メッセージ - 201104のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:面倒見られる者から面倒を見る者へ(使徒9:32-35):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

癒しのわざは、福音書や使徒の働きを見るとさほど珍しくない出来事のように思えるが、現代を生きる我々には、病の癒しは切実ではあっても滅多に起きない事のように思える。
アイネヤの癒しに限っては、それを見聞きしたこの地方の人達が主に立ち返る程に、インパクトのあるものだったようだ。

彼は中風で、8年間体が動かない状態だった。
中風とは半身不随などで体がマヒしてしまう、癒し方い病気である。
この病について聖書の他の箇所で思い出すのは、4人の人が一人の中風患者を担いでイエス様の所に連れて行った場面である。(マルコ2:1-12)
イエス様のいる所は人がいっぱいだったためそのまま連れて行けず、屋上に登って屋根を剥がし、イエス様の所に4隅を吊って降ろした場面だ。

そのマルコの場面と使徒の場面で共通している事は、そこにいた人々に大いなる驚きをもたらした事。
この病が癒され突然立ち上がるなどという事態は、正気を失うほど驚くべき事である。

もう一つの共通している事項として、癒されるときに「起きて寝床を担ぎなさい」という言葉も一緒にかけてもらった事である。
中風患者は体が動かないため人に世話になりっぱなしで、誰かに運んでもらわなくては移動もできない。
人の中には、霊的な中風患者もいる。
その人は肉体的には健常であっても、霊的な感覚や良心がマヒし、霊的に面倒を見られっぱなし、という状態である。

ペテロもイエス様も「自分で自分の寝床を運びなさい」と言ったのは、もはや自分で自分の面倒を見ることができるのだから、以前のように人から面倒を見られっぱなしという習慣から

脱出しなさい、という事である。

イエス様は癒す時に「あなたの諸々の罪は赦される」と言われた。
周りの人達は「神おひとりのほかに誰が罪を赦すことができるだろうか」と思ったが、イエス様の場合は本当に人の罪を赦す権威があるお方である。
その事を示す為に、敢えて「起きて歩け」ではなく「あなたの諸々の罪は赦される」と言われたのである。
中風の癒しとは「このように、全き回復の他に「罪の赦し」も連想させるものである。

ペテロはこのように声かけた。
「アイネヤよ、イエスキリストがあなたを癒される。起き上がりなさい、そして自分で床を整えなさい。」
イエスキリストが癒される時、霊的にも肉的にも回復すると同時に、諸々の罪は赦される。
人に面倒を見られっぱなしだった人生から、自分の面倒を見れる人生となり、ついては中風の人をイエス様の元に運んでいく人生となるのだ。
アイネヤの身動き出来なかった8年の辛い記憶はたちまち主の栄光の記憶へと創り変えられ、それを見た者は主に立ち返るのである。

霊的にしろ肉的にしろ、中風にかかっている人がいればイエス様の元に連れて行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって、祝福します。

礼拝説教メッセージ音声:止まる事を知らず広がる福音(使徒9:19b-31):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

サウロはアナニヤの手引きによって目からうろこのようなものが落ち、悔い改め、人生の方向性を180度転換した。
アナニヤがサウロを弟子達の所に連れて入った時、そこには大きな驚きと恐れがあっただろう。
なにしろ、あの有名な迫害者サウロがダマスコス入りしたと聞いただけで何人もの弟子達が震え上がった、あの噂の張本人が突然連れてこられ、入ってきたのだから。
しかしその驚きは喜びに変わり、主への感謝に変わったからこそ、その後数日間、弟子達との有益な交わりができたのであろう。

22節「サウロはますます力づけられ、イエスがキリストであることを論証し」
サウロは、あの光に打ちのめされた自身の体験よりも、聖書からイエスがキリストであることを論証した。
元々旧約聖書には、イエスがキリスト、すなわち救い主である事の根拠が、至る所にちりばめられているため、聖書に親しんできたサウロには論破する事は難しいことではなかった。

サウロはイエスの事を語る毎に、ますます力づけられていった。
それは御言葉を伝える者なら誰もが経験している所ではないだろうか。
イエスが神の子である事、罪を赦し永遠の命を与える主である事を伝えれば伝える程、力が湧いて来るものだ。
後になって思い返してみると、よくもあそこまで福音を伝えたものだ、と思う事もあるが、主ご自身が守って導いてくださった事も同時に分かるのである。
イエスが主である事を伝える者には御霊の助けがあり、霊が燃やされるため、人の目も危険も気にならなくなって来るのだ。

かなりの日数が経った後、サウロを殺そうとする陰謀が起こるが、主はそのような隠れた陰謀さえ分かるように取り計らってくださり、みすみす殺されるような事が無いように配慮された。
街の門を昼も夜も監視され、サウロは行き来できなくなってしまうが、弟子達は彼をかごに乗せて城壁伝いに吊り降ろし救い出した。
そして彼はエルサレムに着き、弟子達の仲間に入ろうとするのだが、やはり交わりに加わる事に難航する。
しかし「慰めの子」と呼ばれるバルナバが、サウロを執り成し、弟子達の交わりへ加える事に成功した。

31節「こうして教会は、エルサレム、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方にわたって平和を保ち、主〔へ〕の恐れと聖霊の慰めにあって、その基礎が固まり、発展し、その数を増していった。」
いのちの危険がいつも隣り合わせなのに発展して行くとは、一見すると相反しているかのように見えるかもしれない。
しかし福音とは、人の罪が赦され、病や貧しさから解き放たれ、死の門をも打ち破るいのちの道であり、いのちの危険があっても、なおいのちで飲み込んで行くからである。

聖霊によって慰めを受け、いのちを増やしていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。

本日4/13は多忙のため早天メッセージ配信ができませんでした。

水曜は朝から晩まで奉仕のため配信が遅くなり勝ちになります。

明日4/14に本日分の配信を行います。

今日は、ネットを通じて交わりをさせていただいている香川の聖徒から、天声の兄弟姉妹達にと
讃岐うどんを大量に送っていただきました。ヽ(´∀`ヽ)

他にも聖徒達から多くの志しをいただき、主の喜びで満ち足りています。

それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。(ピリピ4:18)

香ばしい香りを捧げられた全ての聖徒達に、主が豊かに報いて下さいますように!

礼拝説教メッセージ音声:目からうろこ(使徒9:10-19a):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

「たちまち鱗(うろこ)のようなものがサウロの目から落ちて、見えるようになった。」(使徒9:18)
目からうろこということわざの起源は、聖書のこの箇所あらである。
他にも「笛吹けど踊らず」「豚に真珠」など聖書由来のことわざはあるが「目からうろこ」とはそれまで気付いていなかった意外な事、見えていなかった事が開け、その世界が広がる事である。

それまで目は見えていなかったサウロの目は見えるようになり、霊的な盲目状態もまた開けて真実が見えるようになった。
サウロはそれまで、神様に熱心だと自負して突っ走っていたが、実は盲目の状態でやみくもに走っていたのだ。
彼は主の弟子達を脅迫し殺そうという、間違った方向性で意気込んでいたため、主ご自身からの直接的な介入があったわけである。

古今東西、主の弟子達を迫害して燃えていた者は大勢おり、そのまま変わらず終わった人生もあれば、サウロのように変えられた人生もある。
変えられるには主の直接介入が必要な事もあるが、主からの促しに「応える」という、本人の側の決断と行動も必要である。
サウロは既に有名であったため、身に危険を招かないために、180度方向転換した事を隠してひっそり生活するという選択肢もあったかもしれない。
しかし彼は、主からの促しと与えられた召命に素直に答え、それまでの地位を捨てる道、命の危険を冒しても福音を伝える道を選んだ。

もし彼ほどの器の人物がひっそりと信徒生活を送る選択をしたら、主はきっと別の器を起こされた事だろう。
しかしそれなら、彼が新約聖書の大部分を書く事も、地中海世界を伝道して回り多くの魂を救う事も、朽ちるこのとの無い栄光の冠をいただく事も無かったであろう。
主からの促し、主の召命に応えるなら、大いに用いられ、朽ちない栄光をいただく事になるのだ。

アナニヤは使徒9章にしか出て来ないが、彼について分かる事は、彼はダマスコスに住み、主から特別な任務を頂いてそれに従順に従う良き聖徒だという事である。
彼は事前に、サウロという人物について詳しく知っており、サウロがダマスコスに来た理由も、どんな権威を祭司長から得ていたかも知っていた。
初代教会の情報網の細かさ、伝達の早さが伺える。
ダマスコスはガリラヤ湖の北にある町で異邦人が住み、ユダヤ人は比較的区別しやすく、故にキリスト者も比較的見つかりやすい状況だったと思われる。
キリスト者達は、あのサウロがそちらに向かったぞという事で多くは事前に逃げたと思われるが、それでもアナニヤはダマスコスに残っていた。

アナニヤには主から、サウロに手を置いて癒すという使命を託された。
もしサウロを知らない聖徒にこの使命が託されるなら、もっと楽な気持ちでサウロの所に行ったであろうが、主は敢えて、サウロを良く知っているアナニヤを召命した。
サウロは99.9999%改心は望めないキリスト者にとっての天敵だったかもしれないが、人の見方と主の見方は違うものである。
人の目からは不可能でも主には不可能は無く、改心するハズの無い者をも改心させ、主は栄光を表すのだ。

私達もアナニヤのように、目が見えず頑なな”うろこ”が付いている人の所に行って、うろこを取ってやるように遣わされる事がある。
アナニヤは相当嫌だっただろうし、私達も相当嫌だろう。
今から聖徒達を逮捕したり殺害してきた組織のアジトに行って、目が見えなくさせられているボスに手を置いて癒してやりなさい、と、主から言われるとしたら、私達も「あの人はちょと嫌です」と訴えたいものだ。
しかし、主は「行きなさい」と言われ、アナニヤはその言葉に従い、行って手を置いて癒した。
主に行けと言われるなら行くべきであり、主の言葉に従えば不可能は可能に、サウロはパウロに変わるのである。
主のなさろうとしている事はある時信じられないかもしれないし、私達にはとんでもない危険があるように見えるかもしれない。
しかし、主の促しに従うのであれば、大いなる祝福と恵みをいただくことが出来るのである。

サウロやアナニヤのように、主からの召命に忠実である皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。

桜も寂しげ

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2011-4-4 23:40

近くの川沿いは桜並木で、桜はやっと咲き初めた感じです。

毎年この時期に夜店が並ぶのですが、電気節約という事で提灯が消えていて、寂しげでした。

当たり前の日常が早く戻って来ますよう、お祈りしている所です。

礼拝説教メッセージ音声:主よ、あなたはどなたですか(使徒9:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

サウロ(後のパウロ)は相変わらずイエス様に連なる者を捕らえ、殺害しようと意気込み、ダマスコにまで出向こうとした。
主の弟子達に対する執念に、そこまで燃えたのは、恐らくステファノの場面が強烈に残っていたから、と思われる。

彼にとって、イエス様に連なる者達は新興の異端集団だったが、ステファノの最後の様子は彼にとっては相当ショックだった。
ステファノは最後の最後まで、聖らかな愛の趣に満たされ、心底輝いていたのである。
サウロは確かに律法に熱心だったが、頑張っても頑張っても聖なる趣に達する事は出来なかった。
自身はパリサイ派の中でも熱心であると、自他共に認めた者であるにもかかわらず義と聖、愛に満ちる事は無かった。
なのに、この新興宗教の異端者はいとも自然にその性質を帯びている。
その聖さと愛は、込みあがって押し止められないほどの衝動となって自らに石を投げる者達を執り成し、その表情は石打受刑者とは思えないほど輝いていた。

サウロは実に葛藤しただろう。
しかし彼は自分の中で相反する思いを抱えながらも、神様に従いたいという自分の熱心を堅持しつつ、ダマスコまで来た。

ダマスコに行く途中、天からの突然の光に照らされ、彼は倒れた。
「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか。」
イエス様ご自身がサウロに語りかけるのだが、イエス様は『なぜ「私の弟子達を」迫害するのか』ではなく、『なぜ「私を」迫害するのか』と呼ばれた。
イエス様の弟子達を迫害する者は、イエス様を迫害したと同じなのである。

そこで彼は尋ね返す。
「主よ、あなたはどなたですか。」
この呼びかけには、声の主は「主」と分かっているのに、「どなたですか」と尋ねるという矛盾がある。
彼は、そうせずにはおれなかったのである。
打ちのめされる程の天から聖なる光は間違いなく主である。
しかし、その光の主は「なぜわたしを迫害するのか」と言い、しかも続いて「私は、おまえが迫害しているイエスである。」と、明確にお答えになった。
彼はどれほどショックだっただろうか。
自分はそれまで熱心に仕え、神に喜ばれる事をしてきたと思っていたのに、実はその逆をしていた。
神の反逆者と思っていたイエスこそ、実はメシヤだったのだ。
自分が熱心に律法を読んでその律法は、全てイエスを示して来たのである。

サウロは起き上がったが、何も見る事が出来なかった。
彼は人に手引きされダマスコに連れて行かれたが、3日間見ることも食べる事も、飲むこともできなかった。
彼はこの時、死を体験したようなものである。
それまで生きてきた人生が、ことごとく否定され、学んできた事は覆された。
パリサイ派の同窓生や友人と共に、キリスト者を敵として戦ってきたあの戦いは、一体何だったのか。
彼にとって、この経験が非常に強烈だったため、彼は後に何度もこの光に照らされた体験を証して行く。

キリスト者は、死の体験、よみがえりの経験こそ原点であり、大切にすべきである。
それまでの自分の力、自分の思いを否定し、自分の望むまま行きたい方向性を180度転換してキリストに向かう事は、人の目から見れば愚かな事かもしれない。
共に歩んできた友人知人、家族にさえ敵対するかもしれない。
しかし、イエス様と共なる歩みこそ、真実の歩みである。
サウロは自分の人生を否み、180度転換し、パウロとしてキリスト主体の人生となったからこそ、大いなる働きを為し、朽ちることの無い栄光の冠を受けたのである。

私達も彼ほどないとしても、主に仕えるために、自分のわざをやめなくてはならない。
主の働きをたくさん出来て栄光の冠を得る皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します。

第一礼拝(日本語)礼拝音声:救いは何処に?(詩篇18篇):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

今回の地震によって、世の人は色々な準備をしている。
CNNmoney.comによると、doomsday(最後の審判の日、この世の終わり)に備えるための地下シェルターを売っている米国企業の売上高が、20%から1,000%にまで伸びたという。
20万ドルから2千万ドルもする地下シェルターを買える者は買いあさり、買えない者は安全と思われている所に逃げ、逃れるつてもお金も無い者は、命を長らえるために物を買い込んで備えている。
あるいはこの終末的状況から目を逸らし、自らの欲にますます耽る者、絶望して何もしない者もいる。

大地が揺るがされ大水が襲い、害為す物質が撒かれた時、各人が最も拠り所とする対象が明らかになり、信仰が試された。
世の人はシェルターを買おう、飛行機に乗って逃げよう、水や食料を買い置いておこう、など、自らの富や知恵、力によって自分を救おうとしているが、結局何に頼ればいのちを伸ばせるのか、誰も知る由が無い。
人間には生まれる予定日はあっても、死ぬ予定日は誰も知る者はいない。
死ぬ時は皆死ぬ。それは、命の日数は、主が数えておられるから。
そして信じても信じなくても、地獄と天国はあり、どちらに行くかは、生きている時の選択にかかっている。

「主は私の岩、砦、逃れ場、私の神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。」(詩篇18:3)
主こそ私達の助けであり、この世から来る世まで通じて、唯一安心して頼れるお方である。
人生の大川を越える時も揺るがされることは無く、いのちに溢れ、敵の前でさえ宴会を設けて下さる。

「立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30:15)
これは、何もせず静かにしていよ、という事ではなく、「立ち帰って」という所が重要である。
立ち返るとは、自分の考え、自分の業でやってきた方向性を180度転換し、神様の業、神様の御心に委ねる方向転換であり、そうして静かに信頼するなら力を得るのだ。

「「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに/あなたたちを追う者は速いであろう。」(イザヤ30:16)
地下シェルターを買い飛行機で逃げても、主に計り与えられた命の日は、延ばす事も縮める事も出来ない。
しかし少なくとも、主に信頼する者は、世の何者も提供できない、人知を超えた神の平安が、心と考えとをキリスト・イエスによって守られる。(ピリピ4:7)

「一人の威嚇によって、千人はもろともに逃れ、五人の威嚇によってお前たちは逃れる。」 (イザヤ30:17)
中国浙江慈渓市の男性は、日本からの放射能を恐れるあまり、ヨウ素入りの塩を食べ過ぎて亡くなられた。
主に信頼せず、恐れに捕らわれ右往左往するなら、たとい安全な地にいたとしても、死の危険にあるのだ。

今の時代、真偽の入り混じった様々な情報が飛び交い、何を信じれば良いのか分からないし、どの情報が正しくどの情報が違うと判断する能力は、我々には無いかもしれない。
しかし世の終わりにはそのようになる事が、予め主によって示されており、主が真っ先に気をつけるべき事として言われたのは「人に惑わされないように気をつけなさい」(マタイ24:3-4)である。
何が最善であるかを知っておられるお方はイエスであり、決して変わる事の無い真理が、御言葉である。

世の終わりまで守られる者とは、主の言葉を忍耐して守り、イエス様の名を知らないとは言わない者である。
この時代、主の御言葉をよくよく注意して留まり、全世界にきているこの試練の時、守られる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

抗がん剤治療中で、祈りに覚えているcandy姉妹が、病室でいのちを生み出しました!

彼女、31日に抗がん剤投与したばかりで、本来なら相当吐き気など辛いハズですが、死はいのちに飲み込まれました!ハレルヤ!

嬉しくて仕方ありませんでしたので、本人の了解を得ずですが、転載させていただきます。。。(candyさん、いいですよね?)

以下転載です。いのちの喜びを共に喜んで下さい。


「素晴らしい神のいのちの院内感染!!」

ヒョォォー!!!ウォオオオオー!!


イエス様は素晴らしい!!

気持ちは飛び上がって踊り出したい気分です!

入院してうれぴーーーー!!

ガンになって嬉しいーーー!!

そんなことどうでもいい!!

今日は新しいいのちが生まれたよ!!

隣のベッドの人が、イエス様を信じて救われました!!

ハレルーヤ!!

イエス様!すごーい!!


敵の前で食事をととのえてくださると

詩編にあるけど、

こんな素敵なご馳走をいただいちゃっていいのかしら?!

喜びが爆発しています!!

興奮して心臓の鼓動が激しいのか、抗がん剤の影響で激しいのか、わからないぐらい!!(笑)

心がチョー羽上がってるのに、からだはついていかない。

でも嬉しいよ。

その方と、イエス様を受け入れるお祈りを一緒に捧げたのだけど、いつまでも目を閉じて、イエス様に心を向けておられることを感じた。

聖霊によらなければ誰もイエスを主と言うことはできない

すべて主がされたこと。

生きて働かれる主!

その素晴らしさを真横で味わう喜び

ハレルヤです!!

皆様のお祈りを感謝します!!

栄光は主のもの!!

あぁ、幸せです!!

うぉぉぉーーーーー!!!

礼拝説教メッセージ音声:安息に入れない予備軍(ヘブル4:1-10):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

「神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。」(ヘブル4:1)
安息に預かる約束があるのに、取り残されてしまう者とは、与えられた約束を信仰によって結び付けない者である。
「聞く者、これに信仰をまじへざりしに因る」(文語訳2節)
この事から、約束を聞いただけで安息に入れるという訳ではなく、聞いた言葉を、信仰によってその人自身に混ぜ合わせなくてはならない。
御言葉を聞いても何も良い事が起きない、と言っている人は、コンセントを挿さずスイッチも入れないのと同様で、御言葉に力が無いのではなく、その人が聞いた御言葉に信仰を混ぜないから、力が発揮されないのである。

ヘブル4:4-7節には、安息に入れない予備軍が書かれてある。
メタボ予備軍にならないためにテレビや雑誌等でよく注意喚起されている。
一日何歩以上歩かない者や、エレベータばかり使っている者は危ない等と言われているが、「ああ、私は予備軍だ」と言うだけで何の改善もしない者は、事実メタボのままである。
御言葉を聞いて「それ聞いた事ある」「でもねー」と言って、何の改善も無い者は「安息に入れない予備軍」である。
予備軍の特徴として「不従順な者」(6節)、「神の声を聞いても心を頑なにする者」(7節後半)。
安息に入れない者とは、聞いても心と顔面を頑なにする者、自分の考えをあくまで固持する者である。
安息に入れない予備軍の行く先は暗闇と歯軋りであるため、メタボ予備軍よりもはるかに深刻。真剣に扱っていただく必要がある。

神のみわざは既に完成されており、安息日の休みは残されている。(9-11節)
ところが、さもみわざが完成していないかのように、安息とは程遠いかのように人々が振舞っているのはなぜだろうか。
それは、御言葉に信仰を混ぜていないからである。
アダムとエバは、善悪の木から以外は、全ての木から取って食べて良いと言われたのに、さも何か不足しているかのように感じてしまったり、
善悪の木から取って食べたら必ず死ぬ、と言われたのに、さも神のようになれると思ったりしたからこそ、大地は呪われ、額に汗しつつ、死に向かって生きていかなくてはならなくなってしまった。

10節「神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。」
御言葉を信じるのであれば、神の安息がその人を覆い、そして自分の業を休む。
しかし信じないで疑う者は安息を得ず、右往左往した末に滅びる。

信じて安息を得、自分の業を終えて休む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

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