メッセージ - 201111のエントリ
溢れるほど愛するから、叱る(1コリント4:14-21)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 1コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-11-16 22:48
礼拝説教メッセージ音声:溢れるほど愛するから、叱る(1コリント4:14-21):右クリックで保存
韓国語通訳有
私達はできれば手厳しい事は言われたくないし、また、できれば人に厳しい事は、言いたくないものである。
パウロがコリント人達を手厳しく戒めたのは、コリントの人達を霊的な子として愛しており、良くなってほしかったからである。
「あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。」(2コリント2:3)
私達も親から叱責を受けた経験があるが、親がそうするのは、子が、幸せになるような、たしなみを身に着けて欲しいからだ。
パウロも好き好んであのような手紙を書いたわけではなく、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書いたのであり、その動機は溢れる愛から出たものだった。
「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」(2コリ2:4)
厳しい事を言ってくれる人は少ないものだが、その人の動機が愛から出て、苦しみとうめきを持ちつつしてくれるなら、その人の言葉は宝である。
「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」(16節)
パウロは、コリントの人達にとって、これ以上無いと言うくらいの優れたお手本だったが、私達は、誰にも彼にも従って良いという訳ではない。
その人に従って良いかどうかの判断基準は、まず、その人がキリスト・イエスに忠実に習う者であるかどうかだ。
また、その人の行いの実が良いか悪いかも、判断基準になる。
もしその人の生活がだらしくなく、どんどん貧しく病んでいるような人であれば、例えどんなに優れた事を言っているようであっても、その人はスルーしたほうが良い。
しかしもし、その人が霊性においても人望においても物質的においても優れた実を結び続けているのなら、そのような人をお手本とするのは、間違い無い。
パウロは実に父のような愛をもって真摯に、そして御言葉に基づき的確にアドバイスした。
私達もそのように成長したいものであるし、また、霊的な父母に教え諭された時は、謙虚な心で聞き従いたいものである。
教会の交わりにおいて、主にあってますます教え、戒め、愛し合う皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
今日は、最近毎日のように仕事の報告と祈りをささげに主の御前に来られる兄弟が、仕事で担当する物件に赴き、そこで交わり、御言葉を宣言し、祈るときを持ちました。
その後、先々週から礼拝に来るようになったあるカップルと交わり、主が触れて下さっているのを見ました。
自分を降ろし、主からいただいた御言葉を素直に受け入れ、実践していくと、主が確かに生きて働かれておられる事を示してくださり、そうしてますます自分ではなく主に期待していく。
そういう方は、どんどん成長し多くの実を結んでいきますが、御言葉よりも自分の価値観をいつまでも優先させている方は、何年経っても同じ過ちを繰り返しています。
競技場の場内に入って信仰の競争に参加するのか、それとも観客席に留まって信仰者達の競争をただ見物しているのか、今日はそれを省みる日でした。
あなたは競技者?それとも観客?(1コリント4:6-13)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 1コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-11-15 19:23
礼拝説教メッセージ音声:あなたは競技者?それとも観客?(1コリント4:6-13):右クリックで保存
韓国語通訳有
パウロは諸々の苦難、幾多の迫害や、鞭打ち、石打などを経て、やっとコリントに至り、福音を伝え、そして彼らは、いのちを得た。
しかし彼らは、パウロの言葉は哲学よりも愚かに聞こえるなどと、あたかも自らが誰よりも偉い王様のように、あるいは全てに満ち足りているかのような立場でいた。
確かに、キリストを信じる者は、王のような支配者となる事は書かれてある。
しかし、それはキリストにならう者である事が、条件だ。
キリストは、まず低くなられ、十字架の死に至るまで従順だったからこそ、神によって引き上げられ、栄光が与えられた。
そのキリストに習い、自らを主の御前に低くなり、従順になり、その忍耐と従順を学ぶ事によって、はじめて引き上げられる。
キリスト者は確かに豊かになるし、王のようになれるが、「キリストに習い、まずへりくだる」という所を抜きにして、豊かになったり、王のようになったり、などというのは、あり得ない。
「神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。」(9節)
当時のコロシアムでは、様々な競技や戦い、公開処刑などが行われ、多くの観客が娯楽として見入っていた。
パウロは、キリストに従う者たちは、あたかもコロッシアムで見世物にされているような者達で、しかも、世の人達だけでなく、御使いたちにも見世物とされ、競技場の中で戦っているようなものだと言っている。
競技場の中にいる者と、観客席にいる者とでは、立場が随分違う。
観客席の側にいる人は安全であり、娯楽のためにそこにいて、あれこれと評論したりするが、中にいる人はいのちの危険があり、苦しみ頑張り、実際に体を張って血と汗を流すが、後には賞と栄冠をいただける。
パウロは9節で、コリント人達は観客席からパウロたちが頑張るのを見物して楽しむ側のようだと皮肉を込めている。
キリスト者とは、観客席にいてポップコーンを頬張りながら、血と汗を流す競技者を眺めて、批評したり楽しんだりする人種ではない。
観客席にいる者は、賞も栄冠も、決してもらえない。
むしろ私達は競技場の中で戦い、キリストの栄冠を勝ち取る者として、日々、いのちの務めに励む者達である。
パウロはコリントにおいて、労苦して働きながら復員を伝えた。それは、自らの手で働いて、模範を示すためだったが、残念ながらそれは伝わらず、彼らはそんなパウロを見物していた。
「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」(13節)
「しもべ」という言葉の原意は「ちりの中をくぐる」という意味だったと最近学んだし、奇しくも、一昨日の主日メッセージも、口を塵につけよという題だった。
今私達に特に示されているのは、キリストの僕たり者は、塵の中を通れ、という事かもしれない。
確かにキリストの働き人は、塵の中をくぐる訓練が待っているかもしれない。
しかし、キリストが低められた後に高く上げられたように、私達も後には、決して朽ちる事の無い義の栄冠を勝ち取るために、しているのである。
塵の中をくぐるというのは、嫌な事、屈辱に移るかもしれないが、しかし、私達の主イエス様は、そのような所をくぐって行かれたのだ!
私達ももし、塵の中をもしくぐっているなら、キリストの足跡をそのまま歩んでいるという、甘く栄誉ある経験をしているのだ。
どうか、キリストに習い、キリストの歩んだ足跡をそのまま歩む事によって、主のくびきの甘さと安息を得る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:忠実な管理者であれ(1コリント4:1-5):右クリックで保存
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4章では、コリント人たちが高慢になっている事を指摘している。
神様を差し置いて、自分が善悪判断したり、罪定めしたりする、というのは、高慢である。
私達はキリストのしもべであり、支配する側ではなく、仕える側にあるのだ。
また、なんと私達は、神の奥義を管理している、というのである。(1節)
「そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」」(マタイ13:52)
倉庫番は、倉庫から新しいものや古いものを、その時に応じ、取り出す事が求められている。
神の国の奥義の管理者が、神の倉庫から取り出すものは、御言葉であって、自分自身の何かを取り出すものではない。
「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」(3節)
もし私達が、ある会社の倉庫番であるなら、誰か他人が倉庫の中身にケチをつけたとしても、痛くも痒くもないはず。
それは自分のものではなく会社のものだし、ケチつけた人は、会社にケチをつけた事になるのだから。
私達は、神の国の倉庫番なのに、あたかも、自分の家の倉庫番であるかのようにふるまうから、他人の評価が気になってしまう訳である。
「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。」(5節)
裁いてはならない、とは有名な言葉だが、それは、他人を裁くだけでなく、自分を裁く事も含まれている。
なぜなら、私達はもはや私達のものではなく、私達の所有権は、イエス様に移ったのだから。
だから、勝手に「自分をさばく」という事も、してはならない。
「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。」(4節)
これは、逆に考えれば、私達にやましい所が大いにあったとしても、それで有罪にされるわけでもない。
唯一、裁く権利のあるお方は、主である。
だから、やましいところがあろうと無かろうと、自分は有罪だ無罪だ、といった裁きは、無意味である。
私達は、人の評価や自分の評価は止め、ただ自分自身という「託されたもの」を忠実に管理する事が、求められている。
この世において、管理するものを、小さなものだと思ってはならない。
もし地上で忠実に管理するのであれば、天において、さらに大きな事が任されるからだ。
地上における事はしっかり管理し、かの日には、主から「良くやった、良い忠実な僕よ」と賞賛される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
口を塵につけよ(哀歌3章22−39節)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
哀歌は、エルサレムがバビロンによって滅ぼされたのを目撃したエレミヤが歌った、聖書の中で最も悲しみに溢れている歌で、陥落後のエルサレムの、とても悲惨な状況が記されている。
人は、悲しみに共感する。乳飲み子が衰え果て、母の懐で息絶えようとしている様には、心を動かされる。
しかし、どうしたらそういう結果となってしまったのか、という所を、おろそかにしてはならない。
「エルサレムは罪に罪を重ね笑いものになった。・・・衣の裾には汚れが付いている。彼女は行く末を心に留めなかったのだ。」(哀歌1:8,9)
エルサレムはこうなる事を、十分避けられた。それも、どうしたらこうなるのかは、既に何世紀も前からモーセによって示されていた(申命記4:25-31)し、主は、早くからしきりに使者を遣わし、民が立ち返るよう呼びかけてきたが、民は彼らを笑いものにし、侮った(2歴代36:15,16)ため、そのようになってしまったのだ。
私達は災いに遭った時、自分に起こった災いばかりに目を留め、こんな災いに遭うのは不当だと主張し、自分は選ばれ民だと高慢に振る舞いつつ、それでも罪は依然として持ち続けながら生きてしまいがちだ。
私達が懲らしめを受けるならば、それは幸いな事だ。 なぜなら、神は私達を子として扱っておられ、それによって訓練された私達は、主の聖さにあずかり、平安な義の実を結ぶからである。(ヘブ12:5-11)
もし私達が罪を犯しても何の罰も受けずに来るなら、高慢になり、兄弟姉妹を傷つけ、自分が迷惑をかけている事も分からないまま罪に罪を重ねる、という事になってしまう。
だから、懲らしめのくびきを負わされるのは良い事で、それによって、へりくだる事、そして従順を学ぶのだ。
「軛を負わされたなら黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。
打つ者に頬を向けよ十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。」
(哀歌3:28-30)
主から懲らしめを受けた時、怒りたいかもしれない。不当だ、と叫びたいかもしれない。
しかし、そのような時は、不平不満を言うより、むしろ口を塵につけて、黙って懲らしめを受けるほうが良い。
「生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。」(哀3:39)
もしつぶやきが出るなら高慢になっており、自分の罪をまだ認めていない証拠である。
人は元々、ちりである。高慢になっているのであれば、口をちりにつけ、ちりを味わい、ちりの成り立ち、すなわち人間の成り立ちを、そして、ちりである自分自身の成り立ちを、じっくり味わい、思い起こす時である。
御言葉の前に、身も心も低くしているなら、主はいつまでも捨て置かれはしない。
哀歌5章は民の祈りとなっており、1-14節は自分の身に降りかかった災いを申し述べているが、15-17節で、それは自分達の側に非があったから、と認めている。
「ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです。」(哀5:16,17)
もし、心が病んでいるなら、また、世界が暗くなっているなら、まず自分の口からつぶやきを除き、黙ってちりに口をつけ、自分の成り立ち、人の成り立ちをじっくり味わう所から始めるのである。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17) ダビデは自分の罪を認め、神に憐れみを求めたからサウルのように滅ぼされなかった。
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」(哀3:22)
戦争によって滅んでしまった民族は幾多にものぼるが、イスラエルが何度も滅亡の危機から守られたのは、彼らは主に選ばれた民であり、その民への憐れみは尽きないからだ。それは、私達も同様である。
捕囚から70年が満ちた時、主が憐みを示して下さったように、私達にも、憐れみが示される時が必ず来る。
「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ・・・私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6:1-3)
先週ある事で苦しみ思い悩みつつ祈っていた時、「口をちりにつけよ」という言葉が与えられました。
この言葉は哀歌にあった事が分かっていましたので、哀歌を読んでみると、今の私に必要な事が沢山ちりばめられていました。
そういうわけで今回はヨシュア記ではなく、哀歌からのメッセージでした。
哀歌はあまり開かないですが、聖書は本当に人間に必要な事が山盛りに盛られていますね。
来週は収穫感謝祭です。
教会の祭壇は、色とりどりの収穫で満たされます。
以下のURLに、去年の収穫感謝祭で祭壇が飾られた写真があります。
http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=108
野田首相がTPP交渉参加方針を正式表明しました。
情報を集めて総合すると、思う所はあるのですが、私はそうした善悪判断は止めて、ただ祈りたいと思います。
「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(1テモテ2:2)
にわかに信じがたい事の連続(1コリント3:16-23)
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- pastor 2011-11-11 20:32
礼拝説教メッセージ音声:にわかに信じがたい事の連続(1コリント3:16-23):右クリックで保存
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本日の箇所は、にわかには信じがたい事が連続して書かれている。
パウロは言う。あなたがたが、神の神殿である、と。
私達が「神殿」であるからには、私達という器は、神を宿らせている、という事であり、そして私達は、聖なるものである。
そうであるからには、私達を攻撃するものは、神を攻撃しているのであり、そのような者は、神が取り扱われる。
パウロはさらに続ける。
「パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(1コリント3:22-23)
パウロもアポロもケファも世界も生も死も、みな私達のもの?!
これもまた、にわかには信じ難い事である。
しかし、御言葉にそう書いてあるからには、アーメンといって受け入れるだけである。
なぜこれら全てが、私達のものか。
それは、私達はキリストのもの、そして、キリストは神のものであるからだ。
私達がキリストを「主人」としているなら、夫なるキリストは、計り知れない富と知恵、力で満ちておられるお方だから、全ても私達のもの、という事になるのだ。
「わたしはあの人につく」とか、「わたしはこの教えにつく」といった主張は、なんと馬鹿げているだろう。
私達にとって、まことの主人なるイエスキリストこそ全てであり、このお方を知れば知るほど、世の何者も色あせてしまう。
私達は、自分の立場というものを、よくよく理解すべきである。
エペソ1:20-23
「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」
私達の内に宿っておられるお方は、すべてにおいて、すべてを満たしておられる方。
キリストの名の元に召しだされた私達、すなわち教会は、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場である。
その私達の主は、今の世ばかりでなく、後の世においても、あらゆる名の上に置かれている。
そしてなんと、私達は、そのお方をお入れする神殿なのだ。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。
そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エペソ1:17-19)
最近、毎日教会に来て、神様の御前に仕事の報告をして、それからの仕事が祝福されるようお祈りにくる青年がいます。
昨日は、彼の思うとおりの結果が出なくて、会社として利益が出なかったのですが、彼は気落ちする事無く、むしろ感謝して帰りました。
それが今日、早速別の方面で祝福された、と、嬉しい報告を神様に為しに来て下さいました。
彼は、毎日主が祝福して下さるのを見るのが楽しい、と言っておりました。
私も、それを聞く聖徒達も、とても恵まれて、神様が良いお方である事を賛美せずにはおれません。
きっと神様は、彼をさらに祝福してくださる事でしょう。
キリストという土台の上に(1コリント3:10-15)
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- 執筆 :
- pastor 2011-11-10 20:41
礼拝説教メッセージ音声:キリストという土台の上に(1コリント3:10-15):右クリックで保存
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パウロがコリントに行って伝えたのは、哲学など人間の知恵ではなく、説得でもない。
彼は、神の知恵の現われである、十字架のキリストを伝えに行ったのだ。
すなわち、パウロがコリントに行った時に据えた土台とは、イエスキリストという土台であり、このお方こそ、全ての教会の土台なるお方である。
人はその土台の上に、色々な材料を使い、神の宮という家を建てて行く。
私達はどのようにしてこの家を建てて行くべきか。それは、イエス様の言葉を聞いて、行う事によってである。
その者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人であり、イエス様の言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人である。(マタイ7:24-27)
あの牧師の説教は斬新だ、最先端だ、おしゃれだ、などと、表面的な評価するだけで、その中に語られている御言葉を聞いて行わないのなら、それは砂の上に立てる人のようなものだ。
単に聞くだけの人と、聞いて行っている人、その二人の10年後の成り立ちは、鮮やかに、残酷なまでに、違って来てしまう。
キリストという土台の上に、御言葉を行うという事によって、自分という神の神殿を建て上げるのであれば、その建物はいつまでも残る。
対して、人間の教えや人間の知恵によって建てるのであれば、その建物は、かの日には焼かれてしまう、とパウロは言っている。(15節)
神は、焼き尽くす火(consuming fire)であり、私達の礼拝を、唯一受け入れてくださるお方(consumer)である。(ヘブル12:29)
神の火は、私達を信仰の試練として試し、聖霊の火に浸しこまれる時、私達は力に満たされ、全世界に対しキリストの証人となる。
また、敵に対しては焼き尽くす火となって私達の先頭を進んで下さる。(申命記9:1-3)
もし、この火を通って、何かが残るなら、それは私達の栄誉であり、焼けてしまって何も残らないなら、それは私達の恥である。
「建物自体は燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(15節)
私達の生前の恥は全て燃やされ、土台であるキリストだけが永遠に残される、というのは、実は、永遠を生きる上では、大きなあわれみである。
もし私達による、神抜きで作ってしまった気恥ずかしい作品が、永遠に残るとしたら、永遠に恥じながら、生きていかなくてはならない。
「斥候の若者たちは行って、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族をすべて連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。
彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。」(ヨシュア6:23,24)
遊女ラハブは、神の民の使いを穏やかに受け入れ、かの日には、その彼らによって安全な所へとかくまわれた。
私達も、知らない間に、もしかしたら神の使いを助けているかもしれない。
かの日には、神の使いは私達を安全なところへと匿ってくれる。
エリコの町が火で焼き滅ぼされたように、この世の全ても火で焼き滅ぼされるが、金が銀、鉄の器などは、主の宝物倉へと運び込まれ、永遠に主の御用とされて用いられるのである。
私達がこの世で、金や銀など朽ちないものによって建てるのであれば、永遠の聖なる神の都へと運び込まれ、そこで永久に用いられるのだ。
だから私達は、この世の生活において、神のみ言葉どおり実行する事により、永遠に残る尊い材料で、この神の宮を建て上げていくべきである。
キリストという土台の上で、御言葉の実行によって家を立て、かの日には、尊い器として永遠に残り、永遠へと用いられる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!