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エゼキエル書 講解説教
呪われてしまうエドムの性質を取り除け(エゼキエル35章)
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35:1 次のような主のことばが私にあった。
35:2 「人の子よ。顔をセイルの山に向け、これについて預言して、
35:3 言え。神である主はこう仰せられる。セイルの山よ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえにわたしは手を伸ばし、おまえを荒れ果てさせ、荒廃した地とする。
35:4 わたしがおまえの町々を廃墟にし、おまえを荒れ果てさせるとき、おまえは、わたしが主であることを知ろう。
エゼキエル書は、33章から、39章まで、イスラエルの回復の預言が続いているが、それに先立って、回復の前に、イスラエルを虐げた者達へのさばきが予告される。
もっとも、イスラエルが虐げられていたのは、いわば、身から出た錆であった。
私達も、主を軽んじて歩んでいたなら、主は敵を起こし、敵を用いて苦しい目にあわせるかもしれない。
しかしそれは、主に立ち返らせるため、祝福を受ける性質へと、戻すためである。
そうして神の民が主に立ち帰る時、その回復とともに、神の民を不当に虐げた敵たちには、さばきが下される。
この章で示されているセイルは、エドム人の事であり、この章ではエドムに対するさばきが預言されている。
エドムは、ヤコブの兄エサウにつけられた別名であり、すなわちエドムは元々、イスラエルの兄弟の国である。
なぜ、神の民の兄弟・エドムがさばかれなくてはならないのか?
まずは、エドムの性質について見たい。
エドムの元々の名、エサウの名の意味は、「赤い」である。
ヤコブすなわちイスラエルと、エサウが、共に父の家に住んでいた頃、エサウは、獲物を追いかける事に夢中になりすぎて、死にそうになるまで、狩りを続けた。
父イサクの家は、別に食料に困っていなかったので、エサウは狩りをする必要は無く、狩りは純粋に、趣味としてやっていたのだ。しかも、寝食を忘れる程に。
自分に害を及ぼさない、殺す必要の無い動物を、わざわざ探し出し、追いかけ、狩る事が、彼にとって、三度の飯よりも好きな事だったのだ。
そうして、疲れ果て、死にそうになって帰って来た時、弟ヤコブは、レンズ豆の煮物を煮ていた。
『エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの(アドム)、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。』(創世記25:30-31)
ヤコブは、普段から長子の権利を奪おうと狙っていたので、このように迫ったのだが、エサウとしては、大した事として思っていなかった。
それで軽く口約束する。
25:32 エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。
25:33 ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。
25:34 そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。
以上の事をした事から、エドムの性質は、俗悪である、と言われている。
ヘブル12:16 また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。
12:17 あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。(NKJV: for he found no place for repentance, though he sought it diligently with tears.)
エサウは、後で祝福が奪われた時、滝のように涙を流したかもしれない。
しかし彼の心の中は、「悔い改め」という場所が、これっぽっちも、無かったのである。
悔い改めとは方向転換であり、自分のした事を悔い、止めるべき事を止め、するべき事をする事、のはずである。
その気持が無い、とするなら、いかに滝のように涙を流して「祝福を返してください」、と、何時間かけて願ったとしても、一切が無駄である。
父イサクは、エサウを愛していたので、本当に、エサウを祝福したかっただろう。
またエサウも、父イサクのやさしさや、子供を愛する思いにつけこんで、涙ながらに訴えた。
しかし、悔い改めの余地がこれっぽっちも無い彼に対して、イサクの口からつい出た言葉は、呪いの言葉だった。
つまり、主が、祝福してはならない、と意図している者は、どうしても祝福はできず、また、主が祝福する、と決めておられる人は、どうしても呪う事ができないのだ。(民数記23-24章)
とはいえ、エドムは当初、ヤコブよりも栄えた。
ヤコブの子孫が、エジプトで奴隷になっている間、エドムは、どんどん力を増して行った。(創世記36章)
そうして、俗悪な子々孫々を産んで行き、それが「エドム人」となった。
エドムはどう俗悪であるのか、オバデヤ書に詳しく記されている。
エドムは、兄弟の国が、バビロンによって攻められた時、知らぬ顔をし(オバデヤ書11節)、むしろ喜び(同12節)、イスラエルの敵と一緒に門に入って、財宝に手をつけ(13節)、逃げるイスラエル人の前に立ちはだかって、逃げられなくした。(14節)
モーセの時代も、平和の内に領土を通らせて欲しい、と言うイスラエルに対し、武力をちらつかせて、通せんぼした。(民数記20:14-21)
彼らが、バビロン捕囚の時にイスラエルにした事を、詩篇137篇の作者は、訴えている。
『主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と/言ったことを覚えてください。』(7節)
以上、エドム人の特徴は以下である。
・寝食を忘れるほどに獲物を探し、追いかけ、狩る事が、趣味。
・目先の肉欲を満たす事とひきかえに、祝福の相続権、という、大事なものを売ってしまう。
・悔い改めの余地が、心の中に「これっぽっち」も無い。
・兄弟が困っている時に助けず、むしろ、敵の側に立って一緒になっていじめる。
これは、サタンの性質だ。
サタン(サタナス)の意味は「敵」、また、悪魔(ディアボロス)の意味は「訴求者」「中傷者」である。
私達の中に、エドムの性質があるとするなら、本当に取り扱わなくてはならない。
イスラエルが、バビロンによって苦しめられたのは、確かに、イスラエルの身から出た錆だが、だからと言って、兄弟が散々な目に遭っている時、敵(サタン)の側に立って、一緒に誹謗・中傷し、攻め立てるなら、主は悪魔に敵対されるのと同様に、その者と敵対される。
もし、その責め立てられている兄弟姉妹が、悔い改めて、主に向かって叫ぶなら、主はその叫びを聞いてくださり、かえって、誹謗・中傷している者を裁かれる。
私達にも、もしかしたら、エドムのように、困っているの兄弟を、逆に苦しめ誹謗・中傷し、傷を上塗りするような身内がいるかもしれない。
しかし主は、主に救いを求める聖徒たちを、必ず守られる。
35:5 おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した。
35:6 それゆえ、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――わたしは必ずおまえを血に渡す。血はおまえを追う。おまえは血を憎んだが、血はおまえを追いかける。
35:7 わたしはセイルの山を荒れ果てさせ、廃墟とし、そこを行き来する者を断ち滅ぼす。
35:8 わたしはその山々を死体で満たし、剣で刺し殺された者たちがおまえの丘や谷や、すべての谷川に倒れる。
35:9 わたしはおまえを永遠に荒れ果てさせる。おまえの町々は回復しない。おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。
実際、ここに預言された通り、今、エドム人(イドマヤ人)は、この地上から滅ぼされてしまっている。
エドム人は、バビロン捕囚の時までは栄えていたが、イエス様の時代になると、少なくなり、最終的には民族としては歴史から姿を消してしまった。
35:10 おまえは、『これら二つの民、二つの国は、われわれのものだ。われわれはそれを占領しよう。』と言ったが、そこに主がおられた。
二つの民、二つの国とは、イスラエル王国と、南ユダ王国である。
彼らがそこに侵入しようとした時、「そこに主がおられた」と書かれてある。
主は、二人でも三人でも主の民がいる集いのただ中におられ、また、神の民の家に、職場に、教会におられるのだ。
35:11 それゆえ、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――おまえが彼らを憎んだのと同じほどの怒りとねたみで、わたしはおまえを必ず罰し、わたしがおまえをさばくとき、わたし自身を現わそう。
神の民に対してした事は、主に対してしたとして数えられている事に注目したい。
実際、サウロ(後のパウロ)が、教会を迫害した時、主は「なぜ”わたしを”迫害するのか」と言われた。
35:12 おまえはイスラエルの山々に向かって、『これは荒れ果てて、われわれのえじきとなる。』と言って、侮辱したが、主であるわたしがこれをみな聞いたことを、おまえは知るようになる。
35:13 おまえたちは、わたしに向かって高慢なことばを吐いたが、わたしはそれを聞いている。
主は、部屋の中で、ひそかに言った事も、聞いておられる。
エドムがイスラエルに対してした侮辱と高ぶりは、主ご自身に対するものとして、見なされた。
35:14 神である主はこう仰せられる。わたしはおまえを荒れ果てさせて、全土を喜ばせよう。
35:15 おまえは、イスラエルの家の相続地が荒れ果てたのを喜んだが、わたしはおまえに同じようにしよう。セイルの山よ。おまえは荒れ果て、エドム全体もそうなる。人々は、わたしが主であることを知ろう。
実際、歴史は、そのとおりになってしまった。
エドムは、父イサクから言われたとおり、弟ヤコブを前に、その身を低くしていれば、十分に存続できたはずである。
事実、彼らは、イスラエルに何も害していなかった時は、栄えた。
それなのに彼らは、わざわざイスラエルをいじめ、害して、災いを被った。
私達は、エサウの性質にこそ、気をつけるべきである。
私達には、獲物を探し、追いかけ、狩る性質が、無いだろうか。
目先の肉欲を満たすためには、神の民としての誇りを売ってしまうような性質は、無いだろうか。
それは、エサウのように呪われてしまう性質である。
むしろ、何かあったら、すぐに主に悔い改め、兄弟が困っているのを見たら、惜しみなく助ける幸いな性質を身につけて、いつも祝福がつきまとう皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
羊の間をもさばく、まことの羊飼いであられる主(エゼキエル34:17-31)
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- 執筆 :
- pastor 2021-8-16 15:43
エゼキエル書 講解説教
羊の間をもさばく、まことの羊飼いであられる主(エゼキエル34:17-31)
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前回の箇所は、悪辣な羊飼いに対するさばきについて、記されていた。
悪辣な羊飼いとは、主から託された、養うべき弱い羊を養わず、心に留めず、むしろ、主から託された大切な羊たちを、食い物にするような者達だ。
主はそのような者をさばかれるが、彼らの悪辣なやり方に見習って、悪辣なやり方を仕出かす羊も、群れの中に出て来る。
主は、そのような悪辣な羊をもさばく事を、今回の箇所で示している。
エゼキエル34:17 主なる神はこう言われる、あなたがた、わが群れよ、見よ、わたしは羊と羊との間、雄羊と雄やぎとの間をさばく。
ここに、やぎが出てくる。羊ならぬ、やぎが。
やぎの性質は、18-19節に示されている。
エゼキエル34:18 あなたがたは良き牧場で草を食い、その草の残りを足で踏み、また澄んだ水を飲み、その残りを足で濁すが、これは、あまりのことではないか。
34:19 わが羊はあなたがたが、足で踏んだものを食い、あなたがたの足で濁したものを、飲まなければならないのか。
ここに記されているやぎは、主が導いてくださった、良き牧場で、普通に草をたべて安息するだけでは飽き足らず、自分が食べて満腹したら、残りを足で踏みつける、というような事をする。
憩いの水のほとりで、羊も、やぎも、飲む。
しかしやぎは、自分が飲んだら、水の残りの澄んでいる所を足でにごし、羊たちはその濁った水を飲まなくてはならない。
それは100%、悪意でしかない。
教会における聖徒の交わりや礼拝は、イエス様に導かれた羊たちが、良い牧場で良いものを食べているような、うるわしいものであるが、それを敢えて汚し、にごし、まぜものをするような者を、主が裁かれる。
今回のオリンピックのマラソン競技で、フランスの代表モラ・アンドゥニ選手は、給水所のペットボトルを全部なぎ倒し、他の選手が水を飲めないようにして、自分だけは飲んで行った事が議論になった。
自分が飲んだら、他の競争相手には飲ませないようにして、自分に有利に、相手を不利に陥れる。
そのような蹴落とし競争が、世では普通にまかり通っているが、聖なる教会の交わりの中で、そういう事をする者は、主が裁かれる。
エゼキエル34:20 それゆえ、主なる神はこう彼らに言われる、見よ、わたしは肥えた羊と、やせた羊との間をさばく。
34:21 あなたがたは、わきと肩とをもって押し、角をもって、すべて弱い者を突き、ついに彼らを外に追い散らした。
34:22 それゆえ、わたしはわが群れを助けて、再びかすめさせず、羊と羊との間をさばく。
主の牧場には、乏しい者がいないはずなのに、ここには、肥えた羊だけでなく、痩せた羊もいる。
なぜ、痩せた羊がいるのか。
それは、力ある羊が、おなかのすいた羊を押しのけて、自分だけが食べて、それを残さないからだ。
パウロは、そのような事をする者がいるコリント教会に、警告を与えている。(1コリント11章)
コリント教会の中には、主の愛さんを食べに来ている人の中で、われ先に食べて他に残さない者がいた事が、記されている。
当時の教会は、奴隷階級の聖徒もおれば、自由階級の聖徒もいた。
奴隷階級の人は、主人のために働いて、全部終えてからやっと教会の交わりに戻ってくるのに、自由階級のある人は、ひまをもてあまして教会に入り浸り、誰か、聖徒が食事をふるまうと、それを残らず飲み食いし、酔っ払っているのに、後からようやく入って来た聖徒たちには、何も残っていない、という有様が続いていたのを、パウロは責めている。
1コリント11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。
この箇所の直後、パウロは、有名な聖餐の制定を記している。(23-31節)
そこで命じているのは、食べるにしても、飲むにしても、主を覚えて、主を記念して、これを行いなさい、という事である。
教会における礼拝も、飲み食いも、主を覚え、主を記念すべきものである。
なぜなら教会は、「キリストの体」であるからだ。
それをわきまえないで、単に飲み食いをむさぼるために来る者は、その、飲み食いによって、自分にさばきを招く、とパウロは警告する。
そのさばきとは、弱い者になったり、病人になったり、また、眠った(死んだ)りと、実に恐ろしいものである(29-30節)。
事実、教会の主であらるキリストを一切覚えず、心を留めず、単に、飲み食いや話し相手求めに教会に来ている者は、弱い者になったり、病人になったりする。
聖餐式でよく勘違いされる事は、聖餐にあずかるのにふさわしいか、ふさわしくないかは、主のみからだをわきまえているか、いないかであって、決して、自分が罪を犯したか、犯していないか、ではないのだ。
もし、罪を犯した、という自覚があるなら、なおのこと、罪をきよめるイエス様の血潮を「おぼえて」、断然、聖餐にあずかるべきなのだ。
むしろ「ふさわしくない者」とは、教会がキリストのみからだである事をわきまえず、単に飲み食いのために、あるいは、単におしゃべりのために教会を利用して、礼拝の御言葉のパンを汚したり、聖徒の交わりという飲み水を足で濁したりするような者の事である。
もちろん、弱さや無知の故に、意図せず、そうした事をしてしまう人もいる。
そういう人は、「よくなりたい」という意図をもって教会に集い、主に助けを求めるなら、主はその人を見捨てたりせず、大いに助けの御手を差し伸べてくださる。
しかし、意図して礼拝や聖徒の交わりを汚すような悪辣な者については、たとえ、聖徒は見抜けなくても、主ご自身が見抜いておられ、その者を、そこから取り除いてくださる。
さらに続く節には、真の牧者が現れて、その群れを正しく統治し、群れが祝福に入る様が記されている。
エゼキエル34:23 わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
34:24 主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。
主は、ひとりの牧者を、すなわち、「しもべダビデ」を立てられる。
ダビデは、主から認められる良い羊飼いであったが、良い羊飼いとは、人格が良いとか、統率力があるとか、思いやりがある、といった評価基準ではない。
良い羊飼いの条件は、「しもべ」であるかどうかである。
主の意向を外した者は、どんなに人格が良くても、統率力があっても、良い羊飼いではない。
「しもべ(エベド)」とは、主人の意向をそのまま行う人の事であり、主の意向をそのまま行う「しもべ」こそ、神の国における良いリーダーなのである。
イエス様は、父なる神様の意向を、そのまま行ったゆえ、父なる神様から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言われた。
そして、しもべダビデが、すなわち、イエス様が来て、平和の統治がなされる様が、25-31節に記されている。
エゼキエル34:25 わたしは彼らと平和の契約を結び、国の内から野獣を追い払う。彼らは心を安んじて荒野に住み、森の中に眠る。
34:26 わたしは彼らおよびわが山の周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。
34:27 野の木は実を結び、地は産物を出す。彼らは心を安んじてその国におり、わたしが彼らのくびきの棒を砕き、彼らを奴隷とした者の手から救い出す時、彼らはわたしが主であることを悟る。
ここに、とても素晴らしい祝福が約束されているが、それは無条件に与えられるものではない。
ここに記されている祝福が与えられる条件は、25節に示されている「契約」を守り行う事である。
現在、私達が守り行う契約とは、私達が持っている旧新契約聖書の内容である。
私達は主の前に誠実であるべきなのだ。そうするなら、さらなる祝福の実態があらわれ、もはや、他からかすめられる事も、はずかしめられる事もなく、主がまことの牧者となって、安らかに導かれるようになる。
エゼキエル34:28 彼らは重ねて、もろもろの国民にかすめられることなく、地の獣も彼らを食うことはない。彼らは心を安んじて住み、彼らを恐れさせる者はない。
34:29 わたしは彼らのために、良い栽培所を与える。彼らは重ねて、国のききんに滅びることなく重ねて諸国民のはずかしめを受けることはない。
34:30 彼らはその神、主なるわたしが彼らと共におり、彼らイスラエルの家が、わが民であることを悟ると、主なる神は言われる。
34:31 あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる」。
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悪い羊飼いの性質とその末路(エゼキエル34:1-16)
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イエス様は言われた。わたしの羊を飼いなさい、と。
主は私達に、多かれ少なかれ、羊を託してくださった。
そうであるからには、私達も、「羊飼い力」を身につけるべきである。
ダビデは、社会でつまはじきにされた人や、お金の管理ができなくて破産してしまったような人、心に苦味をもっている人達、合計600人を、見事、勇士に育て上げた。
しかも、サウルから逃げながら、日々、必要な食料を調達しながら。
私達も、ダビデのような「羊飼い力」を求め、身につけるべきであるが、今回のエゼキエル34章には、良い羊飼いの逆、悪い羊飼いを糾弾している。
主が糾弾されるのは、「羊飼い力」を持っていない人の事ではない。
勇士のような勇気が無い事を責めておられるのでもなく、経済力や指導力の無さを、責めておられるのでもない。
そういったものが無かったとしても、主は、主の御言葉に聞き従う誠実な人には、いくらでも、そうした力を与えて下さる。
主が糾弾されるのは、主の御言葉に聞き従わない不誠実な者である。
エゼキエル34:1 主の言葉がわたしに臨んだ、
34:2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。
そう、羊飼いは本来、羊を養わなければならないものだが、彼らはどうだったか。
エゼキエル34:3 ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。
34:4 あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。
詩篇1篇には、幸いな人の性質である、”3つの「ず」”が記されている。
すなわち、悪者のはかりごとに歩ま「ず」、罪人の道に立た「ず」、あざける者の座に着か「ず」。
そのような人は、幸せを得るが、しかしここでは、悪い牧者の性質の”5つの「ず」”が示されている。
すなわち、
弱った羊を強め「ず」、
病気のものをいやさ「ず」、
傷ついたものを包ま「ず」、
迷い出たものを連れ戻さ「ず」、
失われたものを捜さ「ず」。
かえって、力ずくと暴力で彼らを支配する。
このような性質を、持っていないだろうか?
これが、悪い羊飼いの性質で、主はそれに敵対される。
当時のイスラエルの指導者は、まさに悪い牧者で、彼らは民から搾取して、自ら、私腹を肥やした。
その結果、羊たちは、すなわち、イスラエルの民は、5-6節の状態に陥ってしまった。
エゼキエル34:5 彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。
34:6 わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と、もろもろの高き丘にさまよい、わが羊は地の全面に散らされているが、これを捜す者もなく、尋ねる者もない。
真の羊飼いが不在だ、と、主は言われた。
当時のイスラエルは、まさに、その状態だった。
それで、イスラエルという群れは、散らされて、世界各地へと捕囚にされて行ってしまった。
私達の主・イエス様は、まことの牧者である。
ヨハネ10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
10:13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
良い牧者は、羊のために、いのちを捨てる。
ダビデも、羊のためにいのちを捨てる意気込みだった。
ライオンが羊を咥えて行った時も、熊が羊を咥えて行った時も、ひるまずに追いかけて取り戻した。
それだから、彼がまだ、羊飼いの少年だった時、主から「エッサイの子の中に、イスラエルの王を見つけた」として、見いだされたのだ。
牧者たるものは、まことの羊飼いであられる主から、羊を養い育てるように、と、その権利を託された者である。
それなのに、羊を養わず、かえって羊を喰いものにしているなら、やがて主は、さばきを語られる。
エゼキエル34:7 それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。
34:8 主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。
34:9 それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。
34:10 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。
そこで主は、真の牧者を彼らに備える約束をされる。
真の牧者は、主ご自身である。
ここで、牧者の役割が強調されている。それは、傷ついて、弱り果てている羊を、捜し求めて,養う事だ。
エゼキエル34:11 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。
主はまことに、現代の私達にとっての真の牧者である。
私達キリスト者は、元々、罪に迷い出ている所を、主に見いだされ、探し出され、羊のおりへと抱えられ戻された者だ。
エゼキエル34:12 牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。
34:13 わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う。
34:14 わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。
34:15 わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。
主はやがて、全世界に散らされているイスラエルを、世界の隅々から集め、ふたたび一つの地へと連れ戻される。
エゼキエル34:16 わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。
ここに4節とは真逆の事が書かれてあり、これが、真の良き羊飼いの性質である。
当時のイスラエルは、リーダーたる者が、主に任された羊たちを誠実に養わず、その主権が奪われ、散らされてしまった。
私達に羊が任されたとするなら、主に「羊飼い力」を求め、誠実に養うべきである。
ヨハネ21:15 イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
ツロの滅びの性質:神の民を金銭的な損得感情ではかる(エゼキエル26章)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » エゼキエル書
- 執筆 :
- pastor 2021-2-3 15:40
神の民に行き過ぎた虐げをした者が受ける報い(エゼキエル25章)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » エゼキエル書
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- pastor 2021-1-27 10:30
まことの夫を捨て、目に見える逞しい男に欲情した不実な女(エゼキエル23:1-27)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » エゼキエル書
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