メッセージ - 201202のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:キリストの愛迫る故(2コリント5:11-15):右クリックで保存
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イエス様は、ご自身の命を差し出すほどに私たちを愛してくださり、その愛は、どこまでも私達を追い、迫ってきます。
もし私たちが罪に向かうとするなら、キリストはうめくように迫り、立ち返る事を願っておられますが、主は決して、私達の自由意志を侵害する事はありません。

「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめいの体を住みかとしていたときに応じて、報いを受けねばならないからです。」(2コリント5章10節)
人は皆、一度死ぬことと死後裁きにあう事が定められますが、キリストは人が一人として滅びる事無く、永遠のいのちを得る事を望んでおられます。
パウロは、そのキリストの愛に駆り立てられ、時には、狂っているかのように見られるほどに、キリストをのべ伝えました。

「一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(15節)
これは、全ての人達が知るべき事柄です。
主が私達のために死んでくださった以上、私たちは生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

主がどれほど愛してくださったかを、更に知る事が出来、そして、行動の動機全てがキリストの愛に突き動かされて為すものでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:新しい体を着せられる(2コリント5:1-10):右クリックで保存
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私達が生きているこの肉体は、使っていればやがて壊れてしまう幕屋(テント)のようなものですが、後に神様から頂く体はこのテントよりも遥かに優れた豪邸のようなものです。
旅路において確かにテントは必要ですが、何日もテント生活をしていると疲れてしまうように、この地上での人生という旅路は、疲れを覚えるものです。
「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」(4節)

地上を生きる肉体には罪があり、諸々の必要があり、その体を存続させるために、そして、死から逃れるために、我々は額に汗して働き、労苦しなくてはなりません。
しかし、神様から与えられる新しい住まいには、罪は無く、死もありません。
罪ある滅びるべきものは、罪なき滅びないものを着、死ぬべきものは不死を着、こうして死は命に飲み込まれるのです。

私達がこの死ぬべき体から解放されて、新しい住まいに住めるのは、イエス・キリストが私たちを買い戻して下さった故です。
私達の体は日々衰えますが、キリストにあって朽ちない体を着せられる時、死は勝利に飲み込まれたという御言葉が実現します。(1コリント15:53-57)

「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。」(5節)
御国の体を受け継ぐための保証(手付金)が御霊です。
保証とは手付金とも訳せ、永遠の御国は私達に保証されており、聖霊が私達に与えられているのです。

私達はイエス様を信じて救われたからと言って、好き放題してよいというのではありません。
なぜなら人は、一度死ぬ事と、死後裁かれる事が、定められております。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(10節)
そういうわけで私達は、この地上において、主に喜ばれる事をするのです。
天の御国のための積立貯金は、今しかできません。
この体は既に主のものとなった以上、生きるにしても死ぬにしてもキリストのためになすべきです。

ただ、天の御国をもって、何より愛するイエス様に喜ばれ、その愛の動機によって、この地上での日々を歩んでいく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:見えるものと見えないもの(2コリント4:13-18):右クリックで保存

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」(16節)
外なる人は私達の肉体であり、日々衰えていくもの、永続しないもの、その組成は土にすぎません。
内なる人とは、イエス・キリストにあって息吹かれた私達の霊であり、それは朝ごとに新しく、キリストを感知し、キリストを表現し、キリストにあって莫大な力を秘めています。

『「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。』(13節)
この箇所は詩編116編10節からの引用ですが、その詩編の作者も主を信頼し、主の御前で誠実に歩もうとしました。
それでも、困難があると「私は大いに悩んだ。」と告白してしまいましたが、すぐに「すべての人は自分も含めて偽りを言う者だ」と否定し、それから主はどういうお方かを告白し、そして、感謝と賛美をしました。

私達の肉体や、内側にあるものを見ても、絶望しかありません。
ただ私達の希望は、内なるお方・キリストであり、このお方にあって私達は日々新たに造り変えられていきます。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(18節)
見えるもの、すなわち私達の肉体や精神、また私たちが頼りにしがちな富や人などは一時的です。
しかし、見えないもの、すなわち、キリストにあって息吹かれた霊である内なる人は、いつまでも続きます。

どうか皆さんの内に息吹かれた霊にあって、私達と共におられるお方が、どれほどすばらしいかを口で告白し、じっくり味わい、感謝する皆さんでありますように。
イエス・キリストの御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:途方もない宝を秘めた私達(2コリント4:7-2:12):右クリックで保存
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私達は土の器にすぎませんが、キリスト者は内側に、途方もない宝を入れています。(2コリント4:7)
その宝とは、キリストです。

泥で団子を作る「泥団子」は、実は奥が深く、団子をうまく磨けば磨くほどツヤが出て、反射するまでになり、宝玉のようにもなります。
しかし材料が泥である事には変わりありませんので、落とせば粉々になるし、水分が無くなれば、ひび割れします。

私達という土の器も、泥団子のように自分磨きをするのですが、所詮は土のちりに過ぎない事が、いずれ明らかになります。
自分磨きもいくらかは有益ですが、私達という土の器よりも、むしろ器の中に入っている宝のほうが、はるかに勝っています。
だから私達は、土に過ぎなくとも、計り知れない宝をお入れしている「器」であると、わきまえる事が大切です。

キリスト者になれば、苦しみや困難などが無くなる、と思ったら、大間違いです。
むしろ、それらの中にあっても、私達という土の器にキリストをお入れしている状態であるならば、どんな困難にも、どんな不足にも、決して行き詰ったり倒されたりする事はありません。(8-10節)

パウロも肉体に何かしらの病があり、それを「わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」と表現しました。(12:7)
しかし、キリストの力は、人の弱さの中でこそ十分に発揮されます。
それ故パウロは、キリストの力が宿るように、むしろ、自分の弱さを大いに喜び、誇りましょう、と言いました。(第二コリント12:9)

私達の全ての助けの源を、土の器に過ぎない自分に置かず、内におられる方・キリストに委ねる時、キリストの圧倒的な復活の力が働きます。

その時、自分の力を発揮できず、死に定められているようにも見えますが、その弱さの中でキリストの圧倒的な力が働いて、キリストの力が、誰の目にも明らかになるのです。
その時、艱難も苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、どのような困難の中にあっても、私達を愛して下さる方によって、圧倒的な勝利者となる事ができるのです。(ローマ書8:35)
そして、世のいかなる被造物も、死も、命も、主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことはできません。

この内側におられる宝なるキリストから、無限の力をいただきつつ、日々を歩むみなさんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:神の言葉を曲げる事無く(2コリント4:1-6):右クリックで保存
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「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。」(2コリント4:5)
イエスキリストにあって、いのちの務めを為す際に、最も大切な事は、より多くの人を惹き付ける事ではなく、神の言葉を曲げる事無く正しく伝える、という事です。

多くの人が受け入れやすいよう、意図的に「地獄は無い」とか「イエス以外でも救いはある」などと言うのは、もっての外ですが、自分が善い事をしていると思いつつ、無意識的に、神の言葉を曲げる人もあります。
例えば「弱い人を憐れみたい」という思いが強いために、キリストを主としてもいないのに「あなたは高価で尊い」「天国がある」などと、聖書の特典的な良い面ばかりを語って、キリストの十字架を語らないのは、神のことを思わず、人間のことを思う者であり、そのようにしたい誘惑は、サタンの巧妙な罠です。
「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16:23)

御言葉を正しく伝えるのは私達の責任ですが、福音を受け入れるか受け入れないかは、聞いた人の責任になります。
しかし4節を見ると、不信者の目をくらまし、キリストの栄光を輝かせない霊的存在があるようです。

そのような霊的勢力に対しては、霊的な武器をもって対抗しなくてはなりません。
「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エペソ6:12)
「真理の帯」がぐらぐらしていては、霊的武具はすぐに解けてしまいますし、「救いの兜」がしっかりしていなかったら、すぐに頭(思い)を攻撃されてしまいます。
唯一の攻撃の武器は「御言葉の剣」であり、エバはこれを正しく用いずやられてしまいました(創世記3章)が、キリストは3度、御言葉の剣で正しく対処し、勝利しました。(マタイ4:1-11)
私達の内の、真理や救いの確信、義とされている事、救いの平和、信仰、そして御言葉が、しっかりしている事こそ大切である事は、エペソ6章10-17節をお読みいただければ理解出来ます。

『「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。』(2コリント4:6)
私たちが神の栄光を知る知識を輝かせるには、「光あれ」と言われた神によって照らし出されなくてはならず、キリストを知る知識のかおりをを漂わせるには、キリストに全く服従し、キリストについていかなくてはなりません。(2コリント2:14-17)
パウロのように、キリストに全面降伏しているのであれば、私達もキリストの香りを放つ者となり、栄光の光を輝かせる者となります。

御言葉を混ぜ物する事無く正しく伝え、キリストの光を放ち、キリストの香りをさらに放つ皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

迷子の羊を捜す主(ルカ15章1-7節)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

イエス様は、群集の頂点で安穏としているお方ではなく、むしろ、迷っている人や弱っている人、見捨てられている人々を探し訪ね、声をかけ、悔い改めに導き、天の王国へと連れ戻して下さるお方である。
パリサイ派や律法学者達がイエス様に、「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と、なじった時語られたのは、見失った羊の譬えと無くした銀貨の譬え、そして、放蕩息子の譬えだった。
この3つの譬えを通して、御子キリストも聖霊も御父も、失われた者を探し、悔い改める者を喜ぶ事を、語られた。今回は、羊飼いと見失った羊の譬えを見ていきたい。(ルカ15章1-7節)

譬えの中では当然、主が羊飼いであり、私達がその羊である。(詩篇23篇、100篇)
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原(原意:荒野)に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(ルカ15:4)
羊は近視眼で迷子になりやすく、草を食べるのに夢中になって、気がついたらどこかへ行ってしまっていた、という事は良くありがちで、そして、迷い出た羊は、大変危険な状態に陥る。
羊は、臆病で弱い。攻撃する角や牙は無いし、身を守る甲羅も、俊敏な足も無い。
群れにくっついて行動するしかなく、一度群れから離れてしまうと自力で元の所に戻ってくる事はできない。
もし羊を一頭だけを群れから離すと、パニック状態になってしまい、捕まえるのも難しくなるため、「一頭の羊を捕まえるよりも、百頭の羊を捕まえるほうがたやすい」と言われているそうである。
主は私達をよく羊にたとえているが、確かに私達は近視眼で、主の御元を離れては好き勝手な方向へ行き、迷子になってはパニックになって、ますます危ない方向へと暴走してしまう事は、ありがちな事だ。

ヨハネ10章を見ると、良き羊飼いなるイエス様と、私達・羊との関係が、詳しく書いてある。(ヨハ10:1-6)
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出して先頭を行き、羊は羊飼いの声を聞き分け、ついて行く。
この時に羊が迷子になるとしたら、先頭を歩く羊飼いに従わない、あるいは、羊飼いの声を聞いても、名前を呼ばれても、ついて行かない場合である。
また、羊の囲いは、石垣の上にイバラを載せ、有刺鉄線のように外部の侵入や脱走を防ぎ、羊飼いはその囲いの中に羊を入れ、羊飼いは入口の所で寝ていた。
だから囲いから迷い出るとしたら、茨の囲いを強行突破するか、門にいる羊飼いを越えて行くしか無い。
私達は時に、イバラの囲いを窮屈に思って強行突破したくなったり、主に先んじたり、時には主を飛び越えて行ってしまうかもしれないが、主の囲いの外は、命がけで守ってくれる羊飼いはおらず、牧草もいのちも見出せない。(ヨハネ10:7-11)
主が私達の牧者である時、私たちは緑の牧場に導かれ、憩いの水辺に連れられ、死の陰の谷も恐れなく導かれ、敵の前で宴を用意され、杯は溢れ、慈しみと恵みが追ってくる事が、約束されている。(詩篇23)

主は、迷い出た一匹を見つけ出すまで捜して下さるが、 99匹を野原(荒野)に残して行かれる。
羊99匹を荒野に残していくのは、危険な気もするが、荒野といえば、悔い改めのバプテスマを受ける所(マタイ3:1-3)であり、悔い改めた人は、「悔い改める必要のない正しい人」(ルカ15:7)なのだ。
あるいは、この話は、自分を義としているパリサイ人達に語っているため、「自分を悔い改める必要の無い義人だと自認するような者は、荒野に放置して、良き羊飼いであるわたしは、失われた羊を探しに行く」と、皮肉も言っているのかもしれない。

この譬えの主人公は、迷子になった哀れな羊ではなく、喜んで下さる主であり、罪人が悔い改めたのなら、天で大きな喜びが沸き起こる事が、譬えの趣旨である。失われた羊を見つけた時、羊飼いは大喜びで、肩にかついで、しかも友達や近所の人達をわざわざ呼んで、と、大げさな気がするかもしれないが、それほどに、私達・羊を気にかけ、愛し、高らかに喜んで下さるのだ。(ゼパニヤ3:17)
まことの羊飼いなる主、イエス様の名前によって、祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:直接主に言って下さい(詩篇25篇):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:舌を制御する(詩篇39篇):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:舌を制御する(ヤコブ3:1-12):右クリックで保存
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奇跡の合格

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2012-2-5 20:30

ある娘さんが高校受験をしました。

その高校を受けるには、彼女の偏差値は全然届かず、そして、横浜で最も倍率の高い高校でしたので、学校の先生も、塾の先生も友達も、120%ムリ! とハンコおしていたのに、、、。

なんと、受かってしまいました!

彼女は複雑な事情の家庭で、とても私立に通える経済状況ではかったのですが、それでも家族の将来のために、高校に受からなくてはならなかったのです。

そこで祈りました。

「イエス様助けてください!」

ただこれだけの祈りです。

学力では対応しきれないので、徹底した面接対策して望みましたところ、どうやら受かってしまったようです。

私は、祈り倒して願い事を叶えよう、というより、身の丈にあった事に満足を、というクチですが、人は生きていく上で、そういう理屈に収まっている訳には行かない事情があり、主は、それら全ての人の成り立ちをご存知で、主の栄光を現すのに最善で、かつ、人が高ぶらないように、恵みを与えて下さるお方です。

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