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主は祈りと施しを覚えておられ、その人に使いを遣わしてくださる(使徒10:17-23)
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- pastor 2017-11-30 14:00
実体の無い空虚な「偶像(エリィル)」に警戒せよ(エペソ6:10-18)
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6:10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
6:11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
6:13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
パウロは霊的に武装するように命じている。
もしキリスト者が、もはや悪霊から何も攻撃を受けない、とするなら、パウロはわざわざこんな命令はしなかったはずだ。
実際、教会にかよっているクリスチャンであっても、悪霊から影響される事もあるから、だから目をさまして、武装する必要があるのだ。
悪霊はキリスト者に触れる事が出来ない、と言う人の根拠として、次の御言葉がある。
1ヨハネ5:18 すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。
神から生まれた(受動態なので「生まれさせられた」)、という点が、大事である。
逆に言うなら、神を抜きに御言葉を抜きに人間力だけで生きている人には、悪しき者からは触られ放題という事だ。
ヨハネは次のように続けているからだ。
5:19 また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。
ヨハネは認めている。全世界は悪しき者の支配下にある事を。
そしてキリスト者は、体はその悪しき世界の中で生きているものの、その中にあっても守られる根拠を次のように続けている。
5:20 さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。
キリスト者は、体は、悪しき世界の中で生きているものの、真理なるお方キリストにあって真理の中に生きており、永遠の命が与えられ、彼によって守られているのだ。
そして最後、ヨハネは警告している。
5:21 子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。(原意:自分自身を偶像から守りなさい。アーメン。)
なぜヨハネは最後に偶像から守りなさいと警告しているか。それがとても大事だからである。
「偶像」はヘブライ語では色々な言い方があるが、その内の一つに「エリィル」がある。
エリィルは「偶像」の他に、「空しいもの」「意味の無いもの」、特に占い師が作った実体的な意味の無い空しいものを現す。
無益・無駄なイメージ、英語のアイドルであり、現代の映像やゲーム、ファンタジーは、視覚・聴覚などあらゆる感覚に訴えて夢中にさせ、それに時間、お金、エネルギーを集中させ、尊い人生の時間を奪っていく。まさにエリィルではなかろうか。
レビ26:1 あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。
26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。
レビ記26章も申命記28章同様、祝福と呪いの箇所だが、ここの特徴は、最初に「あなたがたは自分のために、偶像(エリィル:無駄・無益)を造ってはならない」「わたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない」 という命令で始まる。
祝福と呪いの大元は、主の御言葉と共に歩み、それを守り行うかどうか(3,14節)、そして、その根本となる事が、「自分のために偶像(エリィル)を造ってはならない」である。
そうした魅力的なもの、夢中になる類のもので「自分のために造る」なら、神との関係がおろそかになり、続く2節の安息日や聖所での礼拝を敬わなくなって行く。
だからエリィルという実態のない空虚なもの、生産性の無い、そして夢中になるものに対し、ヨハネが警告し、パウロが警告し、そしてレビでも警戒しているわけだ。
私達は真実な事、有意義な、生産性のある事にこそ目を留めるべきであり、その最たるものは、御言葉である。
2テモテ4:1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
4:2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
4:5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。
まさに今、健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれている時代である。
ゲームも映像もより洗練され、依存性を増しており、多くの若者たちから貴重な若い時と才能を奪っている。サタンの思う壺である。
だから今の時代、実態ある御言葉教育こそ緊急に必要だ。
悪霊が追い出されたとしても、もしその人が空虚なものへ明け渡したままでいては、悪霊に入りたい放題入られてしまう。
マタイ12:43 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。
12:44 そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。
12:45 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。
主はこの、汚れた霊に入りたい放題入られ住み憑かれてしまう話を話されたのは、元々、しるしを要求する者達への警告としてだった。
12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。
12:39 すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。
12:40 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。
私達も、ヨナのしるし、すなわち、主の死と、三日目の復活と、そして異邦人の救いという「ヨナのしるし」のみを追求するべきであり、メディアやゲームなど、夢中にさせ、実態のないものには警戒すべきだ。
そして若者たちには、真に実りある御言葉教育を施して、彼らに祝福された人生という未来を提供してあげるべきだ。
種を蒔くべきシーズンと場所(マタイ13:1-23)
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13:3 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
13:4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
13:5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
13:6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13:9 耳のある者は聞くがよい」。
主はたとえ話の最後に、耳のある者は聞け、と言われた。
信仰は、御言葉を聞く事から始まるが、しかし、聞いたからと言って、実を結ぶとは限らない。
聞いても、分からない・悟る事ができないとするなら、弟子達のように、イエス様の所に言って、追求するべきである。
13:10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
つまり、御言葉を聞くだけの所にとどまる人は多くても、それを追求し、悟るに至るまでは、少ないのである。
13:18 そこで、種まきの譬を聞きなさい。
13:19 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
13:20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
13:21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
13:22 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
13:23 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。
4タイプの土地、すなわち、人、がいる。
彼らに共通している事は、みんな、御言葉を「聞いた」事だった。(19,20,22,23節)
しかし、実を結ばせられたのは、唯一「御言を聞いて悟る人」だけだった。
悟る(スニーエミー)とは、一緒に結合するという意味もある。
だから私達は、御言葉を聞いたなら、その御言葉を結合し、自分自身と一体化させ、御言葉の通りを行う必要がある。
そういう人が、多くの実を結ぶ人である。
パウロは福音伝道という「種まき」の名人だった。
彼には、聞いたなら、すぐに行うたしなみがあった。
使徒16:6 それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。
16:7 そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。
16:8 それで、ムシヤを通過して、トロアスに下って行った。
自分が良い事だ、と思っていても、しかしそれが御霊によって禁じられる事がある。
たとえ、御言葉の種まきという尊い働きであったとしても。
その時、私達が為すべき事は、自分の慣れ親しんだ方法や自分の固定概念を捨てて、御霊の声に従う事である。
16:9 ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。
パウロは、聖霊の導く所へすぐに行った。
主の御胸は、この時、アジヤではなく、マケドニアだったのだ。
その時、パウロ自身も、またマケドニアの人達も、将来起こる事、すなわち、マケドニアをはじめ、ヨーロッパが福音化して行く、という事を知らなかった。
しかし、全ての人の心を知っておられる父なる神の御思いは、多くのマケドニアの人達の、救われたいと願う嘆願を、パウロに、ひとりのマケドニア人として、あらわしてくださった。
それでパウロはすぐに行動した。御言葉の種を、マケドニアに蒔いた。その結果、多くの人達が御言葉を聞いて、悟り、救いへと導かれた。
私達は、自分の思い込みで頑なに留まったりしてはならない。
心地よい所、なれた所に留まりたい、見ず知らずの所に行きたくない、という思いを捨てて、主が御霊を通して導かれる所へと行かなくてはならない。
それでこそ、多くの人達の命を救うのだ。
神の国は人が地に種を蒔くようなもので(マルコ4:26-29)
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イエス様はよく「神の国のたとえ話」をされた。
マルコ4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
Mar 4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
Mar 4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。
Mar 4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
神の国とはバシレイア・トゥー・テウー、神の支配領域である。
種は、人はどのようにして育つのかは知らないが、しかし特定の条件下になれば、ひとりでに芽が出て育って行くものである。
神の国もまた、人手によるのでなく、以下の御言葉のように、神の支配によって物事が為されていくものである。
申命記 11:10 あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。
11:11 しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。
11:12 その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。
マルコ4:26の「種」はスポロス、すなわち「蒔かれた状態の種」であるが、その他にも、人を援助できる資力という意味もある。
人を助けたり御霊の実を結ばせたり、神の国を成長させるためには、「蒔かれた種」である事が大切である。
太陽と雨の恵みを受けていれば何の苦労も無く自然すぎるほど自然に実を結ぶものである。
神から産まれた人は、神の種が宿っているから罪を犯さない。(1ヨハネ3:9.10)
罪も犯したとしても、神の種が宿っているなら、罪を犯し続けるということはできないのは、神の種が宿ってから、罪を犯し続けると苦しくなるのである。
それに対し、悪魔の子達は罪を犯し続けても何とも無く、正しい生活を続けられない。たとえ神を信じると言っていても、兄弟を訴え続けたり、分裂を促したりしているようでは、神の種が宿っているとは言えない。
蒔かれた状態となるのは、種自身の死を意味する。
それは人の目には絶望のように見えても、その死からいのちの何倍もの実りがはじまる。
使徒8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
ここの「散らされた」はディアスパイロー、すなわち「あちこちに」「種が蒔かれる」事である。
神が、キリスト者を各地に蒔かれたのである。その結果、御言葉の種が広がり、キリストのいのちが爆発的に広がっていった。
神が蒔かれたなら、光なるキリストに照らされてひとりでに育ち、以下の御霊の実を豊かに結ぶ。
ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
5:23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
イエス様は主の祈りにおいて、神の統治が為されるようにと祈るように教えられた。
マタイ6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
結局、神の統治は人にとって最善・幸いなのだ。
申命記11:8 ゆえに、わたしが、きょう、あなたがたに命じる戒めを、ことごとく守らなければならない。そうすればあなたがたは強くなり、渡って行って取ろうとする地にはいって、それを取ることができ、
11:9 かつ、主が先祖たちに誓って彼らとその子孫とに与えようと言われた地、乳と蜜の流れる国において、長く生きることができるであろう。
11:10 あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。
11:11 しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。
11:12 その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。