メッセージ - 201201のエントリ
今日の夜の祈祷会は、何と表現していいのか分からないような、素晴らしい時間でした。
雲ひとつ無い、晴れ渡った空のように、スッコーンと底抜けに広く明るい雰囲気でした。
主が、天声に集った聖徒達のこれからを、底抜けに祝福しておられるような気がします。
キリストの香りを放つ者(2コリント2:12-2:17)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 2コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2012-1-31 20:15
礼拝説教メッセージ音声:キリストの香りを放つ者(2コリント2:12-2:17):右クリックで保存
韓国語通訳有
「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」(2コリント2:14-15)
当時、ローマ帝国では勝利を重ねてローマに凱旋した時、香りの高い香を焚きながら、打ち負かした国々の捕虜を引き連れ、凱旋行進していました。
パウロは自分を、キリストの勝利の行進に連ならされた者、すなわち、キリストに打ち負かされた者、キリストの捕虜、キリストの奴隷として、自分を表しております。
事実彼は、エフェソでも、トロアスでも、そしてコリントでも、いつでも弱く惨めで敗北した者であるかのようでしたが、弱いからこそ、逆に勝利者なるキリストの強さが引き立ち、至る所で、キリストの香りを放っていたのです。
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。」(2コリント4:8-12)
私達は自分を降ろし「キリストの香り」を放つ者でなくてはなりません。
自分達の香りや教会の香り、牧師の香りばかり放ってキリストの香りが無いのは、本末転倒です。
キリストに降伏し捕虜となった者として、キリストに縛られて行くのであれば、キリストの栄光の香りを至る所で放つ事ができます。
このキリストの香りが放たれる所では、人は、真っ二つに分かれます。
すなわち、救われる人々と、滅びる人々です。
「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。」(15,16節)
伝道しに行った時、救われる人が起これば、成功したと思い、邪魔されたり迫害されたりして、誰も福音に繋がらなかったら、失敗した、と思うかもしれません。
ところが、福音に「反対する」という反応があったのであれば、私達はキリストの香りをそこに放った、という事において、大成功を収めたのです。
ステファノは大勢の前で偉大な説教をしたにもかかわらず、悔い改めた人は一人もおらず、逆に反対され、石打にされ、殺害されました。
彼は強烈にキリストの香りを放ち、その香りによってエルサレム教会は散らされ、香りは至る所に届けられ、そしてその香りは、後の伝道者パウロに強烈なインパクトを与えました。
ステパノを殺害した者達は、ステパノを眠りにつかせましたが、ステパノから放たれた香りは結局、反対者全員に死に至らせる香りとなってしまったわけです。
キリストの香りを豊かに放つには、神の言葉に混ぜ物をしてはなりません。
「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(17節)
私達はいたるところにおいても、キリストの香を放つ者であるべきです。
どうか日々自分を降ろし、御言葉に混ぜ物をする事無く、キリストに捕虜とされた者として、純粋なキリストの香りを放つ皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。
水曜午後の祈祷会でも講解説教をしておりますが(今はヤコブ書)、今までその配信をしておりませんでした。
今年から、音声だけでも配信する事にしましたので、PCやスマフォの方はご利用ください。
ヘブル人への手紙:
http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/index.php?cid=17
ヤコブの手紙:
http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/index.php?cid=18
また、水曜夜と金曜夜の祈祷会メッセージも、音声だけですが、アップしております。
祈祷会メッセージ:
http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/index.php?cid=5
一週間に10メッセージ程しておりますため、さすがにテキスト化までは手が回りません。。。ご了承ください。
礼拝説教メッセージ音声:真実な関係(2コリント2:5-11):右クリックで保存韓国語通訳有
「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。 そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」(2コリント2:6-8)
ここに出てくる「その人」とは、おそらく第一コリント5章に登場する、父の妻を妻としている不品行の人の事でしょう。
パウロは、体そこにいなくても、主イエスの御名によってその人を裁き、サタンに引き渡したとさえ言いました。
それはその人の肉が滅ぼされるためですが、それによって、その人の霊が主の日に、救われるためです。(1コリント5:5)
信徒をサタンに引渡したい牧会者など、恐らく一人もいないでしょうが、パウロが敢えてそのような事をしたのは、その人が憎くて、感情任せにではなく、良くなって、救われて欲しいがために、涙と呻きを持って為したのです。(2コリント2:4)
そしてその人は、多くの人から処罰を受けて、十分悲しんで、悔い改めたようです。(6節)
パウロは今度は、その人への思いやりに満ちた事を書いており、もう処罰を十分受けたのだから、その人を赦し、慰め、愛するようにと勧めております。
パウロが先の手紙を、敢えて厳しく書いたのは、コリントの人達が従順であるかどうか、試すためだ、と、9節に書いております。
彼はこの手紙によって、コリントの人達が憤って断絶してしまうか、あるいは、悔い改めて和解するかを「試し」、コリントの聖徒達を失うか、得るか、という「賭け」に出たわけです。
幸いコリントの人達は、あの手紙によって悔い改め、パウロはコリント人達を、霊的に得ました。
悔い改めへと導かれたからこそ、和解が成立し、このような悔い改めと赦しと愛に満ちた手紙を、書くことができたのです。
悔い改め無き和解は、妥協に過ぎません。
兄弟姉妹達が、御言葉に反する方向に行こうとするなら、パウロのように、断絶も辞さないほどの厳しさで臨まなくてはならないのが、本来あるべき姿です。
そして悔い改めたのであれば、赦し、愛で包むべきです。
「わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。」(11節)
罪を犯した兄弟姉妹と相対する時、怒りに任せてしまうと、サタンに機会を与えやすいため、気をつけなくてはなりません。
「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」(エペソ4:25-27)
私たちは互いに真理を語り合い、その関係は、真実であるべきです。
罪を犯しているのであれば、御言葉に基づき指摘して戒めるべきですが、罪を犯しているのではなく、価値観や習慣のちょっとした違いから、怒りへと発展してしまう事があります。
例えば、Aという兄弟が習慣的・無意識にしている事は罪ではないのだけれど、Bという兄弟の神経を常に逆なでし続けているようであるなら、Bは我慢し続けるのではなく、その事を正直にAに申し上げるべきです。
いつまでもその事を思い巡らしてサタンに機会を与えたり、罪を犯していまう前に、真実を言って、お互いの間をすっきりさせるべきです。
「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」(エペソ4:27)
もし悔い改めたのであれば、たとえ同じ過ちを犯したとしても、七度を七十倍するまで赦しなさい、と、イエス様はおっしゃいました。(マタイ18:21-35)
なぜなら、私たち全てが、莫大な借金を免除してもらっているからです。
どうか、主イエス様にあって、赦され、そして聖なるものとされた者たちらしく歩む皆さんでありますように。
互いに、御言葉によって教え合い、ある時は責め、戒め、有益な事を勧め合う兄弟姉妹達でありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
癒される資質(ヨハネ5:1-13)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
ベテスダの池のほとりに、大勢の病人や体の不自由な人、やせ衰えた人が伏せっていた。(ヨハ5:1-9)
主の使いがときどき池に降りて来て水を動かすことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。(異本訳<5:3b-4>)
いつ御使いが降りて来て水が動くとも分からず、また、動かされたあとで最初に入った者しか癒されないという、限定的な状況でしか癒しは起こらないため、そこにいる病人達にも、厳しい競争原理が働いていた。
現代社会も、このベテスダのほとりに似た状況で、人々は厳しい競争の中を、あえぐように走り抜き、人を押しのけてでも幸いを得ようと、虎視眈々とベテスダの池が動く時を見張っている。
「ベテスダ」とは「恵みの家」という意味で、彼らは御使いが水を動かして病が癒されるという「恵み」を狙っていたが、現代を生きる人々は、どんな「恵み」に入ろうとして、狙っているだろうか。
少しでも良い学校や企業に入る事だろうか。少しでも年収の高い旦那を得る事だろうか。
しかし、そうしたものを得るには、非常に倍率が高く、各々違った「ベテスダ」からいつまでも抜け出せず、ただ長い間、特に何をしたという成果も無いまま、いたずらに時間を過ごしてきた人は、大勢いる。
御使いや力ある者、企業や権力などが立てた「恵みの家」から、癒しや必要の満たし等を求めても、それを得られる者は、競争に勝った少数の力ある者だけで、頂く恵みも永続するものでは無く不完全である。
ところが、そうした「ベテスダ」の競争に参加せずとも、救われる方法がある。その鍵は、イエス様である。
ベテスダの池のほとりに、38年もの間、病に伏せった状態で、そこから抜け出せない人がいた。
人にとって、38年という病の日々は、絶望的に長く、生活も、価値観も、凝り固まってしまったかもしれない。
そんな彼のところにイエス様は行って、彼を見、言葉をかけた。「よくなりたいか。」
彼は「はい」と答えるような希望も、思いも、気力も、とうの昔に失せており、ただ自分に何々してくれる人がいない事、誰もが我先にと行ってしまう「嘆き」を、久しぶりに声をかけてくれた方に訴える他できなかった。
イエス様はそれに対し、同情の言葉を返す事をせず、手を延べて癒す事もせず、ただ「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」という言葉を投げただけだった。
38年も床を担いで歩いた事の無い者にかける言葉とは到底思えないし、随分冷たい対応のように見えるが、とにかく彼は、つべこべ言う事無く、ただイエス様に言われた通り、癒され、床を担いで歩きだした。
他に大勢病人がいる中、この人だけを癒されたのは、彼には癒される資質があったからである。
イエス様は、誰も彼も自動的に癒すお方ではない。たとえイエス様を知っていても、イエス様を信じない者や、イエス様のお言葉の通り実行しない者には、御業を働かせられないし、癒せない。(マルコ6:1-6)
彼は、自分に声をかけた人がイエス様とは知らなかったのに、癒された。 癒される資質とは、イエス様を知っているか知っていないかは関係無く、ただ、イエス様が言われた言葉の通りに、実行する事である。
イエス様の言われた通り行う者に働くパワーは、人間の何十年という時間や価値観よりはるかに強く、どんな頑固な病気も、凝り固まった固定概念や価値観も、打ち破って余りあるのだ!
イエス様は安息日の主であり、ユダヤ人の祭りにおいて本来、祭られる本尊であるべきお方のはずだが、人の祭りと化してしまったユダヤ人の祭りや、神の安息を忘れてしまった形骸的な安息日は無視し、どこへ行かれたかというと、人々から忘れ去られ、あらゆる競争に負け続け、全ての希望も失ってしまったような人を、わざわざ訪問し、声をかけ、救いのチャンスを与えて下さった。
彼を信じる者は救われ、信仰を持って行動するなら癒しが与えられ、汚れは聖められ、死から命へと移る。
皆さんはどんな床に、どれくらいいただろうか。どんな「ベテスダ」で競争に揉まれ、何を得て来ただろうか。
イエス様の「起きて床を取って歩け。」という言葉どおり行い、凝り固まってしまった価値観や、凝り固まってしまった体を癒していただく皆さんであますように。イエス様の名前によって祝福します!