メッセージ - 201208のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
御言葉に服従するか(エレミヤ42章):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
2ペテロ2:13-22:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:全てを持つ者(創世記33:1-11):右クリックで保存

いよいよ兄エサウとの対面の時が来た。
エサウと供の者四百人が遠くに見える内に、ヤコブは妻子達を後に、自分は先頭に立って、相対した。
彼は腿の関節を外され、びっこを引いている。逃げも隠れもできない。

ヤコブは兄に近づくまでに、七回、地におじぎをした。
七回おじぎをする行為は王を迎える時の礼儀であるが、彼は、エサウにしてきた事の手前、七度礼をしたのかもしれない。

『するとエサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた。』(創世記33:4)

エサウは、ヤコブが心配していた「殺意に満ちたエサウ」ではなく、「善意と親しさに満ちたエサウ」だった。
エサウのような生殺与奪の権を持つ者の心を、主は、柔らかにもすれば、かたくなにもする事も出来る。
祈りによって圧政者の心を変えた例は、ダニエルの時代にも、エステルの時代にもあったし、出エジプトの時代は逆に、さらに頑なにする事によって、主の栄光を表した。
神の民は、そうして祈りによって守られて来たのだ。

エサウの心から、いつ、殺意が無くなったのだろうか?
エサウの住むエドムからヤボクまでは160km以上はあり、その距離を400人も引き連れてスピーディに移動したからには軍事力で滅ぼす意図を持っていた事を思わせるが、もしかしたら単純に、善意から歓迎したい気持ちで、大勢で急いで来ただけなのかもしれない。
真相はどうあれ、たといエサウが直前まで殺意に燃えていたとしても、主は一瞬にして善意に満ちたエサウへと導く事も出来るお方であり、私達の時代においても、主はそのような事がおできになる方である。

ヤコブの心配は、無駄だったのだろうか?
決してそうではない。
ヤコブが恐れたお蔭で彼は真剣に神と相対するようになり、結果的に、ますます神と親密になり、新しい名前も与えられ、もはや自分の力に頼らず神に頼るようになった。

いずれにせよ主は、ヤコブを御心に沿った形へと導き、全てを最善へと導かれたわけである。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。」(ローマ8:28-29)

エサウはヤコブの贈り物に「私はたくさん持っている」と辞退する。
『ヤコブは言った、「いいえ、もしわたしがあなたの前に恵みを得るなら、どうか、わたしの手から贈り物を受けてください。あなたが喜んでわたしを迎えてくださるので、あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います。』(10節)
彼がエサウに「神の顔のようだ」と言ったのは、決しておだてた訳ではない。
ヤコブにとって、エサウの善意と親しさに満ちた様そのものが、まさに、神の御業そのものだったのである。

『どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。』(11節)
ヤコブは元々、それらの品を「祝いの品」として持ってきたのではなく、何とかエサウをなだめるためにであった。
しかし主の御業によって、それらはいつのまにか、祝いの品となっていた。
神は、恐れに満ちた品を、祝いの品へと変え、涙の谷も、泉の沸くところとされる。(詩篇84:6)

また日本語の訳では「私はたくさん持っていますから」と訳されているが、この「たくさん(kol)」は、「全て」とも訳せる。
エサウが9節で言った「わたしはじゅうぶんもっている」は、単なる物を持っている事の意味だが、ヤコブが言った言葉はそれとは違い「全て」を持っている、という意味だ。

全能なるお方のものとされたという事、それはすなわち、全てを持った、という事である。
「ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」(1コリント3:21-23)
私達もキリストにあって、全てを持っている。
私達は一体、その事の意味を、どれほど理解しているだろうか。

「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。」(エペソ3:17-21)

礼拝説教メッセージ音声:ヤコブからイスラエルへ - ペヌエルでの格闘(創世記32:22-32):右クリックで保存

ヤコブは、殺意を持つ兄・エサウとの再会に備え、持ち物を二手に分けてリスク分散し、主に祈り、至れり尽くせりの贈り物の手はずも整えて備えたが、なお、心配と思い煩いで頭がいっぱいだった。
『彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。 すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。』(創世記32:22-23)

ヤコブは20年前、故郷を出てラバンの所へ逃げる時は、杖一本しか持っていなかったのに、今や彼は、二人の妻に二人の女奴隷、11人の息子、多くの家畜や奴隷を所有している。
しかし、これから会おうとする兄の機嫌いかんでは、愛する妻も、大切な子も、財産も、自分のいのちも、全て失ってしまいかねない。
ヤコブは、変える事の出来ない過去や、消しようのない兄の憎悪、逃れようのない未来に、そして、どうしようもない自分に憂い、ついに、たった一人で主の御前に出たのだ。

私達も、罪ある人間である以上、変えたくても変えられない過去のあの事この事、自分の愚かさの故に誰かから受けてしまう憎悪の一つや二つは、あるかもしれない。
そして、自分がしてきた事・しなかった事の刈り取りが待ち受ける逃れようのない未来におののき、そのようにしてしまった、どうしようもない自分を苛む事もある。
そのような時は、ヤコブのように、ただ一人、主の御前に出るべきである。

『ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と「組打ち(アバック:レスリング、相撲)」した。』(創世記32:24)

彼はひとりの人と、すなわち、主ご自身と、実際に、相撲を取ったのである。
抱きつくように組み合い、顔と顔とを間近に合わせ、力と筋肉をぶつけ合い、汗と泥が一つに混じり合う、生々しい、つかみ合いの格闘である。
夜明け前の最も暗い闇の中で、ヤボクの川のせせらぎと共に、二人の男たちが組打つ音、格闘の叫び声や息づかいが、夜明けまで響きわたっていたのだ。
その格闘は、ヤコブの命運を賭けた、力を尽くした祈りでもあった。

「ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。」(25節)
ももの関節が外れるのは、かなりの激痛であろう。
観客がいたとすれば、もはや勝負あった、と見る所だろうが、それでもなおヤコブは、彼をつかんで離さなかった。
もはや取っ組み合いと言えるようなものではなく、ただ、その人に全てを委ね、おぶさっているだけのような格好であったろう。

夜は明けようとしており、ただ、川のせせらぎだけが響いている。
『その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。』(26-27節)

彼は名を尋ねられた時、兄エサウのかかとを掴んだ事、また兄だけでなく、色々なものを掴んで来た事を思い出したろう。
そして今、祝福をして下さるべきお方をつかみ、握り締めている。

ヤコブは、母の胎から出る時は兄のかかとを掴んで離さず、ヤコブという名が与えられた。
そして、人生を終える時は、杖の先を掴んで、礼拝しつつ息を引き取った。(ヘブル11:21)
つかむ事こそ彼の生き様であったが、そんなヤコブの名に、彼は終わりを告げさせ、新しい名を与える。

『その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。』(28節)
イスラエルという名、聖書でここに初登場である。
この名前には「神と戦う」「神が支配する」という意味がある。

ヤコブは格闘の果てに、ただ、祝福して下さるお方のみを掴み、もはや祝福して下さるお方に寄りかかるしか無いこの状況で、新しい名前「イスラエル」が与えられた。
もはや、長兄のかかとを、すなわち、人間的な祝福を追いかけ、掴みとるような、以前の人生には、終わりを告げられた。
祝福そのものなるお方と取っ組み合い、勝利し、神の支配の内を歩む人生へと、造り変えられたのだ。

ヤコブはももを打たれ、力を奪われ、もはや自分の力では立行けず、ただ神の憐れみによりすがって生きるしか無い。
これから兄と会うのに、大丈夫なのだろうか?
大丈夫なのである!
なぜなら、人が弱い時にこそ、主が強いのだから。

『主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。』(2コリント12:9-10)

自分の力に頼らず、ただ主の力に頼って生きる。
それこそ「イスラエル」の由来であり、私達・霊的イスラエルのアイデンティティなのだ。

神にどうしてもしていただきたい事はあるだろうか。理不尽な世の中に憤りを覚えているだろうか。神に対して納得できない思いがあるだろうか。
もしそうなら、ヤコブのように、ヨブのように、ハンナのように、エリヤのように、スロ・フェニキヤの女のように、主の御前にただ一人で出て、なりふり構わず、格闘の祈りをする時である。
思う存分組み合い、そして、ただその御方を掴み、全てを委ねておぶさるまでに力を出し切る時、その御方から答えと、祝福と、新しい名前、新しい生き方が、示されるのである。

主は、天高くふんぞり返って、人間からかけ離れたお方ではなく、人と「関係する事」を求めておられる。
主は全宇宙を造られた偉大なお方であるのに、人として降りて来られ、私達と格闘できる程にまで小さくなられ、相撲を取る程にまで生々しく関わて下さった。

祝福は、ただ口を開けて祝福が落ちてくるのを待つ者に降ってくるものではなく、激しく責め立てる者によって、奪い取られている。(マタイ11:12)
私達も、ヤコブのように、祈りにおいて相撲を取る程の気概も持つなら、新しい名前が与えられ、祝福が与えられ、新しい人生が与えられる時が近い。

礼拝説教メッセージ音声:聞かれる祈り(創世記32:6-21):右クリックで保存

ヤコブは御使い達が現れた事に力を得、エサウの所に使者を遣わしてみた。
エサウの自分への殺意は時間が薄めてくれていた事を願っていたが、エサウはなんと、四百人を率いて迎えに来るという。(創世記32:6)
ヤコブは元々、穏やかな人で天幕に住んでいたのに対し、エサウは野の人で巧みな狩猟者である。
そのエサウが鍛え上げた四百人に襲われてしまっては、ひとたまりもない。

私達も人生で、強大なエサウが立ちはだかる時があり、そのような時は非常に恐れ、あの手この手を尽くしてもがく。
ヤコブはその時、どうしたか。

彼が真っ先にした事は、持ち物の群れを二つに分散した事だった。
たとえ一方の群れが襲われても、その間に他方の群れが逃げ延びるためである。
しかしそれは「もしも襲われたら」という、消極的な対処方法である。

どこにリスクがあるか分からない現代では、資産を債権や株、不動産などに分散投資してリスク分散するのは常套手段だが、ヤコブはその先駆けをしたわけである。
しかし所詮、人間の考え出すリスク管理には、限界があるのだ。
事実、資産を債権や株、不動産などに分散投資したほうが良い、という世の風潮に流されて、その通りにした者の多くは、2008年に痛い目に遭ってしまった。
この世の風潮を支配しているのは、サタンであり、サタンは人を駆り立て、心を縛り、絶望へと導いて行く。

ヤコブは、ただ自分の思いついた方法に頼るだけでは、心細かった。
そこで彼が次に行ったのは「主に祈る」事だった。
私達キリスト者にとって最大のセキュリティ確保は、主の御翼の陰に飛び込む事であり、あらゆる災いから最も確実に守りを得る方法は、全能者に祈る事に尽きる。
9節からヤコブの祈りが始まるが、彼の祈りの順番や内容から、私達は多くの事を学ぶ事ができる。

彼は真っ先に、主はどういうお方であるのか、という告白をし、主が与えて下さった御言葉の約束を、主に思い起こさせている。(9節)
人が祈る時は、何かと、真っ先に自分の願いで始まり、自分の願いで終わる事が多いが、彼が真っ先に持ってきたのは、自分がどういう願いを持っているかではなく、主がどういうお方であるか、という告白だった。

あやふやな自分の主張など、何時間並べても、あやふやそのものだ。
しかし、決して変わることのない主が約束して下さった御言葉を、祈りの中に持ち込むなら、その祈りはもはや、あやふやなものはなくなり、確かな保証を伴うものとなる。

続いて彼は、自分は主の御前には足りない物である事、今与えられている全ては主が与え祝福して下さったものである事を、告白し(10節)、そうしてから初めて、彼は自分の願いを申し述べ、自分が恐れている事を、正直に告白した。(11節)

祈りは全て、正直なものこそ聞かれる。
取り繕いなど一切、必要ない。
なぜなら主は、全てをご存知であり「こんな願いを申し立てたら怒られるだろう、だからそれは出さずに、こっちの願いを祈ろう」などといった、取り繕いの些細な機微さえ全部、主はご存知なのだから。

ヤコブは祈りの最後もまた、御言葉で閉じている。「あなたは・・・と言われました」と。(12節)
主は真実なお方であるが故に、約束を破る事は出来ない。
それだから、祈りにおいて御言葉を盾に取るなら、その祈りは、決して揺るがぬものとなるのだ。

ヤコブの祈りは、ヨシャパテ王が祈った祈りにも、非常に良く似ている。(2歴代誌20:5-12)
ヨシャパテ王も、敵が攻めてくる報告を受けた時は非常に恐れ、真っ先に主に頼り、全国に断食を布告して祈った。

彼も、祈りの最初に、主がどういうお方であるか、どれほど力強いお方かを真っ先に宣言し(同6節)、次に、主がアブラハムの時代からソロモンの時代まで、どのような約束をされたか、御言葉を盾に取った祈りをした。(同7-9節)
続いて彼は、主に命じられた通りにイスラエルが行った結果どうなり、そして現状はどうなってしまったのかを訴え(同10-11節)、最後に、自分の願いを申し述べている。(12節)
その祈りの結果、ヨシャパテ王とイスラエルの軍勢は、剣や弓を一切用いる事無く、大勝利し、分捕りに3日かかるほど多くを得た。

私達の身勝手な願いを、何時間もだらだら繰り返すような、法則を外した「祈りもどき」を、主は聞かれない。
御言葉を盾に取った、へりくだる者の祈りをこそ、聞かれるのである。

礼拝説教メッセージ音声:マハナイム - 二つの陣営(創世記32:1-5):右クリックで保存

ラバンと無事決別できたヤコブだが、彼には乗り越えるべきもう一つの関門があった。
それは、彼に殺意を抱いていた、兄エサウである。
道々彼は、エサウはまだ殺意を抱いているだろうか、どのようにして父の家へ帰って平和に過ごせるだろうか、と、心配していた。

そんな彼の前に、御使い達が現れた。
『ヤコブは彼らを見て、「これは神の陣営です」と言って、その所の名をマハナイムと名づけた。』(創世記32:2)

マハナイムという名は、マハネ(陣営)の双数形で「二つの陣営」をあらわす。
ヤコブが導いてきた「自分の陣営」の前に、「御使い達の陣営」も現れ、主が、天の軍勢によって自分達の行く道を守って下さる事を示され、ヤコブは喜んだ。
雅歌書6:13に出てくる「マハナイムの舞」は、ヤコブが天の陣営にも守られている事を喜んだように、自分達も主に守られている事を喜び、御使い達のように美しく優雅に舞う踊りであると言われている。

私達キリスト者は、救いを受け継ぐ事が約束された者達で、御使いたちが仕えている。
「御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。」(ヘブル1:14)
主イエスの名にあって礼拝し、賛美する一陣の集まりには、御使い達も共に集まり、地においてと天においての、二つの陣営があるのである。

イエス様が生まれた時にも、夜番をしていた羊飼い達に、天の軍勢が現れ、彼らに喜びの良き知らせが告げられた。

『御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。』(ルカ2:8-14)

羊飼い達は当時、住民登録にも呼ばれない程、卑しく、貧しい、どうでも良い人達だったが、御使い達が軍勢を従えて現れたのは、そんな彼らの所にであった。
主は、不安と恐れの暗闇の下で震えている私達に、天の軍勢をもって現れ、救いの良き知らせを、もたらして下さるのだ。

ダビデもまた、アビメレクの前で狂った様を装って追い出されてしまった、恥ずかしさと屈辱の極みの時に、詩篇34篇を書いた。
『主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。 若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。 』(詩篇34:7-9)

これはとても、気違いを装って追い出された者が、その時書いたとは思えない程の、素晴らしい信仰告白である。
主は確かに、弱く惨めでありながらも、主を呼び求める者に御使いを遣わし、陣を張り、守って下さるのだ。
事実、ダビデの信仰どおり、彼は確かにあらゆる災いから守られ、やがてダビデの敵は滅ぼされ、彼はイスラエル歴史上で最も偉大な王となった。

御使いの陣営が現れたヤコブ、ダビデ、羊飼い達、この三者に共通している事がある。
それは、三者とも羊飼いであり、しかも、弱く頼りない羊飼いであった事。

私達も、イエスの愛された羊である兄弟姉妹の面倒を見、養うのであれば、私達も羊飼いである。
羊飼いは何も、10匹や100匹面倒見なくてはならない訳ではない。面倒を見るのが、たとえ一匹であっても、立派な羊飼いである。
皆さんの周りに、イエス様の愛された羊が一匹でもおり、その羊がが迷い出たり、弱っていたりした時、探し出してイエス様の下に連れてきたり、助けてあげたりしたのなら、あなたは立派な羊飼いである。

そして、羊飼いたる資格は「イエス様を愛します」という告白である。
『イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。』(ヨハネ 21:17)

主イエス様は、ご自身を愛していると告白する者に、飼うべき羊を任せられ、そして、羊飼い自信が弱く惨めな心になってしまった時には、天の軍勢を送って下さり、救いのおとずれを知らせに来て下さるのである。
しっかりイエス様を愛し、イエス様の羊を飼っているのであれば、恐れることは無い。
たとい地上の軍勢は弱くとも、第二の陣営、天の軍勢が共におり、味方して下さるからである。

礼拝説教メッセージ音声:「言ったもん勝ち」への対処方法(創世記31:43-55):右クリックで保存

ラバンの顔を見るのもいよいよ今回で最後だが、ラバンは最後に、身勝手な所有権を主張する。
『ラバンは答えてヤコブに言った、「娘たちはわたしの娘、子どもたちはわたしの孫です。また群れはわたしの群れ、あなたの見るものはみなわたしのものです。これらのわたしの娘たちのため、また彼らが産んだ子どもたちのため、きょうわたしは何をすることができましょうか。』(創世記31:43)

彼が主張した所有権は、根拠の無い偽りであるが、そのような主張は看過して良いものではない。
例えば、ある人が自分のものではない土地に勝手に居座り続け、それに対して、本来の所有者が何の文句もつけずに、何年か経ってしまうと、既成事実化してしまって、その土地の所有権は、勝手に居座った者へと、移ってしまう。

サタンが奪うやり口も全く一緒で、身勝手に偽りの所有権を主張し、その勢い飲まれたり、無抵抗だったりしていると、さらに調子に乗って、もっと侵入して来る。
いわゆる「言った者勝ち」の論理である。
偽りの所有権に対しては、「真理」をつきつけて、必ず、対処しなくてはならない。
少しでも侵入を許すと、もっと調子に乗って来るので、追い出すのはより困難になって来るからだ。

サタンが仕掛ける、偽りの所有権への対処方法は、力や議論で勝つ事ではない。
御言葉の真理を突きつける事である。
その実践方法は、イエス様から見習うことができる。

『それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。』(ルカ4:5-7)

悪魔はイエス様にさえ、世界の権威も栄華も自分のものだと主張し、ひざまずくならあなたにあげよう、と、持ちかけた。
確かにこの世は、悪しき者の支配下にあり(1ヨハネ5:19)、悪魔は自分にひざまずく者達に、権威や栄華を与える「分」はある。
それに対し、主は、どう対処されただろうか。

『イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」』(同4:8)
ただ、御言葉には○○と書いてある、とだけ口から発し、たったそれだけでサタンは、もはやその議論ができなくなってしまった。

人は何かと、議論や力技で対抗しようとする。
「サタンよ、それは違う、嘘だ。人も地球もお前が創ったのか?違うだろう。元々父なる神様が創ったもので、お前のではない。」などと、議論で返したくなるが、私達はむしろ、サタンと同じ論壇に乗ってはならない。
エバはまんまとサタンとの話し合いの場に乗ってしまい、まんまと罠にはまってしまった。

サタンと対抗できる唯一の手段。
それはただ、「御言葉の剣を差し出す事」に尽きる。

ヤコブも、ラバンの横柄ともいえる「自分のものだ」という主張に、議論で返さず、真理に基づいて対処している。
彼はラバンに対し、まず、石の柱によって境界線を引いた。

『ヤコブはまた一族の者に言った、「石を集めてください」。彼らは石を取って、一つの石塚を造った。こうして彼らはその石塚のかたわらで食事をした。ラバンはこれをエガル・サハドタと名づけ、ヤコブはこれをガルエドと名づけた。』(創世記31:46)

エガル・サハドタはカルデア語、ガルエドはヘブライ語で、共に「証拠の塚」という意味である。
ラバンは、ヤコブが立てた石の塚にさえ、身勝手に自分の国の言葉で名前をつけたが、ヤコブはすかさず、自分の言葉で名付けた。

サタンも、私達に身勝手なサタン王国の名前をつけるかもしれない。「おまえは、みじめだ。」と。
そのような時、私達神の国の者は、すかさず、自国語すなわち神の国の言葉で、正しいアイデンティティを上塗りするべきである。
「私はキリストによって、神の子とされた」と。

『そこはまた、ミツパ(見張り所)とも呼ばれた。「我々が互いに離れているときも、主がお前とわたしの間を見張ってくださるように。』(創世記31:49)

ヤコブはまた、ミツパという名前もつけた。
ミツパは後のサムエルの時代、ペリシテの圧政のためにイスラエルが集まって主の御前に心を注ぎ、断食して祈った所である。
ペリシテは攻めて来たが、主ご自身がさばいてくださり、ペリシテは打ち負かされ、その記念に「エベンエゼル(守りの岩)」が建った所である。
私達にとって守りの岩は、イエス・キリストである。
私達が、サタンとの間にこの守りの岩であるイエス・キリストを置くなら、サタンは打ち負かされ、そこを乗り超えてくることはできない。

ラバンは51節でも、しつこく「私が立てた石塚」と主張する。
ヤコブはそれは言わせておくが、53節のラバンの言葉は、看過していない。
『どうかアブラハムの神、ナホルの神、彼らの父の神がわれわれの間をさばかれるように」。ヤコブは父イサクのかしこむ者によって誓った。』(創世記31:53)

ラバンが誓ったのは、アブラハムの神、ナホルの神、先祖達の神によって、である。
それに同意しても問題無い、と思われた方は、罠にかかっている。
アブラハムが74歳以下の時に拝んでいた神は、偶像の神であり、ナホルやその先祖たちが拝んでいた神も、もろ、偶像の神である。
ヤコブはすかさず、「父イサクのかしこむ者」と言って、明瞭に全能なる神を指定し、この御方によって誓った。

私達が祈るべきは、イエス・キリストの名前によってのみであり、この方以外に、救いの名は無い。
もしクリスチャンの中で、訳の分からない神に祈っているようであるなら、明確に、イエス・キリストの名前によって祈らせるべきである。

「あくる朝ラバンは早く起き、孫と娘たちに口づけして彼らを祝福し、去って家に帰った。」(創世記31:55)
こうしてヤコブは平和に、圧制者ラバンと別れる事が出来た。
それはヤコブがラバンの議論に乗らず、力に頼らず、ただ真理を告白して対処したからである。

『神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。』(1ヨハネ5:18)

立派な子「バルテマイ」になるには?(マルコ10:46-52)
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イエス様が弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイ(意味:立派な子)という目の見えない人が、道ばた(highway side)にすわって、物乞いをしていた。(マルコ10:46)
多くの人達が彼を見下ろし、彼の傍を過ぎて行った。人々にどんな目で見られたのかは彼には見えない。
ある人は近づいて、彼に幾らかを施し、ある人は馬車で砂埃を巻き上げながら、目もくれずに行った。
成人した彼を養ってくれる家族は、きっといなかったのだろう。自分のみじめな姿を晒すのが嫌だからと言って、人通りのない裏路地にいては、物乞い稼業は成り立たない。大通りに出て、人が通る音を聞く度に、明瞭に声に出して憐れみを求め、落としてくれる恵みでその日の糧を得る、という日々を送っていた。

彼は、目が見えない事によって、世の事柄の多くの点において、周りの人達に比べて遅れを取っていた。
周りに比べて多くを経験出来ず、多くの楽しみも、知らずにいた。人はそれを不条理と呼び、何のためにそうなったのか、誰のせいで、と議論する。イエス様の弟子達でさえ、そう議論した。(ヨハネ9:2)
しかし主イエス様は、誰のせい、とは言われない。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(同3節)と言われる。
イエス様の辞書には、誰々と比べて、などという文字は一切無いし(ヨハネ21:22)、世の楽しみを味わったかどうか、など、救いには一切関係無い。それどころかむしろ、それらは救いを得る上で邪魔にさえなる。
多くを経験できれば良い、多くの楽しみを知れば良い、というものではない。バルテマイは、多くを知らないが故に、多くの人が見過ごしがちな、そして、真に人間に必要な事を、はっきり知っており、求めていた。
すなわち、ダビデの子孫から救い主が現れる事、そして、ナザレのイエスと言われるお方が、その証拠としての奇跡を行なっており、その御方なら自分を救うことが、きっとおできになる、と、信じていた事である。

ある日彼は、通りがいつもと違う興奮に包まれ、何か喜ばしげな雰囲気であるのを、感じ取った。
何事かと人に聞くと、そのナザレのイエスがお通りだ、と言うではないか!そこで彼は声を張り上げた。
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」

バルテマイが助けを求めて叫んだのは、ダビデの子イエス様に、である。決して、イエス様に群がった群衆に、ではない。
ところがキリスト教会では、なんと多くの人達が、イエス様に助けを求めるのではなく、イエス様を求めに来た「人間たち」に、助けを求めているだろうか。
バルテマイがもしイエス様からではなく、イエス様をネタとして群がった群衆から、恵みを得ていたのであれば、そんな得た物は、すぐに無くなってしまう。
同じように私達も、教会のいわゆる「優しい人達」を当てにし、彼らから助けを得ようとして、イエス様に助けを求めないとしたら、バルテマイが得たような根本解決など、決してあり得ない。

多くの人達は、イエス様を、ナザレの田舎出身の一有名人のように呼ぶ。しかしバルテマイは、イエス様を自分を救って下さるお方だと信じ、来たるべきダビデの子孫、救い主として呼んだ。
大勢の人々は、彼を黙らせようと、たしなめた。私達も救いに近づこうとする時、イエス様を呼ぼうと、声高に叫べば叫ぶ程、世は、周りは、邪魔をする。しかし、そのような時は私達も、バルテマイのように、イエス様を呼ぶ事を、止めてはならない。イエスこそ来たるべきメシヤであると、叫ぶ事を止めてはならない。
イエス様は「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と叫ぶ声に耳を傾け、足を止め、その人を呼ばれる。
バルテマイは、イエス様が自分のことを呼んでいる、と分かると、上着を脱ぎ捨てた。
その上着は、それまで彼の人生の色々な場面で、寒さや日差し、砂埃から守ってきた大切なものであろう。
しかし同時に、彼の汗や垢、砂埃まみれで、ダビデの子イエスの御前に出るには、相応しくないものである。
私達も、救い主の御前に出る時、自分の汗や垢、ホコリにまみれた大切なものを、脱ぎ捨てるべきである。
たといそれが、どんなに大切であろうとも、主の御前に、自分の汗や涙の成果物は、一切無意味である。
むしろ私達に大切なものは、イエス様から着せていただく贖いの衣である。

彼は自分の足で、手探りで、イエス様にいると思われる方へと、一歩一歩進んで行った。そして何歩か行った時、声があった。「わたしに何をしてほしいのか。」
イエス様は、私達が何を求めているのか、当然ご存知である。しかし私達は、イエス様のほうへと自分の足で手探りでも行き、何をしてほしいのかを、自分の口で告白し、自分の意志を明確に伝えるべきなのだ。
彼は「ラボニ(私の先生)、見えるようになる事です」と答えた。主は、誰の主でもなく、私の主である。
そう告白した彼に、イエス様は「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と答えられた。
そして彼は見えるようになった。見えるようになったら彼は、イエス様の行かれる所に、ついて行った。
彼には以前の生き方も、以前の上着も必要なく、イエス様との新しい人生が始まった。(2コリント5:17)
私達もイエス様に癒され、神の御技をこの身に受けたのなら、イエス様にどこまでもついて行くべきである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
私を愛しますか?(ルカ22:31-34):右クリックで保存

今週は主日を皮切りに、初めてこの教会に訪ねて来て下さる兄弟姉妹たちが続々起こされています。

彼らがこの教会で感じた第一印象として共通している事は、なんだか初めて会った気がしない、アットホームな雰囲気で落ち着ける、という事でした。

それは私達はキリストにあって文字通り「兄弟姉妹」であり、同じ主を主としているからですね。

人が一つになれるのは、誰か人間の主義主張でも、人間の作った組織でも、教理教派でもなく、唯一、イエスキリストによってのみです。

この唯一の天からの声、イエスキリストに聞く教会、というスタンスから決して離れぬよう、いきたいです。
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