メッセージ - 201207のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:花嫁と出会う花婿(創世記24:62-67):右クリックで保存
太陽が地平線に沈もうとしていた時、メソポタミヤ方面から長旅をして来た老僕とリベカ達は、ヘブロンに到着した。
その時、イサクは野にいて散歩していた。
イサクが顔を上げて見ると、北東方面から、らくだに乗ってこちらに来る一隊が目についた。
一隊の女性たちの中には、ひときわ美しい乙女がいて、顔や腕に飾られた金の飾り輪が、スポットライトのような夕日を受けて輝いていた。
イサクは彼らに対して夕日を背に位置していたため、一隊の目からは、彼は暗いシルエットとして見えただろう。
イサクとリベカ、初の対面である。
黄金で飾られ、夕日の光に輝くリベカを見て、イサクはどのように感じただろう。
『リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。リベカはらくだから下り、「野原を歩いて、わたしたちを迎えに来るあの人は誰ですか」と僕に尋ねた。「あの方がわたしの主人です」と僕が答えると、リベカはベールを取り出してかぶった。』(創世記24:64-65)
この箇所で思い出すのは、雅歌1章の女性である。
『エルサレムのおとめたちよ/わたしは黒いけれども愛らしい。ケダルの天幕、ソロモンの幕屋のように。どうぞ、そんなに見ないでください/日焼けして黒くなったわたしを。兄弟たちに叱られて/ぶどう畑の見張りをさせられたのです。自分の畑は見張りもできないで。』(雅歌1:5-6)
雅歌に登場する女性は、自分が野の仕事ばかり命じらて日焼けしていたため、花婿に、自分を見つめないで欲しいと思った。
リベカもまた、10頭のらくだ全てが水を飲むまで、井戸の階段を走って登り降りする程の逞しい女性である。
恥じらいがあったのかもしれない。しかし大切なのは、花嫁の側の自意識ではなく、花婿がどう花嫁を見るか、である。
「恋人よ、あなたをたとえよう/ファラオの車をひく馬に。房飾りのゆれる頬も/玉飾りをかけた首も愛らしい。あなたに作ってあげよう/銀を散らした金の飾りを。」(雅歌1:9-11)
花嫁を逞しい馬車馬にたとえるのは、現代の日本人にとっては不思議な価値観だが、ファラオの車をひく馬は特別な馬である。
よく調教されており、手綱一本で主人の意向どおり動かなくてはならない。
王である花婿が目を留めるのは、従順さにおいてよく訓練さている事、そしてまた、花婿が贈る贈り物を身につける、という事である。
花嫁がいかに世に擦れていようとも、黒くとも、王が着せる花嫁衣裳を着けて、王の好みの飾りによって、望むがままに飾られる花嫁を、王は愛するのだ。
イサクは、母が産みの苦しみをした天幕の奥の間へと彼女を導いた。
彼はリベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。(67節)
同じように、キリストも、その妻である教会、すなわち、新しいエルサレムが整えられ、花嫁として自分の幕屋に迎える日を、心待ちに待ち望んでいる。
私達は思うかもしれない。
自分は世の罪に染まって真っ黒になってしまった、主の聖なる眼差しで見られるのは、耐えられない、と。
しかし、私達がいかに世から汚れを受けていようとも、いかに罪で真っ黒になっていようとも、キリストの血によって洗い清められ、キリストの贖いの衣を着せられ、キリストの望むままに飾られるのであれば、王であるキリストによって、愛されるのだ。
大切なのは、私達の自意識ではない。
キリストが私達を、どのような眼差しで見て下さるか、である。
キリストはご自身を信じる者達を、自らの血によって洗い清め、贖いの衣を着せ、花嫁として飾られるのだ。
『更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。』(黙示録21:2-4)
この新しいエルサレム、キリストの花嫁は、リベカよりもさらにゴージャスに飾られている。
透き通ったガラスのような金で飾られ、土台は全て色とりどりのの宝石であり、門は真珠でできているのだ。
私達にとって大事な事は、自分生来の美しさでもなく、自前の飾りで着飾る事でもない。
そんなものは、主の御前に受け入れられない。
ただ主によって洗われ、清くされ、御心のままに飾られる事が重要なのである。
礼拝説教メッセージ音声:即行動する事の大切さ(創世記24:54-61):右クリックで保存
このしもべは、無事にイサクの嫁となる娘の所へ導かれ、めでたく了承までいただき、一件落着したかのようにも見えたが、彼の使命は、まだ終わってはいなかった。
『 僕と従者たちは酒食のもてなしを受け、そこに泊まった。次の朝、皆が起きたとき、僕が、「主人のところへ帰らせてください」と言うと、リベカの兄と母は、「娘をもうしばらく、(少なくとも)十日ほど、わたしたちの手もとに置いて、それから行かせるようにしたいのです」と頼んだ。』(創世記24:55-56)
常識的に考えれば、リベカの兄と母のこの気持ちの方が自然で、それに対する僕の申し出は、なんともせっかち、思いやりが無いように見えるかも知れない。
ある日突然決まった縁談話である。
長年大切に育てて来た、美しい娘であり、妹であるわけだから、彼らの思いとしては、嫁いで行く前に十日とは言わず、一ヶ月、あるいは一年、一緒にいたい気持はあろう。
しかし、家族がリベカを引き止めて、最後のあいさつなどを交わしたり、最後の歓待をして日を過ごしている内に、「やっぱりこの美しい娘、大切な娘を手放したくない」「やっぱり一度も見たことの無い国、会ったことの無い男性に嫁いで行くのは嫌だ」という思いが募ってしまうかもしれない。
彼女はその時、実感が湧いていなかったかもしれないが、彼女がこれから加えられる家は、祝福に満ちた栄光の家系であり、彼女は王族の母となろうとしているのである。
信仰者にとって、目の前の家族との小さな幸いを手放したくないために、さらに優れた幸いを損じる事は、ありがちである。
アブラハムの家に連なる事こそ、リベカにとって最も幸いであり、最も祝福である。
そして私達にとってもまた、神の国とその義とを求め、信仰によってアブラハムの子孫となり、永遠の御国を受け継ぐ事こそ、最も優先すべき事である。
この老僕は、知恵があり、その事を良く知っていた。
だから、思いやりが無いとか、せっかちだとか思われる事を恐れ譲歩するような事はせず、日を置かずに彼女を連れ出すように、願い出たのである。
聖霊もまた、天の父の御思いは何であるかを知り、何が最善であるかを知っておられる。
人の目から見たら幾分せっかち過ぎるのでは、と思えるような導き方もあるかもしれないし、時には、思いやりも無いかのように見えるかもしれないが、それでも、御言葉に裏打ちされた聖霊の導きには、従うべきなのである。
最終的な判断はリベカ本人に委ねられたが、リベカは、即座に行く事を、表明した。
そうして彼女はめでたく栄光の家系に加えられたのであるが、もしこの時、躊躇していたら、そうでなくなる可能性がどんどん大きくなった事だろう。
主の御心が示された時、それを義理や人情、感覚で先延ばしにしているなら、より、やっかいな根が生えてくる事になるものである。
アブラハムは、割礼の契約が与えられた時、その日のうちに男子全員の包皮を切り捨てたし、また、イサクを捧げなさいと言われた時も、翌朝早くに出発した。
時間を置けば置くほど、未練が残ってしまうのが人間というものである。
だから、アブラハムやこのしもべの判断は、正しかったのだ。
いのちを救うために、離れるべき過去、離れるべき世的な楽しみからは、後ろ振り向かず、本気で走って逃げなくてはならない。
ロトとその家族は、滅びるべき町にいつまでも未練を残してしまったため、全ての積み上げてきた財産を、全て失ってしまった。
ロトの妻にいたっては、滅び行くソドムの町を、じっくり眺めてしまったため、塩の柱となって、そこに永遠に留まる事になってしまった。
ラバン達はリベカを祝福して言った。「わたしたちの妹よ/あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫(単数形)が敵の門を勝ち取るように。」
この祝福は、アブラハムがイサクを捧げた時に与えられた祝福と同じである。
自分の大切な家族さえ、主の故に捨てた者に与えられる祝福、それは、子孫(単数形)が敵の門を勝ち取る祝福であり、この「単数形の子孫」は、主イエスキリストの事である。
祝福を与えたのは、信仰のしっかりしていないラバンとその家族であったが、大切なのは、祝福を「さずける側」の信仰ではなく、祝福を「受ける側」の信仰である。
ハンナは、信仰のしっかりしていない祭司エリから祝福を受けた時、信仰を持ってその祝福を受け止めたからこそ、サムエルを生むという祝福に預かった。
主の思いは、私達の願いや、私達の思う最善をはるかに超えて、高い。(イザヤ55:6-9)
結局、自分を降ろして、主の御言葉に従い、主の御心を優先させる事こそ、最善と幸いを受ける事の最も近道であり、自分を捨てて従う者に主は(単数形の)子孫として現れてくださり、その主が、私達の内にあって、敵の門を勝ち取らせて下さるのである。
礼拝説教メッセージ音声:天からもたらされる縁談話(創世記24:28-53):右クリックで保存
イサクの嫁さがしを命じられた老僕は、15章に登場したダマスコのエリエゼルと思われる。
「エリエゼル」の名は「助け主」「慰め主」という意味があるが、今回、彼は実にその名の通りの働きをしている。
彼の働きはまた、現代、私達の内に働かれる聖霊の働きと一致している所がかなりあるので、その視点からこの箇所を見ていきたい。
彼はベトエルおよびラバンの家に招待され、食事が並べられた時、食事に手をつける前に要件を伝えようとする。
その要件とはつまり縁談話なのだが、その縁談話は、実に型破りであった。
彼はまず、自分はアブラハムの僕である事を紹介した。
自分の主人は大いに富んだ者で、人間わざではあり得ない仕方で一人子を授かり、主人はその一人子に全財産を譲った事、また、主人はその子のために花嫁を求めており、花嫁たる条件は、堕落したカナンの娘ではなく、主人の定めた条件を満たす者、すなわち、アブラハムの家系の中から探すものである事を伝えた。(33-38節)
聖霊もまた同じように、私達に父なる神と一人子キリストを、何よりも先ず紹介される。
聖霊は証しする。すなわち、御子キリストは人間わざではあり得ない仕方で生まれた事、父なる神はこの御子に全ての権威と富をゆだねられた事を。
そしてキリストは花嫁を求めており、花嫁たる条件は、堕落した世の人間ではなく、御父による条件をクリアする者、すなわち、イエスを信じる信仰によって救われた「アブラハムの子孫」であるべき事である。
しもべは、主人から託された使命について、心配した。
『もしかすると、相手の女がわたしに従って来たくないと言うかもしれません』
私達がキリストを伝えに行く時、その人がキリストを受け入れるか拒否してしまうかを心配するように、聖霊もまた心配する。
せっかくのキリストとの縁談話を、その人が断ってしまって、キリストの花嫁として付いて行きたくありません、などと言わないかどうかを。
アブラハムは言った。
「もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」(8節)
聖霊は、人にキリストとの縁談話をもちかけはしても、強制はしない。
もしその人が断るようであるなら、その責任は伝えた側には無いし、キリストは決してその人の所へ訪れる事も無い。
「あなたがたが、今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。そうでなければ、そうとおっしゃってください。それによって、わたしは進退を決めたいと存じます。」(創世記24:49)
ラケルがこの僕に付いて行ってイサクの所へ嫁ぐかどうか決断が迫られたように、私達も、聖霊の導きに従ってキリストの所へ嫁ぐかどうか決断を迫られ、私達の自由意志に全て任されている。
聖霊は、全てにおいて富んでおられる全能なる御父の下から派遣され、全ての支配、権威、富を相続された御子キリストを証し、そして、私達に御子キリストへ嫁ぐかどうか決断を迫る。
実に、世の縁談とは程遠いやり取りである。
普通、縁談と言えば「おたくのお嬢さん下さい」と頭を下げるものだが、このしもべは、そうした事は一切無い。
自分は神に祝福された一族から使わされ、そして神の御心はこうで、このように神は導いて下さり、今こうしてここに話をしておりますが、さて、あなたはどうしますか?というものだ。
天からもたらされる縁談話とは、みなそのようなもので、人間の側に媚びる事は一切無く、ただ、決断を迫るものである。
『ラバンとベトエルは答えた。「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。』(50-51節)
彼らは「良し悪し」を論ずる事なく、主のご意思に従う事を告白した。
もし彼らが、このしもべのすすめを拒んでいたのであれば、リベカはイサクと結婚し、全人類を救いへと導く王族の家系へ嫁ぐ事も無かったし、莫大な栄誉と財産を継ぐ事は無かっただろう。
同じように、私達も、自分由来の善し悪しを論じて、遣わされた聖霊を拒否するのであれば、自ら御父と御子への道を閉ざしてしまい、そして、天の王族の家系へ嫁ぐ事も、莫大な栄誉と財産を継ぐ事も無いのだ。
「アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した。そして、金銀の装身具や衣装を取り出してリベカに贈り、その兄と母にも高価な品物を贈った。」(52-53節)
縁談が成立したら、さらなる贈り物が与えられ、父や母にも、家族にも、その富が分配された。
聖霊もまた、私達がイエスを主として受け入れ、キリストとの結婚の縁談が成立した時、私達自身にだけでなく家族にも贈り物を贈られる。
私達自身への贈り物とは、聖霊ご自身であり、それは御国を受け継ぐための保証(手付金)である。(エペソ1:14)
そして家族への贈り物は、救いである。(使徒16:31)
私達は常に、御霊にあって歩むか、それとも肉にあって歩むかの決断に迫られるが、都度、御霊を選んで、御霊の結ぶあらゆる恩恵に預かる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
iphone備え付けのカメラアプリはどうも使い勝手が悪いので、「ProCamera」というアプリを購入した所、わずか250円ながらも色々な機能がついていて、非常に使い勝手の良いものでした。
露光や画像の調整などができますし、Facebookとの連携も出来るようでしたので、教会近くの横浜史跡を撮りつつ巡りました。
巡った場所は、野毛 → 鉄道創業の地 → 日本丸 → 一号橋梁 → 赤レンガ倉庫 → 旧税関事務所 → 象の鼻パーク、でした。
今まで良く通っている所でしたが、旧跡にじっくり目を留めながら、という事を今までしていなかったので、色々と新鮮な発見が出来ました。
撮った写真は、以下から見ることができます。
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.331945346890682.79502.100002256571728&type=1&l=829e27b693
アイドル(偶像)を捨てよ(出エジプト20:2-6)
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「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 」(出エジプト20:2-3)
十戒における最初の、最も重要な戒めは、まことの神以外のものを神としてはならない事である。
主イエスは私達を、世というエジプトから救い出し、罪と死の奴隷状態から導き出し、自由にして下さった。
その大切なお方に、身も心も思いも捧げるべき時間に、別の事を考えたりしてはいないだろうか。
仕事の事を思い巡らしたり、テレビドラマの続きに思いを馳せたり、この礼拝が終わったらあの事この事をしようと、自分の好む趣味の事を思ったり、あるいは、あの人やこの人の事が気になったり。
もし礼拝すべき時に、この御方以外のものに思いを占められてしまうとしたら、その礼拝は主に喜ばれない。
人の成り立ちにおいて重要なのは、一週間168時間の内、主日に礼拝で捧げる2時間よりも、むしろ、その背後にある膨大な166時間を、何に捧げ、何を思い巡らして過ごしているか、である事を先週学んだ。
たとい166時間、ずっと仕事などで身柄を拘束されていても、心に主へと向かう大路があるのなら、涙の谷を過ぎる時も泉の湧く所とし、恵みの雨がそこを祝福で覆う。(詩篇84:5-6)
しかし、心に主への道が無く、思いを世の事にどっぷり浸らせ、身勝手な思いをともしびとして頼って行くなら、涙の谷を過ぎる時も慰めを得ること無く、さらに渇いて、苦しみのうちに伏し倒れる。(イザヤ50:11)
「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。 」(出エジプト20:4)
十戒の第2戒は偶像礼拝の禁止であるが、「偶像」は英語では「アイドル」、「イメージ」と言う。
神よりも、テレビの向こう側のアイドルや、コンピューターグラフィックスを駆使した映像やゲームという人の作ったイメージのほうに心を捧げたり、そのイメージによって支配されたりしてはいないだろうか。
最近のテレビや映画などのイメージの内容は、性に奔放で、権威に反抗し、力づくで奪う事を良しとする、反・聖書的な内容が多いが、御言葉とそれらイメージを並べた時、もし生きる上での価値観を、御言葉よりも、それらイメージのほうを優先して置いているとしたら、偶像礼拝に足を踏み入れている。
当時のイスラエルは、バアル神に魅せられた。父親を倒して権力を奪い、美しく殺戮好きな妻(かつ妹)と共に敵と戦いを重ね、大活躍するバアル神話は、現代の映画やドラマにすれば、受けそうなストーリーである。
戒律は無いから好き勝手に出来るし、力づくで隣人や他国を奪うのも良しとされ、性に奔放で、神殿娼婦と交わる事が礼拝行為とされ、子供が出来る事が不都合であるなら、神に捧げるという名の下に火の中をくぐらせ、抹殺してしまう。そのような偶像礼拝の結果得るものは、妬む神による3,4代に及ぶ呪いである。
かつてのイスラエルは、肉欲や情欲を沸き立たせるストーリーや、肉欲をそそる礼拝に魅せられ、引きこまれ、まことの神から離れてしまったから、申命記28章にある呪いを、ことごとく受けてしまったのだ。
もし、ドラマの内容はすぐに思い出せても、イエス様が成して下さった事を中々思い出せないなら、また、イエス様よりも、アイドルやイメージに捧げたお金や時間、空想の方が多く、そして、中々祝福が与えられていない、という「自覚」があるのであれば、「偶像」は捨て去り、悔い改め、主に立ち返るべきである。
偶像礼拝は、霊的姦淫である。マタイ5:27-30で主は、姦淫に気をつけるべきであると勧めており、もし体の一部が躓かせるなら切って捨ててしまったほうが、体全体でゲヘナに行くよりもましである、と言っている。
もし、中々祝福を受け取れない基、束縛へと導いている偶像があるのなら、それは切り捨てるべきである。
「サムエルはイスラエルの家の全体に対して言った。「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。」イスラエルの人々はバアルとアシュトレトを取り除き、ただ主にのみ仕えた。」(1サムエル7:3-4)
全ての偶像を取り除き、ただ主にのみ心を注ぎ出すなら、主が救いの岩(エベンエゼル)となって、束縛から開放し、敵に対する勝利を与え、従順する限り、主の手が守って下さる。
全ての偶像を捨て、主にのみ従順する皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
昨日は色々と突発的な事があり、配信できておりませんでした。
人が闇に隠している醜い部分を、主が光に照らし、それが聖徒たちの前に明らかにされた時、聖徒たちは愕然として、逃げ出したくもなるものですが、それでも、御言葉と祈りを武器にして、しっかり向きあうなら、かならず勝利するものです。
詳しくは書けませんが、ともかく主は、これでもか、というほど、この教会と聖徒たちを愛しておられ、徹底的にのろいの元を断ち切らせ、主があらかじめ用意しておられる祝福に、聖徒たちを預からせようとしておられるのだと、感じました。
一つ確かな事は、闇は決して光に勝てず、死はいのちにのみこまれる事です。今回それが確認されました。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
どうすれば呪われるか1(申命記28章):右クリックで保存
どうすれば呪われるか2(申命記28章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ペテロ5:1-5:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:とんとん拍子に物事が進む背景(創世記24:10-27):右クリックで保存
しもべはアブラハムに命じられた通り、イサクの嫁に相応しい女性を探すために、アラム・ナハライム(メソポタミア)のナホルの町に出かけて行った。
当時、水汲みは女たちの仕事で、夕暮れ時に水を汲みに来るため、知恵のある彼は、夕刻、井戸の所に陣取った。
しかし、彼がイサクの嫁となるべき女性へと導かれるかどうかは、主の御手の内にある事を知っていたため、彼は主に祈った。
「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」
アブラハムの命令は、常識的に考えれば無謀だったが、このしもべが主に要求した事もまた、無謀な事だった。
当時、その地方井戸は、日本の井戸とは違って直径数メートルの竪穴で、外周に階段があり、その階段を水瓶を持って水の所まで降りて汲み、十何キロにもなった瓶を持って登って行くという重労働である。
それに、砂漠を旅したらくだは、風呂桶ほどの量の水も、平気で飲み干してしまうものだ。
井戸に水をくみに来る女性は当然、しもべの10頭のらくだが目についただろう。
彼に「水を飲ませてください」と声をかけられた時、らくだにも水を飲ませようと自ら申し出る女性がいるとすれば、よほどお人良しで、勤勉で、もてなし好きであろう。
彼がその祈りを終わるか終わらないかの内に、一人の美しい女性が、水を汲みに来るのが見えた。
彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。
「水がめの水を少し飲ませてください。」
すると彼女は、「どうぞ、お飲みください」と答え、すぐに水がめを下ろして手に抱え、彼に飲ませ、彼が飲み終わると、彼女は、「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言いながら、すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走って行った。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。
なんと、彼が祈り終わらない内に来た女性が、その困難な事を、実にあっさり成したのだ。
彼女は、らくだ全部が水を飲み終わるまで、水とらくだとの間を行ったり来たりした。
彼はじっと、主が祈った通りに彼女が成し遂げるか見ていた。
祈ったら祈りっぱなしで、祈った事を忘れる、という姿勢では、祈りは聞き届けられない。
祈ったなら、主が成し遂げて下さるまで、信じて見守る責任がある。
彼女は、最後まで成し遂げた。
この僕の祈った通りではあったが、最も肝心な事は、勤勉さではなく、彼女がアブラハムの血縁で、神を畏れる者であるかどうかである。
彼は贈り物の品を手にとって、彼女に聞いた。
「あなたは、どなたの娘さんですか。教えてください。お父さまの家にはわたしどもが泊めていただける場所があるでしょうか」
すると彼女は、「わたしは、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です」と答えた。
彼女こそまさしく、主人アブラハムが望んだ通りの娘であり、しかも、しもべが祈った通りの事をしてくれたである!
『彼はひざまずいて主を伏し拝み、「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」と祈った。』(創世記24:26-27)
今回の事から我々が学ぶべきは、祈る時は、具体的に祈る事が大事である事、祈ったら祈りっぱなしではなく、祈りが聞かれるまでじっと見守る事、祈りが聞かれたなら、ひれ伏して感謝と賛美を捧げるべき事である。
今回のストーリーは、都合が良すぎ、話が出来過ぎに見えるほど、とんとん拍子に物事が進んだ。
しかしながら、クリスチャンになれば何でもかんでもとんとん拍子に事が進むわけではないし、神様は、人の身勝手な願いを何でも叶えて下さるわけではない。
このしもべは、自分の身勝手な願いを主に注文したのではなく、”主人アブラハム”のために、祈ったのである。
彼の祈りの主語は、あくまで”主人アブラハム”であり、自分の主人が信仰によって自分を遣わしたため、その主人の信仰が成就するようにと祈ったからこそ、その祈りはよしとされ、とんとん拍子に導かれたのである。
人は様々な計画を立てるが、その計画が為るかどうかは、神にかかっている事を、彼は知っていた。
自分の力ではなく、主人の信頼する神に「より頼む」信仰のお陰で、主は御使いを使わし、彼の旅路を守られた。
リベカもまた、普段から勤勉で、旅人を迷わずもてなす品位を備え、もてなす事を喜びとし、目上の人を大切にするだけでなく、その人の持ち物であるらくださえも、おろそかにしないという、その諸々な小さな事への忠実さが、栄光の家系の母という、大きな事を任される要因となったのである。
日々の日常をおろそかにせず忠実だったリベカがイサクの嫁として収まったように、いつも主を恐れる事によって日々整えられ、まことのイサクであるキリストの花嫁として収まる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:独身のあせりの時は(創世記24:1-9):右クリックで保存
イサクはリベカをめとった時、40歳(創世記25:20)、という事は、アブラハムはこの時点、およそ140歳であった。
創世記11章の系図を見ると、みんな2,30代で子を生んでいるので、40歳での結婚は、晩婚の部類に入る。
イサクはなぜその歳まで独身であったか。
それは、彼に相応しい助け手が中々見いだせなかったからであろう。
相応しい、とは、家柄の面でも、資産の面でも、ましてや美しさの面でもない。
主を恐れる信仰があるかないか、である。
彼らが住んでいたカナン地方は、偶像礼拝に満ち、不品行がはびこっており、そもそもイサクをカナンの子孫と結婚させるなど、信仰の上ではあり得なかった。
人は何かと、家柄や資産、美しさなどに惹かれ、中々結婚相手が見つからないと、手近な異性に惹かれるものだが、そうあってはならない。
アブラハムは年老いて、サラが死んで3年が過ぎ、40歳ほどになったイサクの結婚相手も、そろそろ見つけなくては、と思った事であろう。
しかし周りは、カナン人ばかり。
セムの子孫で神をおそれる女性など住んでいないし、訪ねにも来ないし、また、神の御声による具体的な指示も特に無い。
神が「○○に行きなさい」とか「○○と名づけなさい」など、具体的な導きをしたのは、イサクを捧げた場面が最後で、それ以降、神はアブラハムに直接指示する事はなく、全ての行いの決定は、アブラハムの信仰に委ねておられた。
現代、神が直接的な指示を、私達になされる事は少ない。
私達は、内におられるキリストに従い、神に喜ばれる事は何であるかを見極め、自由に選択し、御心に沿った行動をする事を、主は喜ばれる。(ガラテヤ5:13)
アブラハムは焦っただろう。このままでは、年月だけ、いたずらに過ぎていく。
そこで彼は、待ちの姿勢を止めて、信仰による攻めの姿勢に出た。
アブラハムは、最年長のしもべを呼び寄せた。
このしもべは15章に登場した、あのダマスコのエリエゼルと思われる。
エリエゼルは「神は助け」「慰め主」という意味、新約で言う「助け主」と同じ言葉で、彼はその名前の通りの事を今回為す。
『アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った。「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」』(24:2-4)
手を腿の間に入れての誓いは、最も厳粛な誓いである。(創世記47:29)
アブラハムが誓わせようとした内容は、普通に考えれば、困難を極めるものであった。
もしあなたが未婚女性だったなら、遠国の見ず知らずの老僕に付いて行って、800キロも向こうの、一度の言ったことのない国、一度も会ったことのない男性に、信仰によって嫁ぎに行けるだろうか?
僕は尋ねた。「もしかすると、その娘がわたしに従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか。」
見ず知らずの男性に嫁ぎにくる女性は皆無であろうが、実際に目の前にいる男性となら、結婚する気が起きるかもしれない。そう考えたのであろう。
しかしアブラハムの答えは、NOであった。
彼は、ずっと昔に与えられて今でも有効な「主の約束」を信じていたからである。
「天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。」(創世記24:7)
主はアブラハムの今までの長い人生を、ずっと導いて下さった。
だから、普通に考えればありえないような条件でのイサクの嫁探しも、主が御使いを使わし、導いて下さるに違いない。
そう信じたからこそ、堂々と指示する事が出来たのだ。
「もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。」
アブラハムは「もし・・・」と言ったものの、100%そのような事は無く、このしもべは必ずイサクに相応しい嫁を連れて戻ると信じていた事だろう。
しかし、このしもべを安心させるために敢えてそう言ったおかげ、しもべは安心して誓い、安心して行く事ができた。
「ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」
アブラハムにとって、息子をメソポタミヤ地方へ向かわせる事は、有り得なかった。
ロトがソドムに定住して、悪い価値観に染まってしまったように、イサクが異国の風土に魅了され、約束の地を離れてしまうような事があってはならない、とアブラハムは思った事だろう。
どんな人と結婚するかも、おろそかにしてはならない。
ノアの時代、神の子たちは人の女が美しいのを見て妻にして、人類全体に滅びを招いてしまったし、後の時代のソロモン王やアハブ王も、不信仰な妻によって惑わされてしまった。
ロトの娘達は、手近にいる異性は父しかいない状況で、信仰によって忍耐する事なく、父と寝るような選択をしてしまい、後々に恥を残すようになってしまった。
結婚に限らず、人生の重要な場面において、望むものが中々与えられないような時、神様からの具体的な示しが無い時は、アブラハムのように、御言葉の約束にもとづいて、信仰の行動を取り、主の守りと導きに従って、祝福を勝ち取る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!