メッセージ - 201204のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ニコデモとアリマタヤのヨセフ(ヨハネ19:38-42):右クリックで保存
日本語のみ
 

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)

十字架を前に1(ヨハネ19:14-22):右クリックで保存
韓国語通訳有

十字架を前に2(ヨハネ19:14-22):右クリックで保存
日本語のみ
 

礼拝説教メッセージ音声:バージョンアップしたペテロ(ルカ22:54-62):右クリックで保存
韓国語通訳有

今日は受難日、十字架にかかられた主を覚える日である。
主が十字架にかかられた日の夜明け頃、イエス様は大祭司の庭で尋問を受け、ペテロは少し離れて中庭で火に当たりつつ成り行きを見ていた。

ペテロはその数時間前、最後の晩餐の席で、主から躓く事を予告されていた。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(31-32節)

この「立ち直ったら」とはエピストレフォー、転向し以前よりも優れた状態になる事を、バージョンアップする事を、意味する。
つまりペテロはこの時まだバージョンアップ前だった訳であり、それは、イエス様から「人間を獲る漁師にしてあげよう」と呼び出された時から、その時に至るまで、ずっとそうだったのである。
事実彼は、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と力を込めて主張したのに、その夜が明け切らない内に、彼は人前で、イエスを知らないと三度言い、呪いをかけてまで誓ってしまった。
鶏の鳴く時、ペテロはイエス様と自分との関係を、徹底的に探られたのである。

シモンはイエス様に人間を取る漁師にしてもらい、イエス様と寝食を共に活動するようになって以来、多くの地方を回り、多くの病や悪霊をイエスの名によって追い出し、多くの人達から感謝され、前の漁師生活よりも遥かに充実していただろう。
彼はイエス様に命がけで仕えて来た、と思っていたかもしれないが、結局、以前よりも活躍している自分、充実している自分を存続させるために、イエス様に着いて来ていたに過ぎない。

キリスト者の中にも、その時のペテロのように、自分のために仕えたり、賛美したり、活動したりする人もいる。
キリスト教という「業界」の中で、前よりも充実している「自分」、賛美したり演奏したりして注目を集めている「自分」、世では受け入れられなかったけれど、この優しい人達の集まりの中で受け入れられている「自分」が好きで、なんとなくキリスト業界の中にいるのであれば、やがてペテロのように、イエス様に仕えて来た動機が暴露される「鶏の無く時」が来る。

鶏が鳴いた時、イエス様は振り向いて、ペテロをじっと見つめられた。

イエス様のその眼差しで、じっと見つめられた時、私達は自分の中の主に対する愛の無さ、弱さ、罪深さが、光の下に晒し出される。
その時、私達もペテロのように、思いっきり泣くべきである。
泣くのが激しければ激しいほど、自分の愛の無さ、弱さ、罪深さ、ふがいなさを思い知り、そうしてますます、イエス様と親密になれるからだ。

そしてペテロは再び、復活の主と出会う。
その時、主の御前に「自分には完全な愛で愛し尽くす事はできない、それでも自分はあなたを親っている」と告白するなら、後には聖霊に満たされ、バージョンアップし、力強い証人として、造り変えられる。
それまで自分中心にしか生きられなかった人間が、イエス様中心に生きられるようになり、全世界に出て行き、福音を伝え行く者へと変えられるのだ。

ペテロはその半年も経たない後、もっと大勢の、もっと権威ある人々の前で、イエス様を大胆に証する事になった。
議院や祭司長たちに対し「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリスト」こそ救い主であり、このお方以外に救いは無いと、大胆にあかしし、その一漁師のあまりな大胆さに、彼らはうろたえた。(使徒4:1-14)

ペテロはイエス様を三度も知らないと言っていたが、そんな口で「あなたがたが十字架につけた、、、」などと、言えるのだろうか?
言えるのである。
十字架にあって、以前のものは過ぎ去り、全てが新しくなったからだ。
十字架のこちら側とあちら側では、全く違う者へと創り変えられているからだ。

皆さんも、鶏が鳴いた経験があるだろうか。
十字架の死によって、造り変えられただろうか。
ただ十字架の主の前にひれ伏し、主にあって造り変えられ、力強い証人となって歩み続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:躓きを与える者の災い(ガラテヤ5:1-6):右クリックで保存

救いに至る道を妨げる者、人を福音から遠ざける者は、どれほど災いであるか。

小さな者の一人でも躓かせるなら、むしろ石に結わえられて海に沈められたほうが、その者にとって良い、と主は言っているし、パウロも「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」(ガラテヤ5:12)とまで言っている。
割礼とは、包皮の一部を切り取る儀式だが、それをガラテヤ人に勧め、せっかく受けた救いをかき乱し、躓きへと陥れるような者は、いっそ、不具者になってしまえ、と言う程の強さで、パウロはそのような者を忌み嫌っているのだ。

「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」(1コリント5:6-8)

悪意と邪悪を振りまくパン種のような者から、私たちは一切影響を受けない、だからそのような者も同じ集いに留めても問題は無い、と思っていたら、それは傲慢である。
キリストがわたしたちの過越の小羊として十字架上で屠られたからこそ、私たちはパン種の入っていない者とされたのである。
そこに、古いパン種や、悪意と邪悪のパン種を混ぜて、聖なる集い全体を汚してはならない。

過越祭は旧約の祭儀だが、この屠られた子羊とは、十字架につけられたキリストを表している。
その流された血潮によって、私達の内にあった罪や穢れというパン種は、一切消毒されたため、もはや律法を行う必要はなくなった。
そのキリストが命がけで提供して下さった完全な救いを、あたかも不完全であるかのように見做し、人間が律法の頑張りなどによって、キリストの達成できなかった分を補完しようなどと思い込むのは、傲慢の極みである。

キリストの十字架の贖いは完全であり、流された尊い血潮の効力は完璧である。
それに、人が何か付け加えたりしては、決してならない。

十字架の贖いに何も付け加える事無く、迷い出る事無く、尊い救いに留まり続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

今日は、午後の聖書学び会の後、洗礼を希望されている方のために、第一回目の洗礼準備会を開きました。

洗礼を受けたいと希望しておられるのは彼女だけですが、他に、学びの恵みを共にいただきたいという方も参加し、合計四人で行いました。

キリスト者として最もベーシックな事柄を、御言葉を根拠に学んでいきますので、硬い食物を時間をかけて噛み砕いていくような淡々さはありますが、真理を知れば知るほど、主がどういうお方かを、知れば知るほど、喜びが増し、信仰が増し加わって行く恵みがあります。

礼拝説教メッセージ音声:だまされて束縛されない方法(ガラテヤ5:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(1節)
もし、主イエスを信じる前より、信じた後の方が束縛されている感じが大きいなら、それはガラテヤ人のように罠に陥り、間違った歩み方をしている。
なぜなら、真理は人を自由にするものであるからだ。(ヨハネ8:32)
私達が真理の自由の中を歩み続けるには、無防備のままでいてはならず、堅く立つ必要がある。(2節)
なぜなら敵はいつでも、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来るからである。(ガラテヤ2:4)

私達の戦いは肉弾戦ではなく、思いの中に汚れを吹き込む暗闇の支配者や、天にいる諸霊に対してであり、その戦いの武具は、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いの兜、そして、御言葉の剣である。(エペソ6:11-17)
しっかり立つ事をせず、まんまと敵に偽りを吹き込まれてしまったガラテヤ人は、自由が揺るがされてしまい奴隷のくびきへと繋がれてしまった。

「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」(2-3節)

この御言葉から、簡単な国語問題を出題する。
キリストが、あなたにとって何の役にも立たない存在とならせるには、どうしたら良いだろうか。
答えは「割礼を受ける」である。
割礼などの行いで義と認められようとするなら、律法全体を守り行うという義務もついて来てしまうため、割礼に限らずどんな律法の行いによっても、義とされる事を目指すなら、キリストから離れて恵みから落ちてしまったのである。(4節)

「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(6節)

たとい、山を動かすほどの完全な信仰があっても、愛がないなら、天においては何の値打ちも無い。(1コリ13:2)
行いの伴わない信仰は死んだも同然であり、愛の無い信仰も値打ちが無い。
愛と信仰が撚り糸のように紡ぎ合わされて、それに伴う行動が発せられこそ、信仰生活は意味を成すのである。

実体のある生きた信仰生活をしていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

あるブティックを経営している方が、それまで十分の一献金を捧げていたのを、主に示されて、十分の三捧げられました。

十分の一は今までどおり主に、残る十分の二は働き人のためにと捧げて下さったため、押入れ揺すり入れして祝福が注がれるように祈りました。

「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカ6:38)

引き続き、御言葉どおりの祝福が注がれるよう、祈りに覚えている所です。

礼拝説教メッセージ音声:奴隷と自由人の分岐点(ガラテヤ4:21-31):右クリックで保存
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律法の下にいる事は、徹底的な奴隷状態である事を、パウロはアブラハムの二人の子の母、すなわち奴隷女ハガルと、正妻であり自由の女であるサラを用いて語っている。
女奴隷ハガル(名の意:離脱、移住)の子は、肉の力によって生まれ、奴隷であり、相続を受ける事は出来ず、やがて離脱し移住して行く。
それに対しサラ(名の意:王女)の子は、肉の力には一切拠らず、約束によって生まれ、自由であり、アブラハムのあらゆるものの相続者である。

「このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。
他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。」(25-26節)
この手紙が書かれた時代のすぐ後、エルサレムは滅ぼされてしまったように、肉の力による者は、やがて滅ぶ。
しかし、約束を信じる信仰によって行きる者達に用意されているのは、天のエルサレムであり、それは永遠に存続する。

約束の子イサクの系統の人たちは、肉の力によって頼らず、主から着せられるいのちの力によって生きる。
事実、アブラハムとサラはそれぞれ100歳と90歳、肉の力が尽き果てた時に、あらかじめ約束されていた子が与えられた。
また、アブラハムの(単数形の)子孫であるイエス様も、十字架の上で一切の自分の力を捨て、三日目に全能者によって着せられたいのちによって高く上げられ、永遠に続く王座が与えられた。

「けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。」(4:29)

約束の子達は、肉による子達によって迫害を受けるが、信仰を捨てずに主を信頼し続けるなら、肉に拠らない、全く新しいいのちが与えられ、人の力では到底不可能な圧倒的な救いが与えられる。
そして、神の約束から離れて、肉の力に頼り、自分の好き勝手に行きたい者は、決して祝福を受け継ぐ事は出来ず、追い出され離脱して行くのだ。
『聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。』(30節)

肉によって歩むのではなく、信仰によって、御霊によって歩み、自由の子として、相続者として、天のエルサレムに属する者となる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:キリストが形造られるまで(ガラテヤ4:12-20):右クリックで保存
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パウロがそれまで、ガラテヤ人に語気荒く戒めるような内容を書いてきた理由は、彼らを情熱をもって愛し、良くなって欲しいと本気で思っているからであったが、本日の箇所では幾分、嘆願するような語調へと変化している。
「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。」(12節)

パウロが堂々と「わたしのようになってください」と勧める事が出来たのは、彼は元々誇り高き律法を持つユダヤ人であったにもかかわらず、キリストにあって自由な者として模範を示し、少しでもガラテヤ人を救おうとして、ガラテヤ人のようになったからである。

彼がガラテヤに福音を伝えた理由は、パウロが弱かったからと13節に書いている。
恐らく彼は元々、ガラテヤに留まるつもりはなかったのに、たまたま何らかの疾患に罹ってしまって留まる事となり、その病状ある体のまま、そこで福音を伝えた所、いのちの広がりを見せたようである。
主は実に、人の理解を超えた導きをなさる。
パウロの病気は具体的に何であったかは分からないが、14節によると、それは人が見たら試練となるような、また軽蔑の対象となってもおかしくないような症状であったようだ。
にもかかわらず、ガラテヤ人はかえってパウロを御使いのように、キリスト・イエスご自身であるかのように迎えてくれた。

ガラテヤ人に当初あったその愛情は、人間的な博愛や道徳によるのではなく、彼らの内に形造られたキリストの故であり、彼らの中に形作られたキリストご自身 にあって、そのような状況のパウロを喜んで迎え入れ、御使いやキリストそのもののように扱い、目をえぐり出して与えたいとさえ思ったのである。

しかし彼らは、そのはじめの愛、はじめの喜びから離れてしまった。
何によってか。それは「熱心な人々」によって惑わされたからである。
その者達が熱心だった理由は、ガラテヤの人達を自分に対して熱心にしたかったからであって、ガラテヤの人たちをキリストに対して熱心にさせたいからでは決してなかった。(17節)
ガラテヤの人達を自分たちに熱心にさせ、上に立って支配するようになり、そうして、ガラテヤの人たちをキリストにある恵みから締め出してしまったのだ。

かつては、目をえぐり出して与えたい程までパウロを愛してくれたガラテヤ人が、かの者達に惑わされ、そこをパウロが真理を語ったがために、パウロの敵になってしまうとしたら、どれほどパウロにとって辛い事だっただろうか。

「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(19節)
パウロが心血注いで苦心したのは、ガラテヤの人達の内にキリストを形作る事だった。
私達が歩むべきは、立派な行いの追求ではなく、人道的・博愛的な人間になろうと頑張る事ではなく、キリストが形作られ、そのキリストによって歩む事である。
ますますキリストがはっきりと形造られ、キリストの身丈にまで成長していく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
 

十字架の前の人間模様(ルカ23:13-27)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日は棕櫚の主日で、イエス様が十字架に架けられるためにエルサレム入城をしたのを覚える日である。
群集はロバに乗って通られるイエス様の行く道に、棕櫚の葉を切って敷いたり、自分の服を脱いで敷いたりして、「ホサナ」(ああ救い給え)と叫びつつイエス様を迎えたが、群集はイエスがどういうお方かを知らず(マタイ21:1-11)、 一週間もしない内に今度はイエスを「十字架につけろ」と叫ぶ側へと一転した。
十字架へと向かうイエスを中心に、色々な人物が登場し、色々な人間模様が展開されるが、私達は彼らを歴史上の人物として第3者的にどうこう批評するのではなく、私達はキリストの一体「何」で、キリストの十字架に関わる登場人物の内の、誰に該当するかを、意識するべきである。

「ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」(ルカ23:24-25)
ポンテオ・ピラトは使徒信条でマリヤに次いで出る程、キリスト者にとって重要な人物である。主が苦しみを受けられたのは祭司長や律法学者、ローマ兵の元であり、ピラトはむしろイエスさまを3度もかばっていて一見良い人物にも見えるのに、なぜ使徒信条では「ポンテオ・ピラトの元で苦しみを受け」なのか。
祭司長や律法学者達など、イエス様を最初から否定し、否定して終わるような者達には、主は目も留めておられないが、主に目を向けようとする者達にこそ主は目を留められ、特別に扱われるのだ。
ポンテオ・ピラトは、総督として、イエス様を十字架につける権限もあれば、十字架から守る権限もあった。
実はキリスト者は、ポンテオ・ピラトと実によく似た立場にあり、人間(自分も含め)の意見を突っぱねてイエス様を解放する選択を取るか、それとも、人(自分も含め)の意見に妥協してイエス様を拘束し、内にいる暴動と人殺しのバラバを解き放つか、という権限が、いつでもある。
それ故、あなたも人の意見に妥協してイエス様を退ける時、主は「あなたの元で苦しみを受け」られるのだ。

ヘロデ・アンティパスはイエスを見ると、非常に喜んだ。それは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。(ルカ23:6-12)
しかし彼は興味本位で色々と質問するだけで、それに対してイエス様は、一言も言わず黙っていた。
イエス様を単に興味本位で質問し、派手に飾り立てたり茶化したりして見て、イエス様から何も反応が無いと、なぶりものにして送り返すような者達に対しては、イエス様は始終、何の反応もされないのだ。

イエス様はピラトの前で多くの鞭を打たれ、多量の出血をしていた為、十字架を最後まで運びきる事が出来なかったため、たまたま通りかかったクレネ人シモンが徴用され、イエス様の十字架を運ぶ事になった。
彼はたまたまその場に居合わせ、血まみれで十字架を運ぶイエス様を野次馬のように見ていただけだったかもしれず、そこを突然徴用された為、とんだとばっちりをもらったと思ったかもしれない。
しかし、かの死刑囚はどうも邪悪ではなさそうで、しかも、大勢の女達が泣きながら彼に従っていた。
彼女達は「お前達もイエスの仲間か」と捕らえられさえされない程、数に入らぬ、取るに足らぬ存在だった。
恐らく女性達は「本当は私達があなたの役割を果たしたかった」「でも、力が無いので出来なかった。」「助けてくれて本当にありがとう」と、シモンに声をかけただろう。
彼はアレキサンデルとルポスの父で(マルコ15:21)、そのルポスがローマ16:13の人と同一人物であるとしたら、彼は後のキリスト者の集まりで「主にあって選ばれた者」として有名人物となったのだろう。
クレネ人シモンはある日偶然、ぼろぼろのイエス様と出会い、半ば暴力的に一緒に十字架を背負う助けをし、女性達はただ泣いてついて行くしか出来なかったが、そうする事で主と共に十字架を背負ったのだ。

クレネ人シモンはやがて十字架を肩から下ろす時が来て、そして主は大勢の人の身代わりとして十字架にかかる。それはイエス様しか出来ないが、シモンや女性達のように、私達も主と共に負える十字架がある。
私達は十字架の主を前に、祭司長達に扇動された人々にも、祭司長にも、ペテロにも、イスカリオテ・ユダにも、ポンテオ・ピラトにも、ヘロデにも、クレネ人シモンにも、名も無き女性達にも、なり得る。
自分を捨て、自分の十字架を負い、その上で主について行く皆さんでありますように!

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