メッセージ - 定期祈祷会メッセージカテゴリのエントリ
早天祈祷会
ロマ書が書かれた理由 - 神的妨げ(ローマ1:13)
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一つとなって完全なものとされて行くように(2コリント13:11-13)
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パウロはコリントの教会を愛していた故に、コリントへの手紙を二度も書いた。
愛とは優しさだけではなく、時には厳しさも伴う。手紙の中には時には手厳しく戒める場面もあったが、しかし手紙の最後は、結局、愛に満ちた祝祷で終わっている。
紛れも無い愛によって、愛していたからだ。
13:11 最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。
「いつも喜んでいなさい。」これはギリシア語流の挨拶言葉ではあるが、それは私達に対する命令でもある。
「全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。」
パウロはコリントのみならず、他の教会たちにも同じ事を勧めている。
エペソ4:11 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
4:12 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
4:13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
教会とは一人ではないし、信仰生活も決して一人では有り得ない。
共々がそれぞれに与えられた賜物を用い、互いに励まし合い、勧めあい、そして愛の結びの帯びによって一つとなってこそ、完全なものへと近づいて行くのである。
4:14 こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、
4:15 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。
4:16 また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。
そして、共に一つとなるからには、互いに親密に交わりを持つべきであり、その交わりには、御霊による一致が必要である。
2コリント13:12 きよい接吻をもって互にあいさつをかわしなさい。聖徒たち一同が、あなたがたによろしく。
祝福の挨拶をしあう所には、祝福が豊かにある。
ボアズの家庭と職場は、まさにそうだった。
ルツ2:4 その時ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。
ボアズの時代は士師記の荒んだ時代であり、また彼の母は元々カナンの遊女であったラハブだった。
そのような事情の家庭で、どうして彼は素晴らしい信仰をもった有力者として成長できたのだろうか。
やはり、誰よりも主を愛する愛と、一致と、そして祝福の挨拶に満ちた家庭だったからであろう。
くちびるから祝福の挨拶をし合うこと、すなわち、きよい接吻をもって互いに挨拶をかわす事によって、実際に祝福がその家庭に、また職場に宿るのである。
パウロは最後に祝祷している。
13:13 主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。
三位一体の主をパウロは宣言している。
三つにいまし、一つである。その三つの位格の内には愛の交わりがあり、三つでありながら、一つとなる。
それと同じように、キリストにある私達は多数いても、愛の交わりにより、イエスキリストのより、御霊により、この一つの中へと加えられていくのである。
世界を動かすような重要な人々を「あなたに与えた」(使徒27章)
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27:1 さて、わたしたちが、舟でイタリヤに行くことが決まった時、パウロとそのほか数人の囚人とは、近衛隊の百卒長ユリアスに託された。
27:2 そしてわたしたちは、アジヤ沿岸の各所に寄港することになっているアドラミテオの舟に乗り込んで、出帆した。テサロニケのマケドニヤ人アリスタルコも同行した。
27:3 次の日、シドンに入港したが、ユリアスは、パウロを親切に取り扱い、友人をおとずれてかんたいを受けることを、許した。
パウロはカイサルに上訴したため、ローマへと連行される途上にあった。
身分は、囚人。
最も蔑まれる立場にあるが、しかしこの章が終わる頃にはその立場は逆転する。
27:4 それからわたしたちは、ここから船出したが、逆風にあったので、クプロの島かげを航行し、
27:5 キリキヤとパンフリヤの沖を過ぎて、ルキヤのミラに入港した。
27:6 そこに、イタリヤ行きのアレキサンドリヤの舟があったので、百卒長は、わたしたちをその舟に乗り込ませた。
このアリキサンドリヤの舟、多くの商品が積まれ、多くの軍人や船乗り、ビジネスマン、社長など、当時の世界を動かすような人々276人が乗っていた。
彼らはこの章で、皆、パウロのものとなる。
27:7 幾日ものあいだ、舟の進みがおそくて、わたしたちは、かろうじてクニドの沖合にきたが、風がわたしたちの行く手をはばむので、サルモネの沖、クレテの島かげを航行し、
27:8 その岸に沿って進み、かろうじて「良き港」と呼ばれる所に着いた。その近くにラサヤの町があった。
舟が遅い、それはビジネスマンからすればイライラするものかもしれない。しかし実は、これを起こされたのは神である。
27:9 長い時が経過し、断食期も過ぎてしまい、すでに航海が危険な季節になったので、パウロは人々に警告して言った、
27:10 「皆さん、わたしの見るところでは、この航海では、積荷や船体ばかりでなく、われわれの生命にも、危害と大きな損失が及ぶであろう」。
27:11 しかし百卒長は、パウロの意見よりも、船長や船主の方を信頼した。
パウロは根拠なく言ったのではない。パウロ自身既に沢山の航海を経験し、冬の地中海がどんなに恐ろしいか知っていたし、何より主からの導きをいつも得ていた。
しかし世の人は、もうかりたいから、さっさと仕事を済ませたいから、あるいは、もっと楽しい港で冬を過ごしたいから、そういった心を多数の人々が持っていたので、パウロの意見はこの時弾かれてしまう。
27:12 なお、この港は冬を過ごすのに適しないので、大多数の者は、ここから出て、できればなんとかして、南西と北西とに面しているクレテのピニクス港に行って、そこで冬を過ごしたいと主張した。
27:13 時に、南風が静かに吹いてきたので、彼らは、この時とばかりにいかりを上げて、クレテの岸に沿って航行した。
27:14 すると間もなく、ユーラクロンと呼ばれる暴風が、島から吹きおろしてきた。
人々は静かな南風を、好機だ、と思って舟を進めたが、しかしそれはすぐに暴風へと変わり、舟はどんどん陸地から離れて行ってしまった。
このユーラクロンという言葉、不思議な言葉である。ギリシア語とラテン語の組み合わせで、元々存在しない言葉である。
歴史で唯一、この場面にしかない風。なぜ著者ルカは存在しない言葉をつくったのか?
理由は、この風は「主であるわたしが起こした」からだ。
主のしもべが行く所、全て、主が太陽を、風を、軍隊を動かし、道は開かれるのだ。
必要であるなら主はいつでも満たす。
主は風の方向を変え、ラテン語とギリシア語を合成し、ギリシア、ラテン系列の人々へとに福音を伝えるために、ユーラクロンを起こしたのだ。
27:18 わたしたちは、暴風にひどく悩まされつづけたので、次の日に、人々は積荷を捨てはじめ、
27:19 三日目には、船具までも、てずから投げすてた。
金に目がない商人たちが二日で商品を捨て、三日目には船員が大事にしている船具を捨てる。
それ程その三日間は、一瞬一瞬が命が深刻な事態だったのだ。
27:20 幾日ものあいだ、太陽も星も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、わたしたちの助かる最後の望みもなくなった。
27:21 みんなの者は、長いあいだ食事もしないでいたが、その時、パウロが彼らの中に立って言った、「皆さん、あなたがたが、わたしの忠告を聞きいれて、クレテから出なかったら、このような危害や損失を被らなくてすんだはずであった。
27:22 だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。
27:23 昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使が、わたしのそばに立って言った、
27:24 『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている』。
27:25 だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。
27:26 われわれは、どこかの島に打ちあげられるに相違ない」。
パウロは舟に乗った時点では人々から蔑まれた、一回の囚人に過ぎなかったが、しかしこの舟の中で彼は主にあって地位を得て行った。
そして、御声を聞いた。「たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている」と。
主は、私達にも、世界を動かすような人々を与えて下さる。
そのためにはユーラクロンが吹くかもしれない。
それでも主に聞く姿勢をいつも保ち続けるなら、私達は与えられるのだ。
必要な人々が、経済が、機会が。
2サムエル記5:23 そこで、ダビデが主に伺ったところ、主は仰せられた。「上って行くな。彼らのうしろに回って行き、バルサム樹の林の前から彼らに向かえ。
5:24 バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは攻め上れ。そのとき、主はすでに、ペリシテ人の陣営を打つために、あなたより先に出ているから。」
5:25 ダビデは、主が彼に命じたとおりにし、ゲバからゲゼルに至るまでのペリシテ人を打った。
労苦は無駄に終わる事は決して無い - 農夫の希望(1コリント15:58)
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1コリント15:58 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
黙示録13:10 とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。
エペソ4:7 しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。
4:8 そこで、こう言われている、/「彼は高いところに上った時、/とりこを捕えて引き行き、/人々に賜物を分け与えた」。
ガラテヤ6:7 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。
6:8 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
6:9 わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。
6:10 だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。
霊において「こじき」である者の幸い(マルコ10:46-52)
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マルコ10:46 それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。
10:48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
こじきである事は霊の世界においては、とても重要な性質である。その人が、神の国すなわち神の支配を受ける事ができる。
マタイ5:3 こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
ここは原意は、霊においてこじきである者は、幸いである、という事だ。
10:49 イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。
10:50 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
10:51 イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。
10:52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
マタイ20:32 イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。
20:33 彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。
20:34 イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
「しあわせなイスラエル」とは(申命記33:26-29)
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申命記はモーセの告別メッセージであるが、その最後、モーセのイスラエルに対する感想を述べる。
そしてメッセージを終えたモーセは、ピスガの山に上り、イスラエルが受け継ぐ約束の地を望み見て、そのたましいは神に帰る。
申命記33:26 「エシュルンよ、神に並ぶ者はほかにない。あなたを助けるために天に乗り、/威光をもって空を通られる。
エシュルンとはヤーシャル(まっすぐにする、正しく考える)が元となった言葉だ。
イスラエルは荒野を紆余曲折しっぱなしであったが、イスラエルのアイデンティティは、御前をまっすぐに歩むもの、正しく考える者である。
そのように歩むエシュルンは、次の幸いがある。
33:27 とこしえにいます神はあなたのすみかであり、/下には永遠の腕がある。敵をあなたの前から追い払って、/『滅ぼせ』と言われた。
モーセは続いて、主を住まいとし、主に包まれ守られるイスラエルの幸いを言っている。
それはあたかも、花嫁が花婿の左腕を掴み、男性に腕枕され、その右手で包まれるようである。
雅歌2:3 わが愛する者の若人たちの中にあるのは、林の木の中にりんごの木があるようです。わたしは大きな喜びをもって、彼の陰にすわった。彼の与える実はわたしの口に甘かった。
2:4 彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。
2:5 干ぶどうをもって、わたしに力をつけ、りんごをもって、わたしに元気をつけてください。わたしは愛のために病みわずらっているのです。
2:6 どうか、彼の左の手がわたしの頭の下にあり、右の手がわたしを抱いてくれるように。
私達はキリストの花嫁、宿るべきはキリストの胸、腕の中である。
そこが私達の住まいである。
地上では、アパートやマンションなど色々なところを転々として住む。イスラエルの民も、荒野を転々と住んだが、真の住まいは、主の覆いの下だ。
申命記33:28 イスラエルは安らかに住み、/ヤコブの泉は穀物とぶどう酒の地に、/ひとりいるであろう。また天は露をくだすであろう。
33:29 イスラエルよ、あなたはしあわせである。だれがあなたのように、/主に救われた民があるであろうか。主はあなたを助ける盾、/あなたの威光のつるぎ、/あなたの敵はあなたにへつらい服し、/あなたは彼らの高き所を踏み進むであろう」。
モーセの告別メッセージの最後、それは、「イスラエルよ、あなたはしあわせである。だれがあなたのように、/主に救われた民があるであろうか。」という感嘆の言葉だった。
イスラエルは、しあわせである。
真のイスラエルとは誰か。
英語の辞書では、Israel = "God prevails",”he will rule as God”とあり、またガラテヤ6:16によると、「神のイスラエル」とは、割礼を受けた人の事ではなく、十字架によって世と分離し、新しく創造された事の基準に従って進み行く人の事である事が書いてある。
キリストの十字架の死と復活をいつもこの身と心に帯び、神に頼り、神に宿る者こそ、しあわせなイスラエルなのだ。
詩篇91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
バラム - 異端をもたらす者 - の性質と、その最後(民数記22-25章)
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民数記22:6 どうぞ今きてわたしのためにこの民をのろってください。彼らはわたしよりも強いのです。そうしてくだされば、われわれは彼らを撃って、この国から追い払うことができるかもしれません。あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることをわたしは知っています」。
バラムはユーフラテス河畔の著名な預言者で、彼が祝福する者は祝福され、呪う者は呪われると言われている程だった。
彼はモアブの王から、エジプトから出てきたイスラエルの民を呪うようにと、金銀を積まれる。
民数記22:7 モアブの長老たちとミデアンの長老たちは占いの礼物を手にして出発し、バラムのもとへ行って、バラクの言葉を告げた。
22:8 バラムは彼らに言った、「今夜ここに泊まりなさい。主がわたしに告げられるとおりに、あなたがたに返答しましょう」。それでモアブのつかさたちはバラムのもとにとどまった。
・・・
22:12 神はバラムに言われた、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからである」。
主の答えは、イスラエルの民は祝福されている、だから呪ってはならない、彼らと一緒に行ってはならない、であった。
それでバラムは彼らを帰らせ、一緒には行かなかった。
しかしである。
22:15 バラクはまた前の者よりも身分の高いつかさたちを前よりも多くつかわした。
22:16 彼らはバラムのところへ行って言った、「チッポルの子バラクはこう申します、『どんな妨げをも顧みず、どうぞわたしのところへおいでください。
22:17 わたしはあなたを大いに優遇します。そしてあなたがわたしに言われる事はなんでもいたします。どうぞきてわたしのためにこの民をのろってください』」。
バラクから再度、より高い地位の人々が遣わされ、さらに好条件・好待遇が約束された。
これに対し、バラムの心に、富に対する迷いが生じる。
22:18 しかし、バラムはバラクの家来たちに答えた、「たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、事の大小を問わず、わたしの神、主の言葉を越えては何もすることができません。
22:19 それで、どうぞ、あなたがたも今夜ここにとどまって、主がこの上、わたしになんと仰せられるかを確かめさせてください」。
彼は「その家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、事の大小を問わず、わたしの神、主の言葉を越えては何もすることができません。」と一見美しい事を言って置きながら、「主がこの上、わたしになんと仰せられるかを確かめさせてください」と、筋が通らない事を言っている。
既に主の御心は、最初に示されている。
「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからである」。と。
彼の心に、迷いが生じたのだ。
2ペテロ2:15 彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、
2:16 そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。ものを言わないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂気じみたふるまいをはばんだのである。
バラムは、バラクから示された不義の報酬に、目がくらんだのだ。
神に聞き従っている「祝福された人」を呪う、その引き換えに得る報酬は、不義の報酬であり、新約では、そのような不義の報酬を愛したバラムを、狂気の預言者と呼んでいる。
民数記22:20 夜になり、神はバラムに臨んで言われた、「この人々はあなたを招きにきたのだから、立ってこの人々と一緒に行きなさい。ただしわたしが告げることだけを行わなければならない」。
神はバラムに「行きなさい」と言われた。
人があくまで汚れた欲望へ行こう行こうとするなら、神は敢えてその人をそのまま汚れへと引き渡される。
神は、好きこのんで人を頑なにしたり、滅びの器に定めたりするお方ではない(エゼ18:23)。
むしろ神は、人を救おうとする故に、一人子を世に与え、その大切な一人子を身代わりの十字架につける程の愛をもって憐れまれたのだ。
その尊い愛さえ退け、あくまで欲望のままに歩む事によって、キリストを、あるいはキリスト者を、十字架につけようとする者は、神は、そのままその人を汚れへと「引き渡し」、滅びへと導かれるのだ。
22:21 明くる朝起きてバラムは、ろばにくらをおき、モアブのつかさたちと一緒に行った。
22:22 しかるに神は彼が行ったために怒りを発せられ、主の使は彼を妨げようとして、道に立ちふさがっていた。
バラムがろばに乗ってイスラエルを呪いに行く途上、目の前に御使いが抜き身の剣を手に待ち構えていたのだが、バラムには見えなかった。
「金への欲望」で目が塞がれていたためだ。
彼を乗せたろばは、剣を持った御使いを見てその場にうずくまってしまったが、バラムはあくまで進めさせようと、ろばを打った。
その時、主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を持って道に立ちふさがっているのを見て、頭を垂れてひれ伏した。
『主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。』(民数記22:32)
御使いは、ろばを擁護した。結局この著名な預言者は、ろばの信仰によって命拾いしたのだ。
情けない話だが、お金への欲望は、どんな有力な預言者といえど、ろばさえ分かるような滅びへの道さえ分からなくしてしまうのだ。
民数記22:34 バラムは主の使に言った、「わたしは罪を犯しました。あなたがわたしをとどめようとして、道に立ちふさがっておられるのを、わたしは知りませんでした。それで今、もし、お気に召さないのであれば、わたしは帰りましょう」。
22:35 主の使はバラムに言った、「この人々と一緒に行きなさい。ただし、わたしが告げることのみを述べなければならない」。こうしてバラムはバラクのつかさたちと一緒に行った。
バラムは行くのだが、バラクの意とは反し、バラムはイスラエルを呪うのではなく、三度も祝福した様が、民数記23-24章に書いてある。
民数記24:10 そこでバラクはバラムにむかって怒りを発し、手を打ち鳴らした。そしてバラクはバラムに言った、「敵をのろうために招いたのに、あなたはかえって三度までも彼らを祝福した。
24:11 それで今あなたは急いで自分のところへ帰ってください。わたしはあなたを大いに優遇しようと思った。しかし、主はその優遇をあなたに得させないようにされました」。
24:12 バラムはバラクに言った、「わたしはあなたがつかわされた使者たちに言ったではありませんか、
24:13 『たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、主の言葉を越えて心のままに善も悪も行うことはできません。わたしは主の言われることを述べるだけです』。
24:14 わたしは今わたしの民のところへ帰って行きます。それでわたしはこの民が後の日にあなたの民にどんなことをするかをお知らせしましょう」。
新約では狂気の預言者と呼ばれたバラムは、この後、なんと、遠い将来イスラエルから出るキリストの預言をする。
24:17 わたしは彼を見る、しかし今ではない。わたしは彼を望み見る、しかし近くではない。ヤコブから一つの星が出、/イスラエルから一本のつえが起り、/モアブのこめかみと、/セツのすべての子らの脳天を撃つであろう。
24:18 敵のエドムは領地となり、/セイルもまた領地となるであろう。そしてイスラエルは勝利を得るであろう。
24:19 権を執る者がヤコブから出、/生き残った者を町から断ち滅ぼすであろう」。
・・・
24:25 こうしてバラムは立ち上がって、自分のところへ帰っていった。バラクもまた立ち去った。
このまま読むなら、バラムはバラクと喧嘩別れしたかのように見える。
バラムは御心の通りに、そして、主から戒められていた通りに、イスラエルを呪わず、祝福した。
この時点、バラムには何ら問題は見いだせず、むしろ、立派に役割を果たしたように見える。
では、彼はなぜ新約では「気違い預言者」として記されたのか。
それは、イスラエルの陣営の素晴らしさを見、神の霊に促されて、イスラエルの神の力強さ、麗しさを語り、主の偉大な御力を経験しておきながら、それでもなお不義な報酬を愛し、堕落へと走ったからだ。
民数記25章は、イスラエルの民が異邦の女と不品行の罪を犯したために主の罰を受ける事が記されているのだが、イスラエルをつまづかせ、不品行へと導いたのが、この、バラムである。
『あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。』(黙示録2:14)
バラムは、バラクから報酬を受け取らずにそのまま去ったのではなかった。
イスラエルが主と良好な関係を結んでいる限りは、呪えないから、その代替として、イスラエルを不品行へと導き、神の怒りを引き起こさせて、イスラエルに災いをもたらすように仕向けて、そうして、バラクから報酬を受け取ったのだ。
バラムは神に言い訳しただろうか。
「私は確かに、あなたの言いつけどおり、イスラエルは呪いませんでした。でも、イスラエルを堕落させてはならないとは、お言いつけにはなりませんでしたよね?」と。
主には、そのような詭弁は、通用しない。
彼はそのすぐ後、ミデヤン人の間にいる所を、剣で殺された。(民数記31:6-9)
モーセが生きている間に、であるから、彼が得た不正な報酬を楽しんだ期間は、一年も無かったようである。
これが、ひと度主の素晴らしさを味わっておきながら、なお不義の報酬を愛し、堕落してしまった者の末路である。
バラムのように、多くの人々に偽りをそそのかす偽預言者には、剣が待ち受けている。
バラムについて黙示録に記されている箇所は、ペルガモの教会に対しての言葉であったが、ペルガモの教会に対して現れた主は、「鋭いもろ刃のつるぎを持っているかた」だった。
不義の報酬を愛するゆえに、無垢な信徒を異端に導き、滅びへと導く者を待ち受けているものは、剣である。
私達はバラクのように、不義の報酬を愛する者ではなく、純粋に主を愛し、神の民に汚れを導入するような者を取り除くピネハスのような者(民数記25章)でありたい。