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メッセージ - 詩篇カテゴリのエントリ

詩篇講解説教

病や攻撃、災いから守られる保証(詩篇91篇)

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詩篇91篇には、あらゆる病疫や災い、攻撃からの、とても強力な守りと保証が宣言されている。
 
91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
 
主からの強力な保護をいただける人とは、いと高き方の隠れ場に住む人、全能者の陰に宿る人、主に対して「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と信じ宣言する人である。
 
ダビデは巨人ゴリヤテと対峙した時、宣言した。
『「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。サウルはダビデに言った、「行きなさい。どうぞ主があなたと共におられるように」。』(1サムエル記17:37)
 
主は、どんな強い戦う相手からも、また、行く先のどんな災いからも、救い出す事がおできになる。
イエス様は、「あなたが信じた通りになれ」と言われた。
私達・主を信じる者は、真実であられる主が言われた事を、そうなると信じて宣言するなら、その通りになる。
 
2次世界大戦中、イギリスのウイットルゼイ大佐もまた、この詩篇91篇を、部下全員に暗唱(テフィリン)させ、毎日祈らせたところ、なんと5年間、銃弾や爆弾が飛び交う戦場で、部下の一人も死ななかった。
まさに主の御言葉は、信じて宣言した者の勝ちである。
 
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
 
主は、あらゆる罠から、恐ろしい疫病から、完璧に守る事がおできになる、という根拠が、ここに記されてある。
 
災いは、誰にも彼にも降される、というわけではない。
主から守られる人というのは、たとえ、パンデミックの中心地にいたとしても、無事に守られる事が、聖書の中にもいくつか例がある。
 
サタンがダビデをそそのかして自国の兵士の数を数えさせた時、イスラエル全土では、7万人もの人々が疫病で倒れた。
その時、災いの中心地では、御使いが、エブス人・オルナンの打ち場に立って、抜き身の剣をエルサレムの上に差し伸べていた(1歴代誌21章)。
 
人々が激しい疫病で、次々と倒れていく中、その、災いの中心地であるオルナンの打ち場にいた、オルナン自身は、何の害も受けず、その傍らで、自分の仕事をしていた。
そこに、自分の主君であるダビデ王が来た時、彼はすぐに出て来て、ひれ伏した。
 
オルナンは、たとえ病禍のさなかでも、仕事に忠実で、また、主が立てられた権威に忠実であっただけでなく、彼はいつでも、主に全てを捧げる心備えを持っていた(22節)。
主は、そのような人をこそ、災いの最中でも守って下さる。
 
私達は、災いの時世、祭司として執り成し祈るべきである。
取りなし祈る事は主のみ心であり、そして主は、執り成し祈る祭司には、守りの保証をも与えて下さる。
 
モーセの時代、人々が主に逆らった故に、疫病が起こり、人々がばたばた倒れて行く中、大祭司アロンは、祭壇から火を取って、走っていき、死んだ人達と、生きている人達の間で祈りの香を焚いた時、疫病は止んだ(民数記16:41-50)。
この時、アロンは、生きている人と死んだ人の間に立ったにもかかわらず、病は一切、彼を害する事はなかった。
 
私達も、祭司として、取りなし祈る役割を、行く先々で負うべきである。
 
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
 
コロナが蔓延しはじめた2020年初頭、コーエン仲間で、中国宣教をしていたある働き人の報告によると、武漢は、2019年、教会迫害が最もひどく、48の地下教会を強制的に閉鎖させられた。
そこは、中国宗教規制政策の、模範地指定までされており、その年末には、ほぼ、全てのキリスト教宣教師が追放されていた。
しかし、全てのキリスト教宣教師が追放された直後、武漢肺炎が爆発的に広がり、宗教規制を実行する部門で最高位だった、キリスト教弾圧を指揮した、その当人が、真っ先に亡くなったという。
 
8節にある。
あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである、と。
 
この度、マイクロソフトを創始したビル・ゲイツ氏は、コロナウイルスよりも格段にたちの悪いウイルスのパンデミック到来を警告し、各国政府に次なる世界規模の感染拡大に備えるため、数十億ドルを拠出するよう呼びかけている事を、フィナンシャルタイムズが報じた。
https://jp.sputniknews.com/20220120/9986239.html 2022/01/20のニュース)
 
彼が、どういう経緯で、そう断言しているのかは分からない。
しかし、もし、人為的にウイルスパンデミックを作り出して、いたずらに人を殺している者がいるとするなら、人に耳を植えつけられたお方、目を造られたお方、国々を戒めるお方、人に知識を教えるそのお方が、お責めになる事を宣言しておく。
 
箴言26:27  穴を掘る者は自らその中に陥る、石をまろばしあげる者の上に、その石はまろびかえる。
 
イザヤ28:15 あなたがたは言った、「われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ。みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない。われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくしたからである」。
28:16 それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに/一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』。
28:17 わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」。
28:18 その時あなたがたが死とたてた契約は取り消され、陰府と結んだ協定は行われない。みなぎりあふれる災の過ぎるとき、あなたがたはこれによって打ち倒される。
28:19 それが過ぎるごとに、あなたがたを捕える。それは朝な朝な過ぎ、昼も夜も過ぎるからだ。このおとずれを聞きわきまえることは、全くの恐れである。
 
主を避けどころとし、その翼の陰に宿る人を、主は、あらゆる道において、守られる。
 
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
91:11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。
91:12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
91:13 あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
 
その人は、主に守られるだけでなく、獅子やコブラを、踏みつける者となる。
 
ローマ人への手紙16章20節
平和の神は、すみやかに、あなたがたの足(の下)でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
 
パウロは、宣教ゆえに捕らえられ、カイザルの裁判へと護送されて行った先で、まむしに噛まれた。
しかし彼は、何の害も受けず、むしろ、まむしを火に払い落とし、よけいに福音が行く先々で広まった。(使徒28章)
 
私達は、コロナパンデミックの中でも、働きに出ていかなくてはならない。
だから、行く先々で、全能の主の翼の陰にやどり、ダビデのように信じて宣言すべきである。
 
信仰の先人たちを、獅子や、熊から、まむしから、激しい疫病のパンデミックから、守ってくださった主が、このわたしと、わたしの家族を、またわたしのチームを、守られる!と。
 
14節からは、人称が2人称へ変わり、主が私達に直接語りかける形となる。
 
91:14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
91:15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
91:16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。
 
14節の「愛して離れない(ハーシャク)」とは、「(喜んで、愛して)しがみつく」という意味である。
幼子が母親をしがみつくように、また、女性が愛してやまない男性に喜んでしがみついて行くかのように。
そのように、主を喜んで、愛して、しがみつきに来る人を、主は、助け出し、高く上げ、呼ぶ時に応え、苦しみの時にともにいて、救い、ほまれを与え、ながいいのちで満ちたらせ、救いを見せて下さる、と書いてある!
 
この、病疫がはびこる時代、オルナンのように、与えられた仕事と権威に忠実になり、主から守られる皆さんでありますように!
また、アロンのように、死と生のはざまで苦しんでいる人達のために、とりなし祈り、主から護られつつ、祭司として、神と人との間に和解の務めを果たしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

詩篇講解説教

諸行無常、色即是空を乗り超えて永遠に輝く神の民(詩篇90篇)

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詩篇90篇表題『神の人モーセの祈』
 
詩篇90篇より、詩篇の第四巻が始まる。
この詩篇第四巻(90‐106篇)は、おもに彷徨いと苦難について記されており、それはまさに、民数記の内容である。
その冒頭の詩篇が、荒野でのさまよいと苦難を最も経験した、モーセがしるした詩である。
 
90:1 主よ、あなたは世々われらのすみかで/いらせられる。
90:2 山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。
 
モーセは真っ先に、主が、私達の「すみか(マーオーン)」でいらせられる、と宣言した。
マーオーンというヘブライ語の意味は、宿る所、住む所、逃げ込む所。
 
この詩篇90篇は、諸行無常的な、色即是空的な内容がフォーカスされがちではある。
しかし、モーセの最初の宣言、すなわち、永遠から永遠に生きておられる主が、わたしの住まいである、という信仰の宣言によって、虚しい色合いは、一気に、永遠の希望の色合いに変化する。
その変化を味わえるかどうか。
それは、一人ひとりが信じる、信仰の対象にかかっている。
 
 
90:3 あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。
90:4 あなたの目の前には千年も/過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。
 
帰る先が、単に「ちり」であるとするなら、確かに、全てのものが虚しい、諸行無常の響きに聞こえる。
しかし聖書を読むなら、主が言われた「帰れ」の先は、「ちり」よりも遥かに栄光ある「先」である事が分かる。
 
90:5 あなたは人を大水のように流れ去らせられます。彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。
90:6 あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。
 
ここの「ひと夜の夢(シェナー:眠る)」とは、死を意味しており、人が、朝には咲いても、夕べにはしおれる花のように、たとえられている。
そこで終わるなら、色即是空の世界観であるが、しかし、「眠り(シェナー)」と表現されているからには、「目覚め」の希望もあるという事だ。
 
確かに人は、罪を犯したゆえに、その報いとして、ちりに帰る存在となってしまった。
しかし、人は、ちりに帰って終わりではない。
肉体がちりに帰ると共に、その霊は、永遠なる神の元に帰るのだ。
 
その永遠の先を、楽園、すなわちパラダイスで生きる人がいる。
それは、神と和解し、神の救いを得た人である。
新約時代の今、その人達とは、「彼は救い」という名の救い主・イエス様を信じた人達であり、その人達こそ、永遠の楽園(パラダイス)で、神とともに生きる人達だ。
 
イエス様は、人の罪の身代わりとして十字架にかかり、ひとたび「眠った」。
しかし、三日目に「目覚め」、復活し、死を打ち破って、こうして、死の呪いの下にある全ての人々の救い主となられた。
 
彼を信じる人は、神と和解が成立し、もはや、単に「ちり」に帰る存在ではなくなり、神の子という特権を得て、栄光の栄光に満ちた天国で、まことの花婿イエス・キリストと共に、永遠に喜び楽しむ者となるのである。
それが、福音である。
 
 
90:7 われらはあなたの怒りによって消えうせ、あなたの憤りによって滅び去るのです。
90:8 あなたはわれらの不義をみ前におき、われらの隠れた罪をみ顔の光のなかにおかれました。
90:9 われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。
 
確かに、モーセの時代、イスラエルの民は、神の「怒り」「憤り」を引き起こした。
そしてモーセは、そのような彼らが、荒れ野で次々と死んでいくのを見た。
 
主の御怒りの前で、人の年が尽きるのは、ひと息のようである、と、モーセは表現した。
 
しかしその一方で、荒野で死ぬことなく、約束の地に到達した人々もいた。
ヨシュアとカレブである。
主の御怒りを引き起こして死ぬ人と、生きながらえて御国を相続する人の違いは、一体何だろう。
 
神の怒りを引き起こして、荒野で滅んだ人々は、神様の言葉を信じず、従わなかった人々である。
ひるがえって、約束の地に到達した人々は、神様の言葉を信じて、従った人々であった。
 
神様の言葉に従わない人は、9節にある通り、主の激しい怒りの中に沈み行き、自分の年を、ひと息のように終わらせてしまう人生である。
しかし、主の御言葉を握りしめ、聞き従った人々は、約束の地に入り、すばらしい相続地を得た。
カレブなどは、85歳であったにもかかわらず、日常の出入りや、戦争にも耐えるほどに、健康体で、誰もが恐れる強者が住んでいたヘブロンを奪還し、その土地に、彼の子々孫々を住まわせた。
主に信頼する者は、鷲のように若々しく力が与えられ、翼をかって登って行くのである。
 
 
90:10 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。
 
この人生を、単に、労苦とわざわいに満ちた、80年ほどでちりに帰ってしまう人生にしてしまうか。
それとも、カレブのように充実した栄光の人生にするか。
それは、主を正しく知り、正しく「主の時」をわきまえるかどうかにかかっている。
 
90:11 だれがあなたの怒りの力を知るでしょうか。だれがあなたをおそれる恐れにしたがって/あなたの憤りを知るでしょうか。
90:12 われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。
 
モーセは、自分の日を正しく数える事を教えて下さい、知恵の心を得させて下さい、と祈り求めた。
私達は、主の御怒りの恐ろしさを、聖書から正しく知るべきであるが、それ以上に、主が下さる莫大な祝福、莫大なしあわせをこそ、求め、知るべきである。
主の莫大な祝福を得る鍵は、主の御声に聞き従い、その言葉を守り行る事。
この、実にシンプルな事であった。
 
モーセは12節で、自分の日を正しく数える事ができるように、と、求めたが、私達も、自分の人生の日々を、いかに主にあって正しく生きるかを、求めるべきである。
 
人は何かと、自分の人生がこれからもずっと、変わらず続いていくもの、と思いこんでいるが、人生を80年として、自分の年齢を引き算し、日数を計算するなら、自分の日数は、意外と少ない事がわかる。
しかも、80歳まで生きられる、などと、誰も分からないどころか、そのわずかな日々は、10節にある通り、ほねおりと悩みに満ちている予感しかない人が多い。
 
だから私達は、「きょう」と呼ばれる日に、主の御声に聞き従い、主の嫌われる事を止めるべきなのだ。
 
 
90:13 主よ、み心を変えてください。いつまでお怒りになるのですか。あなたのしもべをあわれんでください。
90:14 あしたに、あなたのいつくしみをもって/われらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください。
90:15 あなたがわれらを苦しめられた多くの日と、われらが災にあった多くの年とに比べて、われらを楽しませてください。
 
13節以降、モーセは主に祈っている。
いつまでお怒りになられるのですか、あわれんで下さい、人生の日々を恵みで満ち足らせ、喜び歌い、楽しむようにしてください、と。
 
今までの人生、悩んで来たかもしれない。
災いに遭ってきたかもしれない。
それは、正しく主に祈り求めなかった日々だけで、もう十分である。
モーセのように、祈り求めるべきである。
 
90:16 あなたのみわざを、あなたのしもべらに、あなたの栄光を、その子らにあらわしてください。
90:17 われらの神、主の恵みを、われらの上にくだし、われらの手のわざを、われらの上に/栄えさせてください。われらの手のわざを栄えさせてください。
 
モーセは最後に、われらの手のわざを栄えさせてください、と、繰り返し祈っている。
手応えのない日々を何十年も送り、手のわざが何も残らないままちりに帰って、やがて存在していた事すらも忘れ去られてしまう、そのような人生が、耐えられないのだろう。
 
しかし、私達の存在を確かなものとし、永遠のものとして下さるお方は、主である。
そして、永遠なる主のために捧げた事だけが、永遠の記念として残るのである。(マタイ26:13)
 
モーセは、いのちが取られる直前に、イスラエル12部族を祝福した後、いよいよ最後に言った言葉が、以下である。
 
申命記33:26 「エシュルンよ、神に並ぶ者はほかにない。あなたを助けるために天に乗り、/威光をもって空を通られる。
33:27 とこしえにいます神はあなたのすみかであり、/下には永遠の腕がある。敵をあなたの前から追い払って、/『滅ぼせ』と言われた。
33:28 イスラエルは安らかに住み、/ヤコブの泉は穀物とぶどう酒の地に、/ひとりいるであろう。また天は露をくだすであろう。
33:29 イスラエルよ、あなたはしあわせである。だれがあなたのように、/主に救われた民があるであろうか。主はあなたを助ける盾、/あなたの威光のつるぎ、/あなたの敵はあなたにへつらい服し、/あなたは彼らの高き所を踏み進むであろう」。
 
モーセは、イスラエルに「エシュルンよ」、と呼びかけている。
エシュルンは「まっすぐにする」「正しく考える」という意味である。
 
神の民の本来は、まっすぐな神の言葉どおりに歩むものであり、神をすみかとするものであり、その力強い神の御腕の下で敵から守られ、安らかに住み、地の豊かな産物を喜び楽しむ、誰にも比べうるものの無い、しあわせな民族のはずである。
私達は、神の民として、まっすぐな神の言葉に歩み、祝福としあわせの人生を全うし、この肉体はちりに帰ったとしても、霊は永遠の天国で、永遠のしあわせを神とともに生きる者たちである。
 
結局、まことの神を知らず、求めず、神ぬきで生きる人間、すなわち、80年ほどでちりに帰る人間が、やっと到達できる叡智が「諸行無常」「色即是空」「全ては虚しい」、のたぐい以外には無い。
しかし、永遠なる主とともにあゆむ人は、その向こう側に行く事ができる。
すなわち、永遠の喜びに溢れたいのちを、まことの花婿・イエス・キリストと共に、永遠に楽しむのである。
 
モーセは、この詩を残し、約束の地に足を踏み入れる事なく、ちりに還ったが、それで終わりではなかった。
新約を見ると、モーセがちゃっかりと、イエス様と共に約束の地の「こちら側」にいて、神様の栄光の内に、永遠のいのちを生きていた事が分かる。(マタイ17:3)
イエス様にある信仰者には、永遠の栄光と喜びがある事を、決して忘れてはならないのだ。

詩篇講解説教

主のタイミングで主の御旨を実行せよ(詩篇89:19-52)

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この詩篇89篇は、永遠であり普遍なる神が、ダビデと契約を結ばれた事、そして、その契約を結ばれた主は、はじめから終わりまで真実であられた事を歌っている。
 
主は永遠に真実なお方であるのに対し、人の側は、誠実な時もあれば、不実な時もある。
人が誠実な時には、主は誠実への報いとして大きな祝福を与えられるが、不実な時には、懲らしめとして苦難を与えられる。
 
この詩篇の後半は、将来のダビデの子孫たちが不従順ゆえに災いに遭っている姿を見せられたエタンによる、とりなしの叫びである。
 
そのような叫びが出来るのは、主は義であると同時に、憐れみ深く、恵み深い方である事を、彼が知っていたからだ。
 
18節までは、王の王であられる神の栄光を賛美していたが、19節以降では、特に、ダビデ契約の性質を詳しく示している。
 
 
89:19 昔あなたは幻をもってあなたの聖徒に告げて/言われました、「わたしは勇士に栄冠を授け、民の中から選ばれた者を高くあげた。
 
神はダビデを選んで、その王国を固く建て、その子孫に、永遠の支配をゆだねられた。
その子孫とは、イエス・キリストである。
 
さらに20節以降に、主がダビデに与えてくださった真実と恵みの数々が、記されている。
 
 
89:20 わたしはわがしもべダビデを得て、これにわが聖なる油をそそいだ。
89:21 わが手は常に彼と共にあり、わが腕はまた彼を強くする。
89:22 敵は彼をだますことなく、悪しき者は彼を卑しめることはない。
89:23 わたしは彼の前にもろもろのあだを打ち滅ぼし、彼を憎む者どもを打ち倒す。
89:24 わがまことと、わがいつくしみは彼と共にあり、わが名によって彼の角は高くあげられる。
89:25 わたしは彼の手を海の上におき、彼の右の手を川の上におく。
89:26 彼はわたしにむかい『あなたはわが父、わが神、わが救の岩』と呼ぶであろう。
 
実際、ダビデは、神に助けられ、サウル王やペリシテ人から守られ、そしてサウルに代わる王とされた。
そうして向かうところ敵なしの状態となって、イスラエルに敵対していた国々を平定した。
 
それは、26節にある通り、ダビデは神を父とし、「わが神」「わが救いの岩」としたゆえであった。
続く節で、神は応答される。
 
89:27 わたしはまた彼をわがういごとし、地の王たちのうちの最も高い者とする。
89:28 わたしはとこしえに、わがいつくしみを彼のために保ち、わが契約は彼のために堅く立つ。
89:29 わたしは彼の家系をとこしえに堅く定め、その位を天の日数のようにながらえさせる。
 
神はダビデを「ういご」として扱われた。
実際、ダビデの子孫、イエス・キリストは、全て神に召された者たちの長子である、と、ローマ8:29に書かれてある。
 
ローマ8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
 
そう、召し出された私達・教会は、全ての事が働かされて、益とされる者たちである。
たとえ世の中が、どのような情勢となったとしても。
 
なぜなら神は、召し出された人々を、御子キリストと同じ姿へと、あらかじめ定められていたからである。
 
 
詩篇89篇30節以降には、もし、ダビデの子孫たちが、神様の真実に対し、「不真実」で返したら、どうなってしまうのか、あらかじめ警告されていた内容が示されている。
 
89:30 もしその子孫がわがおきてを捨て、わがさばきに従って歩まないならば、
89:31 もし彼らがわが定めを犯し、わが戒めを守らないならば、
89:32 わたしはつえをもって彼らのとがを罰し、むちをもって彼らの不義を罰する。
89:33 しかし、わたしはわがいつくしみを/彼から取り去ることなく、わがまことにそむくことはない。
89:34 わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない。
89:35 わたしはひとたびわが聖によって誓った。わたしはダビデに偽りを言わない。
89:36 彼の家系はとこしえに続き、彼の位は太陽のように常にわたしの前にある。
89:37 また月のようにとこしえに堅く定められ、大空の続くかぎり堅く立つ」。〔セラ
 
確かに、主との契約を破って、主から離れるとするなら、懲らしめと刑罰が待っている。
しかし同時に、主は、わたしは恵みを彼からもぎ取らず、わたしの真実を偽らない、と言われた。
「わたしは決して捨てない」という、素晴らしい主の恵みが、あらかじめ表明されていたのだ。
 
確かにダビデの王家は、代々、主に逆らってきた。
にもかかわらず、主は、ダビデの家を覚えておられ、その子孫から、救い主イエス・キリストをお建てになった。
 
38節以降を見ると、エタンが見せられた刑罰の厳しさがわかる。
 
89:38 しかしあなたは、あなたの油そそがれた者を/捨ててしりぞけ、彼に対して激しく怒られました。
89:39 あなたはそのしもべとの契約を廃棄し、彼の冠を地になげうって、けがされました。
89:40 あなたはその城壁をことごとくこわし、そのとりでを荒れすたれさせられました。
89:41 そこを通り過ぎる者は皆彼をかすめ、彼はその隣り人のあざけりとなりました。
89:42 あなたは彼のあだの右の手を高くあげ、そのもろもろの敵を喜ばせられました。
89:43 まことに、あなたは彼のつるぎの刃をかえして、彼を戦いに立たせられなかったのです。
89:44 あなたは彼の手から王のつえを取り去り、その王座を地に投げすてられました。
89:45 あなたは彼の若き日をちぢめ、恥をもって彼をおおわれました。〔セラ
 
ここの「彼の若い日を短くし」とは、エホヤキン王の事を指すと思われる。
彼は18歳(2歴代誌36:9のヘブル語本文では8歳)で王となりエルサレムで3か月間王であった。
 
ソロモンの時代を生きていたエタンは、そのような暗い遠い将来を、「琴と立琴とシンバルをもって預言する者(1歴代誌25章)」として、預言の内に見せられ、この詩を書いたのだろう。
 
46-51節は、その悲惨な状況に対する主への叫びである。
 
89:46 主よ、いつまでなのですか。とこしえにお隠れになるのですか。あなたの怒りはいつまで火のように燃えるのですか。
89:47 主よ、人のいのちの、いかに短く、すべての人の子を、いかにはかなく造られたかを、みこころにとめてください。
89:48 だれか生きて死を見ず、その魂を陰府の力から/救いうるものがあるでしょうか。〔セラ
89:49 主よ、あなたがまことをもってダビデに誓われた/昔のいつくしみはどこにありますか。
89:50 主よ、あなたのしもべがうけるはずかしめを/みこころにとめてください。主よ、あなたのもろもろの敵はわたしをそしり、あなたの油そそがれた者の足跡をそしります。わたしはもろもろの民のそしりを/わたしのふところにいだいているのです。
 
 
悲惨な現状が到来してしまう原因は、ほぼ、私達の側にある。
 
私達・神の民が、主の御旨に沿った管理を、し損ねると、管理しなかった分の解決すべき問題の山々が、こちらを強制的に支配しにかかって来る。
すなわち、管理しなかった人間関係、管理していなかった勉強時間、管理していなかった、その他もろもろが。
それらがやがて、牙をむいて、こちらを強制的に支配しにかかって来るのだ。
 
それは法則ではあるが、しかし主は、「無感情な法則」のようなお方ではなく、恵み深いお方である。
それだからエタンは訴えているのである。
私達も、個人的に主に訴え祈ることができる。
 
エタンは、そのような訴えをしはしたけれども、最後は頌栄と、アーメン、アーメンでこの詩を終え、詩篇第三巻を閉じた。
 
89:52 主はとこしえにほむべきかな。アァメン、アァメン。
 
私たちの生活も、もしかすると、エタンが見たような葛藤の中にあるかもしれない。
しかし、人の目に見える時間があると同時に、人の目には見えない「神の時間」がある。
私達が見える時間は、政治家、社長、株主など、この時代の強者が支配している。
しかし神は、見えない時間を管理しておられ、神の民に、神の時を告げ知らせ、神の経営を実行させるために、御言葉を下さる。
 
私達は、その「時」を悟り、時にかなった事をする「時間マスター」になるべきである。
 
私達が、主のタイミングで主の御旨を実行するなら、主の大いなるわざをもたらす「歴史の主人公」となれる。
 
しかし、もしそれが与えられているにもかかわらず、実行しないなら、大きなチャンスをみすみす逃すだけではない。
エタンが見せられたように、後々の自分や子々孫々へと、大きな災いを残してしまう事になる。
 
今、私達は、与えられている時間を自分の好き勝手にする時間としてではなく、主の御旨を悟り、主が仕組んだ時間として正しく管理し、主の御旨を実行させるために、用いられるべきである。

詩篇講解説教

神の民による永遠の賛美(詩篇89:1-18)

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詩篇89篇表題:エズラびとエタンのマスキールの歌
 
この詩篇の作者はエタンで、彼は、前章の作者・ヘマンと同じく、ソロモンと比べられる程の知恵者で(1列王記4:31)、また、聖歌隊指導者の1人として記されている。(1歴代誌15:19)
 
エタンの名の意味は、「永遠の」「恒久的な」で、その名前どおり、彼はこの詩篇において、永遠的に主の栄光をあらわしている。
この詩篇では、特に、神様がダビデと結んで下さった契約において示された主の恵みと真実を賛美している。
 
 
エタンはまず、1-2節において、彼の信仰を告白し、宣言した。
 
詩篇89:1 主よ、わたしはとこしえにあなたのいつくしみを歌い、わたしの口をもってあなたのまことを/よろずよに告げ知らせます。
詩篇89:2 あなたのいつくしみはとこしえに堅く立ち、あなたのまことは天のように/ゆるぐことはありません。
 
いつくしみ(ヘセド)は「恵み」、まこと(エムナー)は「真実」とも訳されるが、それらキーワードがこの詩篇で繰り返され、神様の恵みと真実が強調されている。
 
詩篇89:3 あなたは言われました、「わたしはわたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓った、
詩篇89:4 『わたしはあなたの子孫をとこしえに堅くし、あなたの王座を建てて、よろずよに至らせる』」。〔セラ
 
ここは、2サムエル記7章にて主がダビデと結ばれた契約を指している。
 
主はダビデに、「あなたの子孫(単数形)」をとこしえに堅くし、王座を建てて、よろずよに至らせる、と約束された。
その、ダビデから出る「単数形の」子孫は、私達の救い主イエス・キリストである。
 
私達はなぜ、エタンが言ったごとく、「永遠に」主を賛美できるのか。
それは、ダビデの子孫として来られたイエス・キリストの、十字架の贖いのゆえである。
 
イエス様が、私達の身代わりとなって処罰を受け、私達のいのちを買い戻して下さった。
それを信じる者は、聖別され、永遠のいのちが与えられる。
それゆえに、私達・聖徒は、とこしえに主を褒め称えるのである。
 
5節以降には、主が為して下さったくすしいわざへの賛美が捧げられている。
 
詩篇89:5 主よ、もろもろの天/にあなたのくすしきみわざをほめたたえさせ、聖なる者のつどいで、あなたのまことをほめたたえさせてください。
 
そう、天は、主を賛美しているのだ。
太陽も、月も、星々も。
そして、御使いたちも。
そして、地においては、「聖なる者のつどい(直訳:聖なる集会)」の中で、賛美が捧げられている。
聖徒の集会における賛美は、天における御使い達の賛美に匹敵する、すばらしい体験なのである。
 
詩篇89:6 大空のうちに、だれか主と並ぶものがあるでしょうか。神の子らのうちに、だれか主のような者があるでしょうか。
詩篇89:7 主は聖なる者の会議において恐るべき神、そのまわりにあるすべての者にまさって/大いなる恐るべき者です。
詩篇89:8 万軍の神、主よ、主よ、だれかあなたのように/大能のある者があるでしょうか。あなたのまことは、あなたをめぐっています。
 
そう、天でも、地でも、私達の主に、比べうるものはいない。
啓示録においても記されている。
天の御使いが、こぞって賛美する、のみならず、天と地と、地の下と、海の上の、あらゆる造られたものが、さらに、その中に生息している全生物が、賛美するのだ。
 
黙示録5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。
 
この、天的な賛美においては、父なる神と、ほふられた小羊とに、賛美が向けられている。
神の小羊キリストが、その十字架の血潮をもって、全被造物を贖って下さったからである。
 
 
9-13節においては、被造物に見られる主のみわざの栄光が、賛美されている.
 
詩篇89:9 あなたは海の荒れるのを治め、その波の起るとき、これを静められます。
詩篇89:10 あなたはラハブを、殺された者のように打ち砕き、あなたの敵を力ある腕をもって散らされました。
 
ラハブは、前章でも見たように、エジプトを象徴的に表している。
エジプトは、神の民イスラエルを束縛し、奴隷化し、虐げた。
しかし主が、それを打ち砕き、神の民を解放して下さった。
同じように主は、神の民である私達キリスト者を束縛し、奴隷化し、虐げるような、あらゆる勢力を打ち砕き、そこから解放して下さる。
 
 
詩篇89:11 もろもろの天はあなたのもの、地もまたあなたのもの、世界とその中にあるものとは/あなたがその基をおかれたものです。
詩篇89:12 北と南はあなたがこれを造られました。タボルとヘルモンは、み名を喜び歌います。
詩篇89:13 あなたは大能の腕をもたれます。あなたの手は強く、あなたの右の手は高く、
 
ここに、2つの山がでてくる。
 
1つ目のタボル山は、いわゆる変貌山と呼ばれる山で、また、アブラハムが戦争で勝利した際、メルキゼデクが彼に現れ、アブラハムはメルキゼデクに十分の一を捧げた山である。
現在、メルキゼデクの記念碑と、イエス様の変貌記念教会がある。
 
2つ目のヘルモン山は、豊かに水をもたらす山としてよく聖書に出てくる。
2000m級の非常に高い山々で、サタンはイエス様をそこに連れて行って、全ての国々の栄光を見せた所(マタイ4章)、また、人間を捕獲し、バベルの塔を建てた、ニムロデの城が発掘されている。
しかし主は、悪い者に高慢な事に用いられた所であっても、変わらず、力ある御腕を現して下さる(13節)。
 
詩篇89:14 義と公平はあなたのみくらの基、いつくしみと、まことはあなたの前に行きます。
 
義(ツェデク)と公正(ミシュパート)は、主のご性質である。
しかし、私達・罪ある人間は、義と公正なる主の前に立てない。
しかし、主が「恵みとまこと」(ヘセドとエメス)を先立せて下さった。
それで私達は、おりにかなった助けをいただくために、大胆に御前に進み出る事ができるのだ。
 
15-18節には、主を賛美する民の幸いが語られている。
 
詩篇89:15 祭の日の喜びの声を知る民はさいわいです。主よ、彼らはみ顔の光のなかを歩み、
詩篇89:16 ひねもす、み名によって喜び、あなたの義をほめたたえます。
 
「主の御顔の光」は、主の恵みと平安の祝福である。(民数記6:21-27)
主を賛美する民は、その祝福の中を歩む。
 
詩篇89:17 あなたは彼らの力の栄光だからです。われらの角はあなたの恵みによって/高くあげられるでしょう。
詩篇89:18 われらの盾は主に属し、われらの王はイスラエルの聖者に属します。
 
主のご恩寵によって、私たちの角(力と勢いの象徴)が、高く上げられる。
そして、ダビデもよく言っているように、主が、私達・主の民の「盾」となって下さるから、私達は守られる。
 
それゆえ私達も、とこしえに、主を賛美するのである。

詩篇講解説教

鬱々としてオチが無い詩篇、か?(詩篇88篇)

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この詩篇88篇は、はじめから終わりまで、鬱々として暗い雰囲気に終始しており、他の詩篇のように、「しかし」つきのV字回復や、感謝、賛美なしに終わる。
暗い雰囲気で始まる詩篇は沢山あるが、ほぼ、「希望のオチ」で終わる。
けれども、この詩篇には、そうした「オチ」が無い。
 
世のブルースや演歌は、はじめから終わりまで恨み節、という曲は多いが、しかしこの詩篇が、それらと違うのは、はじめから終わりまで、主を呼び求める「祈り」で終始している事である。
 
人生の価値は、順境か逆境か、楽しいか苦しいか、喜んでいるか悲しんでいるか、などで計れるものではない。
「主と向き合っているか、いないか」
それによって、計られる。
どんなに順境で、楽しく、喜びの毎日であっても、主と向き合っていないなら、その人生には価値は無く、逆に、どんなに逆境が続いて、苦しくて、悲しんでいても、主と向き合っているなら、偉大な価値を持った人生なのだ。
 
いつも喜んでいなさい、と書かれてあるけれども、悲しむべき事が降り掛かってしまう時も、人生の中では、ある。
だから、絶えず祈りなさい、と書いてあるのだ。
絶えず主に祈るなら、どんな場面でも、どんな状況でも、いのちの主、光の主、そして、全てを益と創り変えて下さる主と、出会うことができるからだ。
 
 
詩篇88篇表題:聖歌隊の指揮者によってマハラテ・レアノテのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌、さんび。エズラびとヘマンのマスキールの歌
 
この詩篇の作者はヘマンである。
彼は、預言者サムエルの子孫で(1歴代誌6:33)、またダビデの時代、琴と立琴とシンバルをもって預言する者とされた。(1歴代誌25章)
 
彼の名前の元のヘブライ語は「エムナー」、その意味は、忠実、誠実、堅実、安定、また信仰。
それが、彼の性質である事は、この詩篇のはじめから終わりまで終始されている祈りの中から分かる。
 
88:1 わが神、主よ、わたしは昼、「助け(イエシュア)」を呼び求め、夜、み前に叫び求めます。
88:2 わたしの祈をみ前にいたらせ、わたしの叫びに耳を傾けてください。
 
彼は、昼も、夜も、主の御前に「祈り」をもって向かっている。
まさに、主を待ち望む「アドベント」の人である。
 
そして彼は、主を「イエシュア(救い)の神」と呼んでいる。
イエシュア、すなわちイエス様の御名を呼び求める者は、その救いにあずかる事ができるのだ。
 
 
88:6 あなたはわたしを深い穴、暗い所、深い淵に置かれました。
88:7 あなたの怒りはわたしの上に重く、あなたはもろもろの波をもって/わたしを苦しめられました。〔セラ
 
彼の祈りは、ヨナを彷彿させる。
ヨナのように、深淵の底に降り、また、波が次々と襲いかかっているかのような状況である。
 
ヨナは、魚の腹の中から主に祈った。
「救は主にある(イエシュアーター・ラ・アドナイ)」と。
ヨナは、「救(イエシュア)は主にある」と言って、イエシュアの名を呼ぶと、三日目の復活を経験し、多くの人々を主に立ち返らせる偉大な働きをした。
私達の希望はイエシュア、イエス様であり、彼に向き合い続けるなら、三日目の復活を私達も経験するのである。
 
88:8 あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、わたしを彼らの忌みきらう者とされました。わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。
88:9 わたしの目は悲しみによって衰えました。主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、あなたにむかってわが両手を伸べました。
88:10 あなたは死んだ者のために/奇跡を行われるでしょうか。なき人のたましいは起きあがって/あなたをほめたたえるでしょうか。〔セラ
 
彼も、ヨブのように、友人からも難癖つけられているが、しかし少なくとも、彼は日ごと、主を呼んでいる。
主に向かって両手を差し伸べている。
 
彼は実に、その名のとおり、誠実また忠実である。
主は、主に向かって誠実を貫いて、いつも主に手を差し伸べているる人には、必ず、報いて下さる。
 
 
88:11 あなたのいつくしみは墓のなかに、あなたのまことは滅びのなかに、宣べ伝えられるでしょうか。
88:12 あなたの奇跡は暗やみに、あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。
88:13 しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。
(NKJV: And in the morning my prayer comes before You.)
 
彼には、希望がある。
その根拠は、彼は日夜主に叫んでおり、また、朝明けには、自分の祈りは、あなたの御前に行く、と、信仰をもって宣言している所である
 
ユダヤ人の世界観は、「夕があり、朝があった」である。
それにひきかえ、世の中の思考は、「朝」があって「夕」になる、である。
はじめは希望、後には絶望。
それが、世の思考であるが、神の民は、絶望の後に、永遠の希望があるのだ。
イエス様も、復活の「朝」の前に、十字架という闇夜を経験した。
しかしイエス様は、復活の朝を迎え、今や、光に満ちた天において、永遠に統治しておられる。
私達も、イエシュア、すなわちイエス様にあって、そうなのである。
 
88:14 主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。
88:15 わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。あなたの脅かしにあって衰えはてました。
88:16 あなたの激しい怒りがわたしを襲い、あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。
88:17 これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、わたしを全く取り巻きました。
88:18 あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、わたしの知り人を暗やみにおかれました。(新共同訳「わたしに親しいのは暗闇だけです」)
 
彼は、若い時から苦しみ続けていた。
主の脅かしや怒りに、ずっと襲われ続けているかのようだった。
友人たちも、彼から遠ざかり、親しいのは、暗闇だけ。
 
こうして、この詩篇は終わる。
 
「希望のオチ」が、一切無い。
一見すると。
 
しかし、彼の人生は、そこで終わった訳ではない。まだまだ続く。
私達も、「今」という瞬間、暗闇と絶望のどんぞこで、「光のオチ」が永遠に無いかのような状況が、あるかもしれない。
もしかすると、若い時から、今まで、ずっとそうだったかもしれない。
 
では、ヘマンは一体どこに落ち着いたのか。。。
実は、他の箇所から、彼が落ち着いた先を探る事ができる。
 
彼は、ソロモンと比べられる程の知恵者となり(1列王記4:31)、
次のように呼ばれるようになる。
「神がご自身の約束にしたがって高くされた王の先見者ヘマン」
また神は、彼に、男の子十四人、女の子三人を与えられた、と記されている(1歴代誌25章)。
 
彼の誠実も、彼の祈りも、全部主に聞かれ、神様は彼に大いに報いられた、という事である。
 
 
主は、いつまでも責めておられるわけではない。
主は、祈り求める民には、必ず、闇から光へ、悲しみから喜びへチェンジさせて下さる。
イエス様は言われた。
 
Joh 16:20  まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。 
Joh 16:21  女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。 
Joh 16:22  あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。 
Joh 16:23  その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。 
Joh 16:24  あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
 
 
「救い(イエシュア)」であられるイエス様を呼び求め続ける者は、やがて、イエス様の十字架の御手によって、全ての涙はすっかり拭われ、もはや死もなく、悲しみ、叫びの無い、永遠の光と喜びに満ちた天国で、彼と共に住むのである。

詩篇講解説教

全世界の救われた人々の本籍地シオン(詩篇87篇)

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コラの子の歌、さんび
詩篇87:1 主が基をすえられた都は聖なる山の上に立つ。(NKJV: His foundation is in the holy mountains.)
 
 
詩篇87篇は、シオンが全世界の本籍地になるという預言的なシオン賛歌であり、シオン(צִיּוֹן)とはエルサレムの別名で、特に、神殿のある町、聖なる神の都を意識する時、この呼び名が用いられる事が多い。
本篇の1節では、この都を「聖なる山」と呼び、3節では「神の都」と呼んでいる。
 
主はシオンを、イスラエルの他の町々よりも、特別扱いし、もろもろの栄光ある事を、語られた。
 
87:2 主はヤコブのすべてのすまいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。
87:3 神の都よ、あなたについて、もろもろの栄光ある事が語られる。〔セラ
 
シオン、すなわち、エルサレムの城門を通って、諸国の人々や王たちが都へと入って来る事が、黙21章にも記されている。
 
黙示録21:10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。
21:11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
21:12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
 
 
確かに、全世界にとって、イスラエル十二部族は「門」であり、十二使徒は「土台」である、といえる。
なぜならイスラエルを通して、この世界に神の法則(律法)が入って来たのだし、また彼らを通して、イエス・キリストがこの世に送り出され、そして使徒たちを通して、福音が全世界へ伝えられたのだから。
 
神は、イスラエル十二部族の名が記された「門」を愛され(詩篇87:2)、そして、イエス・キリストの十二使徒を、愛しておられる。
私達も、福音を宣教し、救った人達にとって「使徒」となるなら(1コリント9:2)、主は私達を「救いの門」とし、主からこよなく愛され、その宣教の働きを守り、導いて下さるのだ。
 
 
詩篇87:4 わたしはラハブとバビロンを/わたしを知る者のうちに挙げる。ペリシテ、ツロ、またエチオピヤを見よ。「この者はかしこに生れた」と言われる。
 
ラハブとは、エジプトの事である。(イザヤ30:7、51:9)
これらの国々は、以前はイスラエルの敵として、罪深い者として、歩んできた。
しかし神は、そんな彼らとも和解し、「神の都で生まれた者」として数え、「ここで生まれた者」として登録し、市民権を得させて下さる、というのである。
それはまさしく、イエス・キリストの福音である。
 
 
主は、諸々の国民に対して、和解の手を差し伸べるが、シオンについては、特別扱いされる。
 
詩篇87:5 しかしシオンについては「この者も、かの者もその中に生れた」と言われる。いと高き者みずからシオンを堅く立てられるからである。
87:6 主がもろもろの民を登録されるとき、「この者はかしこに生れた」としるされる。〔セラ
 
この者も、かの者も、シオンで生れた、と言われるようになる。
すなわち、シオンが、全世界の母のような存在となることを表している。
 
それは、「シオン」という名のヘブライ文字から、霊的意味を導き出すと、納得できる。
 
シオンのヘブライ語はצִיּוֹןであるが、最初の字のツァディצは「釣り針」、次のユッドיは「手」、ヴァヴוは「釘」、最後のヌンןは「魚」を意味する。
すなわち、シオンの霊的意味は、イエス様の十字架の「釘」打たれた「手」という「釣り針」に引っかかった「魚」を、意味する。
イエス様の十字架という釣り針に引っかかった魚たち、、、それはまさしく、私達キリスト者の事である。
 
エペソ2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
 
 
 
ただし、この都には、誰も彼もが無条件で入れるわけではない。
入る権利のある者が、黙示録22:14にあり、そして都から追い出されてしまう者が、黙示録22:15にある。
 
黙示録22:14 いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
22:15 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
 
 
いかに以前は罪深い者であったとしても、イエス様を信じ、自分の着物を洗った者、すなわち、その行いをきよくした人々を、主は「この民はここで生まれた」(詩篇87:6)とし、天国の市民権に登録されるのだ。
 
ヘブル12:22 しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、
12:23 天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、
12:24 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
 
 
 
詩篇87:7 歌う者と踊る者はみな言う、「わがもろもろの泉はあなたのうちにある」と。
 
泉(マヤーン)は、「源」とも訳せる。
救われた人にとって、喜びと幸いの源は、神の都にある。
 
私達も、救われた者にふさわしく、天のエルサレムに入る日、すなわち、キリストの花嫁として小羊の婚姻に入る日まで、自分の行いという「着物」をきよくし、多くの人々を十字架の釣り針で、釣って、救いへと入れて行くべきである。
 
黙示録19:6 わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。
19:7 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
19:8 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。

詩篇講解説教

主に聞かれる祈り(詩篇86篇)

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ダビデの祈
86:1 主よ、あなたの耳を傾けて、わたしにお答えください。わたしは苦しみかつ乏しいからです。
 
詩篇86篇は、詩篇の第3巻のうち、唯一、「ダビデ」による詩篇である。
この詩篇は、日本語の「主」という表現が11回で、その内、アドナイ(主)が7回、神聖4文字のYHWH(新改訳での太文字の主)が4回。
また、「神」という表現は6回。(8節の神々は除く)
 
その回数を見るだけでも、彼がいかに、神なる主を呼び求めているかが分かる。
 
彼の呼び求め方は、主よ、主よ、と、「数撃ちゃ当たる」の祈りではない。
イエス様は言われた。
 
『わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。』(マタイ7:21)
 
ダビデは、父の御心を行ったゆえに、彼の祈りは、聞かれたのだ。
御心とは御言葉である。
その御言葉に、従順に従う人こそ、主はその祈りを聞かれる。
 
ダビデはこの祈りの中で、自分自身のことを、「あなたのしもべ」と呼んでいる。
彼は、神様との主従関係において、まことに正しい位置関係に自分を置いたゆえに、主は彼の祈りを聞かれたのだ。
 
この詩篇からは、彼の、神様に対する信頼と服従の気持が、強く示されている。
 
 
86:2 わたしのいのちをお守りください。わたしは神を敬う者だからです。あなたに信頼するあなたのしもべをお救いください。あなたはわたしの神です。
 
2節の「神を恐れる者(新改訳)」「神を敬う者(口語)」「holy(KJV)」と訳された原語は、「חָסִיד ハスィード」。
意味は、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人であり、このハスィードは、5、13、15節の「ヘセド(חֵסֵד恵み)と関連がある。
 
神様の恵みは、神を恐れる人、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人と、深く関連があるのだ。
 
 
86:3 主よ、わたしをあわれんでください。わたしはひねもすあなたに呼ばわります。
 
昼も夜も、いつも主を呼ばわる人に、主は近い。
町を歩く時、人を見た時、状況を見聞きした時、いつも「主よ」と呼ばわり、主に祈り求める人と。
 
 
86:4 あなたのしもべの魂を喜ばせてください。主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます。
 
主の御心は、彼の愛される聖徒が、しかめっ面をしながら清貧を我慢する事ではなく、聖徒が「喜ぶ事」である。
主は、人を創られた時、真っ先にエデン(喜び)の園に置かれた。
パウロもまた、何度も「喜びなさい」と書いている。
 
主にあって満ち足りて喜ぶ事は、大いに結構である。
しかし、たとえ貧しい中にあったとしても、主にあって喜びがある事は、信仰者の特権である。
 
 
86:5 主よ、あなたは恵みふかく、寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者に/いつくしみを豊かに施されます。
 
1-4節までは「主よ。**してください」と、願い求める祈りが続いたが、6節からは、「願い」の色合いから、「神はどういうお方であるか」というような、「信仰告白」と「宣言」の色合いに変わる。
 
主は、祈りに答えてくださるお方(7節)。
神々のうちで並ぶ者はなく、みわざに比ぶべきものは無いお方(8節)。
主が造られたすべての国々は、御前に来て伏し拝み、御名があがめられる(9節)。
主は大いなる方、奇しいわざを行なわれる方。ただ主だけ神(10節)。
 
そのように、ダビデは告白した。
私達も、主はいかなるお方であるのかを告白するなら、祈りに、確信させる力を帯びるようになってくる。
 
ただ「ください、ください、」の祈りは、味わいが無い祈りである。
この詩篇86篇のように、主はどういうお方であるのか、自分はどういう信仰を、主に持っているのか、という告白や、また、感謝や、御言葉の宣言や、賛美があるなら、味わい豊かな祈りとなる。
 
 
86:11<願い> 【主】よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。
 
「私の心を一つにしてください」とは、自分の中から二心が取り除かれるように、という祈りであろう。
「二心の者」については、ヤコブ書に書かれてある。
 
 
ヤコブ4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
 
ヤコブ1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
1:8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
 
このような、不安定に揺れ動く「二心」の者ではなく、ただ主を確信した「一つ心」になれるように、私達も、ダビデのように祈るのだ。
 
 
86:12<表明> わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。
86:13<告白> それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。
 
12-13節には、ダビデの表明と告白がある。
自分は、心を尽くして主に感謝し、とこしえに御名をあがめます、と。
なぜなら主は、彼のたましいをよみの深みから救い出してくださったから。
 
14節は、逆らい立つ横暴な者について主に訴えている。
そのような者に対して、ののしったり、仕返しをしたりするなら、ただの喧嘩である。
しかし、その人を主に訴えるなら、それは祈りに変わり、その案件は主に移って、主がその者を取り扱ってくださる。
 
 
そして16-17節は、再び「願い」で閉じられる。
 
86:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれみ(ハナン)、あなたのしもべにみ力を与え、あなたのはしための子をお救いください。
 
神様の恵み(ハナン)は、「神を恐れる人、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人」、すなわち、ハスィードの人と、深く関連があった。
私達も、その資格ある者となる事を、目指すべきだ。
 
 
86:17 わたしに、あなたの「恵み(トーブ)」の「しるし(オート)」を/あらわしてください。そうすれば、わたしを憎む者どもは/わたしを見て恥じるでしょう。主よ、あなたはわたしを助け、わたしを慰められたからです。
 
「トーブ」には、パーフェクト、ビューティフル、グッドの意味がある。
「オート」は、よく「しるし」と訳されるが、信号、記号、マーク、標識などの意味である。
 
つまり、主からのパーフェクト、ビューティフル、グッドのマーク付け、お墨付きを、わたしに付与してください、そうすれば、敵は恥じ入ります、と祈っている。
 
ダビデは、いつでも、どんな時でも、主を呼び求め、主と自分自身の「主従関係」をはっきりさせ、主はいかなるお方であるのかを正しく告白し、これから主に対してどのように生きるのかを表明した。
私達も、そのように信仰において努力し、実行して行くなら、ダビデのように守られ、用いられ、主によって人々の上に高く上げら、時代に御国をもたらすために用いられるのだ。

詩篇書講解説教

主と論じあおうという意欲ある人に救いを下さる主(詩篇85篇)

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「聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌」
 
この詩篇の状況は、バビロン捕囚から帰還して、それ程経っていない時期と考えられる。
 
イスラエルが、バビロンに捕囚された事は、確かに、身から出た錆であった。
彼らは御言葉に背き続け、預言者を通しての主からの警告も聞かずに、罪と欲の道を邁進した結果、バビロン捕囚という憂き目に遭ったのだ。
 
しかしその70年の後、主の恵みと憐れみの故に、彼らは再び祖国に帰る事ができた。
 
確かに、バビロンという「刑務所」から出所できた喜びはあるけれど、しかし、帰って来ても、住む家が残っていたわけではなく、礼拝する神殿が残っていたわけでもない。
それらは相変わらず崩壊したままで、これから、建て直さなくてはならない。
 
国は相変わらず荒廃したままで、強力な敵や、嘲る者がのさばっているままであった。
それで主に向かって回復を祈り求めているのが、この詩篇である。
 
私達ももし、生活が乏しいままでひもじい思いをしている、とするなら、この詩篇の祈りを自分自身に当てはめて、主に呼び求めるのだ。
 
詩篇85:1 主よ、あなたはみ国にめぐみを示し、ヤコブの繁栄を回復されました。
詩篇85:2 あなたはその民の不義をゆるし、彼らの罪をことごとくおおわれました。〔セラ
 
私達が神様に対して犯した罪は、到底、償いきれるものではない。
それで主は、罪の「赦し」と、罪を「覆うこと」を、私達のほうに提唱しに来られる。
 
イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
 
雪が大地を覆えば、どんなに地が汚い状態であったとしても、全部覆われて、一面、銀世界になる事ができる。
しかし、ただ単に覆われただけでは、もとの状態が変わるわけではない。
雪が溶けてしまえば、再び汚い大地が現れるだけである。
 
そこで、本質が変わる必要がある。
「たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる・・・。」
主は、根本的に変える事ができるお方である。
 
そうなるための条件は、18節にある通り、主と論じあう事。
自分の足で主を探し、主の元へと行って、主と論じあうのだ。
 
イザヤ1:19 もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
1:20 しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。
 
主と論じあったなら、主のことばに、喜んで聞き従う。
そうするなら、具体的な、物理的な祝福が帰って来て、地の良き物を食べることができる。
しかし、主と論じ合う事を拒み、また、聞いても背いたままであるなら、剣が待っている事が書かれてある。
 
 
続く4-7節には、不安と混乱の中にある神の民に、主の憐れみが注がれるように、祈り求めている。
主に祈り求めるための根拠は、聖書の御言葉である。
主が約束された回復の御言葉を楯にして、祈り求めるのだ。
 
詩篇85:4 われらの救の神よ、われらを回復し、われらに対するあなたの憤りをおやめください。
詩篇85:5 あなたはとこしえにわれらを怒り、よろずよまで、あなたの怒りを延ばされるのですか。
詩篇85:6 あなたの民が、あなたによって喜びを得るため、われらを再び生かされないのですか。
 
主が生き返らせて下さる約束の預言は、エゼキエル書37章にもある。
 
エゼキエル37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。
37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
 
主は、枯れた骨さえも生き返らせる事ができるお方。
しかし、主がそれを成して下さるかどうかは、エゼキエルが言った通り、「主こそご存知」なのである。
私達がするべきは、ただ、主の約束の御言葉を信じて、祈り求める事だ。
 
詩篇85:7 主よ、あなたのいつくしみ(ヘセド)をわれらに示し、あなたの救(イエシャー)をわれらに与えてください。
 
ここの「救い」はヘブライ語でイエシャー、イエス様の御名イエシュア(彼は救い)と親類である。
救いは、ただ一方的な恵みであり、それは、主イエス様から来る。
 
詩篇85:8 わたしは主なる神の語られることを聞きましょう。主はその民、その聖徒、ならびにその心を主に向ける者に、平和を語られるからです。
詩篇85:9 まことに、その救は神を恐れる者に近く、その栄光はわれらの国にとどまるでしょう。
 
この詩篇の作者は、「神の仰せを聞こう」と願っていた。(8節)
彼には、主に対する恐れと、主への敬いがあり、主と論じあおうという意欲がある。
主の「救い」は、このように主と関わり合おうと「心意気」のある人に対して近く、救いの御手を伸ばして下さる。
 
主は、人格ある御方である。
異邦人が、祈り文句を何度も繰り返すのは、彼らにとっての「神」が、人格があるとは思っておらず、ただ呪文的に、同じ言葉を念じれば、超能力のようにそれが成る、と思っているのだ。
しかし私達は、生きておられる主と論じ合い、語り合おうとする心意気を、主に見せるべきだ。
 
詩篇85:10 いつくしみ(ヘセド)と、まこと(エメット)とは共に会い、義(ツェデク)と平和(シャローム)とは互に口づけし、
詩篇85:11 まこと(エメット)は地からはえ、義(ツェデク)は天から見おろすでしょう。
 
ヘセドは「良いこと」「誠実」「いつくしみ」の意味があり、エメットには「真理」「確かさ」「信頼できること」の意味がある。
 
私達には元々、真理(エメット)は無い。
義(ツェデク)も無い。
ただ裁かれると滅びる以外に無い、罪ある存在であった。
 
しかしイエシュア、すなわち、その名が「救い」というイエス様が、罪ある私達の身代わりに、十字架にかかってくださり、ヘセド(いつくしみ)をほどこしてくださった。
 
それ故、私達はイエス様にあって義(ツェデク)とされ、神との和解(シャローム)がもたらされた。
ヘセド(恵み)とエメット(心理)を出会わせ、ツェデク(義)とシャローム(平和)を互いに口づけさせて下さったお方が、イエス・キリストである。
 
 
そして、イエス様を信じて、神様と和解する結果、地は、良いものが生じるようになる。
 
詩篇85:12 まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。
詩篇85:13 義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。
 
御言葉であられる主は、生きておられ、人格ある御方である。
この主と積極的に論じ合い、語り合おうと心意気ある人、すなわち、「イエシュア(彼は救い)という名前のイエス」の名によって求める事こそが、救いと祝福の最短ルートなのだ。

詩篇講解説教

心底、主を慕い、あえぎ求めた、コラの子による詩篇(詩篇84篇)

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聖歌隊の指揮者によってギテトのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌
 
コラといえば、荒野で人々を扇動してモーセに逆らい、クーデターまがいの事をした者だった。
彼は巧みに多くの有力者を味方につけ、多くの人々が彼になびいた。
しかし、コラの天幕の下の地面は避け、彼は、天幕や持ち物もろとも、生きたまま地の底に下ってしまった。
結局、神ご自身が直接、彼らを退けた事を明らかにされたのだ。
 
しかし、コラの子たちは、生き残った。
なぜ、生き残れたのか?
いかに父親が、人々をそそのかす者であったとしても、彼らは心底、主を慕い求める心を持っていたため、その天幕に近づかなかったからである。
 
それで、コラの子の子孫からは、あの有名な預言者であり、キングメーカーであるサムエルが生まれた。
さらにコラの子たちは、素晴らしい数々の詩篇を生み出す。
鹿が水の流れを慕うごとく、私のたましいは主を慕います、という詩篇42篇や、
この舌は麗しき主をなめらかに語り告げる「巧みな書記の筆」です、という詩篇45篇、
また、「神はわれらの避け所また力、悩める時のいと近き助け」と、ガールズ・ソプラノに歌わせた、力強い信仰告白の詩篇46篇など。
彼らが作った詩篇には、心の底から主をあえぎ、慕い求める事を歌ったものが多い。
 
この84篇も、彼の主を慕いあえぐ心が、ふんだんに表されている。
 
詩篇84:1 万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。
詩篇84:2 わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。
 
彼は、魂、心、身をもって、すなわち、全身全霊で、主を慕い、喜び、賛美する志を持っている。
パウロは、これこそ私達も為すべき「理に適った礼拝」だ、と言っている。
 
ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだ(ソーマ:肉体・魂・霊の全部)を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な(ロギコス:理に適った)礼拝である。
 
私達も、主の宮・教会に行く時、自分の思い・心・からだ・意思・感情、全てを、聖なる捧げものとして、携えて行く時、主はその礼拝者を、喜んで受け取ってくださる。
 
詩篇84:3 すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらに/わがすまいを得させてください。
詩篇84:4 あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。〔セラ
 
彼は、雀やつばめが、主の家に巣を作っている様子を、うらやんでいる。
今も、嘆きの壁に行くと、アマツバメや鳥たちが巣を作っているのを見る事ができる。
嘆きの壁は、かつての神殿の壁の一部であった。
現在も、ユダヤ人は、その壁の修復工事において、アマツバメの巣の位置を損なわないよう考慮して、修復するようにしている。
 
つばめは、神殿の壁の隙間に巣作りして、卵を産み、子育てし、やがて成長すると、南国へと旅立って行き、そして、季節が巡って来ると、彼らが育った神殿に再び戻ってきて、巣作りし、卵を産み、、、という営みを、数千年も繰り返して来た。
コラの子たちは、そんなつばめを心底、羨ましい、と思った。
私達も、主の宮に巣作りし、子を産んだら、主の宮で育て上げ、そして成長したなら、遠くで身を立たせ、成功し、そして再び主の宮に戻ってきて、いのちの育みをする、そのような営みを、世々限りなく続けて行くべきなのだ。
 
詩篇84:5 その力があなたにあり、その心がシオン(צִיּוֹן)の大路にある人はさいわいです。
 
シオン(צִיּוֹן)とは、エルサレムの別名であり、特に神殿のある町を意識する事が多い。
 
なお、ヘブライ語から導き出される霊的意味は、私達・イエス様を信じる者である。
A צִיּוֹןのツァディצは「釣り針」、ユッドיは「手」、ヴァヴוは「釘」、ヌンןは「魚」を意味する。
A’ すなわち、イエス様の十字架の「釘」づけられた「手」という「釣り針」に引っかかった「魚」を、イエス様を信じる者と言う。
 
心にシオンへの大路がある人は、主の宮に礼拝に行こう、主の宮に戻りたい、と切望する思いが開通している。
すなわち、力の源を主に置いている人で、そのような人は、どんな時代になっても、どんな状況に置かれたとしても、大丈夫である。
 
詩篇84:6 彼らはバカ(בָּכָא)の谷を通っても、そこを泉のある所とします。また前の雨(モーレ:秋の雨)は池をもってそこをおおいます。
詩篇84:7 彼らは力から力に進み、シオンにおいて神々の神にまみえるでしょう。
 
バカ(בָּכָא)の元の意味は「バルサムの木(バーカー)」であるが、樹脂や水分をしたたらせる性質があるので、「泣く者」とも呼ばれるため、文語訳や古代訳(70人訳、シリヤ語訳)は、涙と訳している。
 
私達の人生も、涙の谷を通るような、つらい時期があるかもしれない。
しかし、心の中に、主の宮への、すなわち礼拝への直通通路がある人は、涙の谷さえ、泉が湧く所とし、そこを主が雨で潤して下さり、そして、力から力へと進まされ、ついには、シオンにおいて神とまみえるようになるのだ。
 
詩篇84:8 万軍の神、主よ、わが祈をおききください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。〔セラ
詩篇84:9 神よ、われらの盾をみそなわし、あなたの油そそがれた者の顔をかえりみてください。
 
「われらの盾」「油そそがれた者」とは、王の事であり、ユダヤにおける王とは、神から権威を代行して行う者として、油注がれた者である。
その自分たちを統治する王が、神様の御心にかなった、祝福された統治をしますように、という願いがある。
 
私達にとって王とは、イエス様であり、私達の王であるイエス様の名前によって祈る祈りを、主は、聞いてくださる。
 
詩篇84:10 あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。
 
コラの子たちの主な奉仕は、門衛であるが、門衛は神殿の中にではなく、ずっと外に立ち続ける奉仕ではある。
しかし、少なくとも主の近くにおり、そして、主の宮と礼拝者を守る役に立っている。
そうであるからには、世のいかなる所にいるよりも、遥かに有意義である。
 
彼は、「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさる」と言った。
つまり、主を慕い焦がれる心をもって、主の宮・教会にいる一時間は、世にいる千時間にまさるのだ。
私達は、どれくらい、主を慕い焦がれ、どれくらい、教会で過ごして来ただろうか。
 
ちなみに私は、10年以上、教会に入り浸って奉仕をして来たので、私は既に、一万年にまさる充実した日々を生きている、と、自負している。
 
彼は言った。
「わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。」
そう、悪の天幕には、災いがつきものである。
コラの天幕は、彼もろとも地面が裂け、落ちていってしまった。 
しかしコラの子たちは、父の悪に加担せず、その天幕から離れていたから、生き残った、という事を、忘れてはならない。
 
詩篇84:11 主なる神は日です、盾です。主は恵みと誉とを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。
 
日は、全ての生き物に恩恵をもたらしており、私達は、太陽が無ければ、生きられない。
主は太陽のように、私達を光で照らし、暖かさで照らし、必要を満たし、健やかにして下さるお方である。
 
そして主は、私達の盾である。
盾が無いなら、敵の攻撃をすぐに受けて、やられやすい。
しかし、主は完全な盾で、この御方に依り頼むなら、決してやられる事は無い。
 
詩篇84:12 万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。
 
主の民、主の奉仕者である事の「幸い」とは、何だろう。
確かに、主の民・主の奉仕者は、世において成功し、物質的・経済的にも祝福を受けるが、それにまさる幸いがある。
それは、主の御側近くにいる事、主ご自身がわたしの相続である事である。

詩篇講解説教

主の救いが来るまで黙っていてはならない(詩篇83篇)

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歌。アサフの賛歌
83:1 神よ、沈黙を守らないでください。神よ、何も言わずに、黙っていないでください。
 
状況としては、イスラエルに敵する者たちが、共に連合してイスラエルを包囲している状況である。(5-8節)
最も助けが必要な状況なのに、神様はあたかも「沈黙」を続けているような。
 
もしも、神が沈黙しているかのように感じるとしたら、ます私達の側に何か過ちは無かったかを探るべき時である。
神を慕い求めていない、という事が、ずっと続いていなかったか?
私達の中に、神との隔てとなっている罪が無かったか?
もし「罪」だと示されている事があるにもかかわらず、それをそのまま放置したままであるなら、どんなに「下さい、下さい」と連発しても、無駄である。
しかし、もし思いあたる罪は何もなく、御前で何ら”やましさ”が無いのに、突然、攻撃する者が襲って来たような時は、黙っていてはならない。
そのような時は、神様に、しきりに祈り求めるのだ。
イザヤも言った。
 
イザヤ62:1 シオンの義が/朝日の輝きのようにあらわれいで、エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、わたしはシオンのために黙せず、エルサレムのために休まない。
・・・
62:6 エルサレムよ、わたしはあなたの城壁の上に見張人をおいて、昼も夜もたえず、もだすことのないようにしよう。主に思い出されることを求める者よ、みずから休んではならない。
62:7 主がエルサレムを堅く立てて、全地に誉を得させられるまで、お休みにならぬようにせよ。
 
イザヤが主に祈り続けると、主からんお答えがあって、その答えは、とても素晴らしい内容だった。
すなわち、もはや彼らが労して得た産物は、敵によって、決して奪われる事はなく(同8節)、確かに主の救いが来て、そして今までの働きの報いが確かに報われ(11節)、彼らは『聖なる民、主に贖われた者』ととなえられ、『人に尋ね求められる者、捨てられない町』ととなえられるようになる(12節)。
 
人は、何か、危機的な状況に陥った時、条件反射的に、人や事、物に、頼りどころを探すものだが、私達・神の民は、そうあるべきではない。
真っ先に、主に求め、主の前で誠実であるべきだ。
 
アサフもまた、この危機敵状況を、主に訴えた。
 
83:2 見よ、あなたの敵は騒ぎたち、あなたを憎む者は頭をあげました。
83:3 彼らはあなたの民にむかって巧みなはかりごとをめぐらし、あなたの保護される者にむかって相ともに計ります。
83:4 彼らは言います、「さあ、彼らを断ち滅ぼして国を立てさせず、イスラエルの名を/ふたたび思い出させないようにしよう」。
 
主の民に敵対する者達は、悪賢いはかりごとを巡らし、主の民を消し去ろうとしている。
5-8節に、その色々な民族の名が出て来るが、それらに記されている者達は、まさに、イスラエルの東、西、南、北に位置する者達であり、彼らは心ひとつにしてイスラエルを破壊しようと、たくらんでいる。
まさに、四面楚歌の状態である。
なお、8節をみると、ロトの子ら(モアブとアモン)が、指揮を取っていたようである。
 
ヨシャパテ王の時代も、ロトの子らが共謀し、海の砂のような大軍を率いて攻め込んできた。
ヨシャパテ王は、当初、主の目に適う政治を行っていた。(2歴代誌17章)
しかし、北イスラエル王国と和を結ぶことを急ぐあまり、主の目にはなはだ悪を行っていたアハブ王の娘と、自分の子とを、結婚させてしまった。
 
神の民は、悪辣な者と、決して婚姻関係を結んではならない。
なぜなら婚姻とは、相手とひとつになる事であり、そして息子、娘、子孫たちは皆、その相手の血を半分いただいていく事になるからだ。
 
結局ヨシャパテは、アハブの身勝手な思惑に利用されて、散々目にあった後(同18章)、おびただしい大軍が彼の王国に攻め寄せて来る事になる。(20章)
彼はその時、断食の集会を開いて、信仰告白し、そして御言葉を盾にして祈った結果、主は救って下さり、しかも、ぶんどりに3日もかかる程、多くのものを得て、彼の名声は周辺諸国に鳴り響いた。
 
確かに、自分の罪ゆえに、災いに遭う事はある。
しかしその時、悔い改めて、主に切に祈り続けるなら、主はその災いを、幸いへと転じてくださった事例が、聖書には多々ある。
 
詩篇83:9 あなたがミデアンにされたように、キション川でシセラとヤビンにされたように、彼らにしてください。
83:10 彼らはエンドルで滅ぼされ、地のために肥料となりました。
83:11 彼らの貴人をオレブとゼエブのように、そのすべての君たちを/ゼバとザルムンナのようにしてください。
 
これらの出来事は、いずれも、士師記4‐8章に記された出来事である。
アサフは、かつての士師記の時代、主がなさったわざに思いを馳せ、その出来事をイメージしつつ、祈ったのだ。
私達も、聖書の出来事に、思いを馳せ、その御言葉と自分とを信仰によって結びつけて、祈るなら、その時代に起きた主のわざを、救いを、信仰によって今の私達へと引っ張ってくる事ができるのだ。
 
詩篇83:12 彼らは言いました、「われらは神の牧場を獲て、われらの所有にしよう」と。
 
昔も今も、「神の牧場」に汚い手を伸ばし、わがものにしようとする者たちは、確かに存在する。
神の民は、祝福される故に、妬まれて、その祝福を奪おうとして、企む者たちが。
そのような時、私達も、信仰の先人にならって、主が救いをもたらして下さるまで、黙ることなく、主を呼び続けるのである。
 
詩篇83:13 わが神よ、彼らを巻きあげられるちりのように、風の前のもみがらのようにしてください。
83:14 林を焼く火のように、山を燃やす炎のように、
83:15 あなたのはやてをもって彼らを追い、つむじかぜをもって彼らを恐れさせてください。
 
アサフは、風や火、炎、疾風などの、自然を支配される神が、敵にさばきを下してくださるように、と祈っている。
しかし、単に「敵を滅ぼして下さい」という事で、祈るべきではない。
 
詩篇83:16 彼らの顔に恥を満たしてください。主よ、そうすれば彼らはあなたの名を求めるでしょう。
 
確かに、神の民を蹂躙し、神の民の畑を奪おうとするような者達は、恥に満たされ、打たれて、然るべきである。
しかし主は、彼らが打たれた後、悔い改めて、主に立ち返る事をこそ、望んでおられる。
 
ヨシュアの時代も、滅ぼされるべきギブオン人が、主に立ち返った時、主は、彼らを救われた。
むしろ主は、彼らを救うために、太陽や月さえも止めて、敵を滅ぼし、そうして主の栄光が、大いにあらわれた。(ヨシュア記9-10章)
 
詩篇83:17 彼らをとこしえに恥じ恐れさせ、あわて惑って滅びうせさせてください。
83:18 主という名をおもちになるあなたのみ、全地をしろしめすいと高き者であることを/彼らに知らせてください。
 
今の時代も、主を恐れない者たちや、まことの神に敵対する国、王たちは、多い。
私達は、主の御名が侮られないために、また、神の民を蹂躙する罪を犯させないために、彼らが主の前で恥を見、懲らしめを受け、そうして、主はあなどられるようなお方ではない、という事を思い知り、そして、救いに導かれるように、と、祈る事も、また必要である。
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