メッセージ - 201211のエントリ
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
罪を治めよ(マタイ26:20-25):右クリックで保存
子を去らせよ、さもなくば・・・。(出エジプト記4:18-23)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2012-11-9 20:26
礼拝説教メッセージ音声:子を去らせよ、さもなくば・・・。(出エジプト記4:18-23):右クリックで保存
主は確かにモーセを怒られた。しかし主は兄アロンという助け人を備え、モーセが弱さを覚えている所、口下手な所を、カバーして下さった。
それでモーセは、しゅうとのイテロの所を出てエジプトへ向かう気になったのである。
主は私達の過去の傷と弱さを知り、憐れみ、無理なくそこを乗り越えさせて下さる。
そして主は、かつてエジプトで命を狙われていた事に対する恐怖するモーセに、もう安全だと宣言された。
『主はミデヤンでモーセに言われた、「エジプトに帰って行きなさい。あなたの命を求めた人々はみな死んだ」。』(出エジプト記4:19)
主は、私達の過去の傷や、その時以来染み付いてしまった恐怖から解き放たせて下さる段にあたり、いきなり私達の許容範囲の事は要求されないし、私達が恐れて尻込みしてしまっても「なんて信仰の無い」と怒ったままではなく、別の助けの道も備えて下さる。
『主はモーセに言われた、「あなたがエジプトに帰ったとき、わたしがあなたの手に授けた不思議を、みなパロの前で行いなさい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、彼は民を去らせないであろう。』(出エジプト記4:21)
パロは最初の接触では、イスラエルの民を去らせない事も再度言われた。それを知りつつも、実際にそれが起きた時の彼らの落胆は、非常に大きなものだった。
しかし主は、さらに大きな御業を用意しておられ、カバーして下さるのである。
モーセにとってパロは大きな恐怖の存在だったかもしれないが、主は、恐怖の対象を見つめるのではなく、主がなさる大きな御業に目を留めるように言われた。
私達も、目の前の恐怖の対象を見つめ続けるなら、ただ尻込みして動けないだけだが、主が為して下さった恵みの数々に、主が成して下さる大きな御業に目を留めるなら、私達も進むことが出来るのだ。
『あなたはパロに言いなさい、『主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。』(出エジプト記4:22)
イスラエルの民は、全人類に対して長子である。なぜなら、全人類はアブラハムの子孫を通して祝福され、救いへと入るからだ。
そして私達・イエスキリストを信じる聖徒達も、真にアブラハムの子孫であり(ガラテヤ3:7)、神の子とされたのである。
『あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。』(ローマ8:15−17)
御霊に導かれるなら、私達も神の子であり、それはエジプトが強いたような奴隷にする霊ではない。父なる神様を親しく「アバ」と呼ばさせて下さる霊である。
そして、子であるからには相続人であり、相続人であるからには、その大いなる神の子としての権利を活用すべきだ。
『わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう』と」。』(出エジプト記4:23)
なんとも強気な言葉である。
社会的に見れば、モーセは一介の羊飼いの老人、パロは大国の王であり、かなうはずも無いのに、神がそう宣言せよと言うからには、私達も強気に御言葉を宣言しなくてはならない。
たとい自分がいかに社会的地位がなくとも、相手がいかに大国の王であろうとも。
皆さんは、世を支配する王に、奴隷とされて来ただろうか。縛られてきただろうか。搾取されて来ただろうか。
あるいは、皆さんの愛する家族や兄弟姉妹たちが、今、サタンに縛られたり、病や貧困、罪などの奴隷とされたり、いらぬ搾取をされたりしていないだろうか。
その時は、主イエスの名によって、世を支配する悪しき王達に、すなわちサタンに、宣言するべきである。
神の子達を、そこから去らせよ、と。束縛から解いて、神を礼拝させよ、と。
もし去らせるのを拒むなら、エジプトの子らを殺した主が、おまえの子たちを殺す、と。
『あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。』(1コリント6:2-3)
『最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。』(エペソ6:10)
霊的武具をしっかり身につけ、聖徒達を束縛しているパロの霊に主イエスの名によって「聖徒達を解き放て」と命じ、罪の束縛にあえいでいる聖徒の鎖を主イエスの名によって打ち砕き、ハデスの門さえ恐れず、暗闇の世界から大胆に分捕り、多くのたましいを主イエスのもとへと引き連れて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:あなたが語るべき事を教える(出エジプト記4:10-17):右クリックで保存
『モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」』(出エジプト記4:10)。
彼はエジプトのあらゆる学問を教えこまれ、言葉にもわざにも力があったはずだが(使徒7:22)、今や、口が重く舌が回らなくなってしまった。
神の民を救うには当然、神の言葉を仰ぎ、神の力によらなくてはならないはずなのに、四十年前の彼は、自分の地位や力、自分の方法で救おうとしたために、徹底的に失敗し、人から拒絶され、その痛い経験ゆえに、言葉の人ではなくなってしまったのだ。
『主は彼に言われた、「だれが人に口を授けたのか。話せず、聞えず、また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか。それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。』(出エジプト記4:11-12)
モーセ自身がつい先程、神には人の体を病にかからせたり、それを瞬時に癒す力のある御方であると、自分自身の体で体験したはずである。
モーセはそれでも言う。「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」。(13節)
これに対し、神は怒りを燃え上がらせた。
モーセは主ご自身が遣わすのであり、主もモーセと一緒にエジプトへ降る、と、前章で主は言われていた。
また、主は「有りて有る」お方である事を知らせ、そして彼をめぐってイスラエルやエジプトがどのような行動を取るのかも、あらかじめ示されていた。
さらには、モーセの手にしるしを為す力さえ授けたのに、それでも「ほかの適当な人をおつかわしください」と言った。それは謙遜さではない。
主がそこまで示して下さったのに、なお断るというのは、愚かさである。
そこで主は、モーセの口をもはや用いず、彼の兄アロンを預言者として用いられ、モーセは彼に対して神の代わりとする。
『あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、彼はあなたに代って民に語るであろう。彼はあなたの口となり、あなたは彼のために、神に代るであろう。』(出エジプト記4:15-16)
神はなぜ、体力気力盛んな40歳のモーセを用いず、80歳の弱くなったモーセを用いられたのか。
それは、身分の高い者や権力のある者、強い者を辱め、御前に誰も誇らせる事なく、ただ主をのみ誇らせるためである。(1コリント1:26-31)
私達はいつも、主の憐れみによって生かされている事、まことのぶどうの木である主イエスに繋がっていなければ、主の御前には何も成し得ない事を、忘れてはならない。
今日、第一ヨハネの手紙5章の聖書の学びをしていて分かった事を少しお分かちします。
口語訳では、7-8節は以下の通りです。
「あかしをするものが、三つある。
御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。 」
新改訳も新共同訳も似たようなもので、あまりしっくり来ないのですが、KJV(欽定訳聖書)をそのまま訳すると、以下のようになります。
「天において証しする3つのものがある。御父、御言葉、聖霊で、それら3つは一つである。
地において証しする3つのものがある。御霊と、水と、血で、それら三者の意見は一致する」
こちらだと、実にわかりやすいですね。
このような違いが出るのは、KJVは伝統的な底本(TR:Textus Receptus)を元にしているのに対し、新改訳や口語訳、新共同訳は、ネストレなど新しい底本を元にしているからです。
ちなみにちょっと古いですが、永井訳もTRを元にしている、実に良い訳の聖書です。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエスの名によって立ち上がれ(使徒3章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:神の使者としてのしるし(出エジプト記4:1-9):右クリックで保存
『モーセは言った、「しかし、彼らはわたしを信ぜず、またわたしの声に聞き従わないで言うでしょう、『主はあなたに現れなかった』と」。』(出エジプト記4:1)
前の章で神は「わたしがあなたを遣わす」「わたしはあなたと共にいる」と言われたのに、モーセはまだまだ不安だった。
もしパロやイスラエル人が、自分の言う事を気違いのざれ言のように受けてしまったら、そもそも何も始まらないのではないか、と。
そこで神は、神がモーセを使者として任じた事の証拠として、3つのしるしを与えられた。
一つ目のしるしは、彼が日常的に使っている羊飼いの杖を、蛇に変えるしるしである。(出エジプト記4:2-4)
蛇といえば真っ先にサタンを思い浮かべるが、一体なぜ神は、羊飼いの杖を蛇に変えたのか。
そしてなぜそれが、神がモーセを認証された事のしるしとなるなのか。
人がよく勘違いするのに、神とサタンは対等の勢力で、神は優勢の時もあれば劣勢の時もある、という考えがある。
それは大間違いで、神はサタンより絶対的に上に位置し、サタンは神に許可を得て動く他に無い。(ヨブ1章)
神はサタンに活動許可を与えて放つ事も出来れば、サタンをもつかんで封じる権威もあるのだ。
モーセもまた、蛇を地に放つ事も出来れば、蛇をつかんで羊飼いの杖にもすることが出来る事を、人々に示す事によって、彼にも神と同じような権威が与えられている事を示したのではなかろうか。
そして、私達にも蛇をもつかむ権威が与えられている。(マルコ16:18)
私達が羊達を支配する道具である杖を放棄し、地に放り投げてしまうなら、それは蛇となってしまい、サタンの野放し状態になってしまう。
私達はそうあってはならず、それを掴み、罪を治めるべきである。
神が与えた二つ目のしるしは、「らい病」という、律法上汚れた病をも支配するしるしである。(出エジプト記4:6-8)
杖を蛇に変えるだけなら、エジプトの呪術者でも出来たし、人間を病や汚れ災いで打つのはサタンの十八番であるが、汚れた病を清くする事など、サタンや悪しき霊の性質ではない。ただ、いのちの君なる主のご性質である。
それだから主は「彼らがもしあなたを信ぜず、また初めのしるしを認めないならば、後のしるしは信じるであろう。」と言ったのだ。
主は、人の病や罪、汚れをきよめ、義として下さるお方である。それは、どの呪術者にも、どの世の神々にも、出来る事ではない。
三つ目のしるしは、ナイルの水を血に変えるしるしである。
ナイルの水と言えば、イスラエルの男の子がエジプトによって大勢殺された、あの水である。
それが血に変わるのをエジプト人が見たなら、彼ら自身の罪を思い起こさせる事となり、神の正しいさばきが成される事を意味する。
このように、これら三つのしるしによって、神は確かに正しくさばかれるお方であり、サタンをも御手の内で支配し、病を癒し、罪けがれを清めて義とする権威のある御方であると示し、そして、モーセこそ神が遣わされた使者であると、人々に明らかにされるのである。
神が遣わされる御国の使者は、罪について、義について、裁きについて、世にその過ちを示すのだ。(ヨハネ16:8-11)
それはモーセだけでなく、イエスを信じる私達にも、その役割と権威が授けられている。
『信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。』(マルコ16:17-18)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ2:24-29:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:やられっぱなしは有り得ない(出エジプト記3:16-22):右クリックで保存
40年前、イスラエルの民はモーセを拒んだが、さらに40年奴隷生活を送ってきたイスラエルは、救いをただ慕い求めるまでに心が整っていた。
『彼らはあなたの声に聞き従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところへ行って言いなさい、『ヘブルびとの神、主がわたしたちに現れられました。それで、わたしたちを、三日の道のりほど荒野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげることを許してください』と。しかし、エジプトの王は強い手をもって迫らなければ、あなたがたを行かせないのをわたしは知っている。』(出エジプト記3:18-19)
イスラエルはそれまでエジプトで奴隷であり、400年もの間、その状態が伝統のように続いていた。
エジプトの王は当然、ヘブル人が礼拝しに行く事を拒否するだろうし、事実、神も19節で神は「行かせないのを知っている」と言っている。
神はなぜ、パロに断られる事を知りながらも、敢えてモーセを遣わすのか。
断られると知りながらも敢えて行く事を、人は、無駄足と言うかもしれない。
それでも行かなくてはならない時があり、伝えなくてはならない言葉がある。
神の言葉は、折が良くても悪くても伝え、御心を人々に表明すべきであり、それを相手がどちらに受け止め、どう対応するかは、私達は一切、心配する事ではない。
ペテロの説教は何千何万を悔い改めに導き、リバイバルが起きた(使徒2-5章)が、ステパノの説教(使徒7章)では一人の悔い改めも起きず、かえって殺意の暴徒と化した群集によって彼は殺されてしまった。
ペテロは成功で、ステパノは失敗なのだろうか?決してそうではない。
御言葉をそのまま伝えた事、この事こそ主の御前で大成功であり、あれこれ思案して御言葉を伝えなかったり福音に混ぜ物をしてしまう事、これこそ、主の御前で大失敗である。
『それで、わたしは手を伸べて、エジプトのうちに行おうとする、さまざまの不思議をもってエジプトを打とう。その後に彼はあなたがたを去らせるであろう。』(出エジプト記3:20)
パロがかたくなにモーセを拒否する事で、神の強制力が発動され、さまざまの不思議をもってエジプトが打たれるなら、誰の目にも明らかに神が生きおられ、神を愛する人達には救いを与え、心頑なに神を拒否する者には、明らかな災が降りかかる事を、全世界が見るようになる。その事によって、神の栄光が明らかになるのだ。
そうして後、エジプトはイスラエルを去らせるようになる。それも、多くの富を持たせて。
『わたしはこの民にエジプトびとの好意を得させる。あなたがたは去るときに、むなし手で去ってはならない。女はみな、その隣の女と、家に宿っている女に、銀の飾り、金の飾り、また衣服を求めなさい。そしてこれらを、あなたがたのむすこ、娘に着けさせなさい。このようにエジプトびとのものを奪い取りなさい」。』(出エジプト記3:21)
エジプトは、ヨセフの時代以来、神のあらゆる恩恵をもたらして来たイスラエル人を迫害し、奴隷にし、激しい労働でこき使い、さらには、男子の赤ちゃんを全てナイルに投げ捨てるまでに、イスラエルを徹底的に迫害し、搾取して来た。
私達も含めたアブラハムの子孫には、奪われたら奪われっぱなしという事は、ありえない。
イエスを信じ救われたなら、サタンに奴隷としてこき使われ、世からむりし取られ続けて来た全てのものを、大いに剥ぎ取り返してもらう権利が与えられるのだ。
神はなぜエジプトから剥ぎ取らせ、神の民に金銀を与えられるのか。
奪われたものを正当に奪い返すためだろうか。神の民を貧しいままにしておかず富ませるためだろうか。それもあるだろう。
しかし出エジプトの民は、エジプトから剥ぎとってきた金銀を、荒野で何に用いたか。それは、神の幕屋を造るため、すなわち、礼拝のために用いたのだ。それも彼らは、喜んで神にささげたのだ。
私達に金銀が与えられた時、それで神との関係が切れるとしたら、その金銀は、災いの元でしか無い。
私達が世から搾取されて来たものが、主の御手によって奪い返されるその時、私達も真っ先に、主を礼拝するべきである。
主から与えられたものを、主のために用いる事によって、さらに主との交わりが深くなり、主もまた、私達がもっと感謝できるようにと祝福を与えて下さるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:わたしはある(出エジプト記3:13-15):右クリックで保存
『モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。』(出エジプト記3:13)
モーセがイスラエルの人々の所へと遣わされるからには、モーセ自身、自分を遣わされたお方を、良く知らなくてはならない。
それで神に、お名前をどのように答えたら良いかと聞いた時、神は自らを次のように表明した。
『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。』(出エジプト記3:14)
「わたしは有って有る者」、この「有る」はヘブライ語ではハーヤー、英語で言う所のbe動詞であり、英訳すると 「I AM THAT I AM」すなわち、神は「存在する」という名前である。
ここで使われている時制は「継続」で、すなわち、神は昔も、今も、これからもずっと継続して「有る」「存在する」お方であり、それこそ神を最も適切に表現している名、神の神たるアイデンティティである。
『神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。』(出エジプト記3:15)
神はこうして御自身を定義され、それ以降、聖書では神を「有って有る者」「先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」「主(エホバ)」とあらわしている。
イエス様自身も、「わたしはある」と言い表している。
『イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。』(ヨハネ8:58)
神はイスラエル民族に対して「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と御自身を表明されたが、そもそも神は、アブラハムを選ばれたはるか前から存在しておられた。
イエス様も、世の始まる前から「有る」お方であり、はじめから神と共におられた。
しかし人々は、人となられたイエス様がそれを言っているのを見て、神を冒涜しているように思えたために、石を投げようとしてしまったのだ。
また、ゲッセマネで捕らえられる場面でも言っておられる。
『しかしイエスは、自分の身に起ろうとすることをことごとく承知しておられ、進み出て彼らに言われた、「だれを捜しているのか」。彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われた、「わたしが、それである」。イエスを裏切ったユダも、彼らと一緒に立っていた。イエスが彼らに「わたしが、それである」と言われたとき、彼らはうしろに引きさがって地に倒れた。』(ヨハネ18:4-6)
この場面でもイエス様は「わたしは有る(ギリシア語:エゴ・エイミー)」と答えられた。捕らえに来た者たちは単に、一人の罪人を捕らえに来たつもりだったが、自分達が捕えようとしている人こそ、実は初めから存在し、永遠まで生きておられるお方だと、自らを表明したため、地に倒れたのだ。
『だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしが「そういう者である(わたしは有る:エゴ・エイミー)」ことをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」。』(ヨハネ8:24)
ここでは、イエス様が「有る」事を認めない人は、罪のうちに死ぬ事になる、と言っている。
人には二つの選択肢があり、そのうち、どちらか一つを選ぶ事になる。
すなわち、イエス様が「有る(エゴ・エイミー)」事を認めて自分を降ろすか、それとも、自分(エゴ)を貫き通すか。
イエス様が「有る」事を認める人は、永遠のいのちを持つが、イエス様が「有る」事を認めず、自我を貫き通す人は、罪のうちに死ぬ事になるのだ。
神は、いつでも、どこでも「有る」お方。
仕事場でも、家でも、教会でも、そして今この時でも。
聖徒達の前だけ良い子ぶって、教会から一歩出た途端、何か解放感を味わって素に戻り、教会外では神は無いがごとき生活に戻る人もいるが、その人は、いつでもどこでも「有る」神を認めていないわけである。
罪のうちに死ぬ事になるか。それとも永遠に生き永らえるか。それは神が「有る」と認める事にかかっている。
人とは何者なのでしょう(詩篇8篇)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただ一人死の無い方で、近づく事もできない光の中に住まわれる。誰一人、彼をじっと見、知り、経験し、理解し尽くす事は、できない。(1テモテ6:13-16)
イザヤは高く上げられた御座に座しておられる主を見、セラフィムが賛美しているのを見た。(イザヤ6章)
神はあまりに大きく、御使いの賛美は雷よりも大きく、あまりに聖であり、神殿が揺らぐほどであった。
それに引き換え、私達人間は、あまりに小さく、はかなく、罪に汚れており、神の聖なるご性質に人が触れるなら、ただちに死ぬのみである。預言者イザヤは神の聖なるご性質を見、自分の滅びを確信し絶望した。
しかし、セラフィムの一人が祭壇の燃え盛る炭を取って来てイザヤの唇に触れ、不義を除き罪を贖われた。
人間の唇から出てくるもの、それが人を汚すのである。(マルコ15:18)
イザヤは「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、自らの唇で「私を遣わしてください」と言い、それで主は、御旨を預言者に伝えられた。(イザヤ6:8)
神は罪ある人を清め、その自主性に委ねて同意をわざわざ得た上で、人を用いられ、御業を実行される。
主はなぜ、弱く小さく、罪深い人間を、わざわざ清めて用いられるのか。なぜそこまで人を重要視するのか。
神が人の手を借りるよりも、万軍の主ご自身が指を動かすだけで、御業が確実に成るのに。
人とは一体、何者なのだろうか。神がこれほどまでに、目を留められるとは。
神は愛(アガペー)なるご性質のお方であり、その愛で、人を愛されたから。としか言えない。
アガペーの「全てを捧げ尽くす愛」は、四百年以上前の宣教師達は「ご大切」と訳し、「愛」を使う事を望まなかった。なぜなら愛(アイ)という言葉は、自分の欲望を充たそうとする心を指す、悪い意味もあったからだ。
神は、人をただ大切にし、与え、捧げ尽くす。ただ人を赦し、忍耐し、期待する。
「神のご大切は、私達に対してマニフェスト(表明)された。神が彼のたった一人の子を世に贈られた事によって。それは、彼を通じて、私達が生きるために。 ここに、ご大切がある。私達が神を大切にしたのではなく、彼が私達を大切にされ、私達の罪をなだめる為に、彼の子を贈られた。」(1ヨハネ4:9-10 私訳)
神のひとりごが、被造物のために、私達のために、なだめの供え物となって天から降りて来られた。それは私達が、生きるために。そんなにも素晴らしいものを受けられるとは、私達人間は一体、何者なのだろうか。
一つ確かに言える事は、神は人間を、こよなく大切にしておられる、という事。
人は元来、神のかたちに創造され、神の息吹が鼻に吹きこまれた。
しかしサタンの欺きのために、いのちによって生きる道を選ばず、善悪知識によって生きる道を選んでしまい、人にはもはや神の息吹が留まらず、自らの罪の悲惨さ故に、死へと落ちて行く有様となってしまった。
憐れみ深い神は降りてこられ、そのボロボロとなってしまった人間性を回復するために、御子イエス・キリストを遣わし、敢えて御子を、はかなく弱い「人」の姿を取らせた程に 、神は「人」を、大切にされたのだ。
人(肉体)として来られたキリストを、あえて否定する者は、反キリストの霊によるものである。(1ヨハネ4:2)
こんなにも尊い救いを、気高く崇高な「ご大切」を、どうしてないがしろにして良いものだろうか。
「神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。」(ヘブル10:29)
神は万事を益とする(ローマ8:28)、それは有名な御言葉であるが、それは、御子のかたちに似た者とするためだ。(同29節) 神が万事を益として下さる事の最終目標は、人を御子のかたちにする事。
「そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。」(同30節)
神が人を創造された当初、人は神の似姿として、栄光に満ち満ちていた。
そこをサタンは、罪と汚れへと堕させ、死と呪いの悲惨な有様へと貶めてしまった。神は、地に落ちてボロボロになってしまった人間性を回復させ、栄光化するために、敢えてキリストを人として世に遣わされた。
私達信じる者は、栄光化された創世当初の人間性を、キリストによって得たのである。私達はただそれを信仰によっていただき、キリストに似た者として喜び、楽しみ、栄光の内を歩むのみである。