メッセージ - 201303のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:うなじのこわい(出エジプト記33:1-11):右クリックで保存

モーセは主の御前にとりなしに行き、民は滅ぼされる事は無い、という確約は、とりあえずいただき、そればかりでなく、主は使いを遣わして約束の地へと導き、そこに住むカナン人達を追い払って下さる事、乳と蜜の流れる地へ入れる事をも、約束して下さった。(出エジプト記33:1-2)
ただし、である。主は、民と一緒には行かない、と言われた。
『あなたがたは、かたくなな民であるから、わたしが道であなたがたを滅ぼすことのないように、あなたがたのうちにあって一緒にはのぼらないであろう』(同3節)

いのちが助かっただけでも、もうけものだが、民は「主が共に行って下さらない」事を、悪い知らせとして受け止めて憂い、その身から飾りを取り外した。
それは正しい反応である。

主に打たれずに済み、敵に勝利して乳と蜜の流れる地に入れる約束をいただいたのだから、主は共にいなくても、それで十分ではないか、と思うとしたら、よほどの恩知らず、主を知らない者である。ただ、現代を生きる私達の内には、「主は共におられなくてもいいから、とにかく罰を受けない確約と、敵に対するの勝利の確約と、天国に入れる約束は欲しい」と思うような者が、意外と多い。
主が共におられるという事は、全宇宙を創られた万能であられる御父が共におられ、私達に最善の道を歩ませ、さとして導いて下さるという事である。
そして主は、驚くほどのあわれみによって私達を赦し、驚くほどの愛で私達を愛しておられる。私達はその事にあぐらをかいて図に乗ったり、恵みをないがしろにしてはならない。
主は共にいなくていいから、祝福と楽しみだけ欲しい、などと言う者は、お父さんは一緒に住まなくていいからお金とゲームだけ欲しい、などと言う子供よりも、はるかに愚かである

『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは、かたくなな民である。もしわたしが一刻でも、あなたがたのうちにあって、一緒にのぼって行くならば、あなたがたを滅ぼすであろう。ゆえに、今、あなたがたの飾りを身から取り去りなさい。そうすればわたしはあなたがたになすべきことを知るであろう』」。』(出エジプト記33:5)

主が「共におられなくなる」ためのコツは、かたくなになる事である。
主が右に行けと何度も言っているのに、いや、私はどうしても左に行くのだと言って聞かなかったり、主が御言葉を示して悔い改めを促しているのに、それを無視してどんちゃん騒ぎをしたり、そういった頑なな性質こそ、主の臨在を離れさせるコツであり、主からたちどころに滅ぼされるためのコツである。

『民はこの悪い知らせを聞いて憂い、ひとりもその飾りを身に着ける者はなかった。』(出エジプト記33:4)
私達も、歩んできた道が御前に罪であった事が御言葉で示されたなら、すぐにその道を改め、自分好みという「飾り」は、身から外すべきである。
悔い改めるべき時には悔い改め、喜ぶべき時には喜ぶのである。
主は悔い改める人には恵み深い。

『モーセは幕屋を取って、これを宿営の外に、宿営を離れて張り、これを会見の幕屋と名づけた。すべて主に伺い事のある者は出て、宿営の外にある会見の幕屋に行った。モーセが出て、幕屋に行く時には、民はみな立ちあがり、モーセが幕屋にはいるまで、おのおのその天幕の入口に立って彼を見送った。モーセが幕屋にはいると、雲の柱が下って幕屋の入口に立った。そして主はモーセと語られた。民はみな幕屋の入口に雲の柱が立つのを見ると、立っておのおの自分の天幕の入口で礼拝した。』(出エジプト記33:7-10)


私達も、自分の家を出て礼拝に向かう前から、礼拝に向けて心ぞなえをし、主の臨在と御言葉の導きを楽しみに期待し、立って敬意を払うべき時は立ち、座して耳を傾けるべき時は耳をすまし、礼拝が終って後もなお主を思うのである。
ヨシュアは、モーセが帰った後も、幕屋を離れずにいる程に、忠実だった。(出エジプト記33:11)
私達も、ヨシュアのように忠実であれば、主が約束して下さった王国を受け継ぎ、多くの人々をそこへと導く者として下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
収穫のための働き人(マタイ9:35-10:42):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:正しいさばきと深い執り成し(出エジプト記32:30-35):右クリックで保存

前回までの箇所だけを見ると、モーセはあたかも怒りに任せて裁きを行なう恐ろしい指導者のように見えたが、今回の箇所を見ると、びっくりする程の深い愛をもってイスラエル民族を思い、御前に憂いていたかが分かる。

『翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。』(出エジプト記32:30新共同訳)
真に良き指導者、良き羊飼いは、単に義のさばきを遂行するだけには留まらず、民のしてしまった罪を、主の御前に覆い、執り成すものである。

『モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」』(32:31 新共同訳)
なんとモーセは、主の御前に、自分の命を盾にとって執り成している。
良くない羊飼いは、羊を養わず、かえって自分の羊達を食い物にしてしまう。(ゼカリヤ11章)が、良き羊飼いは、羊のためにいのちを捨てるのだ。(ヨハネ10章)

民衆の目を恐れ迎合し、民衆のせいにしてしまったアロンとは、全く大違いである。
モーセは確かに示されるままに恐ろしいさばきを遂行したが、同時に、深いうめきによって民を執り成したのだ。
パウロもモーセと同じように、同国人のためなら、自分がキリストから引き離され呪われた者となっても良い、と、願う程であった。(ローマ9:1-3)

民をさばき、教え、訓戒するはずの立場の人が、その責務を果たさず、「勝手に民がやった」「自己責任だ」などと言って放置するなら、その民がした事はその人自身の罪となってしまう。
「そして主は民を撃たれた。彼らが子牛を造ったからである。”それはアロンが造った”のである。」(出エジプト記32:35)、と、ある通りである。

『もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」』(出エジプト記32:32 新共同訳)
ここから分かるように、神が記されている書物、すなわち、「いのちの書」がある。
神の御言葉に、つけ加えたり除いたりする者があれば、神はその人をこの書から名前を除かれ(黙示録22:18-19)、また、その書物には、神の民が、愚かさ故にさすらって来た日々も、流してきた涙の日々も、全てしるされている(詩篇56:8)。
私達人間は、誰しも、神の基準に耐えうるものではない。
そこで、モーセのように執り成してくださるお方が必要であり、執り成し手がいなければ、誰も、そのいのちの書に名を残せるものではない。

モーセは、彼に敵対していつも逆らう民のために執り成し、パウロも、彼に石を投げたり鞭打ったりして迫害する同国人のために、自分のいのちを捨てても良いと言い切るまでに祈る愛の心を持っていたが、それ程の執り成す心は、御霊によって与えられるものだ。
御霊は、深いうめきによって執り成してくださる。(ローマ8:26-27)
そしてキリストは、自分をあざけり、鞭打ち、十字架につけ、なお罵詈雑言を浴びせる人々を、「父よ彼らをお赦し下さい」と執り成し、十字架上で私達全人類のために、完全に、身代わりを引き受けて下さったのだ。
私達は、この「キリストにあって」命の書から消される憂いは無くなった。しかし、これ程までに愛して下さったキリストの血潮をないがしろにし、恵みの御霊を侮る者は、どれ程重い刑罰が待っているだろう。(ヘブル10:26-31)

『主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。』(出エジプト記32:33新共同訳)
私達は、誰が救われるのか、あるいは救われないのかと詮索しがちだが、救いは究極的な所、自己責任である。
執り成されてもなお罪を犯し続ける者は、神が裁く。しかし、アブラハムやモーセ、パウロが人々を執り成したように、私達も、執り成す事をあきらめてはならない。

『今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。』(出エジプト記32:34)
ここで言われている「使い」とは、神から遣わされた使者であり、出エジプト記においては火の柱、雲の柱として現れた御使いであるが、現在の私達に先立っていく神の使いは、キリストである。

私達が人生という荒野を行くには、神から遣わされた使いであるキリストの導きが必要である。
荒野の民がこの使いに導かれて行ったら約束の地へ導かれたように、私達も、人生という荒野をこの御方に導かれていくなら、天の約束の御国へと導かれる。
しかし、荒野でこの使いに従わずモーセに逆らいエジプトへ戻ろうとした民は、荒野の途上で滅ぼされたように、私達も、私達に先んじて行くキリストに逆らうなら、約束の御国に入れられる事なく、人生の荒野の途上で滅んでしまうのである。

新潟出張

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礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2013-3-14 22:00

この度の新潟出張は、ある方の昇天一周年記念礼拝でしたが、実にみのり豊かな時でした。

個人的な事ですので詳しくは書けませんが、かの地のキリスト者にとっても、また、キリスト教に初めて触れた人にとっても、関わった全ての人達にとって、霊的に大きな前進となり、大いに意義のある時となりました。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
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はびこる悪に(エステル5:9-14):右クリックで

【概要】

本日のメッセージは、エステル記の5章9節から14節の出来事を中心に、ハマンの誇り高く堕落した心とそれに対し揺るがぬ信仰を持つモルデカイ、そして賢明なエステルの行動から、神の御業と御計画を深く読み解くものです。私たちも、どんなに悪がはびころうとも、神の正義と義人の栄光が必ず実現するという希望を見出すよう努めましょう。

【聖書箇所】

・エステル記 5章9節〜14節

・信玄の四章 14節〜27節(※本文中の引用。原典は神の戒めを示す御言葉として理解します。)

・詩篇 73篇 1節〜17節

【慰めの言葉】

神は正しい者を決して見捨てることなく、絶えず守り導いてください。困難な状況や悪に満ちた日々の中でも、神の約束は変わらず、希望と救いをもたらしてくださいます。

【励ましの言葉】

私たちは、どんな権力や富におびえることなく、信仰によって立ち上がるモルデカイの姿を見習いましょう。時には周りの環境に逆らいながらも、神に歩みを委ねるその勇気こそが、真の力となります。

【戒めの言葉】

ハマンのように、自身の誇りや些細なことで心を乱され、悪を追求する態度は決して許されるものではありません。小さな妬みや心の高ぶりが、やがて自らを滅びに導くことを深く戒められています。

【勧めの言葉】

私たちは日々、神の御言葉に耳を傾け、エステルの賢明な判断と忍耐を実践することを勧めます。焦らず、時には立ち止まり、祈りと断食を通して神の御心に沿う生き方を一層求めるべきです。

【悔い改めの促しの言葉】

今一度、自分の心の中にある傲慢さや、些細な不満に囚われる自分を省みる時です。神の前にへりくだり、真の悔い改めを通して、より清く正しい歩みを始める決意を持ちましょう。

【***詳細***】

今日の説教の中心は、エステル記の5章9節から14節に記された一幕にあります。本文には、ハマンが王妃エステルの宴会において、自身の豊かな富、複数の子どもたち、そして王に高く評価され、栄誉を授かったという誇示的な言葉が並びます。しかし、その裏に隠された心の闇、すなわち、王の門にいるイスラエルの指導者モルデカイに対する激しい憤りが描かれています。聖書はこう記しています。

「ハマンはその日喜び、上機嫌で出て行った。ところが、王の門にいるモルデカイが、たとえ立ち上がろうともせず、自分に少しも恐れを抱かないその姿を見たとき、ハマンの心はモルデカイに対する憤りと嫉妬で満たされた。」(エステル記 5章9節〜14節)

この御言葉は、権力や栄光を手にしているにもかかわらず、内心の中で自己中心的な怒りと虚栄に溺れる姿勢を断固として戒めるものです。ハマンは、自分の立場や世間からの評価にすがり、ほんの些細な相手の態度ですら、自身の心を支配される愚かさを露呈しました。その結果、神の計らいにより、彼の誇りはむしろ自らの敗北と滅亡へと転じるのです。

一方、モルデカイの心には、どんな高位の権力にも屈せず、神に対する堅固な信仰が宿っていました。断食や祈りに身を捧げ、イスラエル民族の危機にあっても、動揺することなく毅然と立ち向かいました。その姿は、私たち信者にとって模範とすべきものであり、個々がどんなに圧倒的な悪に囲まれていても、心の奥で神の御声に従い歩む決意が何より大切であると教えてくれます。

また、エステル自身は非常に知恵深い御婦人として知られています。王妃としての身分や立場を活かしながらも、決して自らの民族の危機を軽んじることなく、時を見計らって行動するという慎重さを持っていました。具体的には、既に王との面会が30日間途絶えていたという状況の中、突如として王の前に現れることが命取りであると分かっていたからこそ、彼女は宴会という場を利用するという形で、安全かつ効果的に神の導きを信じたのです。彼女の慎重さは、私たちにとっても日常生活の中での「時を待つ」知恵として学ぶべき点が大きいと言えます。エステルは自らの危機感と同時に、神への信頼を決して揺るがせず、むしろその信仰を盾に、王に対する毅然たる態度を貫いたのです。

続いて、説教では「信玄の四章 14節〜27節」と引用された御言葉にも触れています。ここでは、悪者の道に足を踏み入れてはならないとし、その道が決して安らぎをもたらさず、むしろ絶えず罪に溺れて破滅へ向かうものであることが強調されています。聖句はこう語っています。

「悪者どもの道を歩むな。それを無視せよ。彼らは悪を行わなければ眠ることができず、人をつまずかせなければ眠りが得られない。義人の道は曙の光の如く輝き、悪者の道は暗闇のようだ。」(信玄の四章 14節〜17節)

これらの言葉は、ハマンのような道を歩む者が、いかに自己中心的な生活の中で道を誤り、最終的には突然の災いによって滅びる運命にあるかを教えています。私たちは、どんなに外面的には一見成功しているように見える人であっても、その心が悪に染まっているならば、決して栄光に導かれることはないのです。

そして、ご覧いただいた詩篇73篇1節〜17節の御言葉は、まさにこの現実を補強する励ましとなっています。詩篇には、義人たちが迫害され、悪者が一時的に栄えている現実の中で、神が最後に正義をもたらし、悪は必ずその報いを受けるという確固たる真理が宣言されています。詩篇はこう語ります。

「まことに、神はイスラエルに心の清い人たちに慈しみ深い。しかし、私自身は、誇り高ぶるものを妬み、悪者が栄えるのを見たために、私の歩みはしばしば揺れ動いた。… だが、あなたは彼らを滑りやすい所に置き、やがては霧のように彼らを滅ぼされる。」(詩篇 73篇 1節〜17節)

この御言葉から、私たちは、悪が一時的な栄光を得たとしても、神の正義は確実に働かれるという、深い慰めと希望を受け取ることができます。悪の道に惑わされることなく、ただ神に身を委ね、忍耐強く信仰の歩みを進めることこそが、最終的に真の救いと栄光へと繋がるのです。

説教の中で、ハマンがその夜、上機嫌で宴会場を後にする描写や、自らの富や栄誉を友人たちに自慢する様子、そして妻であるゼレ氏が提案した高さ50キビットの柱にモルデカイの姿を吊るし上げようとする行動は、悪が自己崩壊へと向かう象徴的なエピソードです。これは、どれほど恵みや運にあふれた人であっても、心に悪が根ざせば必ず自らの滅亡につながることを示しています。正に、現代の私たちにおいても、細かな不満や小さな嫉妬に捉われることなく、常に神の御心に従い、謙虚さと清き心を保つべきであると教えられるのです。

また、エステルが最初から勢いに任せて突如王に近づかず、慎重に時を待った姿勢は、現代においてもビジネスや対人関係において急がず冷静な判断を持つことの重要性を示しています。神は、焦る者や短絡的な決断を好みません。むしろ、深い祈りと断食で霊的に磨かれ、慎重に時を計る者に、いつか必ず大いなる恵みと救いを与えてくださるのです。

これらの聖書御言葉は、私たちがどんなに誘惑や困難に直面しようとも、揺るぎない信仰と神への忠実な歩みを持つことの大切さを強く訴えています。ハマンのような誇示と怒り、そして自己中心的な行いは必ずや堕落と破滅につながるのに対し、モルデカイのような謙遜と信仰、エステルのような賢明さは、最終的に神の計らいによって大いなる栄光と祝福に変えられるのです。私たちの生活の中で、どんなに小さな侮辱や悩みであっても、それに心を乱されることなく、神の御言葉に立ち返り、正しい道を歩む決意を新たにする必要があります。

また、詩篇の中で語られる悪者の最期と義人の栄光は、私たちに大いなる希望と慰めをもたらしてくれます。どんなに悪が力を増し、一時的に栄光しているように見えたとしても、神の正義は必ず働かれ、悪は暗闇の如く消え去るのです。私たちは毎日の生活の中で、たとえ周囲に不正や不義が蔓延していたとしても、神の絶対的な正義が働くと信じ、忍耐と信仰を持って生きるべきです。

最後に、主イエス・キリストのお名前によって、私たちがどのような状況にあっても、義人としての歩みを堅持し、神の御前で誠実に生きることが、永遠の栄光と祝福に繋がるという確信を新たにしましょう。悪に惑わされることなく、正しい道を歩むことが、この世の苦難を乗り越える唯一の道であると心に留め、日々の信仰生活に励むよう、共に祈り求めましょう。

【結論】

神は、悪を行う者の傲慢と罪深さを必ず自らの滅亡へと導かれるよう御計画の中におられます。一方、義と信仰に生きる者には、試練を乗り越えた先に必ず栄光と救いが約束されています。私たちは、ハマンのような虚栄に流されることなく、モルデカイやエステルのように謙虚で、神の御心に従った生き方を実践し、日々の生活の中で神の正義と慈愛を信じ歩むべきです。主イエス・キリストのお名前によって、皆様に祝福と平安が豊かに注がれますように。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
エルバアル(士師記6:1-32):右クリックで保存

カインの礼拝とアベルの礼拝(創世記4:1-7)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

礼拝の時間は、神である主を敬い、賛美や祈りや捧げ物をささげ、そして主から、御言葉と恵みと答えと祝福をいただく、神と人との双方向の交わりの時である。
主は今、生きておられ、今この瞬間も、私たちの心の成り行きを見て、知っておられる。それ故主を敬う心は礼拝で最も必要であり、主が不在の形だけの礼拝は、御言葉も恵みも答えも祝福も、頂く事は出来ない。
そして、主と関わる時は、主の法則、すなわち御言葉に則って関わる必要があり、御言葉の根拠なき、御心から外れた「自分流の礼拝」を捧げても、主を怒らせるだけである。
「主への祭り」と称して、金の子牛を造って飲み食いし戯れたイスラエルの民は、それで主に仕えているつもりだったが、主は彼らを怒り、滅ぼそうとされた。(出エジプト記32章) 示されていた御言葉を読んだなら、それはとんでもない反逆だと判るものなのに、彼らには御言葉が無かったため、主へ礼拝を捧げていると大真面目に思いながらにして、主に滅ぼされる寸前の怒りを買っていたのである。
主に仕えている「気」になっておりながら、主を怒らせ、悲しませるという事は、確かにある。それを防ぐために、私達は常に御言葉の真理に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。
カインとアベルの礼拝から、私達が礼拝において気をつけるべき示唆を、多く得る事ができる。

「時が経って次の事が起こった、カインは、地の実りから主へのささげ物を持って来た。また、アベルも彼の群の中から、初子の、それも最も肥えたものを主に持って来た。主はアベルと、そのささげ物とに、リスペクトした。しかし、カインと、その捧げ物とに彼はリスペクトしなかった。」(創世記4:3-4、KJVから翻訳)
主に捧げたのに、主からそっぽ向かれている感じがあったり、仕事や人間関係がうまく行っていない、祝福から遠いと感じる事があるだろうか。しかし、ある捧げ物は主に目を向けられ、ある捧げ物は主からそっぽ向かれてしまう。そういう事は、厳然としてあるという事を、知るべきである。

アベルの捧げ物は、なぜ受け入れられたのか。それはまず、彼の捧げ方は、神の規定に叶っていた。
前回見たように、神の御前に有効とされる捧げ物は、いのちの犠牲がある事である。
アダムとエバは、いちじくの葉をつづり合わせて裸を覆うものとしたが、そのような、犠牲なき手軽な繕いは、神の目には何も覆われていないも同じである。犠牲がある事が、まず、神様の方法である。
また、アベルは最良のものの中からさらに厳選して捧げた。彼は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」神を敬い(申命記6:5)、最良のものを捧げたからこそ、神様は彼と彼の捧げ物とにリスペクトされたのだ。

カインの捧げ物は、なぜ受け入れられなかったのか。それは、正しく行なっていなかったからである。(7節)
神の受けられるいけにえは、砕かれた魂、悔いた心。神はそれを軽んじられない。(詩篇51:17)
カインの心が、もし神の前に砕かれ、悔いた心を持っていたなら、彼は「怒る」という事をしなかっただろう。
しかし彼は、怒った。怒った事によって、彼の心の内の傲慢さが明らかとされた。
また彼は、礼拝において、またその礼拝の成果について、他人と見比べるという事をした。
神ではなく人を、目に見えない神を敬うのではなく、目に見える人を気にしたのである。
私達は礼拝や奉仕で、人と見比べたり、自分がしようとした奉仕が、思い通りに行かなかったり、評価されなかったら、怒ったり、あの兄弟姉妹なぞいなくなってしまえ、という心が芽生えたり、していないだろうか。
礼拝や奉仕で「怒り」が出てきた時、神と人の前から「顔を伏せ」る時、私達の内に、カインの性質がある事を知るべきであり、その時は、戸口で待ち伏せしている罪を、支配しなくてはならない。(創世記4:6-7)
罪を支配するとは、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにして「キリストに従わせ」、完全に服従させる事によって、である。(2コリント10:5-6)
私達は神と関わる時、礼拝する時、常に御言葉の真理に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。
為そうとしている事が御心にかなっているかどうかをチェックする最も簡単な方法は、真理なるお方、御言葉なるお方である、イエス・キリストの名によって、その事が出来るかどうかを問う事である。(コロサイ3:17)
礼拝や捧げ物に限らず、全ての事を、イエス・キリストの名に恥じずに行う皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
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仕事が多いと夢を見る(伝道者の書5:1-7):右クリックで保存
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【概要】

教会において最も大切なのは礼拝と御言葉に聞き従うことです。多くの仕事や言葉で神に仕えようとするよりも、まず御言葉に耳を傾け、それに従順することこそが、神に喜ばれる最上のいけにえとなります。

【聖書箇所】

  • 伝道者の書5:1-7

  • ルカ10:38-42

  • ヨハネ12:3-8

  • 第一サムエル15:22-23

【戒めの言葉】

神の御前では軽々しく言葉を出してはなりません。仕事が多くなると夢を見、言葉が多くなると愚かな者の声となります。愚かないけにえを捧げるのではなく、聞く準備をすべきです。

【勧めの言葉】

マリアのようにイエス様の足元に座って御言葉に聞き入ることを選びましょう。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさります。御言葉にじっくり聞き従い、最上のいけにえを主に捧げる者となりましょう。

【***詳細***】

今日の箇所は、伝道者の書5章1節から7節までです。

「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。神の前では軽々しく心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だからことばを少なくせよ。仕事が多いと夢を見る。言葉が多いと、愚かな者の声となる。神に誓願を立てる時には、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。あなたの口があなたに罪を犯させないようにせよ。使者の前で、あれは過失だと言ってはならない。神があなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手の業を滅ぼしても良いだろうか。夢が多くなると、虚しい言葉も多くなる。ただ神を恐れよ。」(伝道者の書5:1-7)

皆さんは教会においては何が一番大事だと思いますか。教会に来た時に最も守るべきは何でしょうね。礼拝、御言葉と聖餐。それも礼拝の中のうちですね。そうです。礼拝です。御言葉です。私たちの聖餐は交わりですね。

ですから、この礼拝、これをですね、まず第一に据えるべきだということ。これはもう皆さん周知のことだと思うんですけども、ところがこの周知のことがですね、なかなか忘れがちになってしまうことがあるんですよ。

ここでは「仕事が多いと夢を見る」って言葉がありますけれども、仕事、やれこれやとですね、考え出したりしたがるものです。礼拝に花を添えるために、あ、じゃあ首飾りを買ってきて、とりあえず100円ショップからあの飾り、この飾りを買ってきて、で、それで、こうすればもう礼拝喜ばれると思って。で、実は買ってきたものの、いざここに置いてみたらいらないものがあった。まあ、そういうこともありますし、またですね、礼拝のために、みんなが食事の準備をしてるから、じゃあ私も一緒に加わって働こうって言って、主日の前の日に夜中の3時、4時とそれで作ることに精一杯で、いざ礼拝に臨んでしまったら寝てしまった。御言葉も聖餐も頭の中にすっかり入ってこない。

結構ですね、礼拝が中心と言いながら、その周りの周辺の物事にですね、仕事を多くして、それで失敗して、礼拝の御言葉が全然残っていなかった。こういう罠がよくあるんですね。私たちはまず、自分自身を慎んで、そして何をすることが神様に喜ばれるのかということを考えなくてはいけません。

なぜなら教会という場所、神様が中心ですね。でも、神様が中心だと思わず、人に喜ばれること、人が「あ、誰々さんはとても奉仕熱心な人だね」とか「働き者ね」とかそういうことを言われたいがために何か仕事を多くして、仕事をあれやこれやと自動的にパッパッパって考えちゃうようなことも、それもまたありますけれども、しかし、そのように仕事が多いと夢を見て、そして夢が多くなると虚しいことも多くなるんです。

この5章1節、こちらの方は、キング・ジェームズ・バージョンの方では、「愚かないけにえを捧げる準備をするよりも、むしろ聞く準備をせよ。悪とされないために」という風に訳すことができます。もう一度言いますと、「愚かないけにえを捧げる準備をするよりも、むしろ聞く準備をせよ。悪と定められないために」。

私たちはですね、何かと急いで、あれやこれやとパッパッパって考えついちゃって、それで愚かないけにえを捧げることになります。礼拝の前の日に忙しくなって、それで礼拝当日の御言葉中に居眠りをしてしまう。愚かないけにえを捧げてますね、その場合は。ですから、そのような愚かないけにえをささげるよりも、聞く準備をしなさい。それは悪とされないためです。

また2節。「神の前では、軽々しく心をあせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」これはもう箴言の学びでよく皆さん聞いておりますね。言葉です、言葉。言葉数が多くなると愚か者の言葉になるよっていうことをよく私たちは見ております。

また3節。「仕事が多いと夢を見る。言葉が多いと愚かな者の声となる。」何かとですね、仕事、本当にシンプルなことなんですよ。本当は物事は。ある仕事をすることで、例えば「お花に水をあげて」と河合さんが出ている間、私はお願いされたんですけれども、どのようにして水をあげるのかな、水は浄水器の水がいいかな、水道の水がいいかな、お花にあげるときは、どういう言葉を言えばいいかな、愛してるよっていう言葉がいいかな、それとも綺麗だよって言葉がいいかな。

確かにそんな風にはしてないですからね。正しく祝福を祈っています。とにかく、ある奉仕をするにあたって、あれこれとですね、仕事を多くし、夢を多くしてしまうと、愚かな奉仕になってしまうんですね。お花は本当に命そのまま生きています。偽りの愛してるよ。偽りの綺麗だね。そういった言葉はですね、花は受け取りません。本当に、御言葉の祝福を本当にダイレクトに受け取るんですね。奉仕はすべてそういうものです。奉仕は神様にお捧げするものですから、一切のそういう口先だけ外見的な飾り、そういったものは通用しないんです。

神様の御前に出るときは心を焦ってはなりません。むしろシンプルにするべきなんですね。「仕事が多いと夢を見る」で3節に書いてありますけども、7節の方では「夢が多くなると虚しい言葉も多くなる」。これは仕事においてもそうです。この3節の仕事、英語の訳ではビジネス。ビジネスが多くなると夢を見るんですけども、とにかくそういうやることをですね、パパパって思いついて、それでこれをやって、あれがあって、それから、それを斜め右下に持っていってとか、そういうふうにあらかじめそういうふうに組み立ててしまうと、そのことばっかりが頭の中にあって、人と話すときにどうもいまいち話がかみ合わなくなっちゃうということがよくあるんです。なんでこの人、斜め右下なのかな、なんでそのことばっかり、単純に下に持っていけばいいのに、なんで左行って、下行って、右行って、それから上に行かなきゃいけないのかな。

そういうですね、仕事が多い人は何かとそういう無駄が多い、また虚しい言葉が多い、そして虚しい言葉が多くなると愚かなものになってしまうんです。

この非常に良い例がですね、マルタとマリアですね。ちょっと開いてみましょうか。その中で最もいい例はマリアです。マリアはイエス様の言葉に耳をじっと傾けているだけでした。

ルカの福音書の10章ですね。ルカの福音書の10章の38節から42節です。

「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女はマリヤという妹がいたが、主の足元に座ってみことばに聞き入っていた。ところが、マルタはいろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ、妹が、私だけにおもてなしをさせているのを何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように妹におっしゃってください。』主は答えて言われた。『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを心配して気を遣っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。一つだけです。マリアはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』」(ルカ10:38-42)

アーメン。マルタは仕事が多い人ですね。イエス様が来た。じゃあ、イエス様に対して最も最大のおもてなしは何かな、あれやこれやと給仕をして食事を整えたり、また、しもべたちに言いつけをしたり、そういったことをして、それがイエス様に対する最善だと思いました。

マリアはイエス様のお言葉を聞くこと、それを選びました。とにかくこうした給仕の仕事すら別に後でもできる。ただ、イエス様のお言葉、それは今しか聞くことができない。だから、マリアはイエス様の足元に座ってみ言葉に聞いていました。

しかし、ところがマルタはそのマリアを見つめるんですね。イエス様ではなくマリアを見て、それでだんだんイライライライライラしてくるんです。イエス様がみ言葉を語っている最中なんですよ。でもマルタはイエス様を見ず、イエス様の言葉に耳を傾けず、マリアを見てイライライライライラしているんですね。

皆さんも礼拝の中では気をつけてください。礼拝の中ではイエス様の御言葉に耳を傾けるべきなんですけども、でも、あのことを考えてイライラ、あの兄弟姉妹を考えてイライラ、あの仕事、この仕事どうしようって考えて、そうしたいろいろなことを心配して気を遣うこと、イエス様は、そこを指摘をしましたね。

「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを心配して気を遣っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」イエス様が語っておられる時、その時はイエス様の御言葉を聞くこと。マリアは一番良いものを選んだんですね。だからマリアは、他のどんな弟子たちも気づかなかったことを気づきます。また、マリアは他の弟子たちが受けられなかった栄誉を受けることになります。

ヨハネの福音書の12章の方を開きたいと思います。ヨハネの福音書12章の3節から8節まで。

「マリアは非常に高価な純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。ところが、弟子のひとりでイエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。『なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。』しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって金入れを預かっていたが、その中に納められたものをいつも盗んでいたからである。イエスは言われた。『そのままにしておきなさい。マリアはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつも一緒にいるが、わたしとはいつも一緒にいるわけではないからです。』」(ヨハネ12:3-8)

イエス様はこの時、「あなたがたは貧しい人々とはいつも一緒にいる。しかし、わたしとはいつも一緒にいるわけではない」とおっしゃいました。これはイエス様がもうじき十字架につけられるからですけれども、しかし、私たちもですね、イエス様の聞くべき言葉をその時聞けるかどうかということは、それは皆さん自身にかかっているんですね。

イエス様が「私はもうすぐ十字架につけられる」という言葉、それはもうある一定期間しか賞味期限のない内容の言葉です。イエス様の言葉は「時」があります。皆さんに語られるべき時、そして、その時期を逃してしまうと、その言葉は皆さんにとって何もなくなってしまいます。マナには賞味期限があるように、イエス様の御言葉にもそれを聞くべき時、そしてそれを実行するべき時があるんです。

マリアは聞くべき時にしっかり聞いたから、実行するべき時にしっかりとこの葬りの準備という、誰もができなかったこの栄誉を預かることができました。このイエス様の言葉、ずっと足元に座って聞いていたからなんですね。

でも、ここに一人良くない事例がおりますね。イスカリオテ・ユダです。彼はそのマリアの行動、マリアの捧げ物をじっくりと見つめておりました。イエス様になす、弟子がなすことを、それを傍から見てじっと見つめる行為。マルタもそうでしたし、このイスカリオテ・ユダもそうですね。それは良くない行為です。イエス様ではなく、聖徒の何かをじっと見て、それを値積もりして、それをお金に換算して、私だったらこうすると批判したり、そういったことをすること。それはイエス様の敵がすること、イエス様を売り飛ばす類の人がするような行為ですね。

でもイエス様はユダに諭しました。「そのままにしておきなさい。あなたはいつも私と一緒にいるわけではないんだよ。私と一緒にいるべき時にしっかりと御言葉を聞いて、そしてしっかりとその礼拝のための整えをしておきなさい。」イエス様はそのように言うんです。

私たちは何かとですね、イエス様の奉仕をするとなると、あれやこれやと考えがちになってしまいます。あの奉仕、この奉仕、どこどこに行ったら、まず何をしようか、これをしようか、いろいろなことを考えるんですけれども、でも、主人公はイエス様であることを忘れないでください。そして、私たちがあれやこれやと思い煩って、仕事が多くなって、周りの人たちに愚かを振りまいて、周りの人たちさえもその仕事を忙しくさせるような、そういったことではなく、私たちはむしろ御言葉をしっかりと聞いて、マリアのように足元に座ってじっくり聞いて、そしてその通りに実行すること。それは実は非常にシンプルなことなんですね。

もう一人良くない事例がですね、サウル王です。第一サムエル記の15章22節と23節が非常に有名な言葉ですね。第一サムエルの15章の22と23。

「するとサムエルは言った。『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえやその他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに背くことは占いの罪、従わないことは、偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王から退けた。』」(第一サムエル15:22-23)

聞き従うことは大事ですね。従わないことは偶像崇拝の罪、背くことは占いの罪と一緒だと書いてあります。このサウル王はですね、主の御声に聞き従ったと思い込んでいました。20節に「サウルはサムエルに答えた。『わたしは主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガクを連れてきて、アマレクを聖絶しました。しかし、民はギルガルであなたの神、主にいけにえを捧げるために、聖絶すべきものの最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ってきたのです。』」

サウルは主の御声に聞き従いましたと主張したのですが、しかし、主の御声は「そのすべてを聖絶せよ」です。この3節にあるとおり、「アマレクを打ち、そのすべての者を聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも、乳飲み子も、牛も、羊も、らくだも、ろばも、殺せ。」主の命令はこれだったのですけれども、しかし、サウルはそれを惜しんだんですね。で、民のせいにしました。

でも、サウル王はちょっと考えたんですね。聖絶するのはもったいない。よし、じゃあこうしよう。主にこの最上のものを捧げるという名目をつければ、そうすればサムエルさんは納得するだろう。主のことを全く考えずに人のことを考えたんですね。そしたら、彼は王位から退けられる羽目になってしまいました。

皆さん自身もですね、主の御言葉があるんですけど、しかしその御言葉に何か、ここはちょっと厳しすぎるから、これこれこういう解釈を取ろう。そうしたら人の目にもいいし、誰々さんも納得してくれるだろう。そういう風に考えてですね、主の命令に滅ぼすべきものを取っておいたりするんです。私たちの内には。

人のうちには何一つ良いものは本来ないんです。私のあの奉仕の業、それをすればみんな喜んでくれるだろう。私のきれいな歌声を捧げれば賛美が盛り上がるだろう。そういう風にですね、主を、主の御声に聞き従わずに、人間的な何かを追加して、何か主に捧げ尽くすべきものに、何かを加えてしまって、そうして主の御声に聞き従わないで、その捧げ物を台無しにしてしまうというようなこともあります。いやむしろ、このサウル王は滅ぼすべきものを取っておいて、それを主に捧げようとしたんですね。主は喜ばれないはずなんです。

私たちのうちも、肉的な何か、それはすべて滅ぼし尽くすべきものなんです。主の十字架の御前で、そして主から、十字架の復活の後のイエス様のその新しいいのちに沿ったもの、それこそ私たちは捧げるべきものです。主が最も喜ばれるいけにえ、それは聞き従うことですね。

主のみことばに「嫌だ」とか、「だって」とか、それを混ぜ込んで、それでこれこれこういうふうにして捧げました。それは主の喜ばれないいけにえです。主は主の御声に聞き従うことほどに全焼のいけにえやその他のいけにえを喜ばれません。聞き従うことこそいけにえに勝るんです。そして、主の御前に出るときは、言葉数を多くするべきではありません。仕事をあれやこれやと考えつくべきではありません。

サウルは仕事を考えつきましたね。彼は12節を見ますと、自分のために記念碑を建てて、それで13節でサムエルと会うなり、「主の祝福がありますように。私は主の言葉を守りました」。もっとも守っていないからこんな取り繕いの言葉が真っ先に挨拶ことばとして出てくるんですね。

私たちは主の御前には心まっすぐであるべきであり、また正しく主の御声に聞き従うべきなんです。どうか皆さんは主の御声にじっくり聞き従うマリアの例に倣ってください。そして、聖徒、他の聖徒を見つめたりせず、皆さん自身のその務め、それはイエス・キリストが中心ですね。ですから、人の目に何か映るものではなく、イエス様のためになすということをまず第一としてください。そして、主の御声に聞き従ってこそ最上のいけにえを捧げることができます。どうかそのように、イエス様に対して最上のいけにえを捧げる皆さんでありますように。

最上のいけにえを捧げるためのコツはまず何でしたか。従順することです。そうです。御言葉、聞き従うことです。耳をまず使って、そしてその通り従順して、そしてその通りを行うこと。どうかそんな感じで最上のいけにえを主に捧げる皆さんでありますように。

【結論】

神に喜ばれる礼拝の秘訣は、多くの仕事や言葉ではなく、マリアのようにイエス様の足元に座って御言葉に聞き従うことです。聞き従うことはいけにえにまさり、従順こそが主への最上の捧げものとなります。私たちは愚かないけにえではなく、御言葉に耳を傾け、それに従順することで、永遠の記念となる礼拝を捧げることができるのです。

礼拝説教メッセージ音声:血肉に逆らっても罪には妥協するな(出エジプト記32:21-29):右クリックで保存

「アロンは言った、「わが主よ、激しく怒らないでください。この民の悪いのは、あなたがごぞんじです。」(出エジプト記32:22)
アロンは、自分が罪を犯した事を告白せず、民の悪さへとモーセの目を向けさせようとした。民が悪いのは、あなたも知っているでしょう、と。

小さい子供は、誰からも教えてもらってもいないのに、言葉を覚えた当初から、罪を他人になすりつけたり、自己弁護したりするように、人は誰しも、生まれながらに自分の罪を隠し取り繕う「くせ」が、身についてしまっている。
しかし、もし自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。(1ヨハネ1:9)

アロンは、民が「神を造ってください」と言った時点で、与えられていた十戒を元にNOを突きつけるべきだった。
それなのに彼は、民の心情を損ねたくなかったのか、それをせず、「金を持っている者はそれを取り外して下さい」と言ってしまった。(出エジプト記32:23-24)
そう言えば民衆は黙ってくれる、と、期待したのかもしれない。しかし、ひと度妥協してしまった事で、ますます民を付け上がらせる事になってしまった。

「彼らがそれをわたしに渡したので、わたしがこれを火に投げ入れると、この子牛が出てきたのです。」(出エジプト記32:22-24)
結局、彼自身がそれを火に投げ入れた事は告白しているが、あたかも、子牛が自動的に出てきたような言い分である。
「なんで事故を起こしたの!」という親の言葉に、「だって、電柱が車に向かって突っ込んで来たんだもの。」と返す子のようであるが、電柱が車に向かって突っ込んで来るよう車を導いたのはその子であったように、民衆を堕落へと導いたのは、アロンである。

『モーセはアロンに言った、「この民があなたに何をしたので、あなたは彼らに大いなる罪を犯させたのですか」。』(出エジプト記32:21)
アロンとしては、民が勝手な事を言い出し、それに少しだけ譲歩しただけ、それなのに民は、あれよあれよという間に勝手に偶像を造った、と思っているかもしれない。
しかしモーセは、アロンが民に罪を犯させた、と、明瞭に言っているし、35節でも「金の子牛はアロンが造った」と書いてある。
アロンは、その手で子牛を造らなかったかもしれない。しかし、指導者たる者が、戒めるべき所を戒めなかった事によって「彼が造った」と見なされてしまうのである。
悪い事を「する」ばかりが罪ではない。罪の防止を「しない」事も、悪をほしいままに振舞わせる事も、悪を「する」事と同列なのだ。

『モーセは民がほしいままにふるまったのを見た。アロンは彼らがほしいままにふるまうに任せ、敵の中に物笑いとなったからである。』(出エジプト記32:25)
ここは、KJVでは、アロンは彼らを裸にさせ、彼らの敵の間で裸の恥をさらすようにした、と訳す事ができる。
モーセが山から降り、皆の前で金の子牛を粉々に砕いても、なお、裸のままでいる者達がいた、という事だろう。

酔っぱらいのように、ひと度つけあがると、そこに指導者が現れても、なお開き直るような者はいるが、それは放っておいてはならない。
罪をそのまま野放しにしてはびこらせると、主の敵に大いに嘲りの心を芽生えさせるからだ。(2サムエル12:14)

『モーセは宿営の門に立って言った、「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」。レビの子たちはみな彼のもとに集まった。そこでモーセは彼らに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」。レビの子たちはモーセの言葉どおりにしたので、その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。』(出エジプト記32:26-28)

イスラエルの男子約六十万に対し、倒されたのは三千人。
会衆の中に、なおそれだけ罪をはびこらせる者がいた、という事だろう。

この命令は、厳しく聞こえるかもしれない。
しかし、神の民は、それほどまでに、罪のはびこりに対しては厳しく扱い、妥協してはならないのだ。

罪を指摘されても、悔い改めもせず、なお公然と罪を犯すような者は厳然と取り除き、会衆を清く保たなければならないのは、旧約でも新約でも同じである。(民数記25章、1コリント5:1-8)
神の民には、確かに幸いも特権も祝福も多いが、それなりの果たすべき責任もあるのである。

『そこで、モーセは言った、「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた。それで主は、きょう、あなたがたに祝福を与えられるであろう」。』(出エジプト記32:29)
新約でもイエス様は同じ事を言っている。
『地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。』(マタイ10:34-39)

私達自身の内から罪を除き去り、また、主に反対する親や兄弟、愛する人には、逆らってでも、主を選択する事は、神の民なら避けて通れない事のようである。

礼拝説教メッセージ音声:割られてしまった神の石板(出エジプト記32:15-20):右クリックで保存

ヨシュアは、モーセが最後に「待っていなさい」という言葉を残して、主の臨在の雲の中へと入って行って以来、40日間、ずっと忠実に待っていた。
彼は、民から離れた所、そして主の臨在の雲から近い所で、ずっと待ち続けていたのだろう。
そして、やっとモーセが彼の前に姿をあらわした時、彼らは民衆の大きな叫び声を聞いた。

『ヨシュアは民の呼ばわる声を聞いて、モーセに言った、「宿営の中に戦いの声がします」。モーセは言った、「勝どきの声でなく、敗北の叫び声でもない。わたしの聞くのは歌の声である」。』(出エジプト記32:17-18)
私達は、神の敵、すなわち、罪やサタンと戦い、勝利の叫びを上げる事が最も望ましい。
それに負けてしまった時に、悔しさや悲しみの叫びをするのは、まだましな方で、最も良くないのは、罪やサタンを迎合し、罪由来の汚れた楽しさを謳歌するための叫びを上げる事、これを神は怒り、悲しまれる。

『モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。』(出エジプト記32:19)
この板は、神聖にして侵すべからざるもの、この板が安置されている箱が行き巡ったペリシテ人の国は恐慌にみまわれ、契約の箱の中を覗いたイスラエルの民も多く打たれ(1サムエル6章)、また、その箱が安置されている至聖所においては、祭司が少しでも手順を間違えれば、神に打たれて死んでしまう程、神聖なるものだった。
それなのに、モーセはそれを粉々に砕いてしまった。

そのように、神聖なるものが壊されてイスラエルの中から取り去られてしまう事は、イスラエルの歴史の中では幾度かある。
契約の箱がペリシテ人に奪われた時も、バビロン捕囚時にカルデヤ人が神殿を荒らし回った時も、使徒の時代にローマ人が神殿を破壊し尽くした時も、主は、その汚れた民が略奪するがままにされていた。
それはいずれも、神の民の堕落がはなはだ激しかった時であり、尊く聖なるしるしは神の民の中から取り除かれ、神の栄光は去ってしまったのだ。

『また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた。』(出エジプト記32:20)
「金」で出来たものが、火で焼かれ粉々に砕かれる。
よほど不純な粗悪品だったか、あるいは主ご自身が徹底的に粉々に砕かれたのか。とにかく、人は自分の蒔いた種を自分で刈り取り、報いの杯を飲まされるのである。
「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。(黙示録14:9-12)

罪ある人は、神の基準に達する事はできない。
それだから、神が石の板に書かれた定めを人が守ろうと頑張っても、遅かれ早かれそれを破ってしまう時が来る故、もっと抜本的な解決を提供するような、新しい契約が必要である。
『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)

新約においては、石の板ではなく、私達の心に直接、神の指によって御言葉が記され、その言葉は決して離れる事なく、私達は心に刻まれた律法に従って歩む事が出来る。
それは、イエス・キリストを信じる信仰により、聖霊によって記されるものである。

『あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。・・・神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。』(2コリント3:3,6)

そして、この新しい契約は、人を罪に定めたり死に定めたりする務めではなく、いのちの務めであり、古い契約の務めよりも、はるかに栄光のある務めである。
『もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。(2コリント3:7-8)

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