メッセージ - ヨブ記カテゴリのエントリ
エリファズによる最初の弁論 - 因果応報の押し売り(ヨブ記4章)
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ヨブの独白、すなわち、彼自身のあまりにも耐え難い苦難ゆえに自分の生まれた日を呪い、早く死んでいればよかったのにという願いに対し、真っ先に口を開いたのは、テマン人エリファズであった。
彼はヨブの3人の友人の中でも長老格であったと思われる。
4:1 その時、テマンびとエリパズが答えて言った、
4:2 「もし人があなたにむかって意見を述べるならば、/あなたは腹を立てるでしょうか。しかしだれが黙っておれましょう。
エリファズ達がヨブの所に来たのは、ヨブを慰めるためであった。そしてヨブに良くなって欲しいという心があったのだが、しかしヨブの言葉に黙っておれなくなった。
それは、ヨブの言葉に、何か真理が阻害されているような感じがして、それに耐え切れなくなって、言葉がほとばしり出たのだ。
4:3 見よ、あなたは多くの人を教えさとし、/衰えた手を強くした。
4:4 あなたの言葉はつまずく者をたすけ起し、/かよわいひざを強くした。
4:5 ところが今、この事があなたに臨むと、/あなたは耐え得ない。この事があなたに触れると、あなたはおじ惑う。
4:6 あなたが神を恐れていることは、/あなたのよりどころではないか。あなたの道の全きことは、あなたの望みではないか。
ヨブは健全な時、彼の言葉をもって、多くの人をさとし、正した。というのに、今、自分が災いに臨むと、耐え切れないのか。
ヨブが人を正す事が出来たのは、ヨブが神を恐れ、また、正しかったからではないか、と言っている。
エリファズ達は確かに7日7晩、言葉も発さずにヨブと一緒にいてあげたが、しかし心の中に、思っていたのだろう。
今、ヨブは神への恐れと正しさが揺らいでいるから、この事が起きたのではないか、と。
4:7 考えてみよ、だれが罪のないのに、/滅ぼされた者があるか。どこに正しい者で、断ち滅ぼされた者があるか。
4:8 わたしの見た所によれば、不義を耕し、/害悪をまく者は、それを刈り取っている。
4:9 彼らは神のいぶきによって滅び、/その怒りの息によって消えうせる。
4:10 ししのほえる声、たけきししの声はともにやみ、/若きししのきばは折られ、
4:11 雄じしは獲物を得ずに滅び、/雌じしの子は散らされる。
エリファズの最初の言葉に込められている思想は、世の哲学や宗教では通念的な「因果応報」である。
ヨブに何か罪が有り、正しくない所があって、それで「不義を耕し、/害悪をまく者」として、それを刈り取ったのではないか、という決め付けがある。
確かに悪を蒔けば悪を刈り取るのは通念的な法則であるが、しかしヨブの場合は事情が違う。
主はヨブに対して次のを評価している。
ヨブ2:3 主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。
主がサタンに「ゆえなく彼を滅ぼそうとした」と言っているからには、ヨブは、エリファズが指摘するような、災いを刈り取るべき「ゆえ」は無かったのだ。
この、ヨブの友人達の側で最初の応答であるエリファズの言葉は、ヨブ3人の友人のいわば代表的な反論であるが、しかし、ヨブに何かの非がある、だから災いに遭っているのだ、という前提条件が、そもそも違っている。
その間違った前提条件で議論を仕掛け続けるから、ヨブはさらに苦しみ、ついには主に対して挑戦的なまでになってしまった。
正しい。のに、災いを得る。という、一筋縄ではいかない事が世の中にはあり、それは決して、因果応報という4文字で片付けられる単純な問題ではないのだ。
エリファズはさらに、もう一つの思想をヨブに展開するのだが、その前に彼は、彼が体験した神秘体験を披露する。
4:12 さて、わたしに、言葉がひそかに臨んだ、/わたしの耳はそのささやきを聞いた。
4:13 すなわち人の熟睡するころ、/夜の幻によって思い乱れている時、
4:14 恐れがわたしに臨んだので、おののき、/わたしの骨はことごとく震えた。
4:15 時に、霊があって、わたしの顔の前を過ぎたので、/わたしの身の毛はよだった。
4:16 そのものは立ちどまったが、/わたしはその姿を見わけることができなかった。一つのかたちが、わたしの目の前にあった。わたしは静かな声を聞いた、
この事について、聖書注解には次のように書いてある。
『〈夜の幻〉(13)は夢ではなく,特別な神秘的体験.旧約聖書で〈幻〉〈ヘ〉ヒッザーヨーンと「夢」〈ヘ〉ハロームは明確に区別されている.幻を見た人々の様子から,幻を見る時には仮死状態に近い特別な精神状態にあることが推測出来る(創15:12,ダニ8:27).幻は必ずしも神の啓示とは限らない.〈思い乱れ〉るとは,悪夢にうなされること.〈霊〉(15)〈ヘ〉ルーアハは,普通は目に見えない存在だが,ここでは姿を持っている.だから聖書的な意味での霊というよりは幽霊のような存在を指している.女性名詞だが,ここでは例外的に男性形動詞で受けているのも,そのためだろう』
ヨブ記の中で、エリファズの言葉には主エホバの御名がひとつも無い事もあり、どうも彼のその神秘体験は、主から来たものではないようだ。
その「霊」は次のように言っている。
4:17 『人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前に清くありえようか。
4:18 見よ、彼はそのしもべをさえ頼みとせず、/その天使をも誤れる者とみなされる。
4:19 まして、泥の家に住む者、/ちりをその基とする者、/しみのようにつぶされる者。
4:20 彼らは朝から夕までの間に打ち砕かれ、/顧みる者もなく、永遠に滅びる。
4:21 もしその天幕の綱が/彼らのうちに取り去られるなら、/ついに悟ることもなく、死にうせるではないか』。
人は、神の前に正しい者ではない。
この思想もまた、世の哲学や宗教では通念的な概念ではある。
しかし、先も言ったように、ヨブの場合はそんな一筋縄ではいかない問題を抱えているのだ。
2コリント3:5 もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。
3:6 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
「この人の問題はこれこれである」という決め付けを元にした正論は、たとえ御言葉の引用であっても、人を殺す。
サタンさえ御言葉を引用して人を滅ぼそうとする。
だから私達は、生かす御霊によって導かれ、災いに遭っている人を正しく慰め、主へと導く必要がある。
エリファズは神秘体験を真っ先に披露したが、パウロは真っ先に披露する事はしないまま過ごし、コリントの人達は、そんなパウロを軽んじた。
2コリント12:1 わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。
12:2 わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。
12:3 この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――
12:4 パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。
12:5 わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
12:6 もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
パウロは、自分がその体験をしたのに、「私が」ではなく「キリストにあるひとりの人」としている。
あまりにも素晴らしい体験をしたのに、しかしそれを誇って買いかぶられるといけないから、敢えてそれをおおっぴらにはしなかった。
それは、彼が高慢にならないようにと、彼もヨブのように、サタンに打たれたからだ。
12:7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
12:8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
パウロもヨブと同様に、義人なのに、打たれている。そしてそれは、エリファズが風呂敷を広げているように、悪いことをしたから打たれたのではない。
主から次のように教えられるためだ。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と。
パウロもヨブと同様に、悪いことをしたゆえではない苦難を受けて苦しんだが、しかしそれによって、さらに主の深さを知り、さらなる幸いを得た。
世の中は、一筋縄ではいかない物事あるが、世の哲学や宗教は一筋縄の格言で解決しようとして、逆にそれによって人々を苦しめている。
私達は主の御霊に導かれ、彼らを正しく慰め、主の道へと導く者になれるよう、祈るべきだ。
沈黙に対する表明により露わにされたヨブの内面(ヨブ記3章)
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ヨブ記3章からはヨブと彼の友人達との議論に入り、文体は詩文体となる。
3:1 この後、ヨブは口を開いて、自分の生れた日をのろった。
3:2 すなわちヨブは言った、
ここの「言った」はヘブライ語でアナー、直訳すると「答えて言った」である。
彼の友人達は、7日間ずっと沈黙し、ただ、彼と一緒にすわっていただけであるが、ヨブは一体、何に「答えて」言ったのか。
それは、彼の友人達の「沈黙という言葉」に対して、すなわち、耳に聞こえない、意図を伝えない、ただそこに居て、本人を見、存在している人格に対し「答えて言った」のである。
「沈黙という言葉」は、本人自身の心をあらわにする鏡のようである。聞こえず、意図を伝えないだけに。
沈黙という言葉に「答える」とするなら、その本人の答えという表明により本人自身の心を表しており、それまで知られなかった本人の心の中が、それによって露わにされる。
「沈黙という言葉」は、そのような力を持っているのだ。
ヨブの、友人達の沈黙という言葉にたいする返答内容は、自分の生まれた日を呪う内容だった。
3:3 「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜も/そのようになれ。
3:4 その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように。
3:5 やみと暗黒がこれを取りもどすように。雲が、その上にとどまるように。日を暗くする者が、これを脅かすように。
3:6 その夜は、暗やみが、これを捕えるように。年の日のうちに加わらないように。月の数にもはいらないように。
3:7 また、その夜は、はらむことのないように。喜びの声がそのうちに聞かれないように。
3:8 日をのろう者が、これをのろうように。レビヤタンを奮い起すに巧みな者が、/これをのろうように。
3:9 その明けの星は暗くなるように。光を望んでも、得られないように。また、あけぼののまぶたを見ることのないように。
3:10 これは、わたしの母の胎の戸を閉じず、/また悩みをわたしの目に隠さなかったからである。
ヨブは徹底的に、自分が生まれた日を呪っている。
その誕生した日および自身のいのちが宿った夜そのものが無くなって、カレンダーから抹消される事を願っているのだ。
主は創世のはじめに光よあれと言葉を発せられ、無秩序から秩序へと世界を整えて行き、そして、いのちを創った。
ヨブは、あまりの苦しみゆえに、神の創造の一連の働きが、全く逆行して、自分の生まれた日は無くなってしまうように、と呪っている。
そのような言葉を聞く時、「ちょっと待った」と言いたくなるかもしれないが、ヨブのこの時の状況は、その身体にひっきりなしのかゆみという、もう一瞬たりとも耐え難い苦しみの中にあるのみならず、持ち物を失い、子供達を全部失ってしまったのだ。
主にある兄弟姉妹が、その苦しみの中から絞り出されて来た言葉を聞いた時、額面通り受け取って一言一言に対して、論理的に正論で答えるのは、赤ん坊が泣いているのを論理的な正論で黙らせようとするような事である。
エリシャに良くしてあげたシュネムの女は、その働きの報いとして、子が与えられたが、しかしその子は死んでしまった。
その時彼女も、ヨブのように自暴自棄な言葉を発したが、エリシャは、彼女の言葉を額面通り受け取って返すのではなく、すぐに執り成し祈る体制に入った。(2列王記4:8-37)
イエス様も、38年もの間病で誰も助ける者がいなかった人に対し、つぶやきの言葉を額面通り返すのでなく、ただ、癒やしの言葉をかけられた。(ヨハネ5:1-9)
しかしヨブの友人達は、ヨブの言葉を額面通り受け止め、それを延々と正論で返す愚を演じてしまう事になる。
3:11 なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか。腹から出たとき息が絶えなかったのか。
3:12 なにゆえ、ひざが、わたしを受けたのか。なにゆえ、乳ぶさがあって、/わたしはそれを吸ったのか。
3:13 そうしなかったならば、/わたしは伏して休み、眠ったであろう。そうすればわたしは安んじており、
彼はあまりの苦しみゆえに、生まれてからすぐに死んでしまっていればよかったのに、と吐露している。
死ぬ事をあこがれるのだが、死は彼から遠ざかり、ただ、一瞬一瞬苦しみの中を行きなくてはならない状態である。
がんの末期症状に入って、ただひっきりなしの痛みに襲われている人のように。
そのような時、人は、ヨブの以下の言葉のように考える。
3:20 なにゆえ、悩む者に光を賜い、/心の苦しむ者に命を賜わったのか。
3:21 このような人は死を望んでも来ない、/これを求めることは隠れた宝を/掘るよりも、はなはだしい。
3:22 彼らは墓を見いだすとき、非常に喜び楽しむのだ。
3:23 なにゆえ、その道の隠された人に、/神が、まがきをめぐらされた人に、光を賜わるのか。
3:24 わたしの嘆きはわが食物に代って来り、/わたしのうめきは水のように流れ出る。
なぜ自分はいのちがあるのか。
なぜ、こんなにも耐え難い苦しみに悩まされながらも、生きなくてはならないのか。
このように、片時足りとも耐え難い苦しみに悩まされる時、人は、今まで考えた事もなかった事、すなわち、いのちの存在理由と、そのいのちを与えて下さったお方の存在を考えるようになる。
その時、神に心を向け、立ち返る人は、救われる。
実際、末期がんのさ中、主に心を向け、主を知り、そして奇跡的に助かって、神の栄光のために用いられるようになった人は多い。
3:25 わたしの恐れるものが、わたしに臨み、/わたしの恐れおののくものが、わが身に及ぶ。
3:26 わたしは安らかでなく、またおだやかでない。わたしは休みを得ない、ただ悩みのみが来る」。
ヨブは結局、「わたしの恐れるものが、わたしに臨み、/わたしの恐れおののくものが、わが身に及」んだのだ。
彼は羽振りがよかった時から、常に、その恐れがあり、その恐れのゆえに、義人としての行いを保っていたのだ。
そして、心の中で恐れていたとおりに、すなわち、信じたとおりに、なってしまったのだ。
その心があったから、サタンは、彼に触れる許可を得られたのであろう。
このように、地獄を恐れるから、今持っているものを失いたく無いから、義人のように良い行いを無理矢理にでもして、罪の楽しみを(本当は楽しみたいのだけれど嫌々ながら)我慢する、とするなら、それは実に、「貧しい義人」である。
神はヨブを、このような状態で一生を終わらせる所から、救い出される。災いによって、サタンを用いてでも。
しかし最終的に、彼は、この一連の出来事により、以前はおぼろげであった神観が、一層はっきりし、財産も以前の二倍祝福され、以前よりも優れた子供が生まれ、以前よりもより一層、親密な神との交わりを得るという結論が、ヨブ記の結論である。
神は、全ての事を益として変えて下さるお方であり、最善以下の事はなさらないお方である。
私達が「なぜ」と思えるような事でも、それを結局は、想像すらしていなかったトーブ(良し)へと導いて下さるのだ。
サタンによって徹底的に苦しめられるヨブ(ヨブ記2章)
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2章でも、サタンが同じように登場する。
2:1 ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。
2:2 主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
サタンは1章では神の子達に混じって主の会議に来たが、ここで再びサタンが主の前に来て、御前に立った。
地を行き巡り、ヘブライ語でシュートという言葉は、徘徊する、行ったり来たりする意味で、イスラエルの民がマナを拾い集める際に(民数記11:8)、また、ダビデがサタンにそそのかされてヨアブに命じ、ヨアブが地を行き巡ってイスラエルの人数を数えた時に用いられた語である。
サタンが地を行き巡るのは、食い物にする「ちり」に過ぎない人間を見つけるため、また、ヨブのような聖徒を訴える口実を探すためである。
サタンの性質について、黙示録に記されている。
黙示録12:9 この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。
12:10 その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。
12:11 兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
12:12 それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。
サタンは兄弟姉妹を訴える者、彼らを惑わし、主を呪わせ、主から離れさせる者である。それで天から投げ落とされた。
そして私達がサタンに勝利するすべは、12節に書いてある通り、小羊の血と、あかしの言葉によって、である。
ヨブは、素晴らしいあかしの言葉によって主に栄光を帰し、サタンの面目を失わせたが、サタンはそれでも引き下がらなかった。
ヨブは確かに素晴らしい信仰の持ち主で、なおも主の前に唇で罪を犯さなかったが、小羊の血なき人間は、いかにヨブのような「義人力」が強い人でも、最終的には籠絡してしまうものである。
私達は、ほふられた小羊キリストの血をもって、あかしの言葉で悪魔サタンに対抗しなくては、勝利できないのだ。
2:3 主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。
主はサタンに対し、なおもヨブへの賛辞の言葉をかけている。
しかしサタンはなおも、ヨブを訴えたいのだ。
2:4 サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。
2:5 しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
2:6 主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
主はなんと、こんなにも誠実を尽くしたヨブに対し、サタンに、彼の身体に手を加える事を許可する。
人はこれを、わからない、と言う。
しかし私達は、途中だけの議論をし出すと、延々と出口の無い迷路に迷い込んでしまう。それがヨブ記の不毛な大部分を占めるものだ。
人は何かと「神はなぜ」と言いがちであるが、忘れてはならない。願い出たのはサタンであり、ヨブをここまで徹底的に傷めつける事の首謀者も、実際に手を下したのも、サタンである、という事を。
私達はただ、主の為された「結果」を、結んだ「実」を見るべきである。
主は最終的に、ヨブにさらに深い主との交わりへと導き、さらに物質的に祝福され、さらに優れた子達を得たのだ。
ローマ8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
主が事を為す事は「最善」以下の事は無く、まさに上の御言葉の通りであり、それ以上を私達は議論する必要は無いのだ。
2:7 サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
2:8 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。
絶え間ないかゆみは、痛み以上に辛いものだ、と言われている。
サタンはここまでひどい目に、好きこのんでヨブに遭わせた。主は元々、ヨブがそうなる事をしなかった。しかしサタンは、ヨブがここまでひどい、つらい目に遭わせる事を切望していたのだ。
人が何も悪いことせず、平和に暮らしているのを、めちゃくちゃにしたい。それが、サタンの望みであり、そしてそのような性質に同意し、好きこのんで無実の人・弱い人をつまづかせるような者は、足を大きな石臼に結わえ付けられて海に沈められたほうがましだ、と主は言われた。
なぜならそのような事をする者は、サタンがやがてそうなるように、ゲヘナで永遠に焼かれ苦しみ続けるからだ。
2:9 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。
ヨブの妻の、信仰破棄である。彼女はサタンに用いられ、神を呪う事と、死ぬ事とを、夫に勧めた。
今まで人生を共にし、多くの子供を産み、事業の成功や資産の管理を手助けして来たであろう妻からのこの一言が、一番効いたのではなかろうか。
しかしヨブは、絶え間ないかゆみの中にあって絶叫したいはずなのに、そのような彼女に対して思いやりのある言葉をかけている。
2:10 しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
彼は妻を「愚か者」と呼ばず「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。」と、やんわり諭している。
最も辛い中にあっても、それでも妻の弱さをカヴァーするとは、なんと素晴らしい信仰の持ち主だろう。
2:11 時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。すなわちテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルである。彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである。
ここに、ヨブの3人の友人達の紹介が記されている。
テマン人エリファズは、エサウの子孫だと思われ(創世記36:10-12)、「シュアハ」はアブラハムの後妻ケトラの子の名として出て来る。(創世記25:2)
「ナアマ」は,ヘブル語で「楽しみ」という意味で,聖書では,ユダに属する町の名(ヨシ15:41),あるいはカレブの子の名「ナアム」として出て来る(?歴4:15)が,関係付けることは難しい。(聖書注解)
この3人が、これから長く続くヨブとの議論をするのだが、その長い議論の中で、彼らは神という言葉は多発しても「主(エホバ)」の御名は一切、用いていない。
主エホバの御名は1章・2章には多く出てきたが、実は、3章から37章の議論の中で、主エホバの御名が出てくるのは、12:9のヨブの言葉のみなのだ。
12:7 しかし獣に問うてみよ、/それはあなたに教える。空の鳥に問うてみよ、/それはあなたに告げる。
12:8 あるいは地の草や木に問うてみよ、/彼らはあなたに教える。海の魚もまたあなたに示す。
12:9 これらすべてのもののうち、いずれか/「主(エホバ)」の手がこれをなしたことを知らぬ者があろうか。
12:10 すべての生き物の命、/およびすべての人の息は彼の手のうちにある。
獣も、鳥も、大地も、木々種々も、主エホバの御手が為した事を知っている、とヨブはその時言うのだが、ほんとうに、人間だけである。主エホバの御名を用いずに、人間的な知恵だけで人を罪定めしたり、哲学者ぶって知恵をこねくり回しているのは。
2:12 彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。
2:13 こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。
心身ともに酷い傷だらけヨブを訪ねた、七日七夜一緒に、声もかけず、ただただ一緒にいてくれる3人の友人達。
これをみると、なんと素晴らしい友人達か、と思う。
しかし、彼らと一緒にいた七日七夜、ヨブに何の変化があったのか分からないが、それまで、断じて口で罪を犯さず、つぶやかなかった彼が、3章以降、自分の人生を呪いはじめ、つぶやき始める。
そして3人の友人達は、主エホバの御名ぬきの、人間的な知恵や格言に基づいた議論でヨブをもっと苦しめ、失望させ、ついにはヨブをして、声を荒げて自己正当化し、3人を沈黙させるに至らせてしまう。
言ってみれば、彼らがサタンに最も用いられた、と言っても過言ではない。しかし彼らにはその自覚は無く、ヨブのためになっている、と思い込んでいるのだ。
彼らが来た動機は、ヨブを慰めるためだったが、結局その逆に、見事、ヨブをもっと苦しめたのだ。
主の御名が無く人間の格言だけの知恵は、ただ人を苦しめるだけなのだ。
それは、ヨブほどの”義人力”が飛び抜けた人をも、腐らせてしまう。
私達はヨブ記から、ますます人の弱さ愚かさを知り、ただ主により頼む事と、そして、小羊の血とあかしの言葉によって勝利する術を身につけて行きたい。
災いの中でも最高に神を高め、サタンの面目を失わせたヨブ(ヨブ記1:13-22)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨブ記
- 執筆 :
- pastor 2018-4-20 8:01
災いの中でも最高に神を高め、サタンの面目を失わせたヨブ(ヨブ記1:13-22)
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ヨブ記1:21 そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
ヨブ記と言えばこの言葉、と言える程に有名な言葉だが、この言葉がどのような状況で発せられたか。
それは、ヨブが今まで与えられていたものが全て、一度に、なし崩し的にその手から奪われていった時にである。
1:13 ある日ヨブのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいたとき、
1:14 使者がヨブのもとに来て言った、「牛が耕し、ろばがそのかたわらで草を食っていると、
1:15 シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
まず奪われたのは、牛やろば、また、その耕していた畑である。
シバ人が来て、彼らはヨブのしもべ達を剣で打ち、奪っていった。
1:16 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
神の火が天から降ってきた、と日本語聖書で書いてあるが、ここの神はヘブライ語ではエローヒムが使われている。
エローヒムは天使の事を指す事もあるし、サタンのような堕天使を現す事もある。
ちなみに6節の「神の子ら」はベニ・ハ・エローヒムで、その会合に、サタンも集ってきたのだ。
だからこの火は、サタン由来の火である。サタンの勢力も、天から火を降してしるしを行い、人々を惑わす事をするのだ。(黙示録13:13)
1:17 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
15節ではシバ人すなわち南から来た略奪隊だが、ここではカルデヤ人すなわちメソポタミア地方からの略奪隊が、らくだを奪って行き、しもべ達を剣で殺していった。
こうして、ヨブからはあらゆる持ち物を一度に失ってしまったが、何よりも心痛いのは、息子娘達を一度に失ってしまった事だろう。
1:18 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、
1:19 荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
ヨブの子供達が、主に対して何か悪いことをしたのか、あるいは、主に対して何か良いことをしたのか、いずれも、特記されていない。
ただ、この永遠の書物に、彼らの人生について特記されている事は、彼らは一年に何度か祝宴を開いて、食事をし、酒を飲んだ、という事。
そして父親は、そんな彼らを心配して、いけにえを捧げた事だった。
「食事をし、酒を飲んだ。」それが、彼らの人生の特記事項。。。
じつは、多くの人の人生の特記事項は、それと同じである。
神を求めず、神に礼拝も捧げず、食べて、世迷いごとに酔って、それを繰り返して、ある日サタンの攻撃に遭って、人生を終えてしまう。。。
ヨブに関しては、彼ら一人一人のために全焼のいけにえを捧げた事が、書いてはある。
しかし、子供達については、彼ら自身が自ら主を敬い、礼拝を捧げた、という事は、記されていない。
ヨブとしては、彼らが「心の中で神を呪ったかもしれない」という心配はいつもあった。
ヨブがそうしたのは、彼らは、神を怒らせる要素が、十分にあった、という事が想像できる。
そして結果的には、この息子・娘達は、サタンが彼らに訪れた際、彼らを守る神のスーク(囲い)は、残念ながら一人残らず、無かった。
人は思う。どうして、彼らは死ななくてはならなかったのか、と。
ヨブ記には、人間の「どうして」が満ちており、その議論で満ちている。
しかし神は、一切それには答えておらず、ただ神の力強い主権が際立ってしるされている。
そしてヨブは、以前に勝る息子・娘達を得て、財産も、以前の2倍も祝福され、そして何より、ヨブは以前はおぼろげにしか神を知らなかったのだが、この事があって後には、彼は神を見、ますますはっきりと神を知るようになったという結論が書かれてある。
それが、神の答えである。
私達は「なぜ」を連発して議論に留まる者ではなく、神は良きお方であり、最善以外の事はしないお方であり、いかに理解できないような災いを被ろうとも、後には幸いへと祝福へと導いて下さるお方である、と信じて進む事こそ、私達の分なのだ。
これらの災いは、サタンがヨブを妬んだ故、神に許可をもらうと、待ってましたとばかりにヨブに徹底的に災いをもたらした。
元々神は、ヨブを誇りに思い、彼が苦しむ事は御心に無かったが、サタンのほうはヨブが災いに遭って神を呪って欲しいと願いに願っていた。
しかし、そのサタンの申し出さえも用いて、神は栄光を受け取られ、そしてヨブにも後にはさらに優れた息子・娘達を得させ、さらに優れた祝福を得させる事に用いられた。
サタンの、人を嫌がらせる手法はまことにあざやかで、時には芸術的なほどに、人が最も神経に障る所を突く事が見事であるが、しかし、この時のヨブの反応は、サタンの面目を大いに失わせ、神様はますますヨブによって栄光を受け取られるものだった。
1:20 このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、
1:21 そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
1:22 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。
ここでヨブが言っている「主のみ名はほむべきかな(イェヒー・シェム・ヤーウェ・メヴォラク)」には、強調されたバラク(誉め称える、祝福する)が込められている。
つまり、これは無気力な口先の賛美ことばではなく、褒・む・べ・き・か・な!と、絶叫的に強調して主の名を褒め称えているのだ。
こんな目に遭っておりながら叫ぶヨブの賛美に、主はどんなに栄光を受け取られ、鼻高々だっただろう。
そして、ヨブが神を呪う事を期待していたサタンは、どんなに面目を失っただろう。
なお、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。」の「母」は、ヘブライ語でエィーム、出発点の意味も含まれている。
つまり彼は、神は自分を祝福の出発点に立たせて下さったように、自分を再び出発点へと返して下さる、という意味が込められている。
ニコデモ(ヨハネ3章)が勘違いしたような、ヨブが再び母の胎に帰る、という事ではないのだ。
ヨブはこの後、人との議論の中で、主につぶやくような事も言うようになってしまう。
人は、弱いのであるが、しかし主は人の弱さを知っておられ、それをつつみ、さらに強くし、さらに幸いを返し、さらなる栄光を与えて下さるお方だ。
私達もヨブのように、何が起ころうとも、くちびるで罪を犯す事なく、いかなる事があっても主を誉め称え、そうして主が私達を通して鼻高々になっていただき、そしてサタンの面目をいつでも大いに失わせる者でありたい。
ヨブと神とサタンと(ヨブ記1:1-12)
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ヨブ記1:1 ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
最初にヨブの人となりが紹介されている。
彼は「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかっ」た。ここで用いられているヘブライ語ハヤーはBE動詞で、状態を現すが「なった」と訳す事もできる。
すなわち、「そのひととなりは全くなり、かつ正しくなり、神を恐れるようになり、悪に遠ざかるようになった」と。
ヨブはその生涯の過程で、御前で全くなるよう努力し、正しくなるよう努力し、悪から遠ざかるよう努力し続けた結果、神が、神の子達の会議においてヨブを自慢するようになった。
神に喜ばれるなら、当然、物質的にも祝福される。
1:2 彼に男の子七人と女の子三人があり、
1:3 その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。
彼の子達は、この物質的祝福の故に、豪勢な毎日を送っていた。
しかし、この世の富、栄華といった、世の中の物質的祝福は、徐々に人を腐らせる性質がある。
1:4 そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。
1:5 そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。
ヨブは年ごとに、その日々が一巡するたびに、彼ら一人一人のために捧げ物を捧げたが、それは、罪を犯さないように、という祈りではなく、罪を犯したかもしれないから、万一のために、という、後手に回る祈りだった。
本人自身の罪は、本人自身の主を恐れ敬う心からの悔い改めによってこそ、拭われるものである。
だから子供達には、しっかり主を畏れ敬う心と、罪を犯したなら本人自身が悔い改めるたしなみをこそ教えるべきである。
1:6 ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。
ここに神の会議が行われるが、そこにはサタンも来ている。
神はその会議に、サタンが入る事も許可されるのだ。
世の中ではあたかも、神とサタンの勢力図は互角であるかのような勘違いがあるが、神とサタンの勢力は月とスッポンにも及ばない程、圧倒的に、神が上である。
何しろ神は、サタンを呪った時、その手足をことば一つでもぎ取った程だ。
創世記3:14 主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。
3:15 わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
神はへびを、すなわち、サタンを呪ったが、その時、ちりをそのエサとした。
人間の組成はちりであり、神の息なき人間は単なるちりであり、へびの食い物にさえなってしまう。
しかし、ちりであっても、神の子になるなら、神の許可なければサタンは一切、触れる事が出来ない。
むしろ、主に対する従順により、神の子となって、サタンを踏み砕く事が出来るようになるのだ。
ローマ16:19 あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。
16:20 平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
ヨブ記1:7 主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
サタンは万能ではない。足で(腹で?)稼ぐしか無いのだ。
そして、人を激しく妬み、神から引き離し、単なるちりにして、食い尽くそうと付け狙っている。
サタンはヨブに目を留めた。
1:8 主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。
主はヨブを自慢し「わたしのしもべ」と言って「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者」と賞賛した。
彼のように自ら好んで主を恐れる人を、たとえそれが未熟であったとしても、主は喜ばれる。
そして、そのような人にはさらに召し、聖化し、栄光化するために、トレーニングされる。
1:9 サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
1:10 あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。
サタンは、主は「彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられた」と言ったが、「まがき」は、ヘブライ語でスーク(スーフ)と言う。
私達はこのスークによって守られているが、もしこの囲いが取り除かれてしまったら、私達はひとたまりもない。
私達はどのようにして、このスークを自分の周りに巡らす事ができるだろうか。それは、信仰によってである。
1ペテロ1:5「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。」
ヨブ記1:11 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
1:12 主はサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは主の前から出て行った。
サタンはヨブについて、神に挑発した。
神はそれに乗った形ようなで、サタンに許可を与えるが、神は決してサタンのそそのかしに支配されたのではなく、逆に、サタンさえ用いてヨブをさらに純化し、聖化し、栄化するようにしたのだ。
すなわち、彼がより神を知るようになり、永遠に変わらない栄誉に与かるようにと。
この世の富、栄華といった、世の中の物質的祝福は、徐々に人を腐らせる性質がある。
列王記・歴代誌において、神を敬う良い王様が時々起こり、その代は例外なく物質的にも祝福されたが、しかし同時に、例外なく物質的祝福が元となって高慢になって罪を犯してしまった。
神はもしかすると、ヨブが、物質的祝福によって腐り切ってしまう前に、試練を与えられたのかもしれない。
そして、この信仰の試練によって人を練り、きよめ、決して朽ちる事の無い永遠の栄光に与らせるために、その事をされるのである。
1ペテロ1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
1:6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。
ヨブの、試練の前と後とは、物質においても信仰においても、格段に違った。
彼はこの試練を通して、さらに上のステップヘ進む事が出来た。
この世においては諸々の患難がある。しかし、主キリストは、世に勝ったのである。
だから私達は勇敢にこの世を渡り合って行く事が出来るのだ。
ヨブ記概要(ヨブ記1:1)
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今回より、ヨブ記の講解説教に入る。
ヨブ記はユダヤ的な分類では「諸書(ケトゥビーム)」、異邦人的な分類では「詩歌・文学」に当たる。
だから、前回までは「歴史書」に分類される書で、言ってみれば、前回と今回では、社会の歴史から国語の文学へと教科替えしたようなものである。
ヨブ記はその名の通り、ヨブという名の人が主人公の書物であるが、彼の人となりについては、この書の最初に記されている通りである。
ヨブ記1:1 ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
彼はそれ故、神に愛され、守られ、当代一の祝福を受けたが、彼の心には一抹の不安があった。この祝福がいつか取り上げられはしまいか、と。
しかしその不安は、現実のものとなってしまう。
サタンはヨブを訴えた。彼から主の囲いを取り除いたなら彼は本性を現す、と。
神はそれに許可を与え、ヨブは一日にして全財産を失ってしまうのみならず、さらにひどい皮膚病に冒されてしまう。
それでも彼は口で罪を犯す事をしなかった。(1-2章)
しかし、ヨブの3人の友人が来訪した時から、このヨブ記の雰囲気が変わる。
2:11 そのうちに、ヨブの三人の友は、ヨブに降りかかったこのすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分の所からたずねて来た。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに悔やみを言って慰めようと互いに打ち合わせて来た。
彼らは慰めに来たはずなのに、ヨブが徹底的な災いに遭っている様を見て、彼が何か罪を犯したからに違いないと思い、それを諭す言葉をかけた事を発端に、ヨブとこの3人の友人の論争となる(3-26章)。
テマン人エリファズが物申し、ヨブが犯した罪を悔い改めるべき事を説くのだが、しかしヨブには身に覚えがない。ただ一方的に災いが起こった事を申し述べるだけである。
それに対し、シュアハ人ビルダデが似たような事を物申し、ヨブがそれに答え、さらにナアマ人ツォファルが物申し、それにヨブが答えていく、という一巡を、合計3セット繰り返す。
1セット目はまだ静かな対話であるのだが、2セット、3セットと重ねるごとに表現が厳しくなり、険悪化し、論争が激化して行く。
そしてヨブ自身、身の潔白をあくまで主張し(27章)、現状を嘆き、神に対しても、自分の身は潔白だと主張するに至る。(28-31章)
最初は口では罪を侵さなかった義人ヨブでさえ、友人達から、自覚なき罪の指摘ばかりをされ続けていると、ついには怒りの内に、神に対してさえ挑戦状を叩きつけるに至ってしまう。
まことに人間由来の知識論争は、いかに高等・高尚でも、義人さえもこのように籠絡させてしまう。
3人の友人は黙ってしまうのだが、そこに、3人の論争をそれまで黙って聞いていた若者・エリフが口を開く。
32:6 ブズびとバラケルの子エリフは答えて言った、/「わたしは年若く、あなたがたは年老いている。それゆえ、わたしははばかって、/わたしの意見を述べることをあえてしなかった。
32:7 わたしは思った、『日を重ねた者が語るべきだ、/年を積んだ者が知恵を教えるべきだ』と。
32:8 しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。
32:9 老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、/年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない。
32:10 ゆえにわたしは言う、『わたしに聞け、/わたしもまたわが意見を述べよう』。
エリフは、ヨブも友人達も議論の中身に問題があり、神こそただ正しいお方であり、自分を正しいとする事がそもそも違う事を主張する。
エリフの論述が32章から37章まで続くが、ついに、主ご自身が、あらしの中からヨブに語りかける。
38:2 「無知の言葉をもって、/神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
38:3 あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。
ヨブ達はそれまで、多くの無知の言葉をもって、真理を暗くしてきた。
主は、ヨブの質問には何一つ答えない。真理を暗くする議論論争に答える必要は、一切ないのだ。
主は、ただ主こそが全能であり、全てを創られ、全てを支配・管理しておられる事を、圧倒的な顕現をもって彼に示す。(38-41章)
それでヨブはただ悔い改め、ちりと灰の中に伏した。
主は確かにヨブから取り上げられた。しかし、ヨブが悔い改め、友人達のために祈った時、主はヨブを元通りにし、彼の持ち物を以前の2倍にして下さった。(42章)
さらに友人たちも彼を慰め、主は彼を幸いにして下さった。
ヨブ42:12 主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。
42:16 この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。
42:17 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。
ヨブ記については、「正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。」(wikipedia)
しかしその見解は、神様が彼に苦難を下さった、という点で止まってしまっており、ヨブの後半人生がどんなに祝福されたかが薄れてしまっている。
聖書がヨブ記について結論づけている箇所は、ヤコブ書である。
ヤコブ5:7 だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
5:8 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。
5:9 兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。
5:10 兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。
5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。
ヤコブ書に書いてある通り、ヨブ記の主題は、忍耐して主を待ち望む者の幸いであり、主の慈愛とあわれみの素晴らしさである。
「主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるか。」
そこに着眼しつつヨブ記を読む時、神様は気まぐれにに災いを起こされるお方ではなく、あわれみをもって最善へと導いて下さるお方である事が、そして、主がいかに全能なる力と、深淵なるご計画で、私達を愛・あわれみのうちに導いて下さるかが見えてくる。
人間が主人となる事の愚かさと、それに引き換え、慈愛とあわれみに富んだ主を主とする事の素晴らしさを、ヨブ記から学んで行きたい。