メッセージ - 201111のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:目に見える人にではなく(1コリント3:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有

「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。」(1節)
堅い食物とは、みことばの事で、霊的幼子は、御言葉を柔らかく噛み砕いてあげないと、食べない。
信じて間もない人にはそうする必要がある。
しかし、信じて10年や20年も経っているのに、いつまでもそのような事を要求しているようであれば、嘆かわしい事である。

皆さんは、御言葉を忘れて、人の言葉や人からの評価に、振り回されたりしてはいないだろうか。
あるいは、私は誰につく、彼につくと言って、分裂を引き起こしたりしていないだろうか。
私達一人一人は、人や、目に見えるものによって養われるのではなく、御言葉の食物によって養われるべきである。

霊的幼子のもう一つの特徴として、御言葉には何も求めず、パウロやアポロ、牧師先生といった、目に見える「人」に求め続け、そして、そういった働き人に、信仰の土台を置いている事である。
「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」(5節)
パウロやアポロ、牧師先生たちは、皆さんの職場や家庭に、いつでも共にいる事はできないが、皆さんはいつでもどこでも、御言葉から直接、必要十分な養いを受ける事ができる。
だから信仰生活は、教会の中ではなく、教会を出て家庭や職場に戻ってからが、勝負どころである。

大切なのは、御言葉を蒔いた人でも、注いだ人でもなく、成長させてくださる神である。
目に見える人間にではなく、決して離れる事の無い、イエス様に望みを置く皆さんでありますように。

教会のコードレス電話の子機の調子が悪く、設定の中身を色々いじっても、ネットで説明を読んでその通りしても、どうしても直りませんでした。

それを見ていた教会のある姉妹がそれを取って、えいっ、と叩いたら、あっさり直ってしまいました。

人の経験や知恵に頼らず、信仰をもって叩く、そうすれば道は開かれるものですね。

礼拝説教メッセージ音声:世の知恵にではなく御霊に(1コリント2:12-16):右クリックで保存
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コリントの人たちが分裂しているのは、人間の知恵に頼っているからだ、と、パウロは指摘する。
神の国の事柄は、人間の知恵によっては決して理解できない。
神がおられるのかどうかも、21世紀の科学さえはっきりさせる事ができていないし、何千年も培ってきた叡智も哲学も道徳も、人の罪を除くことは出来なかったし、完全な国家を構築する事も出来なかった。

自然に目を留めれば、永遠なる神様の存在を見る事が出来るが、人類歴史に目を留めれば、人の罪深さや不完全さ、はかなさが、浮き彫りにされているのを見るだけである。
神の知恵のほうが、人の知恵よりも、はるかに勝っている。
ところが人間は、はかない目に見えるものの方を、どうしても頼ってしまいがちである。

コリントは当時のギリシア文化の中心地で、哲学や弁論術、道楽も発達していたため、彼らの耳と目はとても肥えていた。
いかに目や耳、感情に訴えるか、という事を求め、それが良い物だという価値観があった。
しかしパウロの話は目や耳、感情に訴えるものではなかった。
だから彼らは、彼の語るかんじんの御言葉やいのちに、全く目を留める事ができなかったのである。

ところが、神の国に属する事とは、御霊によって解くのである。(14節)

生まれながらの人間、すなわち「魂の人」は、心の中でぐるぐる考えを巡らすしか出来ないため、神の国の事を受け入れる事が出来ない。
対して、御霊を受けている人、すなわち「霊の人」は、全ての事をわきまえるが、彼自身、誰にもわきまえられる事がない。
また、霊の人は、キリストの思いを持っている。(16節)
キリストが思うように思う。その思いを、御霊は与えてくださる。

キリスト者とは、世の人からすれば、わきまえられる事のない、本当に理解不能な人種である。
世の人はキリスト者を見ていて思う。

なぜあの人は、あんにあに悲惨な状況なのに、あんんあに平安なのだろう。
なんであの人は、邪悪な人間に仕返しせず、良いことばかりしてあげているのだろう。
なぜ、彼らは祈るだけで、あんなに平安なのだろう。

ところが実際、キリスト者は、それら全ての苦しみや災いから、助かってしまうのである。
人類にとって最高の敵である「死」すら、彼らを打ちひしがれさせる事が出来ない。
世の人は、そういう事を見て、神がいるんじゃないか、と思って、入信した人も多い。

御言葉というものは、世の人から見れば愚かに見える。
ところが、信じる者にとっては。神の力の現われとなるのだ。
信じる者には助けぬしなる御霊から力が与えられ、慰めが与えられ、あらゆる良きものが与えられる。

キリストは、恵み深く、憐れみ深く、愛に富んでおられ、気前が良く、癒し主であり、いのちの主である。
世の知恵でなく、キリストを豊かに宿らせ、御霊に満たされる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

以前、特別賛美をささげて下さった新潟の姉妹が、今日から横浜に滞在しに来ています。

この滞在が、彼女にとっても、横浜の聖徒達にとっても、祝福となる事を、楽しみにしています。

今日もある働き人から、魂が救われたという嬉しい報告をいただきました。

昨日から特に示されている御言葉は、エペソ2:10です。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

主は、私達の至らなさや悪さにしたがって裁く事無く、恵みを数えてくださり、私達に良い行いを備え、その中で歩ませておられます。

礼拝説教メッセージ音声:人の知恵によるのでなく(1コリント2:6-11):右クリックで保存
韓国語通訳有

人の知恵は、いかに勉強し、いかに経験するかによって増していくものだが、神の国の事柄は、人の知恵によっては理解し得ない。
人類歴史が培ってきた、科学や文学といった人間の知恵によっては、決して悟るとこはできないため、21世紀となった今となっても、神の存在を立証したのかしないのか分からない状態である。

「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。」(1コリ2:7)
この神の知恵の最たるものが、イエスの十字架の事である。
イザヤは預言している。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」(イザヤ53:1)
一体誰が、自分達のメシヤが、十字架につけられるなど予想できただろうか。
神のなさる事は、人には、とうてい思いもよらない事である。
「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」」(1コリ2:9)

御霊の光による照明がなくては、御言葉を悟る事は出来ない。
御霊に導かれて歩むには、私達は罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きている者である、と、自由意志によって「仕分け」する事、そして、霊に従って歩むかそれとも肉に従って歩むか、という二者択一の場面で、霊に従って歩む事を選び続ける事である。
そうやって御霊に従って進む者は、豊かな御霊の実を結んでいく。

御霊によって歩み、多くの豊かな実を結ばせる皆さんでありますように!

滅ぼされる世界の中から(ヨシュア6章22-25節)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ヨシュア記を読み進める上で、外す事のできない人物が、遊女ラハブである。
彼女は旧約聖書で登場するのはヨシュア記だけだが、新約では1章から登場し、彼女から王族の子孫が生まれ、さらにはイエスキリストが生まれる。
実に重要な人物であるが、そしてまた、現代の私達にも似通った面がある。

彼女は、弱肉強食のカナン地方の中で、エリコという堅固な都市に住んでいるという点では、周囲より若干先んじていたかもしれないが、決して裕福な家に生まれた訳ではなかった。
先祖代々、補強して来た城壁の中に立て込まれた家に住み、来る日も来る日も、欲望に駆られた好きでもない男達に身売りし、いくばくかの報酬を得ては、家族に持ち帰る、という日々を送っていた。
「将来、遊女になりたい」などと希望する子供などいないし、家族が遊女になって欲しいと思う者もいない。
それでもなぜ彼女は身売りをしなければならなかったか。それは、生きて行かなくてはならなかったからだ。
彼女の仕えて来たカナンの神々は、過酷な要求をするだけで、そんな彼女の生活や生き様を改善してくれるような良さも、力も、全く無かった。
現代の日本も、多くの人達が、色々な形で身売りをしている。
一日に十何時間も、好きでもない欲望にまみれた者達の中で働き、いくばくかの報酬を得、家族に持ち帰る。いや、搾取され尽くして、家を持つどころか、結婚もできないワーキングプアが年々増えている。
日本には、数多くの神々がいるが、その何一つ、生活や生き様を改善してくれるような良さも、力も無い。

ラハブは変わりたくても変わらぬ日々を送る中、力ある唯一の神と、その民の噂を聞き、思いを馳せていた。
その民は力ある神に守られ、神から与えられた律法を有し、その律法は道徳的に優れ、弱者に優しく、そしてその民は最近、川向こうの二人の王を滅ぼし、祝福と力に満たされているというのだ。
自分も、できれば家族も、もうすぐ滅ぼされるこの世界や、過酷な要求ばかりする神々から救い出されたい。
そんなある日、彼女の元に、二人の男が来た。
彼らは今まで出会ったどんな男とも違って分別と秩序があり、彼らこそ、あの民の斥候であると直感した。
主は御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのだ。(1歴16:9)

世界の滅びが近づいている、と、ぼんやり認知し、その滅びから救われたい、と思う者は多い。
しかし救われるには、救って下さる主はイエスであるという信仰告白と、決断と、そして、行動が必要である。
ラハブは、神とこの民が必ずエリコを滅ぼすと判断し、身の危険を冒しても斥候の二人をかくまい、「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられる」と信仰告白をし、そして、彼女の肉親や連なるすべての者たちの命を、死から救ってください、と、懇願した。(ヨシュア2:9-13)
そして彼女に、救いの条件、すなわち赤いしるしの内にいなさい、という条件が示された。
「家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。」(2:19)とある通り、救われる方法を聞いても、その日その時、赤い印の内にいなければ、それで滅んでも、その者自身の責任である。

世の終りの時、7人の御使いが7つのラッパを吹き鳴らす度に災いが降り、第7の御使いがラッパを吹き鳴らす時、人類が積み上げてきた全ての営みは、私達の主・キリストのものとなるのだ。(黙示11:15)
最後のラッパが鳴り渡る時、この世のものは火によって終わり、新しい天地が現れ、築いてきた城壁に頼ってきた者達はその城壁に押しつぶされ、木や草、藁で立てられた家は焼かれ、金銀の器だけが後に残る。
エリコのラハブに似たような日々から、そして、定められている世の滅びから、救われたいだろうか?
救われる方法はただひとつ、力ある神の子イエスキリストこそ主であると信仰によって告白し、決断し、実際にそのように行動することである。
主イエス様が流された血潮の赤いしるしの下に留まって滅びを免れ、新しい天地へといのちを移し、そうしてキリストのいのちを生み出し、栄光の家系へと加えられる皆さんでありますように!

教会のある中国の姉妹が、仲間と共に中華料理屋をはじめたので、礼拝の後、七人の兄弟姉妹と共に行ってきました。

とてもおいしく、また、大勢で行ったので、わいわいしていて楽しかったです。

その中で、ある姉妹は断食していたのですが、皆が食事をしているのに彼女は主にとても満たされていて、皆のために食事の皮をむいてくださったり、そこにいる一同全員分のお金を出してくださったりしました。

なんでそこまで??と思うのですが、その断食中が、とても主に満たされ、祝福されている、だから喜んで与えたくて仕方ないようです。

主がそのように与えてくださった喜びが、私達にも伝染して、皆で両手を挙げて彼女を祝福しました。

彼女こそ、祝福されて当然だと思います。

 

この投稿の題名の意味は何か、ですって? それは、与えるものは幸いです、その人は押入れ、揺すり入れして与えられるからです、という御言葉からです。

礼拝説教メッセージ音声:十字架につけられたキリストのみ(1コリント2:1-5):右クリックで保存
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コリントは当時のギリシア文化の中心地で、哲学や雄弁術、詭弁学が盛んであり、色々な娯楽もあったため、コリント人の目と耳は、現代日本のように、非常に肥えていた。
それだから彼らがパウロについて気を留めたのは、御言葉のいのちではなく、外見の弱々しさや話ぶりのなってなさ、という、キリストのご性質とは関係の無いことについてであった。(?コリント10:10)
今日でも、語られる御言葉ではなく、説教者の見栄えや話し振り、ステータスなどに気を取られて、その話している御言葉を右から左へと素通りさせているとしたら、当時のコリント人同様、叱責されても仕方無い。

パウロがコリントでは弱く恐れおののいていた(3節)のは何故だろう。
また、何故すぐれた知恵を用いて神のあかしを宣べ伝えることはせず、十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したのだろう。
それは、彼がコリントに着く前のいきさつを見れば納得がいく。
彼はマケドニヤで何度もユダヤ人たちの暴動に遭っては別の地に逃れるという事を繰り返し、シラスやテモテを置いてギリシヤへと半ば逃げるように、一人ぼっちでアテネに着いたのだった。(使徒17章)

実はパウロは、このアテネのアレオパゴスで、雄弁術的に知恵を用いて福音を説明しようとしている。
有名な詩人の詩を引用し、彼らが知らないで礼拝している神の正体は、実は天地を創造したまことの神である、よって偶像崇拝は意味が無い、
そこから真の救い主、イエス様へと話を持っていこうとした所で、唐突にメッセージは終了してしまう。
それは、死者のよみがえりの話になった途端、アテネの人々はあざ笑い、「その話だったらまた後で」と言って2度と聞こうとしなかったからだ。
そういうわけでパウロがコリントに到着した時、弱く恐れおののいており、そして雄弁術的に人を説得する事も止め、イエス・キリスト、それも十字架につけられた彼のほか、何も知るまいと決めたのだろう。

パウロはコリントでは弱々しく恐れおののき、雄弁さのかけらも無かったというのに、なぜ大勢の人達が信じ、救いに導かれたのだろう。
それは、イエスの十字架の言葉こそが、神の御霊と神の御力の現われだからである。
多くの娯楽と不品行に溢れ、目と耳が非常に肥えているコリントの人が、聖なる者へと造り変えられるのは、雄弁さでも説得でもなく、十字架につけられたキリスト、ただこのお方のみである。

もし雄弁さや説得によってパウロになびいたのであれば、他の優れた雄弁家、優れた娯楽が来れば、すぐに捨ててしまっていただろう。
しかし、信仰は人の知恵によらず、神の力によるからこそ、このような町にあっても人は造り替えられ、聖なる者となったのである。

十字架につけられたキリスト、このお方にのみ望みを置き、神の御霊と神の御力を現す皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:誇る者は主を誇れ(1コリント1:26-31):右クリックで保存
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十字架の福音とは、世の人からすれば、実に愚かである。
なにしろ、世界を救うメシヤが、裸にされ、あざけられ、十字架で公開処刑された、というのだから。
知者であればあるほど、また力ある者であればあるほど、それはばかばかしく、受け入れ難い。
福音はなぜ、わざわざ、そうなのか。
それは、この世の力ある者達をはずかしめるためである。(1コリント1:27)

コリントの人たちは、世の価値観のまま変わらず、世において富を得、高められ、力ある者、知恵ある者となる事を、求めていた。
彼らは福音を、この世的なステータスや祝福を求める価値観だったからこそ、争いや分裂が絶えなかったのだ。

キリストに望みを置く者は、概して、知者も、権力者も、力ある者も、そんなに多くは無い。古今東西、大体そうである。
それでキリスト教は弱者が信じる宗教だと言われるが、それは逆である。
神が、この世の弱いものを、敢えて選ばれた。(28節)だからこそ統計的に、知者や権力者、力ある者は少なく、地位のない者、無に等しい者、見下げられている者が多いのである。

キリストに望みを置く皆さんは、地位のない者、無に等しい者、見下げられている者と言われて、不愉快になるだろうか。
もしそうなら、コリントの人と同じく、価値観はこの世に向かっているのだ。
イエス様が、無に等しい見下されている者を、あえて選んで下さったのは、誰も誇らせないためであり、私達が誇るべきは、ただ主だけである。

しかもなんと、私達が為す良い行いをも、あらかじめ備えれていたのだ。(エペソ2:8-10)
ここまで来ると、もはや誰も自分の何かを誇る事ができない。

私達が世にあって歩むとき、何を求めるべきだろうか。
お金だろうか?地位だろうか?知恵だろうか?力だろうか?
私達は、それらを豊かに与えて下さり、楽しませて下さる主をこそ、求めるべきである。
「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(1テモテ6:17)

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