メッセージ - 201107のエントリ
暑い日々が続きますね。
七夕の日には、最近当教会に通いだした方の家に姉妹達4人と行って、御言葉を届け皆で祈って来ました。
尚、明日の夜から水曜午前中まで出張しますので、その間メッセージ配信はお休みさせていただきます。
今度の出張はまず静岡に行き、名古屋から船でどこかの島に行くそうです。
詳細は分かりませんが、その島には教会が無いのですが、福音を聞いてバプテスマを受けたいという方がおられるそうです。
主がどう導かれるのか分かりませんが、楽しみにして望みたいと思います。
最近、オリジナルドリンクにはまってます。
オリジナルドリンクと言っても至って簡単で、バルサミコ酢(ぶどう酢)をサイダーで10倍割るだけです。
すっきりした酸味とサイダーの甘さがほどよくマッチして、爽やかな飲料になりますよ。
夏バテ防止にいかがでしょうか。
礼拝説教メッセージ音声:私達に与えられているご計画(使徒25:1-12):右クリックで保存
韓国語通訳有
フェストゥスが総督に着任し、アグリッパ王とベルニケが彼を表敬訪問した時、フェストゥスは「実はこれこれの男がおりまして、、、」とパウロの話をした所、王は彼に興味を持ち、パウロはこの王の前でも弁明する事となった。
このマルクス・ユリウス・アグリッパ2世は、パレスティナ地方のほぼ全域を支配し、あの虫に噛まれて死んだヘロデ・アグリッパ王(アグリッパ1世)の息子である。
ベルニケはアグリッパ2世の姉妹で、非常に美しく、4人の男と結婚・同棲した女であった。
このように、ローマの王や総督周辺は道徳的にかなり堕落していた。
そのような者達と相対してきたパウロは、機会が与えられれば愚直なまでにキリストを宣べ伝え、それはユダヤ人の大祭司や長老達の前でも、異邦人の千人隊長や総督、王の前でも違いは無かった。
パウロにとっては、自分が釈放されるかどうかは関係なく、また、相対する者の身分の高い低いも関係無く、ローマ人もユダヤ人も全て福音を伝えられるべき者であり、ことさら道徳的に堕落したローマの高官・王達は特にそうであるとして、自分の弁明よりもキリストを証する事を優先させた。
『主は言われた、「行きなさい。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前で私の名を担う、私の選ばれた器である。実際、私の名のためにどんなに苦しまねばならぬかを、彼に示そう」』(使徒9:15,16)
この言葉はパウロがまだキリストを迫害する者サウロだった時、彼を癒したアナニヤに主から与えられた言葉だが、まさしくその道を歩んでいる。
彼にそのようなご計画が与えられたのは、実はかなり前で、それは天地創造の前からである。
そしてパウロに限らず、私達も天地創造の前から主に愛され、御自分の前で聖なる汚れのない者にしようとキリストにおいて選ばれており、私達をキリストにおいて天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださっていた。(エペソ1:3-5)
主が皆さんに与えられているご計画を悟り、それに従って忠実に歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:カエサルに上訴する理由(使徒25:1-12):右クリックで保存
韓国語通訳有
総督がフェリクスからフェストゥスに替わり、パウロの裁判は2年ぶりに再開された。
パウロに並べられた多くの罪状はどれも立証する事は出来ず、本来ならそれで無罪放免されて良いはずであったが、フェストゥスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロに「エルサレムで裁判されたいか」と持ちかけたため、パウロはカエサルに上訴した。
パウロがカエサルに上訴したのは、自分の正当性を主張したいからでも死を免れたいからではなく、邪悪な者達の欲望に甘んじる事によって、不正や罪を増し加えさせないためだ。
我々キリストの聖なるしもべは、不正な者の偽りを甘んじる事で、その者と取り巻く社会に罪を犯させるのは良くない。
そしてパウロが上訴した一番の理由は、イエスキリストをより多くの異邦人や高官達に証するためである。
パウロは少なくとも、ローマまでは命が脅かされない事を、主から御言葉によって保障されている。
『主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」』(使徒23:11)
パウロには個人的に保障の御言葉が与えられたが、今の時代、聖書の御言葉は全て私達に個人的に語られ、信じる私達の保障となっている。
たとい千人万人が右左に倒れるような災いに遭っても、自分に災いは近づかないという御言葉(詩篇91:7)を信じるなら、その信仰がその人の保障となるし、神の国と神の義を求めるなら、必要な物はこれに加えて全て与えられると信じるなら、その信仰を込めた御言葉が保障となって、その通りになるのである。
パウロはカエサルに上訴する事によって、さらなる証の機会が与えられた。
「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」(ピリピ1:12-14)
兄弟姉妹たちはパウロがエルサレムに行かないように懇願し、逮捕されないで欲しいと願ったが、パウロが聖霊の導きに従い、逮捕された事によって、より多くの者達に福音が伝わり、そして兄弟姉妹たちもそんなパウロを見て確信を得、ますます勇敢に恐れなく御言葉を語るようになったのだ。
人の目からは何が最善か分からなくても、最善を知っておられる主に全て委ね尽し、御心を成就させる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
昨日は静岡の姉妹がランドマークスクエアにショッピングに来ているという事でしたので、合流させていただきました。
教会からランドマークまで徒歩30分もかからないのに、滅多に行っていないので、何層にも続く立派なショッピングモールと人混みを眺めながら改めて「都会だなぁ」と感じました。
あの区域は見て回るだけでも一日が過ぎてしまうので、レストランに入って交わろうという事になったのですが、最初に入った所はファミレスと思いきや、平均2,3000円の高額なお店でしたので、口実を作って退出させていただき、2店目に入ったファミレスはウエイトレスさんの衣装がかわいく値段も手ごろでしたので、そこで3時間ほど楽しい交わりができました。
どのファミレスに入ったか、分かってしまったかな??
昨日、教会にあるお客さん達が来て、天声教会についてお話したのですが、「天声教会」という名前は、日本人にはかなり怪しげなイメージを持ったネーミングだと確認しました。
韓国人にとっては怪しげなイメージを彷彿させるものは全く無いようです。
実を言うと、私もここに来た当初怪しげな名前だなと感じた事もありましたけれど、ここの主の臨在と聖徒達の暖かな交わりの心地良さに触れる内に、そんな事意識すらしなくなってきていました。
名前の変更も視野に入れて検討したほうがいいかもしれませんね。
ちなみに「天声教会」という名前の由来は、聖書マルコ1:11の御言葉です。
『そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」』
天からの声とは、何かの教祖のものでなく、怪しげな霊の声でもなく、神が認証された御子・イエスキリストの声であり、イエスキリストの御声に聞き従う教会でありたい、という事で、名付けられました。
ペテロはモーセやエリヤといった指導者や預言者を素晴らしいとしましたが、天からの声は「これ(イエスキリスト)は、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」(マタイ17:4,5)でした。
誰か人間(牧師や大先生、教祖)をイエスキリスト以上に担ぎ上げる事を、偶像崇拝と言います。
唯一、神と人との仲介者になられた、イエスキリストから直接聞く皆さんでありますように。
礼拝説教メッセージ音声: 義と節制と来るべきさばき(使徒24:22-27):右クリックで保存
韓国語通訳有
総督フェリクスは妻ドルシラと一緒にパウロを呼び出し、キリスト・イエスについて尋ねた。
フェリクスはユダヤ人を非情な仕方で押さえつけ、反乱をさらに大きくさせた、非情で不道徳な総督である。
ここに出てきた妻ドルシラは、元々アジザスという領主の妻だったが、フェリクスはそれを離縁させて第3番目の妻として召し入れていた。
さて、ここで想像していただきたい。
もしあなたがキリストの故に逮捕され、すんでの所で死刑から守られ、非情で不道徳な総督の元へと護送され、そこである程度の自由が与えられたとする。
その総督は、あなたを釈放する事も死刑にする事もできて、彼が「あなたの信じているキリスト・イエスについて聞かせて欲しい」尋ねたとしたら、一体何を語るだろうか。
そのような状況でパウロが語ったのは、愛や憐れみ、赦しではない。
義と、節制と、来るべきさばきについて(25節)であった。
大祭司アナニヤを筆頭にユダヤ教徒達は、身に危険も無かったのに、憎たらしいパウロを陥れたいがために、この不道徳な総督をおだて上げ、へつらった。
しかしパウロは、どんなに危うい立場にあろうとも、また目の前の人がどんな権威でどんな立場にあろうとも、その人にとって霊的に必要な戒めを与えたのだ。
私達もどんな状況にあろうと、また相手がどんなに力ある者でも、キリストについて尋ねられるのなら、その人にとって必要な御言葉を伝えなくてはならない。
語った事によってその人が怒ったり悲しんだりする事が簡単に想像できるような状況でも、御言葉は真実であるが故に、そのまま伝えなくてはならない。
フェリクスは、義と節制と来るべきさばきについての言葉を聞くと恐れ「この話はまたの機会に聞くとしよう」と言ってその場を閉じたが。
しかし、「またの機会」は訪れなかった。
彼はその後、何度かパウロと会うが、それも福音を聞くためではなく金をもらいたい下心のためで、その卑しい態度は改善される事無く、結局彼は2年後、その暴政のために皇帝ネロによって罷免され、死刑されそうにさえなったが、命だけはなんとか助けられた。
対してパウロはその2年間、兄弟姉妹達と比較的快適で有意義に過ごす事が出来、さらなるその後の主の働きの為に養われた。
いかなる状況においても御言葉を正しく伝え、祝福される皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:必ず最後に主が勝つ(使徒24:10-21):右クリックで保存
韓国語通訳有
総督フェリクスの法廷にて、大祭司アナニア他ユダヤ人長老達の訴えに対し、パウロは大胆かつ的確に反論した。
ユダヤ人達の訴えには具体性も根拠も無かったが、パウロの答弁は具体的で根拠もあり、説得力があった。
なぜパウロがこのように的確で知恵に満ちた対応が出来たのか。
それは主が約束された通り、聖霊に満たされ知恵が与えられたからである。
「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」(ルカ21:12-15)
祭司長や長老達は、パウロ一人を巡って千人隊長や総督、その他多くのユダヤ人やローマ人を振り回したが、そのどさくさにキリストを証する機会が多く与えられ、多くの人々が福音を聞いた。
結局、最後に勝利してほくそえむ者とは、雄弁な弁護士を雇って訴える者ではなく、大声でわめいて衣服や塵を空中に撒き散らす者でもなく、憎む者を陥れたり目的を達成する為に恥も外聞も捨てられる者でもない。
勝利する者とは、イエスを主とする者である。
そして結局は何事も、主の一人勝ちになるのだ。
詳細は音声メッセージで。。。
今日も皆さんが主イエスキリストにあって健やかでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:栄光を捧げるべき主・十字架のイエス(ルカ23:33-43)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
「されこうべと呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」(ルカ23:33)
我々人間は、老いも若きも、金持ちも貧乏人も、主人も奴隷も、されこうべ、即ち死へと皆向かっている。
そして我々人間は皆、神の御前で犯罪人であり、イエス様の右か左か、どちらかに行くことになっている。
十字架は人を、右と左、すなわち永遠の救いと滅びのどちらかへと切り分ける。その分かれ道は何だろう。
指導者達も、兵士達も、受刑者の一人も、共通してイエス様に「自分自身を救え」と言っている。
しかしイエス様は自分を”救えなかった”のではない。圧倒的な天の兵力を動因する権力も、自身を奇跡的に救う力もあったのに”敢えて自分を救わなかった”のが正しい言い方である。
もしイエス様が圧倒的力によって自分を苦しめる者を滅ぼしたりしていたら、救いは「圧倒的力」による事になってしまい、そして神の王国は、圧制によって支配する恐怖政治の極みとなってしまっていただろう。
そして何より、もしイエス様が十字架から降りて自分を救ったなら、人類に救いは無かったのだ。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」
その時その場所で無事だったから分からないが、主のこの言葉によって、知らずにのんきに罵詈雑言を丸投げしている彼ら(我々)は執り成され、義なる神からの聖なる炎によって滅ぼされずに済んだのである。
人は思う。自分を救ってくれるのが神だ、願いを叶えてくれたら神だと認めてやるよ、と。
自分の願いを叶えてくれるのが神、自分を救うのがメシヤだと、人は当たり前のように思い込んでいるが、「主」は自分ではなくイエスとすべきであり、自分の願いではなく、神の願いの方を救うべきである。
自分を滅びから救ってくれた方を嘲り、罵り、どんちゃんさわぎする所に、滅びに向かう人の愚かさがある。
イスラエルの民は、神は牛のように俺達の役に立ってほしいと鋳型に自分の願いを嵌め金の子牛を造った。
滅びに向かう者の特徴とは、自分が正しい、イエス様が間違っている、とする事である。
それに対し、救いに向かう者の特徴は、自分が間違っている、イエス様が正しい、とする者である。
その日、唯一パラダイスに行った者を詳しく見たい。
「我々は自分のやった事の報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪い事をしていない。」
彼は、自分が今受けている苦しみは自分の罪の当然の報いであり、イエス様は悪い事は何もしなかった、と告白した。これが、イエス様と共にパラダイスに行く者の特徴である。
「御国の位におつきになる時には、思い出してください」(40節)
彼もイエス様も死刑の真っ最中で、あと数時間で死ぬはずである。なのに、なんと、その先の話をしている。
しかもなんと、十字架刑という最高の苦しみと恥辱の死の向こう側に、「御国」があると告白している。
彼はイエス様を、生死を越えた王であると認め、十字架の向こう側には栄光の御国があると告白し、「私の事を思い出してください」と言ってイエス様に個人的に関わって欲しい事を申し出た。
これもイエス様と共にパラダイスに行く者の特徴である。
この告白をした者は強盗で、死刑判決を受ける程の悪人である。
教会に行ったことも無ければ、良い事をした事もあまり無く、生涯の最後の最後、死刑執行の真っ最中に告白しただけで、パラダイスに行けると約束された。
どんな生き方をして来たのか、どんな状況にあるかは全く関係無い。
パラダイスに行く者とは、自分は罪人であり、キリストが義人であると認め、キリストこそ生死を越えた王であると認め、十字架の向こう側には、栄光の御国があると告白し、主と個人的に関わって欲しいと進み出る者である。
そのように主に告白して、その日をパラダイスとする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
かつてオカルトの儀式に関わっていた方ですが、先週と比べると見違えました。
先週は、不安に満たされていて何時間話しても「怖い」しか出て来なくて普通の会話が出来ませんでしたが、段々自信と平安が支配するようになってきて、今週は普通の会話も楽しめるようになりました。
良い方向に変わる人とは、御言葉を聞く人、理解した御言葉を曲がりなりにも行おうと努力する人です。
そういう人ならどんな状況にあっても必ず良くなって行きますが、耳も心も頑なな人は、どんな大声で戒めても悪いまま何年も変わりません。