メッセージ - 定期祈祷会メッセージカテゴリのエントリ
十字架を前に明かされていく人の心(ヨハネ11:1-11)
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受難週が始まった。イエス様の受難を前に、人々の三者三様の現れ方がある。
12:1 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
ラザロはひと度、死んだが、イエス様によみがえらせてもらった。
しかも、死んでから4日後、もう遺体となって臭いを発してしまった時に。その時、大勢の人達がいた。
ラザロは生き返らせてもらった場面のみならず、ラザロが死んだ場面に居合わせた人や、葬儀に出席した人も含めるなら、ラザロがイエス様に生き返らせてもらった事を証言した人は大勢いただろう。
12:9 大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
大勢の人が、イエス様を見に来た。それは物見的な目的できた人もおれば、イエス様がまことのメシヤであると信じて来た人もいただろう。
主の為された素晴らしい奇跡を見て信じる人もいれば、見ても経験してもなお心頑なにして信じず、それどころか、殺そう、と考える人もまたいる。
12:10 そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。
12:11 それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。
祭司長達は、イエス様のみならず、なんと、せっかく命を主からいただいたラザロをも殺そうと相談した。
その理由は、彼のために多くの人が自分たちの所から離れて行ってしまったからだ。
いのちを息吹くのも、取り去るのも、支配しておられるのは神である、という事を、祭司なら知っているはずだ。
それなのに、それを認めないどころか、せっかく息吹いて下さったいのちを、再び取り去ろうとする。
道理としては全く合っていない事だが、しかし自分の事で頭がいっぱいな人は、そのような霊的・社会的道理が分からないものである。
このように、イエス様を十字架につけて殺したい、その恩恵を受けた人さえも殺したい、と願い者も出てくる。
殺すことは、サタンの熱情であり、生かすことは、イエス様の熱情である。
12:2 イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
12:3 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
マリヤは、自分の持っている最高のものを、イエス様に捧げたいと願う心があった。
とても高価なナルドの香油である。イスカリオテのユダはそれを300デナリ、300日分の労働賃金相当と値積もりした。
それほどの高価な香油を、惜しみなくイエス様の足に注ぎ、それを髪でぬぐった。
髪は、女の冠である。まさに全てを注ぎ、冠を捧げる礼拝である。
しかしそれをけちつける者がいた。
12:4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
12:5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
ユダは、言葉とは裏腹の心をもっていた。彼はマリヤが捧げた香油を、捧げものとして見ず、一部を自分の懐に入るべき300デナリのお金、として見ていた。
全ての人の心を見透かしておられるイエス様は、この場面をどう対応したか。
12:7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
12:8 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
イエス様は、マリヤが「わたしの葬りの日のために、それをとっておいた」という事を、知っておられた。
つまりイエス様は、マリヤの心も、ユダの心も、私達の心も全部、ご存知である、という事である。
奉仕や礼拝する心の動機も、感情の動きも、また、そのためにどれほどの期間準備し、どれほどの志を持っていたのかも。
イエス様はマリヤがずっと前から、イエス様の葬りのために、ナルドを買い、とっておき、そしてこの葬りが間近なタイミングをも計って、この時に香油の壺を割ってイエス様に捧げ尽くした、という、その全ての「冠を捧げる礼拝」を、見ておられたのだ。
もしこの時、イエス様がユダのあさましい志を怒り、指摘してしまっていたら、その香り高い礼拝が台無しになってしまっていただろう。
イエス様は、マリヤが何日も前から尊い心を持って備えた礼拝を、そのように汚す事なく、そして、ユダの志を公に明かす事なく、ただ、マリヤがどんなに準備し、どんな志をもって備えたのか、それを公にし、それを、永遠の記念とした。
なんと美しい対応だろうか。
イエス様はユダに対しても、あの裏切りのくちづけをした時まで、ユダに「友よ」と呼びかけ、滅びに走ってほしくない、立ち返って救いを得なさい、という愛の姿勢を貫かれた。
イエス様は、ユダのあさましい志を一切おおっぴらにはしなかった。その代わり、マリヤの隠れた高貴な礼拝の志を明らかにされた。
なんと、私達のような人間と違う、高貴な性質だろう。
人は、人のあさましい志にフォーカスし、スキャンダラスに報じたいと願い、また、そのような事を見聞きしたと願う心があるからこそ、全ての国にそのようなニュースを売るビジネスが成り立っているのだ。
十字架を前に、イエス様はますます高貴なお方である事が明かされ、そして人の愚かさが、また、礼拝者の志が明らかにされていく。
きよい器をこそ用いて下さる主(ダニエル6章)
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6:3 ダニエルは彼のうちにあるすぐれた霊のゆえに、他のすべての総監および総督たちにまさっていたので、王は彼を立てて全国を治めさせようとした。
6:4 そこで総監および総督らは、国事についてダニエルを訴えるべき口実を得ようとしたが、訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった。それは彼が忠信な人であって、その身になんのあやまちも、とがも見いだされなかったからである。
ダニエルは3つの帝国で総理大臣を務め上げた。それはただ単に運が良かったという事ではなく、彼自身が自らを清く保ったからである。
どれ程清く保ったか。それは、彼を訴えようとする者たちが、彼についてあら捜ししても、訴えるべき口実も怠慢の一切、見出だせなかった程である。
神は、きよい器をこそ用いられる。人でさえ、汚物がついた皿やコップは用いない。
たとえ、黄金で造られていようとも、それに汚物がついているなら、たとえ土の器であっても清い器をこそ用いる。
同様に神も、私達という器を清く保ち続ける者をこそ用いられる。
清くするとは、以下の事である。
レビ記19:2 「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。
これはイエス様も言われた事である。
もちろん私達が自分の力で自らを聖にする事は出来ないが、自らを清くする努力をし、ダニエルのように聖霊を送って下さり、聖別して下さる。
具体的な行動としては、以下である。
レビ記19:3 あなたがたは、おのおのその母とその父とをおそれなければならない。またわたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
19:4 むなしい神々に心を寄せてはならない。また自分のために神々を鋳て造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。
ダニエルは汚れた食物を取らず、しかし従うべき権威に従い、そして主を礼拝する事を固く守っていた。
だから、「ダニエルは彼のうちにあるすぐれた霊のゆえに、他のすべての総監および総督たちにまさっていた」(6:3)のだ。
6:5 そこでその人々は言った、「われわれはダニエルの神の律法に関して、彼を訴える口実を得るのでなければ、ついに彼を訴えることはできまい」と。
6:6 こうして総監と総督らは、王のもとに集まってきて、王に言った、「ダリヨス王よ、どうかとこしえに生きながらえられますように。
6:7 国の総監、長官および総督、参議および知事らは、相はかって、王が一つのおきてを立て、一つの禁令を定められるよう求めることになりました。王よ、それはこうです。すなわち今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人にこれをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れるというのです。
6:8 それで王よ、その禁令を定め、その文書に署名して、メデアとペルシャの変ることのない法律のごとく、これを変えることのできないようにしてください」。
6:9 そこでダリヨス王は、その禁令の文書に署名した。
ダニエル一人を陥れるために、「国の総監、長官および総督、参議および知事らは、相はかって、王が一つのおきてを立て、一つの禁令を定められるよう求め」たのだ。
その総勢は、125名と言われている。
そしてダリヨス王は、それに署名してしまった。メディア・ペルシャの法は、ひと度定められたら取り消す事は出来ない。
6:10 ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。
ダニエルはそれが定められた事を「知った(ヤダー)」。
すなわち、その内容がいかなるものか、破ったらどうなるか、メディアペルシャの法がいかなる者か、全て「知った」上で、それでも主に礼拝を捧げたのだ。
彼は総理大臣という公務についていたが、実は、そのさらに上の公務、すなわち、イスラエルのために祈るという天の公務を忠実に優先したのだ。
課長と社長が互いに相反する事を命じてくるなら、当然、社長の命令を優先すべきであるように、私達も、世の法と天の法が互いに相反するなら、天の法のほうを優先させるべきなのだ。
私達も、この国のため、時代のために祈るという「天の公務」を忠実に果たすべきである。
6:11 そこでその人々は集まってきて、ダニエルがその神の前に祈り、かつ求めていることを見たので、
6:12 彼らは王の前にきて、王の禁令について奏上して言った
ダニエルはこそこそと祈る事はせず、堂々と、窓を明けて、声に出して祈ったのだ。
訴える者達は、これ幸いとばかりに王様に訴え、そしてダニエルをライオンの穴に投げ込む事に成功した。
6:18 こうして王はその宮殿に帰ったが、その夜は食をとらず、また、そばめたちを召し寄せず、全く眠ることもしなかった。
6:19 こうして王は朝まだき起きて、ししの穴へ急いで行ったが、
6:20 ダニエルのいる穴に近づいたとき、悲しげな声をあげて呼ばわり、ダニエルに言った、「生ける神のしもべダニエルよ、あなたが常に仕えている神はあなたを救って、ししの害を免れさせることができたか」。
6:21 ダニエルは王に言った、「王よ、どうか、とこしえに生きながらえられますように。
6:22 わたしの神はその使をおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした。これはわたしに罪のないことが、神の前に認められたからです。王よ、わたしはあなたの前にも、何も悪い事をしなかったのです」。
6:23 そこで王は大いに喜び、ダニエルを穴の中から出せと命じたので、ダニエルは穴の中から出されたが、その身になんの害をも受けていなかった。これは彼が自分の神を頼みとしていたからである。
ダニエルは、守られた。多くのライオン達がダニエルを食い尽くそうとしても、御使いがライオンの口をふさいでいたからだ。
きよい器であるなら、神が守りをも保証して下さるのだ。
王は、ダニエルが神に信頼し歩んでいる様を見て、非常に喜んだ。そして、主を恐れた。
私達も、きよい、尊い器として用いられていくなら、あらゆる良い事に用いられ、間に合う者とされるのだ。
6:24 王はまた命令を下して、ダニエルをあしざまに訴えた人々を引いてこさせ、彼らをその妻子と共に、ししの穴に投げ入れさせた。彼らが穴の底に達しないうちに、ししは彼らにとびかかって、その骨までもかみ砕いた。
6:25 そこでダリヨス王は全世界に住む諸民、諸族、諸国語の者に詔を書きおくって言った、「どうか、あなたがたに平安が増すように。
6:26 わたしは命令を出す。わが国のすべての州の人は、皆ダニエルの神を、おののき恐れなければならない。彼は生ける神であって、とこしえに変ることなく、その国は滅びず、その主権は終りまで続く。
6:27 彼は救を施し、助けをなし、天においても、地においても、しるしと奇跡とをおこない、ダニエルを救って、ししの力をのがれさせたかたである」。
ダニエルは、たった一人で、国の法令を変えてしまった。
ダニエルが社会や法令を変える努力をしたのではない。彼はただ、聖である事、きよい事を保っただけである。
礼拝を第一とし、権威に忠実であり、自らを汚れへと持って行かなかっただけで、神は御心を成し遂げられるのだ。
6:28 こうして、このダニエルはダリヨスの世と、ペルシャ人クロスの世において栄えた。
このように、きよい器であるなら、主が栄えさせ、敵を蹴散らしてくださる。
私達は何かと、栄えるように、守られるように、敵が蹴散らされるように、用いられるように、権威やお金が与えられるようにと求めがちだが、まず私達自身、きよくなる事を努力しなくてはならない。
自らをきよく保つなら、それらは神が保証して下さる。
足の下で踏んだ土地を自分のものとするための必要条件(創世記13:11-18)
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創世記13:11 そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。
13:13 ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。
13:14 ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。
13:15 すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。
13:16 わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。
13:17 あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」。
13:18 アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた。
主がアブラハムに、具体的に、この地を約束の地として与える、と約束して下さった箇所である。
そこを実際にアブラハムが目で見、そこを縦横無尽に歩きまわり、足の裏で踏んで、自分と自分の先祖のものにしたのは、最後の血縁である甥のロトと別れた後であった。
ロトはアブラハムと違い、自分の目で見、自分で評価し、自分の行きたい所に行く者だった。
ロトはソドムという主の目にはなはだ悪い者達が住んでいる場所を、「主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。」と評価した。
肉の欲に目がくらむと、ソドムさえも主の園と同価に見てしまうのが、肉に従って歩む人間である。
そのロトとの決別がきっかけで、アブラハムは「足の下で踏みゆく所はことごとく与える」という幸いにあずかる事が出来た。
主はまず、御言葉による約束を与えて下さる。
イスラエルの民には既に500年以上前に、彼らの先祖アブラハムに与えられた神の約束がある。その地を既に与えた、と。
私たちにも既に、聖書という、2000年前に与えられた約束の御言葉がある。
神様の約束が与えられたなら、それに対する私たち人間が為すべき評価はただ一つ、「アーメン」、すなわち、そのとおりになります、そのとおりに実行します、それが唯一の正しい神様の御言葉に対する応答である。
私たちも、以前の考え方、肉に従って評価するくせとは決別しなければ、「足の下で踏みゆく所はことごとく与える」という幸いにあずかる事はできない。
アブラハムの子孫のイスラエルの民は、エジプトを出たのち、すぐにこのアブラハムに約束された地に入れるはずだった。
しかし、ロトのような目で見て判断する者達ゆえに、40年、荒野で放浪する事になってしまった。
そのきっかけをつくったのは、ヨシュアとカレブと共に約束の地を探って来た斥候たちであった。
その斥候たちは、実際にかの地を偵察し、その地を見、足の裏で踏み、その地のものを食べ体験して来た。
民数記13:27 彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。
13:28 しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。
13:29 またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」。
以上の3節には、人の評価や感情は一切入っていない。客観的な状況報告である。
その客観的事実に対し、人はどう「評価」するか。それによって、生死の明暗が別れる。
13:30 そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。
カレブは、確かに他の斥候達と一緒に、あの巨大な、力強く戦いに長けたアナク人達を見てきた。その者達が守っている城壁の町々も見てきた。
しかし、カレブの評価は「必ず勝てる」であった。
彼は神がエジプトに対して為された10の災いと、そして紅海の水を割り、イスラエルの民は渡らせ、エジプトの軍隊は水に飲み込ませた様も見た。
その神様と、あのアナク人達を見比べて、必ず勝てる、と評価したのである。
13:31 しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。
13:32 そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。
13:33 わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」。
彼らは、主が約束して下さった地を、悪くいいふらした。
そこは良い地であったのに、なぜ悪く言いふらすのか。それは、自分の思い通りに人々を操りたいためであろうが、主の約束を、主の与えてくださるものを、悪くいいふらすのは、何と災いを招く事だろう。
彼らの評価はカレブとは真逆、「攻め上ることはできない」であった。
彼らは自分と相手を比較し、そこに主は存在せず、彼らをエジプトから導き出し、荒野で食べさせて下さった主を、度外視していたのだ。
主を無視する。それはなんと主に対して失礼な、神の民として、いかに災いな性質だろう。
しかし自分と相手だけを見、そこに私たちの主、万軍の主の存在を度外視して物事を評価し、恐れ、できない、と、御言葉とは真逆の方面に行く時、主を無視してしまっているのだ。
私たちはそのような性質は、切り離し、決別しなくてはならない。
アブラハムがロトと決別してから、主に約束の地を見せられ、歩かされたように、私たちもそのような性質とは決別しなくては、約束の地を手に入れる事はできないのだ。
カレブは斥候としてあの地を探ってから、実際にその地を手に入れるまで、45年、待たなくてはならなかった。
その年月の間に、かの、不信仰な世代が死に絶える期間が必要だったからだが、それでも45年、彼の信仰も体も衰える事はなく、ついに、彼はあの日、希望に胸をふくまらせて足の下で踏みしめたヘブロンの地を見事に自分のものとし、彼の子々孫々にそこを受け継がせた。
私たちもロトのような性質とは決別し、信仰をもって御言葉を握りしめ行くべきだ。
愛の大牧者であるキリストに従って(ヨハネ21:1-19)
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21:1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
21:2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
21:3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行く(フパゴー)のだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
主は弟子達に聖霊の息吹を吹きかけられ、「あなた方を遣わします」と言われたにもかかわらず、世の仕事に戻った。
「漁に行く(フパゴー)」このフパゴーは戻る、降りる、退く、の意味である。
ペテロは弟子達を主の仕事に導くのではなく、世の仕事に戻ろうと他の弟子達に率先して言って、弟子達も一緒に漁に行こう、と言ったのだ。
明らかにイエス様から叱責されても仕方ない行動である。しかし主は、叱責によってでなく、愛によって導いて下さる。
この時、弟子達は一切、魚を捕る事ができなかった。それは、主の主権である。
本来なら人を捕る漁師としてテベリヤ湖でなく世に出ていき人々に福音の網を降ろすべき、なのに、主の御旨でないところに網をいくらおろしても、主の主権により、結局何もとれないのだ。そして、何も獲れない事は、愛であられるイエス様の導きである。
21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
イエス様は「何もないだろう(原意)と聞いた。それはそうである。獲れないように主権をもって導いたのは、イエス様だから。
弟子達は、何もありません、と答える以外に無かった。
21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。
このご性質、イエス様以外の何者でもない。ようやくヨハネは、主であると分かった。
ペテロもはっとした。自分はイエス様を前に、恥ずかしい裸だ、と。
恥ずかしい自分。
イエス様の弟子達に、世の仕事へ戻らせ、世の苦労をさせ、自分の意見に従わせ、彼らを一晩中働かせ、疲れ果てさせて、そして何も取れない状態。
それにひきかえ、イエス様のちょっとした声に聞き従ったなら、自分達が一晩中かかっても獲れなかった魚が、大漁に取れた。
そしていざ、自分見るなら、裸で弟子達を指示して、裸の恥を演じてきた。とてもイエス様の前に立てる自分ではない。
それでペテロは、服をまとって湖に飛び込んでイエス様の元に泳いでいったのだ。
ペテロのここの行動で良かった事は、彼はイエス様から離れて行くのでなく、イエス様に「向かって」泳いでいった事だ。
私たちも、こういった時、イエス様に向かって、泳いでいくべきなのだ。
21:7 シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
これが、イエス様のご性質である。愛、憐れみ、赦しに富み、優雅に、美しく、柔和に、その愛で頑なな人の心を溶かして、強制力でなく群れの模範として行動して下さる。
このご性質が、後のペテロを変えていった。
ペテロは生涯の最後、主の聖徒達が閉じ込められているローマの牢獄へ自ら進み出て、その中に捕らえられている聖徒達を励ましつつ、最後は、十字架刑が言い渡されたものの、自分がイエス様と同じ十字架で死ぬのは余りにも申し訳が無い、だから、逆さ十字架にして欲しい、と願いでた、と伝えられている。
その殉教の直前に書かれたと言われているペテロの手紙で、彼は次のように手紙を書いている。
1ペテロ5:2 あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。
5:3 また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。
5:4 そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。
彼はイエス様の愛の指導を得て、群れの模範となるように、また、権力を振るうのではなく、むしろ群れの模範となるよう、長老たちに勧めている。
これは、イエス様の次の指導を得たからだ。
21:15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛する(アガパオー)か」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛する(フィレオー)ことは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛する(アガパオー)か」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛する(フィレオー)ことは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛する(フィレオー)か」。ペテロは「わたしを愛する(フィレオー)か」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
ペテロには、イエス様を愛し尽くす愛は無い、けれどもイエス様を慕っている事を、あなたはご存知です、と、イエス様に訴える以外には出来なかった。
そうである。私達も、イエス様を愛し尽くすような愛(アガペー)は無い。
ただ、イエス様をフィレオーの愛で愛する以外にはできない。不完全な愛でしか。
しかし、その不完全な愛であっても、イエス様を慕う志のある人を、主は「わたしの羊を飼いなさい」と言って下さる。
それでいいのである。
イエス様を慕い、愛し、イエス様から託された羊を養って行く内に、ペテロのように、たとえ最初は幼い霊的状態であったとしても、立派な愛の牧者へと成長して行く事ができるのである。
羊の門であり良き羊飼いであられるイエス様(ヨハネ10:1-18)
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10:1 よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。
10:2 門からはいる者は、羊の羊飼である。
10:3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。
ユダヤの羊の囲いは石垣でできており、その囲いのてっぺんには、いばらという棘のついた草が置かれて、羊が乗り越えて行かないように、そして、狼など獰猛な動物が入って来れないようにしてある。
主が与えて下さった律法は私達にとって囲いとなり、守りとなっている。(ローマ2:14)
だからある人が律法の良い行いをするなら、その良い行いがその人にとってガードとなり、祝福の元となる。しかし、律法すなわち御言葉を乗り越えて来る者は、キリストからではなく悪魔サタンに由来する者である。悪魔サタンの性質は、創世記のはじめから、御言葉を乗り越える事である。
10:4 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
10:5 ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。
10:6 イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。
羊達は、自分の主人の声を聞き分け、それについて行くものである。それは羊は普段から主人の声を聞いているからだ。
この声は主から来たものなのか、それとも悪魔から来たものなのかが、分からないという人は、普段から主の声を聞いていないからである。聖書の言葉は、まごうことなき主の御言葉である。私達は本物を見極めるために、普段から御言葉を読み、思い巡らし、それを口ずさみ、暗記して行くべきなのだ。
10:7 そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。
10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
イエス様は、門である。
1:51 また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
イエス様はご自身の上に御使いた上り下りするのを見る、と言われたが、それはイスラエル民族の先祖ヤコブが実家にいられなくなって逃げ出した時、石を枕にして見た夢と一致している。
創世記 28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
28:17 そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。 28:18 ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、
28:19 その所の名をベテルと名づけた。
イエス様は「ともにおられる主(インマヌエル)」であり、天と地をつなぐ門であり、まことの岩であり、油注がれたお方である。イエス様は、神の家の主人である。ヤコブはイエス様のご性質を見たのだ。そして、いつもともにおられる主に、かれは油を注いだのだ。
今、私達の主人は、イエス様である。彼こそ門であり、インマヌエルなるお方であり、私達の岩であり、油注がれた者(キリスト)である。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
10:13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
よい羊飼いは、羊のために「いのち(プシュケー)」を捨てる。プシュケーとは心理学サイコロジーの元となった言葉であり、「心(思い、意志、感情)」の事である。良い牧者は、羊のために自分の思い、意志、感情を捨てるものである。しかし雇い人は、自分がかわいさに羊を放置する。
牧者たる者は、そして私達一人一人は、主にあって良い牧者となる事を目指し、自分の思い、意志、感情を捨てて主から任された羊の面倒を見るべきなのだ。
10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
イエス様は私達を知っておられ、そして私達もイエス様を知っている。イエス様は、私達のために身代わりとなって命を捨てられた。そのイエス様を愛し、ついて行くのだ。この事は、2000年前の弟子たちや聖徒達にのみ語られた事ではない。その証拠にイエス様は次のように言っている。
10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
10:17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
10:18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
今、2017年を生きる私達も、紀元30年を生きる彼らも、ともに同じ囲いに属し、同じ一人の羊飼いを主としている。この主こそ私達をまことに永遠のいのちへと導く羊飼いであり、天国に唯一通じる門であり、やがて私達は天において彼らとともに永遠の憩いに入るのだ。