メッセージ - 201203のエントリ

今日も礼拝や学び会の後、10人ほどが残り、皆で夕食を作って食べました。

主日礼拝の後、大勢で食べる夕食は、本当に楽しくおいしいです。

夕食の後、静岡のある夫婦の誕生日サプライズのために、CDを録音しました。

彼らはアクラとプリスキラのような夫婦で、静岡の教会だけでなく天声教会も色々な面でお世話になり、主のために忠実に仕えておられた夫婦です。

バースデーソングを歌いながら、また、御言葉メッセージを伝えながら、彼らの祝福を祈り、また、この主にある交わりはなんて祝福されているのだろう、こんなに幸いな交わりの中にいていいのだろうか、と思いました。

300デナリを捧げるか、銀30枚を取るか(ヨハネ12:1-8)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

イエス様は、苦難を受けられるかの過越祭の6日前、ベタニヤにて晩餐にあずかった。
食卓にはイエス様に甦らせて頂いたラザロも共に着座し、マルタは喜びをもって給仕していた。
マルタはかつて、色々な事を気遣う事に頭が一杯で、主の足元で御言葉を聞き入っているマリヤも働くよう主に指示したが、ラザロを甦らせて頂き、イエスこそ命の君であると知ったため、自分に与えられている賜物をいかんなく発揮し、喜びをもって主に捧げていた。
「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ12:3)
彼女はいつも主の足元に座って、じっと見言葉に聞き入っていたため、他の弟子達は気付かなかった主の心の機微を察知し、6日前という、早すぎず遅すぎないベストな時期に、主の葬りの用意を実行した。
彼女はその時、大切な物を惜しげなく主の御前で割り、主が働き歩んできた「足」に塗り、女の冠である髪でぬぐったからこそ、香ばしい香りがいっぱい広がり、永遠に残る記念として語り継がれるようになった。

信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉による(ローマ10:17)とある通り、私達も主の御足元で御言葉を聞き入っているなら、そのタイミングでしか出来ない事を見分ける事ができ、その時、自分の大切なものを主の御前に割って捧げつくし、自分の冠を、主の「足ぬぐい」にさえ喜んで差し出すなら、主の喜ばれる香りが溢れ満ち、それは永遠に語り継がれる記念として、御前に残るのである。
私達は主のために、どんな「香油」を割れるだろうか。また、どんな「髪」で、主の御足を拭えるだろうか。

さて、この高貴な香り漂う麗しい調和を破って、しゃしゃり出る者があった。イスカリオテ・ユダである。
 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がそう言ったのは、貧しい人の事を心にかけていたのではなく、聖徒の捧げ物を自分のものとして、好きにしたいからである。
マリヤにとっては値段はどうでも良く、イエス様がもうじき葬られる事を悟り、止むに止まれぬ思いで捧げただけなのに、ユダは主の御思いを量るどころか、主ではなく人を見て、「私だったら300デナリをこうする」と言って、自分の定める礼拝形式を押し付けたり、その通りにしない者は間違っている、と裁いたりした。
彼の特徴は、聖徒の礼拝や交わりを分析し、値定めし、口出しする事である。そのような者は、要注意だ。
また、麗しい調和をぶち壊して、人々の注目を自分に向けさせ、アピールし、栄光も横取りしたりする。
このような者はイエス様が好きなのではなく、イエス様にひっついて大活躍している自分が好きなのであり、イエス様が自分の思い通りに動かないとなると、銀貨30枚で売り飛ばしさえする。

私達はさまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ(2コリ10:5)、欲望や一時の感情という「銀貨三十枚」と引き換えに、イエス様を見積もって売りたい性質、裏切りたいようなユダの性質を、取り扱わなくてはならない。
あの人の捧げ物は間違っていると陰口を叩いたり、兄弟姉妹の麗しい交わりを、自分の気に食わないと言ってぶち壊したりする時、高貴な香り漂う場は一転して汚れた欲望の臭いニオイに満ちてしまうからだ。

イエス様は、ユダの下心も、あさましい動機も、当然知っていたが、その事は一切触れず、平和で麗しい交わりを掻き乱さないように、それとなくユダに諭した。「わたしはいつも一緒にいるわでではない」(8節)
それが私達も習うべきイエス様の品性であり、ユダに対処する時の模範である。

私達はいつまでも地上で生き長らえている保障はなく、いつまでも赦してもらえる、という保障は無い。
私達はマリヤのように、捧げるべき時機にいつでも300デナリを捧げる準備は出来ているだろうか。
それとも、いつでもイエス様を売って、自分の好き勝手という銀30枚を得たい心を、野放しにするだろうか。
今しか出来ない悔い改めも、今しか出来ない礼拝も、先延ばしするのではなく、今、為すべきである!
マリヤのように主に香ばしい捧げ物をする皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
水の上を歩けるか?(マタイ14:25-33):右クリックで保存
韓国語通訳有

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つまづきを与える者の災い(ガラテヤ1:6-10):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヤコブ5:7-12:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:真理を妥協するなかれ(ガラテヤ2:1-5):右クリックで保存
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ある人々が「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教え、それによって混乱が生じた時、パウロ達は決して妥協する事なく、使徒や長老たちに協議するために、エルサレムへ上った。(使徒15:1-2)
これがいわゆるエルサレム使徒会議である。

この会議で主が為して来られた御業の数々が挙げられ、それらを総合すると、人の救いは、ただ信仰によって以外には考えられない事が明らかとされ、律法を異邦人にも強要して悩ませてはならない、という結論に至った。
もしパウロがあの時、少しでも譲歩していたらなら、私達異邦人にここまで福音は広まっていなかった事だろう。

「聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。」(使徒15:24)
割礼など律法の行いを強要しようとした者達は、元々、エルサレム教会から何の指示も無いのに、勝手にそのように言って、混乱させたのだ。
アンテオケの教会は真理を妥協しなかったお陰で、健全に成長して行ったが、福音に混ぜ物する輩は古今東西後を絶たないもので、ガラテヤ人達は、それによって惑わされてしまった。

「潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。」(ガラテヤ2:4)
偽の兄弟たちは一見正しい事を言っているようで、神に仕えているかのように見えるが、心の中はそうではなく、律法に通じている事を自慢の種にして、主にある兄弟姉妹達を支配して、上の立場に立ち、偉ぶりたいのだ。

「福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。」(ガラテヤ2:5)
単に偉ぶりたいがためにキリストの福音を曲げてしまうような輩に対しては、パウロのように、一歩も譲歩してはならない。

パウロが地中海方面に福音を広める事が出来たは、パウロの力というより、パウロの伝えた福音の御言葉そのものに力があったからだ。
パウロは福音を混ぜ物する事なくダイレクトに伝え、御言葉の純度を保つ事において少しも妥協しなかったからこそ、御言葉自らが人々をいのちに満たし、造り変え、そうして福音が広まっていったのである。

真理を曇らせる者達に決して譲歩する事無く、御言葉なるキリストご自身に働いていただくように、主に用いられる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:キリストを目指した歩み(ガラテヤ1:11-24):右クリックで保存
韓国語通訳有

「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。」(11節)
ガラテヤの聖徒達を惑わした偽使徒達は、エルサレム教会のお墨付きである事など、人間的な事を根拠に、自分達の権威を主張したが、パウロはその真逆で、人間的な所に根拠を置く事は一切排除し、ただキリストによってのみ召しだされ、導かれ、宣教のわざを為した事を主張したのが、本日の箇所である。

パウロは元々パリサイ人で、キリスト者達を牢に入れたり、死刑に定めたりして来たのに、ある日突然逆転し、キリストを迫害する者から、宣べ伝える者へと変えられた。
その事は、当時のキリスト者には誰にも知られていた所である。
それは人間業ではなく、ただキリストご自身が、圧倒的な臨在と力によってパウロを造り変えた、としか説明がつかない。

パウロが造り変えられた時、そ事の相談は、パリサイ人の先生にも、キリスト者の使徒にも相談する事は出来ず、彼は主と一対一で向き合うためにアラビヤ(荒野)に出て行き、そこでおそらく主との直接的・濃密な時間を過ごした事だろう。(16-17節)
それから3年後、彼はエルサレムに行くが、ペテロと交わったのは僅か15日のみ、また、主の兄弟ヤコブの他は使徒には会わず、すぐにシリヤおよびキリキヤの方へと退いた。

そういうわけで、彼は、偽使徒達が誇りにしていたエルサレム教会とは、ほぼ接点は無かったが、しかし彼はエルサレム教会のどの使徒よりも、力強く主にあって働いた事は、明白な事である。
パウロは、ペテロが神を見ず人を見て、本心に偽った行動を取っていた事を、面と向かって責め立てた程、信仰の面で研ぎ澄まされていた。
エルサレムの指導者達の集まりの中で安穏としていた大使徒達に比べ、荒野で主と一対一で交わったパウロの方が、健全な信仰だったわけである。

キリスト者が信仰生活を歩む上で欠かせないのは、主イエスキリストと直接的に出会い、主と一対一で向き合う事である。

キリスト教といえば、弱い人を憐れんだり、社会活動をしたりする人達だと思う人もいるだろうし、あるいは魅力的な牧師と出会って、彼のような人格者になりたいと思う人もいるかもしれない。
素晴らしいキリスト者を模範にするのは大いに結構だが、そのように、人間の誰かを第一として目指す歩みは、実は「キリスト者」とは言えない。
キリスト者が目指すべきは、素晴らしい牧師のような人格者になる事ではなく、キリストから目を離さず、キリストご自身を目指すべきである。

アンテオケで「キリスト者」と呼ばれるようになった根拠は、元々、彼らは「キリスト気違い」と揶揄される程、キリスト、キリストしか無い者達だったからである。
キリスト者とは、キリストと出会い、キリストに魅せられ、キリストのために生きる者達である。

私達が日々歩み続ける目標は、どこにあっただろうか。
キリスト以外にあった場合は、キリストへと軌道修正したい。

礼拝説教メッセージ音声:早速の叱責(ガラテヤ1:6-10):右クリックで保存
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「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(6節)
パウロの他の手紙で1章6節といえば、まだ賛辞や挨拶が続いているはずであるが、ガラテヤへの手紙に限っては、早速叱責へと移っている。
キリストは、私達の罪のために命を投げ打って救ってくださったというのに、そのキリストを早くも離れ、ほかの福音に乗り換えつつある事を、パウロは驚愕したからである。

敵は私達に与えられている自由を妬んで、私達から自由を取り上げ、束縛の奴隷へと落ち込ませようとして、忍び込んできている。
「潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。」(ガラテヤ2:4)
もし私達が、兄弟姉妹や牧師などの話を聞いた時、心に汚れた思いや束縛感が増し加わるなら、それが御言葉の真理から来たものか、すぐに照らし合わせる必要がある。
真理は私達を自由にするものであり、聖霊は清い御霊であるから、たとい、御言葉が私達の行動を制限するとしても、その制限の内に健全で自由な霊が増し加わるものだからである。

「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」(8節)
「呪われるがよい」という言葉「アナテマ」は、神の庇護から離れ地獄へ堕ちよ、と言うほどの、とても厳しい言葉である。
ことに、つまづきを与えて人の信仰を貶めるような者に対しては、主も同じように厳しく言っている。(マルコ9:42)
つまづかせる者は、それほど災いなのであり、たとい、御使いのような者であっても、また、御使いであっても、災いである事には変わりない。

一体ガラテヤ人達は、なぜ一たび自由にされたのに、律法の束縛に戻ろうとするのか。
それは、「すがるな、味わうな、さわるな」といった教えは、あたかも賢いもののように人には見えるからであり(コロサイ2:20-23)、また、そのような困難を自分に課した事で、自分を誇る罠に陥り易いからである。
しかし、一時的な自己顕示欲を満足させるために十字架を覆い隠すような事があってはならず、キリストというお方の栄えを差し置いて「私達」の栄えを押し出してはならない。
私達も、十字架の福音語らずキリストを覆い隠そうとするなら、この偽使徒達のように、呪われるべき者となってしまう。

救いに至る道は唯一、主イエスの十字架であり、その他に救いの道は無く、私達も十字架以外に誇りとするものは決して無いのだ。

礼拝説教メッセージ音声:譲ってはならないキリストにある自由(ガラテヤ1:1-5):右クリックで保存
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ガラテヤ人への手紙は、いつ、どこで、また、ガラテヤのどこに書かれたかはあまり定かではなく、状況的な手がかりを書面から余りつかめない程、パウロは本質だけをこの手紙で簡潔に書いている。

この手紙は全体的に論駁的で、それは福音の本質である「キリストにある自由」を侵害する者に対するパウロに怒りと、その者達によって欺かれてしまったガラテヤ人へのうめきに満ちているため、2コリントよりさらに情熱的な論調である。

イエスを信じる信仰によって救われる、というシンプルな福音に混ぜ物をし、割礼を受けさせる等、律法の行いをしなくては救われないと主張して、キリストにある自由を侵害する事を、パウロは決して赦す事ができなかった。
だから彼は1章1節の最初から、自分の使徒としての権威は人間からのものではなく、イエスキリストにある神から出たものである事を宣言し、そして4節では、キリストはあなたたたちを悪から救い出すために、いのちを投げ出して下さったという真理を宣言している。

あたかもキリストの贖いは不完全で、それに人間が何かを付け足す事によって救いを完成しようと思っているガラテヤ人を、パウロは真っ向から牽制したが、私達も同じ過ちに陥っていないだろうか。
キリストがただ一度、いのちを投げ出して提供して下さった十字架の救いは、完全であり、自分の何か頑張りも添えて完成させよう、などと思うのは、謙遜ではなく傲慢である。

「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。
 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ1:4-5)

いよいよ2コリントの講解説教が今日で終わりです。

ローマ、第一コリントと違って、教義的な内容は少なく、一教会へのプライベートなメッセージで、パウロのコリントに対する押し迫るような愛が篭った手紙でした。

明日の早天からは、ガラテヤ人への手紙の講解説教に入りたいと思います。

主がどのように導いて下さるのか、楽しみです。

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