メッセージ - 201210のエントリ
今朝、出張から帰って来ました。
本日配信する分は、月曜早朝のもので、今朝のメッセージは明日配信します。
留守の間、遠くの聖徒から贈り物を送っていただきました。
会ったことの無い天声の聖徒たちのために、心を込めて送って下さった聖徒たちに、主が豊かに報いてくださいますように!
出張は行く前は闇からの猛烈な攻撃があって、かなり気を挫かれましたが、結局ものすごい恵みを頂いて帰って来ました。
始めから終わりまで守り、これからさらに多くの祝福を与えて下さる主に感謝です。
礼拝説教メッセージ音声:出エジプトの40年前(出エジプト記2:11-15):右クリックで保存
赤ちゃんだった頃のモーセはしばらくの間、実の母の元でイスラエルの民として育てられ、パロの娘の所に戻されて以降はエジプトの王子としての最高教育を受け、40歳になった時、自分の民を憐れむ心が芽生えた。
しかし、彼が最初に取ったイスラエル人を救う方法とは、追い使うエジプト人を隠れて殺し、その遺体を埋めて隠す事だった。(出エジプト2:11-12)
次の日、モーセが見ると、同じヘブル人同士が争っており、モーセが「あなたはなぜ、あなたの友を打つのですか」と言うと、
「だれがあなたを立てて、われわれのつかさ、また裁判人としたのですか。エジプトびとを殺したように、あなたはわたしを殺そうと思うのですか」
と言われたモーセは、あの事が知れてしまったと思い、エジプトから逃げた。
モーセがエジプト人を殺した時、周囲に誰もいなかったのに、何故知られてしまったのか。恐らく、その事を皆に告げ口したのは、当のモーセに助けられたヘブル人だったのだろう。
ヘブル人たちからすれば、自分達が奴隷仕事をし、男子の赤子は皆殺されている間に彼だけが助かり、エジプト最高の英才教育を受け、言葉にもわざにも力を帯びているようなモーセに、救い主になって欲しくは無かったのかもしれない。
そのためモーセはエジプトから逃げなくてはならなくなってしまい、ヘブル人達は結局、圧政の中強制労働する期間を、もう40年プラスする事となってしまった。
『偽る者は争いを起し、つげ口する者は親しい友を離れさせる。 しえたげる者はその隣り人をいざない、これを良くない道に導く。 』(箴言16:28)
この時のエジプトもヘブル人達も、力に対しては力、争いには争い、という世界のようである。
モーセもヘブル人も、エジプト流に「打つ事」「争う事」によって物事を解決しようとしたため、結局、さらに悪い方向へ物事を進めてしまったのだ。
「あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。」(1ヨハネ3:15)
この時、モーセはまだ神が認める指導者としては、整えられていなかったし、ヘブル人達も、兄弟を打ち叩いたり同胞を告げ口するような肉的余力があって、モーセもヘブル人達もまだ整えられていなかった。
そのため、もう40年、整えられる期間を過ごす事となる。
モーセは言葉にもわざにも力があった(使徒7:22-24)のに、ミデヤンの地でさらに40年過ごすうちに、口下手になってしまった。(出エジプト4:10)
かの出来事が、よほどショックだったのだろう。
パウロもまた、コリント人から「手紙は重味があって力強いが会って見ると外見は弱々しく話はつまらない」と言われてしまうほどに、外見はぱっとせず口達者でもなかった。(2コリント10:10)
主の力は、人のすぐれた言葉や知恵によらず、人の弱さのうちに完全に現われ、そうして、ただ純粋に神の力が証明されるのである。(1コリント2:1-5)
『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(2コリント12:9)
力わざでねじ伏せるのは、御国のやり方ではない。
神の国の子の流儀は、以下に書いてある通りである。
『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17)
『御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであった。しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。』(ユダ9-10)
悪魔は、モーセが生前、殺人罪を犯したため、モーセの死体は自分のものだと主張したが、御使の長ミカエルは力でねじ伏せる事をせず、さばきを神に委ねたのだ。
これが御国流の、敵に対する対処方法である。
モーセもユダヤ人も、人間的なものが砕かれる40年が必要であり、人間的な力に頼る事が一切出来なくなるまでになって、はじめて出エジプトの準備が整えられたのである。
皆さんは人間的なものを頼みにせず、日々十字架を負っているだろうか。
出エジプトの準備はできているだろうか。
働き人の心構え(使徒20:17-38)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
パウロはエペソに三年間留まって福音を伝え、教会や聖徒達を養い育成したが、ただならぬ騒動に遭い(使徒19:23-41)、エペソから離れ、当初のビジョン通りローマに行くべく、一旦エルサレムに戻る事にした。
パウロがエルサレムに上ろうとする時、聖霊によって捕縛と苦しみが示されていたため、もはや再び生きてエペソの地を踏む事は無いだろう、愛する彼らの顔を見ることも無くなるだろう、と覚悟し、彼がミレトというエペソから48kmの港町に着いた時、エペソに使いを送って、教会の長老たちを呼び寄せた。
使徒20章17節以降は、パウロのエペソの人達に対する今生最後のメッセージであり、エペソの愛する聖徒達にどのように働いて来たか、また、これから彼らは何に気をつけ、どのようになって行くべきかが示されており、そしてそれは、キリストの体を建て上げる働きをする全ての働き人が心に留め置くべき内容である。
「わたしが、アジヤの地に足を踏み入れた最初の日以来、いつもあなたがたとどんなふうに過ごしてきたか、よくご存じである。」(18節) パウロは話の切り出しに、自分は最初からどのような行いを実践し、彼らに身をもって示して来たかを思い起こさせた。
神の国の働き人は、パウロのように、口先での指示よりもむしろ行動で示して行くべきである。彼は初めの日から謙遜の限りを尽くし、涙をもって、ユダヤ人の陰謀という試練でも忠実に主に仕えて来た。(19節)
そして彼がユダヤ人にもギリシヤ人にも強く勧めて来た事は、神に対する悔改めと、主イエスに対する信仰とである。(21節) 悔い改めと主イエスへの信仰のすすめ無き教会は、世の集まりと何ら変りない。
パウロは聖霊によって縛られ、具体的には分からないが確実に苦しみが待っているエルサレムへ行こうとしていた。(22-24節) 神の働き人は、聖霊の導きに従って歩むものであり、行く先に確実に困難が待ち受けていようとも、たとえそれで命を落とすような事になっても、本望であり満足である。
皆さんが成そうとしている、神の働きの先に、たとえ迫害や人の拒絶があるとしても、平安はあるだろうか。
「だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。神の御旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。」(26-27節)
宣教者の責任は、神の御心を余す所なく伝えた時に、終わる。
キリスト者は、慈善活動や人々と和合する事に心砕くより、むしろ、神の御心を余すところ無く伝えるべきである。その中には、罪の指摘や、死後の裁きの存在など、人々が嫌がるような厳しい事も含まれる。
「どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。」(28節)
神の教会には、神の御子の血の代価がつけられている。御子キリストのいのちと、教会は、等価交換されたのである。その教会を牧する事が、どれほど尊い奉仕であるか、考えた事があるだろうか。
それ故、教会の監督者になりたいと思う人、聖徒達の上に立ちたいと思う人は全て、まず自分自身に気をつけ、また、群れ全体に心して気を配るべきである。
パウロが去っていった後、狂暴な狼が群れに入り込み、荒らしまわる事をパウロは知っていた。それだから彼は切々と訴えた。目をさましている事、夜昼涙と共に訓戒し続けてきた事に留まる事を。(29-31節)
「今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。」(32節)
救いは最終的に冷酷なまでの自己責任で、大好きな誰かを天国に行かせるための取引は一切出来ない。
働き人に出来る最大の事は、御言葉と神の御旨を余す所なく伝え、それに留まるよう勧め戒める事である。
エペソの人にとっても、パウロにとっても、互いの今生の別れは、ある日突然に来た。
パウロは昼も夜も涙を流しつつエペソの人達のために心砕き、教え、ケアして来たが、働き人の皆さんはそれをして来ただろうか。また、皆さんにとってパウロに当たる人が、ある日突然いなくなっても、皆さんは御言葉にしっかり留まり続けられるだろうか。
御言葉なるイエス様にしっかりとつながり続け、豊かな実を結ばせ続ける皆さんでありますように。
今日の第一礼拝では、ゲストの方に特別賛美をしていただきました。
とても御霊に触れられる賛美でした。本日の音声配信で聞くことができます。
なお、私は明日より水曜まで出張しますので、その間の配信はありませんが、教会の行事(早天礼拝や夜の祈祷会など)はいつもどおり行いますので、よろしくお願いします。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イザヤ60章に至るまで(イザヤ58章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:モーセ(引き出す者)の誕生(出エジプト記2:1-10):右クリックで保存
『レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。』(出エジプト2:1)
とても困難な時代での結婚である。
強制労働で搾取され、虐待され、結婚して子供を産んでも、男の子ならナイルに投げ込まれてしまうという、絶望的な時代である。
それでもこの若い夫婦は生きようとし、結婚し、パロの命令に従っていのちを消す事をしなかった。
それは信仰による。
『信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。』(ヘブル11:23)
パロの命令は「いのちを殺す」事だったが、この両親はパロの命令を恐れず、むしろいのちを大切にし、守ろうとした。
この夫婦がそうしたのは、その子がうるわしいのを見、その子を愛したから。
すなわち、いのちの輝きの美しさ、麗しさを見たから、だから王の命令も恐れなかったのである。
まったき愛は、恐れを締め出す。(1ヨハネ4:18)
しかし、赤ちゃんも三ヶ月目になると泣き声も大きくなり、いよいよ自分達の力ではどうにも守りようがなくなってしまった。
『もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。』(出エジプト2:3)
かごに自分の赤ちゃんを入れなくてはならない時の彼らは、断腸の思いだったろう。
赤子の守りを祈りながらかごに入れ、水に浮かべたかごを見つつ離れて行ったに違いない。
ここの「かご」はヘブル語でtebah、箱という意味で、これはノアの「箱舟」と同じ語である。
この両親は、自分達の力ではどうしようもないため、箱舟を作ってその中にいのちを入れ、そのいのちを神に委ねた。
その子の姉(ミリヤム)は遠くに立って、成り行きを見守っていた。
『ときにパロの娘が身を洗おうと、川に降りてきた。侍女たちは川べを歩いていたが、彼女は、葦の中にかごのあるのを見て、つかえめをやり、それを取ってこさせ、あけて見ると子供がいた。見よ、幼な子は泣いていた。彼女はかわいそうに思って言った、「これはヘブルびとの子供です」。』(5-6節)
パロの娘は、父がどういう命令をヘブルびとに下したかを知っていた。
しかし彼女の心にも、いのちを生かす心、憐れみの心が起こされた。
神は「箱」をパロの娘の所に導き、憐れみの心を起こして、赤ちゃんを守ったのだ。
『そのとき幼な子の姉はパロの娘に言った、「わたしが行ってヘブルの女のうちから、あなたのために、この子に乳を飲ませるうばを呼んでまいりましょうか」。パロの娘が「行ってきてください」と言うと、少女は行ってその子の母を呼んできた。
パロの娘は彼女に言った、「この子を連れて行って、わたしに代り、乳を飲ませてください。わたしはその報酬をさしあげます」。女はその子を引き取って、これに乳を与えた。』(7節)
きっとその子の姉は喜び勇んで母にこの事を伝えたに違いない。
母は合法的に、その子に自分の乳を飲ませ、育てる事が出来、しかも報酬までくれるように導いて下さった神に、喜び感謝しただろう。
赤ちゃんの親は、一旦は失ったと思っていた子のいのちを、信仰によって水の中から取り返したのだ。
『その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。彼女はその名をモーセと名づけて言った、「水の中からわたしが引き出したからです」。』(10節)
モーセという名は「引き出す」の語根「マシャ」の派生語である。
「引き出す」という名。まさに彼の生涯は、その名前の通りである。
モーセが生まれた時、大勢の男の子たちが水で殺されて行く中、彼は両親の信仰により、死の水の中から引き出され、他のイスラエル民族が奴隷しているエジプトの中から引き出され、そしてやがては、イスラエル民族を全てエジプトから引き出し、イスラエル民族を紅海の水の中から民を引き出し、荒野から約束の地へと引き出すのだから。
礼拝説教メッセージ音声:王が神に逆らう法を発布する時(出エジプト記1:15-22):右クリックで保存
「またエジプトの王は、ヘブルの女のために取上げをする助産婦でひとりは名をシフラといい、他のひとりは名をプアという者にさとして、言った、「ヘブルの女のために助産をするとき、産み台の上を見て、もし男の子ならばそれを殺し、女の子ならば生かしておきなさい。」」(出エジプト記1:15-16)
イスラエル人を過酷な労働で苦しめても、かえってどんどん増えて力を増す彼らを見たエジプトの王(パロ)は、直接的に「殺す」という手段に出て来た。
しかし助産婦達は、王の命令どおりにはしなかった。
なぜなら彼女たちは神を恐れる人だったため、神が祝福された民の男の子を殺すなど出来なかったからである。
『それで神は助産婦たちに恵みをほどこされた。そして民はふえ、非常に強くなった。助産婦たちは神をおそれたので、神は彼女たちの家を栄えさせられた。』(1:20-21)
パロの命令に背く事は命の危険を伴うが、それでも彼女たちは神を恐れる行いを実行したため、神は彼女たちを守り、祝福された。
神がかつて、アブラハムに『あなたを祝福する者をわたしは祝福し、/あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、/あなたによって祝福される」。』(創世記12:3)と言われた通りである。
神の御言葉に反する法律が制定された時、信仰の故に神の言葉のほうを優先させるなら、神はその事で大きく御国を前進させ、そしてその人に朽ちる事の無い冠を授けられる。
ダニエルの時代、ダニエルは王の命令に従わず神を礼拝する事を止めなかったためにライオンの穴に投げ落とされてしまったが、ダニエル自身は御使いによって守られ、逆にダニエルを妬んで御言葉に反する法律を制定した者達がライオンに食われてしまった。(ダニエル6章)
また、ダニエルの3人の友人達(シャデラク、メシャク、アベデネゴ)も、王の作った偶像を拝まないことを明言したため、火の燃え盛る炉に投げ落とされてしまったが、御使いによって守られた。
『総督、長官、知事および王の大臣たちも集まってきて、この人々を見たが、火は彼らの身にはなんの力もなく、その頭の毛は焼けず、その外套はそこなわれず、火のにおいもこれに付かなかった。ネブカデネザルは言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴの神はほむべきかな。神はその使者をつかわして、自分に寄り頼むしもべらを救った。また彼らは自分の神以外の神に仕え、拝むよりも、むしろ王の命令を無視し、自分の身をも捨てようとしたのだ。
それでわたしはいま命令を下す。諸民、諸族、諸国語の者のうちだれでも、シャデラク、メシャク、アベデネゴの神をののしる者があるならば、その身は切り裂かれ、その家は滅ぼされなければならない。このように救を施すことのできる神は、ほかにないからだ」。』(ダニエル3:27-29)
また、ステパノは、パリサイ人達に屈してイエス・キリストを捨てる事無く、かえって大胆にイエスがキリストである事を立証し、また、真理を貫き通してパリサイ人達の偽善を暴いたため、反感を買ってしまい、石打で処刑されてしまった。(使徒6-7章)
彼の場合、この世で報いは受けられなかったが、彼の一件によって福音は大きく前進し、彼の名前は永遠に栄光ある者として残る事になった。
人の権威に屈せず神を敬い通したダニエルも、彼の3人の友人達も、ステパノも、パロに逆らった助産婦シフラとプアも、その名前は永遠に栄光ある者として残る事となったのだ。
パロは、助産婦達が自分の命令どおり動かなかったのを見ると、さらに厳しい命令を下した。
『ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」』(出エジプト記1:22)
今度の殺害命令は、エジプト全国民への命令で、イスラエルの男の子の赤ちゃんは一人残らずナイル川にほうりこむというものである。
多くの男の赤ちゃんが、ナイル川に投げ込まれただろう。
しかし後に、神はモーセを通して、ナイル川を血に変わる災いをエジプトに降し、エジプト人は皆、血に変わった水と相対するはめになった。
血に変わったナイル川の水を見た時、エジプト人は自分が神の民にして来た事を思い出しただろう。
神の民に災いを下す者は呪われ、罪なき者の血を流す者は、その血が頭上に返るのである。
『第三の者がその鉢を川と水の源とに傾けた。すると、みな血になった。それから、水をつかさどる御使がこう言うのを、聞いた、
「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。聖徒と預言者との血を流した者たちに、血をお飲ませになりましたが、それは当然のことであります」
わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」。』(黙示録16:4-7)
イスラエルに災いをもたらしたエジプトは、その後、災いにつぐ災いに襲われ、徹底的に呪い尽くされてしまった。
ステパノを殺害したユダヤ人たちは、そのすぐ後のユダヤ戦争によって悲惨な死を遂げ、多くのユダヤ人を虐殺したヒトラーも凄惨な最後だった。
信仰を貫き通した神の民は、決して朽ちることの無い栄光を受け、神の民を苦しめ虐待する者達には、悲惨な最後が待っているのである。
歯茎に慢性的な疼痛(とうつう)があり、歯医者で診てもらった所、詰めた所に隙間が出来ていて、そこからばい菌が入っていたらしく、膿が溜まっていたようです。
歯茎を切除して膿を出し、詰め物は取って、歯茎が安定するまでの暫くは詰め物はしないほうが良い、という事でした。
あのまま放って置いたら、頬がかなり膨らむ程腫れていたみたいです。
治療して数時間は痛かったのですが、今はそれも和らぎ、疼痛も無くなっていて、治療して良かったです。
それにしても、痛みには色々な種類がありますね。
刺されるような痛み、電気が走るような痛み、ひりひりする痛み、しびれの強い痛みなどなど。
医者に伝える時には少し困りました。
しかし、痛みがある事は恵みです。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
再建を邪魔する者の手口(ネヘミヤ記4章):右クリックで保存
# ネヘミヤ記4章に基づくメッセージ
## 【概要】
ネヘミヤ記4章は、エルサレムの城壁を再建する過程での困難と、それに対する信仰と祈りの力を描いています。私たちの人生における「城壁」はどのような状態でしょうか。
## 【聖書箇所】
- ネヘミヤ記4章1-21節
## 【励ましの言葉】
「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(ネヘミヤ記4:14)
## 【戒めの言葉】
「彼らの知らないうちに、また見ないうちに、彼らの真ん中に入り込んで、彼らを殺し、その工事をやめさせよう。」(ネヘミヤ記4:11)
## 【勧めの言葉】
「私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」(ネヘミヤ記4:20)
## 【悔い改めの促しの言葉】
「彼らの都がを許すことなく、彼らの罪を見前から拭い去らないでください。」(ネヘミヤ記4:5)
## 【***詳細***】
ネヘミヤ記4章は、エルサレムの城壁再建における困難と、それに対する信仰の力を描いています。サヌバラテやトビヤといった敵が、ユダヤ人たちの努力を嘲笑し、妨害しようとします。彼らは「この哀れなユダヤ人たちは一体何をしているのか」と嘲り、彼らの努力を無意味なものとしようとします(ネヘミヤ記4:2)。
しかし、ネヘミヤは神に祈り、敵の計画を神に委ねます。「お聞きください、私たちの神。私たちは軽蔑されています。」(ネヘミヤ記4:4)と祈り、神の助けを求めます。彼は、神が彼らの敵の計画を打ち壊してくださることを信じています。
ネヘミヤはまた、民を励まし、恐れずに戦うように促します。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(ネヘミヤ記4:14)と語り、神が共にいることを思い起こさせます。
敵の攻撃が続く中、ネヘミヤは防御を強化し、工事を続けます。「その日以来、私に使える若い者の半分が工事を続け、他の半分は槍や盾、弓、鎧で身を固めていた。」(ネヘミヤ記4:16)と記されているように、彼らは常に備えを怠りません。
この章は、私たちが人生の中で直面する困難や妨害に対して、どのように信仰を持って立ち向かうべきかを教えてくれます。私たちの「城壁」が攻撃されるとき、神に祈り、信仰を持って立ち向かうことが重要です。
## 【結論】
ネヘミヤ記4章は、信仰と祈りの力を通じて、困難を乗り越えることの重要性を教えています。私たちの人生における「城壁」が攻撃されるとき、神に祈り、信仰を持って立ち向かうことが求められます。神は私たちのために戦ってくださるのです。私たちもまた、神の助けを信じ、共に立ち上がりましょう。
礼拝説教メッセージ音声:エジプトでの艱難のはじまり(出エジプト記1:1-14):右クリックで保存
出エジプト記はモーセ五書の第二番目の書物、内容的には創世記50章からの続きであり、1〜18章がモーセによるイスラエル民族のエジプト脱出、19章以降はシナイ山における神と民の契約とその内容、それが授与された時の人々の反応が記されている。
イスラエル民族はヨセフ以降、エジプト・ゴシェンの地でおびただしく増えるようになり、エジプトを脱出する時には男子だけでも60万以上にまでなっていた。
神の民が祝福されれば、世の人はそれを妬んだり恐れたりするものである。
『ここに、ヨセフのことを知らない新しい王が、エジプトに起った。彼はその民に言った、「見よ、イスラエルびとなるこの民は、われわれにとって、あまりにも多く、また強すぎる。さあ、われわれは、抜かりなく彼らを取り扱おう。彼らが多くなり、戦いの起るとき、敵に味方して、われわれと戦い、ついにこの国から逃げ去ることのないようにしよう」。
そこでエジプトびとは彼らの上に監督をおき、重い労役をもって彼らを苦しめた。彼らはパロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。』(出エジプト1:8-11)
エジプトはイスラエル民族を「賢く」扱った。
すなわち、彼らに重い労役を課す事で、自分達の国益に叶うようにし、かつ、イスラエルを弱体化させる方策を取った。
エジプトはイスラエル民族のお陰で潤い祝福されていたのに、彼らはその恩を仇で返したのだ。
ヨセフは自分の民族がこの国を脱出するべき時が来る事を、まだエジプトで大いに栄え何もかもうまく行っている時に予見していたし、実は、イスラエル民族が異国で400年もの間虐待を受ける事は、その何百年も前から、まだイスラエル民族がその父祖である一人の老いた男だった頃から、神はその事を示していた。
『時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。」』(創世記15:13-14)
普通、虐待されて希望が持てなくなれば、人々は結婚して子供を産む事に意義を見いだせず、子供は減っていくものであるが、イスラエル民族は少子化になるどころか、逆に増えて行ったため、エジプト人はますます恐れた。(出エジプト1:12)
私達も以前はサタンに縛られ、肉に従って日々を過ごし、肉の思いの欲するままを行い、不従順な人々と同じく生れながら怒りを受けるべき者達であったが、憐れみ深い神は私達を愛して下さったその大きな愛によって、罪過の中に死んでいた私達をキリストと共に生かし ――その救いは、恵みによる―― キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上の座につかせて下さったのである。(エペソ2:4-6)
世の支配者サタンも現在、人々を「賢く扱い」、労役で虐待し、命を減らす戦法に出ている。
人々はその圧政の支配下にあって、あえいでいる。
しかし、神の民はいかなる虐待の中にあろうと、その中でいのちを増え広がらせるのである。
神の民にとって、艱難はただの無益な苦しみでは終わらない。
『それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。』(ローマ5:3)
出エジプト記は約束の地に入る所までは記されてはいない。
彼らは約束の地に入る前に、神から与えられる諸々の試練をパスして行かなくてはならないのだ。
イスラエル民族は、この出エジプトの経験を通して、神の恵み深さを知り、救いの素晴らしさを噛み締め、神とともに歩む歴史的なアイデンティティを確立した。
同じように私達も、諸々の患難を忍耐して乗り越え、練達を生み出し、希望を生み出し、そして、永遠にしぼむことのない救いの希望へと導かれるのである。