メッセージ - 201112のエントリ
喜びの胎動(ルカ1:39-45)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
『天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。』(ルカ1:28-29)
マリアはヨセフという素敵な男性と婚約中で、貧しいながらも、ささやかな幸せが約束されていたにもかかわらず、ある日いきなり、男を知らない身であるのに身篭って、永遠の王を生む、と告げられたのだ。
彼女は、救い主の母という、古今東西の女性達がうらやむ唯一の栄誉を得たが、人の実際は、そのような天からの偉大なおとずれに戸惑い、もしそうなったらと、目先のあれこれを、心配してしまうものである。
人は、自分の頭で想像し易い、ささやかな幸せを求めるもので、途方も無く偉大な身分を得るなど思ってもおらず、日常を生きる私達が、ある日突然そのような途方も無く偉大な身分を得る、と提示されたなら、逆に困ったり、逆に迷惑に思ってしまうものかもしれない。
私達はあまりに小さい存在であるため、途方もない祝福を、逆に迷惑に思ってしまう事があるが、主が私達に用意しておられる祝福は、途方もないもの、にわかには信じ切れない次元のものである。
その栄誉を勝ち得るには、マリヤのように、主によって語られたことは必ず実現すると信じ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と告白する事である。
地上におけるマリヤの歩みは、平凡な幸せからは遠く、むしろ心を刺し貫かれる事が多かったに違い無いが、御使いにさえ「おめでとう恵まれた方」と言われた程、天においても地においても、優れた恵みを得た。
それは私達も同様で、地上の歩みとしては、普通の人が望むささやかな幸せからは、離れているように見えても、永遠の観点から見れば、永遠に感謝して余りあるいのちの道を、生かして下さるのである。
もしマリヤが、自分の身に起きた事を真っ先に報告する相手として、神殿にいるパリサイ派を選んでいたなら、間違いなく、メシヤを生まずして、冒涜と姦淫の罪によって石打に処される所だっただろう。
愛するヨセフからも拒絶され、捨てられる事も、十分考えられる程、自分にとってリスクのある事である。
しかし主は、彼女にとって途方もないこの事を、真っ先に打ち明ける相手を、きちんと備えておられた。
マリヤ同様、御使いの導きによって奇跡的に身篭り、もう6ヶ月になっていた、親類のエリザベトである。
マリヤは急いでエリサベトの所へ行ったが、エリサベトがマリヤの身に起きた事を悟ったのは、マリヤからの何時間もの相談でも、情に訴える説得によるのでもなく、マリアの挨拶を耳にした、その瞬間だった。
胎内の子が喜び踊り、聖霊に満たされ、このはるか年下の親類が「わたしの主の母」と悟ったのだ。
そして、彼女自身の口から、マリヤは女の中で祝福された者である事、また、その胎の実は祝福されており、しかも「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と、まだ一言も話してもいないのに、あたかも全てを見透かしたかのように、聖霊による喜びの胎動で悟ったのだ。(ルカ1:39-45)
そしてマリヤは、心から一点の曇りもかき消され、喜びに溢れた賛美の歌を、主に向かって歌った。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。。。」(ルカ1:47-55)
主は、信じられないような偉大な祝福と栄誉を、私達信じる者に用意されており、そして、その祝福を受け止められるように、聖霊によって分かち合う兄弟姉妹も備えておられる。その常識では考えられないスケールの祝福は、一部の信じる者だけが密かに知って喜び、分かち合う事が出来れば、十分である。
パウロは、私達が知恵と啓示との霊を与えられ、神を深く知ることができるように、心の目が開かれるように祈り、そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように、また、私達信じる者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるようにとも、祈っている。(エペソ1:17-19)
主が成して下さった偉大な事を、私達の内に宿られた方の、喜びの胎動によって共に喜び、密かに分かち合い、ほくそ笑む皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
6日(火)より韓国長老教会の牧師・鄭先生がゲストとして来日し、以下の礼拝にてメッセージの奉仕をしてくださいます。
・7〜9日の朝5時からの早天礼拝と昼13時からの学び会
・11日の主日礼拝
・12日の早天礼拝
それに伴い、その間のメッセージアップはお休みいたします。
私は例によって、先生が来られる週は、ゆったり過ごさせていただきます。
礼拝説教メッセージ音声:心の王座を主に委ねよ(1コリント7:25-35):右クリックで保存
韓国語通訳有
7章は結婚の事についての個所です。
今日の個所は、処女や結婚していない男への勧めです。
ここでパウロが記しているのは、勧めであって、命令ではありません。
パウロの意見をまとめますと、結婚をしていない者はそのままの状態にとどまるのがよい、ということです。
その理由は、26節には、今危機が迫っている状態にあるので、と書かれており、また29節に、時は迫っている、とあります。
この当時、パウロがコリント人への手紙を書いたとき、既に、信者に対する、ローマ政府からの迫害がおきておりました。
また、キリストの再臨は近いと考えられておりました。
そのような状況で家族を持つということは、その身に苦難や思い煩いを招くことでした。
例えば、妻が捕まる事によって信仰が萎えてしまったり、このようなご時世で、子供をキリスト者として健全に育てられるだろうかと苦悩したりすることです。
今の世の中では、クリスチャンでなくても、結婚したり、子供を産んだりという事が困難と予想される時代であります。
事実、今の若者は、結婚について、子供を産むことについて、思い悩む人も大勢おり、戦争や地震の噂や、また、人の心が冷たくなって、
子供が健全に育つのが難しい時世だからです。
それでパウロは、主にあって信頼できる者として、結婚していないのであれば、なるべくしないように、と勧めたわけです。
29節から31節を再びお読みしますけれども、
「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。
今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、
物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」
もちろん、妻や夫を得たり、持ち物を所有することは、それ自体、悪いことではないのですけど、
それらに執着しすぎて、主よりもそちらのほうを、思い煩いうのであれば、
むしろ初めから持たないほうが主に専念出来て良い、ということです。
つまりパウロの言いたい事の要点として、世のものは過ぎ去るものだから、執着しすぎないよういに、という事です。
よく、物に支配されてしまって、家の中が自分が動くスペースよりも、
物が占めるスペースのほうが多くなってしまう人もいますけれども、
その場合は、物を持たないほうがむしろ自由になります。
みなさんの心の内でも、心のスペースに主をより多く占めるのであれば、
皆さんは、より自由になっていきます。
パウロが求めていることは、秩序ある生活を、主にあって送る、ということです。
35節、「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、
品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」
私達の生活のなかで最も大切なのは、主に奉仕をするということなのです。
結婚や、人間関係や、また持ち物などが、自分の心を思い煩わすものとなってはなりません。
心のうちの拠り所、自分の王座に、主に座っていただくのであれば、何が最善なのか分かりますし、主も最善へと導いてくださいます。
どうか、主を第一として、秩序ある生活をしていく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します、アーメン。
今回の配信は、いつもとは文体が違う事に気付かれた方もおられると思います。
いつもは私・林が、メッセージ音声を配信原稿を落として、テキストメール配信しておりますが、
今日の配信は、昨日から当教会で働きを始めた働き人に、原稿作成していただきました。
この作業は音声メッセージを聞きながらタイピングしますが、彼はタイピングがまだ得意ではないため、結構大変だったかと思います。
しかし終わった時、兄弟姉妹から「お疲れ様でした」と言われました所、彼は、疲れるどころか恵まれて逆に元気が出てきました、と仰っていたそうです。
これから彼が、主にあって、主の御用の為に用いられる器としてますます整えられて行きますよう、お祈りいただければ幸いです。
当教会に、今日から新しい働き人が与えられました。
これから彼が、主にあって、主の御用の為に用いられる器としてますます整えられて行きますよう、お祈りいただければ幸いです。
礼拝説教メッセージ音声:召されたままの状態で(1コリント7:17-24):右クリックで保存
韓国語通訳有
キリスト者である私達一人一人は、神に呼び出された者達、世のシステムから天のシステムへと組み込まれ、死と呪いに属する者からいのちと祝福の内に入れ替えられた者達である。
しかし具体的な生活や、仕事とか家庭状況を変えなくてはならないというものではない。
「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。」(17節)
私達が今置かれている場所・状況において、主が召しだしてくださったからには、その現場・状況こそ神様から提示されている働くべき領域である。
私達にはそれぞれ分があり、そこを背伸びして、分を超えた事をわざわざする事も、それが出来ないと言って憂うような、いらぬ先回りも、全く必要無い。
「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。」(20、21節)
今の状態が、奴隷であろうと主人であろうと、従業員であろうと雇用主であろうと、主婦であろうと働いていようと、そうした立場は主の御前に関係なく、大切なのは、神の命令、すなわち、御言葉を守る事である。
しかし、不正な利益を得る事や、不品行の生活など、主に喜ばれない習慣からは脱出するべきであり、主に助けを求めるなら、たとい、自ら止める事が出来ないような状況であっても、主はそこから救い出して下さる。
バプテスマのヨハネが現れた時、彼はまず群集に、悔い改めにふさわしい実を結べ、戒めた。(ルカ3:7-14)
バプテスマを受けたから、教会に通っているからと言って、何でもかんでも許されているわけではなく、悔い改めるためにバプテスマを受けたからには、悔い改めに相応しい実を結ぶべきである。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(ルカ3:8,9)
バプテスマ受けたといって安住し、以前の生活に留まったまま、何ら悔い改めの実を結ばないなら、やがて切り倒され、火に投げ込まれてしまうのだ。
群集がヨハネに「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたとき、彼は、困っている兄弟姉妹に分け与えなさい、また、自分の職務を越えて、持っている権力や力を乱用する事無く、頂いている給料で満足しなさい、と勧めた。
私達は、主から頂いている分を超えず、各々がそれに従い、召された状態のまま歩むべきである。
イエス様のいのちの値段によって買い取られた者らしく、悔い改めに相応しい行動をし、それぞれ与えられた環境、場所、能力に応じ、豊かな実を結ぶ皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!