メッセージ - 201201のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:栄光の体(1コリント15:35-49):右クリックで保存
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ある人の家が、火事になってしまったとします。
その家の主人が奥さんに、私はこの家の焼けてしまった灰と炭を利用して、前よりさらに優れた家を作ろう、と言うとしたら、愚かに思うのではないでしょうか。
家が焼けて灰になったなら、全く新しい素材で家を建てるのが当然なように、復活とは、今までの肉体の延長ではありませんし、この体は一度死んで滅びなくては、栄光に満ちた体は与えられません。

私達の体は、植物の種粒のようなもので、種粒は土に蒔かれて死ぬ事がなければ、新しい命を息吹いて成長する事はできないように、私達も、一度死んでこのからだが破壊されなければ、復活の体は与えられません。
成長した植物が、その種より遥かに素晴らしいように、復活の体は、現在私達が持っている体よりも、遥かに素晴らしいものです。

生まれながらの人間は、アダムに似たものです。
アダムは土で作られ、罪を犯し、汗水流して働かなくては生きていけず、いずれ死んでしまうのと全く同じように、私たちの肉体の構成成分は土と同じですし、罪を犯しますし、汗水流して働かなくてはなりませんし、いずれは死んでしまいます。

しかし、最後のアダム(キリスト)は命を与える霊となった、とある通り、キリストに繋がるなら、このお方に似る者となるのです。
キリストは罪がないように、私達も罪なき者に似ていきますし、彼は死ぬ事がないように、私達も死ぬ事がなくなりますし、彼が栄光に満ちているように、私達も栄光に満ちていくようになります。

もし科学が発達して、死ぬことが出来ない体になったとしたら、第二のアダムが現れたのを見た時、死ぬ事が出来ない人は、きっとそれを後悔するでしょう。
なぜなら、一度死んで復活したキリストに似た栄光の体は、今私達が生きている肉体の体より、はるかに優れたものだからです。
復活の体は、今生きている世界一美しい人よりも遥かに優れた栄光を持ち、また、どんなに鍛え上げられたアスリートよりも、遥かに優れた特性を持っているからです。(41-43節)

私達の体が日々衰えるとしても、主にあって希望があります。
やがて過ごす永遠の視点から今を考えれば、この地上をいかに過ごすかという事を、もっと大切に思う事でしょう。

この地上において、肉に蒔くなら滅びを刈り取り、霊に蒔くならいのちを刈り取ります。
畑で収穫を得たい人は、望む収穫物の種を蒔くように、私達も天で栄光の体を受けたいなら、地上では霊に蒔き続ければ良いのです。

どうか日々、御霊に蒔く者となり、かの日には、より優れた栄光ある体を獲得する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:死に勝利したキリスト(1コリント15:29-34):右クリックで保存
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サドカイ派は、当時の特権階級から成る人達で、現世的な地位や富、快楽などを追求し、復活は無いと言っている人たちです。
イエス様は、「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と、サドカイ派の人たちに迫りました。(マタイ22:32)

神についての正しくない知識を持つ事は、神について何も知らないよりも、はるかに悪い事です。
死者の復活がないといった正しくない知識は、正常な信仰を混乱させます。
この世の利得や栄えが好きな人たちは、復活を否定するもので、「明日は死ぬのだ、さあ飲み食いしようではないか」という価値観によって、無意味な人生を生きてしまう事になります。
そのような人たちを友人として常に交わっていると、現世的な価値観が染み付いてしまい、キリスト者としての品性や良い習慣が損なわれてしまいます。(33節)

キリストに仕え復活を望みつつ送る人生は、「明日は死ぬのだから飲み食いしようではないか」と言っている人たちの人生よりも、遥かに良く充実した人生です。
キリストは、死を乗り越え、死に勝利しました。

もしキリストのよみがえりが無いならば、使徒達のあのようなダイナミックな変化は、説明がつきません。
パウロもキリストを信じたゆえに、毎日が死の連続だと言っておりますが(31節)、殉教を目前に控えた時、私は勇敢に闘い、走るべき道のりを走り終えた、あとは義の栄冠が待っているだけだ、と告白し、誰よりも誇り高く、充実した人生を送った事を思い返しております。(2テモテ4章)

「だれが、キリストの愛から私達を引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。私たちは、キリストの故に一日中死に定められているかのようですが、それら全ての中において、圧倒的な勝利者となっているのです。」(ローマ8:35-39)
死に勝利された主、イエス様の愛から、私達を引き離すものは、何もありません。
私達は永遠の誉れある役目へと、任じられました。

どうか、その聖なる勤めにふさわしい働き人として、今日も一日を歩む皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
 

今日は日々教会に熱心に来てくださっている親子の家に招待いただき、祝福の御言葉と祈りをしてきました。

この親子は、家から教会まで1時間ほどかかるにもかかわらず、とても熱心に(というより交わりがやみつきで?)通っておられ、多くの時間とお金と労力を、主のために捧げて下さった聖徒です。

「それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

主がこの家庭に、収支を償わせて余りある霊的祝福を与えてくださいますように。

ともし火の油を絶やすなかれ(マタイ25:1-13)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

私達は世に対してはキリストの光を届ける者だが、キリストを迎えるためにも、ともし火を灯す必要がある。
天の御国は、ともしびを持って花婿を出迎える十人の娘に譬える事が出来る。(マタイ25:1-13)
当時の結婚のしきたりとして、花婿が花嫁をむかえる日、花嫁の友人の女たちは花嫁の家で待機して花婿をともしぴを持って出迎えることになっており、そして、花婿が花嫁を引き取った時、行列をともなって結婚式と披露宴に入る事になっていた。
この譬えの中の娘達は、まことの花婿であるキリストに迎え入れられる私達・キリスト者を指している。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)とある通り、ともし火は御言葉をあらわし、キリストの花嫁となる必要最低条件は、まず、御言葉を持っている事である。

そのうちの五人は愚かで五人は賢く、 愚かな娘達はともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
賢い花嫁達は、心から花婿を愛し「主人」としていたため、主人が都合によって迎えに来てくれる時が遅くなったとしても、その心備えが出来ていたため、当然のように油の用意をしていたが、愚かな花嫁達は自分を「主人」とし、きっとこの時間になったら花婿が迎えに来てくれるだろうと、花婿の行動を身勝手な思い込みに限定してしまっていたため、花婿が遅れるという「想定外」への対処など、思いもしていなかった。
そして、花婿が迎えに来るはずの時は遅れ、夜は更けた。
今の時代はまさに夜が更け、闇が支配しているような時代であり、キリストは本当に来られるのだろうか、と疑いたくなるかもしれないが、まさしくこの時、信仰が試されており、キリストは曙の光のように確かに訪れて下さると信じて、いつキリストが来られても良いように、御言葉の灯火と共に油も準備しているべきである。

油とは聖霊を意味し、御言葉を光として灯すには、人の知恵や解釈ではなく聖霊による導きが必要である。
聖霊が与えられるためには、主に求め続け、探し続け、叩き続けるなら、与えられる。(ルカ11:5-13)
そして、自分の願う事を降ろし、主の御心の通りになるよう祈るのであれば、油はどんどん滴って行く。
イエス様は油絞りという場所、ゲツセマネで、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られ、その従順な祈りが聞き入れられ、油注がれたお方、キリストとなられた。
このように私達は、主に求め続け、自分の願いを降ろし、御心に従う事によって、油を貯めて行くのである。
私達という「器」は、常に聖霊の油に、また、キリストに注がれ滴り落ちる油によって満ちているべきである。

花婿が迎えに来る時は、誰も知らず、思いがけない日の思わぬ時間に来られる。(マタイ24:50, 25:13)
だから主は、再三にわたって、目を覚ましていなさいと注意されたのであり、いよいよ花婿が迎えに来た時、普段からの花婿への思いや、自分が迎え入れられる心備えのあるなしで、天地ほどの差がついてしまう。
愚かな娘たちは、賢い娘たちに「油を少し私たちに分けてください」と言うが、主に迎え入れられるために貯めて来た油は、その人自身が、地上で御言葉に従順に歩んできた尊い記憶のようなもので、とうてい誰かに分けてしまえるようなものではない。
「店」は正確には「物々交換する人」で、普段から御言葉に従順してではなく、売買や取引などで油を得ようとしている内に、花婿が迎えに来てしまい、賢い娘達は迎え入れられ、戸は閉じられてしまうのだ。
普段からキリスト任せではなく人任せの信仰をしている人も、「ちょうだい」と言う声についつい応えて与えてしまう人も、要注意である。人に与えるべき物・与えてはならぬものの判別は、必要である。

この夜の時代、寝ても覚めても愛する主を思い、心から彼を求めるなら、夜回りに助けられ、やがて愛する人を見出し、奥の間における親密な交わりに入る(雅歌3:1-4)。
しかし、愛する方が入ってこようとして戸を叩いても、自分を優先させているような者は、やがて愛する方に背を向けられ、手遅れとなっり、探しても打ち叩かれてしまうような時が来てしまう。(雅歌5:2-8)
主に求め続け、自分の願いを降ろし、御心に従う事によって、聖霊の油にいつも満たされ続ける皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

今日は教会で1月誕生の聖徒達のために誕生祝をしてくれて、私も祝っていただきました。

ちなみに私は、19日が誕生日です。

思えばこのメルマガは、ちょうど去年の20日から始めましたので、もうすぐ一年が経ちます。

無事にここまで守られて感謝です。
 

礼拝説教メッセージ音声:権威と秩序(1コリント15:20-28):右クリックで保存
韓国語通訳有

万物はすべて、権威構造によって成り立っております。
例えば、犯罪人を逮捕する権威を得るためには、警察に属さなくてはならず、警察で高い地位につくためには、その警察の権威に服従し続けていなくてはならず、そして、従順に服従し続けていけば、巡査部長、署長というようにより権威が増し加えられ、より大きな事が任されるようになっていきます。
同じように、神に属する者となって、神の権威に服従すればするほど大きな権威を帯びるようになり、多くのものが任せられるようになっていきます。

天地を創られた神の権威に、最も服従されたお方がキリストで、彼は従順によって全ての権威が与えられました。
対してサタンは、上に立つ権威をあざけり逆らったため地に投げ落とされ、やがて永遠の滅びに渡されてしまいます。

キリストは十字架の死に至るまで忠実に御父に従われ、身をもって私たちに、服従の見本を示して下さいました。
そして「キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。」(24節)
その支配は、全ての敵をその足の下に置くまで、と定められており、全ての敵がその足の下置かれた時、キリストは全ての権威を御父に引き渡され、そして父なる神は、全てにおいて、全てとなられるのです。(28節)

神の権威に従うか従わないかによって、永遠の生死が分かれ、永遠の祝福と呪いが分かれてしまいます。

そもそも人類に死が入ったのもの、一人の人、アダムの不従順を通してでした。
しかし第2のアダム、イエスキリストお一人の従順を通して、人類に死からの解放がもたらされたのです。(ローマ5:17-19)
一つの違反によって、全ての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によって、全ての人が義と認められて、命を与えられるのです。
恵みの場合は違反と違い、一つの義の行為によって多くの違反が義と認められるわけです。

アダムの子孫である私たちは、具体的にアダムのような違反はしませんでしたが、私達がまだアダムの腰の中にいた時、アダムと一緒に違反を犯したことになり、そうして私達の内に権威に逆らう遺伝子が組み込まれてしまったのです。
しかし、神である主は私達を救うために、信仰によって義とされる法則を私達に示して下さいました。
どうすれば、その法則が自分に適用されるのでしょうか。
それは、信仰の法則に従う事によって、すなわち、キリストを信じれば救われるという、実にシンプルな決まりごとを、単純に信じて守り行う事によって、です。
この救いの法則に従順になれば、いのちの御霊の法則によって支配され、もはや罪と死の法則からは解放されるのです。(ローマ8:1-2)

最後の敵である死も、滅ぼされます。(26節)
この世界はエントロピー増大の法則に、すなわち、物事はより無秩序の方向へ、より死の方向へと向かっていく法則に縛られております。
この世で唯一「いのち」だけが、その法則に逆らうものですが、秩序の神であり、いのちの神であられるお方は、その最後の敵である死も滅ぼされ、全てはいのちに飲み込まれるようになるのです。

ますます忠実に権威に従い、更に多くを任せられる皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:復活が無いなら(1コリント15:12-19):右クリックで保存
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もしイエス様が、よみがえられなかったとしたら・・・。
イエス様を見殺しにしてしまった弟子たちは、イエス様が葬られて3日目、勇気を振り絞って、閉じこもっていた部屋から出てきて、墓を守る兵士達を何らかの手段で気絶させ、頑強な封印を解いて重い石をころがし、イエス様の遺体を盗み出して秘密の場所に持って行き、そして至る所で「イエス様は蘇った」と流言した、のでしょうか。

また、ペテロやヨハネ他、数人の弟子達は、昔の職業である漁師に一旦戻ったものの、モチベーションを喚起させて再び宣教者に戻り、
「美しの門」の物乞いを買収し、「生まれつきの足萎えだったけれども、十字架につけられたイエスの名によって癒された」と吹聴させ、
そうこうしているうちに逮捕され、大祭司一族や議員などの有力者達が大勢いる前に連れて行かされ、
そうなっても威厳を取り繕い、「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によって」彼は癒された、と、有力者達も驚くほどの大胆さと、誰も言い返せないほどの知恵で、既に死んで腐臭を発しているイエスを、あたかも生きているかのように、推し出した。というのでしょうか。

果たして、みすみす見殺しにしたような弟子達が、既に死んでしまった師匠を「よみがえった」と言って、命がけで吹聴するメリットは、一体どこにあるというのでしょうか。

あらゆる反対者にとって残念な事に、キリストは実際に復活し、多くの人に現れて下さったいました。
だからこそ、三度もイエス様を知らないといったあのペテロさえ、そこまで大胆に造り変えられ、漁師の網を完全に捨てて人間をとる漁師へと戻ったのです。
父の御許に戻られ、約束の助け主を与えて下さったからこそ、彼らは逮捕されても、大勢の権力者達の前で堂々と、イエス・キリストは死者の中からよみがえられた、と語る事ができたのです。

イエス様が蘇られて、その莫大なる復活の力を体験した人たちは、実際に大勢おりました。
だからこそ、ユダヤ教のナザレ派という、漁師や取税人、遊女といった社会的弱者から構成される、まとまりがなく、お金も知恵も力もない弱小集団が、世界に冠たるローマ帝国を席巻し、後には帝国そのものをキリスト教国にしてしまったのです。

それなのにコリントのある人達は、死者の復活は無い、と言っていたようでした。(12節)

確かに「死者の復活」は、良識ある人間には、ばかげた事、大真面目に主張すれば、気が違っていると思われても、仕方のない事です。
高等教育を受けたパウロですから、そんな事は百も承知でした。
しかしそれでも彼は、愚直なまでに、アテネの公議会でも、フェストやアグリッパ王の前でも、死者の復活を大真面目に宣べ伝えたのです。

使徒行伝26章、23節から29節までを見ますと、一見、パウロが王や高官たちの前で宣教している場面のように見えますが、前後を読んでみますと、なんとこの場面は、彼が捕縛されている理由を王が問い正すため、彼に申し開きをするよう命じ、パウロはその許しを得て申し開きをしている、という場面です。
弁明次第では保釈されるし、一歩間違えれば、死刑にされるかもしれない、という場面で、なんと、キリストの事と、死者の復活がある事を、大胆に伝えたのでした。

フェストは、パウロが死者の復活を述べた時、気が狂っているぞ、と言いましたが、このような反応は当然でしょう。
世の中人にとって、死者の復活を伝えれば当然、フェストやアテネの住人のような反応は、目に見えています。
そのような先回の心配をして、愛や赦しといった人受けする事だけ語って、人に受け入れ難い死者の復活や死後の裁きを語らない教会も、世の中にはあります。
しかし、パウロは愚直なまでに十字架の福音や、死者の復活を語り、結果、多くの人が救われ、力に満ちた伝道となりました。

イエスを信じた者は罪赦され、死者はよみがえるのです。
天国があるように地獄もあり、死後の裁きも、確かにあるのです。
御言葉はそのまま伝えるべきで、人間の小さな考え方によって、隠したり操作すべきではないのです。

キリストは確かによみがえられ、今、天の御座に座しておられます。
その天の御座から、私達のために、とりなしの祈りをしておられるのです。
どうか、この復活のキリストの偉大な力にあずかり、このお方を大胆に、まっすぐに宣べ伝える皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

昨日は立て込んでいて配信が出来ませんでしたので、この配信は昨日の早天のメッセージです。

昨日の夕礼拝では、当教会で働き人をしている中祖兄弟の初メッセージがありました。

御言葉たっぷりの素晴らしいメッセージでした。

後で聞いてみると、講壇に立ったとたん、準備して来たものとは違う言葉を流し出した、という事でした。

やはり主は、人の知識や準備によるのでなく、御霊に導かれるメッセージを聖徒達に流したいのだなと、あらためて思いました。

ちなみに今日は、おばあちゃんの95歳の誕生日で、お祝いの礼拝するつもりでしたが、かぜをひいてしまったという事でしたので、またの機会に延期することになりました。

おばあちゃんには会えませんでしたが、その代わり路傍伝道に行って道行く人々に賛美を届けて来る事ができました。

霊的にとても充実した日々を送らせていただいて、主に感謝します。

ホームページでも通知しておりますが、itunesでメッセージのPodcast自動配信登録されている方は、新しい年になりましたので、再度ご登録下さい。

ホームページ上のPodcast画像を、itunesへドラッグするだけで、新しい音声メッセージが自動的にダウンロードされるようになります。

毎年この作業をするのは面倒だと思いましたので、今年からはそのようにしなくても良いように、仕組みを整え中です。

礼拝説教メッセージ音声:死と復活(1コリント15:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有

福音、すなわちエヴァンゲリオンとは、勝利の喜ばしい知らせという意味で、その勝利は、死からの勝利であり、罪からの勝利であり、もろもろ私たちを縛っている呪いからの勝利です。
15章では、この最も大切な事として、死者の復活の事を、コリントの人達に伝えております。

おそらく歴史上、死から蘇生した人は大勢いるでしょうが、イエス様の死と復活は、それとは根本的に違う性質のものです。
人が死ぬのは、単にその人の生きるべき分が尽きたからに過ぎず、たとい死から蘇生したとしても、必ず、また死にます。

イエス様が死なれたのは、「聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだ」のです。(3節)
そして、葬られ、全能なる神の御力によって、三日後に蘇られました。
「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」(詩篇16:10)
主は「死そのもの」に勝利され、今も後も、永遠に生きておられます。
そして彼を救い主として信じて、彼につづく者は、罪が赦され、義とされ、永遠のいのちをいただけるのです。

主がよみがえられた事の証人は、大勢います。
ケパに現れ、12弟子に現れ、500人以上の兄弟たちに同時に現れました。
パウロがコリント人への手紙を書いた時点でも、そのキリストを見たという証人たちが大勢生き残っておりました。
これだけ、多くの生き証人がいるわけですから、キリストは紛れもなく、肉体をもってよみがえられたのです。

そしてキリストは、最後にパウロにも現れてくださいました。

パウロがまだキリストに出会っていなかった時、神に仕えるという名目の元、多くの聖徒達を牢にぶち込んだり、死刑に立ち会ったりして来ましたが、彼のように、本来使徒になるべきでない者が、使徒にされたのは、真に、神の恵みによるものです。
イエス様は、多くの罪を赦された者は多く愛する、と言われましたが、パウロは多く赦されましたので、彼は他の全ての使徒たちよりも、より多く働きました。
「しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(15:10)

パウロは確かに、他の人達に比べて多く働きましたが、それ自体は他の人に誇ることはできませんでした。
なぜならそれは、彼自ら出たことではなく、神からの一方的な恵みによるものだからです。

パウロ自身、石打ちや鞭打ちなどの迫害に遭う度に、自分のしてきたことを思い出したでしょう。
他の人達では耐えられないような鞭打ちや石打ちを、パウロが耐えることが出来たのは、主からいただいてきた恵みを、思い起こしたからです。

皆さんの中にも、自分はキリストの弟子たりえない、つまらない者だと思っている人がいるでしょうか。
自分の犯して来た罪に、穢れにまみれてしまった自分に、思い悩む人もいるかもしれませんが、キリストが赦す事の出来ない罪は無く、除けない穢れはありません。
なぜならキリストの救いの方法は、死と復活だからです。
古い自分は、一度死に、復活して新しく生きなおせる、という救いの方法です。
そして、多くを赦された者は、より多く愛するのです。

もはや、以前の古い自分は、十字架の向こう側へと、逝きました。
これからは、新しい、キリストと共なる命を、生きることができるのです。
どうか、復活の領域にあって、キリストのための働きをする皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって、祝福いたします。
アーメン。

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