メッセージ - 201303のエントリ
先のしゅろの日と後のしゅろの日(黙示録7:9-17)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝前の賛美と祈り:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
本日は教会暦では「しゅろの聖日(パームサンデー)」、すなわち、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城し、人々が自分の衣服や「しゅろの葉」を置いて「ホサナ」と叫びつつ歓迎した日に相当し(マタイ21:6-11)、次週主日のイースター(復活祭)までの1週間を「受難週(Passion Week)」 としている。
その日、大勢の人々が、ろばに乗ってエルサレムに入城する柔和な様子のイエス様を、しゅろの葉を手に持って、「ホザナ」と叫びつつ両手を挙げて歓迎し、弟子たちも意気揚々としていた。
非常に絵になる場面であり、一見、イエス様が高く上げられているように見えるが、彼らは、自分が「ホサナ(”おお、救い給え”という意味)」と叫んだ相手が、何者で、どういう人物であるか、一体何から「救って」下さるのかを、実は、分かっていなかった。(マタイ21:10-11)その証拠に、一週間後、群衆は一変して「イエス様を十字架につけろ!」と叫ぶ側に回ってしまい、弟子たちも、一人残らず逃げてしまう。
人々はそれぞれの身勝手なメシヤ像を思い描き、当時のローマ帝国の圧制から”救われ”、力強い指導としてイスラエルを再興してくれる事をイエス様に期待したり(使徒1:6)、パンをいつでも提供してくれる王として期待したり(ヨハネ6:14-15)、別の人達は、病気や悪霊を追い出してくれる人としたり。ようするに、イエス様を、「何か自分の願望を満たしてくれるべき人」という、身勝手な幻想を抱いていたのだった。
そのような、身勝手な幻想を抱いている人は、イエス様が自分の願望を満たしてくれないと分かると、とたんに「除け、除け、十字架につけろ!」と、手のひらを返したように叫ぶ側になってしまうもので、自分の中に罪があると示されたり、悔い改めるよう促されたり、十字架を負ってついて来るように言われたりすると、そんなメシヤはいらない、除け、となってしまうのだ。
実際、イエス様が自分の思い通りに行かないと分かると、それで信仰を離れてしまった人達は多い。
先のエルサレムでの「しゅろの日」は、信仰があやふやな人達の身勝手なホザナで満ち、彼等が喜び迎えたイエス様を、わずか一週間後に十字架につけてしまったが、後には「もう一つのしゅろの日」が訪れる。
その日、あらゆる国民、部族、国語の中から、誰にも数え切れぬ程の大勢の群衆、すなわち、イエス様が十字架で流された血潮によって衣を白く清めた群衆が、しゅろの枝を手に持って、大声で叫んで言う。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」(黙示録7:10)
この群衆は、救いはどこから来るのか、誰にあるのかを、明確に分かっていて、それを叫んでいる。
世の多くの人達は、かつての「しゅろの日」の人達のように、救いが何であるのかも、どこから来るのかも、履き違えている人が多い。「救いはお金にある」「救いは権力にある」「救いは美貌にある」等など。
そもそも彼らはなぜ、救いを求めるのか。それは、何かしらの災い、例えば、「自然災害」という災い、「老い」という災い、「人からの拒絶」という災いなどから逃れるためだ。
彼等は、それら災いに備えつつ、罪という災いを積み重ね、神の怒りという究極の災いを、積み立てている。
最も根本的な災いは、死であり、罪であり、神との断絶である。唯一、イエス様こそ、それらの災いから人類を救って下さるお方であり、イエスを主とするなら、その他「災い」と言われるものは、もはや力を失う。
世の人達は、災いに備えて罪の災いを行ない、神との断絶という永遠の災いを積み立てている。
しかし、キリストにある人々は、災いの大元である罪を、小羊の血で洗い清め、世のあらゆる災いから逃れ、守られる保証が与えられ、昼も夜も聖所にて神に仕え、永遠にいのちの務めを為すのである。
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」(黙示録7:14-17)
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」この告白にしっかりと立ち、しゅろの枝を手に持った大勢の群衆と共に、主をほめたたえる恵みを得る皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
喜んで捧げる人の祝福(出エジプト記35章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:自ら進んで捧げる奉仕(出エジプト記35:1-29):右クリックで保存
前回までは、主から「礼拝をこうしなさい」という、言葉による示しのみだったが、今回の箇所から、イスラエルはその礼拝の中心である幕屋建造の行動に入るが、それにあたり、主は再び、安息日の尊守を命じられた。(出エジプト記35:1-3)
主の働きにおいては、「主を覚えて安息する事」を、何より優先させなければならない。
奉仕にばかり気を取られて忙しくし、肝心の礼拝は寝てしまったり体調を崩したり、といった本末転倒を演じる人がいるが、奉仕の内に、しっかり主を覚え、安息する事こそ大事である。
『あなたがたの持ち物のうちから、主にささげる物を取りなさい。すべて、心から喜んでする者は、主にささげる物を持ってきなさい。』(出エジプト記35:5)
4節から9節では、幕屋建造において必要な資材を、心から進んで捧げる人から受け取るように、言われている。
捧げる時に大事な事は、「心から喜んで捧げる」事である。
『すべてあなたがたのうち、心に知恵ある者はきて、主の命じられたものをみな造りなさい。』(出エジプト記35:10)
幕屋の祭具や装飾を造るためには、特に知恵や技術が必要であり、10節から19節では、知恵や技術を捧げる事が勧められている。
礼拝においても、特別な知恵や技術が、主から賜物として与えられている人は、それぞれが力量に応じて主に捧げ、与えられているものを主のために用いるべきである。
パイロットの資質も訓練もしない者が、飛行機を操縦したら、大変な事になるのは容易に想像できるが、主にささげる礼拝の事柄は、飛行機の操縦よりも重要である。
知恵や技術を主から与えられられていない者が、身勝手にしゃしゃり出てはならないのだ。
『すべて心に感じた者、すべて心から喜んでする者は、会見の幕屋の作業と、そのもろもろの奉仕と、聖なる服とのために、主にささげる物を携えてきた。』(出エジプト記35:21)
ここは直訳的には「心が沸き立たされた人、霊(主の息吹)が促された人」が、作業や奉仕に携わり、捧げ物を持ってきた、という事である。
すなわち、心が感動し、喜んで「したい」という思いが与えられた人、また、霊において「せざるを得ない」衝動が湧いてきて、突き動かされた人が、奉仕を為したのである。
『すなわち、すべて心から喜んでする男女は、鼻輪、耳輪、指輪、首飾り、およびすべての金の飾りを携えてきた。すべて金のささげ物を主にささげる者はそのようにした。』(出エジプト記35:22)
ここで「男女」という言葉が使われているが、幕屋建造においては、男性ばかりでなく女性も、主への奉仕や、捧げ物、技術提供に参加し、特に、布や革製品を紡ぐ奉仕には、女性が活躍した。(25−26節)
アロンはかつて金の子牛を造る時、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」と言って、それぞれの家庭の中から金を徴収したが、偶像をまつる異教徒は、必ずと言っていい程、家族の財産を持ち寄るよう強要し、家庭を犠牲にする。
主への奉仕は、それとは真逆であり、感謝と喜びに溢れて心から進んで為すもの、主もまた、そのように捧げた人を豊かに祝福して下さる。
主は、進んで捧げる人には、豊かに報いて下さる事を、第二コリント9章にて、パウロが示している。
『わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。』(2コリント9:6-7)
そして、心から進んで捧げた人にはさらに豊かに恵みを与え、満ち足らせ、さらに全ての良きわざに富ませて下さるお方である。(同8-9節)
『種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。』(同10-12節)
永遠なる主に、喜んで奉仕し、捧げる人を、主は、あらゆる点で豊かにし、さらに惜しみなく与えるようにして下さり、そこからさらなる感謝が生み出され、そうして、聖徒全体の必要を主は満たし、余らせるのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
カイン、バラム、コラ(ユダの手紙11-13):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主は報いを忘れない(エステル記6章):右クリックで保存
【概要】
本日はエステル記6章を通して、神の御手が忠実な者に如何に逆転の栄誉を与えられるか、その力強いメッセージをお伝えします。困難な状況にあっても、主に信頼する者には必ず報いがあるという希望の御言葉です。
【聖書箇所】
・エステル記 6章1-14節
・イザヤ書 61章3節
・伝道者の書 2章26節
【慰めの言葉】
どんなに苦しい時であっても、主は私たちの叫びに耳を傾け、必ず救いと癒しをもたらしてください。
【励ましの言葉】
モルデカイのように、日々誠実な信仰を守り続ける者には、予期せぬ形で神の栄誉と祝福が与えられることを信じましょう。
【戒めの言葉】
誇りや策略に心を奪われ、自己の力だけに頼ることなく、常に謙虚に主の導きを求める生き方を戒めます。
【***詳細***】
愛する兄弟姉妹の皆さん、
本日の説教では、エステル記6章の物語に込められた神の計略と、そこにあらわれる貴重な信仰の真理について深く考えていきます。エステル記6章1節から14節には、ある夜、王が眠れずに記録の書を御前に読み上げさせたところ、王の2人の宦官が王を殺そうと企んでいた情報が記されていました。神は、この危機的な状況の中で、一見何の報いも受けずにいた忠実なモルデカイに、栄誉と昇進という形で報いを与えようとしておられたのです。
聖書はこう語ります。
「その夜、王は眠れなかったので、記録の書を持ってくるように命じ、王の前でそれを読ませた…」
そして、王は問いただす時、心の中で「王が栄誉を与えたいと思われる人は、私以外に誰があろう」と思い、自らの計略を用いて栄誉を得ようと企みました。しかし、神の御心は常に動かず、最終的にはモルデカイへとその栄誉が移されるという大逆転の出来事が起こります。
ここに現れるのは、神が忠実な者をどう見捉え、またどのように賞賛されるかという御業の素晴らしさです。たとえ私たちが、世の権力者や自分自身の知恵、策略に頼ろうと試みても、神の計略の前ではすべてはうまくいかないのです。エステル記のこの出来事は、誠実に主に従う者たちは、どんなに自分の行いが人に認められずとも、最後には必ず神のご加護と報いを得ることを教えています。
また、預言者イザヤは「シオンの悲しむ者たちに、肺の代わりに頭飾を、悲しみの代わりに喜びの油を与える」と記されています(イザヤ書61章3節)。この御言葉は、救い主イエス・キリストの到来を予表すると同時に、困難と悲しみの中にある者たちに与えられる希望と慰めの証です。神は、どんな試練の中にも、いつかは喜びに満ちた栄誉と再生をもたらすと約束してくださっているのです。
さらに、伝道者の書2章26節では、「神は御心にかなう人には知恵と知識と喜びを与え…」と述べられており、悪しき策略に満ちた人間の試みは、ついには神の御前では無力であるという真理を示します。ハマンは自らの高慢と策略により、栄誉を自分のものにしようと企てましたが、結果としてその計略は裏目に出て、逆にモルデカイへと栄誉が移るという結果になりました。この出来事は、誠実に信仰を保つ者たちに対する神の守りと報いの証です。
私たちが日常生活の中で直面するさまざまな困難や不条理も、時としてハマンのような策略に見えるかもしれません。しかし、エステル記の物語が教えている通り、神はどんなときにも、主に信頼している者からは目を離しません。たとえ人々が非情な策略や誇り高い行動に走ろうとも、最終的には真摯に主に従い、祈りと断食をもって歩む者に、逆転の栄誉が与えられるのです。
思い出してください。イスラエル民族は、迫害の危機に晒された時、主にのみ頼り、断食と祈りを捧げ続けました。その結果、神は彼らを助け、王の前で栄誉をもたらし、民族として再び立ち上がらせてくださいました。私たちもまた、家庭や職場、社会で困難にぶつかったとき、自らの知恵に頼りすぎるのではなく、真心から主に信頼し、助けを求めるべきです。
神は私たちの避けどころであり、盾であり、いつも共に歩まれる真の味方です。たとえ、血が変わり山々が海中に没すると聞かされるような厳しい状況でも、神がそばにいてくだされば、私たちは決して揺るがされないと、旧約の御言葉は力強く語っています。私たち信仰者は、誇りや自己中心的な思いに陥るのではなく、常に謙虚に主に心を向け、導きを仰ぐ生き方を選びましょう。
今日のこの説教を通して、私は皆さんに、たとえ周囲の状況がどうであっても、自らの信仰を揺るがさず、ただ主に心を寄せるよう励ましたいと思います。私たちは、モルデカイが示したように、正しい歩みと主への絶対的な信頼によって、そのときには見えなかった栄誉や救いを受けるのです。困難に直面したとき、喜びに溢れる時も、すべて主に感謝し、祈りを絶やさず歩むならば、神は必ずや最も適した方法で私たちを高みに引き上げ、その計画を成就してくださいました。
どうか、私たち一人ひとりがこの御言葉を心に刻み、日々の生活の中で主の御前に低くたれ、誠実な信仰を保ちながら歩むことができますように。主イエス・キリストのお名前によって、私たちの歩みが祝福され、真の平安と栄誉が与えられることを信じ、力強く進んでまいりましょう。
【結論】
神は、忠実に主に従う者たちに必ず逆転の栄誉と祝福を授けてくださいます。どんな苦境の中にあっても、私たちは謙虚に主への信頼を絶やさず、常に祈りと断食をもって主に従い続けるべきです。主イエス・キリストのお名前によって、皆さんの信仰が確かなものとなり、これからの人生に豊かな恵みと救いが満ち溢れますように。アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:モーセの顔の光(出エジプト記34:29-35):右クリックで保存
『モーセはそのあかしの板二枚を手にして、シナイ山から下ったが、その山を下ったとき、モーセは、さきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々とがみな、モーセを見ると、彼の顔の皮が光を放っていたので、彼らは恐れてこれに近づかなかった。』(出エジプト記34:29-30)
40日間、世のものを飲み食いせず、主の臨在に浸されて主と語っていたモーセは、自らのはだが光を放っている事に気が付かなかった。
イスラエルの人々がモーセを見た時恐れた程であるから、まばゆく神聖な光だったのだろう。
しかし、それはずっと続くものではなく、やがて消え失せるものだった。
私達も、いつも主を思い主と交わるうちに、無意識の内に主の栄光を輝かせるようになり、世の人がそんな私達を見る時、特別な感じがするようになるが、私達はそれとは気付かない。
しかし、主の栄光を輝かせているかのような「ふり」をするなら、とたんに胡散臭くなってしまう。
『モーセは主の前に行って主と語る時は、出るまで顔おおいを取り除いていた。そして出て来ると、その命じられた事をイスラエルの人々に告げた。イスラエルの人々はモーセの顔を見ると、モーセの顔の皮が光を放っていた。モーセは行って主と語るまで、また顔おおいを顔に当てた。』(出エジプト記34:34)
モーセは、会見の天幕にて主と語るたびに、顔の覆いを外して主の栄光を受け、人々の前に出る時は、顔に覆いをかけて語った。
パウロは、このモーセが発した顔の光とその覆いについて、第二コリント3章にて詳しく語っている。
モーセが山で主にいただいた石の板、この石に刻まれた「文字の務め」は、死の務め(第二コリント3章7節)で、罪に定める務めであり(同9節)、やがて消え去るべき栄光である。
『神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。』(2コリント3:6-8)
文字の務めに対し、御霊の務めは、はるかに栄光ある務めである。
『そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。』(2コリント3:13-15)
パウロは、モーセが顔に覆いを掛けた理由を、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、と言っている。
栄光が消え去って行く様を、イスラエルの民が見たらどうなるか。色々な口実をつけてモーセに反逆した民だから、大体想像がつく。
そしてパウロは、この覆いは、今日もモーセの律法が朗読される度に、イスラエルの民にかけられている、と言っており、それはイエスをメシヤとして受け入れていない現代のイスラエルもまた同じである。
この覆いが取りのけられるのは、ただキリストによってであり(同15節)、もし、人が主キリストに向くのであれば、キリストが覆いを取り除いて下さる。
『しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。』(2コリント3:16-18)
主の栄光を見えなくさせている、私達の心にかかる覆いは、色々ある。
恐れ、不安、固定概念など。しかし、その人が主に向くのなら、その覆いは取りのけられる。
それ故、私達の務めは、人をただキリストに向かせる、これに限る。
モーセの時代、律法は石の板に刻まれ、モーセは会見の天幕に行かなければ主と相対す事が出来ず、栄光の光を発する事は無かったが、今や私達には、御言葉は石の板ではなく心の板に記され、私達は御言葉なるキリストにあって、主と一体化された。
主はいつも共におられ、私達が主に呼びかける時、私達の心を主に向ける時、あらゆる心の覆いは取り除けられ、主の栄光を受け、反射して、至る所でそれを輝かせる事が出来るのだ。
私達は、モーセのように栄光を覆うことはせず、世の光として、燭台として、光を世に輝かせるべきである。
礼拝説教メッセージ音声:重要な祭りと戒めの再確認(出エジプト記34:18-28):右クリックで保存
続いて主は、イスラエルが守るべき祭りや、幾つかの戒めについての再確認をしている。
ここで述べられている事はほぼ全て、以前主が命じられた事の焼き直しであるが、その中でも、特に重要な事柄を再確認したのだろう。
イスラエルが守るべき重要な祭りの筆頭は、種を入れないパンの祭りである。(18節)
主が、大いなる救いによって奴隷状態から開放して下さった事を祝う過越祭から七日間に渡って行われる祭りで、その間、純粋な種を入れないパンを食べ続け、主の救いと御言葉をじっくり味わう時とするものだ。
19-20節は、人間も動物も最初に生まれる子は主のものである事の再確認である。
特に、ろばは羊で贖うように指示され、贖いが無いなら首を折らなければならないと定めているが、ろばは、主イエスを人々に届ける働き人を暗示しており、主のための働き人は、必ず、まことの小羊キリストによって贖われた事の実感が必要である。
21節は、安息日尊守の命令で、いかに耕作時や刈入れの時であっても、安息日は休むべきであると示している。
一般的には、耕作時や刈入れの時は、一日でも惜しんで休まず働く時であるが、それでも安息日は尊守すべきであると具体的に命じている。
主の命じられた安息日を守るなら、主は、その休んだ日の分も、倍にして祝福して下さる事を、マナによって(出エジプト記16:11-21)、また、安息年によって(レビ25:20-22)、教えられている。
22節は、ユダヤ三大祭の二つ目、七週の祭りの尊守を命じている。
『年に三度、男子はみな主なる神、イスラエルの神の前に出なければならない。』(出エジプト記34:23)
年に三度、イスラエルの男子が皆、エルサレムに集中してしまうと、その間の男ではどうするのか、敵が攻めて来たらどうするのか、という心配があるかもしれないが、主は、それをも払拭して下さる。
『わたしは国々の民をあなたの前から追い払って、あなたの境を広くするであろう。あなたが年に三度のぼって、あなたの神、主の前に出る時には、だれもあなたの国を侵すことはないであろう。』(出エジプト記34:24)
敵がそれを狙って攻めてくる事は無いと、主は約束しておられる。
実際、主の命じられた事を尊守しようとしたヨシャパテ王の時、周囲の国々は皆恐れ、ヨシャパテと戦うことをしなかった。(2歴代誌17:10)
『あなたは犠牲の血を、種を入れたパンと共に供えてはならない。また過越の祭の犠牲を、翌朝まで残して置いてはならない。』(出エジプト記34:25)
ここで、過越の犠牲やパンについて、それは特別な日の、特別なものである事を、再び確認している。
イエス・キリストは、過越の日が始まったその夕暮れ、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架にかけられ、ほふられた。
実に、過越祭は、ほふられた小羊キリストを示す祭りである。
『また主はモーセに言われた、「これらの言葉を書きしるしなさい。わたしはこれらの言葉に基いて、あなたおよびイスラエルと契約を結んだからである」。モーセは主と共に、四十日四十夜、そこにいたが、パンも食べず、水も飲まなかった。そして彼は契約の言葉、十誡を板の上に書いた。』(出エジプト記34:27-28)
こうして、四十日四十夜の後、民が以前だいなしにしてしまった主との契約が修復され、再び締結されるに至った。
礼拝説教メッセージ音声:神の視点に立って(出エジプト記34:1-17):右クリックで保存
主の前に大きな罪を犯したイスラエルの民は、滅ぼされるまであと一歩の所から、モーセの執り成しによって救われた。
しかし、主はもうイスラエルと共に行かないと言われたが、そのような状況に対しても、モーセは主に執り成し、イスラエルも悔い改めたため、主は、イスラエルと共に上って下さるという約束をして下さるまでに、思い直して下さった。
『主はモーセに言われた、「あなたは前のような石の板二枚を、切って造りなさい。わたしはあなたが砕いた初めの板にあった言葉を、その板に書くであろう。』(出エジプト記34:1)
主は、ひとたび民の違反によって破壊されてしまった契約、その石の板を、再び与えて下さる。
『主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。』(出エジプト記34:6-7)
これこそ、主のご性質である。
旧約の神は、何かと、恐ろしいイメージがあるかもしれない。
しかし、聖書を主の側の視点で読んでみると、主がさばきを下される直前までの人々が、いかに頑なで、邪悪で、礼儀知らずであったかを知るはずであり、主はよくそこまで忍耐されたなと、主の恵み深さ、憐れみ深さを、逆に知るはずである。
私達は何かと、自分たちが属する側の視点で、神をあちら方向へと追いやったような視点で、物事を見がちである。
例えば、皆さんにとって「異性」にあたる人が、浮気をして、皆さんにとって「同性」にあたる人が憤って暴力を振るったとする。それを聞いたなら、大体、皆さんは「同性」の立場に立ち、「異性」を非道いと糾弾し、「同性」に同情する傾向がある。
それと同じように、人が何かを犯して、神が裁いた、というなら、人は人に同情し、裁きを降す神は非道い、と、思いがちだ。
しかし、実際に罪を犯したのは人間の側であり、私達は悔い改めに立つべきであり、神はどのように思われるか、どのようなな思いで人の悪を忍耐し、どのようにやるせない思いで、裁きを降さざるをえなかったかに、思いを馳せるべきである。
主が裁きをされたり滅ぼされたりするからには、その前に必ず人間の側の罪や反逆があり、主の側の赦しと、悔い改めの促しと、長い忍耐とがある。
主があまりに忍耐深くて、さばきを下されないのをいいことに、なおも罪を犯し続けていると、主は、やがて裁きを下される。
例えば、カインからノアの時代に至るまで、読めば僅か数ページしかなく、通読では系図の箇所はつまらなくて一人ひとりの名前など気にも留めないが、その、一人の人生分の間、主の忍耐と赦しがあり、カインからノアの時代に至るまでの何百年、何千年もの間、主は忍耐し、人が立ち返るのを待っており、とうとう、ノアとその家族以外は、はなはだ堕落してしまうまでになってしまったため、洪水をおこされたのだ。
私達は、神の裁きや罰に目を向けるではなく、むしろ、私達の側のそむきや罪、身勝手さを、悔い改めるべきである。
『あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。』(出エジプト記34:14)
主は再び契約を結ばれる段において、真っ先に偶像崇拝を禁じ、異教徒と契約を結ぶ事を禁じた。
それ程までに、偶像崇拝や、汚れた民族と関わりを持つ事は、罠となるからだ。
主は確かに恵み深く、憐れみ深い。怒るに遅く、さばきをいつまでも遂行されない。
しかし、そうだからと言って調子に乗り続けると、約束の地に入れなかったり、滅ぼされてしまったり、という事例が厳然としてある以上、私達は頑なになる事なく、主に従順であり続けるべきである。
主が共にいて下さるための執り成し(出エジプト記33:12-23)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2013-3-18 23:49
礼拝説教メッセージ音声:主が共にいて下さるための執り成し(出エジプト記33:12-23):右クリックで保存
モーセは、主がイスラエルと共に行かれることを願って主に執り成すが、ここで注目すべきポイントは、「あなたは・・・と言いました」「かつてあなたは・・・と仰せになりました」、など、必ず「主が言われた御言葉」を盾に取り、そして願いを申し出ている事である。
私たちも主に願う時、異邦人の祈りのごとくただ願いごとを何百遍繰り返しても効果は無い。御言葉に根拠を置いた祈りこそ、聞かれる祈りである。
『主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。』(出エジプト記33:14)
こうしてモーセは、主が共に行って下さるという口約束はいただいたものの、それだけでは心配だったのかもしれない。イスラエルの民を「わたしたち」として、自分にだけでなく、自分たちイスラエルとも共に行って下さい、と頼む。
『モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください。わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」。』(出エジプト記33:15-16)
モーセは、あなたが共におられないのなら、あなたの名がつけられたイスラエルは、他の民族と何ら区別が無いではありませんか、それでは主の栄光になりません、と、暗にほのめかしている所が、さすがである。
主が共におられる事。それこそ、神の民と呼ばれるゆえんであり、私達キリスト者も同様である。
『主はモーセに言われた、「あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう」。』(出エジプト記33:17)
主はこうしてイスラエルの民と一緒に行って下さる事を約束して下さったが、モーセはなお、食い下がった。
『モーセは言った、「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」。主は言われた、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」。』(出エジプト記33:18)
民は金の子牛を作って主を激しく怒らせ、殺されても当然の事をしてしまっていたため、主は本当にそんな民と共に行って下さるのだろうか、と、モーセは心配だったのかもしれない。
それに対し、主が言われたのは、「わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」であった。
それは実に心強い言葉である。
主は、民のかたくなさや邪悪さに従ってあしらわれる事をせず、ただ主が恵もうとされるが故に民は恵まれ、ただ主が憐もうとされるが故に民は憐れみを受けられるのだ。
そこには、人間の側の何かは、一切無い。
民が罪深かろうと、かたくなであろうと、主が「そうする」と決められたからには、民はそうされるのだ。
私達も同様に、主から恵みとあわれみを頂けるような要素は一切なく、ただ、主が一方的に私達を憐れんで下さり、ひとり子を世に遣わして私達の罪の身代わりとして下さったからこそ、私達は恵みと憐れみを、ただ受けられるのである。
『また言われた、「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。』(出エジプト記33:20)
主はあまりに聖であられ、その「聖」に人が触れてしまうなら、人は生きてはおれない。
そこで主は、「わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。」といわれる。(出エジプト記33:20-23)
私達は、主は御手によって私達を悪しき者から守っていて下さる事は良く知っているが、実は、主の「聖」からも守られているのだ。
罪ある人が、石の板をそのまま見るなら、その人は死んでしまう。そこで主は、契約の箱と贖いの蓋によってそれを覆い、人を主の聖なる光によって打たれる事から守って下さった。
主は、神とイスラエルの民との間に、執り成し手であり仲保者であるモーセを備えて下さったように、神と私達との間にも、完全な仲保者であるイエス・キリストを備えて下さった。
私達がそのまま聖なる主の御前に出るなら、ただ打たれて死ぬしか無い。しかし、私達は執り成し手であり仲保者であるキリストにあって、大胆に恵みの御座に近づく事が出来るようになったのである。
頑なな心と柔和な心(ヘブル3:7-19)
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聖霊は私達に、以下の命令を、三度も繰り返して警告している。
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 荒野における試錬の日に、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」(ヘブル3:7-8、同15節、同4:7)
かたくなさ。それは、主の道を見えなくさせ、迷わせる性質であり(ヘブル3:10)、決して主の安息に入る事の出来ない性質(同11、18節)、御怒りを引き起こし、しかばねを荒野に晒す性質である。(同17節)
「兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。」(同12節) ここの「不信仰(アピスティア)」は、2節や5節の、キリストの「忠実(ピストス)」の反対言葉で、不忠実を意味する。「弱い信仰」ではなく「反・信仰」なのだ。
頑なな人は、災いである。いかに多くの奇跡を体験しても、いかにモーセのような素晴らしい導き者の指導を受けても、荒野で滅んでしまい、安息の地に決して入れないものだ。
そこには身分の高い低いは関係無く、多数決の原理も無い。エフライム部族の族長は約束の地に入れなかったのに、同じ部族でモーセのかばん持ちの若者・ヨシュアは、入れた。モーセが40日山から降りて来なかった時、アロンや民は不忠実に身勝手な神を造って堕落したが、ヨシュアは忠実に待っていた。
また彼は、モーセが会見の天幕から帰った後も、ずっと幕屋を離れずにいた程、忠実だったからだ。
60万以上の民が「エジプトへ帰ろう」と言い、二人が「約束の地へ行こう」と言うなら、普通、その集いはエジプトへ行く、というのが、多数決の原理であるが、神の真実は、それを許さない。
神の御心が、神の御約束が「約束の地へ導く」というのであれば、それを信じて従うべきであり、それに逆らったのがいかにアブラハムの子孫60万以上であっても、全員が荒野で屍を晒す事になったのである。
それ程、神の約束は峻厳であり、御声に逆らい、御言葉に逆らう事には、厳然たる「災い」しか無いのだ。
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」皆さんには今、主から何か御言葉は与えられているだろうか。何か約束が与えられているだろうか。
主に喜ばれるあの事を、今しなさい、と言われているだろうか。捧げ物を滞らせてはならない、と言われているだろうか。あの兄弟、あの姉妹を、憎む事を止めなさい、和解しなさい、と言われているだろうか。
赦しなさい、と言われているだろうか。怒りや憤り、陰口、ねたみを捨てなさい、と言われているだろうか。
体を害するようなあの習慣から離れなさい、と言われているだろうか。
もし言われているなら、それから顔を背けずに服従すべきである。いつから?それは、きょうである。(13節)
聖書の御言葉を読んだ時、あるいは礼拝のメッセージや兄弟姉妹との交わりの内で、心に特に印象付けられたり、ひっかかりを覚える示しがあったなら、その「主の御声」から顔を背けず、服従すべきである。
私達は、聞いた御声に従い、与えられた御言葉を信じて服従するなら、安息に入る。しかし、荒野の民のように、御言葉を聞いてもそれを信じず、頑なになって御声を退けるなら、安息に入れず、滅んでしまう。
「彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。」(永井訳 ヘブル4:2)
頑なな心、すなわち、世の価値観によって踏み固められていたり、表層は柔らかくても内には固い岩があったり、あるいは、いばらの茂るような心であったなら、御言葉を混ぜても、実を結ばない。
しかし、御言葉が混ざりやすい柔和な心は、幸いである。その人は地を相続し、安息に入るからである。
信仰によって御言葉を自分自身と交ぜるなら、御言葉なるキリストと一体化する事となり、キリストの御業が自分の内に働き、キリストのいのちが自分のものとなり、キリストのご性質が、自身の内と外とに現わされる。
「わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。」(ヘブル4:3)
安息の休みは、信仰をもって御言葉を交ぜる聖徒のために残されており、そして神の安息にあずかった人は、神が御業を終えて休まれたように、自分のやりくりや頑張りを終えて、休みに入る。(同10節)
信仰によって御言葉なるキリストを自分自身に混ぜ、キリストとひとつとなり、神の安息の内に居続ける皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!