を持って行った。
主は、主を恐れる人を、その家族をも養って下さる。
エリシャの言葉どおりにしたら、唯一の財産であった油が、多く満たされた。

4:7 そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。

神の必要の満たしは、ちょびちょびではない。たっぷり、である。
ただし、それには私達の側の器次第である。
彼女は望みをもって、たくさん、器を借りたからこそ、たくさん、得た。

8節から17節には、主の預言者に良くしてあげた不妊の女性に、子供が与えられる奇跡が記されているが、しかしその子が死んでしまった。
せっかく子供が生まれ、まだ小さく、かわいいさかりなのに死んでしまう。母親としては悲しみの極みである。なんで、この子は生まれ、そして死ななくてはならなかったのか、と。

 4:21 母は上がっていって、これを神の人の寝台の上に置き、戸を閉じて出てきた。
 4:22 そして夫を呼んで言った、「どうぞ、しもべひとりと、ろば一頭をわたしにかしてください。急いで神の人の所へ行って、また帰ってきます」。
 4:23 夫は言った、「どうしてきょう彼の所へ行こうとするのか。きょうは、ついたちでもなく、安息日でもない」。彼女は言った、「よろしいのです」。 4:24 そして彼女はろばにくらを置いて、しもべに言った、「速く駆けさせなさい。わたしが命じる時でなければ、歩調をゆるめてはなりません」。

子どもの父親すなわち彼女の夫は、神の人の所に会いに行くのは、ただ安息日や礼拝の日だけだ、と思っていたようだ。しかも、子供に何か良からぬ事があったのか、という察知する心遣いもないようである。

たとえ死んだという事を知らなかったにしても、子どもはあんなに頭が痛かったのだから、神の人のところに癒やしてもらいに行くのだろうか、という発想も沸かない不信仰な彼とは一切会話はせず、議論する事もなく、急いで神の人エリシャの所に向かう。
彼女は一切の事を秘め、ただ直接、エリシャの所に行って、この事を解決してもらおうと思っていた。
4:32 エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、
 4:33 彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。
 4:34 そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。

エリシャ、ずいぶん大胆な行動に出たものだ。
律法では、死体に触れる事は、汚れを受ける事であり、1週間がかりできよめの儀式を行わなければ、きよめられないという、やっかいな事だった。
それでもエリシャは、ここまでした。エリシャに相当の覚悟がなければできない事だ。
まさに「祈りと断食」である。

4:35 こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。

死んでいた子どもが、生き返った。これは、当時の周囲の人々にインパクトを与える事だろう。

4:36 エリシャはただちにゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼べ」と言ったので、彼女を呼んだ。彼女がはいってくるとエリシャは言った、「あなたの子供をつれて行きなさい」。
 4:37 彼女ははいってきて、エリシャの足もとに伏し、地に身をかがめた。そしてその子供を取りあげて出ていった。
彼女はこのように良くしていただいた。

彼女は、旅人をもてなし預言者に良くする信仰があったから、そして、問題が起きたら誰よりも何よりも、主の預言者に持っていく信仰があったから、このような幸いを受け、また彼女はその後にもこの事ゆえに幸いを得る。

4:38 エリシャはギルガルに帰ったが、その地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前に座していたので、エリシャはそのしもべに言った、「大きなかまをすえて、預言者のともがらのために野菜の煮物をつくりなさい」。
 4:39 彼らのうちのひとりが畑に出ていって青物をつんだが、つる草のあるのを見て、その野うりを一包つんできて、煮物のかまの中に切り込んだ。彼らはそれが何であるかを知らなかったからである。
 4:40 やがてこれを盛って人々に食べさせようとしたが、彼らがその煮物を食べようとした時、叫んで、「ああ神の人よ、かまの中に、たべると死ぬものがはいっています」と言って、食べることができなかったので、
 4:41 エリシャは「それでは粉を持って来なさい」と言って、それをかまに投げ入れ、「盛って人々に食べさせなさい」と言った。かまの中には、なんの毒物もなくなった。

ききんの時である。食料がとても貴重な時であるが、この時、一人の預言者が、その貴重な食料の入ったなべに無知のゆえに毒を入れてしまい、人々の口に持って行かせてしまった。
主に在る兄弟姉妹の口に入るものを作る時にはよくよく注意すべきではあるが、彼は無知であった。
これがもとでその集会の全員が死んでしまう危機であったが、主を信じる人、神の国の働き人には、毒を受けても害を受けないという保証が与えられている。(マルコ16:17)

彼は、無知であったかもしれない。主の働き人一同をあわや全滅させて下さるという、大きなミスを犯したかもしれないが、しかし主はききんの時代でも、働き人のミスを覆ってあまりある事をして下さるお方である。

4:42 その時、バアル・シャリシャから人がきて、初穂のパンと、大麦のパン二十個と、新穀一袋とを神の人のもとに持ってきたので、エリシャは「人々に与えて食べさせなさい」と言ったが、
 4:43 その召使は言った、「どうしてこれを百人の前に供えるのですか」。しかし彼は言った、「人々に与えて食べさせなさい。主はこう言われる、『彼らは食べてなお余すであろう』」。
 4:44 そこで彼はそれを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった。

これもイエス様の奇跡を思い起こさせる。
イエス様はわずか5つのパンを2引きの魚で、5000人をも養った。そのイエス様の奇跡が与えられるのは、イエス様に望みを追って集まった群衆である。
イエス様は、憐れまれる。無計画にではあってもイエス様を慕って集う人々に対し。
そして、彼らの”無計画”ゆえに手持ちの食料も持ってこなかったという報いを、そのまま「自己責任だ」などと言う事なく、むしろ、イエス様がみずから彼らを心配してくださり、しっかりと保証を与えられた。

そして、主の保証の仕方は同じである。
主は、主を慕い求める者を満腹させ、道足らせるばかりでなく、主の働き人の分もちゃんとたっぷり整えて下さるのだ。

楽しみながら「忍耐」し、主からの栄光を受けるために(ヤコブ5:7-20)
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5:7 だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
5:8 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。

このヤコブ書5章には旧約の偉人、ヨブとエリヤが出てくる。
いずれも、忍耐を通して偉大な業績を残した人達だ。
耐え忍ぶ事はとても有用な事だが、それは単なる我慢大会ではない。
聖書的な「忍耐」は、未来を現代へと引っ張る力がある。

信仰者が登っていくべき、信仰の成長の「階段」が、ローマ5章に記されている。

ローマ5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
5:2 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。

イエス様を信じて義とされた私達には、まず、神との間の平和を得る事が出来る。
そして、その恵みへと信仰によって導き入れられ、さらに、神の栄光にあずかる希望を持つ事が出来るのだ。

ローマ5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。

義とされた者は神との平和を得、平和を得た者は患難さえ喜ぶ。
「患難(スリフィス)」は、オリーブの実が圧搾機の中で絞られ、有用な油が絞り出されるような意味があり、患難によって、私達の中にある尊い信仰が絞り出され、それが主に喜ばれ有用に用いられるために、まず圧搾されるのである。それを思うなら、患難を喜びに変換できる。
「忍耐」はギリシア語でフィポモネン、下に平伏す、という意味がある。それは、農夫が種を蒔いて、下に平伏しつつも、あたかも、喜びの刈り取りを目の前現実で刈り取っているかのような喜びをもって、喜ぶものだ。
私達はそのようにして忍耐しているだろうか。信仰者の忍耐とは、単なる我慢大会ではなく、未来の喜びを目の前に引っ張ってきて喜ぶ力があるのだ。
そしてそれが錬達(ドキメーン)を生み出す。それは研磨する、あるいは溶鉱炉で不純物を除いて純化して行く意味がある。
私達はどんどん純化されて行き、そしてやがて、決して奪われる事の無い希望を生み出すのである。
ローマ5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

ヤコブ5:9 兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。
5:10 兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。
5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

主は近い。だからむしろ私達も、聖書に記されている人々にならい、今している忍耐には大きな希望と喜びが必ず待っている事を当然のごとくに、信仰をもって自分のものとしていく事こそ、むしろラクで楽しい道なのだ。

5:12 さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。天をさしても、地をさしても、あるいは、そのほかのどんな誓いによっても、いっさい誓ってはならない。むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる。

将来をのぞむ事は有用だが、同時に、取らぬ狸の皮算用に陥らないよう、気をつけなさい、という事だ。
私達は将来起きる事が分からない。だから御旨から外れた先走った皮算用をして、誓いを破ったというそしりを受けないよう、ただ、はいははい、いいえはいいえだけ言えば良いのだ。

5:13 あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。
5:14 あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。
5:15 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。
5:16 だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。
5:17 エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。
5:18 それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。

地上を歩む日々は荒野を進む日々かのようで、忍耐が必要だが、いくら忍耐を喜びなさいと言われても、そうできない弱さが私達にはある。
だからこそ、聖徒の交わりの中で、特に信仰の先輩たちの助けを得つつ、また互いに祈り合いつつ、この荒野を乗り切って行く必要があるのだ。
そして私達も成長したなら、信仰の先輩となって、罪の道、滅びの道を歩んでいる人達を救うべきである。

5:19 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、
5:20 かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。

罪と死の問題を打ち破る鍵(1列王記17:17-24)
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17:17 これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えたので、
17:18 彼女はエリヤに言った、「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」。

ききんの時代、最後の食料をささげて預言者を養ったやもめは、尽きる事がなくなったその食料によって、自身も、息子も、生きながらえていた。
それなのに、子は病気になって死んでしまった。
生かすための奇跡が起きていた所に、死がおとずれてしまう。彼女のみならず、私達も「なぜ」と思う。
なぜこのような事が起きるのか。イエス様の言葉にヒントがある。

『姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。』(ヨハネ11:3-6)

イエス様は、愛しておられるラザロが病気であると聞いたのに、すぐに癒やしには行かず、あえて、なお数日滞在された。
それでラザロは、イエス様が行かないままに死んでしまうのだが、イエス様はなぜ敢えてそのままにしておかれたのか。
その答えは、人々が神の栄光を見るため、また、人の子が、それによって栄光を受けるためである。(ヨハネ11:4)
結局、やもめの子は生き返らされたが、それによって預言者エリヤが神の人である事、そして、預言者の口にある主の言葉が真実である事を、人々が知った。(1列王記17:24)

なぜこの事が起きたのか、という事の理由のもう一つは、罪の問題を思い起こさせるためである。
彼女は「あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」と言ったが、彼女はこの原因を、罪、と認識していた。
そう、干ばつが起きたそもそもの原因は、イスラエルの罪ゆえであった。しかしイスラエルの王アハブや多くの人々は、それを自分の罪の故とは思わず、エリヤのせいにして、エリヤを指名手配していた。
しかし彼女のように、誰か他の人や世情から見出そうとするのではなく、自分の内から見出そうという性質があった。そのように自分の罪や弱さを認める人は、救いから遠くはない。

そしてさらにもう一つ、主は交わり(コイノニア)を通して働かれる事を知るためにである。
主から日ごとに与えられる食料によって預言者を養っていた彼女は、この罪と死の問題を預言者の所へ持って行った。

17:19 エリヤは彼女に言った、「子をわたしによこしなさい」。そして彼女のふところから子供を取り、自分のいる屋上のへやへかかえて上り、自分の寝台に寝かせ、

彼女は、その子が病の間も、死んだ後も、その子をずっと「ふところ」に抱えていた。
彼女は息子が死んで、ようやくふところからその子を手放し、エリヤへと渡した。
私達も罪と死の問題を、もはや解決不能になるまで自分のふところにかかえて自分で何とかしようとする所があるが、その時こそ、手遅れになる前に信仰者の元へ持っていくべきである。

『信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。』(ヤコブ5:15-18)

罪の問題、死の問題。人類全体はそれによって支配されている。
しかし、コイノニアの交わりの中では、自分よりも信仰のある人、自分よりも義人である人に、祈ってもらう事ができるのだ。
『預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。』(マタイ10:41)
主は兄弟姉妹の交わり(コイノニア)の内に、永遠の祝福を命じられた。(詩篇133篇)

17:20 主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、あなたはわたしが宿っている家のやもめにさえ災をくだして、子供を殺されるのですか」。
17:21 そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください」。
17:22 主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。

エリヤは必死に祈って、三度その子の上に伏せって、ようやく祈りに答えられたが、イエス様がラザロをよみがえらせる時はエリヤのようでなく確信に満ち満ちており、ただ、祈りを聞いて下さった事への感謝と、権威ある「命令」だけがあった。
エリヤのような信仰の先輩を頼りとする事は、確かに有用だが、最も有用な事は、完全なる主、イエス・キリストに直接お願いする事である。

奇跡的に生かされていたのに、奪われ、そして再び、主にあって取り戻す。
これら一連の事が起きるのは、神が遣わされた者は一体誰であるのかを、人々が真に知って彼を信じるため、そして、神の栄光が現れるためである。

17:23 エリヤはその子供を取って屋上のへやから家の中につれて降り、その母にわたして言った、「ごらんなさい。あなたの子は生きかえりました」。
17:24 女はエリヤに言った、「今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました」。

彼女はこの一連の事を通して、さらに深く知った。
エリヤこそ、まことに神から遣わされた人であり、彼をとおして為された事は、主のものである事を。

世の中全体に、罪の問題があり、死の問題がある。
しかし、それらの問題に勝利するのは、個人個人の信仰告白であり、そしてその罪と死の問題を打ち破る鍵を、主は、教会に与えられた。

マタイ16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
16:19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

復活の主から特別待遇を与えられる人とは(マタイ28:1-10)
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今回は、復活の主は、どのような人に特別に現れ、特別待遇して下さるのかを見ていきたい。

28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
28:2 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。

マグダラのマリヤとほかのマリヤ、彼女たちがイエス様の所に来たのは、「安息日が終って、週の初めの日の明け方」であった。
安息日の間は動くことは出来ない。その安息日が明け、動けるようになった瞬間から、誰よりも真っ先に、である。
イエス様はあらかじめ、三日目によみがえる事を伝えていたが、彼女たちは、イエス様がよみがえる事を期待して来たのではなく、死体に防腐措置を取るために、という、御言葉を取り違えた誤った目的で来たのだが、それでも、その弱くなけなしの信仰を持って、イエス様の所に来た。
そんな、誤った、弱い、なけなしの信仰であっても、奮い立たせて、誰よりも先に来る彼女たちに、主は、特別扱いして下さる。
彼女達を前に立ちはだかるローマの権威である封印、ローマ兵という武力、そして彼女たちにはどうすることも出来ない、イエス様と彼女達を隔てる重い岩。
そうした一切の、主との間を隔てるもろもろを、打ち破って余りある力をもって、主はそれらの障壁を難なく取り払って下さった。
主は、十字架の場面では一人の御使も使わされず、一人の弱い人であるかのように死を受け入れて下さったが、この度、神はこのなけなしの信仰を奮い立たせて来た彼女達のために、御使を遣わして、特別扱いして下さった。

28:3 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
28:4 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
28:5 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
28:6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。

兵士達は、御使のあまりの聖なる有様に、恐れのあまり死人のように成った。しかし彼女達は、人間は到底耐えられないはずの、主の「聖」に打たれる事なく、守られ、しかも「恐れることはない」と声をかけられた。
「恐れるな」。御使いは同じ言葉をダニエルにもヨハネにもかけて下さった。
主が再臨される時、主を軽んじた大勢の者達は、震えおののき、山や岩陰に逃げ隠れするが、主を敬う私達にも「恐れるな」と声をかけてくださるのである。

28:7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。

御使い(アンゲロス)の役割は、言葉を伝える事である。そして御使いの言葉を預かった彼女たちが、今度はアンゲロスとなって、弟子達へと伝え、そうして、御言葉が伝えられる事は全世界へ至り、今日へと至っている。
私達も、御言葉を頂いたなら、アンゲロスとなってさらに伝えて行くのである。

28:8 そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

彼女たちには、大きな喜びが、恐れにまさっていた。
兵士達には、ただ恐怖でしかなかったが、力ある偉大な主の守りと、特別待遇を受け、主の偉大なみわざを伝える栄光のつとめに預かった私達には、大きな喜びがあるのだ。

結局主に出会える者は、主を重んじる者であり、主を軽んじる者は、捨てられる。
大祭司エリとその息子達は、主から素晴らしい栄光のつとめを軽んじたため、捨てられてしまう。

1サムエル記2:29 それにどうしてあなたがたは、わたしが命じた犠牲と供え物をむさぼりの目をもって見るのか。またなにゆえ、わたしよりも自分の子らを尊び、わたしの民イスラエルのささげるもろもろの供え物の、最も良き部分をもって自分を肥やすのか』。
2:30 それゆえイスラエルの神、主は仰せられる、『わたしはかつて、「あなたの家とあなたの父の家とは、永久にわたしの前に歩むであろう」と言った』。しかし今、主は仰せられる、『決してそうはしない。わたしを尊ぶ者を、わたしは尊び、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。

主は、主を尊ぶ者を尊び、特別待遇で迎えて下さる。

詩篇4:1 わたしの義を助け守られる神よ、わたしが呼ばわる時、お答えください。あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。
4:2 人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。いつまでむなしい言葉を愛し、偽りを慕い求めるのか。〔セラ
4:3 しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。

御言葉のパンをイエス様からいただく時(ルカ24:13-35)
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24:13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、
24:14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
24:15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。
24:16 しかし、彼らの目がさえぎられて(クラテオー:握りしめている)、イエスを認めることができなかった。
24:17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。

イエス様が目の前にいる、というのにそれが分からない、暗い顔をする、という時がある。
それは、心が何かをクラテオー(握りしめ)ている時である。
彼らは自分たちの話に熱心で、心配によって心が遮られていた。

24:18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。
24:19 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、
24:20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。
24:21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。
24:22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、
24:23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。
24:24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。

十字架につけられ、死んで葬られ、三日目によみがえる。この一連の内容は「福音」「よき知らせ」と言うものであり、イエス様の復活は、喜ばしい事のはずなのに、彼らはそれらを、暗い顔で話した。
福音を、暗い顔で話す人は、その内容を信じておらず、むしろ、自分の思い込みを握りしめていっぱいいっぱいになっている人である。
イエス様は、その信じていない心に、語られる。
イエス様は何を語ったか。

24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

不思議である。「私がイエスだ」と一言言えば、話は簡単に済むであろうに、そうではなく、聖書の話題へと導いたのだ。なぜ、そんな遠回りな事をされたのだろうか。ここに、私達が学ぶべき姿勢がある。
現代私達が拠りすがるべきは、目で見たり手で触れたりが可能な人間ではなく、聖書であり、御言葉なるイエスなのだ。
私達は、自分の思いの「握りしめ」を手放し、御言葉へと耳と心と思いを向けるべきなのだ。

24:28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。
24:29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。

御言葉を聞いた時、彼らの心は燃やされた。
イエス様は、忙しいお方である。しかし弟子達は、イエス様を無理にでも引き止めた。
そのお陰で彼らは、さらにイエス様とはっきり出会う事が出来るようになる。
私達も御言葉によって心燃やされた時、御言葉であられるイエス様を引き止めて、もっと関わろうとするべきである。

24:30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、
24:31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
24:32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
24:33 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、
24:34 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。
24:35 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。

この二人は、もはや暗い顔ではなかった。
夜で疲れていたにもかかわらず、歩いてきた11.5キロの道を戻って、弟子達に起きた出来事を伝えた。
疲れていても、暗い時であっても、主から裂いていただいた御言葉のパンは、さらに他の暗い顔をしている人へと届け伝えずにはおれないのだ。

私達も、日常の内に隠れているイエス様に気付くべきである。彼に御言葉を解き明かされ、豊かに養われるべきである。そして主ご自身からパンを受け取り、主が確かにこの旅路に共におられ、御言葉を示された事を伝えずにはおれなくなる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

復活の主が現れた最初の主日礼拝(ヨハネ20:1-23)
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20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。

週の初めの日、それは日曜日である。
ユダヤ人にとっては、働いていはならない「安息日」が明けた「朝早くまだ暗いうち」であるので、マグダラのマリヤは誰よりも初めに、一番に、イエス様のために動き出した。
しかしそれは、復活の主に真っ先に会うためではなく、真っ先に、イエス様の遺体に防腐措置を施すためであった。

20:2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。
20:4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、
20:5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
20:6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、
20:7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。
20:8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。
20:9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。

イエス様の遺体はあいにく、墓には無い。
イエス様があらかじめ言っておられたように、三日目によみがえったからである。
しかし彼女も、弟子達も、この時その事を信じられなかったし、イエス様があらかじめ言っておられた事を思い出しもしなかった。

20:10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、

弟子達はユダヤ人を恐れていたので、すぐに帰って行ったが、マリヤは相変わらず残っていた。
このように、真っ先に(たとえ遺体であろうと)イエス様に会いに行こうとし、またいかに間違えた概念でイエス様を見ていたとしても、それでもイエス様を真っ先に求める魂に、イエス様は現れてくださる。

20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。

彼女は、さっき弟子達が出てきたばかりの、密室であったはずの墓に、突然、白い衣を着た二人の御使が現れるという「非日常」を、全く驚かなかった。
それ程、彼女の心は、悲しみに塞がれていたのであろう。
バラムは、ろばが人間の言葉をしゃべるという「非日常」に全く驚かず普通にろばと会話したが、彼の場合は、金銭欲に眼と心が塞がれていたからだった。
このように、心がある思いで塞がれてしまうと、主が語られた言葉を理解できず、主の現れに気づかず、また、目の前に不思議が起きても全然心が動かされないものだ。
しかし主は、そんな、主を慕い求める「とんちんかん」な魂に、やさしくご自身を示して下さる。

20:15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。

彼女は、やっとイエス様だと気付いた。そして「ラボニ」(わたしの先生)と言った。
主は、慕い求める魂に、個人的に現れて下さる。公に、一斉に、ではなく、本当に主を慕い求める人に、あるいは慕い求める集団が集まっている所に。
そして彼らは主と出会い、主に対して「わたしの主」「わたしの神」「わたしの先生」と、わたしのものとして主を呼ぶようになるのだ。

20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

主は、閉ざしている彼らに現れた。
復活のイエス様は、全て、主を慕っている人の中に入って来て「安かれ(エイレーネー:平和, 和合, 安全, 健康, ヘブル語のシャロームに相当)」と言われる。たとえその人が弱く、脅え、出入りを固く閉ざしていても。

シャロームという言葉はユダヤ人の挨拶言葉で、広範な意味があり、祝福の総称とも言える。
シャロームは、平安の意味の挨拶言葉であると、よく知られているが、平和である事、安息である事を願う言葉であり、経済や子宝の繁栄、健やかである事、その他、全ての面で満ち足り、充足し、満足し、知恵に満たされ、あらゆる悪や、災いから救われ、敵や悪に対し勝利する事を、願い求める言葉でもある。

20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

これが、最初の「主日礼拝」である。これ以降、主は、主日(日曜日)に現れ、弟子達も主日を主と出会う日として集うようになっていった。
主日、御言葉なるイエス様が信じる者の口から発せられると、聞く一人ひとりに主は現れ、聖霊の息吹によって息吹かれ、主に遣わされた者として世に出て行き、さらにキリストのいのちを増やして行く者となって行くのである。

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