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主を認めず、主に感謝せず、その栄光を称えない者に下される神の怒り(ローマ1:17-23)
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- pastor 2017-7-3 7:14
主を認めず、主に感謝せず、その栄光を称えない者に下される神の怒り(ローマ1:17-23)
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信仰(Behid)とは、「連合し」「バンドする」事が元来の意味である。そうであるからには、信仰には連合する相手、結合する相手が必要となる。すなわちクリスチャンとは、イエス様と連合し結合する者達である。
1:17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる(エック・ピステオス・エイス・ピスティン)。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
「信仰に始まり信仰に至らせ」。ここをギリシア語からより正確に訳すと、信仰は”所有する事”(エック・ピステオス)によって始まり、信仰(の目指す目的地)へと行き続ける(エイス・ピスティン)事である。
そういうわけで義人とは、イエス様に自らを結びつけ、その信仰を所有し続けながら、生きる者であり、人が信仰を所有した時すなわちイエス様を信じた時、イエス様に自ら結び付ける信仰を「所有」した時点は、ゴールではなく、スタート地点に立ったのだ。
この時点から、信仰を所有して歩む長い歩みが、エイス・ピスティンを目指して、始まるのだ。
1:18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。
信仰を所有し、信仰の目的地へと行き続ける歩みについて宣言した直後に、パウロが宣言した事は、神の怒りについてである。
信仰を所有せず、信仰の歩みをし続けない者は、すなわち、自動的に「不義をもって真理をはばもうとする人間」になってしまっている。
神の怒りは、さばきの前段階であり、神の怒りが降された人には、その人にとって望ましくない、苦しい事が起きる。
それが降された時、悔い改めて神に栄光を帰するなら、その人は救われてさばきを免れるが、なお心頑なにして神をあがめないなら、さばきが確定してしまう。
1:19 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。
1:20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。
彼らは、見ているのである。神の栄光を。
宇宙の秩序正しさ、自然界の美しさ、人体の不思議、ミクロの世界の巧妙さを通して。
もし人がそれを見ても、神を知らず、感謝せず、あがめもしないなら、それによって、神を無視し不遜な態度をとっている事になるのだ。
1:21 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。
1:22 彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、
1:23 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。
神の怒り・神の裁きが近い人の特徴とは、神を神としてあがめない者、感謝しない者、かえって心かたくなにし、自分を知者だと自分で思い、神の栄光を別の被造物に取り替えてしまう者である。
「神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず」
感謝と知るには密接な関係がある。
ヘブライ語の「感謝」はトダー、「知る」はヤダーであり、トダーはヤダーが元になっている。
だから、神を知ってこそ、感謝する事が出来るのだ。
神に感謝し褒め称える事、これこそ人の本分である。
御言葉が語られているのに、主の栄光が表れているのに、それを目の前にしておきながら、なお神をあがめない・感謝しない人には、神の怒りが近い。
神は必ず隠れた事柄をあばき、会衆全体に災いをもたらすものを明らかにする。
ヨシュア7:19 その時ヨシュアはアカンに言った、「わが子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、また主をさんびし、あなたのしたことを今わたしに告げなさい。わたしに隠してはならない」。
アカンは神のすばらしい栄光と御業を見ながら、心を神に結びつけず、信じず、むしろ世の富のほうに心を結びつけた結果、イスラエル全体に災いをもたらしてしまった。
アカンはなぜ、そのような事をしてしまったのか。それは、ヨシュアが指摘しているように、主に栄光を帰す事をせず、また主をさんび(トダー)する事をせず、世の富に心を結びつけていたからだ。
彼は神に感謝(トダー)もせず、神を知り(ヤダー)もせずにいたから、神の怒り、神の裁きが追いついてしまったのだ。次のように記されている通りである。
ローマ1:21 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。
イスカリオテのユダも、同様である。彼はイエス様の御業を3年半もの間、間近で見ながら、イエス様に心を結びつけず、世の宝に、金銀に心を結びつけ、そこをサタンにつけこまれてしまった。
人が見ると、ユダはイエス様の弟子達と同じ行動をするので、誰にも違いは分からなかった。しかしユダは3年半もイエス様や弟子達と、寝食を共にしておりながら、心でイエス様と連合しない事を続けたのだ。
それで弟子達は、3年半一緒だった彼について「自分の行くべきところへ行った」と言った。(使徒1:25)
結局、人は自分の連合先、すなわち、自分の心が結び付けられた「自分の行くべきところ」へと行くのだ。
主を知り、主に感謝し、主を褒め称えるべきである。それが、人間の本分であり、それをしないなら、主の裁きが近いからである。
黙示録14:6 わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、
14:7 大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。
天国では、永遠に神を褒め称える賛美が、天国に入った神を敬う人々の口から流れ続ける。
黙示録15:3 彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って言った、「全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。
15:4 主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります」。
御言葉を声に出し、論じ合いなさい(申命記6:4-9)
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申命記6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
ユダヤ人達はこの言葉を何よりも大切にする。
正統派ユダヤ人達は、子供が母の胎にいる時から、母は胎の子にトーラーを語りかけ、生まれた時、彼らに真っ先にこのシェマーの一文を教えこむ。
彼らは一日のはじめにこの言葉を宣言してから一日を始める。それ程、大切な言葉である。
この一文のヘブライ語は、次のものである。
שׁמע ישׂראל יהוה אלהינו יהוה אחד׃
(シェマー イスラエル アドナイ エロヒーヌ アドナイ エハド)
トラー(モーセ五書の巻物)の中で、この一文のはじめと最後の文字(シェマーのアインと、エハドのダレッド)が、大きな文字で記される。
それはすなわち、この一文は大声を出して宣言しなさい、という事である。
声に出す、という事が大事である。
声に出すとは、自分の心に閉じ込められていて外には現れていない「言葉」を、声帯を振わせ、周囲の空気を振動させる事のよって、具現化し、それによって、自分自身が神の御言葉を信じている事と、神が確かに生きておられるという事を、内外に示し、それによって霊的世界をも震わせる、という事である。
すなわち、御言葉を声に出す事によって、御言葉の内容を自分に言い聞かせ、自分の脳に刻みつけ、心に刻みつけ、そして霊的世界を造り変え、それによって現実世界を動かして行くのである。
霊の世界は、私達の信仰を混ぜた真理の言葉によって動かされ、現実世界は、霊的世界によって動かされるからである。
2コリント4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
申命記6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、
6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。
言葉を心に留める、とは、刻みつける事である。
ノミで彫刻を型取り出すように。
そして、口論しなさい、論じなさい、と言われている。
論理的に動かないように、論理的に武装しなさいという事である。
時代は闇の言葉があちこちに存在し、それに浸しこまれた人達は、御言葉が理解できない、あるいは闇を好き好む人は、光に属するいのちの言葉を忌み嫌う。
だから、御言葉によって武装されていなかったら、暗闇に敵対する術なく、倒れてしまう。
そのために、御言葉を口ずさみ、互いに御言葉を論じ合い、決して動かされないようにしなくてはならない。
それで、言われている。
6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、
6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。
御前に出る時に用意すべきものと、脱ぎすてるべきもの(伝道者の書5:1-7)
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5:1 神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。
5:2a 神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。
ここは、KJVを直訳するなら、次のようになる。
「愚かないけにえをささげるよりも、聞く準備をせよ。悪とされないために。」
私達は主の御前に出る時、聞く耳の準備をし、そしてそれを聞いたなら守り行うという意志を持って、のぞむべきだ。
聞く準備なしに、礼拝出席するとするなら、それは愚かないけにえであり、聞く準備なしに出席するよりは、むしろ、出席しないほうがいい。
なぜなら、その聞く耳なしの存在は、御前に汚物のような存在となり、主を不愉快にさせ、他の礼拝者を不愉快にさせるからだ。
主の御前に進み出る時に、脱ぎ捨てるべきものがある。
出エジプト記3:4 主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。
3:5 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。
主は、主の御前だと知らずに来たモーセに、ここに近づいてはならない、くつを脱げ、と命じた。
私達も、主の御前に進み出る時、脱ぎ捨てるべき二つのくつがある。
伝道者の書5:2b それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。
5:3 夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。
脱ぎ捨てるべき二つの靴の一つ目は、私達の口から出てくる言葉であり、ふたつ目は「夢」、それも、仕事の多い事によって来る夢である。
人はみずから、あれをしよう、これをしようとして色々な夢を見るが、礼拝に進み出る時にはそれを置くべきである。
夢が、主の御前に進み出る事をさまたげるものなら、その仕事や夢のほうを捨てるべきなのだ。
5:4 あなたは神に誓いをなすとき、それを果すことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ。
5:5 あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。
5:6 あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。また使者の前にそれは誤りであったと言ってはならない。どうして、神があなたの言葉を怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてよかろうか。
口、それは災いをもたらすものである。
ツゥムというヘブライ語は、断食を意味するが、元々の意味は、覆うこと、すなわち、口を覆う事であり、それがすなわち食べない事、断食、となった。
食べない断食をするよりも、むしろ、口からむなしい言葉を発しないという断食をこそすべきであると、イザヤ58章に記されている。
サウルは聞く耳持たずして、愚かないけにえをささげた。
1サムエル15:7 サウルはアマレクびとを撃って、ハビラからエジプトの東にあるシュルにまで及んだ。
15:8 そしてアマレクびとの王アガグをいけどり、つるぎをもってその民をことごとく滅ぼした。
15:9 しかしサウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した。
彼は、主からの「滅ぼし尽くせ」という言葉に従わず、一部を滅ぼし、一部を惜しんで滅ぼさなかった。
それはすなわち、主の命令を破った、という事である。
15:13 サムエルがサウルのもとへ来ると、サウルは彼に言った、「どうぞ、主があなたを祝福されますように。わたしは主の言葉を実行しました」。
彼は祝福の元である主の命令を自ら破ったのに主の祝福をいい、実行していないのに、実行しましたと言った。
まさに軽々しくおろかな唇である。
サムエルからなおも指摘されても、彼は言う。
15:20 サウルはサムエルに言った、「わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました。
15:21 しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました」。
主の言葉がそこにあるのに、その周りにたくさんの身勝手な言葉で装飾し、夢を見ると、それは愚かな言葉となる。
伝道者の書5:7 夢が多ければ空なる言葉も多い。しかし、あなたは神を恐れよ。
私達は主の御前に進み出る時、聞くべき耳を用意し、そして脱ぐべき靴である虚しい言葉をぬいで、また、虚しい夢をぬいで、主に喜ばれる礼拝者となるべきである。
結婚後に堕落したシンデレラ、それでもなおあきらめなかった花婿(エゼキエル16章)
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- 執筆 :
- pastor 2017-6-12 21:40