メッセージ - 201101のエントリ
ハートブレイクの向こう側(マルコ15:33-39) 礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- pastor 2011-1-19 7:18
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イエス様が息を引き取る前、12時から15時までの間全地は闇が覆った。
主は群集から捨てられ、神からも見放されたのである。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とはアラム語で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であるが、群集はエリヤを呼んでいると勘違いし、酢で満たした海綿をイエス様に差し出して延命させ、エリヤが助けに来るかを見ようとした。
しかし主は「父よ、あなたの両手に私の霊を委ねます」と叫んで息を引き取り、最後まで御父に従順であった。
イエスの死因については、窒息死ではないかというのがよく言われる所である。
十字架刑者の多くの死因は窒息死で、十字架につけられると、そのまま力を抜いていると胸が圧迫され、息ができない。
そこで足で踏ん張って息を確保するが、疲労してくるとそれも出来なくなり、ついには窒息するのである。
しかし、最後に大声で叫んだ事から、まだ息ができら状態だった事、また、わき腹を刺すと血と水が別れて出た事から、心身の極度のストレスによる心臓破裂が原因ではないかと思われる。
全人類の罪を一身に負い、御父から捨てられ、また十字架による肉体的苦痛は、どれほどのストレスだっただろうか。
12時から太陽は顔を隠し、全地は暗くなり神から捨てられた。
神様に親しければ、親しい人ほど、神様から見捨てられる事がどれほどの苦痛で恐ろしいか分かるだろうか。
主は世の始まる以前から御父の懐で親しい愛の関係を結んでいた御子である。
そのストレスはどれほどだったろう。
私達が受けるべき御神との断絶を、イエス様が代わりに断絶されて下さり、私達が死ぬべき死を、イエス様が身代わりに死んで下さった。
彼が亡くなられた時、神殿の幕が真っ二つに裂け、地震がおき、墓が開いて多くの聖徒達がよみがえった。
立ち会った百人隊長は、それらの諸々の天変地異や、またイエス様のご人格を見て、「この方こそまことに神の子であった」と告白した。
イエス様は十字架から降りる事が可能であったのに、敢えて御神との断絶を受け入れ、御父からの罰を受けつくしたのを、そこに居た人達は垣間見たのである。
イエス様が息を引き取った時に裂けた神殿の幕とは、聖所と至聖所を分けるものであり、年に一度、大祭司が小羊の血を携えて幕の奥の至聖所に入って、民の罪の贖いをする。
イエス様はただ一度、まことの小羊として、まことの罪の贖いを成し遂げたが故に、もはや聖所と至聖所を分ける幕は必要なくなったのである。
それ故、イエス様にある私達は、大胆に御前に出て、折に適った助けをいただく事ができるのである。
イエス様はメルキツェデクの系統の、永遠の真の大祭司として贖いをし、力ある叫びを持ってその従順により御父に受け入れられた。(ヘブル5:6-8)
十字架上での焼き尽くされたような叫びと祈りが、御父の前に全焼のいけにえの煙として立ち上り、父なる神は、完全になだめられたのである。
そのイエス様にあって私達は罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を受ける事ができたのである。
主が十字架上で受けた苦しみ、贖いの血を覚えて感謝する者でありたい。
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
十字架から降りろ(マルコ15:29-32、ルカ23:39-43) 礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- pastor 2011-1-18 7:18
礼拝説教メッセージ音声:十字架から降りろ(マルコ15:29-32、ルカ23:39-43):右クリックで保存
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十字架の場面において、人は色々な方向に分かれる。
通りすがりの群集は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」(29,30節)と言った。
通りすがりなのに、イエス様の言った言葉をある程度知っていながら、冒涜して通り過ぎていく者はいる。
群集にとっての救いは十字架から降りる事だったが、救いは十字架を経なければ完成しない。
イエス様ご自身がかかられる十字架もあれば人間一人一人が負うべき十字架もある。
負うべき十字架を避けて救いに到達しようとする者は大勢いるが、十字架を避けては、救いは達成しない。
祭司や律法学者達は「他人は救ったのに、自分は救えない。」と言った。つまり、メシヤとしての証拠の奇跡で他の者は救った、と、彼ら自身認めている。
それなのに彼らはイエス様を十字架につけたのだ。
イエスがどなたであるか知った上で、イエスに苦しませ、辱めを与える者もいる。
しかし、通りすがりであろうと、宗教者であろうと、私達であろうと、本来十字架にかからねばならない罪人は、私達人間である。
十字架とは刑罰の道具である。私達がその罰を受けねばならないのに、その罰を免れ、痛みから逃れる事が救いだとカン違いしている者は多いが、神様が提供する救いは全く逆である。
まず自分こそ罪があると認め、悔い改め、永遠に生きておられるイエスというお方に立ち返る事こそが、神様の提供した救いである。
イエス様の両側にも二人の死刑囚が十字架につけられていた。(ルカ23:39-43)
イエス様と同様十字架を受けていた犯罪人の一人も、イエス様を冒涜した。
自らの行いの刈り取りをしている最中であるにもかかわらず、自分のそれまでしてきた事は無いかのように、自分と私をこの苦しみから救え、と、メシヤに要求する者もいるが、当然それはお門違いである。
もう一人の死刑囚は、自分が今受けている苦難は、それまで自らが行ってきた事の当然の罰だと告白し、そして、イエス様は何も悪いことをしていない、と告白した。
さらには、自分もイエス様もあと数時間で命を終えるはずなのに、イエス様に「御国においでになる時には」と、あたかもその後彼には栄光の人生があるかのような告白をしている。
つまり「イエス様は生と死を超えた王である」事を彼は告白したのだ。
彼が認めたその”永遠に生きておられる王”は
「アーメン(これから言う事は真実である)、私はあなたに言う、あなたは今日(すでに)私と共に楽園にいるだろう」(43節、岩波訳)と言われた。
私達も「今日すでに、イエス様と一緒にパラダイスにいる」ためには、どうすれば良いか。
自分こそ十字架にかかるに相応しい罪人であると認め、イエス様は正しいお方である事を認め、そして生と死を超えた永遠に生きておられる王であると告白する事である。
人は、十字架から降りる者こそメシヤだ、自ら刈り取るべき刑罰から免れるのが救いだ、と2重の勘違いをしてるものだが、イエス様は
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
と言って、自分で何をしているのか、何を言っているのか分からないような私達人間を取り成して下さった。
この取り成しのゆえに、私達には赦される余地があり、いつでもイエス様に立ち返る事ができる。
今日と言われている日のうちに、私達もイエスを主と告白し、私達こそ十字架にかかるに相応しい罪人であると認め、イエス様は正しいお方である事を認め、そして生と死を超えた永遠に生きておられる王であると告白するべきである。
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預言されていた苦しみ(マルコ15:22-28) 礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- 執筆 :
- pastor 2011-1-17 6:58
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ローマ兵はイエス様の衣服をくじによって分けたが、これは詩篇22編にてメシヤの苦難について預言されていた事の成就である。
詩篇22編はダビデが彼を攻め立てる者について書いたが、同時に、彼の子孫から出るイエスキリストの苦難を預言するものだった。
2節「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか」とダビデは詠み、神から見捨てられたかのような「気がした」が、イエス様は文字通り、神から見捨てられ尽くした。
イエス様が十字架に磔にされる際、没薬の入った酒が与えられたが、主はそれを受けなかった。
没薬の入った酒は麻酔作用があり、痛みを和らげる温情措置だが、それを拒み、十字架の痛みを一身に受け、罰を受けつくし、御父の怒りを受けつくしたのだ。
イエス様が身代わりとなって既に罰せられ、既に見捨てられたので、彼を信じる私達はもはや決して見捨てられる事は無い。
9節「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」
主は十字架上で同じ事を言われた。(マタイ27:43)
もし彼らの言う通り、御力をもって十字架から降りてしまったら救いは成就しないばかりか、もしそのような圧倒的力でもって従わせるような神であれば、自由な愛の心を持って人々は従うだろうか。
もしそのように力で従わせる主であったら、表向き従うような者は確かに増えるだろうが、恐怖政治の敷かれた国のように、自由も喜びも無くなってしまう。
神様は自由な心で、心からの愛による従順を求めておられるから、敢えて、主は力で自分を救い出す事はなさらず、力で世に示す事もなさらなかったのだ。
彼が十字架から降りず、十字架上で罰を受けてくださったからこそ、私達に救いがもたらされ、恐怖ではなく自由な心で主に仕える事ができるのだ。
16節「口は渇いて素焼きのかけらとなり」
主は十字架上で「渇く」と言われた。(ヨハネ19:18)
主は焼き尽くす捧げものとして捧げられ、十字架上で祈ったその叫びは香となって御父の前に立ち上り、御父はなだめられ、主はその敬虔のゆえに大祭司となられた。(ヘブル5:7-10)
マルコ15:28(異本)『「不法な者と共に数えられた」という聖書の言葉が実現した』
ここはイザヤ53:12の成就であり、主はその従順のゆえに多くの人達を分捕り者として与えられた。
彼は罪人の一人として数えられ、身代わりとなられたからこそ、彼を信じる者は彼の分捕り物として、罪人の内に数えられなくなるのである。
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礼拝音声:満たし余らせる主(マルコ6:30-44)
週報/メッセージ(説教)概要
主は、より頼む者の必要を満たし、たとえ艱難の時代にあっても助けてくださる。
「地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。」(黙3:10)
この約束を私達のものとするため、御言葉を忍耐して守り、イエス様の名を「知っている」と言うべきである。
以上が主から最近重ねて示されているテーマだが、今日はその裏づけとして、わずか5つのパンと2匹の魚で5千人以上を満たした主の奇跡を見てみたい。
弟子達が伝道旅行から帰ってきて、食事する暇も無いほど働き通しだった状況である。
イエス様が「人里離れた所へ行ってしばらく休む」よう指示し、弟子達は船に乗って人里離れた所へ行ったところ、なんと、大勢の群集が徒歩で既に先回りし、湖の向こう側のその場所へ行っていた。
男だけで5千人ほどである。当時は女子供は人数に数えなかったから、1万人以上いたのではなかろうか。
それほどの群集が人里離れた場所に、弁当の用意も忘れて行くのである。主の魅力はどれほどであろう。
イエス様は、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、色々と教えられ、霊的なパンをまず満たした。
日も傾き、弟子達も早く休みたいと思っていた所だったので、人々を解散させて各々で宿なり食事なり探させるよう主に頼むものの、主はなんと「あなたがたが準備しなさい」と、無理を言われる。
尚、ヨハネ福音書6:5-9によると、「ピリポを試みた」とあり、ピリポは現実的に必要な分を計算した。
1デナリを1万円に換算するなら、200デナリは200万円、そこにいるのが1万人だとするなら、一人頭200円、パン菓子2つ分。それでも「足りない」と彼は結論する。
アンデレは群集の中を探していて、少年が持っていたのを見つけたが「何の役にも立たない」と結論する。
考えを絞っても自分達の持ち物ではとうてい足り無いという場面こそ、イエス様の出番である。
私達は何も出来ない、足りないという事を認め、それをイエス様の所に持っていくなら、主は働かれる。
イエス様はそのような無い無いづくしの状況なのに群集を座らせ、食事の体制をするようにし、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
するとそこにいた群集全員を満たしたばかりでなく、働き人の分も十分に満たすほど、満たされたのである。
少年は「5千人」の中にカウントすらされていなかったし、そのささやかな食料は、人からは見向きもされないようなわずかなものだったかもしれないが、その捧げ物を、主は大いに用いてくださった。
たとえ自分自身がどんなにつまらなく、小さい者であったとしても、イエス様に一旦捧げ、イエス様が祝福して下さったものは、大勢の人々を満足させ、働き人の分まで籠いっぱいにするのである。
働き人は、イエス様が祝福しその手で裂いたパンを携えて、人々の中に出て行くべきである。
そのパンは、物質的なものかもしれないし、物質のものでなく霊的なものかもしれない。
それらは見た目少なく、足りなく、どうしようも無いように見えるかもしれない。
「この期に及んでまだ働かなければならないのか」と言いたい状況かもしれないし、持っている物はとても足りない、無理と思えるかもしれない。
しかし、私達はただ主から渡されたものを届けるだけで良く、後を祝福して下さるのは主である。
人はどうしても、霊を満たすパンよりも、体や生活を満たすパンのほうを心配するものである。
注意すべきはファリサイ派とヘロデのパン種(マルコ8:14-21,マタイ16:5-12)、すなわち、人間の教えによるやりくりや、世に対する妥協であり、私達はこれらよりも御言葉を優先させるべきである。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)この主の言葉を信頼する時、全ては「加えて」与えられるのである。
全てを満たして余らせて下さる主から全てをいただき、満たされ、溢れさせ、その溢れた分で周囲をも満たす皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
※今回の祈祷会音声にはプライベートな内容が含まれたため、音声配信は行いません。代わりに、概要を投稿します。
神は高ぶる者を退けられる。
当然、人を人とも思わず平気で心を踏みにじるような者の願いをいちいち叶えていたら世の中は混乱する。
私達は他人の願いを聞いて「それは身勝手だ」と量ったりするものだが、実は、自分自身がそのように身勝手な願いをしている事には、なかなか気付かない。
もちろん、正当な願いはあり、その願いを神様は聞いて下さる。
神様がすぐに願いを叶えてくださらない時は焦るかもしれないが、後になって見れば、より有意義な事が自分の身に起きていた事がわかるものだ。
人は自分の最善が何かすら知らないものであり、神様は人の願いを全部が全部そのまんま叶えて下さるわけではない。
しかしもっと後になってから、あの時それで良かったと分かる。
神様は唯一、私達の最善をご存知だからである。
詩篇23編「あなたのむちとあなたの杖が私の慰めです。」
羊は目が見えず、一寸先は見えないものだが、私達も一寸先は闇であり、危ないところへも突進するような事もあるが、主はそのような私達を守り、例え私達の愚かさゆえに崖から落ちても降りてきて助けて下さる。
主を羊飼いとしていれば、決して乏しい事は無い。
死の陰の谷のような危ない所を通らされる事もあるが、守られる。
さらに主は、敵の前で宴を設けて下さり、頭に油を注いで装って下さり、恵みと慈しみとが、私達を追って来る。
しかし主を羊飼いとしていなければ、恵みと慈しみは逃げて行く。
美しくて素敵な若い女性はたくさんいるが、素敵なおばあちゃんは、真珠のように尊く珍しい。
彼女はその日その日を尊く生きてきたから、そのようになったのである。
日々、主を羊飼いとし、尊い歩みをし、美しく歳を重ねていくみなさんでありますように!
クレネ人シモンと女達(マルコ15:21) 礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- pastor 2011-1-14 7:23
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十字架刑の場所であるゴルゴダの丘までの間、イエス様は十字架を背負って最後まで歩く事ができなかった。
その前日、ピラトの前で鞭打たれ、大量の血を流していたからである。
当時の鞭には石や釘が仕込んであり、鞭打たれる度に血と肉が飛び散ったため、イエス様の背中は酷い状態であった。
そこで、たまたま通りかかったキュレネ人シモンが徴用されたわけである。
彼は「アレクサンドロスとルフォスとの父」とあり、またローマ16:13の記述から推測するに、キリスト者の集まりでは有名人物だった可能性が大きい。
つまり、十字架を背負った時点では、イエス様とは全く面識がなかったものの、共に十字架を負う内にイエス様のご人格に触れ、後にはキリスト者の集まりに加わったと思われる。
彼はたまたまその場に居合わせ、ずいぶん血に汚れた死刑囚が苦労しているな、ぐらいに野次馬のように見ていただけだったかもしれないが、そこを突然徴用されたわけである。
見ず知らずの犯罪人の十字架を背負わされるなんてとんだとばっちりだと思ったかもしれない。
ところがこの十字架を背負わされている死刑囚は、どうも邪悪ではなさそうだ。
それどころか、大勢の女達が泣きながら彼に従っている。
その女性達は、この事が起きるよりも前にイエス様と出会い、信じ、彼の良さを十分知っていたので、きっと「もし自分が力ある男性だったら自分から進んで十字架を背負う事を手伝いたい」と思っていた事だろう。
ところが、唯一彼の手伝いが出来たのは、外国出身の、初対面のこの男であった。
彼のように、ある日突然イエス様と出会い、半ば暴力的にイエス様の十字架を背負う役割を負わされたようなキリスト者もいるし、イエス様と共に働くうちに、イエス様というお方に触れていき、その魅力にどんどん取り付かれて行く事もある。
彼は、後ろにいる女性達にも感謝の声をかけられた事だろう。
「本当は私達が、あなたの役割を果たしたかった。でも、力が無いので出来なかった。本当によく助けてくれた。」
そう言われただろう。
イエス様のお役に立ちたい、彼のためにこれこれの働きをしたいけれど、力が無いので出来ない。そんな彼女達の代わりに、イエス様の事を全く知らない人が、はじめは嫌々ながらその役割につく。
イエス様との出会いの仕方、働きの分与のされ方、主の配剤の仕方は、本当に不思議である。
女性達は力なく、「お前達もイエスの仲間か」と捕らえられる事すらされない程、取るに足らない存在。
ただ泣いてついていくしか出来ない彼女達であったが、そうする事によって、一緒に十字架を背負ったわけである。
そしてクレネ人シモンは実際にイエス様の十字架を背負う助けをした。
ゴルゴダの刑場に至るまで、このような男性女性がイエス様の十字架と共に歩んだのである。
クレネ人シモンは、いずれ十字架を肩から下ろす時が来る。
背負うべき十字架の分はあるが、大勢の人の身代わりとなって十字架にかかるのは、イエス様しか出来ない分である。
しかし、私達に背負う事の出来る十字架は、確かにある。
イエス様と共に十字架を背負い、各々しか果たせない御国の働きをするみなさんでありますように。
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
十字架前のイエスを取り巻く「私達」(マルコ15:15-20)礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- pastor 2011-1-13 6:38
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ピラトは結局、群集を満足させようとしてバラバを釈放し、イエスを引き渡した。
彼が満足させようとした群集とは、大祭司達などイエス様を憎み殺そうとした群集達である。
ローマの兵士達は、イエスを引き渡されて彼を嘲弄し、茨の冠を被せたりした。
イエス様を裏切ったり見捨てたり、侮辱して傷つけた人達を見ると、憤るだろうか。
しかし私達は、これら一連の登場人物達の一人に、いつでもなり得るのである。
私達はいつでも、イエスを売り渡したユダにも、3度知らないと言ったペテロにも、イエスに本質を突かれて殺意を覚えた祭司長達にも、扇動されて「十字架につけろ」と言う群集の一人にも、茨の冠を被せた兵士にも、手を洗って「私には関係無い」と言ったポンテオ・ピラトにも、いつでもなり得る。
彼ら一人一人がイエスを苦しめた張本人であり、その張本人の一人が実に私達なのである。
使徒信条に引用されているポンテオ・ピラトは、総督としてイエスを十字架につける権限もあれば、十字架から守る権限もあったが、私達もイエスを知る者として、信仰告白する者として、ポンテオ・ピラトと同様の立場にある。
イエス様を最初から否定し、否定して終わるような者達には、主は目を留めておられないが、主に目を向けようとする者達にこそ主は目を留められ、特別に扱われるのだ。
イエス様が十字架上で息を引き取った場面においては、それを見て悔やんだ少数の者がおり、その中の百人隊長は神をあがめた。
その時点、ペテロ達は「イエスを知らない」と言って隠れたままであり、そこで聖書が終わるならそのままであったが、彼らはイエスの名の集まりにいたからこそ後に大いに変えられ、栄光のために用いられた。
イエスの名のある交わりに集まり続けるなら、ユダも、祭司長も、ピラトさえも、後に変えられたはずである。
私達が学ぶべきは、歴史上の人物達を第3者的にどうこう批評する事ではなく、私達の内のユダやペテロ、祭司長達、群集、兵士、ポンテオ・ピラトをどうするかであり、いかにイエスの名を否まず、彼を主とし続けられるかである。
それによって、人生を「後悔」で塗りつぶすか、御国の為に用いられる充実感で塗り替えるかが決まる。
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イエスを前に分かれる人々(ヨハネ19:12-15) 礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- pastor 2011-1-12 7:22
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人はイエス様の前に、色々なタイプに分かれる。
ピラトは何とかしてイエスを解放しようとし、イエスについて「ユダヤ人の王」という言葉にこだわった。
彼は確かにユダヤ人の王と認めるのだが、周りの人や空気に負けて、この王を死に定め、人殺しを解放してしまった。
ユダヤ人は、イエスがどういうお方であるのかを見、彼が自由に行動されるのを嫌がり、歯軋りし、その者の死を声高に叫ぶ。
彼らは「自分を王とする者は皇帝に逆らう」(ヨハネ19:12)と言った。
自分が自分の王座を下りる、という所までは聖書的であるが、その王座に座っていただく者が問題である。
座っていただく者がこの世の王であると、ユダヤ人達がそうであったように、その王に搾取された挙句、滅ぼされてしまうのである。
またヘロデ・アンティパスはイエスに出会って大いに喜んだが、それは彼が徴を成す事で有名で、興味があったからである。(ルカ23:6-12)
ヘロデは色々と興味本位で質問したり促したりするが、それに対するイエス様の応答は、何もせず黙っている、というものであった。
結局ヘロデがイエスに成した行動は、兵士達と一緒に侮り、なぶり、けばけばしい衣を羽織らせて放り出す事だった。
イエス様を単に興味本位で質問し、はでに飾り立てたり、面白おかしくなぶりものにする者たちに対しては、イエス様は何の反応もされず一言も発しないのである。
イエスはこの場面においては弱々しくみっともなく、誰も「この人の仲間です」と言いたくないような状況であるが、イエスは王の王、主の主、誰も近づく事のできない光の中に住まわれるお方であり、このお方を主とする者は力を得、勝利を得る。
弟子達はこの時点、逃げ隠れして震えていたが、十字架後のイエスによって大胆にイエスを証し、力を得た。(使徒4章)
私達が留まるべきは、イエスの名の内である。
十字架の言葉に留まる者は一時敗北のように見えるが、十字架の向こうには復活と勝利、栄光がある。
イエスの名によって癒しと徴と奇跡を行い、大胆に神の言葉を語るみなさんでありますように。
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ポンティオ・ピラトの前で証するイエス(1テモテ6:13-16、ヨハネ18、19章) 礼拝説教メッセージ音声 한국어예배 韓国語通訳有
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- pastor 2011-1-11 7:34
礼拝説教メッセージ音声:ポンティオ・ピラトの前で証するイエス(1テモテ6:13-16、ヨハネ18、19章):右クリックで保存
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ポンティオ・ピラトの前でのイエスは、口を開かず、辱められ、弱さの極みであったが、イエスキリストは唯一の権力者で王の王、主の主、不死なるお方であり、近づくことのできない光の中に住んでおられる力強い主である。(1テモテ6:13-16)
万物に命をお与えになったお方が、ポンティオ・ピラトの面前で証しをなさったのだ。(13節)
彼のポンティオ・ピラトの前での告白を見て行きたい。(ヨハネ18:33-38)
ピラトが最初に見たイエスは、大勢の悪意の群集に囲まれ、祭司長達に罵られ、犯罪人として縛られて引っ立てられている様子であった。
そのような状況の33歳の若造なら、本来、絶望と恐怖に満ち、卑屈に総督の前に出ているべきなのに、平安と清らかな佇まいに満たされていた彼の様子を見て、ピラトはただ者ではないと悟った。
彼がイエスと会話を交わしていくうちに、イエスが地上にいるどんな人間とも違い、全てを越えた聖なる王の性質に触れていく。
イエスの前には、総督であろうと奴隷であろうと、イエス様を王とするか、しないかの、2つに一つしかない。
そしてそれは、イエス様が輝く天の王座に座っていようとも、犯罪人のように捕縛され打ち傷に満たされた状態であろうとも、である。
「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:37)
この部分を本の字面を追って読むだけなら「何を突拍子も無い事を」と思うかもしれないが、その場面の状況として、究極的に弱い立場の筈のイエスが、いつでも御使い達に命じて守らせる事の出来る余裕と、清らかで平安に満ちた佇まいの内にこの言葉を発したのだから、ピラトはますます、このお方は何かしらの王たるに相応しい者であると確信する。
ピラトは確かにイエスを釈放する権限も、十字架につける権限もあるのだが、ピラトも上から権力を与えられなければ何もできない事を言われ、なんとかして釈放したいと思うようになっていった。
ピラトはイエスの無罪を宣言しても、群集はバラバ釈放を要求し、あくまでイエスの十字架を要求した。
祭司長達が本来王とすべきは、唯一の神であるはずなのに、皇帝陛下の他に王は無いと言ってみたり(15節)、異邦人に支配されるのは嫌いなはずなのに、その異邦人の権力に取り入って利用してイエス様を十字架につけようとする。
外見だけの宗教者はこのように、自分の王を好き勝手に摩り替えたり、聖なるお方を罪に定めたり、邪悪なバラバを釈放したりするのである。
ピラトは「見よ、この人だ」と叫び、この聖なるお方をお前達は十字架につけていいのか?と促すが、結局ピラトはイエスを引き渡してしまうのである。
人間とは悟りが無ければ、とことん弱く愚かなのである。
横浜天声キリスト教会 copyright 2011