メッセージ - 201109のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:いのちへと至る道(ローマ7:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有
人は、禁じられたら逆にそれをやりたくなってしまう、という習性がある。
ある子供は「コンセントにハサミを入れたらダメ」と言われ、その言葉にきっかけを得、コンセントにハサミを入れたいという欲望が生じ、結果、実際に入れてしまった。
「罪は誡めによってきっかけを得て、私のうちにすべての欲望を生じさせたのである。なぜならば、律法がなければ罪は死んでいるからである。」(8節)
私達には、ダメと言われたら逆にやりたくなる衝動に駆られる性質が、エバの時からあるのだ。
律法は私達を拘束し、キリストが解放させて下さったものであるなら、律法は罪であると言うのだろうか?(6,7節)
そうではなく、聖いものであり、善いものである。(12節)
律法は神によって与えられ、それを守ればあなたがたは生きる、と言われた。
それなのに、「生命へと至る〔はずの〕誡めそのものが、死へと至る誠めであることを、私は見いだしたのである。」(10節)
律法は全て守りきれるものではないため、私たちには死以外には無い事しか見出せないのである。
律法そのものはいのちを与えない。それなら律法とは一体何か?
律法とは、約束が与えられる子孫が来るまで、私達に違反がある事を示すために付け加えられたものであり(ガラテヤ3:19)、いのちを与える事の出来るものではない。(同21節)
律法とは、キリストへと導くための養育係であり(同24節)、キリストへと導くからこそ、律法は命へと至る道なのである。
イエス様もユダヤ人に言っている。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5:39)
つまり、いのちへと至る道は、?律法によって人に罪がある事が示され、?自分には救いが必要であると渇望が生じ、?キリストの救いへと導かれる、というステップがある事を見出す。
人は嘘をつかざるをえない → 嘘をついてはならないと書いてある → だから救いが必要だ、これが正しいステップのはずだが、
人は嘘をつかざるをえない → 嘘をついてはならないと書いてある → しかしそれは不可能だから、嘘も方便、善い嘘もある、
といった、人間の勝手な解釈や教えを混ぜ込む事によって、救いからはあさっての方向へと逸れてしまう。
「この御言葉はこう言っているけれど、実はこれこれの解釈があるのだ」などと言って人間的な解釈を加える者は、的を外した歩みによって、どんどん救いから遠のいてしまうのだ。
御言葉はそのままが一番、混ぜ物せずにそのままいただき、日々イエス様に救いをいただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:古きは死の向こう側へ(ローマ7:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有
ローマ7章をよく読むと、1-3節と4-6節とでは、「夫」「死んだ対象」がそれぞれ違う事が分かる。
まず1-3節に出てくる夫とは、前章の関連からすると「古き人間(ローマ6:6)」であり、この「夫」がキリストと共に十字架につけられて死んだため、私たちはその古き連れ合い(夫)から解放されている。
そして4-6章では、今度は死んだのは「私たち」となり、私たちはキリストの体を通じ、過酷な要求ばかりする夫(律法)に対して死別させられている。(ローマ7:4-6)
ローマ7章後半で学ぶが、「古き人間」と「私」とは、別物である事に注意する必要がある。
私達は2重の意味で死に明け渡されており、私たちを良くない行いばかりに仕向けてきた古き連れ添い(古き人間)は死んだため私たちは解放され、また、私たちに過酷な要求ばかりして縛ってきた夫(律法)に対しても、死別させられたのだ。
「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラテヤャ6:14,15)
古い自分も、世も、律法も、呪いも、私たちにとっては十字架の死に明け渡され、十字架の向こう側へと、逝ってしまっているのである。
そして十字架のこちら側、私たちの側にはイエスがおられ、愛によって結ばれ、共に新しい創造として歩んで行けるのである。
私たちが既に新しい創造であるなら、それらしく歩む続けるべきである。
教会の数名が、協力して新しく焼き鳥屋をはじめようとしています。
野心的な理由は全く無く、本当はもっと別に打ち込みたい働きがあるのですが、色々と止むを得ない事情が重なって、そうせざるを得ない所に辿りついた感じです。
その集まりにはわくわくする心と希望があり、これから主がどう導いてくださるのか楽しみです。