メッセージ - 定期祈祷会メッセージカテゴリのエントリ
早天祈祷会
キリスト者が継続して選択し続けるべき御霊による歩み(ガラテヤ5:16-18)
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聖霊は、人格ある方であり、人と交わり、人とコミュニケーションをとられる、聖なる、神の霊である。
つまり聖霊充満とは、コップのような器から溢れるような状態というより、聖霊という御方によって支配されている状況である。
『わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。』(ガラテヤ5:16-18)
パウロは命じている。御霊によって、歩みなさい、と。
つまり、御霊の歩みも、聖霊充満も、日々の意思決定の問題であり、自動的なものではない事が分かる。
では、意志をどのように用いれば良いのか。
どうしたら、御霊によって歩むのか。
それは自分を降ろし、御言葉に対しイエス様に対して「従う」という意思決定を下す事である。
聖霊を悲しませる、という事もある。
『悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。』(エペソ4:29-31)
ここを見ると、聖霊を悲しませるものは、特に、口から出る悪いことばに影響する事が大きいようである。
悪いことばを口から出さない、無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを捨て去る、という意志決定をする事もまた、聖霊様の宿られる住まいを荒らさないコツだ。
これらの事には、報いがある。
『わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を「捨てた(アペケン:捧げた、犠牲した者)」者はすべて、その「幾倍(ヘブル語原点では、ヘカトン、百倍を手に掴ませてくださる、という意味)も」を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。』(マタイ19:29)
自分の大切なものを、イエス様の故に捧げた人には、100倍(ヘカトン)の祝福が約束されている。
だから、福音とは、死んだ後にようやく天国に行けるといったような、死んでみなければ分からない朧げな希望ではない。
この地上で、100倍の報いを受ける約束を望み求めて良いものであり、そればかりでなく、永遠のいのちをも相続できるのだ。
早天祈祷会
「アドナイ・イルエ」の意味(創世記22:9-14)
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『それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。』(創世記22:14)
アブラハムが大切なひとり子・イサクを捧げた場面も、この「アドナイ・エレ」という言葉は「主の山に備えあり」という意味である事も、クリスチャンの間ではとても有名である。
この「アドナイ・イルエ」の言葉の意味を、今一度よく学びたい。
この言葉を分解すると「エホバ(主)+ラアー(見つめる)」であり、「ラアー(見る)」は、未完成形となっている。
すなわち原意は「主は(ずっと)見つめ(続けて)おられた」である。
つまりアブラハムは、エホバなる主は、自分をずっと「見つめておられた」、と告白しているのである。
彼がイサクを捧げた時に至るまで、ずっと。
人間の、主と共に歩んでいくべき歩みは、いつまで続くかは、分からない。
せっかくひと度、信仰に入っても、途中で脇道に逸れてしまって、そうして人生を終えてしまう人もいる。
アブラハムの父・テラは、カナンへに行くべき道のりの途中で、脇道に逸れ、カランという地でストップしてしまい、目標地点であるカナンに至らないまま、寿命が来てしまった。
それで彼の名は、聖書には、ほんの僅かしか残されなかった。
アブラハムも、12章で主に召しだされて以来、ずっと、脇道に逸れてしまう危険性は、あった。
彼も途中、何度か失敗もし、脇道に逸れそうになったが、その都度、主の望まれる道へと持ち直し、主と共に「継続して」歩みつづけてきた。
私達もまた、アブラハムのように、地上での歩みを全うし、体が贖われる時に至るまで、「継続して」主と共に歩み続ける必要がある。
ヤコブは言う。
『わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ(テレイオー)、こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。』(ヤコブ2:21-23)
アブラハムの信仰は、彼がイサクを捧げた時、全うされた、と書いてある。
つまり、彼がその「行い」を実行するまで、彼の信仰は、全うされていなかったという事だ。
彼がイサクを捧げたその時、創世記15章の「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が、全うしたのだ。
主を信じるなら、確かに、義と認められる。
そしてその信仰は、行いが伴った時、完全なもの(テレイオー)となるのだ。
アブラハムはイサクを捧げた時、神から「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。」と言われ、気づいたのだ。
神は実は、この時までずっと「アドナイ・エレ」しつづけておられたのだ、と。
すなわち神は、アブラハムが神を信じた時からずっと、彼を「見つめ続けて」おられ、彼が「イサクを捧げる」という行いによって、彼の信仰が「完成(テレイオー)」するのを、ずっと見つめ続けておられたのだ。
私達も、信じたなら、神は私達を見つめ続けておられる。
私達の信仰が、私達が行う事よって、全う(テレイオー)するのを、今か、今か、と。
『こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。・・・霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。』(ヤコブ2:23-26)
私達は今一度、この御言葉に立ち、信仰による行いの重要性を再確認したい。
早天祈祷会
信仰 vs 行い(ヤコブ2:19-26)
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ヤコブ書全体の核心は、2章22節にある。
『あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ』
信仰(ピスティス)は、行いと共に働く。
義とされるのは、ピスティスか、エルゴンか。ここはルター以来、500年の神学的論争があった。
救いは、信仰だけによるか、それとも、行いも必要なのか。
私達は、書いてある通り、そのままを受け取るべきである。
すなわち、信仰だけによるではなく、または、行いだけによるのでもない。
2:22にある通り、信仰は「行いと共に働く」のであり、行いによって、信仰は全う(テレイオー:完成される)のだ。
だから、本物の信仰とは、行いによって裏付けされているものであり、行いがセットとなっていないなら、完全な状態の信仰ではないのだ。
主に与えられた素晴らしい権利を軽んじ、全て剥奪されてしまったカイン(創世記4:3-7)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2016-2-27 0:32