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メッセージ - 1歴代誌カテゴリのエントリ

主に栄光を捧げ感謝せよ(1歴代誌16:8-22)
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エルサレムに神の契約の箱が入った時、ダビデとイスラエルの民は大いなる喜びにあふれた。
ダビデはその時以降、聖歌隊を編成し、いつも主を褒め称える賛美を捧げるようにさせた。
8節以降36節までは、契約の箱がエルサレムに入った時に捧げられた賛美の詩篇である。

16:8 主に感謝し、そのみ名を呼び、/そのみわざをもろもろの民の中に知らせよ。
16:9 主にむかって歌え、主をほめ歌え。そのもろもろのくすしきみわざを語れ。

この詩は、ヘブライ語「ヤダー(感謝する,賛美する,告白する)」の命令で始まる。
誰に対して感謝し賛美するのか。エホバなる主に対して、である。

主に感謝を捧げ、賛美する事こそ、人間の本分であり、それをしない事を続けるなら、本来あるべき創造の意味を果たしていない事になる。
ピアノは音楽を奏でるために造られたものであって、決して踏み台にするためではないように。
せっかく高いお金を払って買ったピアノでも、使わず、何かの踏み台にばかりしているなら、はなはだもったいないように、人間も、主を賛美せず、感謝を捧げないないなら、はなはだもったいないのだ。

もし、神を知りつつも神をあがめないでいる事を続けるなら、あるいは、神に良くしていただいているのに反し、感謝しない事を続けているなら、どうなってしまうかが、ローマ1:21に記されている。
そういう人は、やがて考え方が愚かで悪辣となり、悪い事で匠に、狡猾になって行き、どんなに計算しても、どんなに考えても、ただ悪へと向かうようになり、改善の余地が無いまでになってしまう。
自分では賢いと思ってはいても、良心が退化してしまっており、知性が無く、愚かで、堕落した状態にずっと繋がり続け、闇に惹かれ続けて行き、やがて、大きな事故を起こしてしまう。

16:10 その聖なるみ名を誇れ。どうか主を求める者の心が喜ぶように。

私達が誇るべきは、主の聖なる御名である。なぜなら、私達は元々、無に等しい者であり、主が私達に能力を、知恵を賜物として与えて下さったからだ。
『兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。』(1コリント1:26-31)

16:11 主とそのみ力とを求めよ。つねにそのみ顔をたずねよ。

私達がまず第一に求めるべきは、神の国とその義とを、である。
それを第一に求めるなら、それが与えられるのみならず、世における必要は全て満たされる事もまた付随して与えられるからだ。

16:15 主はとこしえにその契約をみこころにとめられる。これはよろずよに命じられたみ言葉であって、
16:16 アブラハムと結ばれた契約、/イサクに誓われた約束である。

続いて、ザカール(覚えよ)と命じている。
何を覚えるべきか。主の命じられた御言葉であり、その契約を、である。
主はイスラエルの民をその父アブラハムを通して召し出して下さったように、私達をも、キリストを通して召し出して下さり、神の民として下さった。
その事をいつも覚えつつ、この地上を歩んで行くのが、キリストのゆくべき歩みである。

16:19 その時、彼らの数は少なくて、/数えるに足らず、かの国で旅びととなり、
16:20 国から国へ行き、/この国からほかの民へ行った。
16:21 主は人の彼らをしえたげるのをゆるされず、/彼らのために王たちを懲らしめて、
16:22 言われた、「わが油そそがれた者たちに/さわってはならない。わが預言者たちに害を加えてはならない」と。

まさに主は、アブラハムに、イサクに、そうして下さった。
主はアブラハムをかばい、エジプトの王パロや、ペリシテの王アビメレクという王達を懲らしめ、また主はイサクをかばい、アビメレクを懲らした。
その時、アブラハムやイサクの側に落ち度があったにもかかわらず、主は、祝福すると契約を結ばれた民のほうをかばい、特別扱いされるのである。

私達も、イエス様を信じる信仰により、アブラハムの子孫とされ、神の民とされ、そして特別扱いをされるのである。
それ故、私達もまたいつも主をほめたたえ、感謝すべきである。

聖歌隊の初編成(1歴代誌16:4-7)
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今回の箇所は、神殿における聖歌隊が誕生した箇所である。
それは、神の箱がダビデの町に安置されたその日に定められた。

16:4 ダビデはまたレビびとのうちから主の箱の前に仕える者を立てて、イスラエルの神、主をあがめ、感謝し、ほめたたえさせた。
16:5 楽長はアサフ、その次はゼカリヤ、エイエル、セミラモテ、エヒエル、マッタテヤ、エリアブ、ベナヤ、オベデ・エドム、エイエルで、彼らは立琴と琴を弾じ、アサフはシンバルを打ち鳴らし、
16:6 祭司ベナヤとヤハジエルは神の契約の箱の前でつねにラッパを吹いた。
16:7 その日ダビデは初めてアサフと彼の兄弟たちを立てて、主に感謝をささげさせた。

この日以降、主の御前にレビ人奉仕者による賛美が日々捧げられる事が続き、戦いの際には兵士達と共に賛美の部隊が進み行き、第二神殿の時代にも、この賛美奉仕は引き継がれた。

律法にはそのように指示する箇所は無いものの、ダビデは知っていたのだ。
賛美は、霊的世界と、そして永遠世界と密接に関わっているという事を。

賛美は、永遠の昔に存在し、永遠の未来にも存在する。
世界の土台が創られた時、賛美が沸き起こった。「かの時には明けの星は相共に歌い、/神の子たちはみな喜び呼ばわった。」(ヨブ38:7)
また、黙示録を見ると、天国は、賛美で満ちている所である事が分かる。

ダビデがサウル王に召しだされたのも、賛美奉仕が元だった。

『サウルの家来たちは彼に言った、「ごらんなさい。神から来る悪霊があなたを悩ましているのです。どうぞ、われわれの主君が、あなたの前に仕えている家来たちに命じて、じょうずに琴をひく者ひとりを捜させてください。神から来る悪霊があなたに臨む時、彼が手で琴をひくならば、あなたは良くなられるでしょう」。そこでサウルは家来たちに言った、「じょうずに琴をひく者を捜して、わたしのもとに連れてきなさい」。』(1サムエル記16:15-17)

霊の世界と、音楽とは、非常に密接な関係がある。
サウルが最初に主の霊が激しく降った時、預言者達の一団が色々な楽器を奏でつつ預言していたし、エリシャも預言をする時、立琴をひく者を連れてこさせた事があった。(2列王記3:15)

『ダビデはサウルのもとにきて、彼に仕えた。サウルはひじょうにこれを愛して、その武器を執る者とした。またサウルは人をつかわしてエッサイに言った、「ダビデをわたしに仕えさせてください。彼はわたしの心にかないました」。神から出る悪霊がサウルに臨む時、ダビデは琴をとり、手でそれをひくと、サウルは気が静まり、良くなって、悪霊は彼を離れた。』(1サムエル記16:21-23)

主を敬う人が奏でるメロディや、賛美は、悪しき霊を退けさせる。
神は、賛美を住まいとされるからだ。(詩篇22:3)

音楽は、霊的な事柄と密接に関わっているゆえに、悪しき事柄にも作用しやすい。
サタンは元々、天使ルシファー、すなわち、音楽を奏でる天使だったが、自分の美しさに酔いしれて高慢になり、堕落してしまった。

エゼキエル28:12 「人の子よ、ツロの王のために悲しみの歌をのべて、これに言え。主なる神はこう言われる、あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である。
28:13 あなたは神の園エデンにあって、もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。すなわち赤めのう、黄玉、青玉、貴かんらん石、緑柱石、縞めのう、サファイヤ、ざくろ石、エメラルド。そしてあなたの象眼も彫刻も金でなされた。これらはあなたの造られた日に、あなたのために備えられた。
28:14 わたしはあなたを油そそがれた/守護のケルブと一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。
28:15 あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日までは/そのおこないが完全であった。
28:16 あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から/汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを/火の石の間から追い出した。
28:17 あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。
28:18 あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によって/あなたの聖所を汚したゆえ、わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前で/あなたを地の上の灰とした。
28:19 もろもろの民のうちであなたを知る者は皆あなたについて驚く。あなたは恐るべき終りを遂げ、永遠にうせはてる」。

賛美や音楽の奉仕をする人は特に、高慢にならぬよう、また、主の栄光をいつも思うよう、気をつけるべきである。
私達はいつでも主に栄光を帰し、主を褒め称えるべきであって、自分を礼賛すべきでないのだ。

主の箱がいよいよダビデの町へ入ってきた(1歴代誌15:25-16:3)
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ウザの事件で、ダビデは恐れた。自分ごときが、神の箱を自分の都に運び込んでも良いものか、と。
しかし、神の箱をエルサレムに携え登る事は、主の御心だった。
『ダビデ王は、「主が神の箱のゆえに、オベデエドムの家とそのすべての所有を祝福されている」と聞き、ダビデは行って、喜びをもって、神の箱をオベデエドムの家からダビデの町にかき上った。』(2サムエル記6:12)
わずか3ヶ月で、明らかに「神の箱のゆえに」祝福されたという報告がされたからには、その祝福は余程、あからさまで分かりやすいものだったのだろう。
そこで、自信を得て、彼は主の箱を自分の町に携え登る事を続行した。

15:25 ダビデとイスラエルの長老たちおよび千人の長たちは行って、オベデ・エドムの家から主の契約の箱を喜び勇んでかき上った。
15:26 神が主の契約の箱をかくレビびとを助けられたので、彼らは雄牛七頭、雄羊七頭をささげた。

主もまた、主の御言葉に立ち返り忠実に行おうとしたダビデ達をたすけられた。
そしてダビデは、レビ人が6歩進むごとに、いけにえをささげた。


15:27 ダビデは亜麻布の衣服を着ていた。箱をかくすべてのレビびとは、歌うたう者、音楽をつかさどるケナニヤも同様である。ダビデはまた亜麻布のエポデを着ていた。
15:28 こうしてイスラエルは皆、声をあげ、角笛を吹きならし、ラッパと、シンバルと、立琴と琴をもって打ちはやして主の契約の箱をかき上った。
15:29 主の契約の箱がダビデの町にはいったとき、サウルの娘ミカルが窓からながめ、ダビデ王の舞い踊るのを見て、心のうちに彼をいやしめた。

ダビデはこの時、王といえども、他の働き人達と全く同じ格好をし、他の人達と全く同じように、共に主を喜び楽しんでいた。
それも、妻ミカルに蔑まれるほどに。
彼女は、主の箱が自分の町に入って来た事、主の栄光と臨在が共に住まわれる事の喜びで心を満たすのではなく、彼女の夫であり王であるダビデに対する蔑みで心をふくらませていた。
礼拝すべき時に主を仰ぎ見ず、主を仰ぐべき目を、人に向け、礼拝が終わったらどうとっちめてやろうか、という意図を持って、礼拝をそっちのけにしてしまう人のように。

16:1 人々は神の箱をかき入れて、ダビデがそのために張った幕屋のうちに置き、そして燔祭と酬恩祭を神の前にささげた。
16:2 ダビデは燔祭と酬恩祭をささげ終えたとき、主の名をもって民を祝福し、

ダビデはこの時、祭司やレビ人と同じ服装、すなわち亜麻布のエポデを身にまとって、人々を祝福した。
祝福する事は、牧師など一部の人だけの特権ではない。一家の長や、権威的に上に立つ人は、積極的に家族や配下の人々を祝福するべきである。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、子孫達を祝福したし、ボアズもそうだった。

さて、歴代誌は、ミカルについてはわずか1節でしか説明していないが、ミカルがその後いかなる事をしたのか、第二サムエル記に詳細に記されている。

『ダビデが家族を祝福しようとして帰ってきた時、サウルの娘ミカルはダビデを出迎えて言った、「きょうイスラエルの王はなんと威厳のあったことでしょう。いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」。』(2サムエル記6:20)

ダビデは家族を祝福するために入ってきたのに、ミカルはそれを遮って、自分の中で膨らませていた不満をぶちまけた。
祝福をしてくれる人、すなわち、主を畏れ敬う主人を蔑む人は、いのちの祝福を受けられない。

ミカルは、ダビデに王として威厳を保つべき事を、求めたのだろう。
王たる者は、民草と対等になってはならず、王服を脱ぐべきでない、いかに主の箱が自分の所に来るような場面であろうと、上に立ち、王服をまとって威厳を保つべきだ、と。
しかし、神の国においては、自分という「王」の上に、さらに王の王たるお方がおられ、そのお方の前では、むしろ自分の王服を脱ぐべきであり、自分の冠を外すべきなのだ。

『ダビデはミカルに言った、「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。わたしはまた主の前に踊るであろう。わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。そしてあなたの目には卑しめられるであろう。しかしわたしは、あなたがさきに言った、はしためたちに誉を得るであろう」。』(2サムエル記6:21-22)

ミカルは「家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」と言ったが、ダビデは、家来たちや、はしためたちの目の前、という意識はなかった。
ダビデは「誰の前」と言っただろうか。「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前」、と言った。

ダビデは自分よりももっと「王」なるお方、すなわち、自分も、ミカルの父をも、王として下さったお方がおられる事をミカルに答えた。
さらにダビデは、自分はもっともっと主の前に低くされて行く、と告白し、また、自分が王として君臨する事より、むしろ、ミカルが「家来たちのはしためら」と呼んで蔑んだ人達から、誉れを受ける事のほうを望んだ。

キリストは、まさにそうだった。
彼は、ご自身の王であられる立ち位置を捨て、人と同じようになり、また、偉いと見られている人々から蔑まれ、むしろ子供や遊女や取税人からほまれを受けた。
彼はあざけられ、罵られ、その衣服は人々によってくじにかけられ、十字架の上で、裸を晒された。

『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。』(ピリピ2:6-11)

キリストは自分を卑しくし、死に至るまでも忠実だったからこそ、何にもまさる栄誉が与えられたように、ダビデもまた、主の御前では王服を脱ぎ、王座を降り、自分を低くしてへりくだる心を持っていたからこそ、高められたのだ。
自分を低くする者は高められ、高くする者は低くされる。(ルカ14:11)

ミカルは「サウルの娘」という呼ばれ方はされていても、「ダビデの妻」「王妃」という呼ばれ方はされなかった。

ミカルも、彼女の父も、あくまで自分という王座から降りない道を貫き通したが、ミカルはどうなったか。
『こうしてサウルの娘ミカルは死ぬ日まで子供がなかった。』(2サムエル記6:23)
ミカルからは、いのちが生まれなかった。
ミカルのような性質の人、すなわち、自分が王であろうとする人、祝福すべき夫や権威を敬わず、いつも自分が上となって意見していたい人には、主はいのちを任せられないのだ。

私達は、まことの王、まことの夫である主キリストを前にした時、自分の王座を降り、主に全てを譲り、主のなさる事を喜ぶべきである。
 

御前にきよさを保とうとする働き人を祝福される主(1歴代誌15:1-24)
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ダビデは前のウザの事件について、その失敗原因を総チェックした。
何を基準としてチェックしたのか。それは、御言葉によってである。
私達も、主のミニストリーを行う時、失敗したり災いが起こったり、栄えないままであるとするなら、御言葉を元にした総点検を行うべきである。

15:1 ダビデはダビデの町のうちに自分のために家を建て、また神の箱のために所を備え、これがために幕屋を張った。
15:2 ダビデは言った、「神の箱をかくべき者はただレビびとのみである。主が主の箱をかかせ、また主に長く仕えさせるために彼らを選ばれたからである」。
15:3 ダビデは主の箱をこれがために備えた所にかき上るため、イスラエルをことごとくエルサレムに集めた。
15:4 ダビデはまたアロンの子孫とレビびとを集めた。

ダビデは民数記4:15から、神の箱の正しい運び方を知った。
すなわち、まず祭司が神の箱を梱包し、その後にレビ人の、ケハテ族が来て、担ぎ棒で担いでそれを運ぶという方法である。
それで祭司とレビ人を呼び寄せた。

「神の箱をかくべき者はただレビびとのみである。主が主の箱をかかせ、また主に長く仕えさせるために彼らを選ばれたからである」
神の箱とは、神と人との契約のしるしであり、その中に入っているものは、主の命令が記された石の板、マナの入った金の壷、アーモンドの芽と花が吹いたアロンの杖である。
石の板は、御言葉そのものであり、マナは、神様が天から与えて下さった食物、すなわち、全て人に必要なものを満たして下さるしるしであり、芽を吹いたアロンの杖は、永遠の祭司のしるしであり、かつ、死からいのちを息吹いて下さる、いのちの源なる主のしるしである。
これを運ぶ人間は、神によって任職された人間でなくてはならず、また、御言葉にかなった方法でなくてはならない。
そしてその上で、その人は常に、そのつとめに当たる際には自らを清め、聖別された状態を保ち続けなくてはならない。

15:11 ダビデは祭司ザドクとアビヤタル、およびレビびとウリエル、アサヤ、ヨエル、シマヤ、エリエル、アミナダブを召し、
15:12 彼らに言った、「あなたがたはレビびとの氏族の長である。あなたがたとあなたがたの兄弟はともに身を清め、イスラエルの神、主の箱をわたしがそのために備えた所にかき上りなさい。
15:13 さきにこれをかいた者があなたがたでなかったので、われわれの神、主はわれわれを撃たれました。これはわれわれがその定めにしたがってそれを扱わなかったからです」。

ダビデは、奉仕のために神に選ばれた人達・すなわち祭司とレビ人を呼び寄せ、言った。
身を清めなさい、と。
そして、先に神の箱を運んだ者が「あなたがたでなかったので、われわれの神、主はわれわれを撃たれました」、と言った。
本当に私達も、主の働きをする奉仕者をよくよく選別すべきである。
そして選別したら、次にする事は、彼らの身を清める(聖別する)事である。

15:14 そこで祭司たちとレビびとたちはイスラエルの神、主の箱をかき上るために身を清め、
15:15 レビびとたちはモーセが主の言葉にしたがって命じたように、神の箱をさおをもって肩にになった。

レビ人達は、身を清めてから、神の箱を担った。
奉仕者は、常に、自分自身をきよい状態へと保ち続ける努力をすべきである。
ある職種は毎年それに相応しい技量が落ちていないかチェックするためにオーディションを受けなくてはならず、それに落ちてしまったなら、いかに何年それに勤めていたとしても、その勤めに入れない。
主の働きをする人も、同じである。
常に自らが主の御前にきよい状態であるかどうか。それを怠り、きよくないままで御前に仕えようとするなら、恐ろしい事が起きる。

レビ記10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、
 10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。

アロンの子でさえ、主の命令である御言葉に反する捧げ方をした時、主の火によって焼き滅ぼされ、死んだ。
この事の直後、主がアロンに命じられた事は、奉仕する時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない、という事であった。(同9節)

 10:9 「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒(シェカール)を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。

もしかすると、アロンの子達は酒気を帯びた状態で、正当な判断できない状態で、奉仕に当たろうとしたのかもしれない。
濃い酒(シェカール)は、うきうきさせるもの、高揚させるもの、という意味がある。
主の奉仕者は、主のものではないもの、世のもので高揚した状態で奉仕に当たるとするなら、それはとても危険な状態なのだ。
次のように書いてある。
 10:10 これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、
 10:11 また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。

もし、世の何かに酔った状態で主の勤めに入るなら、聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができず、また主が語られたすべての定めを、人々に教えることができないのだ。

10:3 その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。

もし、主に近づく奉仕者が、相応しくないままで出たとしたら、災いがその者に降る事によって、主は栄光をあらわし、奉仕者がきよくして出るなら、主は大いなる喜びと幸いをもって、その栄光をあらわしてくださる。
主は、御前にへりくだり御言葉どおりに行おうとしたダビデを祝福された。
主は、誠実な心をもって御言葉を守り行う者を祝福し、大きな喜びをもたらしてくださるのだ。

主が敵を私達の手に渡して下さる時(1歴代誌14:1-17)
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前回の箇所では、ダビデは主に伺わずに御言葉を違反した事をして災いと見れるような事を被った。しかし主は、自信を失っているダビデを力づけられる。

14:1 ツロの王ヒラムはダビデに使者をつかわし、彼のために家を建てさせようと香柏および石工と木工を送った。
14:2 ダビデは主が自分を堅く立ててイスラエルの王とされたことと、その民イスラエルのために彼の国を大いに興されたことを悟った。

主はダビデに、ヒラムの王を通して、彼の王国を確たるものにしておられる事を悟らせた。
主がダビデを王として固く立たせられたのは、ダビデという一人の個人を喜ばせるためでなく、「その民イスラエルのために」、彼の国を大いに興されたのである。
私達も、主に用いられ富においても名声においても祝福されるとするならば、私達個人をを喜ばせるためでなく、神の国がこの地に満ちるためであり、神の民のためである。

14:3 ダビデはエルサレムでまた妻たちをめとった。そしてダビデにまたむすこ、娘が生れた。
14:4 彼がエルサレムで得た子たちの名は次のとおりである。すなわちシャンマ、ショバブ、、ナタン、ソロモン、
14:5 イブハル、エリシュア、エルペレテ、
14:6 ノガ、ネペグ、ヤピア、
14:7 エリシャマ、ベエリアダ、エリペレテである。

子どもたちが多く産まれるのは祝福であるが、妻を多く持つ事は、災いの元である。
事実、ダビデは後に、妻の故に、そしてその子供達のゆえに、多くの苦しい体験をしてしまう事になる事は第二サムエル記で学んだ通りである。

14:8 さてペリシテびとはダビデが油を注がれて全イスラエルの王になったことを聞いたので、ペリシテびとはみな上ってきてダビデを捜した。ダビデはこれを聞いてこれに当ろうと出ていったが、
14:9 ペリシテびとはすでに来て、レパイムの谷を侵した。

神の民・イスラエルにおける戦いにおいて、勝利する事は神の御胸である事は変わり無いのだが、しかし、どのように戦いに出るべきであるのか、そこは自分で勝手に考えて行動するなら、前回の事件のように、散々な目に遭ってしまう。
そこで、私達・神の民にとって重要な事は、主に伺う事だ。

14:10 ダビデは神に問うて言った、「ペリシテびとに向かって上るべきでしょうか。あなたは彼らをわたしの手にわたされるでしょうか」。主はダビデに言われた、「上りなさい。わたしは彼らをあなたの手にわたそう」。

彼が主に伺ったところ、主は「わたしは彼らをあなたの手にわたそう(ナタン)」と言って下さった。
この、敵を「あなたの手に渡す」という主の言葉を引き出す事、それが、神の民が戦う時の勝利の保証である。
ヨシュアの時代も、この宣言を主からいただいた時、イスラエルは戦いに出かけた。

ヨシュア記6:1 さてエリコは、イスラエルの人々のゆえに、かたく閉ざして、出入りするものがなかった。
 6:2 主はヨシュアに言われた、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている(I have given into thine hand : ナタティ)。

このナタティの宣言、これが主の御口から宣言される時、その戦いは100%勝利し、そして敵のものは神の民の手に渡る。
その戦いの仕方は、世の方法とは全く違う。エリコの町の周囲を周りなさい、とか、バルサム樹の林の上で行進の音が聞こえたなら出て行って戦いなさい、とか、世の考え方で見るならあまりに無意味な、愚かな方法に見えるが、しかしそれを人の側が従順する時、目に見えない神の軍勢が進み行き、霊において既に勝利してくださり、結果、人が従順して出て行くときに、実体として勝利がもたらされる。

ダビデはいつも、主に伺い、出て行く事を旨としていた。それは、かなり初期の段階からそうだった。
ダビデがサウル王に追われていた時、彼の所に祭司エブヤタルが逃げて来た時から、早速主に伺う事をはじめた。

1サムエル記23:1 さて人々はダビデに告げて言った、「ペリシテびとがケイラを攻めて、打ち場の穀物をかすめています」。
23:2 そこでダビデは主に問うて言った、「わたしが行って、このペリシテびとを撃ちましょうか」。主はダビデに言われた、「行ってペリシテびとを撃ち、ケイラを救いなさい」。
23:3 しかしダビデの従者たちは彼に言った、「われわれは、ユダのここにおってさえ、恐れているのに、ましてケイラへ行って、ペリシテびとの軍に当ることができましょうか」。

この時、ダビデはまず主に伺った。結果、その言葉は人の常識では考えられない事であり、人をおじけさせる事だった。
神にまず伺い、その言葉が人をおじけさせる事であり、それを聞いた人がそれに反する事を進めて来る時、神の言葉を優先させるべきである。
ダビデは、それをする人だったからこそ、神の民のために大いに用いられたのだ。

23:4 ダビデが重ねて主に問うたところ、主は彼に答えて言われた、「立って、ケイラへ下りなさい。わたしはペリシテびとをあなたの手に渡します」。
23:5 ダビデとその従者たちはケイラへ行って、ペリシテびとと戦い、彼らの家畜を奪いとり、彼らを多く撃ち殺した。こうしてダビデはケイラの住民を救った。


14:11 そこで彼はバアル・ペラジムへ上っていった。その所でダビデは彼らを打ち敗り、そして言った、「神は破り出る水のように、わたしの手で敵を破られた」。それゆえ、その所の名はバアル・ペラジムと呼ばれている。

14:12 彼らが自分たちの神をそこに残して退いたので、ダビデは命じてこれを火で焼かせた。
14:13 ペリシテびとは再び谷を侵した。
14:14 ダビデが再び神に問うたので神は言われた、「あなたは彼らを追って上ってはならない。遠回りしてバルサムの木の前から彼らを襲いなさい。
14:15 バルサムの木の上に行進の音が聞えたならば、あなたは行って戦いなさい。神があなたの前に出てペリシテびとの軍勢を撃たれるからです」。
14:16 ダビデは神が命じられたようにして、ペリシテびとの軍勢を撃ち破り、ギベオンからゲゼルに及んだ。
14:17 そこでダビデの名はすべての国々に聞えわたり、主はすべての国びとに彼を恐れさせられた。

 

御言葉ぬきの間違った熱心によって起きてしまった事件 - ペレツ・ウザ(1歴代誌13:1-14)
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前章まではダビデに多くの勇士たち、軍人達がともどもダビデの元に集まって、イスラエルという国の建て上げに必要な人・モノが集まって来た事を見た。
神の国は、ダビデが主人公ではなく、主である。歴代誌にはもろもろの王達が登場するが、全て、主に御胸にかなった事を求めた王は栄え、御胸にではなく自分の好き勝手に行った王達は廃れて行った。
今回、ダビデ王がその王国のはじめに、御言葉にかなわない事を行って、主に戒められた記事が記されている。

13:1 ここにダビデは千人の長、百人の長などの諸将と相はかり、
13:2 そしてダビデはイスラエルの全会衆に言った、「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば、われわれは、イスラエルの各地に残っているわれわれの兄弟ならびに、放牧地の付いている町々にいる祭司とレビびとに、使をつかわし、われわれの所に呼び集めましょう。
13:3 また神の箱をわれわれの所に移しましょう。われわれはサウルの世にはこれをおろそかにしたからです」。
13:4 会衆は一同「そうしましょう」と言った。このことがすべての民の目に正しかったからである。

ダビデの前のサウル王の時代、神の箱はおろそかにされ、神の箱は、長い間、放置状態だった。

この時からさかのぼる事数十年前、サムエルがまだ若かった時、イスラエルは主を軽んじた故に、神の箱がペリシテに奪われてしまう、という事件があった。(2サムエル記4章)
しかし箱は、どの人間の手も借りず、ペリシテの地で多くの災いをもたらし、御者のいない牛車によってひとりでにイスラエルへと戻されたが、その戻された所のイスラエルの人々は、箱の中を見てしまうという「不敬」の故に、大勢の人々が倒れた。(同5-6章)
それ以来、神の箱はずっとアビナダブの家に安置され、そのまま何十年かが経過していた。

それを顧みて、エルサレムへ携え上って来よう、というのは、ダビデの主に対する熱心ゆえにその事を為そうという、正しい動機からである。
しかし、いかに主に対する熱心を動機としていても、正しい方法に基づかないなら、災いしてしまう事がある。

13:5 そこでダビデはキリアテ・ヤリムから神の箱を運んでくるため、エジプトのシホルからハマテの入口までのイスラエルをことごとく呼び集めた。
13:6 そしてダビデとすべてのイスラエルはバアラすなわちユダのキリアテ・ヤリムに上り、ケルビムの上に座しておられる主の名をもって呼ばれている神の箱をそこからかき上ろうと、
13:7 神の箱を新しい車にのせて、アビナダブの家からひきだし、ウザとアヒヨがその車を御した。
13:8 ダビデおよびすべてのイスラエルは歌と琴と立琴と、手鼓と、シンバルと、ラッパをもって、力をきわめて神の前に踊った。

ダビデは、今までにないアイデアを駆使し、盛大に神の箱を運んだ。
新しい牛車に神の箱を載せ、アビナダブの子達にその車を御させ、何万もの選り抜きの兵士と共に、色々な楽器を用いた洗練された賛美とダンスをもって主をほめたたえつつ運んだのだ。
かなり大掛かりで華やかなイベントが進行していたが、その盛り上がりが頂点に達した時、バケツで水をかけられてしまうような、その全部を覆してしまうような事が起こって、イベントは中止に追い込まれてしまう。

13:9 彼らがキドンの打ち場に来た時、ウザは手を伸べて箱を押えた。牛がつまずいたからである。
13:10 ウザが手を箱につけたことによって、主は彼に向かって怒りを発し、彼を撃たれたので、彼はその所で神の前に死んだ。
13:11 主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ・ウザと呼ばれている。

なんと、運んでいた牛が、神の箱をひっくり返そうとし、それをウザが手をもって支えようとして神の箱に触れた途端、打たれて死んでしまったのだ。
「いい事」をしたはずのウザが、主に撃たれ死んでしまう・・・なぜこのような事が起きるのだろう。
かつて、主の箱が、御者のいない牛車に載せられて、ひとりでにイスラエルへと戻るように仕向けて下さった主は、今回、牛がひっくり返さないようにする事など、当然出来たはずである。
それなのになぜ、主は、大勢の人達が集っているイベントの真っ最中、しかも、その熱狂が最高潮に盛り上がっている時に、この事をおこされたのか。
現代の私達は、ここから、重要な主の警告を読み取るべきである。。

なぜこの事が起きたのか。
御言葉を探ってみると、実は、ダビデ達の側に、過ちがいくつもあった事に気づく。
再び1節からじっくりおさらいしたい。

『ここにダビデは千人の長、百人の長などの諸将と相はかり、そしてダビデはイスラエルの全会衆に言った、「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば、われわれは、イスラエルの各地に残っているわれわれの兄弟ならびに、放牧地の付いている町々にいる祭司とレビびとに、使をつかわし、われわれの所に呼び集めましょう。また神の箱をわれわれの所に移しましょう。われわれはサウルの世にはこれをおろそかにしたからです」。』(1歴代誌13:1-3)

ダビデはここで「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば」と言っている。
つまり、「あなたがた」千人隊長や百人隊長が「先」で、「われわれの神、主」が「後」になっている。
人が先で、主の御名が後。この志が、まず一つである。

『会衆は一同「そうしましょう」と言った。このことがすべての民の目に正しかったからである。そこでダビデはキリアテ・ヤリムから神の箱を運んでくるため、エジプトのシホルからハマテの入口までのイスラエルをことごとく呼び集めた。』(1歴代誌13:4-5)
この一大イベント企画は、社会的ステータスの高い軍人たちの賛同が得られ、多くの人達が動員された様子は記されている。

しかし、ダビデが主に伺ったとか、祭司やレビ人に相談を求めた、といった記述は見いだせない。もしも祭司やレビ人に相談していたら、絶対、牛車で運ぶような指示はしないはずである。(後述)
いかに多くの人達の賛同が得られても、また、何万人を動員するイベントが企画され実行されてしまっていても、主の御心を外して突き進んでしまうのは、危険だ。なぜなら、御言葉は「法則」であり、「これをすれば死ぬ」と言われている事をするならば、死んでしまうからだ。

彼らは、神の箱を運ぶ場合、どうするべきだったのだろうか。その場合の作法が、民数記4章に記されている。
『宿営の進むとき、アロンとその子たちとが、聖所と聖所のすべての器をおおうことを終ったならば、その後コハテの子たちは、それを運ぶために、はいってこなければならない。しかし、彼らは聖なる物に触れてはならない。触れると死ぬであろう。会見の幕屋のうちの、これらの物は、コハテの子たちが運ぶものである。』(民数記4:15)
つまり、神の箱は、大祭司の子孫によって梱包された上、レビ人のコハテ族が担ぎ棒で担いで運ぶものであり、この取り扱いを万一間違えるなら死人が出る恐れさえある事が記されている。
つまり、神の箱を、コハテ族以外の者に、それも牛車で運ばせるなど、とんでもない事だったのだ。

ダビデはこの度、主を第一とせず人間やイベント第一にするという間違いをし、祭司やレビ人など御言葉のエキスパートに聞かず、社会ステータスのある人々と合議し、その結果、御言葉ぬきの間違った熱心により、奉仕にアサインされてはならない奉仕者をアサインし、してはならない手段で主の契約の箱を運び、その結果、「ペレツ・ウザ」の事件が起きたのだ。
現代の私達も、よくよく注意すべきである。
イベント第一にしたり、御言葉のエキスパートより社会的ステータスのある人の意見を優先させたりして、御言葉を超えた事をもって、神の国の事業を進めようとするなら、主は何かしらの「ペレツ・ウザ」を起こされるだろう。
ダビデは、それを素直に受け止めて、省みた。

13:12 その日ダビデは神を恐れて言った、「どうして神の箱を、わたしの所へかいて行けようか」。
13:13 それでダビデはその箱を自分の所ダビデの町へは移さず、これを転じてガテびとオベデ・エドムの家に運ばせた。
13:14 神の箱は三か月の間、オベデ・エドムの家に、その家族とともにとどまった。主はオベデ・エドムの家族とそのすべての持ち物を祝福された。

ダビデは手段を間違えたが、しかし神の箱が急遽運び込まれたガテ人オベデ・エドムの家は、祝福を受けた。
つまり神の箱を運び入れる事は正しい事、祝福される事であると、主はサインを送られた。
ダビデの主を思う志は正しかったのだが、しかし、仕方が人間中心の、御言葉を侵犯したやり方だったのだ。

もしもダビデのこの度のイベントが、何の落ち度もなく進んで行っていたとしたら、どうだっただろう。
ダビデ達は確実に、御言葉に聞かない方向へと進んで行っただろう。
「なんとなく主に従っているつもり」と思い込みながら、実は御言葉を知らず、企画したイベントの成功や、人々の盛り上がりにばかり苦心して、突き進んで行く内に、御言葉が「してはならない」と警告している領域を侵犯するなら、滅びへと突き進んでしまうのだ。
これは、現代を生きる神の民である私達がよくよく留意すべき事である。
現代の私達が、クリスチャンイベント、礼拝イベント、伝道イベント、諸々の事を興すとするなら、それは主から出たもの・主を中心とするべきものである。
もし私達も、主が、そして御言葉が置き去りにされたまま、人の祭りに酔いしれるなら、何かしらの犠牲を伴う警告が与えられるものである。

王国を成就するために必要な人、事、モノを次々に備えてくださった主(1歴代誌12:1-40)
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12章は、ダビデが王になる前、まだサウルの勢力が活発だった時にもかかわらず、ダビデについた人達の目録である。
主は、ダビデにとって必要が迫られ時に、彼にとって必要な事、モノ、人を備えられた事が、はっきりと記されている。
集ってきた人達はみな、主の御心を知り、主の時をはかり、主に促されて、ダビデを助けに来た人達である。

12:1 ダビデがキシの子サウルにしりぞけられて、なおチクラグにいた時、次の人々が彼のもとに来た。彼らはダビデを助けて戦った勇士たちのうちにあり、
12:2 弓をよくする者、左右いずれの手をもってもよく矢を射、石を投げる者で、ともにベニヤミンびとで、サウルの同族である。

ダビデがチクラグ(ツィケラグ)にいた時といえば、ダビデがサウルを恐れてペリシテ人の地に逃れていた時である。
そのように、ダビデが最も恐れていた時期に、ダビデのもとに、サウルと同族のベニヤミン族の精鋭たちが、ダビデを助けるために来た。

続いて、時期的に少し遡って、ガド族の精鋭たちが、要害にいるダビデの元に来た人達が記されている。

12:8 ガドびとのうちから荒野の要害に来て、ダビデについた者は皆勇士で、よく戦う軍人、よく盾とやりをつかう者、その顔はししの顔のようで、その速いことは山にいるしかのようであった。
・・・
12:14 これらはガドの子孫で軍勢の長たる者、その最も小さい者でも百人に当り、その最も大いなる者は千人に当った。
12:15 正月、ヨルダンがその全岸にあふれたとき、彼らはこれを渡って、谷々にいる者をことごとく東に西に逃げ走らせた。

本当に頼もしい戦士達である。彼らはダビデが要害にいた時、すなわち、ダビデがサウル王に追われているという、情勢的にダビデが圧倒的不利、サウルが圧倒的有利な時期に、ダビデのほうについた。それはまさに、彼らは主の御心と、主がこれからなさる事をわきまえていたからである。

12:16 ベニヤミンとユダの子孫のうちの人々が要害に来て、ダビデについた。
12:17 ダビデは出て彼らを迎えて言った、「あなたがたが好意をもって、わたしを助けるために来たのならば、わたしの心もあなたがたと、ひとつになりましょう。しかし、わたしの手になんの悪事もないのに、もしあなたがたが、わたしを欺いて、敵に渡すためであるならば、われわれの先祖の神がどうぞみそなわして、あなたがたを責められますように」。

サウルに追われて要害にいた時期のダビデとしては、サウルと同族の者達が来た、となると、当然心配しただろう。
普通なら門前払いするか、あるいはサウルのような疑心暗鬼に駆られるとするなら、厳しい追求をするであろうが、ダビデは「われわれの先祖の神」に委ねた。
すると、主が答えてくださる。

12:18 時に霊が三十人の長アマサイに臨み、アマサイは言った、/「ダビデよ、われわれはあなたのもの。エッサイの子よ、われわれはあなたと共にある。平安あれ、あなたに平安あれ。あなたを助ける者に平安あれ。あなたの神があなたを助けられる」。そこでダビデは彼らを受けいれて部隊の長とした。

ダビデは主により頼む者であり、主の霊に導かれる者である。だからアマサイの言葉が、真実であられる主から来たものであり、そして彼らが真実な心をもって来た事を、一瞬で悟った。そこで彼らを受け入れ、要職に就かせる。
霊に導かれる人は、霊によって悟るのだ。

12:19 さきにダビデがペリシテびとと共にサウルと戦おうと攻めて来たとき、マナセびと数人がダビデについた。(ただしダビデはついにペリシテびとを助けなかった。それはペリシテびとの君たちが相はかって、「彼はわれわれの首をとって、その主君サウルのもとに帰るであろう」と言って、彼を去らせたからである。)
12:20 ダビデがチクラグへ行ったとき、マナセびとアデナ、ヨザバデ、エデアエル、ミカエル、ヨザバデ、エリウ、ヂルタイが彼についた。皆マナセびとの千人の長であった。
12:21 彼らはダビデを助けて敵軍に当った。彼らは皆大勇士で軍勢の長であった。

この、マナセ出身の勇士たちが来たタイミングは、ちょうどダビデが流されるままにペリシテ人に味方してイスラエルのサウル王に戦いを仕掛けようとしていた時である。
しかしペリシテ人たちは、このようなダビデ達を信頼できず、一緒にサウル王に対する戦いに出すことをさせなかった。
そのお陰でダビデは、主に油注がれたサウル王に手をかける事から免れ、主の民イスラエルに刃を向ける事をしないで済んだ。
もしかすると、このタイミングでマナセ族の勇士達が来た事もまた、ペリシテ人たちの心にダビデを信頼できなくさせた一因になったのかもしれない。
まことに主のタイミングは、美しいものである。

そうして、ダビデを助ける人達は続々と加えられていく。

12:22 ダビデを助ける者が日に日に加わって、ついに大軍となり、神の軍勢のようになった。
12:23 主の言葉に従い、サウルの国をダビデに与えようとして、ヘブロンにいるダビデのもとに来た武装した軍隊の数は、次のとおりである。
12:24 ユダの子孫で盾とやりをとり、武装した者六千八百人、
12:25 シメオンの子孫で、よく戦う勇士七千百人、
12:26 レビの子孫からは四千六百人。
・・・

この、大勢の勇士たちは「主エホバの言葉に従って」来た。
彼らは主の御胸は何であるのかをわきまえ、今この時、何をすべきかを悟ったから、ある人は時勢的にサウル王が栄えていた時からダビデに仕えるために来た。

12:29 サウルの同族、ベニヤミンの子孫からは三千人、ベニヤミンびとの多くはなおサウルの家に忠義をつくしていた。

ベニヤミン族の中からでも、主の御胸を離れて暴走するサウル王を見限って、ダビデについた人達もまたいた。
最後には口寄せに頼ったサウル王に最後まで一緒にいたベニヤミン族の戦士達は皆、サウル王と共に打たれ死んだが、主エホバの言葉を重んじてダビデの元へ来た勇士たちは、ダビデと共に後の時代を栄光の内に生きた。

12:32 イッサカルの子孫からはよく時勢に通じ、イスラエルのなすべきことをわきまえた人々が来た。その長たる者が二百人あって、その兄弟たちは皆その指揮に従った。

彼らは「よく時勢に通じ、イスラエルのなすべきことをわきまえた人々」と賞賛されている。
私達も、このイッサカルの子孫にならい、今この時、何が主の御胸であるのかを探り、見極め、神の民として今、何を為すべきかをわきまえ知る洞察力が与えられるよう求めるべきである。

12:33 ゼブルンからは五万人、皆訓練を経た軍隊で、もろもろの武具で身をよろい、一心にダビデを助けた者である。
12:34 ナフタリからは将たる者一千人および盾とやりをとってこれに従う者三万七千人。
12:35 ダンびとからは武装した者二万八千六百人。
12:36 アセルからは戦いの備えをした熟練の者四万人。
12:37 またヨルダンのかなたルベンびと、ガドびと、マナセの半部族からはもろもろの武具で身をよろった者十二万人であった。

このように、非常に大勢の軍勢が、ダビデを王にするためにヘブロンのダビデの元に来た。
こうしてダビデが王になるという神の御心は、満を持して成就する。

12:38 すべてこれらの戦いの備えをしたいくさびとらは真心をもってヘブロンに来て、ダビデを全イスラエルの王にしようとした。このほかのイスラエルびともまた、心をひとつにしてダビデを王にしようとした。
12:39 彼らはヘブロンにダビデとともに三日いて、食い飲みした。その兄弟たちは彼らのために備えをしたからである。
12:40 また彼らに近い人々はイッサカル、ゼブルン、ナフタリなどの遠い所の者まで、ろば、らくだ、騾馬、牛などに食物を負わせて来た。すなわち麦粉の食物、干いちじく、干ぶどう、ぶどう酒、油、牛、羊などを多く携えて来た。これはイスラエルに喜びがあったからである。

彼ら勇士たちは「真心をもって」「心をひとつにして」ダビデを王にしようとした、と記されている。
私達も、まことの王、ダビデの子孫であるイエス様を、真心をもって、心をひとつに共に集い、与えられたもろもろの賜物を活用し、時をわきまえ、御心を求めて、王の王であられる主イエス様に仕えるべきである。

ダビデと共に神の国を建て上げた主の軍の勇士たち(1歴代誌11:1-9)
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11:10 ダビデの勇士のおもなものは次のとおりである。彼らはイスラエルのすべての人とともにダビデに力をそえて国を得させ、主がイスラエルについて言われた言葉にしたがって、彼を王とした人々である。

以降、記される人々は「三勇士」と呼ばれ、また「あの三十人」と呼ばれる勇士たちであり、彼らはダビデの王権を確立させ、神の国であるイスラエルのために多大な貢献をした人達である。
彼らは、単に武功を立てたとか、単に力強く武芸に秀でたという事よりも、イスラエルの主君であるダビデをいかに愛し、そしてまことの主君である「主がイスラエルについて言われた言葉にしたがって」いる事が、評価された者達である。(10節)

11:11 ダビデの勇士の数は次のとおりである。すなわち三人の長であるハクモニびとの子ヤショベアム、彼はやりをふるって三百人に向かい、一度にこれを殺した者である。
11:12 彼の次はアホアびとドドの子エレアザルで、三勇士のひとりである。
11:13 彼はダビデとともにパスダミムにいたが、ペリシテびとがそこに集まって来て戦った。そこに一面に大麦のはえた地所があった。民はペリシテびとの前から逃げた。
11:14 しかし彼は地所の中に立ってこれを防ぎ、ペリシテびとを殺した。そして主は大いなる勝利を与えて彼らを救われた。

このような武芸に秀でた様は確かに目を見張るが、大切な事は「主は大いなる勝利を与えて彼らを救われた」という事である。
彼らのような者が、ダビデ・ソロモンの時代以降にいたなら、確実にその武功と名前が載せられたであろう。
なぜダビデの時代に、このような勇士たちが現れる事が頻発したか。それは、主に従う心が熱い時代だったからであろう。それで主は、彼らに力と勝利を与えられたのだ。詩篇に記されているとおりである。

詩篇18:32 この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。
18:33 彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。
18:34 戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。

そして、この三勇士は以下のいのちがけの誠実をダビデ王に示した。

11:15 三十人の長たちのうちの三人は下っていってアドラムのほらあなの岩の所にいるダビデのもとへ行った。時にペリシテびとの軍勢はレパイムの谷に陣を取っていた。
11:16 その時ダビデは要害におり、ペリシテびとの先陣はベツレヘムにあったが、
11:17 ダビデはせつに望んで、「だれかベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をわたしに飲ませてくれるとよいのだが」と言った。
11:18 そこでその三人はペリシテびとの陣を突き通って、ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をくみ取って、ダビデのもとに携えて来た。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、
11:19 言った、「わが神よ、わたしは断じてこれをいたしません。命をかけて行ったこの人たちの血をどうしてわたしは飲むことができましょう。彼らは命をかけてこの水をとって来たのです」。それゆえ、ダビデはこの水を飲もうとはしなかった。三勇士はこのことをおこなった。

ダビデ王は、いのちがけで汲んできてくれたこの水を、一滴も飲まず、主に捧げた。
いのちがけで戦う理由は、主のためであって、ダビデひとりのためではないからだ。それが、ダビデ王のみならず、この三人に徹底されていたからこそ、彼らは三勇士として栄誉を残したのだろう。

11:20 ヨアブの兄弟アビシャイは三十人の長であった。彼はやりをふるって三百人に立ち向かい、これを殺して三人のほかに名を得た。
11:21 彼は三十人のうち、最も尊ばれた者で、彼らのかしらとなった。しかし、かの三人には及ばなかった。
11:22 エホヤダの子ベナヤは、カブジエル出身の勇士であって、多くのてがらを立てた。彼はモアブのアリエルのふたりの子を撃ち殺した。彼はまた雪の日に下っていって、穴の中でししを撃ち殺した。
11:23 彼はまた身のたけ五キュビトばかりのエジプトびとを撃ち殺した。そのエジプトびとは手に機の巻棒ほどのやりを持っていたが、ベナヤはつえをとって彼の所へ下って行き、エジプトびとの手から、やりをもぎとり、そのやりをもって彼を殺した。
11:24 エホヤダの子ベナヤは、これらの事を行って三勇士のほかに名を得た。
11:25 彼は三十人のうちに有名であったが、かの三人には及ばなかった。ダビデは彼を侍衛の長とした。

ここでヨアブの兄弟アビシャイと、後にヨアブに代わる軍団長になったエホヤダの子ベナヤの名が連ねている。
ベナヤは祭司エホヤダの子で、ヨアブの元では、外国の雇用兵の長であったが、後に王権がソロモンの代になると、彼は、ソロモンの命によってヨアブを殺し、ヨアブに代わって軍団長の座に着く事になる。
ダビデの時代、軍事的な面でもっとも活躍した人といえば、間違いなく、ヨアブであろう。しかし、彼の名は、3勇士にも30勇士にも登録されていないのだ。
この「登録されていない」事は、注目すべきである。

ヨアブは、ダビデに対して度々の命令違反を犯し、ダビデを軽んじていたばかりでなく、後のダビデの後継者争いでアドニヤのほうを支持してたため、ソロモン王の指示により、エホヤダの子ベナヤの手で殺される事になってしまう。(1列王記2:29−35)
確かにダビデの時代、軍事的な面で最も功績を上げたかもしれないが、どんなに活躍しても、主君を軽んじ、不従順を重ね、主の御旨でないなら、特別な地位から降ろされ、抹殺され、王国の勇士達のリストから除外されてしまうのだ。

11:26 軍団のうちの勇士はヨアブの兄弟アサヘル。ベツレヘム出身のドドの子エルハナン。
・・・
11:41 ヘテびとウリヤ。アハライの子ザバデ。
11:42 ルベンびとシザの子アデナ。彼はルベンびとの長であって、三十人を率いた。

26節から47節までに勇士たちの名が書き記されているが、30以上の名前がある。
おそらくダビデの治世中、ヨアブの兄弟アサエルやヘテ人ウリヤのように、途中戦死してしまった所を、補充して行った人達の名前も、加えられたのだろう。

ヘテ人ウリヤは、ダビデの姦淫と殺人の罪の犠牲になってしまった。ダビデとしては、彼の名が記録されるのは恥ずかしかったであろうが、彼は30勇士のひとりとして記録されている。
もし、このリストが、ダビデの栄光のためのリストであるなら、ウリヤは除外され、ヨアブは残ったかもしれない。
しかしあいにく、このリストはダビデ王の栄誉のためではなく、主の御国を建て上げるために貢献した人達のリストである。

私達も、まことのダビデであるキリストに従順し、主が与えて下さるこの霊的武具をよく駆使し、悪しき者に対抗し、よく戦うべきなのだ。
主君を軽んじ、従順しないで、身勝手な王を立てるなら、いかに「出来る人」であったとしても、ヨアブのように立場を追われ、除外されてしまう。
次のように書かれているからである。

2テモテ2:1 そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。
2:2 そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。
2:3 キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。
2:4 兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。
2:5 また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。
2:6 労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。
2:7 わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。
2:8 ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。

ダビデ、王となり、エルサレムを居住とする(1歴代誌11:1-9)
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前回はイスラエル初代の王サウルについてだったが、サウルは主の前に悪く歩んだゆえに、王権から退けられてしまい、主は、王権をダビデに回した。
以降、歴代誌は、ダビデ王家がいかにイスラエルを統治して行くようになったのかという内容と、彼が基礎を築いた神殿礼拝の詳細な成り立ちへと入っていく。

王の中の王として、現代も多くの人達に尊敬されているダビデ。彼はなぜ、神と人とに愛され、そこまで偉大な王となる事ができたのか。
ダビデとサウルの違いは、実は、そんなに多くない。むしろ、わずかである。
ダビデは、事あるごとに主に主に求め、罪を指摘された時は、間髪を入れず悔い改め、すぐ主に立ち返る性質だった。
それに引き換えサウルは、主のことばを守らず、主に求める事をしなかった。(1歴代誌10:13-14)
そして、罪を犯した時、言い訳をしたり、他人のせいにしたりし、結局自分は悪く無いというスタンスを変えなかった。

ダビデとサウルの違いはシンプルである。すなわち、日頃主に依り頼むか、頼まないか。そして罪を指摘された時、すぐに悔い改めるか、悔い改めないか。
それはシンプルであるが、実に、永遠の明暗を分ける。

11:1 ここにイスラエルの人は皆ヘブロンにいるダビデのもとに集まって来て言った、「われわれは、あなたの骨肉です。
11:2 先にサウルが王であった時にも、あなたはイスラエルを率いて出入りされました。そしてあなたの神、主はあなたに『あなたはわが民イスラエルを牧する者となり、わが民イスラエルの君となるであろう』と言われました」。
11:3 このようにイスラエルの長老が皆ヘブロンにいる王のもとに来たので、ダビデはヘブロンで主の前に彼らと契約を結んだ。そして彼らは、サムエルによって語られた主の言葉に従ってダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。

彼が王となった成り立ちは、自分のはかりごとや力に一切依らず、ただ、主の約束を信じて待つ姿勢を貫いた結果、「半自動的に」王とされた。
「自動」ではなく「半自動」である。
ダビデが自ら積極的に行動した事といえば、サウルが死んだ時、ペリシテの地からヘブロンへと移った事くらいで、それについても主に御心を伺い、主のゴーサインがあってから行動した。
サウルが死んだ時、彼はさっさとイスラエルに入って王を名乗る事をせず、サウルの死に対して「追悼の意」を内外に表明し、哀歌をつくった。
ヤベシ・ギレアデの人々がサウル家にした忠誠の行為が伝えられた時、それに対する賞賛の見解を「表明」する事も、忘れなかった。

サウル家の事実上の支配者であり将軍であるアブネルを、ダビデの部下のヨアブが卑劣な手で殺害した時、自分は一切関わりが無かった事を表明し、卑劣な手を用いたヨアブへの非難をし、アブネルのために追悼の歌を作り、人々に歌わせたばかりでなく、断食して悲しんだ。
サウル王家の生き残りであるイシュ・ボシェテが、不当な者の手によって殺害された事に対しても、『彼らを殺し、その手足を切り離し、ヘブロンの池のほとりで木に掛けた。人々はイシボセテの首を持って行って、ヘブロンにあるアブネルの墓に葬った。』(2サムエル記4:12)
ダビデは、アブネルにしたのと同じく、イシボセテをヘブロンに葬って敬意を表し、ここにおいても、神と人との前に義と平和を表明した。

このように、ダビデは王になろうとして自分から進んで行動する事は一切なく、ただ、ダビデが計り知れぬ所で、周りの状況が自動的に動いて行くのだが、その、動いた状況に対してダビデは何らかの表明をする、という事を繰り返して行く内に、「半自動的」に、彼は王となって行った。
祝福は「自動」ではない。私達も、何か物事が起きるならば、それに対し、言葉でもって、内外にいのちの立場に立った「表明」をして行かなくてはならないのだ。

ダビデがイスラエルの王になった出来事は、イスラエルの歴史でも重要な出来事、だが、もう一つの重要な出来事は、エルサレムという都にダビデが入り、そこをイスラエルの王の町とした事である。

11:4 ダビデとすべてのイスラエルはエルサレムへ行った。エルサレムはすなわちエブスであって、そこにはその地の住民であるエブスびとがいた。

ダビデが入る前、エルサレムは「エブス」という町で、エブス人が住んでいた。
ヨシュアの時代、そこはベニヤミン族のものとして割り当てられていたが(ヨシュア18:21-28)、ベニヤミン人はそこを自分のものとせず、ずっと放置してエブスが住むままにしていた。

この都の成り立ちは、私達・キリスト者の成り立ちと、よく共通している。

エルサレムが最初に聖書に登場するのはアブラハムの時代である。
『その時、「サレム(平和)」の王メルキゼデク(義の王)はパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った・・・。』(創世記14:18-20)
この「サレム」が、エルサレムの初期の名である。
そして、そこを支配していた王は、あのアブラハムを祝福した偉大な祭司・義の王であるメルキゼデクだった。
しかし、いつしかエブスという邪悪なカナン人が、この都を占拠し、支配するようになってしまった。

「エブス」の名の意味は「踏み潰す」、「エルサレム」の名の意味は「平和という土台」である。
元々は義の王が支配していた「平和の土台」という都は、やがて、「踏み潰す」者たちに占拠されてしまった。

人もまた、元々は神の似姿として創造され、永遠に、神と共に平和に生きるはずだったが、人はいつしか、邪悪な者に踏みにじられてしまった。
人を不当に踏みにじった者はサタンである。それ以来、人の内側は不法で満ち溢れ、罪によって占拠されてしまった。

時代が降り、ヨシュアの時代、「エブス」となっていたエルサレムの町は、ヨシュアのくじによって、ベニヤミンの地とされたが、ベニヤミン族はその町をずっと放置したままにした。
一時、ユダ族がその町を攻め取ったものの(士師記1:8)、その後もエブス人が住み続けていた、という事は、ベニヤミンはせっかく邪悪な者どもをユダ族に追い払ってもらったのに、そこを神の民で満たす事をせず、空き家のままに放置したのだろう。
それで再びエブス人が来て住むようになって、以前よりももっと攻め落としづらくなってしまった。

同じように、悪しきものが追い出されても、そこを良きもので満たしていないなら、後に、もっとたちの悪い七つの悪霊が来て住みつくようになってしまい、以前よりももっと悪い状態になってしまうのだ。(マタイ12:43-45)

この、長らく続いた邪悪な者による占拠状態から、ようやくエルサレムを救ったのが、ダビデだった。

11:5 エブスの住民はダビデに言った、「あなたはここにはいってはならない」。しかし、ダビデはシオンの要害を取った。これがすなわちダビデの町である。
11:6 この時ダビデは言った、「だれでも第一にエブスびとを撃つ者を、かしらとし、将とする」。ゼルヤの子ヨアブが第一にのぼっていったので、かしらとなった。
11:7 そしてダビデがその要害に住んだので人々はこれをダビデの町と名づけた。
11:8 ダビデはまたその町の周囲すなわちミロから四方に石がきを築き、ヨアブは町のほかの部分を繕った。

偉大な王・ダビデがエルサレムに介入して入り、邪悪な者達をなぎ払い、神の民が住む都とした。
こうしてこの都は、偉大な王・ダビデが名を置く所となり、さらに強固に建て直され、やがては、聖なる神殿がその中に構築されて行く。

私達キリスト者も、同じ事を経験している。
罪の奴隷状態として、邪悪な感情や思いの占拠状態であったこの心と身体に、まことのダビデであるイエス様が介入して入って来られ、罪や汚れをなぎ払い、神のものとして、私達を邪悪な者サタンから分捕り返して下さった。
さらには、私達を聖霊の住まわれる宮とされ、偉大な王・イエス・キリストが住まわれる「神殿」とされた。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。』(1コリント3:16)

エルサレムは今なお、不純なものが混在している状態であるが、将来、主の時に必ず完全で純粋なものへとつくり変えられる。
『また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。』(黙示録21:2)
その時、エルサレムは完全で清いものとなり、キリストの花嫁として、永遠にキリストのものとされる。

エルサレムがまだその途上であるように、今、私達も完成される途上にある。
私達のこの肢体には、相変わらず罪と義が混在状態になっていて、この身体を着ている間、しばし、うめかなくてはならないが、しかし私達がまことのダビデであるキリストを王として迎え入れる時、私達はこの地上の束縛から解放され、天に属するものとして、聖なる栄光の歩みをして行く事が出来、そして、来るべきキリストの花嫁として、ますます整えられて行くのである。

主に従わない者に振りかかる呪いのケーススタディ:サウル(1歴代誌10:1-14)
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歴代誌は10章以降、人の名前の羅列という形での「系図」は終わり、イスラエルの歴代の王の歴史となって行く。

歴代誌だけを読む人にとっては、10章で唐突に舞台もストーリーも変わるので、驚くかもしれないが、結局、歴代誌全体の根底は「系図」である。
人が生まれ、その人生の中で主に対して何かしらの事を為し、やがて死んで、その子どもたちが主に対し何かしらの事をして行く。
10章以降も、その繰り返しである事には変わりはなく、主に対して誠実に歩んだ人は祝福を受け継ぎ、不誠実に歩んだ人は呪われる所に、例外は一切無い。
神の民の「系図」は今なお続いており、それは現代の私達も、その中に含まれている。
歴代誌はヘブライ語ではディブレー・ハッヤーミーム、「日々の出来事」ユダヤ人の「日々の出来事」であると同時に、私達にも「日々の出来事」なのだ。

この10章は、主に対して不誠実に歩んだ一人の男・サウルの、呪われた最後が記されおり、ダビデ家へと王権が移っていく事の前奏が記されている。

10:1 さてペリシテびとはイスラエルと戦ったが、イスラエルの人々がペリシテびとの前から逃げ、ギルボア山で殺されて倒れたので、
10:2 ペリシテびとはサウルとその子たちのあとを追い、サウルの子ヨナタン、アビナダブおよびマルキシュアを殺した。

9章最後に、サウルへと続くベニヤミンの系図があったが、そのサウルの子たちのうち、エシュ・バアル(サムエル記:イシュ・ボシェテ)以外は、全て殺されてしまった。
そのイシュ・ボシェテも、ダビデのご機嫌伺いをしようとする者達の手によって殺されてしまう。
それは、サウルは主を捨てて悪を行ったからである。
申命記28:20 主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。これはわたしを捨てて、あなたが悪を行なったからである。

10:3 戦いは激しくサウルにおし迫り、射手の者どもがついにサウルを見つけたので、彼は射手の者どもに傷を負わされた。
10:4 そこでサウルはその武器を執る者に言った、「つるぎを抜き、それをもってわたしを刺せ。さもないと、これらの割礼なき者が来て、わたしをはずかしめるであろう」。しかしその武器を執る者がいたく恐れて聞きいれなかったので、サウルはつるぎをとってその上に伏した。
10:5 武器を執る者はサウルの死んだのを見て、自分もまたつるぎの上に伏して死んだ。
10:6 こうしてサウルと三人の子らおよびその家族は皆ともに死んだ。

サウルの最後は、矢傷を受けて敵が迫っているのに、介錯をしてもらえず、やむなく、自ら自害するというものだった。

なお、第二サムエル記1章には、サウルは最後の最後、まだ息があるのにひどいけいれんが起こったため、そばにいたアマレクの若者にとどめを刺してもらった、というアマレク人の証言がある。
自刃してもなお死にきれず、最後にアマレク人に止めを刺されたのか、それとも、アマレク人は褒美欲しさに「自分がとどめを刺した」とうそぶいたのか、定かではないが、いずれにせよ、アマレク人がサウルの死に関わったのは確かである。
サウルの死後、彼の王冠と腕輪はアマレク人に盗まれ、ダビデへと渡されてしまった。(2サムエル記1:10)
サウルは、聖絶せよと言われたアマレクを聖絶せずにいて、そのアマレクによって王冠が奪われ、そえれはダビデへと手渡される。実に象徴的だ。

10:7 谷にいたイスラエルの人々は皆彼らの逃げるのを見、またサウルとその子らの死んだのを見て、町々をすてて逃げたので、ペリシテびとが来てそのうちに住んだ。

サウルの周りからは、人々は逃げ離れて行ったが、それは彼から主の御手が離れたからであり、そなったのは、彼自身が主と主の言葉から離れたからだ。
彼は普段から主からの「方向修正せよ」というサインを、ことごとく無視し続けた。彼は預言者を退け、祭司を虐殺し、油注がれたダビデをも殺そうと執拗に追いかけ、ついには預言者にも祭司からも、油注がれた者からもそっぽ向かれ、そして最後には、主が忌み嫌われる口寄せに頼るという、信仰とは程遠い歩みをして、それを止めなかった。
結局彼は、長い信仰生活の間、「主により頼む」という信仰を育まず、ついには、与えられていた長い憐れみの期間を使い尽くしてしまい、リミットが来て、このような悲惨な最後になってしまったのだ。

10:8 あくる日ペリシテびとは殺された者から、はぎ取るために来て、サウルとその子らのギルボア山に倒れているのを見、
10:9 サウルをはいでその首と、よろいかぶとを取り、ペリシテびとの国の四方に人をつかわして、この良き知らせをその偶像と民に告げさせた。
10:10 そしてサウルのよろいかぶとを彼らの神の家に置き、首をダゴンの神殿にくぎづけにした。
10:11 しかしヤベシ・ギレアデの人々は皆ペリシテびとがサウルにしたことを聞いたので、
10:12 勇士たちが皆立ち上がり、サウルのからだとその子らのからだをとって、これをヤベシに持って来て、ヤベシのかしの木の下にその骨を葬り、七日の間、断食した。

ヤベシ・ギレアデは、サウルがまだ若かりし頃、王になった当初、サウルに救ってもらった町である。(1サムエル記11章)
サウルは、最初の信仰の行い故に、そのささやかな報いを受ける事ができた。

10:13 こうしてサウルは主にむかって犯した(ベマーアロ アシェル マーアル)罪のために死んだ。すなわち彼は主の言葉を守らず、また口寄せに問うことをして、
主に問うことをしなかった(リドローシュ・ヴェロ・ダラシュ)。それで主は彼を殺し、その国を移してエッサイの子ダビデに与えられた。

「マアール」と「ダラシュ」がここで繰り返されているが、マーアルは不信の罪、裏切る、不誠実の意味であり、ダラシュは求める・探す・通い続ける事である。
彼は主に信頼せず、主対し不誠実を続け、すなわち、主を裏切った。
そして彼は主を求めず、探さず、通い続けず、かえって、口寄せに解決を探し求めた。
そのように、主に対して不誠実を続けに続けた故、彼は、王から退けられてしまった。

箴言17:11 悪しき者はただ、そむく事のみを求める、それゆえ、彼に向かっては残忍な使者がつかわされる。

私達はこの書から、二通りの道を見る。
優れた王となって行くダビデの道と、御声に従わずに身勝手な自分の道を貫こうとしたサウルの道を。
この章は、身勝手な道を選んだ王の、悲惨な結末で締めくくられている。私達はここから戒めを受け、失敗の道を歩まず、ダビデのように優れた「王」となるろうと務めるべきだ。

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