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メッセージ - 1歴代誌カテゴリのエントリ

御国の系図へと入れられる事を求めつつ読むべき歴代誌の系図(1歴代誌9:1-44)
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9章は、バビロン捕囚後の各部族、特に祭司・レビ族の主だった人々の系図が簡潔に記され、そうして10章以降のイスラエルの王族の歴史へ、すなわち、サウルから始まり、ダビデとその子孫のバビロン捕囚に至るまでの歴史へと続いていく。
9:1は、それを簡潔に記している。

9:1 このようにすべてのイスラエルびとは系図によって数えられた。これらはイスラエルの列王紀にしるされている。ユダはその不信のゆえにバビロンに捕囚となった。
バビロン捕囚後、神の定められた約束の地へ帰還した人達は、少数であった。
70年も異邦の地におり、異邦の価値観、異邦の娯楽に染まった人達はそれぞれの場所に埋まってしまうものだが、その70年の中でも、自分のアイデンティティ、すなわち、神の国の者としてのアイデンティティを保っていた人達が、なお存在した。
その人達は第一に、祭司やレビ人の、御国の奉仕をしていた人達である。

9:2 その領地の町々に最初に住んだものはイスラエルびと、祭司、レビびとおよび宮に仕えるしもべたちであった。

そして、いわゆる一般信徒もエルサレムに戻ってきた。
それは、ユダ族、ベニヤミン族、エフライム族とマナセ族である。
その主だった人の簡潔な系図が3節から9節に記されている。
また、10節から13節には、捕囚から帰ってきた、神殿奉仕をする祭司の、簡潔な系図が記されている。
14節から16節にはレビ人の奉仕者の簡潔な系図が記され、17節以降、ダビデとサムエルが定めた神殿奉仕者の職責が記されている。(9:22)

9:17 門を守るものはシャルム、アックブ、タルモン、アヒマンおよびその兄弟たちで、シャルムはその長であった。
9:18 彼は今日まで東の方にある王の門を守っている。これらはレビの子孫で営の門を守る者である。

門衛や監守人は、聖なる場所を守る者である。
現在で言う警備員であるが、これが重要な奉仕として真っ先に記されているのは、私達もその価値観によって生きるためである。
私たちという生ける神の宮(2コリント6:16)もまた、門をしっかり守るべきである。すなわち、目、耳、口という門を。
世の汚れた価値観によって汚されないようにするために、出入りすることばや情報には常に注意を配るべきなのだ。
バビロン捕囚から帰ってきた彼らは、しっかりガードしてきよい価値観を保ったから、神の定められた相続地に住む幸いにあずかる事が出来た。私達も、しっかりガードするなら、御国の相続地にあずかる事が出来るのだ。

24節以降を見ると、本当に色々な奉仕があった事が分かる。
神殿の財を守る者、門の鍵をもって朝ごとの開け閉めをする者、器物の数を調べて出し入れする者、主への捧げものを管理する者、香料を調合したり、主に捧げるパンを造ったりつかさどったりする者など。

9:33 レビびとの氏族の長であるこれらの者は歌うたう者であって、宮のもろもろの室に住み、ほかの務はしなかった。彼らは日夜自分の務に従ったからである。

私達も現在、主のために諸々の奉仕があるが、それを単なる「作業」としてでなく、永遠のいのちの書に記される尊い奉仕として、日夜、主にお捧げするべきである。

9:35 ギベオンの父エヒエルはギベオンに住んでいた。その妻の名はマアカといった。

35節から44節は、ベニヤミン族の系図となり、8:29-38と重複する内容となる。

それは10章以降、列王記のように、再びイスラエルの王族の歴史となり、それは初代の王、ベニヤミン族のサウルから始まるからであろう。

歴代誌の系図と歴史、それは現代の私達には関係ないと思われがちだが、決してそうではない。
私達も御国の系図へ、いのちの書に名が書き記され、私達がイエス様にあって為したわざが書き記されるために、日々、天の御国を求め、勝ち取っていくよう努力して行くべきであり、この御国の系図の中に入れられる事を、私達も積極的に求めていくべきなのだ。

マタイ11:12 バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。

ベニヤミン族の系図 - 必ず報われる誠実な者(1歴代誌8:1-40)
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歴代誌の系図で一番の主人公は王族のユダ族、その次に祭司系のレビ族であるが、その次にあたるのは、ベニヤミン族と言える。

8:1 ベニヤミンの生んだ者は長子はベラ、その次はアシベル、第三はアハラ、
8:2 第四はノハ、第五はラパ。

8章は、ベニヤミン族の系図である。
ベニヤミン族はイスラエルの末っ子であるがその子孫は戦いに長けた者が多い。
しかし士師記の時代、ベニヤミン族はその力に傲慢になったのか、ソドムにも劣るような性的にも道徳的にも堕落した者となってしまった記事が、士師記19章以降に記されている。
この堕落してしまったベニヤミン族を取り締まるために他の11部族は戦いを仕掛けるが、イスラエルのほうは甚大な被害を受けながらも、真剣に主の前にへりくだった時にようやく勝利した。
ベニヤミン族のほうは、生き残った男子600人以外は皆殺しにされ、さらに他の11部族はベニヤミン族には娘はめとらせないと誓ってしまい、一時期はベニヤミン族は滅亡の危機に陥ってしまったが、主の憐れみによってなんとか持ち直した。
それら一連の事は、歴代誌には記されていないが、しかしサウル王の時代に至るまでの系図が、いくつかの挿話と共に記されている。

8:33 ネルはキシを生み、キシはサウルを生み、サウルはヨナタン、マルキシュア、アビナダブ、エシバアルを生んだ。

サムエルの時代、人々は主の御心に逆らって王を求め、主は彼らの望み通りに王をたてた。それがサウルである。
サウルの名は「尋ねられる」「面会を求められる」という意味である。
彼は「若くて麗しく、イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく、民のだれよりも肩から上、背が高」かった。(1サムエル記9:1)
そればかりでなく、裕福な家出身であり、場の空気をよく読む、思いやりのある人だった。
まさに、人々から「求められる」という名前の通りの者であった。
人を思いやるのは良いことであるが、神よりも人を優先して思いやるとしたら、それは災いの性質であり、それが後の彼にとって罠となってしまう。
彼は二度、主の言葉を覆した行動をした故、彼から王権は取り上げられ、ダビデに移された。

8:34 ヨナタンの子はメリバアルで、メリバアルはミカエルを生んだ。

サウルの子ヨナタンは素晴らしい信仰の持ち主で、ダビデに対しても、そして父に対しても誠実であった。
ただ、滅びの性質を持ったサウルを父に持ってしまった故に、彼は非業の死を遂げた。
ただ、ヨナタンの子メリバアル(サムエル記ではメフィボシェテ)には、ダビデは、ヨナタンのゆえに誠実を尽くした。

サウルには他にも子孫がいたが、サウルが生前した罪のゆえに全員殺されてしまった。
ヨナタンの子メフィボシェテは、その時、うばが彼を抱いて逃げたのだが、逃げる時、彼は落ちて足なえとなってしまったのだった。

ダビデ王の子アブシャロムがダビデ王に反乱を起こし、ダビデ王が都落ちした時、国はダビデにつく者とアブシャロムにつく者とに真っ二つに分かれたが、メフィボシェテはダビデについて行こうとした。
しかし、彼は彼のしもべ・ツィバに陥れられてしまった。ツィバは後にダビデが勢力回復する事を踏んで、この危急の事態を利用し、のし上がろうとしたのだろう。
ダビデはツィバの讒言を真に受けて、メフィボシェテのものはみなあなたのものだ、と、約束してしまった。

しかしアブシャロムが死んだ後、メフィボシェテの真実が発覚する。

『サウルの子メピボセテは下ってきて王を迎えた。彼は王が去った日から安らかに帰る日まで、その足を飾らず、そのひげを整えず、またその着物を洗わなかった。』(2サムエル記19:24)
メフィボシェテは、いつとも知る事の出来ないダビデ達の帰還まで、その足を飾らず(七十人訳による補足:爪も切らず)、ひげも整えず、着物も洗わず、ダビデが苦難を受けている期間、自分自身も、身を悩ませていた。
という事は、彼の爪は、それなりに伸びていただろうし、ひげも、長期間整えていなかった有様であったろうし、着物もそれなりに汚れていた事だろう。
シムイやツィバは、美辞麗句と言葉で下心を隠して来たが、メフィボシェテは、その有様からして、ダビデを心から心配し、帰る日を待ち望んでいた事を、偽りようが無い。

ダビデがアブシャロムに追われエルサレムから落ちのびて行った時、ツィバはメフィボシェテについて偽りの報告をし、ダビデはそれを真に受け、真実を確認しない内に「見よ、メピボセテのものはことごとくあなた(ツィバ)のものです」と約束してしまった。
それ以降、ダビデはずっとメフィボシェテについて、良くない印象を抱き続けて来たのだろう。
メフィボシェテが会いに来た時、ダビデの最初の対応は、そっけなかったが(2サムエル記19:25-27)、ダビデは、彼の伸びた爪、乱雑になったひげ、長期間洗わなかった服を見て、彼の言った事こそ真相だった、と知っただったろう。

『わたしの父の全家はわが主、王の前にはみな死んだ人にすぎないのに、あなたはしもべを、あなたの食卓で食事をする人々のうちに置かれました。わたしになんの権利があって、重ねて王に訴えることができましょう」。』(2サムエル記19:28)
メフィボシェテは、自分のひげや服を見てください、などとアピールする事は一切無かった。
ダビデがそれまで自分に尽くしてくれた真実だけでも十分です、どうして尚、何かを訴える事が出来ましょうか、と、一切の判断をダビデにゆだねている。

『王は彼に言った、「あなたはどうしてなおも自分のことを言うのですか。わたしは決めました(原語:既に言っている)。あなたとヂバとはその土地を分けなさい」。』(2サムエル記19:29)

ダビデは既にツィバに約束してしまった。メフィボシェテのものは、ツィバのものだ、と。
事の真相をダビデが知ってから、それを取り消しができなかったのは、もう既に、その方面で諸々の手続きが進んでしまっていたのかもしれない。

足が不自由で、機敏に動けない事を良いことに、ツィバはメフィボシェテを貶め、騙し取るような事をしたが、それでもメフィボシェテは、一切の文句も無しに言う。
『わが主、王が安らかに家に帰られたのですから、彼にそれをみな取らせてください。』(2サムエル記19:30)

ダビデのエルサレム帰還に際し、色々な人々の思惑が交錯する中、一番真実にダビデを思い、待っていたのは、このメフィボシェテだろう。
彼は、彼のしもべの讒言と、ダビデの早まった決断のゆえに、本来自分のものだったものを、半分取られてしまったが、ダビデは彼を憐れみ、守り続けた。(21:7)

人は不完全である。
偽りを見抜けなかったり、偽りの言葉を鵜呑みにして早まった決断をし、尊いものを卑しい者に騙し取られたり、本当に憐れむべき真実な人をぞんざいに扱ってしまったりもする。
体が不自由であったり、言葉達者でなかったり、世渡り上手でない人が、健康体な人や、言葉達者な人や、世渡り上手な人に、出し抜かれてしまう事が多々あるのが、この世であり、また不完全である故に判断を誤ってしまう事もあるが、主は全てをご存知であり、全ての偽りを見抜き、そのさばきは真実である。

メフィボシェテはこの時、報われなかったかのように見えても、彼の子孫は、ベニヤミン族の中で栄えて行った事が、歴代誌の以下に続く系図から明らかである。

8:34 ヨナタンの子はメリバアルで、メリバアル(メフィボシェテ)はミカエルを生んだ。
8:35 ミカの子らはピトン、メレク、タレア、アハズである。
8:36 アハズはエホアダを生み、エホアダはアレメテ、アズマウテ、ジムリを生み、ジムリはモザを生み、
8:37 モザはビネアを生んだ。ビネアの子はラパ、ラパの子はエレアサ、エレアサの子はアゼルである。
8:38 アゼルには六人の子があり、その名はアズリカム、ボケル、イシマエル、シャリヤ、オバデヤ、ハナンで、皆アゼルの子である。
8:39 その兄弟エセクの子らは、長子はウラム、次はエウシ、第三はエリペレテである。
8:40 ウラムの子らは大勇士で、よく弓を射る者であった。彼は多くの子と孫をもち、百五十人もあった。これらは皆ベニヤミンの子孫である。

そうしてヨナタンの子・メフィボシェテの子たちは増え、栄え、ユダ族とともにイスラエルの中で永らえた。
結局、サウル王家は主に対して不誠実な王として衰退して行ったが、信仰において人に対して誠実だったヨナタン・メフィボシェテの子孫は栄え、彼らゆえに、ベニヤミン族は保たれた。
「柔和な人者は幸いである、その人は地を受け継ぐ」の御言葉の通りである。

その他の諸部族の系図 - 祝福を受け継ぐ人と、吐き出されてしまう人(1歴代誌6:48-81)
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第一歴代誌7章は、その他の部族の簡略化された系図や特記事項が記されている。
7章の系図に記されるのは、大勇士であったり、信仰において積極的に進み出る者であったり、あるいは、一方的に幸いを得たような人達である。

7:1 イッサカルの子らはトラ、プワ、ヤシュブ、シムロムの四人。
7:2 トラの子らはウジ、レパヤ、エリエル、ヤマイ、エブサム、サムエル。これは皆トラの子で、その氏族の長である。その子孫の大勇士たる者はダビデの世にはその数二万二千六百人であった。
7:3 ウジの子はイズラヒヤ、イズラヒヤの子らはミカエル、オバデヤ、ヨエル、イシアの五人で、みな長たる者であった。

このイッサカル族で、特に名が記されたのは、大勇士の長達であり、ダビデの時代にその部族から何人の軍隊を擁したか、その人数が記されている。

7:6 ベニヤミンの子らはベラ、ベケル、エデアエルの三人。
7:7 ベラの子らはエヅボン、ウジ、ウジエル、エレモテ、イリの五人で、皆その氏族の長である。その系図によって数えられた大勇士は二万二千三十四人あった。

ベニヤミン族についても、勇士たちの長の名と数が記されている。
さらにベニヤミン族は8章においてサウルに至る系図が詳細に記される。

7:13 ナフタリの子らはヤハジエル、グニ、エゼル、シャルムで皆ビルハの産んだ子である。

ナフタリ族については、わずかこの1節に記されているのみである。
1節でも記されるなら、まだいいかもしれない。ゼブルン族とダン族は、記載さえされていたいのだから。
なぜある部族は詳細に記されるのに、別の部族は1節しか、あるいは全く記されないのか。

この歴代誌全体を流れるテーマは、捕囚後のイスラエルの民がいかに歩むべきかの指標を示すものであり、そこには祝福と呪いがあり、祝福の元は、神を恐れ、神の宮を敬い、礼拝を重んじる事であるが、呪いの元はその逆、神を恐れず、神の宮を軽んじ、礼拝しない事である。
だから、信仰において大いなる事をした者、神の国に貢献した者は載せられ、あるいはその逆に、特に呪われるべき事をした者もまた、載せられている。
だから、この歴代誌における系図が簡略化されてしまった、あるいは全く載せられないという事は、そのどちらでもない、それらの部族は、熱くもなく冷たくもなく、という事だったのかもしれない。

神の国とは、そういう所である。
熱くもなく冷たくもない者は、吐き出されてしまうのである。(黙示録3:16)

7:14 マナセの子らはそのそばめであるスリヤの女の産んだアスリエル。彼女はまたギレアデの父マキルを産んだ。
7:15 マキルはホパムとシュパムの妹マアカという者を妻にめとった。二番目の子はゼロペハデという。ゼロペハデには女の子だけがあった。

マナセ系図で特記されているゼロペハデの女の子たちは、民数記において信仰ある行動を取った。
ツェロフハデには5人の娘がいたが、男の子がいなかった。それで彼女達は、男性の相続者がいないという事で、相続地がもらえなのではと憂慮し、モーセや祭司達、全会衆を前にして、以下の事を主張したのだ。
「わたしたちの父は荒野で死にました。彼は、コラの仲間となって主に逆らった者どもの仲間のうちには加わりませんでした。彼は自分の罪によって死んだのですが、男の子がありませんでした。男の子がないからといって、どうしてわたしたちの父の名がその氏族のうちから削られなければならないのでしょうか。わたしたちの父の兄弟と同じように、わたしたちにも所有地を与えてください。」(民数記27:3-4)

主は、彼女たちの訴えを「もっとも」とされた。なぜなら彼女たちの主張は、御言葉に叶っているからである。(申命記25:6)
主は、御言葉に叶った訴えは、正面から受け止めてくださる。

彼女たちのようなケースは、イスラエルの中には他に多くあっただろう。五人の子供がいる家庭で、五人全員が女の子である確率は、三十二の家庭に一つある。
イスラエルの六十万もの家庭の中で、女の子供しか生まれなかった家庭は、かなりの数あっただろうが、このツェロフハデと娘たちの名が、永遠の書物・聖書に記されたのは、彼女たちは信仰を持って進み出て、主に期待したからであり、その他多くは、期待もせず、勇気をもって訴え出もしなかったのだ。

マタイ11:12 バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。
天の御国は、積極的に奪い取る者のものとなる。だから、「主から頂けない」などと言って泣き寝入りしてはならない。
主はどうせ聞いて下さらない、主は蒔かない所から刈り取りをなさる方だなどと、ねじ曲がった神観を持ってはならない。
期待しない事、ねじまがった神観を持つ事は、罪であり、主はそのような人の持っているものを取り上げ、信仰をもって進み出る人に与えられる。(マタイ25:14-30)

7:20 エフライムの子はシュテラ、その子はベレデ、その子はタハテ、その子はエラダ、その子はタハテ、
7:21 その子はザバデ、その子はシュテラである。エゼルとエレアデはガテの土人らに殺された。これは彼らが下って行ってその家畜を奪おうとしたからである。
7:22 父エフライムが日久しくこのために悲しんだので、その兄弟たちが来て彼を慰めた。
7:23 そののち、エフライムは妻のところにはいった。妻ははらんで男の子を産み、その名をベリアと名づけた。その家に災があったからである。

ベリアは、災の中、という意味がある。
エフライムが悲しみと災の中で生まれた子供をそのように名付けたが、祈りと愛情の中育まれた子は、その子孫に、あの信仰の大勇士、ヌンの子ヨシュアが生まれている。(27節)

7:30 アセルの子らはイムナ、イシワ、エスイ、ベリアおよびその姉妹セラ。
7:31 ベリアの子らはヘベルとマルキエル。マルキエルはビルザヒテの父である。
・・・
7:40 これらは皆アセルの子孫であって、その氏族の長、えりぬきの大勇士、つかさたちのかしらであった。その系図によって数えられた者で、いくさに出てよく戦う者の数は二万六千人であった。

アシェルの名の意味は「幸せ」であり、モーセから最大の祝福を受けている。

申命記33:24 アセルについては言った、/「アセルは他の子らにまさって祝福される。彼はその兄弟たちに愛せられ、/その足を油にひたすことができるように。
33:25 あなたの貫の木は鉄と青銅、/あなたの力はあなたの年と共に続くであろう」。

アシェルは兄弟の喜びとなる。アシェルに会うと、兄弟たちが幸せになり、アシェルが来ると、色々ことがうまくすすむ。
だから、アシェルは幸せになっても、妬みを受けない。
「その足を油にひたすことができるように」これは、物質の祝福である。
カルメル山の後ろの地、レバノンの国境が見える平野で、彼が足踏んだ所全部、油が滴っていた。まさに財の祝福を受けたのだ。
「あなたの貫の木は鉄と青銅」すなわち主がアシェルのかんぬきとなっておられ、彼を害する者は誰も入ってこれない。
「あなたの力はあなたの年と共に続くであろう」、すなわち生涯の間、神の力、神の奇跡が、つきものである。

このアシェルの幸いを手に入れるためのコツが、詩篇1篇である。
詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人は「さいわい(アシェル)」である。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。

すなわち、「歩まず」「たたず」「座らない」という、3つの「しない」を旨とする人、そして、主の御言葉を昼も夜も口ずさむ人が、アシェルの幸いに入る。

歴代誌7章には、大勇士であったり、信仰において積極的に進み出る者であったり、あるいは、一方的に幸いを得たような人達が、系図に名が記された。
しかし、熱くもなく冷たくもない者は、吐き出されてしまうのである。(黙示録3:16)
私達は、神に対し、御国に対し、御言葉に対して熱く、そして、罪に対し、サタンに対し、悪霊に対しては徹底的に冷たい者であるべきだ。

ヨシュアのように、ツェロフハデの娘達のように、積極的に神の国を勝ち取り、アシェルのように祝福を勝ち取る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

レビ人に対する割り当ての放牧地群が系図に挿入された理由(1歴代誌6:48-81)
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本日の箇所が、歴代誌系図の他の箇所と違う所は、レビ族に割り当てられた放牧地のリストによって結構な紙面が割かれている所である。
その放牧地の内訳は、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエル全土から、まんべんなく、である。
なぜ、系図ではなくレビ族に与えられた土地のリストが唐突に挿入されているのか。
それは、バビロン捕囚を経験して戻ってきたイスラエルにおいて、霊的に重要な意味を持つからである。

6:48 彼らの兄弟であるレビびとたちは、神の宮の幕屋のもろもろの務に任じられた。
6:49 アロンとその子らは燔祭の壇と香の祭壇の上にささげることをなし、また至聖所のすべてのわざをなし、かつイスラエルのためにあがないをなした。すべて神のしもべモーセの命じたとおりである。

アロンの子孫は祭司の一族として、そしてレビ族はそのサポートとして、イスラエル12部族の中で重要な役割を担っている。
特にアロン直系の大祭司の家系は、至聖所における全イスラエルの贖いのつとめを担っている。
彼らは世の仕事をする事なく、もっぱら神の宮における奉仕が、神によって割り当てられている。

6:50 アロンの子孫は次のとおりである。アロンの子はエレアザル、その子はピネハス、その子はアビシュア、
6:51 その子はブッキ、その子はウジ、その子はゼラヒヤ、
6:52 その子はメラヨテ、その子はアマリヤ、その子はアヒトブ、
6:53 その子はザドク、その子はアヒマアズである。

再びアロンの子孫が、ここに簡潔に記されている。
それはツァドクへ至る系図であり、サムエルの時代に罪を犯したホフニやピネハス、その父のエリの系図ではない。彼らは捧げものの事で罪を犯したため、除外されている。

6:54 アロンの子孫の住む所はその境のうちにある宿営によっていえば次のとおりである。まずコハテびとの氏族がくじによって得たところ、
6:55 すなわち彼らが与えられたところは、ユダの地にあるヘブロンとその周囲の放牧地である。
6:56 ただし、その町の田畑とその村々は、エフンネの子カレブに与えられた。

ヨシュア記に、カレブがヘブロンの山地を45年もあこがれて遂に彼が85歳の時に巨人たちを打ち負かして勝ち取った記事が記されている。
ヘブロンは彼らの先祖アブラハムゆかりの特別な地である。
そこの放牧地がアロンの子孫に割り当てられた。

6:57 そしてアロンの子孫に与えられたものは、のがれの町であるヘブロンおよびリブナとその放牧地、ヤッテルおよびエシテモアとその放牧地、
6:58 ヒレンとその放牧地、デビルとその放牧地、
6:59 アシャンとその放牧地、ベテシメシとその放牧地である。
6:60 またベニヤミンの部族のうちからはゲバとその放牧地、アレメテとその放牧地、アナトテとその放牧地を与えられた。彼らの町は、すべてその氏族のうちに十三あった。

以降、記されている事は、レビ族のそれぞれの子孫に対し、イスラエル12部族から、全国各地からまんべんなく放牧地が割り当てられられている事である。
レビ人が住むための町を、それぞれの部族が提供しなくてはならない事は、民数記35章に定められている。
大きい部族も、小さい部族も、必ず主の奉仕者に捧げるべきであると主は命じており、それは、富めるも貧しきも、必ず、罪のためのいけにえを捧げなくてはならないのと同じである。

レビ族には「相続地」ではなく「割り当て地」が、それも、「農地」ではなく「放牧地」が割り当てられている点に着目すべきである。
彼らは、世の仕事をするのではなく、もっぱら神の宮に関する奉仕をするよう定められており、他のイスラエルの部族が祭司やレビ族を通して主に捧げられる捧げものによって、彼らの生活は成り立っているからだ。

なぜわざわざ系図の記されている中に、レビ人への割り当て地が、詳細に挿入されたのか。
それは、レビ人や祭司は、100%、一般の会衆が主に捧げる捧げ物によって、生活が成り立っており、もし、民が捧げる事を止めてしまうと、レビ人達は主の宮を手放して、自分達の農地に逃げるしかなくなり、神の宮はおろそかにされ、民全体が祝福を受けられなくなってしまう。

ネヘミヤ記13:10 わたしはまたレビびとがその受くべき分を与えられていなかったことを知った。これがためにその務をなすレビびとおよび歌うたう者たちは、おのおの自分の畑に逃げ帰った。
13:11 それでわたしはつかさたちを責めて言った、「なぜ神の宮を捨てさせたのか」。そしてレビびとを招き集めて、その持ち場に復帰させた。
13:12 そこでユダの人々は皆、穀物、ぶどう酒、油の十分の一を倉に携えてきた。

バビロン捕囚から帰ってきた後の時代を生きたネヘミヤは、レビ人がなおざりにされて、「畑」に逃げ帰って、レビ人が世の仕事をしている事を重く受け止め、人々に叱咤し、レビ人に元の奉仕に戻らせた。
これは、現代を生きる私達に重要な示唆を示している。

日本のクリスチャンは、どういうわけか献金をタブー視し、牧師先生の中でも、世の仕事をしなくては生活が成り立たない人も多い。
また、牧師先生の中にも、献金はしなくてもいいんですよ、と、変に気を遣ってしまっている人もいるが、とんでもない。
献金は、人や組織を存続させるカンパではなく、神への捧げものである。
捧げる人には、幸いと祝福が増し加わり、捧げない人は、わずかな刈り取りしか出来ない事は、昔も今も変わりないのだ。
かつてイスラエルは、捧げものをおろそかにし、祭司やレビ人など主の働き人が世の仕事へ逃げてしまい、礼拝が衰退し、国全体が呪いの道へ突き進んで行ってしまったが、現代の私達はそれを戒めとして受け止め、主への捧げものと、主の働き人を助ける事をやめてはならない。

マラキ3:8 人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。
3:9 あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。
3:10 わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。
3:11 わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。
3:12 こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる。
 

賛美奉仕者の系図(1歴代誌6:31-47)
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モーセの時代、主は礼拝における奉仕を定め、レビ族の子孫、ゲルショム、ケハテ、メラリ族それぞれに、幕屋を運んだり、設営したり、解体したりする奉仕者を定められ、幕屋の奉仕や聖所での奉仕が定められた。
しかしダビデの時代以降、レビ族の奉仕の形態は変わり、神殿において主に向かって賛美の歌を捧げる歌うたいや門衛、また、人々に律法を教える役割を担うようになった。

6:31 契約の箱を安置したのち、ダビデが主の宮で歌をうたう事をつかさどらせた人々は次のとおりである。
6:32 彼らは会見の幕屋の前で歌をもって仕えたが、ソロモンがエルサレムに主の宮を建ててからは、一定の秩序に従って務を行った。

モーセ律法では、もっぱら動物を主に捧げるいけにえについては記されていたが、賛美については記されていない。
せいぜい出エジプト記で、主がエジプトの軍勢を海に沈めた時に、モーセやミリヤム、イスラエルの会衆が主に賛美の歌を歌ったくらいであるが、規定として賛美を捧げるようには、記されていない。
しかし、主に賛美を捧げる事は、御胸にかなった事である。

ヘブル13:15 だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。

今、この時代、イエス様がただ一度、まことの聖所に入り、真に傷のない小羊として捧げられた事により、もはや旧約のような動物のいけにえを捧げる事は不要となった事がヘブル書に記されている。
そして今、私達はそのイエス様ゆえに、このからだを、きよい、生きた供え物として捧げる事、そして、世と妥協せず、心を新たにし、主に捧げられた者として聖なる生活をして行くことが私達・神の民の生き方である。

ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
 12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

天においてはもはや犠牲のいけにえは存在せず、常に、絶えず、永遠に、賛美が主に捧げられている有様が、黙示録に記されている。
だから神の宮において賛美が捧げられる事は非常に理に適った事であり、ダビデは心から主に賛美を捧げる聖歌隊を組織し、ダビデ自ら主に捧げる詩篇を記したのだろう。

神殿において賛美が捧げられていた時代、その奉仕者はレビ人と定められていた。
まずは詩篇でも登場する、賛美を中心的に導いたヘマンの系図である。

6:33 その務をしたもの、およびその子らは次のとおりである。コハテびとの子らのうちヘマンは歌をうたう者、ヘマンはヨエルの子、ヨエルはサムエルの子、
6:34 サムエルはエルカナの子、エルカナはエロハムの子、エロハムはエリエルの子、エリエルはトアの子、
6:35 トアはヅフの子、ヅフはエルカナの子、エルカナはマハテの子、マハテはアマサイの子、
6:36 アマサイはエルカナの子、エルカナはヨエルの子、ヨエルはアザリヤの子、アザリヤはゼパニヤの子、
6:37 ゼパニヤはタハテの子、タハテはアシルの子、アシルはエビアサフの子、エビアサフはコラの子、
6:38 コラはイヅハルの子、イヅハルはコハテの子、コハテはレビの子、レビはイスラエルの子である。

この中に、サムエルがおり、コラがいる。そして、ヘマンはケハテ族の一族である事が、この系図で明らかにされている。
さらに、ヘマンの右に立ってサポートするアサフと、左に立つエタンの系図とが、39節以降に記されている。
それによると、アサフはゲルション族、エタンはメラリ族である事が系図に記されており、こうして、当時の賛美奉仕者がレビの一族、ゲルショム、ケハテ、メラリ族の子孫である事がここに明記されている。
かつては何々族であるかが奉仕者として大事であったが、今や、全てイエス様にあって召し出された者すべてが、主を賛美し、主の奉仕者となり、主にあって祭司のつとめをする事が求められている。

1ペテロ2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
2:6 聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。
2:7 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
2:8 また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
2:10 あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
2:11 愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。

レビの系図 - 主の奉仕者として登録される人と、登録されない者の違い(1歴代誌6:1-30)
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第一歴代誌の系図の第一の主人公は王族であるユダ族であったが、第二の主人公は、神の御前に仕える事を主に定められたレビ族である。それが6章に詳細に記されている。

6:1 レビの子らはゲルション、コハテ、メラリ。
6:2 コハテの子らはアムラム、イヅハル、ヘブロン、ウジエル。
6:3 アムラムの子らはアロン、モーセ、ミリアム。アロンの子らはナダブ、アビウ、エレアザル、イタマル。
6:4 エレアザルはピネハスを生み、ピネハスはアビシュアを生み、
・・・
6:10 ヨナハンはアザリヤを生んだ。このアザリヤはソロモンがエルサレムに建てた宮で祭司の務をした者である。
・・・
6:15 ヨザダクは主がネブカデネザルの手によってユダとエルサレムの人を捕え移された時に捕えられて行った。

1−15節で、族長レビからモーセ・アロンの時代、ソロモン神殿の時代、そしてバビロン捕囚の時代へとつながった。
アロンやモーセに関しては、彼らが為した事からすれば他の誰よりも文面を割くべきと思うかもしれないが、ここでは、名前が列挙されているだけである。
トーラ(モーセ五書)を暗唱するユダヤ人にとって、彼らは書くまでもない存在であり、これら僅かな節の名前の列挙を見るだけで、モーセ五書に記された祭司一族が一瞬で走馬灯のように頭によぎるのである。

6:16 レビの子らはゲルション、コハテおよびメラリ。
6:17 ゲルションの子らの名はリブニとシメイ。
6:18 コハテの子らはアムラム、イヅハル、ヘブロン、ウジエルである。
6:19 メラリの子らはマヘリとムシ。これらはレビびとのその家筋による氏族である。

16節以降は、レビの3人の子達の簡単な系図である。
この3人の子孫達は、神を礼拝する所である幕屋において、いかなる奉仕をするのか。その明確な役割分担や、その人数、また、彼らはどこに住むべきか、民数記3章において、詳細に定められている。

ゲルション族で登録された人は七千五百人で、奉仕内容は主に幕屋の布製品に関わる奉仕が割り当てられており、ケハテ族で数えられた人は八千六百人で、奉仕内容は主に幕屋内の祭具や調度品に関わる奉仕が割り当てられており、メラリ族で登録された人は六千二百人で、奉仕内容は主に、幕屋の板や土台などの骨格部分に関わる奉仕が割り当てられた。

そして、神の幕屋の正面、すなわち、東側に住まう事が出来るのは、モーセとアロン、その子たちのみである。
『また幕屋の前、その東の方、すなわち、会見の幕屋の東の方に宿営する者は、モーセとアロン、およびアロンの子たちであって、イスラエルの人々の務に代って、聖所の務を守るものである。ほかの人で近づく者は殺されるであろう。』(民数記3:38)

主の御そば近くに住まう特権が与えられている人とは、主に捧げている人である。
レビ族が神の幕屋の近くに住まう特権が与えられたのは、前回も見たように、親や兄弟姉妹、友人に逆らってでも、御言葉に従い通したからであり、それ程の主に対するコミットがあったからこそ、その栄誉にあずかったのだ。

教会に住み込みたい、という人がいるが、教会に住めば聖くなるというものではない。
聖なる所にはいたいけれど、俗なる事も手放したくない、という人が、聖なる所に居続けるなら、彼の言動によってその「聖なる空間を食いつぶす」という罪を、増し加える事になってしまう。
モーセやアロンの子達の「ほかの人で近づく者は殺される」と戒められている通りである。
主に捧げる心を育てる人でなければ、教会に何年住み込んだ所で何の変わりは無い。
しかし、「主に捧げられた心」を持つ人は、たとい牢に何年も閉じ込められ、教会通いができなくても主は共におられ、ますます聖められて行くのだ。

『モーセとアロンとが、主の言葉にしたがって数えたレビびとで、その氏族によって数えられた者、一か月以上の男子は、合わせて二万二千人であった。』(民数記3:39)
レビ族として登録された人は、合わせて22000人、と記されているが、実は、22,28,34節で示されているゲルション、コハテ、メラリの数を合計すると、22300人で、この合計数のほうが、上記で記されている数より、なぜか300人多い。

実は、「数えられる」と訳されている言葉には二種類ある。
一つは「mispar」で、ただ単に数字を数える意味、もう一つは「paqad」で、数える事の他に、登録する、コミットするという意味である。
ゲルション族、メラリ族は「paqad(登録する、コミットする)」が用いられ、39節の合計数もそれが用いられているが、ケハテ族(28節)に限ってはそれは使われておらず、ただ「mispar(数えた)」としか記されていない。
つまり、コハテ族は、8600人「数えられた」けれど、神の奉仕者として登録されたのは8300人、という事になるのだろう。
コハテ族の300人がなぜ登録されなかったのか、それは記されていないので分からない。

民数記16章でモーセに反逆したコラも、コハテ族であった。
彼らはレビの務めが与えられているのに祭司の職を要求し、イスラエル全体を扇動してモーセとアロンに逆らったため、彼は家族や天幕もろとも地に飲み込まれてしまった。
いかに神の民として数えられようと、いかに神の働き人として数えられようとも、主から「登録」されない人もあり、そして、主が立てた権威に逆らうのであれば、災いが下されてしまうという事も忘れてはならない。

歴代誌の系図の中に、知られた名前もちらほら登場するが、その名前の中に、聖書それぞれの場面のドラマがある。

6:22 コハテの子はアミナダブ、その子はコラ、その子はアシル、
・・・
6:27 その子はエリアブ、その子はエロハム、その子はエルカナ。
6:28 サムエルの子らは、長子はヨエル、次はアビヤ。

コラは、レビ族で重要な役割を担っておりながら、神が定めた指導者モーセに逆らい、神が定めた大祭司アロンの職を奪おうと、著名な有力者を大勢従えて反乱を起こした。
しかし彼らが人々の前で尋常ならざる死に方をする事によって、神の定められた指導者や祭司に逆らうとはいかなる事かを、神は示された。

しかしながら、そのコラの子孫からは、あの有名な預言者でありキングメーカーであるサムエルが生まれ、さらには、コラの子達は素晴らしい詩篇の数々を生み出した。
結局大切なのは、どのように生まれついたのかではなく、また、どこに住んでいるのかでもなく、その人がいかに主に従順し、主が定められた指導者に従順し、そしていかに心に主を住まわせているか、である。

主を礼拝すべき時、主を敬うべき場所を軽んじる者に用意されている災い(レビ記26章)
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レビ記26章も申命記28章同様、祝福と呪いの箇所であり、祝福の明細よりも呪われる事の明細のほうがはるかに多い。
レビ記26章の特徴的な事は、主を敬わない事を続けるなら、その刑罰としての呪いがさらに7倍重くなり、それでも主を敬わない事を続けるなら、さらに7倍重くなる、と、段階的に、主を敬わない事の呪いが重くなっていく事である。

その、最も基本的な事は、次の事である。

 26:1 あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。

これは十戒の中でも最も基本的な事である。十戒のうち、第1−4戒は神との関係の戒め、第5-10戒は人との関係であるが、ことばの分量的には、神との関係のほうがはるかに多い。(出エジプト記20章)

偶像礼拝は、神以外のものを神とする事だが、礼拝よりも御言葉よりも、それ以外のものを大事にするなら、それは偶像礼拝となり、呪われるための条件となってしまう。

 26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。
すなわち、主を覚え主を敬うべき時、場所をわきまえ、主を恐れよ、という事である。
列王記を見ると、主を礼拝するべき聖所を軽んじ、主を敬うべき時である安息日や祭りの日を軽んじた王達は、必ず衰退して来た。
しかし、主を重んじて礼拝を守り、聖所を建て直した王は、必ず栄えた。

主の御言葉を守り行う人には、時に叶った雨が与えられ、蒔いた種に対し、大地には産物が、仕事場には勤労の実が、豊かに与えられる。

『あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。』(レビ記26:5)
麦の収穫は春のイースター時期に始まり、ぶどうの取り入れは九月ごろである。つまり、麦打ちが春から秋までずっと続く程の、大収穫が与えられる、という事である。
そんなに大量に穫れてどうするのか、と思うだろうか?
主に従順な世代のイスラエルは、それこそ、ねずみ算式に増えて行くのであるから、主は、食料をそれ程に豊かな実りをもたらして下さるのである。
だから、教会に人数が大いに増えたらどうしよう、食事や集会の場所はどうしよう、などという「嬉しい心配」さえ、無用である。主がその全てをちゃんと備えて下さるから。
主の御言葉を守り行うのであれば、全ての獣の危険から守られ、安息が与えられ、安らかに寝る事が出来るのだ。
また、敵への勝利の約束が与えられている。(7-8)
さらに、子供たちはおびただしく多くなって行く。それでいて、穀物倉から食料が尽きてしまう、という事も、一切無いのだ。(9-10)
そして、何よりの祝福は、主が共におられる事、主が私達のうちに住んで下さる事。それこそ、何にもまさる祝福である。(11-13)

14節以降は、主に聞き従わない場合に振りかかる呪いの明細である。
呪いを招いてしまうための条件が、以下の二節である。
『しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば』(レビ記26:14-15)

第一段階の呪いは、身も心も「病む」事である。
『わたしはあなたがたにこのようにするであろう。すなわち、あなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって、あなたがたの目を見えなくし、命をやせ衰えさせるであろう。あなたがたが種をまいてもむだである。敵がそれを食べるであろう。わたしは顔をあなたがたにむけて攻め、あなたがたは敵の前に撃ちひしがれるであろう。またあなたがたの憎む者があなたがたを治めるであろう。あなたがたは追う者もないのに逃げるであろう。』(レビ記26:16-17)
ここの「肺病」は「憔悴」あるいは「消耗」とも訳せ、「熱病」は「激怒」「興奮」とも訳せる。
御声に聞き従わない者は、まず訳の分からない恐怖に襲われ、諸々の病を患う他、情緒が不安定になって、視力も見識も悪くなり、嫌な敵が栄えて支配するようになり、訳も分からない漠然とした恐怖感に支配され、追われてもないのに逃げるようになるのだ。
あわて者となり、物を落としてこわしたり、なくしやすくなる。
怒りっぽく成り、病がちになる。
いじめられやすくなり、常に何かから逃げる生活となる。
それが第一段階だが、それでも主に聞き従わないなら、さらに7倍罰が重くなってしまう。

「作物の不作」が来(レビ記26:18-20)、「野獣」が横行し(レビ記26:21-22)、戦争と疫病、食料不足の災いが降りかかる。(レビ記26:25-26)
この災いでも、なお懲りずに、主の御声に聞き従わないなら、食料不足は最悪の状態になり、自分の息子や娘の肉を食べるまでになる。(27-29節)

『しかし、彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するならば、たといわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国に引いて行っても、もし彼らの無割礼の心が砕かれ、あまんじて罪の罰を受けるならば、そのときわたしはヤコブと結んだ契約を思い起し、またイサクと結んだ契約およびアブラハムと結んだ契約を思い起し、またその地を思い起すであろう。』(レビ記26:40-42)

人々はどうして、愚かにも、呪いへとまっしぐらに進む事を止めないか。それは「心に割礼が無いから」だと書いてある。
すなわち、心が「あれをやりたい」「これをやりたい」という肉の思いで覆い尽くされていて、それを取り除ける気が、一切無いからである。

その無割礼の心が砕かれ、取り除かれて、主が与えられた罰を正当とし、その罰を甘んじて受けようとする人達に、主は、彼らの先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こす、と言っておられる。

受けている呪いや罰を乗り越えるには、自分に罪がある事を認め、それを正直に主に告白する必要があるのだ。
そして、その向こう側で、主は、恵みと憐れみをの手を広げて待っておられるのだ。

主はなぜ、この章に記されているほどの災いを用意されるか。
それは、愛しているからであり、死のパターンに陥らないようにと、懲らしめを与えられるからだ。
『「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:5-11)

神の民の系図に入れられるかどうかの鍵(1歴代誌5:1-26)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

5章はルベン、ガド、マナセの半部族の系図が記されている。
系図と言っても、必ずしも長男、次男の順ではないし、先祖とのつながりが不明なものも多い。
マタイ福音書1章の系図でもそうだが、神の民の系図は、先祖がどのような血筋であるかどうか、長男・次男の順序はどうであるかより、むしろその本人自身が「主の御前に正しく歩む」事が重要であり、そうでないなら、系図から容赦なく除外されてしまうし、また、そうであるなら、いかに先祖とのつながりが不明であろうと、系図に載せられるのである。
以下の御言葉がそれを証明している。

5:1 イスラエルの長子ルベンの子らは次のとおりである。――ルベンは長子であったが父の床を汚したので、長子の権はイスラエルの子ヨセフの子らに与えられた。それで長子の権による系図にしるされていない。
5:2 またユダは兄弟たちにまさる者となり、その中から君たる者がでたが長子の権はヨセフのものとなったのである。――

ルベンは血筋的には長男であるが、その長子の権は奪われ、歴代誌の系図も、わずか10節にも満たない。それはルベンが御前に悪を行い、親を汚すような事をしたからだ。
かといって、父が祝福したヨセフの子ら(エフライム、マナセ)が実際的に祝福されたかというと、そうでもない。
結局のところ、兄弟達の長となり王達が生まれたのは、ユダ族だった。

聖書では、長男が衰え、末っ子が栄える、というパターンが多いが、だからといって、長男は宿命的に祝福を受けられない、とは限らないし、末っ子なら自動的に祝福されるわけでもない。
かといって、父が特別えこひいきして祝福した子が必ずしも祝福されるとも限らない。
結局のところ、その人が実際に祝福されるかどうかは、神の民としてどのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかによりけりなのだ。

5:11 ガドの子孫はこれと相対してバシャンの地に住み、サルカまで及んでいた。
5:12 そのかしらはヨエル、次はシャパム、ヤアナイ、シャパテで、ともにバシャンに住んだ。

ここに出てくる系図は、創世記や民数記のガドの息子たちとはつながらず、むしろ彼らの居住地や有力者たちの情報について記されている。
血筋的な順序や前後関係が重要なのではなく、主の御前に正しく歩んで祝福されたかどうかが、系図に記載される上で重要であるからだ。

5:18 ルベンびとと、ガドびとと、マナセの半部族には出て戦いうる者四万四千七百六十人あり、皆勇士で、盾とつるぎをとり、弓をひき、戦いに巧みな人々であった。
5:19 彼らはハガルびとおよびエトル、ネフシ、ノダブなどと戦ったが、
5:20 助けを得てこれを攻めたので、ハガルびとおよびこれとともにいた者は皆、彼らの手にわたされた。これは彼らが戦いにあたって神に呼ばわり、神に寄り頼んだので神はその願いを聞かれたからである。
5:21 彼らはその家畜を奪い取ったが、らくだ五万、羊二十五万、ろば二千あり、また人は十万人あった。
5:22 これはその戦いが神によったので、多くの者が殺されて倒れたからである。そして彼らは捕え移される時まで、これに代ってその所に住んだ。

ここに、ルベン・ガド・マナセの半部族が信仰をもって戦いを仕掛け、勝利した記述が挿入されている。
彼らはこの時、「戦いにあたって神に呼ばわり、神に寄り頼んだので神はその願いを聞かれた」と、わざわざ記している所に、神の民の歩むべき道筋を歴代誌の記者の意図を伺う事ができる。

5:23 マナセの半部族の人々はこの地に住み、ふえ広がって、ついにバシャンからバアル・ヘルモン、セニルおよびヘルモン山にまで及んだ。
5:24 その氏族の長たちは次のとおりである。すなわち、エペル、イシ、エリエル、アズリエル、エレミヤ、ホダヤ、ヤデエル。これらは皆その氏族の長で名高い大勇士であった。

マナセの半部族の系図も、むしろ氏族の長達についての記述である。
しかし、次に記されている通り、いかに先祖たちが素晴らしい事を行ったとしても、子孫が主に悪である事を行うなら、それらを台無しにしてしまう。

5:25 彼らは先祖たちの神にむかって罪を犯し、神が、かつて彼らの前から滅ぼされた国の民の神々を慕って、これと姦淫したので、
5:26 イスラエルの神は、アッスリヤの王プルの心を奮い起し、またアッスリヤの王テルガテ・ピルネセルの心を奮い起されたので、彼はついにルベンびとと、ガドびとと、マナセの半部族を捕えて行き、ハウラとハボルとハラとゴザン川のほとりに移して今日に至っている。

結局、この章に記されていたルベン、ガド、マナセの半部族は、アッシリアに捕らえ移されてしまった。
今日に至っている、とは、何も歴代誌の時代に限らない。21世紀の現代でも、彼らがどこにいるのか、未だわかっていない。

箴言13:13 み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。

ヨハネ 1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
 1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

主を恐れ敬い、みことばを守り行うかどうかが、結局、神の民の系図に入れられるかどうかの鍵となるのだ。

シメオン族の系図 - 御声を聞く人の幸いと、欲望の声に聞く人の災い(1歴代誌4:24-43)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

今まではユダ族の系図だったが、今回の箇所から、他の部族の系図に入るが、これら部族の系図は、バビロン捕囚後に残ったユダ族やレビ族ほど詳細には記されない。
その中で真っ先に記されたのは、シメオン族の系図であった。

4:24 シメオンの子らはネムエル、ヤミン、ヤリブ、ゼラ、シャウル。

シメオンの名の意味は「聞く(シェマー)」、申命記でよく言われている「シェマー・イスラエル(聞けイスラエル)」の、シェマーである。
彼の母レアが彼を産んだ時、「主はわたしが嫌われるのをお聞きになって、わたしにこの子をも賜わった」と言って、つけた名である。

4:27 シメイには男の子十六人、女の子六人あったが、その兄弟たちには多くの子はなかった。またその氏族の者はすべてユダの子孫ほどにはふえなかった。
4:28 彼らの住んだ所はベエルシバ、モラダ、ハザル・シュアル、
4:29 ビルハ、エゼム、トラデ、
4:30 ベトエル、ホルマ、チクラグ、
4:31 ベテ・マルカボテ、ハザル・スシム、ベテ・ビリ、およびシャライムである。これらはダビデの世に至るまで彼らの町であった。

シメオンは、旧約聖書の中ではあまりぱっとしない部族である。
シメオンは色々な地方に散って、ユダ族ほどには増えなかった事が記されているが、この事は、実は彼の父ヤコブによって預言されていた。

族長時代、シメオンとレビは、シェケムの男に妹ディナが汚された事の復讐のために”割礼”という主の聖なる契約を利用して、シェケムの男たちを欺き、彼らが割礼を受けて弱っている時に、男達を皆殺しにし、女子供や家畜を分捕るという蛮行を行った。(創世記34章)
それ故ヤコブは、彼らのその激しい怒りを呪い、その言葉の通りにシメオン族はユダ族の中へと”散らされる”形となってしまった。
『シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。』(創世記49:5-7)

また、エジプトを出た荒野にて、イスラエルが異邦の女達とみだらな事をしだした時、主の罰を受け、皆が自分達の中から悪を取り除こうと悲しみながら悔い改めの集会をしている真っ最中、彼らの目の前で、シメオン族の長の男が、異邦の女を自分の天幕に連れ込む事をした。(民数記25章)
それを見たレビの子孫・祭司ピネハスが、その男女の腹を槍で一突きにして殺し、主の怒りを自分の怒りとしてあらわしたため、イスラエルへの疫病が止んだが、シメオン族の長が、このような事を平気でしていた、という事は、一族もろとも、それに同意するような霊的状況であったのだろう。
事実、シメオン族は、荒野の40年で、イスラエル12部族中最も減少率の激しい一族であった。

4:34 メショバブ、ヤムレク、アマジヤの子ヨシャ、
4:35 ヨエル、アシエルのひこ、セラヤの孫、ヨシビアの子エヒウ。
4:36 エリオエナイ、ヤコバ、エショハヤ、アサヤ、アデエル、エシミエル、ベナヤ、
4:37 およびシピの子ジザ。シピはアロンの子、アロンはエダヤの子、エダヤはシムリの子、シムリはシマヤの子である。
4:38 ここに名をあげた者どもはその氏族の長であって、それらの氏族は大いにふえ広がった。

この名前を連ねた人達は、シメオン族であるものの、主流の系図との関わりは不明である。
しかし、ここに名を連ねた理由は、彼らが信仰をもってカナンの地を占領して行ったためだ。

4:39 彼らは群れのために牧場を求めてゲドルの入口に行き、谷の東の方まで進み、
4:40 ついに豊かな良い牧場を見いだした。その地は広く穏やかで、安らかであった。その地の前の住民はハムびとであったからである。
4:41 これらの名をしるした者どもはユダの王ヒゼキヤの世に行って、彼らの天幕と、そこにいたメウニびとを撃ち破り、彼らをことごとく滅ぼして今日に至っている。そこには、群れのための牧場があったので、彼らはそこに住んだ。
4:42 またシメオンびとのうちの五百人はイシの子らペラテヤ、ネアリヤ、レパヤ、ウジエルをかしらとしてセイル山に行き、
4:43 アマレクびとで、のがれて残っていた者を撃ち滅ぼして、今日までそこに住んでいる。

シメオン族の中にも、それぞれの役割を正統に果たそうとする人達がおり、そしてその通り実行した結果、彼らは「今日まで」そこに住むという幸いを得ている。
今日まで、とは、歴代誌が記された時代、エズラの時代まで、という事だ。

シメオン族は、モーセの祝福からも除外されてしまう程の、どうしようもない部族だったが、新約では、シメオンの名を持つ人には良い人物が多い。
イエス様の十二弟子の筆頭であるシモンは、ヘブライ語読みはシメオンである。
また、イエス様が誕生した時、正しく信仰深いシメオンという人が、幼子イエス様を抱き、イエス様とその両親について、将来を預言し、祝福した。(ルカ2:25-35)
彼は、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた敬虔な人で、聖霊の言う事を聞く事が出来、救い主に会うまでは死ぬことはない、という、聖霊の示しを受けていた。
また、イエス様の受難の時、イエス様の十字架を一緒に背負ったのも、クレネ人シモン(シメオン)であった。

シメオン、その名の意味は「聞く」であった。
聞く姿勢があるシメオンには、イエス様の誕生にも、イエス様の働きの時にも、イエス様の十字架の時にも、そこに同席する恵みに与る事が出来、そして、黙示録においては、新しくされたイスラエル12部族の一つとして、共に栄誉に与る事が出来るのである。

主の御声に聞くのでなく、怒りという声、性的欲望という声に聞いた結果、呪われ、減らされ、モーセの祝福からも除外されてしまった事で、シメオン族はあわてた事だろう。
しかし、いかにモーセの祝福から除外されたとしても、悔い改めて、主に立ち返り、主に聞く姿勢へと帰るなら、再び恵みに与ることが出来るのだ。

出所不明でありながらも祝福された人達の系図(1歴代誌4:1-23)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

4章前半は、ユダ族の補足的系譜が記されている。

3章は、ダビデ王家という非常に立派な血筋であるにもかかわらず、呪われてしまった暗い歴史を連想させる系図であったが、4章のユダ族の系図は、それとは全く対照的である。
4章の系図に名を連ねる人達は、系譜的つながりが不明な人達が大部分を占める。
しかし、信仰によって進み出て、祝福された人達が、名を連ねている。
この3章につづいて4章のタイミングに、この出所不明な人達の名が載せてある事には、いかに血筋がしっかりした人であっても、主を軽んじ御言葉を疎かにするなら呪われるが、いかに出所が不明であろうとも、神である主に信頼する者には、主は豊かに報いて下さるのだ、という、歴代誌記者の意図を垣間見るかのようである。

4:1 ユダの子らはペレヅ、ヘヅロン、カルミ、ホル、ショバルである。
4:2 ショバルの子レアヤはヤハテを生み、ヤハテはアホマイとラハデを生んだ。これらはザレアびとの一族である。
4:3 エタムの子らはエズレル、イシマおよびイデバシ、彼らの姉妹の名はハゼレルポニである。
4:4 ゲドルの父はペヌエル、ホシャの父はエゼルである。これらはベツレヘムの父エフラタの長子ホルの子らである。

ペレツ、ヘツロンまでが系図的には主流であるが、ヘツロンの子カルミ以降は傍流である。

4:5 テコアの父アシュルにはふたりの妻ヘラとナアラとがあった。
4:6 ナアラはアシュルによってアホザム、ヘペル、テメニおよびアハシタリを産んだ。これらはナアラの子である。
4:7 ヘラの子らはゼレテ、エゾアル、エテナンである。
4:8 コヅはアヌブとゾベバを生んだ。またハルムの子アハルヘルの氏族も彼から出た。

これらの節の系図の父祖であるアシュルは、ユダ族のどの家から出たのかは、見出だされてはいない。
ただユダ族から出たという事以外、分からないのである。
なぜ彼らが記されたかは不明であるが、続く節の、そのような出所不明であっても敢えて系図に記された人達を見るなら、大体予想が出来る。
すなわち、現代は記録は残っていないものの、信仰において優れた人達であったか、当時のユダヤ人たちにとって重要な部族の父祖であったか。

4:9 ヤベヅはその兄弟のうちで最も尊ばれた者であった。その母が「わたしは苦しんで(オーツェブ)この子を産んだから」と言ってその名をヤベヅと名づけたのである。
4:10 ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみ(オーツェブ)をうけさせられないように」。神は彼の求めるところをゆるされた。

ヤベツも、出所の説明なく唐突にこの箇所に現れたが、彼が祈った内容と、そして、神が彼の求めるところをゆるされた事が記されているのは、歴代誌の系図の中でも異例である。
彼の母は、彼を苦しみ(オーツェブ)の中で産んだゆえに、ヤベツという名をつけた。ダビデ(愛された者)の名からすればかなり名前負けしているが、しかしヤベツはその名前、その家系、その出生にかかわらず、彼は神に祝福された。
なぜなら、彼が神に祈り求めたからだ。

いかなる出生であっても、主は信頼する者には報いてくださる、と信じて呼び求めるなら、主はその人に目を留めて祝福して下さるのだ。
彼の祈りの内容は、「わたし」が栄えるように、という内容の「幼い信仰者」の祈りではあるが、少なくとも、彼の主と交わりを持とうとする信仰が、からしだねほどでもあるから、主はその信仰を受け取って下さったのだろう。
しかし、いつまでも幼い祈りばかりしていてはならない。信仰において練達し、生活も安定して来たなら、祈りの主人公は「わたし」から「主キリスト」にシフトし、求める事も、自分の事よりも御国の拡大する事を願い求めて行くべきなのだ。次のように記されている。

ピリピ2:21 人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。
2:22 しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。

4:13 ケナズの子らはオテニエルとセラヤ。オテニエルの子らはハタテとメオノタイ。
4:14 メオノタイはオフラを生み、セラヤはゲハラシムの父ヨアブを生んだ。彼らは工人であったのでゲハラシムと呼ばれたのである。

ケナズの子オテニエルはヨシュア記15章や士師記1章で、信仰によって進み出て祝福を勝ち取った事が記されているが、彼もまた、系図的に出所不明なのである。
彼は信仰によって巨人の住む土地を真っ先に攻め取り、カレブの娘アクサを勝ち取ったのみならず、アクサをそそのかして、泉をも得る事が出来た。(ヨシュア記15章)
ヤベツと同じで、求める者には主は豊かに与えて下さり、探す者は見つけ出し、叩く者には開いて下さるものなのである。

4:15 エフンネの子カレブの子らはイル、エラおよびナアム。エラの子はケナズ。

あの有名なエフネの子カレブも、系図的に出所不明なのである。しかもカレブの名は、犬という意味である。
それでも彼は、信仰によって祝福を勝ち取った。
イスラエル60万もの男子が、すべて不信仰に陥って「エジプトに帰ろう」と言った時も、ヨシュアとカレブの二人は、断固主を信頼してあの約束の地に行こう、と言って信仰を貫き通した。
それで彼には、ヘブロンという信仰の父祖達が住んだ土地を得る事ができた。

4:21 ユダの子シラの子らはレカの父エル、マレシャの父ラダおよびベテアシベアの亜麻布織の家の一族、
4:22 ならびにモアブを治めてレヘムに帰ったヨキム、コゼバの人々、ヨアシおよびサラフである。その記録は古い。
4:23 これらの者は陶器を造る人で、ネタイムおよびゲデラに住み、王の用をするため、王とともに、そこに住んだ。

ここは出処元ははっきりしている。この子孫たちは、ユダの3人息子、エル、オナン、シラのうち、長男エルと次男オナンは主に忌み嫌われる事を行ったゆえに主に打たれたが、三男のシェラはこうして生き延びた、その彼の系図である。
おそらく、兄たちが主に打たれるのを次々と見て、主を恐れ、そうして子孫が残され祝福され、その子孫は亜麻布織や陶器を造る職人として、また、王の用をする者として栄えたのだ。

今回の系図が物語る事は何か。
それは、いかに出処元が不明であろうとも、あるいは、卑しい出であろうとも、主を敬い主に呼び求める者には、主は祝福の扉を開いて下さる事、そして、いかに高貴な出であろうとも、主を軽んじ御言葉に従わない者は、呪われてしまう、という事を語ってはいないだろうか。
ちょうど、異邦の遊女ラハブやルツが信仰によって栄光の家系へと入ってきたように、また、ちょうどダビデの血を引く王家であっても不信仰によって災いに遭ったように。

私達は、主を敬い、御言葉どおり行い、主に祝福された子孫を残していくものでありたい。

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