メッセージ - 201103のエントリ
昨晩は結局、6人の兄弟姉妹が教会に泊り、とても楽しいひと時を過ごせました。
今回のメッセージは水曜昼礼拝でさせていただいたものです。
題は「死骸を荒れ野にさらした者」(17節)としたい所でしたが、時勢的に相応しくないと思われますので、標記のようにしました。
礼拝説教メッセージ音声:荒れ野に放置される者達(ヘブル3:7-19):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
ヘブル3章にはモーセの時代、神の安息に入れた民と入れない民の違いについて、明確に書いてある。
かの時代、イスラエルの民は信仰によってエジプトを出、約束の地、安息の地を目指しているはずだったが、行く途中に多くの者達が不平不満を言い、他の民の心を挫いた。
やれエジプトの方が良かった、ここにはマナしか無いじゃないか、モーセはこの荒れ野で我々を殺すつもりだ、などなど。
ある時は、モーセを石で撃ち殺して別の指導者、別の神を立ててエジプトへ戻ろう、と言い出す始末だった。
なぜ「心を頑なにしてはならない」「試みてはならない」と書いてあるのか。
それはもちろん、死なないためであり、安息に入るためである。
夫婦生活について、結婚を前にした男女向けにこのような例えがある。
夫婦生活は、命綱をペアで繋いで山を登っていくようなものである。
二人で同じ目標を目指して力を合わせて登って行き、片方が滑っても片方が支えて行くなら、無事目的に到達できる。
相手だけに頑張らせて、自分は全く努力せずブラブラぶら下がるつもりでいるなら、結婚は考えないほうが良い。
もしあなたが頑張っているのに、相方は何も努力せず、いつも命綱にブラブラして「おなかすいた」「ねぇかまって」と言ってばかりいたら、どう思うだろうか。
この荒れ野で不平不満を呟いていた者達は、今にも崖から落ちそうなのに命綱でブランコ遊びしていたような者達である。
主は確かに恵み深く憐れみ深いが、期限がある。
40と言う数字は試みの数字であり、これに耐え抜いたヨシュアとカレブは幸いだった。
頑張っている人達の心を挫いた者達を主は荒れ野で滅ぼしたように、命綱でブランコ遊びしているような者達は、主ご自身が命綱を切って、落として行く。
そのようにならない為に、私達には12,13節の御言葉が与えられている。
「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。
あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――」
兄弟姉妹のうち誰かが罪に惑わされて頑なになるのであれば、兄弟姉妹みんなで真剣にその人を立ち直らせる努力をすべきである。
それは「今日」と言われている日のうちである。
「その日」が明けないうちに立ち直らせないと、罪や頑なさが、その人に定着してしまうからである。
荒野で滅ぼされた人達は、神様の提示された御言葉を退けて、あくまで自分の主張をし通した者達である。
17節「いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。」
兄弟姉妹の心を挫いて命綱にぶらぶらぶら下っている者は、
死骸として荒れ野に晒されたまま、置いて行かれ、
他方、信仰によって一歩一歩前進して行く者達には、安息が近づいてくる。
「このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。」19節
皆さんは死骸として置いて行かれる者達だろうか? それとも安息の地に向かって一歩一歩全身し安息を勝ち取る者達だろうか?
それは、皆さんの信仰次第である。
信仰の歩みを日々為して、安息の地に入れる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって、祝福します。
教会には最近泊り込みで来られる方が複数おり、交わったり祈ったりしつつ教会から仕事に通う方もおります。
本日は徹夜祈祷会に参加される方が既に来て、合計5人が泊まりこむ予定。今楽しく交わり中です。
当教会に泊り込みで祈りに専念したい方がありましたら、お知らせ下さい。
礼拝説教メッセージ音声:心を空白にしておくなかれ(マタイ12:43-45):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
悪霊は人を住まいとする。
主がたとえ話で話された悪霊は、何らかの理由でその人から出てきた。
悪霊は水の無いさまざまな場所を出歩いて休みを得ず、元いた所に戻る事にした。
戻ってみると、そこは空っぽで掃き掃除がされており、飾りつけがしてあって(岩波訳)、悪霊にとって住み心地が良い状態になっていた。
そこで、自分よりもたちの悪い7つの悪霊を連れて来て住み、その人の状態は、前よりも悪くなった。
悪霊にとって心地よく住みやすい場所と言えば、イザヤ34章、エドムの廃墟である。
エドム(ヤコブの兄エサウの子孫)は神の民イスラエルに悪事をはかったため罰が下り、廃墟となる預言がそこに書かれてある。
エサウの性質は、神に属する栄光の家系を継ぐ権利を軽んじ、一杯の食物でそれを売るものである。
彼は、王族の栄えある系列の権利を退け、すぐに無くなる食べ物、肉の欲を取ったため、栄光の家系から外されてしまった。
さらに後には、栄光の系列を受け継いだ者に敵対する者となり、裁かれ、滅ぼされ、悪霊の住処となってしまった。
皆さんは以前は世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者に支配されていたかもしれないが、今やキリストを信じ、神に属する栄光の系列とされ、聖なる国民、王族の祭司とされた。(エペソ2章)
もはやエサウのように、その尊い権利を退けて一時の肉欲に自分を売り渡してはならない!
そうしてしまうと、神の民から除外され、神の民に敵対する側となり、裁かれ、滅ぼされ、悪霊の住処となってしまう。
一度でも、魔がさして罪を犯してしまったらもう2度と立ち直れない、という事ではなく、普段、何で心を満たしているかの問題である。
キリストに心を満たしているなら、1度や2度の罪を犯しても元に戻る余地は十分あるが、心を空白にしたまま悪霊の好む飾りつけをしているなら、悪霊に付け入れる隙をいつでも与えてしまっているのである。
心の内は、キリストを豊かに住まわせておくべきである。
(以下、エペソ3:16-21を元にした祈り)
イエスキリストが、力をもって皆さんの内なる人を強めて下さいますように。
皆さんが、信仰によって心の内にキリストを住まわせ、愛に根ざし愛にしっかりと立つ者としてくださり、神の全き充満へと満たされますように。
心が空っぽのまま悪霊の飾りをして放って置くのではなく、キリストの栄光の香りで内側が豊かに満たされますように。
皆さんがキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてに与り、それによって満たされますように。
皆さんの内に働く御力によって、求めたり思ったりする事、全てをはるかに超えて、叶える事のおできになる方に、栄光が世々限りなくありますように。
イエス・キリストの名前によって。アーメン。
最近の早天はパウロ書簡が続いていますが、いずれも私達の立ち位置について確認するべき所です。
キリストと共に天の御座に座している。。。これは文書でそのまま読むとにわかにイメージできない程遠大な事ですが、御言葉に対する正しい対応は、信仰によってそのままアーメンと受け入れる事です。
礼拝説教メッセージ音声:神の所にかくまわれて(コロサイ3:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「あなたがたは死んだのだし、またあなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されたまま」(コロサイ3:3 岩波訳)
キリストと共にあるのであれば、彼と共に神の右に座しており(1節)、私達のいのちも神のうちに隠されたままなのである。
だからそこ私達の本質的な居場所は「上」であり、アイデンティティの置き場は、キリストと共なる天の王座である。
「しかし神は、憐れみに富んでいるために、私たちを愛したその絶大な愛のゆえに、もろもろの過ちのために死んでいた私たちをキリストと共に生かし ――恵みによってあなたがたは救われている ――、キリスト・イエスにおいて共に起こし、共に天上の座に着かせて下さった」(エペソ2:4-6)
今私達は、キリストと共に天上の座に着いてる。
そこは権威を発布する座であり、そこから発布された命令には効力がある。
私達はキリストにあって地で繋げば天で繋がれ、世に対し、サタンに対し、この呪われた大地に対して、いのちを命じるという尊い特権が与えられている。
それは一方的な恵みによるのであり、当然、私達が相応しいからではない。
彼と共に王座に着き、新しい人という王族のローブを着せられたからには、物乞いであった時に身に着けていた穢れに満ちた外套は捨てていなくてはならない。
「地上に属するもろもろの肢体を死に至らしめなさい、淫行、不浄、情動、悪しき欲望、それに貪欲 ――これは偶像礼拝である」(5節)
偶像礼拝とは貪欲であり、この「貪欲」は定冠詞つきで、元の意味は「より多くを持とうとする所有欲」。
地震の時、スーパーから食品が消え、今では水が危ないという事で水が店頭から消えた。
必要なものを買うのは当然だが、より多くを持とうとして、周囲の人も買えなくしてしまう性質が、それである。
金銭やモノに限らず、名声や権力など、身分相応以上に欲しいという肥大化した所有欲や、「誰々を自分の思い通りにしたい」「あの子が他人と仲良くするのは許せない」という歪んだ独占欲も含まれる。
人やモノ、金、権力などを、より多く持ちたいのは何故か?
それは当然、それを頼りにしたいからである。
これがなぜ偶像礼拝と言われているのかというのは「神様よりもこれの方が頼りになる」という考えだからである。
「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(1テモテ6:17)
私達はキリストイエスにあって良き行いをするように召されている。
古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着、神の所にかくまわれた平安な信仰で生きていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
礼拝説教メッセージ音声:決して引き離せない(ローマ8:31-39):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
悩んでいる事を聞いて聞いてあげたり祈ったりした時はスッキリするけれども、家に戻ってみると、依然として思い悩む心が沸き上がってくる、という事がたまにある。
問題の解決は、誰かに祈ってもらうよりも、むしろ、その人自身が「何を信じているか」によって左右される。
私はそのような時、「あなたは誰を主としていますか?」と聞く事にしている。
そう聞くと大体の人は意外な表情をする。
しかし、どのようなお方を主としているか、というのが実はとても大切である。
ある人は「神様」を主としていると言うが、神様と呼ばれるものは世に沢山ある。
願いを叶えてくれる神様、やさいし神様、学業や恋愛成就の神様などなど。
しかし私達が主とすべきは、明確にイエス=キリストである。
イエスが主です、と言っても、その行いや醸し出す雰囲気に平安が感じられない場合、私は疑ってかかっている。
イエスと言っても聖書には「バラバ・イエス」や「バルイエス」、キリストでない「イエシュア」など、同名は多数いる。
私達の主イエス様は、死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であり、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる。(34節)
私達は、この主イエスと共に御座に座している者だ。(エペソ2:14)
キリストは死から勝利し、いつも共におり、私達の内におられる。
そして彼の愛から私達を引き離すものは被造物の中には何もない。
行き詰まることは確かにある。
しかしこれら全ての事の中にあって、私達を愛してくださるお方にあって、輝かしい勝利を得る事ができるのだ。
「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38)
そのイエス様にあって、平安を保つ皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:共に天の王座に着かせられ(エペソ2:1-10):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エペソ2:6)
この言葉はそのまま聞くと、にわかには信じられない言葉だが、御言葉はそのまま受け入れるべき真実である。
イエスを主とした者は皆、間違いなくキリストと共に復活され、共に天の王座に着かせられている。
王座とは、権威を行使し、命令を発布する所である。
キリストと共に権威の座に座している時、限りない平安の内に権威ある言葉を語る事が出来る。
このエペソの御言葉はサタンが非常に嫌う所で、あらゆる手段、あらゆる思いの吹き込みによってそこから逸らそうとする。
もしサタンが
「天の所に座している?おまえのような罪人が?!ふざけるな!」
といった偽りの思いを吹き込んだとしても、
「御言葉にはこう書かれてある」
と言って対抗すれば、サタンは去っていく。
御座においては、世も、サタンも、この呪われた被造物も、イエスキリストの名によって支配されるのだ。
なぜ私達にこんなに特権が与えられているのか。
それは、私達自らの力や権力に拠らず、一方的な恵みによる(8節)。
自らの何かによって、大自然やサタンに対抗するなら、当然やられる。
サタンはかなりしつこく思いに攻めてくる。
「あの時ああしたじゃないか、こうしたじゃないか」
悪いことに、サタンの突く事には確かに心当たりがある。
しかし、私達にとってまことに都合が良い事に、私達の何かに拠って戦うのではなく、キリストイエスによって戦うのである。
行いに拠るのではない。行いによるのであれば到底不可能。
皆さんは恐らく昨日も一昨日も、罪を犯した事だろう。
私達が戦っていくのには、いかに力をつけるかではなく、どの立場に立つのかである。
私達が立つべきは、主イエスと共に、天の王座にである。
この天の御座から迷い出たりする事が無いように。
世に対し、サタンに対し、そして呪われた被造物に対し、主イエスの名によって命じる皆さんでありますように。
イエスの名によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:祭りを祝えず悲しむ者を集める(ゼファニア3:14-20):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな、力なく手を垂れるな。
お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」(ゼファニア3:17)
この希望に満ちた言葉は当然、誰にも彼にも、というわけではなく、悔い改めて主を呼び求める者に対してである。
実はゼファニア書の大部分は、恐ろしい災いの預言に満ちている。
ゼファニアはヨシヤ王の時代に活躍した預言者で、この王は自国から徹底的に偶像礼拝を取り除いたが、その前の王達は、偶像礼拝を広め、強い者達が弱い者を虐げる暴虐に満ちた時代であった。
それ故ゼファニアも、そのような者達に主の怒りの火が下ると1-3章まで預言してきたのである。
神はいてもいなくても同じ、と思っている人(ゼファニア1:12)は、恐ろしさを本当に知らない。
地獄は、確かにある。
私達はライターで簡単に火を点ける事ができるが、地獄ではそれよりも何倍も熱い硫黄による火が見える限り一面に広がり、サタンや偽預言者、イエスを主としない者達がそこで永遠に苦しむのである。
しかし、主は悪い業を悔い改め、心から主を呼び求める者を喜びとし、楽しみ、歌って下さる。
子を持つ親にとって、子供は存在だけでも喜びであるように、主イエスを信じる者は神の子とされ、子とされた者は特別扱いされる。
主は、信じる者のただ中におられ、どこにおいても救いの勇者であり、勝利を与えられる。
たとえ一人であっても、暗闇の中で寒さで震えていても。
「わたしは、祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ、お前の重い恥となっていた。
見よ、そのときわたしは、お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い、追いやられていた者を集め、彼らが恥を受けていたすべての国で、彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。」(3:18、19)
誉が与えられる者とは、主の祭りが行えないという事で苦しむ者達であり、主の祭りを祝えなくてもどうも思っていない者達に、誉は与えられない。
主を慕い、主の祭りを行えずに苦しんでいる者達には、主がプライドにかけて恥を除き、苦しみを取り払って下さる。
「そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で、お前たちの繁栄を回復するとき、わたしは、地上のすべての民の中で、お前たちに誉れを与え、名をあげさせると、主は言われる。」(3:20)
主を恐れる者には、どのような災いの地においても繁栄を回復させ、地上における誉れとして下さる。
地震以来の1週間、主に信頼を置く皆さんを見て、世の人達は驚いたのではないだろうか。
こんな恐ろしい時世なのに、何故こんなに差別的に守られ、心に平安が保たれているのか、と。
主は、信じた者をプライドをかけて守ってくださり、誉れを与えて下さるからである。
その主に拠り頼み、苦しみには慰めを、恥には栄誉を、貧しさには富を、逆に頂く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
良いニュースと悪いニュースが混在して入ってきますね。
祈りの手を引き続き緩めず執り成して行きたいと思います。
本日は静岡やイギリスからの兄弟姉妹が来られて、交わりがとても賑やかでした。
先ほどまでの交わり、とても楽しかったです。