メッセージ - 201110のエントリ

命じられた通りに(ヨシュア6章)
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週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

主の軍の将から伝授された攻略方法は、この位置に弓隊を、そこに伏兵を配置しなさい、などではない。
戦士達は皆、町の周りを1度回り、六日同じ事をせよ、そして7人の祭司が7つの雄羊の角笛を持って契約の箱の前を行き、7日目には7度町を回り、角笛を吹き鳴らしなさい、という事だった。(ヨシュア6:2-5)
この情景を想像するなら、非情に奇妙な光景である。
イスラエルの軍勢がわざわざエリコに来たのは、黙って行進をする為ではなかったはずだし、エリコの兵士達も、戦いを想定したために城門を堅く閉ざしているはずである。
それなのに、イスラエルが最初に町を囲んでした事といえば、単に城の周りを黙々と行進し、特別な服を着た祭司達が契約の箱を持って角笛を吹き鳴らしているだけである。

神様の祝福の約束は、はたして本当に成るのか、と、不安になるかもしれない。
しかし、御言葉として言われた事は、頭では理解できなくとも、その通りに為すべきである。
モーセがいなくなった時民は40日待つべきだったし、サウルもサムエルが戻ってくるまで待つべきだった。
主が命じられた事が、たとえ理解できなくても、黙ってその通り行った結果、らい病人は癒され、見えない者の目は開かれ、カナの婚礼の僕たちが汲んだ水は、ぶどう酒へと変えられたのだ。

ヨシュアは民に、定められた時までは言葉を発してはならない、と命じた。(ヨシュア6:10)
民に黙っているように命じたのは、唇で罪を犯させないためであり、誰かが「こんな事何の意味があるのか」と、いらぬ呟きを始めると、それが伝染してゆき、荒野で滅んだ民と同じ道を辿ってしまうからだ。
もし、神様の命じられる事を、人の常識に照らすなら、あれこれとつぶやきたいかもしない。
しかし私達は、「口の結ぶ実によって腹を満たし、その唇による収穫に満たされる」(箴言18:20)とある通り、そういう思いがあったとしても、唇という境界線を越えず、淡々と命じられた通り行う事は、大事である。

雄羊の角笛とは、神の小羊キリストの栄光を賛美する道具であり、また、警告を与える道具である。
もし私達が、神のみわざを行いたいのであれば、また、神の祝福に入りたいのであれば、まず、私達の唇は閉じ、自分の思いは脇に置き、神様が命じられた賛美と警告だけを、発し続けるのみである。
それも、1日だけでなく2日、3日も同じように、そして、定められた時までそれを実行するのである。
人々の目から見れば、こんな事でいいのだろうか、もう何も起きず5日経った、6日も経ったじゃないか、と、言いたくなるかもしれないし、敵も、なんだ、あいつらはただラッパを吹いて行進するだけで、何もしないじゃないか、と、侮るかもしれない。

勝利を目前としている時、神様から命じられたけれどもその意味が分からず、先行きの見えない現実と、している事の意味を見出せない淡々さが、嫌になるかもしれないが、神様が命じられた事は、「6日間それをせよ、そして7日目には7度それをし、祭司達は角笛を吹き鳴らせ」であって、それ以上でも以下でもない。
は命じられた通り、7日目だけは7度回った。すなわち、最後の日には、賛美と警告を、7度、行った。
この時、エリコの住人が代々建て、頼りとして来た城壁は、あっさり崩れ、町はあっさり陥落した。
皆さんの目の前に、城壁は立っているだろうか?信仰を持って従い通すなら、その城壁は崩れ落ちるのだ。

世の終りの時にも、ヨシュア記6章に似た事が起こる。
7人の御使いが7つのラッパを吹き鳴らす度に災いが降り、第7の御使いがラッパを吹き鳴らす時、人々が代々築き上げてきた全ての営みも、世の国々全ても、私達の主・キリストのものとなるのだ。(黙示11:15)
この終わりの時代、警告のラッパが吹き鳴らされる頻度が、特に頻繁になって来ている。
私達の口には、主に対するつぶやきは登らせず、信仰をもって御言葉の通り淡々と為し、世に対しては賛美と警告を発し続け、大いなる勝利と分捕りをする、そのような皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神に御栄え(ローマ16:21-27):右クリックで保存
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いよいよ今回でローマ人への手紙は終りだが、手紙を閉じようとして、パウロは何度か祝祷をしている。
実は24節として、もう一つの祝祷を挿入する異本もある。
聖徒を祝福する事は何度しても、いや、やればやるほど、祝福されるものである。

パウロは今度は、彼の周りにいる人たちから、ローマの人たちによろしく、と言っている。(21-23節)
彼の周りにはテモテを筆頭に、コリントの監査役エラスト、パウロが宿泊していた家主のガイオのほか、色々な地方の出身者がいた。
その事から、パウロがコリントで手紙を書いた時点で、彼は色々な国のメンバーから成る宣教チームと共にいた事が分かる。
パウロは宣教を一人でしていたのではなく、色々な賜物を持ったメンバーと共に行っていたのだ。

さて、25から27節で一つの長い祝祷となっている。
パウロは10,11章において、イスラエルの選びと異邦人の救いのご計画を説明し、その最後に
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(ローマ11:33)
と言って、神のその遠大なご計画を称えた。
それと同じように、この手紙の最後も、神の深遠な知恵と力を称えつつ、手紙を閉じている。

パウロは、聖徒達を何度も祝福し、「よろしく」を交換し、最後の最後に神に栄光を捧げた。
彼のように、聖徒達を祝福し、聖徒達と「よろしく」を交換し、そして神に栄光を捧げる皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:分裂や躓きに気をつけなさい(ローマ16:17-20):右クリックで保存
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パウロが兄弟姉妹一人一人に「よろしく」と挨拶した後、さらに加えて書き残したかった事、それは。
分裂や躓きを引き起こす者に、気をつけなさい、という事である。(17節)

「テトス3:10 分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。」
この「分裂を引き起こす人」は別訳では異端の事で、自分で何か悟ったかのような事を、キリストの福音に付け加える者である。
「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。」(18節)

初代教会においては、元々ユダヤ教を信じていた人達が、あたかも、キリストを信じる信仰によるだけでは救いに至らないかのように、律法的な行いまでも促す者達がおり、特に、ガラテヤの教会の人たちは、そのえじきになっていた。
パウロがそのように促す者は「呪われよ」と2度も宣言した(ガラテヤ1:6-9)。
それは、イエス様が命懸けで開いて下さった信仰による救いの道を、たかだか、自分のケチな自己顕示欲を満たすだけの為だけに、純粋な福音に身勝手な教えを付け加え、そして人々に躓きを与え福音から遠ざけてしまう者を、パウロは非情に嫌悪していたからだ。

教会内の交わり内に偽りの教えを吹き込む者がいる場合、相手が聖徒だと思って警戒心を解く為、御言葉の知識が無いと鵜呑みにしてしまい、えじきになりやすい。
だから「善にさとく、悪には疎くあることを望みます。」(19節)と言って、教会に忍び込んでいる異端に、気をつけるように促している。
私達は日々、御言葉をたくわえ、何が福音に従順し、何が福音と違うのか、知識を身につけるべきである。

偽兄弟達に対する対処は、戦って論破しなさい、ではなく、その人たちから遠ざかりなさい、である。(17節後半)
戦って下さるのは平和の主であり、しかも、主は私達の足を悪を砕く鉄槌として用いて下さる。
「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。」(20節)
主は、誰が主に敵対する者で、誰が主に愛される者か、後に明確にして下さるのである。

偽りが多くはびこっている中、御言葉の知恵に満たされ、聖徒の交わりがますます純粋で、平和に満ちたものとなりますように。
イエス様の名前によって祝福します!

今日も静岡から姉妹が来て、洗礼準備会の第2回を行いました。

3時間ほどかけて第2回を終えたのですが、せっかく来たのだから、と、時間の許す限り3回目の途中まで学び、そうこうしていたら日も暮れてしまいました。

今日は焼き鳥屋で排水溝が詰まってしまい、詰まりを取ろうと作業している内に右の薬指、小指を切ってしまいました。

長い棒で掻くだけでは取れなかったのですけれど、何か針状のもので引っ掛ければ取れるのではないかとひらめき、釣りのルアーを垂らして引っぱり上げたところ、実にあっさり取れました。

しかし、釣り上げた時、針が左手の人差し指にも引っかかり、そこもケガしてしまいました。

そればかりでなく、その後コーヒーを飲むときにこぼしてしまい、左中指も今ヒリヒリしています。

これだけ私の指に執拗な攻撃があるという事は、敵は、この指をよほど妬んでいるのでしょう。

実は明日、23日の賛美集会のリハーサルのために新潟へ行き、ピアノを弾きますので、そのためだと思います。

でも、この程度の傷でピアノが弾けなくなるわけではありませんので、さらなる祝福を期待しつつ明日に望みたいと思います。

昨日、ある事業をしている兄弟が、仕事が終わった後、ある売り上げの初物の十分の一を捧げに、わざわざ教会に来られました。

本人がまず感謝の祈りをささげた時、この事業はイエス様のものです、と告白していたので、私は二つの御言葉が与えられました。

(箴言3:9,10)「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。」

(詩篇91:9-16)「あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。
主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
・・・
彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。
生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」

この御言葉で祈って昨日は終わったのですが、今日の午後、彼が教会に「さっそく祝福されました!」と言って十分の一を携えて、捧げてくださいました。

私達は喜びに溢れて、主が生きて働かれるお方であり、御言葉の法則どおり行えばそのように祝福されるのだと感謝の祈りを捧げ、ますます祝福されるよう、お祈りしました。

それから焼き鳥屋へ物を届けに行った時、そこに集っていた聖徒達にも、この喜びの分かち合いをしたところ、みんな諸手を挙げてハレルヤ!と主を喜び称えていました。

それでさっき、なんと彼がまた訪ねて来て、「またまた祝福されました!」と言って、またしても十分の一を携え来て捧げて下さいました!

もう笑うしかありません。神様が私達の想定を超えて法則どおり祝福を惜しみなく与えて下さったのですから。

彼は、楽しくて仕方ありませんと、主にある事の喜びを実体験して、ますます主に繋がって行きたいと、目を輝かせていました。

こういう事があるから、主に繋がっている事は、止められませんね。

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。
わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3:10)

皆さんも是非、十分の一で主をためしてみては?

礼拝説教メッセージ音声:よろしく(ローマ16:1-16):右クリックで保存
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ロマ書15章の終わりは、一旦手紙を閉じたかのような文面だが、まだ伝えたい事が湧きあがったため、彼はさらに文を付け足し、16章へと続けている。
私達も、親しい兄弟姉妹との交わりで、別れの時間が来た時、一旦さよならと言っても、まだ伝え切れていない想いに引き止められて、結局、さよならを幾度か言うという事は、良くある。
パウロはこの章まで、罪に打ち勝つ方法や、信仰的な勧めについて等、学問的な事は十分伝えたものの、ローマにいる一人ひとりの愛する兄弟姉妹を思い浮かべると、「よろしく」を書き残さずには、おれなかったのだ。

今回の箇所には色々な人の名前が出て来るが、パウロにとって、一人一人が大切な兄弟姉妹だった。
その中には実に色々の国、色々な立場の人がいる。
彼はなぜ、実に多くの立場の、色々な国の人たちと、こんなに知り合いなのだろう。
キリスト者の交友関係を、世の中の人が見れば、どうしてそんなに、年齢層や立場、国が違う仲間がたくさんいるのか、と、不思議に見える。
それは彼らは立場は違えど皆、主イエスにあって一つであり、「主に在って愛する人たち」となったからである。

まず書き始めは、女性執事であるフィベを推薦する言葉からである。(1節)
彼女がパウロから託されたこの書簡を持って、ローマの聖徒達へ届けた。
パウロ自身、ローマに行った事は無かったが、彼女も主にあって多くの兄弟姉妹を助けた人だから、どうか大切にしてあげて下さい、という心遣いをもって紹介している。

また、3-5節はプリスカとアクラ夫婦への挨拶である。
彼らは命の危険を冒してまでパウロをかくまい、いのちを守った。
また、パウロだけでなく、異邦人の色々な教会の人たちがこの夫婦に感謝している。それは、彼らは色々な地方に行くたびに、自分の家を解放して家の教会としたからだ。
彼らは主に在って与えられている立場を最大限に用い、神と人から感謝されるようになったのである。

5節に出てくるエパネトは、パウロがアジアで福音を伝えて、最初に信じた人である。
ある地方に教会を開拓して、最初に信じた地元の人というのは、特別な思いいれがあるものだ。

また、「主にあって労苦した」と6節、12節に書いているが、兄弟姉妹を愛するが故に、苦心して身をささげる兄弟姉妹は、昔も今も存在する。
人のために身を粉にして、そこまで捧げるより、もっと自分を大切にしてください、と言いたい兄弟姉妹は、いつでも、どの国でもいるが、彼らは、主にあって兄弟姉妹を愛するが故にそうしているのである。
パウロはそういう人にも尊敬を込めて、よろしくと言っている。

他にも、多くの兄弟姉妹が名前を連ねている。
彼らがどういう人物であるのか分からないが、彼らが私達と同じ、キリストイエスにあって「聖徒」であったと分かる。
彼らも私達も、キリストイエスにあって「聖徒」であり、ひとつであり、パウロは二千年後の世界を生きる私達一人一人に対しても、よろしくと言っているのである。
そして、私達自身も、自分の知っている大切なキリスト者たちを、よろしくと言って紹介すべきである。

皆さんは、目の前にいる兄弟姉妹を、喜びと愛、尊敬を持って、他の教会の聖徒達によろしくと推薦できるだろうか。
目の前の兄弟姉妹は、色々と良くない所も見えてしまうかもしれないが、でも、この人は私のために労苦してくれた、助けてくれた、伝道した最初の人だ、など、色々な思い入れがあるはずだ。
主にあって、ますます互いに愛し合い、仕えあう皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:パウロからの祈り要請(ローマ15:30-33):右クリックで保存
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パウロが大きな働きをする事が出来たのは、彼自身の賜物に拠る所もあるが、多くの聖徒達の祈りに支えられてきた所が大きい。

「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」(ローマ15:30)
ここの「熱心に」とは、奮闘し相撲を取るという意味も含まれており、ヤコブが主の使いと相撲を取って祝福を勝ち取ったように(創世記32:23-33)、私達も時には格闘するように祈る必要がある。
祈りをする時は、箇条書きの祈祷課題をダラダラと読み上げるがごとく祈るよりは、御霊の助けを頂き、時には格闘するかのごとく祈るほうが、よほど有益である。

パウロが「私の為に祈ってください」と要請しているように、私達も働き人のために、あるいは、働き人が起こされるよう祈るべきである。
彼は、エペソ人への手紙を書く際、牢に入れられていたのだが、速やかに牢獄から解放されるように、ではなく、大胆に御言葉を語れるように祈ってください、と要請している事は、注目に値する。(エペソ6:18-20)
現代日本では、福音の為に牢に繋がれる事は無いが、この国は、多くの宣教師達が長年に渡って何人も使わされているのに、なぜか福音が広まらない。
私達は先に救われた者として、特に働き人が起こされ、その働き人達が大胆に御言葉を語れるよう、祈るべきである。

パウロのもう一つの祈り課題は、「私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。」(31節)である。
御言葉にあからさまに反対する者もいるが、反対せずとも、聖徒達の中に入り込み、いらぬおしゃべりをして聖徒同士を敵対させる者も、中にはいる。
パウロは時には具体的な名前も出して、そういう人達には気をつけなさい、と警告し(2テモテ2:14-18)、そのような者達から聖徒達や働き人達が守られるようにも、祈りの要請をしてる、

パウロyローマの聖徒達が祈った祈りは、全て叶えられ、パウロは後の日にローマへ到着した。
しかし、何事も無くとんとん拍子に、とは決して言いがたい過程があった。
殺意に満ちた暴徒達に囲まれ、今にも殺されそうになった事が何度もあったし、難船して何日も漂流した事もあったし、石打にもあった。
祈りが成就するまでは、あたかも祈りが聞かれていないかのように、次から次へと災いが襲うような事もあるが、祈りはしっかり天に届いており、神様の最善が為される形で、祈りは成就するのである。

もしパウロがあのような苦難に遭わず、とんとん拍子にことが運んでいたなら、新約聖書の大半は無かった事であろう。
人の目には、パウロは苦しみの人かもしれないが、御国の視点から見れば、とてつもない遺産が彼を通して生まれたわけである。

パウロがローマに入る暁には、60kmも向こうから出迎えてきた。(使徒28:14)
彼らがやっと会えた時、どれほどの感謝と喜びが沸き起こった事だろう。
苦難に遭って涙を流すような時もあるかもしれないが、その期間は天の御国に真珠をつんでいるような期間である。

忍耐を尽くして祈り、御霊の愛に満たされ、主イエスキリストにあって力強くされつつ、神に導かれて行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

今日は、焼き鳥屋の販売用テーブルを作りました。

当初は、折りたたみ机を設置しようと予定していたのですがそれはサイズが大きすぎ、教会に余っている机を持って行っても、それも不安定で、どうしようか迷っていました。

そこでリサイクルショップに行って手頃そうな2段式の棚を買い、さらに焼き鳥店に余っていた化粧版を加工して、折りたたみ式のテーブルを作りました。

のこぎりやハンマーを使って木材を加工したり、蝶番を取り付けたりするのは、久しぶりでした。

この化粧版は、ちょうど新装開店時から場所を占めるだけで何の用途も無かったのが、今こうしてちゃんと役に立って、とても嬉しいです。

そういうわけで、今日から店頭でキムチを販売するようになりました。

横浜に来た際には、ぜひ教会にも焼き鳥屋にもお立ち寄り下さい。

礼拝説教メッセージ音声:ミニストリーへの情熱(ローマ15:22-29):右クリックで保存
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パウロはローマの聖徒達宛てに、実に親密で、重要な手紙を書いているが、驚く事に、彼らはお互い一度も会った事が無いのだ。
パウロは、ローマのキリスト者達の様子を聞くに及んで、彼らに会いたくて仕方なく、このような手紙を書いたのだ。
彼はなぜローマにずっと行けないでいたのか、その理由が20節に記されている。
「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。」
つまり彼は、キリストが知られていない地に行き、キリストを伝える働きに明け暮れていたため、そういった交わりだけをしに行く旅行は、二の次になっていたわけである。

パウロにとっての最優先は、福音が伝えられていないところに伝えに行く事だった。
彼が23節で「今は、もうこの地方に働く場所がない」と言っているのは、その地方(マケドニヤ)にはもう教会が建ったためで、そして彼は次の目標を、世界の西の果てと当時言われていたイスパニアに定めた。
そのイスパニアに行く途中にローマがあるので、その時に立ち寄りたい、と書いたわけである。

しかし、その前にパウロにはやる事が残っていた。
まず、エルサレムへ、ある届け物をしなくてはならない。
「それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。」(ローマ15:26)
マケドニアの人達は、極度に貧しかったにもかかわらず、エルサレムの貧しい聖徒達のために集めたお金をエルサレムに届けよう、という心が、喜びと共に沸き起こったのである。(2コリント8:1-4)
ローマ15:26の「醵金」も、2コリント8:4の「交わり」も、原語では同じ「コイノニア」である。
コイノニア、すなわち「交わり」とは、気の合った者同士が単に親密に会話するだけではなく、必要があれば物質的・金銭的な物も分け合う、という意味も込められているのだ。

パウロはこの時点、この事を済ませてからローマを経由してイスパニアへ行きたいと思っていた。
しかし彼は確かにエルサレムへ行くが、そこで逮捕され、カイサリヤで2年拘束され、カエサルの法廷に立つためにローマまで護送される、という事になってしまった。
人は色々な計画を立てるが、主の御心だけが成り、そして主のなさる事だけが最善なのである。

逮捕されたり牢屋に入れられたりするのは、人にはあまり喜ばしくない事だが、そのお陰でローマ帝国の多くの高官や、異邦人達にも福音が増え広がり、神の国は増大した。
パウロは逆に、その事を喜んだのである。

パウロのように、神の国の働きに対する情熱がさらに与えられる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

「主の抜き身の剣(ヨシュア5:13-15)」
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ヨシュア達には、これから勝利と大きな祝福が約束されているけれども、今、彼らの目の前にそびえ立っているのは、どう攻略して良いか見当もつかない城壁と、硬く閉ざされた城門である。
ヨシュアはそれに向かい、どのようにすれば良いか、まだ何の考えもなかった時、ふと目を上げて見ると、前方に、抜き身の剣を手にした一人の男が、こちらに向かって立っていた。
ヨシュアは問いかけた。「あなたは味方か、それとも敵か?」。すると彼は答えた。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」
ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと、主の軍の将軍は応えた。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」

巨大な壁と相対する時、その壁をどうにかする事に頭がいっぱいとなり、何者も「自分の味方か、それとも敵か」に選別し、等級づけし、主の軍の将さえ自分の損得の秤にかけてしまう事もある。
しかし、主は人の自分主体の質問には「いや」と応える。そして、ご自分の聖なる立場をお示しになる。
それが示された時、ヨシュアは、実に正しい態度を取った。
まず地にひれ伏して拝し、「わが主は」「この僕に」と言って主従関係を明確にし、「何をお言いつけになるのですか」と言って、自分はただ主の前に聞く立場、命じられる立場である事を告白した。

すると主の軍の将は、「あなたの足から履物を脱げ。」と命じる。
私達は世の様々なほこりや汚れを踏んで来たため、私達の履物には、そうした穢れがついている。
自分にとって敵か味方かという概念を捨て、主をただ聖なるお方として拝し、そして、世のしがらみや汚れという履物を脱ぎ捨て、世から受けた穢れを主の御前に持ち込まないなら、主は私達を聖なる所へと誘い、置かれている祝福を勝ち取る方法を、そして、立ちはだかっている城壁を攻略する方法を、教えてくださるのである。「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。」(詩篇73:17)

みことばの剣は、世と神の国の間を切り分け、死と命の間を切り分け、肉と霊、たましいと霊を切り分ける。
主の軍の将から授けられた軍事作戦は、およそ世の将校が考え出すものとはかけ離れ、軍事作戦と言うにはあまりにナンセンスな内容だった。(ヨシュア6:1-5)
しかし、だからこそ人間的な力(肉)に頼るか、それとも御言葉に頼るかが試されているのである。
そしてヨシュア達は、御言葉の通り忠実に実行し、大勝利を収めた。
主の剣は、バプテスマを経て主の死に継ぎ合わされた人達にとっては、勝利の剣であり、御言葉に従う事はすなわち勝利の法則に従う事である。

しかし、主を軽んじ、自分の肉欲や目に見える所を頼みとする者には、災いの剣となる。
かつて、ベオルの子バラムは、イスラエルを呪うよう雇われた時、主の御心は「行ってはならない」だったのに、それでも不義の報酬を愛し、行こうとしたところ、御使いが抜き身の剣を持って彼を殺そうと待ち構えた。
しかし、ろばが人間の声でものを言い、彼の気違いざたをはばんだ。(2ペテロ2:15-16、民数記22章)
また、ダビデが王国の人口や兵力を知りたいと思った時、ヨアブが「なぜイスラエルに対し罪過ある者となられるのですか」と言う制止にもかかわらず、強引に数えた所、災いが下され、7万人が疫病に倒れた。
この時も、主の使いが抜き身の剣を持って立ち、エルサレムに剣を差し伸べていた。(1歴代21:16)
このように、主の御声があるにもかかわらず、不義の報酬を愛したり、神様からの祝福を、あたかも我が物のように数えたりすると、主の剣は、災いとなって差し伸べられてしまうのである。
バラムはイスラエルの人々の前につまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた(黙示2:14)結果、剣で倒され(ヨシュア13:22)、ダビデはすぐに悔い改めた結果、御使いが剣を持って立った場所は神殿となった。
今立っている地をわきまえ、自己中心的な判断を捨て、主を聖なるお方とする皆さんでありますように!

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