メッセージ - 201111のエントリ
毎週水曜は、朝、昼、夜と聖書メッセージがあり、午後には学び会があります。
朝は1コリント、昼はヘブル書、学び会はピレモンの手紙を開きましたが、偶然な事に、共通したキーワードがありました。
それは「会計仕分け」という言葉です。
日本語の聖書はその言葉で訳していないのですが、韓国語ではその言葉が使われているのです。
会計の仕分けは、1円の誤差も許されない厳密さがありますが、私達が地上で為した事についての責任の刈り取りは、それだけきっちりと為される、というのです。
それは間違いを犯してしまう人間には厳しすぎる事ですが、感謝な事に、イエス様が全ての借金を払って下さった。
それだから、私達は限りない感謝と主に捧げるのです。
礼拝説教メッセージ音声:夫婦の信仰生活(1コリント7:10-16):右クリックで保存
韓国語通訳有
今日の箇所は、既に結婚した人達への命令と勧めである。
「更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。」(10節)
パウロは結婚という経験が無かったにもかかわらず、夫婦生活や結婚について大胆に命じる事が出来たのは、その命じた内容は御言葉に即した事、主が確かに言われた事だったからである。
キリスト者同士が、兄弟姉妹に勧めたり、命じたりする時、その内容が御言葉通りであるなら、相手がたとい目上であろうと、たとい自分にはその経験がない事柄であろうと、命じる事が出来るのだ。
主はこう言われた。
「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ 19:9)
結婚とは、男と女が、神の御前に一つとなる事で、安易にして良いものではなく、神が既に一つとしたものを、人間が勝手に引き離したりしてはならないものである。
だからパウロは、既に別れてしまったのなら再婚せずにいるか夫のもとに帰りなさい、また、離縁してはいけない、と「命じて」いるわけである。
次に、夫婦の片方が信者で、片方が信じていない場合についてであるが、そのケースは聖書に明示されていないため、パウロも「主ではなくわたしが言うのですが」と前置きし、信仰の先輩として助言している。
伴侶が信者でなく、なおかつ、その人が自分と一緒にいる事に、反対でないならば、離れてはならない、とパウロは勧めた。
自分がクリスチャンである事を、伴侶が承知し反対しないのなら、その人は、キリストに反対しない者、主に味方する者と見る事ができる。(マタイ9:40)
「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。」(14節)
パウロは他の箇所でも「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)と言っているため、どうやら、救われる事・聖とされる事というのは、家族単位であるようだ。
伴侶が何十年目でやっと信仰に入った、というケースは数多くあるため、もし、相手が自分と離れるつもりが無いのであれば、希望を持ちつつ信仰生活を続けるのは、大いに結構である。
しかし、もし相方が、自分の意志で明確にキリストに反し、キリストを信じている自分から、離れていく、というのであれば、離れていくに任せるよう勧めている。
「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。」(16節)
私達に願いとしては、「妻が、あるいは夫が、救われて欲しい」というのがあるかもしれない。
しかし、救われる・救われないというのは、各人の自由意志に委ねられており、それは神であろうとタッチできない領域である。
神様は、私達が信仰よりも結婚という関係が優先させられ、それに縛られる事は望んでおられず、主を中心として、平和に与らせるために、私達を召して下さっているのだ。
だから、もし信者でない妻あるいは夫が、離れていくのであれば、それに任せなさい、とパウロは勧めている。
いずれにせよ、最も優れているのは、夫婦そろってキリストを信じる信仰に至る事である。
結婚されている方は、キリストの平和の内に夫婦生活を送るように、また、結婚されていない方は、キリストを信じる幸いな伴侶を得るように、主に導かれる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:夫婦の営み(1コリント7:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有
第一コリントは、6章までがコリント教会に対する叱責で、7章からは、コリントの人達からパウロに対する質問への回答、という形になる。
今日の箇所は、結婚や独身に関する質問への回答で、未婚の人あるいは何らかの理由で配偶者がいない男女への勧めである。
しかしその中で、3節から5節の間に、もし結婚したなら配偶者に対して果たすべき義務を果たしなさい、という勧めが挿入的に書いてある。
1コリント7章では、一人身だと情欲が燃えて不品行に走りやすい、それを防ぐために結婚しなさい、というような順番で書いているが、結婚はそんなに軽々しいものではなく、偉大な奥義であるとも、パウロは言っている。
結婚とは、単に情欲を満たす相手を得たいから、自分の憧れや願いごとを叶えたいから、といった、自分中心の理由で為すものではない。
結婚は、ひとつ体となる関係であり、しかも、体に関する権利は、相手にあって、自分には無い。
その事を伝えたいから、パウロは3-5節までの事を挿入したのかもしれない。
夫婦であれば、妻として、夫として、果たすべきつとめは、果たさなくてはならない。
「妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。」(4節)
もしあなたが妻なら、その体は夫のものであり、もし夫ならその体は妻のもの、つまり、自分のからだの権利は、自分ではなく配偶者が持っているのだ。
皆さんはこの事を、受け入れられるだろうか。書いてある事は厳しすぎると思うだろうか。
しかし、ここに書いてあるのは御言葉である以上、その通りの心持ちで行なら、その夫婦関係は、実にに祝福されるのだ。
夫と妻は一つ体となっている、と書いてある以上、夫婦という関係は、そういうものなのであり、キリストと教会の関係についても同様である。(エペソ5章)
夫婦の一方が不足を来たらしているのであれば、相方がその不足を満たし、互いに補い合って、完全を目指して互いに建て上げ合って行くものである。
いずれにせよ、結婚生活も含め、全ての営みは、主を中心とするべきで、そして、結婚するよりは、主のために独身を貫く事のほうが、より優れている、とパウロは勧めている。
それは命令ではないが、なぜ独身のほうが優れているかというと、結婚する人たちはその身に苦労を負う事になるからであり(28節)、
結婚するとどのような苦労を負うか、というと、結婚する前は、主に専心して捧げ尽くす事ができても、結婚したら、捧げるべき相手がもう一人増えるからだ。
それまで、主にのみ向いていた心が、伴侶、すなわち”世”にも向いてしまい、心が分裂してしまうのだ。(32-34節)
しかし結婚するからといって悪いわけでもなく、パウロも、その事は命令ではなく、勧めとして書いている。
いずれにしても、最も大切なのは、夫婦関係よりも、主との関係である。
主を中心として、秩序のある生活を送る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
今日もまた主からのプレゼントがありました。
静岡から姉妹が来てくださり、充実した交わりができたばかりでなく、夜の祈祷会にも、新しい方が来られ、とても主に満たされた時を過ごせました。
最近、祈りの内に、主にふられられて子供のように泣いたり、全てを主に明け渡して安らう方が、増えています。
明らかに、主が、何か新しい働きをされているようです。
礼拝説教メッセージ音声:ひとつ(1コリント6:15-20):右クリックで保存
韓国語通訳有
キリスト者である私達は、キリストの体の一部であり(15節)、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり(19節)、代価を払って買い取られた(20節)者達である。
私達はキリストと一つとなっており、遊女と交わる事はすなわち、キリストの体の一部を遊女の体の一部とするという、とんでもない行為である。(15節)
神はどのように、人を男と女とに創られたか。
神は男を深い眠りにつかせ、そのあばら骨取り、これに肉をかぶせ、女を造られた。
そして神が女を男のところに連れて来られ、男がその同じ肉、同じ骨、同じいのちを共有する助け手と出会った時、次のように喜び叫んだ。
「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう、まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」(創世記2:23)
聖書において、「ひとつ」という言葉は、とても重要なキーワードである。
男と女がひとつとなり、いのちを生み出すように、キリストと私達がひとつとなって私達は永遠のいのちを生み、キリストとひとつとなった宣教によって、ますますいのちを生んで増えて、地に満ちて行くのだ。
そしてやがて、キリストと教会が結婚してひとつとなり、永遠を生きるのである。
キリストは教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。
それは、教会をきよめて聖なるものとし、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のない花嫁とするためである。(エペソ5章)
人がキリストを信じ、主とする時、キリストが「主人」すなわち夫となり、その同じ肉、同じ骨、同じいのちとなる。
そうしてキリストの血によって清められ、傷や、しみや、しわ等の無い花嫁とされた私達をキリストが見る時、キリストは、私達を喜び楽しむのである。
「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。」(イザヤ62:5)
「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ3:17)
それほどまでに私達は愛され、私達のからだが尊いものであるなら、どうしてこの体をおろそかにできるだろう。
キリストの体の一部として、聖霊が宿ってくださる神殿として、また、キリストの命の値がつけられた者として、それらしく歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
昨日は危ない状況が助けられ、それを見た全員にとって良い勉強になり、また良い戒めにもなりました。
「これは実戦だ、訓練ではない」という言葉をアクション映画でよく耳にしますが、私は主にあって、毎日「これは実戦であり訓練だ」と思います。
実戦には、いのちの危険と、失敗の許されない厳しさが伴いますが、主はちょうど良い塩梅で、最善に、安全に訓練させてくださっています。
法則に乗る(ヨシュア7章10-13節)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
町は既にイルミネーションが輝き、クリスマス(Christmas=キリストのミサ)の到来を待ち望んでいるが、教会暦では、本日より待降節、すなわち、キリストの誕生を覚える週に入った。
キリストの誕生がなぜ喜ばしいかというと、彼は私達の罪を清め、死からいのちへと救って下さるお方だからだ。しかし、私達の罪が清められ、救いに入るには、このお方こそ救い主であると信じる事が必要で、そうでない人には、彼は喜ばしいお方というより、恐るべきお方、永遠の死とさばきをもたらすお方である。
それは聖書の御言葉に書いてある通りで、御言葉は、世のあらゆる法則以上の法則であり、御言葉を守る者には、必ず祝福が、おろそかにする者には、必ず呪いが、書かれてある通りの事が、必ず起きる。
本日は2週ぶりにヨシュア記に戻り、祝福と呪いの結果は、いかに御言葉の法則通りかを、見ていきたい。
ヨシュア記の戦いは、単に神の民を勝利させて、彼らを気持ち良くさせたり富をもたらす為の戦いではない。
この地方の悪が満ちたため(創15:16)、滅ぼされるべき者を滅ぼすための、神の代理戦争である。
それ故、人間同士が自分の利益を求めて争う世の戦争とは本質的に違い、神の法則に立つ者は、例え滅びの町の娼婦であっても救われ、法則に立たない者は、例え神の民の戦士でも、滅ぼされるのである。
城壁の町エリコに大勝利し、征服できたのは、主が戦って下さったからだが、彼らは早速傲慢になった。
エリコ攻略の前は、人々の口から余計な言葉を発する事を禁じて従順し、御言葉の法則に乗ったが、今回、エリコに比べればアイは取るに足りないから、全力投球する事は無い、2,3千人行けば良いだろう、と言って、約3千人が戦いに行ったが、結果36人が打たれ、イスラエルは敗走してしまった。(ヨシュア7:2-4)
アイの住人は約1万2千人、それに対し自軍の兵は3千人で十分、と言うのだから、イスラエルの中にはよほど傲慢な霊的雰囲気が流れていた事、主に伺い信仰によって前進する事を忘れていた事が分かる。
人はうわべの人数や規模の大小を見るが、主は、小さな事でも忠実に従い通す心を求めておられる。
我々はあれだけの困難に勝った、あんな大きな事をした、と言っておごり、御言葉や、たとえ小さな礼拝さえないがしろにするのなら、主は沈黙し、たとい彼らが、のこのこ負け戦に出て行っても、放っておかれる。
ヨシュアはただ一回の負け戦によって心がしなえてしまったが、主は2回「立ちなさい」と命じた。
主が望んでおられるのは、何十時間もの後悔や祈りなどではなく、立ち上がって、自分の中にある主の忌み嫌われるものを示していただき、しっかりとそれと向き合い、きっちり取り除く事である。
「滅ぼし尽くすべきものを持つ者がこうして、指摘されたなら、その人は財産もろとも火で焼き尽くされねばならない。彼は主の契約を破り、イスラエルにおいては愚かなことをしたからである。」(15節)
人はこれを、厳しいと思う。しかし私達は、自分の中の「滅ぼされるべきもの」、すなわち罪を、それだけ厳しく対処しなくてはならない。厳しく対処しなくてはならない、と言っても、成すべき事はいたってシンプルで、自分の罪を認め、罪から救って下さり最善へと導いて下さるイエス様に、全てを明け渡す事である。
滅びに導いた当事者であるアカンは、罪を示す”くじ”の当選範囲が、自分に向かって段々狭められて来るのが、気が気でなかったろう。しかしそれでも、彼は最後の最後まで名乗り出て悔い改める事をせず(16-18節)、最後にくじが当たって罪が暴かれ、結局彼は持ち物を焼かれ、家族は石打ちにされた。
彼は、主に捧げられるべき金や銀(6:18,19)を、滅ぼすべきシヌアル(バベルの地)の上着と共に、自分の物として天幕に隠し、銀を埋めていた。主に捧げるべきものを自分のものとし、滅ぼすべきものも同じく自分の懐に囲うなら、自分に属する全てが滅ぼされてしまうというのは、象徴的な事である。
御言葉は世のあらゆる法則以上の法則で、それを守る者には、必ず祝福が、おろそかにする者には、必ず呪いが来る以上、私達は、傲慢になったり、不従順にならないよう、気をつけるべきである。
御言葉にしっかり留まり、しっかり従順となって、主の民として多くの勝利と祝福を勝ち取る皆さんでありますように!
アドベント(キリストの降誕を待ち望む期間)が始まり、教会にもクリスマスツリーとリースを飾りました。
23日のキリストの祭り以来、教会でも色々な事が動き始めており、詳しくは書けないのですが、主が色々な仕分けしておられるような感じです。
先週に続き、今日も初めての方が2名来てくださいました。
日々、しっかりとイエス様に、教会に、繋がりますように。
召しだされた聖なる者として(1コリント6:9-14)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 1コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-11-25 23:10
礼拝説教メッセージ音声:召しだされた聖なる者として(1コリント6:9-14):右クリックで保存
韓国語通訳有
主日の収穫感謝祭では、栗がイガの中に入った状態だったが、実はあれは、イガは自然に落ちているものを拾って来て、その中に、店で買った栗をはめ込んで、飾ったものだ。
それはあくまで、飾りのためだったけれど、皆さんがもし偉大な王様に栗を献上する時、イガがついたまま献上して「はいお召し上がり下さい」などと出来るだろうか。
「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」(1コリント6:9-10)
ここにリストされている事は、以前に属するもの、もはや過ぎ去ったもの、捨てられるべきもの、栗のイガに似た「もみがら」の類であり、それをつけたままでは、主の御前に捧げられるものではない。
そのような以前の事どもを引き摺ったまま「神は全てを受け入れてくれるのだから」と悔いて改める事をしないのであれば、主は受け入れて下さらない。
「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」(11節)
私達が留まるべきは、洗われ、聖なる者とされ、義として下さった「主イエス・キリストの名」の内に、である。
そうであるからには、もはやもはや古きに属するイガや渋皮といった「もみがら」と言ったものを、主の御前に、再び身につけるような事は、すべきでない。
『「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。』(12節)
人間には神の似姿として自由意志が与えられており、神であっても、その自由意志を操る事をなさらず、アダムが罪に陥る選択をした時でさえ、強制力を持って人を支配なさる事をしなかった。
キリスト者とは確かに自由とされた者である。
しかし、すべてのことが益になるわけではない。
盗みをすれば、それなりの報いを刈り取るし、姦淫を犯しても、それなりの報いを刈り取る。
キリスト者とは、11節にあるとおり、主イエス・キリストの名と神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされた者達である。
だからキリスト者は、聖なる者として召しだされた以上、それに相応しく歩むべきであり、聖なる品位を保つべく努力をしなくてはならない。
競技をする者は、自らを節制する。
夜食をがつがつ食べる自由は、確かに競技者にもあるかもしれないが、そんな不摂生ばかりして太った者が、競技に勝てる訳はない。
同様に、御言葉で勧められている事を無視して、「これが私のスタイルなの!」と自分流を主張しているような者は、勝てるわけが無いのだ。
聖なる競技に立つ私達は、全ての事に節制し、何が最善であるのかをわきまえ、選択して行動しなくてはならない。
主は、私達に自由を得させるために、まさしく命を捨ててまで、私達を愛され、解放させて下さった。(ガラテヤ5:1)
だから、古き肉に属する者戻って再び奴隷のくびきが負わされる事が無いように、そして、聖なる者として召し出された者らしく歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
本日、ある方々とお話しました。
キリスト者が「主イエスの名によって命じる」という事について、私は、どんどん為すべきだという立場でしたが、彼らは、そのような事はすべきでない、という立場でした。
ちなみに、キリスト者はどんどん主イエスの名によって命じるべきだと私が解釈している根拠の御言葉は、以下のURLにてメッセージしました通りです。
http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=552
この事について、きっと色々な解釈はある事でしょう。
キリスト者が、どの御言葉をどう解釈するかについてはバラエティがありますが、主は、それぞれ違う環境、違う場所、違う時代に生きるキリスト者に対し、それぞれにしか出来ない働きを、託して下さったからだ、と、私は思います。