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悔い改めて捧げる人の捧げものを喜んで受け取り、義とし、災いを遠ざけて下さる主(1歴代誌21:16-30)
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- pastor 2017-10-18 9:34
悔い改めて捧げる人の捧げものを喜んで受け取り、義とし、災いを遠ざけて下さる主(1歴代誌21:16-30)
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21:16 ダビデが目をあげて見ると、主の使が地と天の間に立って、手に抜いたつるぎをもち、エルサレムの上にさし伸べていたので、ダビデと長老たちは荒布を着て、ひれ伏した。
21:17 そしてダビデは神に言った、「民を数えよと命じたのはわたしではありませんか。罪を犯し、悪い事をしたのはわたしです。しかしこれらの羊は何をしましたか。わが神、主よ、どうぞあなたの手をわたしと、わたしの父の家にむけてください。しかし災をあなたの民に下さないでください」。
この災いは、元々イスラエル全体に問題があり、ダビデがそれに代表して罪を犯した事が引き金となって起こってしまった。(1歴代誌21:1、2サムエル記24:1)
そしてダビデは、全イスラエルを代表して執り成し、罪を犯した自分がその報いである災いを受ける事を引き換えに、全イスラエルから災いを取り除いて下さるようにと願い求める。
このように、人々を代表して自分が罪を負う性質は、モーセの性質であり(出エジプト記32:32)、パウロの性質であり(ローマ9:3)、キリストの性質である。
ヨハネ10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
主はダビデの身を挺した祈りに答えられる。
21:18 時に主の使はガデに命じ、ダビデが上って行って、エブスびとオルナンの打ち場で主のために一つの祭壇を築くように告げさせた。
21:19 そこでダビデはガデが主の名をもって告げた言葉に従って上って行った。
ダビデは祈った所、預言者を通し、エブスびとオルナンの打ち場という場所を指定された。
そこは特別な場所である。
21:20 そのときオルナンは麦を打っていたが、ふりかえってみ使を見たので、ともにいた彼の四人の子は身をかくした。
災いの爆心地であるにもかかわらず、オルナンとその子達は身に害が無かった。
オルナンは「エブス人」、元々、ヨシュアの時代に滅ぼされるべき対象の者であったが、彼はなぜこのエルサレムで生き残り、なおも土地を得ていたのか。
それは、オルナンが主に忠実であり、御前に喜ばれる性質の持ち主だったからである。(後述)
21:21 ダビデがオルナンに近づくと、オルナンは目を上げてダビデを見、打ち場から出て来て地にひれ伏してダビデを拝した。
オルナンは、災いを下す御使いを前にしても、なお自分の仕事である麦打ちを続けていた。
そして自分の主君であり王であるダビデが来た時は、すぐに出てきてひれ伏した。
彼は、仕事に忠実であり権威に忠実であった事が分かるが、そればかりではない。
21:22 ダビデはオルナンに言った、「この打ち場の所をわたしに与えなさい。わたしは災が民に下るのをとどめるため、そこに主のために一つの祭壇を築きます。あなたは、そのじゅうぶんな価をとってこれをわたしに与えなさい」。
21:23 オルナンはダビデに言った、「どうぞこれをお取りなさい。そして王わが主の良しと見られるところを行いなさい。わたしは牛を燔祭のために、打穀機をたきぎのために、麦を素祭のためにささげます。わたしは皆これをささげます」。
オルナンは、自分の持ち物を、いつでも、全部、「主に」捧げる準備が整えられていたのだ。
「わたしは牛を燔祭のために、打穀機をたきぎのために、麦を素祭のためにささげます。わたしは皆これをささげます」
燔祭も、たきぎも、素祭も、全部、王に献上するものではなく、主への捧げ物である。
彼は、家畜も財産も、仕事道具も、仕事で得た産物も、全部、主に捧げるつもりだったのだ。
しかし、それではダビデではなくオルナンが捧げた事になってしまう。
21:24 ダビデ王はオルナンに言った、「いいえ、わたしはじゅうぶんな代価を払ってこれを買います。わたしは主のためにあなたのものを取ることをしません。また、費えなしに燔祭をささげることをいたしません」。
21:25 それでダビデはその所のために金六百シケルをはかって、オルナンに払った。
捧げものは、自分からすすんで為すものである。
申命記 あなたのうちの男子は皆あなたの神、主が選ばれる場所で、年に三度、すなわち種入れぬパンの祭と、七週の祭と、仮庵の祭に、主の前に出なければならない。ただし、から手で主の前に出てはならない。
16:17 あなたの神、主が賜わる祝福にしたがい、おのおの力に応じて、ささげ物をしなければならない。
そういうわけで、自分の手足を使わない礼拝、自分の財布を痛めず自分の何かを犠牲にしない捧げものは有り得ず、老若男女問わず、富んでいる・貧しいも問わず、人は一人、主の前に立たなくてはならないのだ。
21:26 こうしてダビデは主のために、その所に一つの祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげて、主を呼んだ。主は燔祭の祭壇の上に天から火を下して答えられた。
こちらが火をつける間もなく、天から火が降って、その捧げ物を焼きつくす。
それは明確に主が祈りを聞いて下さったしるしである。
大祭司アロンがそうだったし(レビ9:24)ギデオンがそうだったし(士師記6:21)、エリヤがそうだった。(1列王記18:24)
21:27 また主がみ使に命じられたので、彼はつるぎをさやにおさめた。
こうして、義人の執り成しによって、災いが止んだ。
罪を告白し、悔い改めの犠牲を払うなら、その人は義とされるのだ。
ヤコブ5:15 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。
5:16 だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。
5:17 エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。
5:18 それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。
21:28 その時ダビデは主がエブスびとオルナンの打ち場で自分に答えられたのを見たので、その所で犠牲をささげた。
21:29 モーセが荒野で造った主の幕屋と燔祭の祭壇とは、その時ギベオンの高き所にあったからである。
21:30 しかしダビデはその前へ行って神に求めることができなかった。彼が主の使のつるぎを恐れたからである。
こうしてダビデは、その場所が特別な場所である事を知った。
その場所は、かつて先祖アブラハムがイサクを捧げた場所であり、そして後に、神殿が建つ場所である。
裁きの中でも憐れみを注ぎ、人の罪をも最善へと造り変えられる主(1歴代誌21:7-15)
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- pastor 2017-10-11 6:40
裁きの中でも憐れみを注ぎ、人の罪をも最善へと造り変えられる主(1歴代誌21:7-15)
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ダビデはヨアブの忠言をふりほどいて民の数を数えたが、調査結果が出、有限なるその数字を聞いた時、ダビデの心が彼(ダビデ)を打った(2サムエル記24:10)。
全能であり無限である主を差し置いて、有限の、目に見える自分の資力に頼りを置き、周囲と自分とを比較している人は、いつも、自分の有限な力にも頼って生きなくてはならない焦燥感に追われ続けて生きていかなくてはならない。
この生き方は、無限であられる主から、無限の安全と無限の保証を得て生きる「信仰生活」に比べれば、とてつもなく不安定な生き方である。
信仰生活は、無限なる神に信頼を置いて、無限の安心を抱きながら生活するものだが、その逆の生活は、いつも自分の資力に頼みをおきながら生活するものであり、そういう人は、たとえ何億円の資産を持っていてもいつも不安におののきながら、ひたすらなお集めるしか無い。
21:7 この事が神の目に悪かったので、神はイスラエルを撃たれた。
21:8 そこでダビデは神に言った、「わたしはこの事を行って大いに罪を犯しました。しかし今どうか、しもべの罪を除いてください。わたしは非常に愚かなことをいたしました」。
ダビデがさすがな所は、彼が良心の咎めを受けた時、彼はすぐに主の御前に出て、自分の罪を告白したからだ。
呪いにいつまでもつきまとわれるコツ、いつまでもその状態から脱出できないコツは、「自分の悪さを認めない事」である。
聖書には、「ごめんなさい」という日本語が一つもない事をご存知だろうか。
聖書の価値観では、「わたしは○○の罪を犯しました」が、ごめんなさいに相当する言葉である。
ダビデは罪を犯してそれを指摘された時、「わたしは罪を犯した」とすぐに認め、それで彼は死なずに済んだ。
21:9 主はダビデの先見者ガデに告げて言われた、
21:10 「行ってダビデに言いなさい、『主はこう仰せられる、わたしは三つの事を示す。あなたはその一つを選びなさい。わたしはそれをあなたに行おう』と」。
21:11 ガデはダビデのもとに来て言った、「主はこう仰せられます、『あなたは選びなさい。
21:12 すなわち三年のききんか、あるいは三月の間、あなたのあだの前に敗れて、敵のつるぎに追いつかれるか、あるいは三日の間、主のつるぎすなわち疫病がこの国にあって、主の使がイスラエルの全領域にわたって滅ぼすことをするか』。いま、わたしがどういう答をわたしをつかわしたものになすべきか決めなさい」。
主は今回、ダビデが犯した罪の報いとして、3つの選択を与えた。
4番目の選択は無いし、何事のペナルティもなく放免されるという事も無い。
その選択肢は、いずれも、ダビデには辛いものだった。
私達もあるかもしれない。
過去に犯してしまった罪故に、非常に少ない選択肢の中から、どれかを償いとして選択しなくてはならない事が。
しかし、その「償い」を御前で成し遂げた後に、主は、さらなる最善の道を歩ませ、幸いを返して下さる。
21:13 ダビデはガデに言った、「わたしは非常に悩んでいるが、主のあわれみは大きいゆえ、わたしを主の手に陥らせてください。しかしわたしを人の手に陥らせないでください」。
ダビデは、「ききん」とか「敵」とか「疫病」とか、具体的には答えず、主の手に陥らせて下さいと言って主に委ねた。
三つの選択の中で、唯一、疫病にのみ「主(エホバ)」の御名が付されている。
ダビデは、ききんという自然の脅威や、敵という人間の手に陥るよりは、唯一主の御名がつけられている事を選んだ。
主のあわれみは、大きいからである。
21:14 そこで主はイスラエルに疫病を下されたので、イスラエルびとのうち七万人が倒れた。
21:15 神はまたみ使をエルサレムにつかわして、これを滅ぼそうとされたが、み使がまさに滅ぼそうとしたとき、主は見られて、この災を悔い、その滅ぼすみ使に言われた、「もうじゅうぶんだ。今あなたの手をとどめよ」。そのとき主の使はエブスびとオルナンの打ち場のかたわらに立っていた。
ダビデが犯した過ちは、イスラエルの多くの人々の死をもたらした。
一体主は、ダビデ一人の犯した罪ゆえに、関係の無い罪なき人々を死なせるという事を、されるのだろうか?
よく読むと、これはダビデ一人の問題ではなく、イスラエル全体の問題だったようである。
この事件の最初は、次のように始まっている。
『時にサタンが起って”イスラエル”に敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。 』(1歴代誌21:1)
『主は再び”イスラエル”に向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。 』(2サムエル記24:1)
これら、冒頭の言葉を見ると、どうやらダビデというより”イスラエル”に問題があり、ダビデが代表して罪を犯したような感じである。
実際、3つの災いの内容は、3つとも、イスラエル全体に災いをもたらすものである。
主は果たして、罪なき人を、故なく打たれるのであろうか?その逆である。
いと高き方の隠れ場に住み、全能なる主の陰に宿る人は、たとえ戦や病が起こって、傍らに千人が、右手に万人が倒れるような状況でも、災いは近づかないと記されている。(詩篇91篇)
実際、その災いの中心地であるエブス人オルナンの打ち場にいたオルナンは、その剣が差し向けられていた最中でも、何の身に害が及ばず、平気で麦打ちしていた。
しかし、災いはダンからベエル・シェバに至るまでの中、7万人が倒れた。
主の災いは、核爆弾のように、爆心地周辺は善人悪人誰彼かまわず災いで滅ぼすものではなく、災いが及ぶべき者・そうでない者を正確に選り分け、義人が悪人の受ける報いを受ける事が無いようにされて来た。
主は信仰者とそうでない者を「ふるい」にかけ、イスラエル全体が霊的怠慢に陥っている所に、揺さぶりをかけたのだろう。
さて、この度イスラエルに災いを降している御使いが立っていた場所は、エブスびとオルナンの打ち場だった。
実は、この場所は、とても特別な場所である。
そこは「モリヤ」と呼ばれる山(2歴代誌3:1)であり、すなわち、アブラハムがイサクを捧げた場所だ。
しかもこの場所は、後に、エルサレム神殿が建てられる所である。
モリヤの地、神殿の丘。
そこは、礼拝を捧げる地であり、罪の身代わりの備えがあり、身代わりの犠牲が捧げられ、死ぬべき罪人の罪が赦され、生かされる地である。
主のご計画は、実に計り知れない。
ダビデは確かに間違いを犯し、イスラエルは打たれたが、主は、そんな罪の結果の苦しい刈り取りさえ、「最善」へと方向修正なさるお方である。
私達は、この主のなさる事は、理解できない。私達の想像を遥かに超えて働かれるお方なのだ。
ただ、この無限であられる主に信頼し、無限の安心と保証の内に歩んでいく私達でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ダビデが主の前に罪とされたイスラエルの人口調査(1歴代誌21:1-6)
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- pastor 2017-10-9 6:59
ダビデが主の前に罪とされたイスラエルの人口調査(1歴代誌21:1-6)
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ダビデの人生の間で、二つの大きな罪を主に犯した事が聖書には記されている。
一つはバテ・シェバとの姦淫および彼女の主人ウリヤ殺害、そしてもう一つが、今回の箇所、イスラエル人口調査である。
前者は、明らかに罪であると分かるが、今回の箇所、イスラエルの人口調査は、一体、どこがどう罪なのだろうか。
一国の王が、自国の戦力がどのくらいであるのかを調査するのは、当たり前のような気もするが、聖書を良く読むと、何が御前において罪であるのかが見えてくる。
21:1 時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。
21:2 ダビデはヨアブと軍の将校たちに言った、「あなたがたは行って、ベエルシバからダンまでのイスラエルを数え、その数を調べてわたしに知らせなさい」。
人口調査そのものに、良しも悪しもない。
民数記など、まさに人口調査の書であり、それは、主がしなさいと言われたからである。
ここで、なぜ人口調査が罪とされたのか。それは、それがサタンに由来する動機だからである。
21:3 ヨアブは言った、「それがどのくらいあっても、どうか主がその民を百倍に増されるように。しかし王わが主よ、彼らは皆あなたのしもべではありませんか。どうしてわが主はこの事を求められるのですか。どうしてイスラエルに罪を得させられるのですか」。
21:4 しかし王の言葉がヨアブに勝ったので、ヨアブは出て行って、イスラエルをあまねく行き巡り、エルサレムに帰って来た。
ヨアブは、この事が主の御前に罪である事を知っていた。そして、ダビデも、何となく知っていた。
そしてヨアブの「これは罪である」という忠告を聞きながら、ダビデはそれを押しのけ、敢えて、数えさせた。
物事の動機が、サタンに由来する時、人口調査も、飲み食いも、献金さえも、罪とされてしまう。
エバはサタンに由来する言葉ゆえに、主が取って食べてはならないと言われた善悪を知る木の実を食べてしまった。(創世記3章)
アナニヤとサッピラは、夫婦共謀して代金の一部をごまかし、献金した。
使徒5:1 ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、
5:2 共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。
5:4 売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。
5:5 アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。
サタンに由来し、御言葉に逆らい、敢えて心してあざむくなら、それがいかに良い事に見えるような事であっても、罪なのである。
ローマ14:14 わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。
・・・
ローマ14:22 あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。
14:23 しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。
ダビデはそれまでイスラエルの兵士の数を知らなかったが、その数が調査され、明らかにされた。
21:5 そしてヨアブは民の総数をダビデに告げた。すなわちイスラエルにはつるぎを抜く者が百十万人、ユダにはつるぎを抜く者が四十七万人あった。
21:6 しかしヨアブは王の命令を快しとしなかったので、レビとベニヤミンとはその中に数えなかった。
百十万、それに加えて四十七万。少なくはないが、有限の数字である。
ダビデはその有限の数字を聞いて、悟った事だろう。自分は、無限なる主を差し置いて、数によりどころを置いてしまった、主の預けてくださったものを私有化しているかのような思いにあった、と。
今までダビデが数多の戦争に勝利して来たのは、兵力によっただろうか。彼の力によっただろうか。
ダビデがゴリヤテを打ち倒した時、果たして彼我を数えてから戦いに臨んだだろうか。
全て、勝利は、自分の能力や数によるのではなく、主によったのではなかっただろうか。
人は、証拠を求めたがる。自分はどのくらいの兵力で相手はどのくらいか、この事をするのにいくらかかるのか、手持ちの資産は幾らか、今立てている計画はどうで、それが成功する根拠は一体何か、など。
世は、社会は、そうして物事を進めて行くが、神の国の事柄は、物的証拠によって動くのではなく、信仰によって動くものである。
主は、兵の多さによって人を救うお方ではない。
心が全く主に向いている人を喜ばれ、その人に主は勝利を与えて下さるのである。
有限なる「見える事柄」を数えだし、そして自分の持ち物と、敵の持ち物とを比較しだすと、無限なる神が見えなくなり、無尽蔵の保証の源である信仰によって歩む事ができなくなってしまうのだ。
勝利をもたらすのは、装備や兵力、財産ではなく、主である。
主に従うなら、こちらが一人であっても千んを打ち、二人が万を打つのだ。
兵士を百倍も増し加えて下さるのは、主である。
私達は何事も、主から来たのか、サタンから来たのかを、御言葉のものさしと聖霊の感覚によって見極め、本当に良いものを選んで歩んでいきたい。
「霊的な子供達」という矢を、矢筒に満たしている者の幸い(1歴代誌20:1-8)
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- pastor 2017-10-6 6:42
「霊的な子供達」という矢を、矢筒に満たしている者の幸い(1歴代誌20:1-8)
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第二サムエル記では、ダビデによる、バテシェバとの姦淫とその夫ウリヤ謀殺の事件と、その姦淫と殺人の罪による悩ましい呪いがつきまとう事件が、第二サムエル記11章から19章まで延々と記されているが、歴代誌では次の数節で済ませてしまっている。
20:1 春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ヨアブは軍勢を率いてアンモンびとの地を荒し、行ってラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまった。ヨアブはラバを撃って、これを滅ぼした。
20:2 そしてダビデは彼らの王の冠をその頭から取りはなした。その金の重さを量ってみると一タラント、またその中に宝石があった。これをダビデの頭に置いた。ダビデはまたその町のぶんどり物を非常に多く持ち出した。
20:3 また彼はそのうちの民を引き出して、これをのこぎりと、鉄のつるはしと、おのを使う仕事につかせた。ダビデはアンモンびとのすべての町々にこのように行った。そしてダビデと民とは皆エルサレムに帰った。
サムエル記でのダビデは、サウルからの苦悩や、バテ・シェバとの罪など、人間味溢れる所が豊かに記されているが、歴代誌でのダビデは、むしろ神殿建設のためにいかに努力したか、という点が強調されている。
それだから、神殿建設とは関係の無い「バテシェバとの罪」の事件は略されているが、神殿建設の発端となった「人口調査の罪」については次章で詳細に記されている。
ダビデは、バテ・シェバとの罪やウリヤ殺害の罪を預言者ナタンによって示された時、すぐに自分の罪を認め、泣き叫んで自分の罪を悲しみ赦しを乞うた。(詩篇51篇)
彼は後に、その姦淫と殺人の罪という「いのちへの冒涜」の罪ゆえに、彼自身から生まれ出る子供達によって大いに苦しめられる事となるのだが、主は彼の罪を見逃してくださった故、異邦人との戦争においては、その呪いは一切及ぶことは無かった。
20:4 この後ゲゼルでペリシテびとと戦いが起った。その時ホシャびとシベカイが巨人の子孫のひとりシパイを殺した。かれらはついに征服された。
20:5 ここにまたペリシテびとと戦いがあったが、ヤイルの子エルハナンはガテびとゴリアテの兄弟ラミを殺した。そのやりの柄は機の巻棒のようであった。
20:6 またガテに戦いがあったが、そこにひとりの背の高い人がいた。その手の指と足の指は六本ずつで、合わせて二十四本あった。彼もまた巨人から生れた者であった。
20:7 彼はイスラエルをののしったので、ダビデの兄弟シメアの子ヨナタンがこれを殺した。
20:8 これらはガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。
この箇所は、第二サムエル記では21章15-22節に相当する。時間的にも多く流れ、ダビデも年老いた時であった。
2サムエル記21:15 ペリシテびとはまたイスラエルと戦争をした。ダビデはその家来たちと共に下ってペリシテびとと戦ったが、ダビデは疲れていた。
ダビデは若い時から戦士であり、戦いが起きるなら、いつも率先して戦いに出て行こうとした。
唯一、あのバテ・シェバの事件の時を除いて。
あの時だけは、ダビデは部下達に戦闘に行かせて自分は王宮に留まり、あの事件を起こしてしまったが、それに懲りて以降、ダビデはまた率先して戦いに出るようになった。
しかし、そんなダビデも歳をとり、昔のようには行かず、戦いに疲れるようになってしまった。
21:16 時にイシビベノブはダビデを殺そうと思った。イシビベノブは巨人の子孫で、そのやりは青銅で重さ三百シケルあり、彼は新しいつるぎを帯びていた。
21:17 しかしゼルヤの子アビシャイはダビデを助けて、そのペリシテびとを撃ち殺した。そこでダビデの従者たちは彼に誓って言った、「あなたはわれわれと共に、重ねて戦争に出てはなりません。さもないと、あなたはイスラエルのともし火を消すでしょう」。
ダビデは若かりし頃、この巨人が持っていた三百シェケルの青銅の槍よりも二倍重い、六百シェケルの鉄の槍を装備したゴリヤテを打ち倒した。
しかしそのダビデも年老いて、敵を倒す事は出来なくなり、逆に危険な目に遭って、部下たちに助けられるようになってしまった。
そして部下たちからは、もう戦いに出ないで下さい、と、強く念を押されてしまった。
ダビデとしては、肉体が衰えて昔のように戦えなくなってしまった事を、情けなく寂しい思いがしたかもしれない。
しかし、ダビデにとっては、それは全然残念な事ではない。
なぜなら彼には、彼を助ける信仰の勇士達がたくさん育ってくれたからだ。
私達も、子育てできる内に、あるいは部下を育てられる内に、しっかりと育てているとするなら、歳を取っても、全く残念な事にはならない。
家庭でも会社でも、いつも自分が活躍の舞台に立ち続け、若者の活躍できる舞台や新人の自主性を取り上げて、何も引き継がない人はいるが、当面はそれで良くても、やがて力を失ってしまった時、その一族は衰え果ててしまう。
どんなに若々しく力強い活躍をしていても、肉体は日々衰えて行くものであり、新しい時代の「戦い」は、子々孫々に順次委ねて行かなくてはならないからだ。
『これらの四人はガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。』(2サムエル記21:22)
ゴリヤテのような体躯や武器を持つ巨人や、イスラエルをそしる巨人達が、合計四回出て来たが、皆、ダビデとその部下達の手によって制覇された。
ダビデは、相手がいかに大人数でも、あるいは巨人であっても、主への従順と信頼によって戦いに飛び込んで行き、勝利を勝ち取って行った。
部下たちは、そんなダビデの背中を追いかけながら戦いに行っていたため、いかに相手が大人数でも、巨人でも、進み出て戦って勝利する信仰を養っていったのだ。
全く、サウルの時代とは比べ物にならない時代になった。
サウルは、巨人の体躯や装備を見て恐れをなし、部下たちも逃げ隠れしていた。
確かに、主を知らない価値観を持った人間なら、そうなってしまうかもしれない。
しかし、主にある信仰者は、巨人さえも、獣の一匹のように主が倒して下さる事を確信し、進み出て、勝利するのだ。
ダビデは若い時から進んでそれを為し、そうして巨人の子孫どもは、ダビデの育てた部下達・信仰の子孫達によって、滅ぼされていった。
私達も今、若者や部下達がついて来れるような、立派な背中を見せてやり、信仰の勇士たちを育て上げて行きたいものである。
詩篇127:3 見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。
127:4 壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。
127:5 矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。
勝利の秘訣 - 祝福の法則に立つ(1歴代誌18:1-17)
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19:1 この後アンモンの人々の王ナハシが死んで、その子がこれに代って王となった。
19:2 そのときダビデは言った、「わたしはナハシの子ハヌンに、彼の父がわたしに恵みを施したように、恵みを施そう」。そしてダビデは彼をその父のゆえに慰めようとして使者をつかわした。ダビデのしもべたちはハヌンを慰めるためアンモンの人々の地に来たが、
アンモン人ナハシは、1サムエル記11章に登場する。
サウルがまだ王になったばかりの時、ナハシはイスラエルを痛めつける者としてヤベシュ・ギルアデに陣を張り、片目を抉りだす事を条件に和睦に応じよう、と、傲慢に振る舞ったが、主によって奮い立たされたサウルに返り討ちにあって退散した。
それをきっかけにサウルは名実ともに王として立ったが、その後、ナハシはダビデに対して真実を尽くすようになった。
ナハシの息子ショビは、後にダビデがアブシャロムにクーデターを起こされた時、ダビデを助けてやった。(2サムエル記17:27)
そのナハシが死んだ、という事で、ダビデは代わって王になった息子・ハヌンにも、恵みを施そうとする。
ところが彼は、ダビデに、恩を仇で返す。
19:3 アンモンの人々のつかさたちはハヌンに言った、「ダビデが慰める者をあなたのもとにつかわしたことによって、あなたは彼があなたの父を尊ぶのだと思われますか。彼のしもべたちが来たのは、この国をうかがい、探って滅ぼすためではありませんか」。
このアンモン人達は、相手の良心に対し、何か裏があるのではないか、と、疑いの目を向けた。
裏のある人間は、いつも裏をかいて生き抜いてきたので、善良な人の善良さが理解できず、こういう時に、実に失礼な対応を取ってしまうものである。
19:4 そこでハヌンはダビデのしもべたちを捕えて、そのひげをそり落し、その着物を中ほどから断ち切って腰の所までにして彼らを帰してやった。
19:5 ある人々が来て、この人たちのされたことをダビデに告げたので、彼は人をつかわして、彼らを迎えさせた。その人々が非常に恥じたからである。そこで王は言った、「ひげがのびるまでエリコにとどまって、その後帰りなさい」。
当時、「ひげ」は男性にとって栄光をあらわす部位であり、ひげを抜かれる事は非常な恥辱であった。
それも、中途半端に半分に切り落とし、また、服も半分に切り取って、尻の部分をあらわにした状態で帰させたのだから、相当の侮蔑である。
ダビデは、このような侮辱を受けた使者を思いやったが、すぐさまアンモンを攻撃しに行くという事はしなかった。
すると、いつも裏をかいて来た人間は、自分のした事でさらに疑心暗鬼に駆られ、自分から敵対的な行動を取るようになる。
19:6 アンモンの人々は自分たちがダビデに憎まれることをしたとわかったので、ハヌンおよびアンモンの人々は銀千タラントを送ってメソポタミヤとアラム・マアカ、およびゾバから戦車と騎兵を雇い入れた。
19:7 すなわち戦車三万二千およびマアカの王とその軍隊を雇い入れたので、彼らは来てメデバの前に陣を張った。そこでアンモンの人々は町々から寄り集まって、戦いに出動した。
戦車が3万以上、ものすごい装備と兵力である。
しかし、こちらが祝福の法則に乗り、怖じけずに主のために兄弟姉妹のために戦うなら、相手の兵力がいかであれ、主はこちらに軍配を挙げて下さる。
19:8 ダビデはこれを聞いてヨアブと勇士の全軍をつかわしたので、
19:9 アンモンの人々は出て来て町の入口に戦いの備えをした。また助けに来た王たちは別に野にいた。
19:10 時にヨアブは戦いが前後から自分に向かっているのを見て、イスラエルのえり抜きの兵士のうちから選んで、これをスリヤびとに対して備え、
19:11 そのほかの民を自分の兄弟アビシャイの手にわたして、アンモンの人々に対して備えさせ、
19:12 そして言った、「もしスリヤびとがわたしに手ごわいときは、わたしを助けてください。もしアンモンの人々があなたに手ごわいときは、あなたを助けましょう。
19:13 勇ましくしてください。われわれの民のためと、われわれの神の町々のために、勇ましくしましょう。どうか、主が良いと思われることをされるように」。
相手が大勢なので、イスラエルの軍が挟み撃ち状態であったが、しかしヨアブは怖じけず、主エホバの御名によって戦士達を奮い立たせた。
結果はどうであったか。
19:14 こうしてヨアブが自分と一緒にいる民と共にスリヤびとに向かって戦おうとして近づいたとき、スリヤびとは彼の前から逃げた。
19:15 アンモンの人々はスリヤびとの逃げるのを見て、彼らもまたヨアブの兄弟アビシャイの前から逃げて町にはいった。そこでヨアブはエルサレムに帰った。
敵は、自分達が有利であるのに、逃げた。
それは、イスラエルの側が祝福の法則に立っていたからに他ならない。
祝福の法則に立つとは、以下の事である。
申命記28:1 もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。
28:2 もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。
28:3 あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。
28:4 またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。
28:5 またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。
28:6 あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。
28:7 敵が起ってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち敗らせられるであろう。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去るであろう。
以上のように、「主の御言葉に聞き従い、それを守り行う」という祝福法則に立つなら、主は勝利をもたらして下さる。
敵が大勢であっても、一人が千を、二人が万を打つ。
サウルの子ヨナタンは、主エホバを信じる信仰によって進み出て、たった二人で幾万を怖じけさせ、絶望的な状況のイスラエルに救いをもたらした。
モーセは言っている。
「彼らの岩が彼らを売らず、/主が彼らをわたされなかったならば、/どうして、ひとりで千人を追い、/ふたりで万人を敗ることができたであろう。彼らの岩はわれらの岩に及ばない。われらの敵もこれを認めている。」(申命記32:30-31)
そう、彼らは「岩」であられる主に信頼したから、二人で万人を破る事が出来たのだ。
世においては諸々の戦いがある。
しかし、御言葉に聞き従って、その通り守り行う道を進み行く限りでは、私達はたとえ辱めを受けても後には栄誉が与えられ勝利がもたらされるのだ。
勝利に勝利を重ねるダビデ、とクリスチャン(1歴代誌18:1-17)
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18:1 この後ダビデはペリシテびとを撃ってこれを征服し、ペリシテびとの手からガテとその村々を取った。
18:2 彼はまたモアブを撃った。モアブびとはダビデのしもべとなって、みつぎを納めた。
ダビデは、それまでのイスラエルがかつて制圧する事の出来なかったあらゆる敵に対する勝利を主から与えられた。
その敵とはエドム、モアブ、アンモンの人々、ペリシテびと、アマクレなどの諸国、さらにはユーフラテス川沿いの王、ダマスコのアラムなど、多くの王達を打ち破った。
さらには、ダビデの知らなかった王達がダビデを恐れ、仕えるようになった。
それはダビデに戦闘力があったからではない。6節と13節に記されている通りである。
「主はダビデにすべてその行く所で勝利を与えられた。」
勝利は、主のものである。
箴言21:30 主に向かっては知恵も悟りも、計りごとも、なんの役にも立たない。
21:31 戦いの日のために馬を備える、しかし勝利は主による。
ダビデは、多くの分捕りをし、また、多くの貢物が納められたが、それらは全て、主に捧げた。(8節、1節)
ソロモンは集めた富を、自分のために豪勢に用いたが、ダビデは富を主に捧げた。
それで主はダビデに大いなる名を与えられたのだ。
ダビデは戦いにおいて勝利したのみならず、正しく統べ治めた事が14節以降に記されている。
彼は後に、正しい王の雛形として語り継がれた。「**は、ダビデの道を歩んだ」など。
そして、そのダビデの子孫から、真の王の中の王、キリストが現れるのである。
エレミヤ23:5 主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。
23:6 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。
何故に神は、ダビデに、こんなにも栄誉を与えられたのか。
それは、ダビデが真心をもって主に使えたからである。
詩篇18篇は、主が彼の全ての敵の手から救い出された日に歌った詩であるが、その書き出しを見ると、いかにダビデが主をどのような心で見ていたかが書かれてある。
聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌、すなわち主がもろもろのあだの手とサウルの手から救い出された日にダビデはこの歌の言葉を主にむかって述べて言った
18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。
ダビデはいつも、主を「わが」助けにしていた。
数多の戦いをして来たが、その戦いの都度、いつも主が助けであると宣言していたのである。
敬虔なクリスチャンが車を運転する前にいつも守りを祈るように。私達も、日常の仕事や家庭のわざ、諸々の「戦い」の都度、祈るなら、ダビデのように連戦連勝するのだ。
18:16 主は高い所からみ手を伸べて、わたしを捕え、大水からわたしを引きあげ、
18:17 わたしの強い敵と、わたしを憎む者とから/わたしを助け出されました。彼らはわたしにまさって強かったからです。
18:18 彼らはわたしの災の日にわたしを襲いました。しかし主はわたしのささえとなられました。
宮本武蔵はなぜ連戦連勝だったのかを聞かれた時、自分よりも弱い相手としか戦わなかったからだ、と言ったそうだが、ダビデはそうではなかった。彼は、自分よりも強い相手と戦って、連戦連勝だったのだ。
ゆえに、彼が勝つことができたのは、ダビデが強かったからではなく、主が彼のささえとなったからだ、と、ダビデは結論づけている。
18:19 主はわたしを広い所につれ出し、わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。
18:20 主はわたしの義にしたがってわたしに報い、わたしの手の清きにしたがって/わたしに報いかえされました。
18:21 わたしは主の道を守り、悪意をもって、わが神を離れたことがなかったのです、
18:22 そのすべてのおきてはわたしの前にあって、わたしはその定めを捨てたことがなかったのです。
18:23 わたしは主の前に欠けたところがなく、自分を守って罪を犯しませんでした。
18:24 このゆえに主はわたしの義にしたがい、その目の前にわたしの手の清きにしたがって/わたしに報いられました。
ダビデは、自分には義がある、手は清い、主の前にかけた所が無い、罪をおかさなかった、と言っているが、果たして主の厳しい基準に照らしても、全く罪を犯していなかったのだろうか。当然、そうではない。
彼は、主に喜ばれていた。(19節)
それは、彼が罪をおかさなかったからでなく、誠実に主に歩もうという志をもって、日々歩んでいたからである。
親が、子供がちょっとやそっとの罪や不完全さを持っていても、親を愛して親に誠実に歩もうとする子を喜ぶように、主は、主に誠実に歩もうとする私達をこそ喜んで下さる。
だから、示されていない罪について詮索する必要は無い。
特に良心のとがめが無いのに「自分はあの罪、この罪を犯していなかっただろうか」と詮索したり心配したりするのは、訴える者・悪魔から来るものであり、それによって、「自分はだめだ、罪人だ、神と共に歩むなど、おこがましい」と言って主から離れてしまうなら、サタンの企みが成功してしまった事になる。
18:29 まことに、わたしはあなたによって敵軍を打ち破り、わが神によって城壁をとび越えることができます。
18:30 この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です。主はすべて寄り頼む者の盾です。
18:31 主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。
18:32 神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を安全にされました。
18:33 神はわたしの足をめじかの足のようにされ、わたしを高い所に安全に立たせ、
18:34 わたしの手を戦いに慣らされたので、わたしの腕は青銅の弓をもひくことができます。
まさしくダビデは、この詩篇の通り、あらゆる強者を破り、連戦連勝したのは、主に依り頼んでいたからだ。
ここを読むとそれが明らかであると分かる。
私達も、主を頼みとし、主を拠り所とするなら、私達の足も雌鹿のようにして高いところに安全に立たせ、青銅の弓をも引けるようにされるのだ。
18:43 あなたは民の争いからわたしを救い、わたしをもろもろの国民のかしらとされました。わたしの知らなかった民がわたしに仕えました。
18:44 彼らはわたしの事を聞くと、ただちにわたしに従い、異邦の人々はきて、わたしにへつらいました。
18:45 異邦の人々は打ちしおれて、その城から震えながら出てきました。
歴代誌にもある通り、ダビデを恐れた王達がダビデの前にひれ伏した。
クリスチャンは、清貧の中を生きる弱々しい人生ではないはずである。
世に、悪魔サタンに対し、勝利につぐ勝利をし、多くを分捕り、そしてダビデのように、それを主に捧げる。
それが、正しいクリスチャンの生き様である。
そして、次のダビデの賛美のように、主をあがめるのである。
18:46 主は生きておられます。わが岩はほむべきかな。わが救の神はあがむべきかな。
18:47 神はわたしにあだを報いさせ、もろもろの民をわたしのもとに従わせ、
18:48 わたしの敵からわたしを救い出されました。まことに、あなたはわたしに逆らって/起りたつ者の上にわたしをあげ、不法の人からわたしを救い出されました。
18:49 このゆえに主よ、わたしはもろもろの国民のなかであなたをたたえ、あなたのみ名をほめ歌います。
18:50 主はその王に大いなる勝利を与え、その油そそがれた者に、ダビデとその子孫とに、とこしえにいつくしみを加えられるでしょう。
語られた御言葉に100%アーメンしたダビデとマリヤ(1歴代誌17:15-27)
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- pastor 2017-9-27 7:12
語られた御言葉に100%アーメンしたダビデとマリヤ(1歴代誌17:15-27)
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ダビデは、主のために家を建てようとしたのに、逆に主から、遠大な祝福の約束を頂いた。
そこで咄嗟に出た行動は、自分の身を低くする事だった。
17:16 そこで、ダビデ王は、はいって主の前に座して言った、「主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家がなんであるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。
17:17 神よ、これはあなたの目には小さな事です。主なる神よ、あなたはしもべの家について、はるか後の事を語って、きたるべき代々のことを示されました。
私達も、そうである。本当に主の御胸を理解し、その偉大さ、遠大さを目の当たりにするなら、ただただ驚き感嘆する以外に無い。
どうして、こんなにも取るに足りない自分、こんなつまらない自分を、主は王として選んでくださり、ここに至るまで導いて下さり、さらには、遥か後の来るべき永遠までも示して下さるのですか、と。
ダビデは詩篇8篇で言っている。
詩篇8:1 主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、
8:2 みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。
主は、小さな子、幼子の口によって、栄光をお受けになる。
イエス様に対して「ダビデの子にホザナ」と叫んだ幼子たちを見て、パリサイ人達は怒ったが、イエス様はまさに詩篇の御言葉を引用して、それは正しいことだと言った。
私達のような、小さな者の口が、その偉大な主を褒め讃えて良い、というのは、なんという喜びだろう。
『わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。』(詩篇8:3-4)
主の偉大さ、遠大さに引き換え、自分を見ると、ただただ小ささ、足りなさしか見いだせないのだ。
17:18 しもべの名誉については、ダビデはこの上あなたに何を申しあげることができましょう。あなたはしもべを知っておられるからです。
ダビデは、主の御言葉に対し、「この上あなたに何を申しあげることができましょう」と言った。
御言葉に対しては、「何も付け加えない」「何も取り除かない」、が、正しい態度である。
次のように書かれてあるからだ。
黙示録22:18 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
22:19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
17:19 主よ、あなたはしもべのために、またあなたの心にしたがって、このもろもろの大いなる事をなし、すべての大いなる事を知らされました。
17:20 主よ、われわれがすべて耳に聞いた所によれば、あなたのようなものはなく、またあなたのほかに神はありません。
17:21 また地上のどの国民が、あなたの民イスラエルのようでありましょうか。これは神が行って、自分のためにあがなって民とし、エジプトからあなたがあがない出されたあなたの民の前から国々の民を追い払い、大いなる恐るべき事を行って、名を得られたものではありませんか。
17:22 あなたはあなたの民イスラエルを長くあなたの民とされました。主よ、あなたは彼らの神となられたのです。
主は、国々の間で、神の民を特別扱いし、偉大なる事を、内外に示された。
ダビデがこのように、両手放しで主を賛美できたのは、主の偉大さ、素晴らしさ、寛大さ、憐れみ深さ、その他、主が成して下さったあらゆる良きわざ、主のあらゆる良きご性質を、知り、理解し、味わったからである。
主は、私達にも、偉大なわざを為してくださった。
その、主が為してくださったあらゆる良き事を、覚えているだろうか。ダビデは主が語ってくださった事を全て理解し、覚えていたから、それをそのまま賛美で返した。
一体私達は、主が私達に与えて下さった良きわざをどれ程知って、理解しているだろうか。主の御業の大いなる事を、どれ程体験し、感謝し、それを喜び誉めたたえているだろうか。
17:23 それゆえ主よ、あなたがしもべと、しもべの家について語られた言葉を長く堅くして、あなたの言われたとおりにしてください。
17:24 そうすればあなたの名はとこしえに堅くされ、あがめられて、『イスラエルの神、万軍の主はイスラエルの神である』と言われ、またあなたのしもべダビデの家はあなたの前に堅く立つことができるでしょう。
ダビデは「願いごと」を申し上げているが、そこには、人間的な願いは一切無い。
ただ主の御胸がなりますように、という願いのみである。
17:25 わが神よ、あなたは彼のために家を建てると、しもべに示されました。それゆえ、しもべはあなたの前に祈る勇気を得ました。
17:26 主よ、あなたは神にいまし、この良き事をしもべに約束されました。
17:27 それゆえどうぞいま、しもべの家を祝福し、あなたの前に長く続かせてくださるように。主よ、あなたの祝福されるものは長く祝福を受けるからです」。
ダビデは、主が約束されたお言葉の通りに、なりますように、と、ただ願っている。
ちょうど乙女マリヤが祈ったように。
ルカ1:30 すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。
1:31 見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。
1:32 彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。
御使いはマリヤに、まさに、ダビデ契約の成就が、マリヤから産まれる子によって実現する事を告げ知らせに来た。
この、途方も無い事に、マリヤは答える。
ルカ1:34 そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。
マリヤは、処女が身ごもるという、現実には有り得ない事がどうしてなるでしょうか、とこたえたのに対し、御使いは、神に不可能な事は無い、その全能の力が、マリヤの身に起こり、人類の救いが起こる事を告げる。
ルカ1:35 御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。
1:36 あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。
1:37 神には、なんでもできないことはありません」。
1:38 そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。
マリヤはまさしくダビデの子孫である。マリヤはダビデと同様、主の言葉に対する100%の従順の姿勢を見せ、そして実際、彼女の身に起きた。
私達は、主の言葉に対して、何も加えてはならないし、何も引いてはならない。
御言葉に対して「でも」「だって」「信じられない」と言ってしまう一言一言ごとに、祝福が羽を生やして富んでいってしまい、呪いがくっついて来てしまう。
私達は御言葉の約束に対し、ただアーメンと従順する応答こそ、何にもまして主に喜ばれるいけにえである。
ダビデ契約:家を建てるのは誰か(1歴代誌17:1-14)
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今回の箇所は、いわゆる「ダビデ契約」と言われる箇所である。
17:1 さてダビデは自分の家に住むようになったとき、預言者ナタンに言った、「見よ、わたしは香柏の家に住んでいるが、主の契約の箱は天幕のうちにある」。
17:2 ナタンはダビデに言った、「神があなたとともにおられるから、すべてあなたの心にあるところを行いなさい」。
周囲の敵が平定され、快適な家に住むようになり、全てに安定したダビデは、自分によくして下さった主を愛する心のゆえに、主のために家を建てたい、という願いが起こされ、預言者ナタンに相談した。
ところが神の答えは、意外なものだった。
17:3 その夜、神の言葉がナタンに臨んで言った、
17:4 「行ってわたしのしもべダビデに告げよ、『主はこう言われる、わたしの住む家を建ててはならない。
17:5 わたしはイスラエルを導き上った日から今日まで、家に住まわず、天幕から天幕に、幕屋から幕屋に移ったのである。
17:6 わたしがすべてのイスラエルと共に歩んだすべての所で、わたしの民を牧することを命じたイスラエルのさばきづかさのひとりに、ひと言でも、「どうしてあなたがたは、わたしのために香柏の家を建てないのか」と言ったことがあるだろうか』と。
主の答えは「わたしの住む家を建ててはならない。」だった。
なぜか。それは、ダビデがリッチになって力があるから主の家を建てる、のではなく、主がダビデにそれらの富と力を与えたからだ。
使徒7:46 ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。
7:47 けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。
7:48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、
7:49 『主が仰せられる、/どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、/地はわたしの足台である。
7:50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。
ダビデは、自分は快適な杉材の家に住んでいる、主にも、幕屋のような粗末な所ではなく、もっと豪勢な住まいを建てたい、と願った。
それは主を愛する心が高じての事であるが、主は、人間が建てたものにお住みになるお方ではない。
むしろ、それを建てた大工に匠の技を与えたのも、知恵を与えたのも、また、杉を山で育てたのも、そのために必要な太陽や雨を創造したのも、全部、主なのである。
17:7 それゆえ今あなたは、わたしのしもべダビデにこう言いなさい、『万軍の主はこう仰せられる、「わたしはあなたを牧場から、羊に従っている所から取って、わたしの民イスラエルの君とし、
17:8 あなたがどこへ行くにもあなたと共におり、あなたのすべての敵をあなたの前から断ち去った。わたしはまた地の上の大いなる者の名のような名をあなたに得させよう。
ダビデはリッチになった、力を得た、としても、結局ダビデは元々、羊飼いであり、その羊の園から呼び出してイスラエルの王としたのは、主であり、そしてさらに大いなる名を与えるのも、主である。
実際ダビデは、主の恵みにより、この現代においてもその名が大いなるものとされている。
17:10 かつわたしは主があなたのために家(単数形)を建てられることを告げる。
ダビデ契約の根幹は、ここである。
あなたが(人)、主のために家を建てるのではない。
わたしが、あなた(人)のために、決して廃れる事の無い、ひとつの永遠の家を建てるのだ、と。
そうである。主は、人が存在する以前から人を愛し、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人が「自由意志」を用いてご自分を裏切ったとしても、十字架上でいのちを捨てて贖うほどの完全なる愛で、人を愛しておられ、ベレシート(はじめ)の前から、全てを見込んでおられたのだ。
そして、それをするのはダビデではなく、ダビデから出る「ひとりの子」であると主は定めている。
17:11 あなたの日が満ち、あなたの先祖たちの所へ行かねばならぬとき、わたしはあなたの子、すなわちあなたの子らのひとりを、あなたのあとに立てて、その王国を堅くする。
この「ひとりの子」はソロモンであるという考えはあるが、どうも次に続く節をみると、ソロモンでは役不足であることは明白である。
17:12 彼はわたしのために家を建てるであろう。わたしは長く彼の位を堅くする。
この節の前半を見ると、確かに、神殿を建てたソロモンが、その「ひとりの子」と見れる。
しかし、節の後半以降からの記述は、はたしてソロモンに当てはまるだろうか。
後の歴史を見ると、そうではない、と言わざるをえない。
17:13 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしは、わたしのいつくしみを、あなたのさきにあった者から取り去ったように、彼からは取り去らない。
17:14 かえって、わたしは彼を長くわたしの家に、わたしの王国にすえおく。彼の位はとこしえに堅く立つであろう』」。
主は、ソロモンの王族から王権を取り去ってしまい、もう王は生まれない、と言われた。
あまりにも主に従わない事を続けてきたゆえだ。
『この人コニヤは/卑しむべき、こわれたつぼであろうか、だれも心に留めない器であろうか。なぜ彼とその子孫は追いやられて、知らない地に投げやられるのか。ああ、地よ、地よ、地よ、主の言葉を聞けよ。主はこう言われる、「この人を、子なき人として、またその一生のうち、栄えることのない人として記録せよ。その子孫のうち、ひとりも栄えて、ダビデの位にすわり、ユダを治めるものが再び起らないからである」。』(エレミヤ22:28-30)
では、その、ダビデから生まれる「ひとりの子」とは誰か。
それは、イエス・キリスト以外の何者でもない。
イエス様は、ソロモンの血は継いでいない。ソロモンの血を継いだヨセフと結婚する前に、乙女マリヤは身ごもったからだ。
マタイ1章にはダビデ、ソロモン、と続いてヨセフに至る系図が記されているが、ルカ3章には、ダビデ、ナタン、と続くマリヤに至る系図が記されている。
イエス様は、ダビデの子ではあっても、ソロモンの血は継いでおらず、ソロモンの子孫に宣告された「もう王は生まれない」という呪いの外におられる。
結局、永遠の神の家を建てるのは、人ではない。
神に従う人に、神は、家を建ててくださるのだ。
ルツ記3:9 「お前は誰だ」とボアズが言うと、ルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」
主こそ、私達の家を建て、家を絶やさぬ責任のあるお方。
黙示録にある通り、主こそ、まことの神殿であり、人々は、その主の栄光を慕い求めて主の元に行くのみである。
黙示録21:22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
21:23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
21:24 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。
21:25 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。
21:26 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。
御前に正しく仕える体制を整え、祝福されるダビデ(1歴代誌16:23-36)
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- pastor 2017-9-22 7:20
御前に正しく仕える体制を整え、祝福されるダビデ(1歴代誌16:37-43)
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神の契約の箱がエルサレムに運び入れられた日、聖歌隊が編成され、御前に仕える奉仕者が制定された。
ここで定められた奉仕者が、その子孫たちに、そしてずっと後の時代にまでも受け継がれて行った事が、バビロン捕囚後に記されたエズラ記や歴代誌を読むとわかる。
16:37 ダビデはアサフとその兄弟たちを主の契約の箱の前にとめおいて、常に箱の前に仕え、日々のわざを行わせた。
日毎、主の箱の前に仕える奉仕が建てられた。
主の箱とは契約の箱であり、
私達
16:38 オベデ・エドムとその兄弟たちは合わせて六十八人である。またエドトンの子オベデ・エドムおよびホサは門守であった。
門衛の一族となるオベデ・エドムには、特に子孫が多い事が記されている。
26章5節には「神が彼を祝福されたからである」と、わざわざ書かれてある。
コンサート会場においては、警備員よりも、華々しくステージで歌う人に注目されがちだが、主は、門衛の一族を祝福された事は、注目に値する。
私達も、この口という門、目や耳という門を、しっかりと見張り、この口から賛美と共に兄弟姉妹をあげつらう言葉が出てはならない。
私達は、神の聖なる宮である。そうであるからには、汚れた情報の出入りがないように、言葉の出入りが無いように、しっかりと見張るなら、祝福される。
16:39 祭司ザドクとその兄弟である祭司たちはギベオンにある高き所で主の幕屋の前に仕え、
16:40 主がイスラエルに命じられた律法にしるされたすべてのことにしたがって燔祭の壇の上に朝夕たえず燔祭を主にささげた。
祭司ツァドクは、エルサレムの主の箱の前ではなく、代々神を礼拝する場所であったギブオンの高き所で日々主に仕える者として任命された。
彼はピネハスの子孫で、本来、神の宮で仕えるべき正当な血族であったが、ダビデの時代は、ダビデと苦楽をともにしたエブヤタルが祭司であった。
しかしソロモンの時代、神がピネハスに約束された通りに、ツァドクが正当な祭司として任命され、また、あの悪辣な祭司エリの子ホフニとピネハスの血族であるエブヤタルは罷免された。
1列王記2:26 それから、王は祭司エブヤタルに言った。「アナトテの自分の地所に帰りなさい。あなたは死に値する者であるが、きょうは、あなたを殺さない。あなたは私の父ダビデの前で神である主の箱をかつぎ、父といつも苦しみを共にしたからだ。」
2:27 こうして、ソロモンはエブヤタルを主の祭司の職から罷免した。シロでエリの家族について語られた主のことばはこうして成就した。
16:41 また彼らとともにヘマン、エドトンおよびほかの選ばれて名をしるされた者どもがいて、主のいつくしみの世々限りなきことについて主に感謝した。
16:42 すなわちヘマンおよびエドトンは彼らとともにいて、ラッパ、シンバルおよびその他の聖歌のための楽器をとって音楽を奏し、エドトンの子らは門を守った。
こうして、後の神殿時代を通し、さらにバビロン捕囚の後にも長く続く主の奉仕者の役割と人員が割り当てられた。
16:43 こうして民は皆おのおの家に帰り、ダビデはその家族を祝福するために帰って行った。
ダビデは主にある喜びに勇んで、自分の家を祝福する気持ちで家に入った所を、その、祝福したいという心に、冷水を浴びせるような事を言って迎えた。
彼女には生涯子供がいなかった、と記されている。
夫は妻のかしらであり、父は一家のかしらである。
そのかしらである夫を、父を呪う者は、のろいを受けてしまう。
ノアの息子・セム、ハム、ヤペテのうち、ハムは、恐れ敬うべき父の天幕に入って行き、そこで見つけた父の裸をじっくりと見、兄弟たちに言いふらし、来て一緒に見るよう招いたため、父から呪いを受けてしまった。それに対しセムとヤペテは、父の裸を見ないよう後ろ向きに歩いて裸を覆ったため、祝福を受けた。
祝福を与える立場である「父」を蔑んだり、軽んじたり、その秘密をあげつらって、他に言いふらすような者は、子々孫々呪われる。
しかし、その立場にある人を敬い、祝福したいという気持ちをいつも持たせる人は、子々孫々とも祝福される。
全被造物は主をほめたたえよ(1歴代誌16:23-36)
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メッセージ音声
16:23 全地よ、主に向かって歌え。日ごとにその救を宣べ伝えよ。
16:24 もろもろの国の中にその栄光をあらわし、/もろもろの民の中にくすしきみわざをあらわせ。
16:25 主は大いなるかたにいまして、/いとほめたたうべき者、/もろもろの神にまさって、恐るべき者だからである。
前回に続いて、賛美の呼びかけは、人のみならず、全ての被造物に対するものとなる。
ダビデは言った。全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ、と。
イエス様も言われた。全て、造られたものに、福音を宣べ伝えよ、と。
確かに全世界の人々に福音を伝えるべきであるが、人間以外の全被造物もまた主を褒め讃えているのであり、そして、うめきをもって神の子たちの現れを待ち望んでいる。(ローマ8章)
元々、人は統治するようにと創られた。(創世記1章)
しかし罪を犯して以来、人はほしいままにふるまい、被造物を破壊する方向性で支配するようになってしまった。
ローマ8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
だから私達は、何も主日、礼拝する時のみが神の子ではない。
日々、瞬間瞬間、イエス・キリストを主とし、彼にあって救われた神の子として歩むならば、行く先々の被造物は私達を喜び迎え、歓迎するのである。
16:28 もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、/栄光と力とを主に帰せよ。
16:29 そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えて主のみ前にきたれ。聖なる装いをして主を拝め。
続いて、呼びかけは「もろもろの民のやから」になる。
確かにやがて、全ての王達、国民が御前に礼拝を捧げにやってくる日が来る。
黙示録 21:24 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。
21:25 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。
21:26 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。
21:27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
主に栄光を捧げ、御前にみずから低くなる人は、主へのささげものを携えて、栄光の神の都に入る事が出来る。
しかし、入れない者のリストが黙示録21:27にある。原語で見るなら「自ら進んで(好き好んで)」汚れた事、憎むべき事、偽りを行う者が、この聖なる都には決して入れないのだ。
16:30 全地よ、そのみ前におののけ。世界は堅く立って、動かされることはない。
16:31 天は喜び、地はたのしみ、/もろもろの国民の中に言え、「主は王であられる」と。
16:32 海とその中に満つるものとは鳴りどよめき、/田畑とその中のすべての物は喜べ。
16:33 そのとき林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌う。主は地をさばくためにこられるからである。
主をほめたたえよ、との呼びかける対象は、さらに、全地に、天に、地に、海とその中に満つるものに、田畑とその中の全ての物に、林のもろもろの木にまで及んでいる。
それら創られたものは、全て、主の栄光をあらわしているのだ。
ローマ1:20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。
1:21 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。
ローマ1:20や歴代誌とは対照的に、ローマ1:21には、主を神とせず、感謝も捧げない者が、どうなるかが書いてある。
それは、『神を知りながら神としてあがめず、感謝もしない人』で、彼らは「?かえって」その「?思い」は「?むなしくなり」、その「?無知な」心は「?暗くなった」。
?「かえって」のギリシア語はアッラ、「反して」の意味もある。神を知れば知る程、神をあがめ感謝する以外に無いはずなのに、それが全く沸き起こらず、逆にその人からは、主に対して失礼な態度しか出てこない。
?「思い」はディアロギスモス、ロギスモスは計算する(ロギア)または言葉(ロゴス)の意味があり、ディアは前置詞で「行ったり来たり」、すなわち「どっちつかず」で、彼らは、御言葉も、計算も、どっちつかずなのだ。
?「むなしくなり」はマタイオーすなわち「愚かになる」「悪辣になる」の意味の動詞の不定過去(アオリスト)受動態である。それはすなわち、その状態が化石化され、改善の余地が無くなってしまった状態である。
つまり、神を知りつつも神をあがめないでい続けるなら、また、神に良くしていただいているのに反し、感謝しない事を続けているなら、やがて考え方が愚かで悪辣となり、悪い事で匠に、狡猾になって行き、どんなに計算しても、どんなに考えても、悪い方へ向かうもので、改善の余地が無いまでになってしまうのだ。
また、?「無知な」はアスネトス、これは「スネトス(賢い、聡明な、理解力のある)の真逆」の性質である。
?「暗くなった」はスコティゾー、闇にする、見えなくするという意味もある動詞で、ここも不定過去受動態が用いられているので、目が暗い状態・闇の状態が、化石化され、改善の余地が無くなってしまったのだ。
神に栄光を返さずにいる人は、自分で賢いと思ってはいても良心が退化してしまっており、知性が無く、愚かで、堕落した状態にずっと繋がり続け、闇に惹かれ続けて行き、やがて、大きな事故を起こしてしまう。
神に感謝を捧げる事、これこそ私達の本分である。だから、ダビデはこの詩篇の始まりを「感謝(ヤーダー)」で始め、「感謝(ヤーダー)」で締めている。(8節、34-35節)
16:34 主に感謝せよ、主は恵みふかく、/そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
16:35 また言え、「われわれの救の神よ、われわれを救い、/もろもろの国民の中から/われわれを集めてお救いください。そうすればあなたの聖なるみ名に感謝し、/あなたの誉を誇るでしょう。
「感謝(ヤーダー)」のヘブライ語にはさらに賛美する、栄光を捧げる事の意味もあるが、元々、(手を用いて)投げる、放つ、という意味がある。
黙示録において、24人の長老が、冠を主の御座に投げているが、彼らは行いをもって、主に感謝し、賛美を捧げているのだ。
16:36 イスラエルの神、主は、/とこしえからとこしえまでほむべきかな」と。その時すべての民は「アァメン」と言って主をほめたたえた。
賛美はレビ人の奉仕者によって捧げられたが、人々は「アーメン」でこたえた。
アーメンは応答である。もし誰かに言葉をかけたのに、かけられた相手が何も応答せず黙っているとするなら、無視されたと思われてしまう。
同様に、主の御言葉が語られたのにもかかわらず、それに対して何も応答しないとするなら、主はどう思われるだろうか。
私達は主を褒め讃え、感謝するべき存在である。
天国においては永遠に主への賛美が捧げられ、また、天地が創られる前の昔も、同様に、主への賛美が捧げられていたからだ。