メッセージ - 201203のエントリ

今日は春らしくて暖かく気持ちの良い日でしたので、教会のテラスにPCとコーヒーカップを持ち込んで仕事をしました。

大通公園に面した所の2階ですので、目の前は公園の木々が見えますし、すぐ下は通りを行きかう人々や車も見えます。

こんなにも気持ちいいのは、寒い日々の中に、突如暖かい日が現れたからで、人が気持ち良いよ思うのは、温度や季節の変化があるからですね。

「あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。」(申命記11:11)

アップダウンがあるからこそ、味わいも楽しみも増すものです。

礼拝説教メッセージ音声:肉体のとげ、サタンの使い(2コリント12:7-13):右クリックで保存
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パウロは素晴らしい啓示を披露し、その直後、弱さを誇っている。
「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」(7節)
この「とげ」が何を意味するのかには色々な説があり、彼の目の病ではないか、あるいは「サタン」から来る絶え間ない試練や誘惑、あるいはパウロを邪魔して止まない誰か人ではないか、など言われている。

第三の天にまで上げられ、多くの人を癒し、多くのサタンのわざを砕いてきた、あのパウロが、病か何か「サタンから送られた使い」に苦しみ、しかも主に3度願っても、主はそれを去らせてくださらない。
この矛盾にも見える事の意味は、一体何だろう。

この「とげ」が与えられた事の理由は、まず「思い上がることのないように」(7節)である。
また9節、『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』

つまり、キリストの力の表れとは、木や石で出来た偶像が人間の力によって立て上げられ担がれるのとは真逆で、キリストが弱い人間を建て上げ、担ぎ上げ、そうしてキリストの力が、弱い人間を通して働かれるのである。
人が徹底的に人間由来の力をあきらめ、全てをキリストに委ねる時、キリストの力が大いに働くのである。

私達にも、常に何らかの形で痛めつける「とげ」が刺さっているかもしれない。
それは病かもしれないし、誘惑かもしれないし、名前を挙げられる誰か人かもしれないし、与えられた環境かもしれない。
これさえ無ければ私はもっと自由になれるのに、もっと活躍できるのに、と思うかもしれない。
しかし、それらが与えられている理由は「思い上がることのないように」「キリストの恵みが弱さの中で十分に発揮されるために」「キリストの力がわたしの内に宿るために」である。
病が癒されるとしたらキリストの栄光のため、病が与えられるとしてもキリストを頼りとするためであり、キリスト抜きの病は意味の無い苦しみ、キリスト抜きの癒しは大いなる機会損失でしか無い。

「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(10節)
パウロは多くの弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりを体験して来たが、それでも彼の命が長らえ、キリストへの信仰も守られてきたのは、それらを受けるたびキリストへと持って行き、キリストが働き、パウロ個人の人間業では決して出来ない救いが都度、キリストから与えられてきたからである。

結局、全てはキリストへと向かう事によって、意味を為すのだ。
日々キリストに全てを委ね、キリストを体現し、人々にキリストをあらわす皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

月曜はオフの日、ある聖徒が教会の近くに引っ越すという事で、その物件の寸法を測ったり、みなとみらいの家具屋に行って品物を選んだりして来ました。

地元ながら、みなとみらいの建物群はすごいなといつも思わされます。

こういう所の高層マンションには、1ヶ月くらい住む分にはいいかもしれませんが、ずっと住むのはちょっと・・・と思います。

礼拝説教メッセージ音声:素晴らしい神秘的な体験の意味(2コリント12:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有

パウロは自分の弱さを誇った後、第三の天に行くという奇跡的な体験を初披露した。
「仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれない」(12:6)
もしパウロが体験してきた、奇跡的・不思議な体験に焦点を当てて、沢山披露したとしたら、人々はパウロをカリスマ教祖のよう扱うかもしれない。
しかしながら、そうした数々の奇跡的体験も、多くの苦難に耐えて来られたのも、全て、自分の努力によるではなく、神様からの一方的な力添えと、憐れみによるものである為、彼は決して誇る事は出来ない。

パウロは2節以降で、第3の天にまで引き上げられた事を第三者的に書いているが、それは、パウロにとってあたかも他人事のように思えるからだ。
本当にキリストにあって生きている働き人は、自分の関わってきた働きそのものが、あたかも他人事のように、第三者的に見えるものである。
なぜならその働きは、自分のものではなく主の為してくださったものだからである。
確かに自分がその働きをした事には間違い無いのだが、あたかも、自分ではなく他の強く大きな方がそれをして下さって、自分はそれに手を添えていただけ、という感じがするものであるため、その業について、自分は誇りようが無いものなのだ。

彼は14年前、パラダイスにまで引き上げられ、人には語る事が出来ないほどの、素晴らしい体験をした。
どの場所でその体験をしたのかには色々な説はあるが、その一つに、パウロがルステラで石打に遭った時ではないか、という考えもある。
「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。」(使徒14:19-20)
人々から石を当てられ、死んだかのようになっても尚生きているのは人間業ではないが、もっとすごいのは、その直後、自分を石打にした人達のいる町の中へと、再び入って行った事だ。
人には語ることの出来ないほどの素晴らしい事が天において用意されている、その光景をこの時見てきたのではないか、というのも、うなずける。

ルステラでこの体験をしたかどうかは分からないが、ルステラの事に限らず、彼は、四十に一つ足りない鞭打ちという死刑にも等しい重い刑罰を5度も受け、幾度も死線をさまよっている。
それでもパウロがキリストを告白してやまないのは、彼はそれらを遥か上回る、素晴らしい恵みや慰めを受てきたからではないだろうか。
そのような神秘的な体験が与えられる理由は、決して誇るためではなく、私たちが大きな艱難を乗り越えられるようにという、神様からの慰めではないだろうか。

私にはそうした体験は無いが、それは今までそのような苦難から守られていたため、必要が無かったからと思う。
もし私達が、死に至るまで証を守り、殉教する分があるのなら、その時は、パウロやステパノのように、圧倒的な主の栄光を、パラダイスにおいて備えられた慰めの大きさを示され、殉教さえも、余りある喜びへと変えられるであろう。
主からの慰めが無ければ、誰もそのような艱難に耐えうる人間はいないだろう。

いずれにせよ、自分には殉教など艱難が待っているのだろうか、という心配は無用である。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリ10:13)
そして、明日のための心配は無用である。明日のことは明日が心配し、労苦はその日その日に、十分あるからである。(マタイ6:34)

日々キリストに全てを委ね、キリストを体現し、人々にキリストをあらわす皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。

らくだが針の穴を通るには(マタイ19:16-26)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

『さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」』(マタイ19:17)
永遠のいのちを手に入れるにはどんな事を、という質問に対して、イエス様は「善い方」をお答えになった。
これは、質問への答になっていないようで、実は、真に答えである。
私達はこの青年のように、とかく「善いこと」を模索するが、大切なのは「お方」である。

彼は「善いこと」をさらに追求した結果、イエス様から到底出来ないような事を示された。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。(21節)
イエスは彼が去っていくのを見て言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(23-24節)

金持ちになったら、自動的に天の国に入れなくなる、という訳ではないし、イエス様は金持ちが嫌いという訳でもない。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」とあるように(マルコ10:21)、イエス様は、この金持ちの青年を慈しまれ(loved him)、救われて欲しいと願っておられた。
それにしても一体、自分の積み立ててきた財産を一切投げ出して、貧しい人に施せる者など、どれほどいるだろうか? 一体、らくだが針の穴を通る方法は、あるのだろうか?
誰もが認める金持ち悪人だったのに、財を投げ打って施すまでに変えられたザアカイから、ヒントを見たい。

ザアカイは取税人の頭で金持ちだった。(ルカ19:1-10)当時の取税人は、忌むべき支配国ローマ帝国のために、しかも、取り立てるべき税額を水増しして取り立てていたため、売国奴同然に嫌われていた。
そんなザアカイだったが、彼は群集に邪魔され、それでも、木に登ってでも、イエス様を見たいと思った。
するとイエス様は「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われた。
ザアカイは喜んでイエス様を自分の所に迎え入れ、そして、財産の半分は貧しい人に施し、だまし取った物は4倍にして返す、と言う程に、彼の人格も人生も、わずかの間に変えられた。
イエス様の一言「あなたの所に宿りたい」という言葉に応じただけで、らくだが針の穴を、通ったのである!
変えられるコツとは、ザアカイのように、木に登ってでもイエス様を求め、そしてイエス様の「あなたの所に宿りたい」という言葉に応じて、喜んで自分の中にイエス様をお迎えする事である。(黙示録3:20)

青年はイエス様を「善い先生」と呼び、善い事について教えを求めたが、完全な者になるための善い事を教えられたものの、しかしその内容は人には到底不可能な内容で、イエス様を置いて去るしか無かった。
対してザアカイは、イエス様を「先生」ではなく「主よ」と呼び(ルカ19:8)、イエス様を喜んで自分の所に迎え入れた結果、言われてもいないのに、喜んで貧しい人のために財を投げ打ち、喜びの内に救いを得た。
イエス様をどなたと見るかは、大切である。イエス様を「善い先生」と見るなら、人には到底辿り着くことの出来ない高みを見せられ、絶望するしかない。しかしそれでもイエスを主として呼び求め、自分の中に迎え入れるなら、人には到底出来ない事が、ラクに、喜んで出来るように、なるのである。
「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)大切なのは事ではなくお方である。

私達はとかく、砂漠のような世でも、多くを積んで逞しく運んで行く「らくだ」のようになりたがる。
しかし神の国に入る門は狭く、余計なものは門の前に置いて行かなくては、入れない。
イエス様を置きざりにして重荷を背負って砂漠の世を行く者ではなく、自己を置きざりにして砂漠の世をイエス様におぶって行ってもらう皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
良い事ではなく良いお方(マタイ19:16-26):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
十分の一献金とは(レビ記27:30-34):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヤコブ4:11-17:右クリックで保存
韓国語通訳有

第2礼拝で少し触れてましたが、今日は何故か知らないけれど、色々と事が起こりました。

でも、それだけ妬まれているという事は、大きな祝福が待っているという事です。

主がどんな祝福を用意しておられるのか、楽しみです。

P.S.
サタンざまぁwwwww

礼拝説教メッセージ音声:キリストの僕の誇り(2コリント11:22-33):右クリックで保存
韓国語通訳有

パウロは、生まれも学歴も、実績からしても、人間的に誇れる所は多くあったはずです。
しかし彼が誇ったのは、彼自身がキリストの名の故に受けてきた、労苦と困難でした。

パウロは22節で、ユダヤ人である事やアブラハムの子孫である事は彼らと同様であると語っていますが、自分が「キリストのしもべであるかどうか」という事に関しては、狂ったように、彼ら以上にそうであると、絶対に譲れないかのような勢いで強調しております。(23節)

私達はミニストリーをする時、何を誇りにしたいでしょうか。
有名神学校を出る事を誇りにしたいでしょうか。
社会活動の実績を積んで、有名な慈善活動家になる事を誇りたいでしょうか。
あらゆる知識や奥義に通じ、預言や奇跡を成す事を誇りたいでしょうか。
パウロはそういった事は一切話題に出さず、自分は「キリストのしもべである」事を、狂ったように誇ったのです。

23節から27節までを読むと、パウロはキリストの故に、本当に多くの苦難を経てきた事が分かります。
四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度あり、難船したことが三度、一昼夜海上に漂った事もあるなど、使徒行伝に記録されたパウロの苦難は、ほんの一部だったようです。
なぜパウロは、鞭打たれた事とか難船した事などを誇る材料としたのでしょうか。
人を承服させるためには、むしろ、生まれや学歴、為してきた実績を根拠に出す方が、説得力があるように見えます。

では質問ですが、主に仕えるビジョンがあって、人に誇れる程の有名神学校を出たとしても、一体、どこまで、そのビジョンを捨てないでいる事ができるでしょうか。
鞭打たれても、石打にされても、難船しても、捨てないでいれるでしょうか。
四十に一つ足りない鞭打ちとは、死刑に等しい重い刑罰で、ショック死する人も出た程です。
幾度もの死刑に等しい苦しみを前にして、捨てずにいる事は出来るでしょうか。

しかしパウロは、キリストの愛の広さ高さ深さを深く味わってしまい、永遠の救いと滅びの道を前にして、この救いを伝えない事は災いであるとして、そのような困難を前にしても、伝えずにはいれなかったのです。
そしてパウロが経験して来たのは、それら外的な苦難ばかりではありません。

 「このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」(28節)
誰かが躓いて、福音から離れてしまったり、あるいは福音を伝えきれないまま死んで行ってしまった人達を思って、どれほど悩み、苦しみ、涙を流して来たでしょうか。
このような心労が重なってダウンしてしまう牧師も多くおります。

一体私達は、血を流すまでに罪に抵抗した事はあるでしょうか。
どんなに些細な事で怒ったり、どんなケチな自尊心を鼓舞するために誇って見せたり、キリストに習うと言いつつ、どれほど聖徒達の事を気遣って来れたでしょうか。
パウロを思うと、全く私達の方が恥じ入るばかりです。

結局の所、私達には何一つ誇れるものは、存在しません。
「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(30節)
皆さんは、弱いでしょうか。
どうか、弱さの内に働いて下さるキリストを誇りとしてください。
また、自分で何かやろうとしているのであれば、それは投げ捨てるべきです。
キリストに委ねる以外に道が無い時、私達は幸いです。なぜならキリストご自身が弱い私達を通して働き、御業をなして下さるからです。

キリストに全てを委ね、キリストの力を大いに体現する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。

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