メッセージ - 201112のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:赤ちゃんとなられた神の子イエス(ルカ2:1-7):右クリックで保存

神の子イエスキリストは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方である。(ヘブル2:10)
彼は乙女マリヤから生まれ、赤ちゃんとして、私達に見える形、抱っこできる形で、この世に降られた。
その生まれた次第は、バプテスマのヨハネに比べると、あまりに卑しく、目立たないものであった。
皇帝アウグストは当時の大国ローマの最初の皇帝で、ユダヤの人々は皆、登録をせよとの勅令に従った。
登録の目的は、一言で言えば税金を納めさせるためで、従属民であるユダヤの民は全員、そして、イエスの両親マリヤとヨセフもそれに漏れず、故郷であるダビデの町ユダヤのベツレヘムへと上って行った。

好きでもない支配国の皇帝に、搾取されるための登録に行く途中「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(ルカ2:6-7)
神の子が生まれるというのに、その時、その両親を宿らせる場所さえ世の中には無く、彼らは馬小屋の中で赤ちゃんを産むしか無かったのである。このイエス様が寝かされた飼い葉桶とは、馬の餌箱である。
マリヤとヨセフにとって、子供が生まれるタイミングとしては最悪であるし、神の御子がこの世に最初に宿られた所としては、あまりにも酷すぎる、というのが、私達の思うところである。

しかしそれは、神の定めた事だった。預言者によって語られていたのは「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)である。
神は、マリヤとヨセフを出身地ガリラヤ・ナザレからベツレヘムへと強制的に向かうように、それも皇帝を動かし、全世界さえ動かして、そのように仕向けたのである。
マリヤとヨセフは、宿屋の主人を動かす力も権威も無かったが、全ては神の支配にある。「神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。(ダニエル2:21)」

赤ちゃんは弱弱しく、親の庇護の元に無ければ、すぐにでも死んでしまう。その赤ちゃんに、神は御子イエス様を、マリヤとヨセフに託されたのだ。
人間の親は、自分の赤ちゃんに何かの間違いがあって死んでしまったらどうしよう、と、配慮をし、気をもみ、時には、余計な事もしてしまう事があるが、神は全ての最善をご存知であり、全てを支配し、決してまどろも事無く、眠る事もなく、いつでも確実に赤ちゃんであったイエス様を守って下さった。
ヘロデ王はこの赤ちゃんであるイエス様を殺そうと、その地方の2歳以下の男の子を全員殺す事さえしたが、神様は、そのような企みからも、力強い導きによって守って下さったのだ。

私達人間も、一見弱弱しく、ほんの少しの要因がズレただけで、簡単に死んでしまうが、しかし、イエス様を心にお迎えし、イエス様を自分の主人として宿らせているならば、世界がどんなに混沌となろうとも、人がどんなに悪巧みしようとも、そこから救い出してくださるのだ。

さて、神の御子イエス様は、なぜわざわざ、そこまで低くなられたのだろうか。
それは、どんなに底辺の人をも思いやる事が出来るためであり、主ご自身も弱さをまとう事によって、無知な迷っている人々を思いやることができるようになるためである。(ヘブル5:1-2)
もしイエス様が立派な血筋の金持ちの家に生まれ、下々の事を理解できず、大上段から命令を下すだけの神であるなら、人々は恐れはしても心から愛し慕う事はできなかったのではなかろうか。

イエス様は平和の君として、赤ちゃんとして、この世に降られた。母マリヤの腕の中で眠っておられるイエス様は、小さなその手に全ての人達の罪と穢れを握り締め、十字架の道へと、歩まれるのである。
この主イエス様の誕生を覚えるクリスマスの時、主を心にお迎えし、主に生きていただき、全ての事において神様から守られ、祝福される皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

先ほどまで、大通り公園に出て賛美の路傍伝道に行っておりました。

風は冷たく人もまばらでしたが、天を見上げて賛美しているうちに、曇っていた空にだんだん青空の隙間が見えて来て、御使いたちも地上の聖徒達と共に賛美しているような気がしてきて、喜びに溢れました。

そして最後の方に、少しだけ太陽の陽が雲の隙間から私達を照らしてくれて、主が喜んでおられるのを感じました。

今日はこれから再び路傍に行って、賛美伝道に行きます。

さて、前にお知らせしましたとおり、明日12月24日午後7時半より、当教会にてクリスマスイブ礼拝を行います。

お茶や軽食の用意もございますので、どうぞお越しください。

礼拝説教メッセージ音声:神を試みる(1コリント10:9):右クリックで保存
韓国語通訳有

今日は、主を試みる事についてです。
パウロは、コリントの人たちに主を試みてはならない事を教えるために、民数記における、主を試みた者は蛇によって滅ぼされた箇所を引用しております。
民数記の21章にそのことが記されています。

この箇所を読まれた時、試みた、というより、呟いた、ではないかと思われるかもしれません。
試みるといえば、むしろマサの箇所を思い起こされるかと思います。
マサという言葉は、そのまま試みるという意味で、出エジプト17章にあります。

その箇所では、民が「飲み物がない、今にも本当に死にそうだ」と言って、モーセと争いました。
それに対して主は、蛇を送るということはせずに、そのまま、民に必要な水を与えられました。
そこでその場所は、マサ、またはメリバと名付けられました。
それは、イスラエル人が試みた、つまり、マサをしたためであり、また、争った、即ち、メリバをしたからです。

主はなぜ、この時民を打つことはせず、そのまま水を与えたのでしょうか。
この、民数記の箇所と、出エジプト記の箇所では、民が言った言葉に、大きな違いがあります。
出エジプト記の箇所では、民が言ったのは、水がなく、今にも死にそうだ、ということです。
水は、確かに民に必要だと、神様は分かっておられました。

しかし、民数記21章5節では、民はこう言っています。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」
彼らは水も、必要な食物であるマナも、与えられていながら、なおパンを要求して、水もあるのに無いと言って、身勝手な欲望を満足させるために、神様を試みたのです。
それで、神様は燃える蛇を送られたのです。

私達は、神様から頂いている恵みに満足するべです。
悪魔は誘惑してきます。
あなたは、あれもこれもあった方が、もっといいじゃないか、と。
悪魔がそのように、神を試みるように誘惑してきたとき、それを回避する方法は何でしょうか。
そのような誘惑を退ける手段は、御言葉です。

マタイの4章5節から7節を見ますと、悪魔はなんと御言葉まで引用して、神様に余計な奇跡をさせようとイエス様に仕向けます。
言っていることは一見もっともそうで、実際イエス様が飛び降りて、御使いによって支えられるのを見たら、人々はきっとイエス様を主と崇めるでしょう。

ところが、神様は、人々の身勝手な要求に答える義務は、負っておりません。
私達も、神殿から飛び降りてみれば、何か素晴らしいことが起こるのではないか、もっといいのではないかと、名誉欲が出てくるような所があるかもしれません。
しかし、そのような誘惑がきた時は、御言葉にこれこれとも書いてあると、御言葉で対決するのです。

この、民数記における荒野の民は、神様に身勝手な要求をして試みたため、燃える蛇が送られ、それによって、滅びを刈り取りました。
神を試みる者の報いは、燃える蛇によって噛みつかれる、という災いです。

燃える蛇とは、別訳では、激しい蛇とも言います。
このように、欲望にかられるものは、ますます激しい欲望にかられて、のたうちまわりながら、滅びゆくのです。
このような滅びの苦しみの中に入ってしまった場合、そこから救い出される方法は何でしょうか。

再び民数記21章7節から9節には、主の救いの方法が書かれてあります。
主は「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」と仰せられ、モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げました。
蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、救われました。

イエス様はニコデモに言いました。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」(ヨハネによる福音書3:14)

ニコデモはこの時、イエス様が何を言っているのか分かりませんでした。
しかし、十字架に掲げられたキリストを見た時、きっとニコデモは思い出したことでしょう。
荒削りの粗末な十字の木の上に、全身燃えるかのように血で赤く染まった裸のイエス様が、もだえ苦しむのを見て、荒野でモーセが掲げた、あの青銅の蛇を連想したことでしょう。

荒野の民は、旗竿にかかったこの青銅の蛇を見て救われたように、すべての人達はこの十字架につけられたキリストを仰ぎ見て、救われるのです。
サタンに噛まれて全ての人達に入ってしまった罪の毒を、この旗竿の上にかかった蛇、即ち、十字架にかかったキリストを仰ぎ見て、人は救われるのです。

私達は神を試みて、この燃える蛇に噛まれたような、苦しみを味わうようなことがあったとしても、十字架につけられたキリストを仰ぎ見れば、救われるのです。
神様から何かを得ようとして、神を試みるのであれば、このような滅びが待っているのですが、しかし、「わたしを試してみよ」と言っている箇所があります。
マラキ書の3章10節です。

「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」

神様はどこまで許してくれるかと、罪に罪を重ね、悪い動機で神様を試すようなことをする者には、滅びが待っております。
しかし、神様は本当に真実で正しいお方なのだろうかと、御言葉に書かれてある事を、とりあえずでも試す時、神様は必ず御言葉に書かれてある祝福を、その人に注いでくださいます。

どうか、悪い意味で神様を試みることがないようにし、そして、御言葉の通りにしたら、どのような祝福が待っているのか、という試みは、どんどんしてください。
御言葉の通り実行して、ますます天の窓が開かれて、祝福される皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:姦淫の罪と脱出方法(1コリント10:8):右クリックで保存
韓国語通訳有

姦淫とは、本来愛すべき夫あるいは妻がいるのに、別の男あるいは女へと走ってしまう行為です。
神様はよくイスラエルに、お前たちは姦淫の女だと言う箇所がありますが、それは、本来愛すべき夫たる神を捨てて、他の神に走るからであり、それは霊的には姦淫です。
さて、8節の、姦淫をした故に1日2万3千人死んだという記事は、民数記25章の記事です。この箇所を見て行きましょう。

イスラエルの人達の中に、モアブの娘達が入り込んで誘惑したのは、悪い預言者・バラムの仕業によるものです。
民数記24章までに、バラムがバラクに雇われてイスラエルを呪おうとしたものの、神がそれを許さなかった記述があります。

バラムはバラクからお金を受け取ったものの、結局、イスラエルを呪うことはできませんでした。
というのも、イスラエルが神様に従順している以上、イスラエルは神様に祝福されていて、呪いようが全く無いのです。
しかし、このバラムが蛇のようにさとい所は、イスラエルが神に不従順であればイスラエルは呪われる事を知っているため、モアブの娘達を送り込んでイスラエルを姦淫へと導き、このような災いを招いたわけです。
人というものは、外から力で攻めてくる敵にたいしては、立ち向かって抵抗することに難しさを覚えませんが、このように、一見美しく、か弱い女からの誘惑には、抵抗するのが困難なようです。

バラムはバラクに教えてイスラエルの人々に躓きの石を与えて、不品行を行わせました。(黙示録2:14)
結局の所バラムはイスラエルの民に剣で刺し殺されることになり、イスラエルへの罰は祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスの行動によって止みましたが、この神罰で死んだ者が2万4千人あったと9節にあります。
ちなみに、第一コリントでは「一日で」死んだ者の数が2万3千人とありますので、一日2万3千人が死に、後日死んだ者がもう1千人いた、という事でしょう。

姦淫の結果待っているのは、滅びです。
姦淫の誘いが向こうから来た時は、誘惑に勝てると思ってはなりません。
逃げるに限ります!
ヤコブの子ヨセフはそのような時、逃げて、姦淫をすることから逃れられました。
彼はその逃げられた女の讒言によって、一見、災いがふりかかったように見えますが、その事からも神様は導きによって救い出し、後にはエジプトとなる栄誉を与えて下さいました。

箴言5:1-4にあります通り、そのような女についていくと、最終的に行き着く先は、陰府です。
異国の女を大量に召抱えてしまったソロモンは、つくづく言っています。
あなたの道を彼女から遠ざけよ、その家の門に近づくな、と。
姦淫の誘いには逃げる、近づかない。これが、一番の事前防止策です。

さて、姦淫に陥ってしまい、災いが起きてしまった場合の、脱出の道は何でしょうか。
ホセア書にそのヒントがあります。

ホセア書では、ホセアは姦淫の女を妻としなさいと神様から語られ、ホセアはその通りにして、3人の子供を産んだのですが、それにもかかわらず、この女はホセアの元を去って行ってしまいました。
神がホセアに姦淫の女をめとりなさいと言った理由は、イスラエルのやっていることが、どんなにひどい姦淫であるかを、示すためでした。

神様の目から見れば、私達キリスト者は、キリストの花嫁です。
そんな私達も、まことの夫であるキリストを離れて、別のものを神として慕って行って、結果、ひどい目に遭ったり散々な目に遭ったりという事があるかもしれません。

この女は、ホセアに愛されていながら、別の男の所に走り、そして、どうなってしまったか。
ホセアは再び彼女を買ったと書かれてある事から、彼女は市場で売られる程、落ちぶれてしまったようです。
しかしホセアは、再び彼女を買い取り「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」(ホセア3:3)と言ってくれます。
主はこれと同じ言葉を、私達にも言っておられます。

姦淫は、するべきものではないです。
そのような誘惑に陥りそうな時は、まず逃げるべきです。
もし陥ってしまって、ひどい目に遭ったり、災いに遭ったのであれば、真の夫であるキリストのもとに帰り、そこから離れないようにしましょう。
迷い出て姦淫したりすることなく、いつまでもこの、真の夫キリストに留まり続ける皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。アーメン。

最近、バイブルメッセージの文体が「である調」から「ですます調」になったのに気付かれた方もおられるかと思います。

それは、最近教会で奉仕を始めて下さった働き人・中祖兄弟が、メッセージをテキストに起こす奉仕をして下さっており、彼はこの文体で起こしておられるためです。

彼はメッセージを音声で聞きながらテキストに起こす事によって、たくさんの恵みを頂いているようです。

彼がますます働き人として整えられ、祝福されるようお祈りに覚えていただけたら幸いです。

礼拝説教メッセージ音声:偶像崇拝(1コリント10:7-13):右クリックで保存
韓国語通訳有

出エジプトの記述は、今の私達への戒めです。
私達が気を付けるべきことが4つあります。偶像崇拝、姦淫、主を試みる事、呟く事です。
私達への試みに対しては、しっかりと脱出の道も備えられております。
いずれも大切な戒めですので、今日は偶像崇拝について、詳しくお話しします。
偶像崇拝については、出エジプト記の32章1節から6節に記されています。

1節で民が言っている言葉に注目してください。
まず、民達はエジプトから自分達を連れ出したのは、モーセだと言っており、神が連れ出したとは言っていないことに注目してください。

偶像崇拝の定義をご存じでしょうか、いわゆる仏像全般を拝むことだけが偶像崇拝ではありません。
偶像崇拝とは、真の神以外を第一とすることです。
神様よりも、自分、お金、あるいは旦那さん、会社などを優先して、信仰の対象としているなら、それは立派な偶像崇拝です。

民は、あのモーセがどうなったかは分からない、だから、神を作ってくれと言いました。
つまり、神は我々が作るもの、という認識があったようです。

おそらく、民衆がアロンのもとに押し寄せ、暴動が起こりそうだったので、アロンは民衆に従ったのでしょう。
アロンは、人々から耳輪を集め、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造りました。
鋳像というのは簡単に作ることができます。
アロンは急ごしらえの鋳像の子牛を、みんなの前にお披露目したとき、民衆は「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言いました。
この鋳像はかなりお粗末なものであったと思われますが、それでも民衆は満足したのです。

要は、目に見える信仰の対象さえあれば、なんでも神になるのです。
ここまで来たら民衆をコントロールすることは不可能でした。
アロンは「明日、主の祭りを行う」と、さらに民衆を満足させる方向へと、言葉を進めてしまいます。

一見彼らは、神の名を口にして、祭りを行っているようですが、それは、座って飲み食いし、立っては戯れる行為にすぎないのです。
大声を出していればいいというものではありません。
ヨシュアは遠くからそれを聞いて戦の声だと勘違いしたのですが、モーセは、それは、勝利の声でも敗北の声でもなく、歌を歌う声だと聞き分けます。
このように、人を恐れると罠にかかります。

人間というのは目に見えるものに、信仰の対象を置きやすいものです。
偶像崇拝をする者に定められているのは、滅びです。
この時、民は滅ぼされなかったのですが、それは、モーセのとりなしのおかげです。
モーセは神様の御言葉を盾にとって、執り成しました。

しかし、イスラエルの民は結局、この自分でまいた偶像崇拝の種を刈り取ることになります。
モーセは、偶像を焼いた灰を川に投げたため、民はその水を飲まなくてはなりませんでした。
民がほしいままに振る舞っていくのを留めもせず、秩序が乱れたまま放っておくと、敵の物笑いになってしまい、後には、兄弟が兄弟を、肉親が肉親を殺さなくてはならなくなってしまいます。
それは人の目には厳しく見えるかもしれないのですが、自分の中で悪が芽をだして、それが根をおろして、実を結んでしまうと、それを刈るのは非常に困難になってしまうのです。
そして、自分の感情よりも御言葉を優先させた人達が、後の祭司となりました。

この偶像崇拝からの脱出の道は、どうしたら良いでしょうか。

コロサイ書3章5節に、貪りがそのまま偶像崇拝であると書いてあり、貪りの元の意味は、より多くの物を持とうとする所有欲です。
偶像崇拝とは、神以外のものを信仰の対象とする行為でした。

つまり、真の神を第一とせず、お金や持ち物などのほうを信頼しているから、偶像崇拝なのです。
私達が、この貪りから解放される方法は、死です。

ローマの6章6節、7節に。「 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。」とあります。
死んだ、つまり過去形です。
イエス様を信じたものは、死んでしまったのです。
私達は、一見古い人に対して生きているようですが、キリストを信じた時点で、神の視点においては、死んでしまったのです。

では、全く生まれ変わっていないかのような自分があるのは、なぜかといいますと、それは信仰によって切り分けをしていないからなのです。
11節に、「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」と、あります。
ここで、考えなさい、とありますが、より忠実に訳しますと、仕訳をしなさい、ということです。
つまり、罪に対しては死に、神に対して生きているのだと、信仰によって仕訳がなされるべきです。

借金を返したからには、借金地獄の嫌な気持ちからは解放されて然るべきですが、古い借金地獄だった頃の、行動パターンや思いの恐れが焼きついてるために、借金を返した後も、借金地獄だった頃の夢を見るようなものなのです。
もはや全て借金を返した、罪に対しては死んだと、皆さんの中で仕訳をしてください。

12節に、「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。」とあります。
ここで、罪の支配に委ねるか、真の神に従うかの決定権は、誰にあるのでしょうか。
明らかに皆さんの側にあります。

どうか、皆さんの意志をもって罪の体に支配を委ねず、御霊に委ねる皆さんでありますように。
そして偶像礼拝ではなく、真の神を礼拝する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

昨日は立て込んでおりましたため、メール配信が出来ませんでした。

その代わり、しっかりと勝利がありました。

それにしても、K姉妹は不思議な賜物を持っています。

昨夕、ある聖徒達が相談をしたいという事でしたので、会合を持ったのですが、
「どのような相談でしょうか」と言う事も、「実はこれこれで、、、」という説明も一切なく、一同が席に座った時からK姉妹がずっと話ししていて、
しかも、あたかも全てを見て知っていたかのように、その方々の状況を正確に指摘し、そして的確な助言をしていました。
彼女が話し終えると、その方々は詰まりが取れたように、とても満足したようにしていました。

私は一切口を開く事が無かったので「これでいいのかなあ」と思いつつも、その時与えられた御言葉を宣言し、終わりました。

後で「これで良かったですか?」と聞きましたところ、、、それで良かったようです。

エリザベツがマリヤの説明を一切聞く事無く、聖霊によって全てを悟って喜び溢れたように、聖霊の光に照らされると、説明はいらないみたいですね。

礼拝説教メッセージ音声:御言葉の恵み(1コリント10:1-6):右クリックで保存
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今日の箇所は、第一コリント10章1節から6節です。

第一コリント10章のキーワードは、偶像礼拝に気を付けなさいということです。
パウロはまず、彼らの先祖、モーセと共にエジプトから出た民の話をします。

モーセと共に歩んだ荒野の民は、キリスト者とよく似ているところがあります。
彼らは、エジプトにおいて奴隷状態でした。そこから、モーセによって引き出され、荒野を通り、約束の地へと至ります。
エジプトとは、この世を表しており、彼らはその時、奴隷状態でした。
そして我々も以前はこの世において、奴隷状態であり、そこからイエス様によって召し出されて、この世から引き出されました。

引き出されるとき、まず通るのが雲と海、即ち水のバプテスマです。
3節、4節に「 皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。」とあります。
これは、後の聖餐を意味しているのですが、荒野の民はこのように、超自然的な方法によって、日々養われることになりました。

皆さんもこの人生という荒野を旅するときに、今に至るまで生き延びてきたのは、間違いなく神様の憐みだったのではないでしょうか。
人生において、もう先が見えないかのような危機の時も、しっかりと主が養いを与え、助けを与えておられた事かと思います。
荒野の民は、マナを食べたのですが、皆さんは日々、御霊の食べ物として、御言葉を頂いております。
御言葉は朝ごとに新しく、日々の養いを与えてくださいます。

また、4節を見ますと、「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」このようにある通り、彼らに岩がついてきて、その岩こそキリストだというのです。
このように日々、私たちも、御言葉と、真の飲み物であり、命の水の源であるキリストによって、荒野でいつでも死にそうであるかのような状況においても、養われています。

出エジプトの民は、神様からの養いを頂いていたにもかかわらず、大部分が滅ぼされてしまいました。
それらの事が起こったのは、私たちへの戒めのためなのです。
荒野の民が滅びたのを見て、私たちと関係ないと思ってはなりません。
彼らがマナと岩からの水を侮ったら滅ぼされたように、私たちも、御言葉の養いとキリストを侮るなら、このように滅ぼされてしまうのです。

イスラエル人に加わっていた雑多な他国人が、飢えと渇きを訴え、彼らにつられて、イスラエル人もつぶやいたのです。
彼らがどのように貪ったかは、民数記の11章に記されています。

彼らはエジプトから脱出してきたにもかかわらず、エジプトを再び懐かしんで、マナを軽んじてしまいました。
キリスト者もこのように、巧妙に混じりこんでくる者に対しては、気をつけなくてはなりません。
彼らがつぶやいても、私たちがそれに倣ってつぶやくことが、ないようにするべきです。

神様は恵み深いお方で、すぐに滅ぼすことをせず、まず、モーセに重荷が負わされ過ぎないようにされました。
神様は、イスラエルの長老70人に、モーセに授けた霊の一部を取って、彼らに授けるというのです。
私たち一人に重荷が負わされないように、主は重荷を分担させてくださいました。

そして、うずらを与えて、民の不満を解消しました。
しかし彼らは、肉が歯の間にあるうちに、激しい疫病によって死にました。
このように、御言葉や、真の命の泉であるキリストを、ないがしろにする者は、肉を口の中に入れはするのですが、それは自分のものとなる前に、このように打たれてしまうのです。

そのことが起きた、キブロト・ハタアワという地名は、貪欲の墓という意味です。
私たちの中でも、欲望にかられて貪る者は、荒野に埋められ、そして主の民は彼らを置いて前進して行ってしまいます。
この出エジプトの記述は、私たちに対する戒めです。
戒めとしてこう書いてある以上、私たちもこの戒めに真剣になって取り組んで、主をないがしろにしないようにするべきです。

御霊の食べ物である御言葉を、しっかりといただいて、また、命の水の泉であるキリストから飲んで、祝福を受ける皆さんでありますように。
そして、いまもし試練の荒野を通っておられるなら、これらの霊的な食べ物によって養われ、約束の土地へと至る皆さんでありますように。

イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

 

 


 

本日も礼拝後、伊勢佐木モールにクリスマス賛美しつつ、路傍伝道しました。

今年は来週の主日12/25がちょうどクリスマスで、今年最後の礼拝となり、元旦が主日で最初の礼拝となります。

例年通り、24日は19時半よりイヴ礼拝を行い、31日は夜22時から年越し祈り会をします。

教会としてのイベントが目白押しな年末年始となりますので、楽しみにしていて下さい。

主の道を整えよ(ルカ1:57-66)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ヨハネは父ザカリヤや母エリザベツにだけでなく、多くの人にとって喜びとなる、と予め預言されていた。
その喜びとは、単に子がいない一老夫婦を神が慈しみ、子が与えられる、という事に留まらない。
それは人類が久しく待望した、人類全体に注がれる神からの慈しみであり、喜びである。
生まれて来るヨハネは、人々を主の元に立ち返らせ、主に先立って進み、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する者となるのだ。(ルカ1:16,17)

さて、ザカリヤに喜びの知らせが告げられた時、彼は御使いの言葉を信じず、口が利けなくされてしまう。
マリヤとザカリヤの御使いに最初に答えた言葉は、見比べてみると似ている気がするが、心は大いに違う。
マリヤは、処女である自分が身篭るという、絶対有り得ない事、むしろ状況的に絶対起こって欲しくない事を密かに告げられ「どうして起こり得ましょう」と言ったのに対し、ザカリヤは公の祭司という立場にあり、老夫婦に子が生まれるという、滅多に起こらない、むしろ望ましい、彼自身が長年祈り求めて来た事が、やっと叶えられる、というお告げに、「何によって」「わたしは」「知ることができるか」と、神の聖所で要求したのだ。
それで彼の口は利けなくされ、御使いの言葉が成就するまで、人に話す事が出来なくなったのだ。
御言葉に従順できない人にとっての最善は、口をつぐむ事。それは周囲にとっても益である。
思い描いていた幻想が、主によって打ち砕かれた時は、哀歌に書いてある通り、黙っているのが良い。

ザカリヤが口が利けるようになったのは、公に「その名はヨハネ」と書いた時だった。
人々がそうだったように、ザカリヤ自身も、待ち望んでいた赤子に自分の名前をつけたかっただろう。
しかし彼も、エリサベトも、人々や自分の望みを押し切って、主に言われた通りの名前を二人で公に示したとたん、ザカリヤの口が利けるようになり、そして真っ先に彼の口から出たのは、神への賛美だった。
懲らしめの最中は口をつぐみ、自分を降ろして従順を学び、神と人との前で、御言葉の通りに行う時、主の素晴らしさをさらに知り、賛美の口は開け、それも、真っ先に賛美したい程に、心が整えられるのだ。

ヨハネという名前には、「神は恵み深い」「神の賜物」という意味がある。
神は、ザカリヤに好きな名前をつけて良い、とは言わず、わざわざ人も不思議がる「ヨハネ」という名前を指定したのは、このヨハネという人物を通じ、神が贈られた最高の賜物、すなわちイエス様へと、人々を導くためではなかろうか。ヨハネという名が有名になるにつれ、神の賜物であり、神の恵み深さの現われである、イエスキリストへ向かうようにと、人々の心は整えられて行ったのである。

ヨハネが女から生まれた人間の中で最も偉大だと、主から呼ばれたのは、なぜか。
それまでの律法や預言者は、メシヤを断片的に示して来たのに対し、ヨハネはメシヤの現れに備えて人々を整え、イエスこそメシアであると直接的に示し、最終的に人々をイエスへと導いたからではなかろうか。
律法と預言者はヨハネまでであり、聖書全体の主人公は、このイエスだ。
天における人の偉大さの尺度は、大きな事をする事ではなく、いかに人や自分をイエスへと導くか、である。

『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』(ルカ3:5)
主をお迎えするには、まず自分自身が整えられなくてはならなず、心に高ぶりや卑屈さなどのでこぼこがあったまま、主をお迎えしようにも、ザカリヤのように口を塞がれてしまう。
母エリサベツは、マリヤの胎で受胎して間もないイエス様でさえ「主」と呼ぶ程、既に整えられていた。
バプテスマのヨハネは、そうして生まれる前から整えられ、母の胎にいる時に、主との出会いを喜んだのだ。

このアドベントの時、心の中にある山や谷は埋められ、でこぼこ道は平らにされ、そうして整えられて主を待ち望む皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

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