メッセージ - 201201のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:貴い器となる(1コリント12:12-20):右クリックで保存
韓国語通訳有
御霊の賜物の大きな特徴は、与えられている一人ひとりが、体の各器官のように、互いに補い合い、有機的に機能する事です。
私達はキリストの体の各部分であり、御心のままにキリストの働きをするべきです。
体の各部分は、互いに有機的に組み合って初めて機能し、生き生きとすることが出来ます。
もし聖徒が独立し、群れから離れてしまうのであれば、単細胞生物のように単純かつ下等な行動しかできませんし、もし、体全体が手だけ、足だけであるなら、ただの化け物になってしまいます。
野球のある球団では、他の球団からエースと言える選手を、お金で引き抜いて集めた事がありました。
結果、その球団が他のどの球団よりも強くなったか、というと、そうではなかったようです。
その球団は、一人一人の能力は確かに高いのですが、それぞれが与えられた立ち位置になじめず、うまくプレイできなかったのです。
野球とは、チームプレイのスポーツです。
エースとは、陰でフォローしてくれる人がいたからこそエースとなれたのですが、フォローされる事に慣れ切ってしまった人たちだけが集まった結果、機能不全に陥り、弱くなってしまったのです。
むしろ、一人一人の能力が弱いとしても、全体が有機的に機能する集団のほうが、断然強いのです。
教会という集団の一人一人が、たとえ社会的に弱くても、また見栄えが悪くても、その頭であるお方が、名監督であるなら、世のどの組織よりも強いのです。
教会の監督、教会の頭なるお方はキリストです。
野球の球団が強くなるためには、選手一人一人がしっかり監督の命令に従わなくてはならないように、私達も、頭なるイエス様にしっかりと聞き従わなくては、キリストの体である教会は、機能不全に陥ってしまいます。
「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(13節)
教会に一般の方が来ると、非常に不思議な所に来たな、と思うようです。
なぜなら、普通に生きていれば、絶対に接点がないであろう人たちが、互いに親密に交わっているからです。
いかに聖徒達の社会的立場や国籍が違っていようと、キリストというお方にあって、兄弟姉妹として一つとなる事が出来るのです。
私達がさらに貴い御用に用いられるには、ますます清められ、不義から離れなくてはなりません。
第二テモテ2章の20節から22節に、こうあります。
「さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。
、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。
若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」
この箇所では、一人ひとりの聖徒たちが、大きな家の中の一つ一つの器にたとえられております。
ある物は卑しいことに、ある物は貴いことに用いられますが、尊いことに使われる器となるためには、自分自身を清め、不義から離れなさいと勧められております。
他の箇所でも「あなた方はより優れた賜物を求めなさい」と書いてある以上、より優れた賜物が与えられる望みは、確実にあるのです。
皆さんはキリストの体の各器官であり、各々主からいただいて託された賜物があります。
お互いがキリストのからだの各器官である事をわきまえ、おごり高ぶったり卑屈になったりする事無く、与えられている賜物がますます磨かれ、さらに優れた賜物が与えられるようにと、主に願ってください。
さらに優れた賜物が与えられ、さらに貴い器として用いられる皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:御霊の賜物(1コリント12:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有
11章ではコリントの教会に秩序がない事をパウロは叱責しましたが、12章では、与えられている賜物を誇ったり、また他の人を見下したりするような人々に対し、御霊の賜物とは何かを示し、また、その賜物の正しい用い方を示しております。
コリントの街は偶像崇拝が盛んで、そのために、悪霊による不思議な現象も色々起きていたことでしょう。
そのような中において、どの霊がキリストからのもので、どの霊がそうでないかを、見分ける必要があります。
その見分け方は、一言で言えば、イエス・キリストを証しているかどうか、です。
ヨハネ16章の7節と8節をご覧下さい。
御霊は助け主であり、その方が来ると、義について、罪について、裁きについて、人に知らせますが、悪霊はむしろ、罪や義、裁きを、あやふやにしてしまいます。
続いて、14節を見ますと、御霊は、イエス様の栄光を現すものだと分かります。
すなわち、御霊の賜物が与えられる理由は、ひとえに、イエスキリストというお方の栄光を現すためであり、そして教会の益となるため(1コリント12:7)です。
たとえ奇跡を行う賜物を持っている人がいるとしても、その奇跡を行う人自身が名誉を上げるような用い方は、正しくありません。
賜物が与えられるのは、あくまで、キリストというお方を栄光化するためであり、また、教会の益となり、ますます教会が建て上げられていくためです。
この箇所を見ますと、御霊の現われ方が合計9つありますが、その源は、同じ霊です。
奉仕にも色々なやり方がありますが、その奉仕をする対象であられるお方は、同じ主です。
また、働きもいろいろありますが、それら全ての働きをなさるお方は、同じ神です。
兄弟姉妹それぞれが助け合い、キリストの体を建て上げてこそ、賜物は有効な力が発揮できます。
例えば「異言を解き明かす力」は、異言を話す人がいなければ何の役にも立ちませんし、異言を話す人だけがいても、その異言が他の人を立て上げる事は出来ません。
そのように、ある聖徒の賜物の現われを、別の聖徒が有機的に補う事によって、2人または3人が、20人または30人分の働きをする事になります。
ですから聖徒は孤立するべきではありませんし、誰かが弱いとか役に立たないからと言って、切って捨てたりして良いものではありません。
後で学びますが、弱いと見られる人こそ、かえって大切だからです。
何より、御霊の現われの存在理由は、イエスキリストというお方に栄光を帰すためです。
どうか、みなさん一人一人に与えられている賜物を、私達の主キリスト・イエスのために、秩序正しく発揮されますように。
そして、さらに優れた賜物が与えられ、より主の栄光を現していく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって、祝福いたします。
アーメン。
本日は聖徒達に手紙を書いておりましたが、焼き鳥屋で水道が漏れたというので、さっきまで焼き鳥屋におり、それで配信がこんな時間になってしまいました。
最近、コムタンスープを作るようになり、排水溝に油がたくさん浮いていました。
その油が原因だったようで、それを取り除いたところ、無事に流れるようになりました。
主が、祝福を留める霊的な詰まりも取り除いて下さった事を信じつつ。。。
2012年が明けました。おめでとうございます。
今年も主にあって、どうぞよろしくお願いします。
天声では、昨晩22時半から悔い改めの賛美と祈りと御言葉によって年を越しました。
深夜の礼拝の後、みんなでごちそうを頂き、そして主日が開けて、朝10時半からと14時からの礼拝もあり、礼拝づくしの年明けでした。
結構なハードスケジュールのはずなのに、昨晩から泊りがけで参加された皆さんはとても楽しく充実した時を過ごせたようです。
教会に泊まったのは7名ほどで、中には静岡から来られた姉妹もいますが、なぜそこまでして参加されるかというと、やはり、いのちの祝福と喜びがあるからでしょう。
今年もしっかり御言葉につながり、キリストの香りといのちの祝福に溢れた年であるように、ますます自分を空しくして主に仕えたいと思います。
祝福された一年でありますように!
光よ。あれ。(創世記1:1-5)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
神は世の全てを6日に渡って創造し、第7日に創造のみわざを完成し、休まれた。
「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(創世記1:31)
はじめに神が創造したものは全て美しく調和し、全てが完全で、はなはだ良いものだった。
しかし今の世を見るに、その美しく調和の取れたはなはだ良い世界とは、一体どこにあるのか。むしろ、闇に覆われて形無く、混沌である、という表現のほうが、しっくり来るのではないか、と思うかもしれない。
そうなってしまった理由はただ一つ。人が神の命令から離れ、自分勝手な選択をしてしまった結果である。
憐れみ深い神は、そんな世を絶ち滅ぼしてしまうのではなく、呪われてしまった世界と、罪と死に支配されてしまった人間とを、再び回復するために、御子イエスキリストのいのちを通して買い戻す方法を取られた。
それが聖書の全体像である。
世は、初めからおられた「ことば」なるキリストによって造られ、この方によらずに出来たものは、一つもない。
世にまだ光が無く、闇に覆われていた時、神は、めんどりが雛を羽で覆うようにして、混沌の上を覆っておられたように、主は、混沌の闇にうずくまって一人泣いているような私達をご覧になり、愛の御翼で覆い、その陰で守っておられたのだ。
そしてこの方はいのちであり、このいのちは人の光であり、闇はこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1章)
その全ての人を照らす、まことの光なるキリストは、罪と死の闇に閉ざされてしまった人にまことの光をもたらし、混沌となってしまった人に秩序をもたらし、いのちを創造されたあの御業を再び働かせて下さるのだ。
我々はその主を、主日すなわち日曜日に祝うが、なぜユダヤ人のように安息日にではなく主日に祝うのか。
まず、律法が与えられたイスラエルの民には、安息日を覚えてこれを聖とせよ、と命じられたが、彼らは本当の安息に入ったのではなく、来るべき真の安息を世に現すためにと、安息日を守るよう指示されたのだ。
「もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。」(ヘブル4:8)
つまり真の安息は、イエスを信じて神の民となった我々に、新創造である我々に、残されているのである。
主日、すなわち週の初めの日、第1日は、神が「光よ。あれ。」と言葉を発せられ、光が世に来た日である。
そしてまことの光なる主イエスは、主日に甦られ、主日に弟子達に顕現され(ヨハネ20:19-29)、初代教会の聖徒達も主日に集まっていた(使徒20:7)から、我々もそれに習い、主日にイエスを覚えて、祝っている。
神は、第7日すなわち安息日に創造の御業を休まれたが、アダムは創造の御業を台無しにしてしまった。
そこで神は、第二のアダム、すなわち全ての人を照らすまことの光なるキリストを遣わし、罪と死の闇に閉ざされてしまった人にまことの光をもたらし、混沌となってしまった人に、秩序をもたらして下さった。
だから、新しい創造へと造り変えて下さった、まことの光なる主が来られたこの日を、我々は祝うのである。
キリストこそ真の安息へと導いてくださる安息日の主であるが、その安息に入るにはどうすれば良いか。
「信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。」(ヘブル4:3)つまり、「信じる」事である。
アダムの失敗である自分の主張をキリストの元に降ろし、御言葉なるキリストを信じて、服従する事。
荒野を40年さ迷った民が、安息に入れなかったのは、福音を説き聞かされても従おうとしなかったからであり、みことばを聞いた人たちが、信仰によって混ぜる事をしなかったからである。(ヘブル3:13-4:2)
神の安息に入った者は、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休む。(4:10)
キリストは十字架上で「完了した」と言い、頭を垂れて主に霊を明け渡され、そして安息日が始まったように、私達も、生来の人間的なわざは十字架に明け渡し、信仰によって安息に入る。
そしてキリストが主日に甦られたように、私たちも共に甦り、新創造であるいのちにあずかるのである。
御言葉なるキリストを信じ、神の安息へと入る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!