メッセージ - 201303のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:執り成して祈れ(出エジプト記32:7-14):右クリックで保存
『主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。』(出エジプト記32:9)
民は主の御前に大きな罪を犯し、この時滅ぼされても仕方なかった。
幾度も主が命じられた事を無視し、分からず屋で何度言っても過ちを犯し、40日ほどしか経っていないのに早くも堕落してしまった民に、モーセ自身もうんざりしていたに違いないが、彼は、神が「彼らを滅ぼしあなたを大いなる国民としよう」と言われた時、「はい、ぜひそうして下さい」などとは言わなかった。
彼は逆に、イスラエルの民を救うために執り成した。
このモーセの執り成しに、私達は注目すべきである。
『モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。
どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。』(出エジプト記32:11-13)
彼は、イスラエルの民がかわいそう、とか、彼らにはこれこれの良い点があります、など、イスラエルの人の何かを根拠に弁護する事は、一切なかった。
彼は「イスラエル人の何か」を根拠に執り成し祈る事はせず、「主がどのようなお方であるか」という点から、執り成したのである。
主は真実で、栄光をお受けになるべきお方。だから、人々から嘲られるような事をするなどとんでもない。
そして何より、主はアブラハムに子孫を増やし、約束の地へと導かれる御言葉の約束をされたではありませんか、その約束を覚えて下さい、と。
そもそもイスラエル人のみならず、人間は誰しも、神の御前に受け入れられるような良い点など、一つも持っていない。義人はひとりもいないのだ。(ローマ3:10-18)
人は、あれをした、これをした、といった「行い」によっては救われない。人間由来の何かをもって神に取り入ろうとしても、無駄である。
ただ、主は憐れみ深きお方であり、罪に汚れて弱き私達を救って下さる、その一方的な救いに私達は拠りすがるのみなのだ。
モーセは神と人との間に立って取り成したが、私達を執り成して下さるお方は、イエス様である。
このお方にあってのみ、私達は神に近づく事が出来るのである。
『それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。』(出エジプト記32:14)
神は既に御心を定めておられるから、私達は祈ってもムダだ、と思ってはならない。
神は私達に、祈りによって神とかかわる事を望んでおられる。
事実、アブラハムは主の真実さを盾に取ってソドムを滅ぼさないよう交渉できたし、ツロの女もイエス様が「子犬」と言った言葉尻を捉え、なお食い下がったため、娘の癒しを与えられた。
身勝手な祈りや同じ文句の繰り返しなどは聞いてくださらないが、私達が主の真実さに信頼し、御心に叶った祈りをするなら、主は聞いて下さるのだ。
主の御心は、誰ひとり罪の内に滅びない事である。
『主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。・・・あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。』(エゼキエル18:23,31-32)
そのようなご性質故、アブラハムやモーセが執り成して祈った時、主は「よくぞ執り成してくれた」と喜ばれたのではないだろうか。
今は確かに終わりの時代で、世の終わりに定められている災いが来るのは免れないが、だからと言って執り成し祈る事を止めてはならない。
主は、破れ口に立って執り成して祈る人を、求めておられるのだ。(エゼキエル22:30)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
語らぬべき時(エステル5:3-8):右クリックで保存
【概要】
本日の説教では、エステル記5章3節〜8節の場面を通して、エステルの慎み深さと絶妙なタイミング、そして神の御導きの中で信仰者としてどのように行動すべきかを学びます。
【聖書箇所】
・エステル記 5章3節〜8節
・伝道者の書 5章1節〜3節、7節(関連箇所として参照)
【戒めの言葉】
・自らの唇を節制し、焦って不用意な言葉を発しないよう戒めます。
・神の御前では言葉に重みがあり、軽率な発言は霊的危険を招くことを心に留めてください。
【励ましの言葉】
・エステルが示したように、正しい時と場面では謙虚な姿勢で神と人とに向き合うことが大切です。
・焦らず、神の導きとタイミングを信頼することで、必ず救いへの道が開かれると励まされます。
【***詳細***】
本日の箇所であるエステル記5章3節〜8節は、神の御計略の中にある人間の立ち回りや心の持ち方について、多くの示唆を与えてくれます。物語は、エステルが王に呼び出されるという非常に緊迫した状況から始まります。王は「どうしたのだ、王妃エステル。何が欲しいのか。王国の半分でもあなたにやれるのだが」と尋ねます。ここでまず私たちが注目すべきは、王の寛大な言葉と同時にエステルの慎重な態度です。エステルは、王の好意に甘えるのではなく、断固としてイスラエルの救いという使命を果たすために、自らの口を極力制しながらも、タイミングを見極めた上で発言することを選びました。
エステルは、30日間王と直接会わず、断食と祈りに励む中で、神の御導きを求め、また自分の立ち位置とその言葉の重みを深く考えたことが伺えます。彼女の心情や行動を通して伝えられるのは、「焦って不用意に物事を語らず、まずは状況を見極め、神の与えられた時にのみ行動すべきである」という教えです。私たちもまた、日常生活の中で多くの選択を迫られたとき、また上司や大切な人との対話において、エステルのように自らの言葉に慎重になり、まずは相手の状況を尊重する姿勢を持つことが求められます。
エステル記の中で、エステルは王に対していきなり求めを述べるのではなく、まず「もしも王様がお許しになられ、今日私が設ける宴会にハマンとご一緒にお越しください」という一見柔らかい言葉から切り出しました。聖書にも「もしも王様のお許しが得られ、王様がよろしくて私の願いを許し、私の望みを叶えていただけますなら」という言葉が強調されているように、相手の意向やその時の空気を読み、そして適切な言葉を選ぶことの大切さが示されています。これは、私たちが大切な場面で語るべき言葉を熟考し、状況に応じた柔らかい表現と謙虚な態度を保つべきであるという戒めともいえます。
また、伝道者の書に記されている「神の宮へ行く時は、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者が生贄を捧げるのに勝る。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ」という御言葉は、私たちに何気なく使う言葉や行動が、実は大いに注意深く扱われるべきものであることを説いています。エステルが王前で示した謙虚さは、この御言葉と共鳴しています。つまり、偉大な御業をなすためには、まず自らの言葉に責任を持ち、むやみに語らないという自己制御の精神が必要なのです。
エステルの一見控えめな振る舞いの背後には、真実の信仰と神への従順、さらには民族全体の存亡がかかっているという重大な使命感がありました。彼女はまた、ハマンという敵対者の動向を探るために、あえて宴会に王とハマンだけを招き、その場の空気を観察するという知恵も示しています。この行動は、決して軽率なものではなく、むしろ神の時と導きに身を委ねた慎重なる戦略であり、危機的状況においても冷静さと思慮深さを失わない模範として、私たち信者に大いに学ぶべき点です。
また、エステルがその願いを発する際に用いた言葉、すなわち「もしも王様がよろしければ、」という始まりは、相手に対する敬意と控えめな姿勢の表れです。現代においても、私たちが職場や家庭で大切なことを伝える場面では、まず相手の境遇や心情に配慮し、余計な主張や感情を控えるべきだと示唆されています。たとえば、上司に何かを訴えたい時や、家族との意見交換において、まずは相手の話をよく聴き、相手の心情を理解することが、実りある対話と建設的な解決への第一歩となるでしょう。
さらに、今回の説教で強調したい点は、私たちが言葉を発する際に神への畏敬の念を忘れてはならないということです。人はしばしば、いかに自らの考えを言葉に尽くそうとも、焦りや思い過ごしから無駄な発言をしてしまい、結果として自らを窮地に陥れることがあります。エステルが示したように、智慧ある人は「言葉数を少なくせよ」と忠告される通り、むやみに多くを語らず、必要な時に必要な言葉だけを発するのです。これは、日常生活におけるコミュニケーションはもちろん、霊的生活においても極めて大切な姿勢です。
現代社会において、情報があふれ、誰もが自分の意見を容易に発信できる状況ですが、私たち信者はエステルのように、常に神の御前において謙虚であり、時機を得るまで自らの言葉を慎むべきです。焦って無理に物事を前進させるのではなく、「主の時がある」と信じ、静かに、しかし確固たる信仰と知恵をもって行動することが求められます。そうすることで、神は確実に私たちと共に歩み、時には危機的な状況さえも救いの道へと導いてくださるでしょう。
このエステルの姿勢は、私たちにいくつもの霊的な教訓を残しています。彼女は一見、控えめで遠回しな言い方に見えるかもしれませんが、その裏には深い戦略と信仰の確信が流れていました。王の好意を得るためだけでなく、民族全体の命運を背負っての行動であったため、自らの口を慎み、神の御計らいに身を委ねることが如何に重要であるかが浮き彫りになっています。私たちもまた、日々の生活の中で神の導きを求め、コミュニケーションには十分な注意と謙虚さをもって臨むべきです。
例え仕事や家庭での小さな衝突、あるいは意見の食い違いがあったとしても、すぐに感情的な言葉を発するのではなく、まずは相手の気持ちに寄り添い、神の知恵によって冷静に判断することが信仰者として成熟する鍵です。そして、神が定められた正しい時に、私たちもまた必要な言葉を発する勇気と知恵を受けることでしょう。エステルのように、慎重に、しかし強く、そして謙虚な態度を忘れずに進むならば、どんな難局も乗り越えられると信じています。
この説教を通して、私たち一人ひとりが自らの言葉に責任を持ち、神の御前にあって控えめかつ賢明な判断を下すことの重要性を再認識し、またそれを実践する決意を新たにできるよう、心から祈り申し上げます。どうか皆さんもエステルの模範に習い、日々の生活の中で自らの唇を節制し、神の時を待ち、その導きに従って行動する信仰者となりますように。イエス・キリストのお名前によって、皆さんの家庭、職場、そしてあらゆる場所に神の平安と祝福が豊かに注がれますように、心からお祈りいたします。
【結論】
エステルの慎み深い行動と絶妙なタイミングは、神の御導きのもとに生きる私たちにとって大いなる模範です。私たちもまた、焦らず、謙虚に、そして神を畏れる心を持って日々のコミュニケーションに臨むことで、どんな困難も乗り越え、神の御計らいに沿った素晴らしい未来へと歩みを進めていきましょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ユダの手紙9-10:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:金の子牛への二つの罠(出エジプト記32:1-6):右クリックで保存
『民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。・・・アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。
・・・そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。』(出エジプト記32:1,4,6)
民は早くも堕落してしまった。
40日ほど前、あれほどの恐ろしく圧倒的な主の顕現を見たはずなのに。
また、この日の朝、主からのマナを食べ、主が備えて下さった水を飲んだはずなのに。
雲の柱と火の柱による主の臨在が、相変わらず彼らと共にあったのに。それなのに、一体、どうした事なのだろうか。
アロンは「あすは主(エホバ)への祭りである」(5節)と言った。エホバ、すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブの神、天地を創られた全能なる神への祭りだと宣言したが、もしかしたら彼らは、造った偶像にエホバなる主を投影する事によって、主に仕えているような「気」になっていたのかもしれない。
だが、「その気」だったとしても、それは到底エホバなる主が受け入れるものではない。
主に仕えているような「気」になっておりながら、主を怒らせ、悲しませるという事は、確かにある。
私達はそれを十分注意して取り扱わなくてはならない。
「さあ、”わたしたちに”先立って行く神を、”わたしたちのために”造ってください。」(1節)この言葉からも、主体は神ではなく「わたしたち」にある事が分かり、彼らの「その気」は、心から主を愛するものではなく、自己中心的なものであると分かる。
そして彼らは、御言葉に従っておらず、むしろ、いくつも御言葉に反している。
主が十戒の第一戒で言われたのは「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」だった。
また、第二戒で言われたのは「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」だった。(出エジプト記20:1-6)
さらに続けて主は言われた。「あなたがたは、わたしが天からあなたがたと語るのを見た。あなたがたはわたしと並べて、何をも造ってはならない。銀の神々も、金の神々も、あなたがたのために、造ってはならない。」(出エジプト記20:22-23)
この言葉が与えられ、まだ40日ほどしか経っていないのに、アロン彼らから金を集めさせ、のみで鋳型を造り(のみを当てるなら汚す事になる、と、主は20:25で言われているのに)、金の子牛を造って、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」と、のうのうと宣言している。
このように彼らは、こちらが見ていて怖くなってしまうほどに主の戒めを破り、主の御怒りを引き起こしている事が分かるはずだが、彼らは、分からなかったのである。
なぜか?
それは、彼らの内に御言葉が無く、身勝手に、自分の目に正しいと思われる「思い込み」によって、突き動かされていたからである。
災い多く忌むべき士師記の時代のキーワードは、「おのおの自分の目に正しいと見る所を行なっていた」だった。
御言葉の根拠が無い、神に仕えているという身勝手な「思い込み」。それこそ、災いと呪いの根源である。
私達が正しいと見える事、それは果たして主の御前に正しいだろうか。
それをいつも、御言葉に照らし合わせて、点検する必要がある。
もう一つ、この箇所から私達が陥りやすい罠を見る事が出来る。
その罠とは、「民衆の声」である。
アロンは、民衆の「わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。」という声に対し、御言葉で否む事をせず、民衆の思いをさせてしまった。
サウル王も同じ罠に陥った。彼も、サムエルから与えられた御言葉どおりに待ちきれず、自分流の思いに急かされ、そして「民が」離れていくのを恐れ、御言葉を乗り越え、自分のおるべき領分を超えた事を行なってしまった。
彼も言い訳で「神に仕えたつもり」だった事を言ったが、それは御心を損ねる事であり、王国は剥奪される事になってしまった。(1サムエル13:8-14)
政治に関して理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し、その支持を求める手法あるいはそうした大衆の基盤に立つ運動をポピュリズムと呼ぶが(知恵蔵2013)、神の国において、このポピュリズムは、最もしてはならぬ事である。
現在、キリスト教界において、御言葉よりも、大衆に迎合される事を重視し、御言葉をそのまま伝える事を躊躇してクリスチャンが塩気を失い、御言葉の光を失い、塩気の無い塩として、外に投げ捨てられてしまっている状況を、よく見る事が出来る。
わたしたちは、アロンやサウル王が陥ってしまった、二つの罠に気をつけるべきである。
一つは、御言葉が与えられても、忍耐して待ちきれない、という罠。
主の現れは、人の目には遅いと感じる事もある。しかし、しっかり主に信頼し、言われた言葉を守り続けるべきである。
もう一つの罠は、民衆の声、みんなの声である。
それらに惑わされず、御言葉にしっかり留まって御言葉の成就を忍耐して待ち望み、民衆の声に惑わされず、御言葉のほうに信頼して従順するなら、ヨシュアやカレブのように、次世代へいのちを継がせる者となる事が出来る。
もし、みんなの声に惑わされ、主の御言葉を押しのけるなら、荒野の民のように、サウル王のようになってしまう。
御言葉に従順し、服従し、新しい改まった世界へといのちをつなげる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:幕屋建設指示の終わりに(出エジプト記31:1-18):右クリックで保存
いよいよ幕屋建設の命令の最後の指示である。
『「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。見よ、わたしはまたダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブを彼と共ならせ、そしてすべて賢い者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものを、ことごとく彼らに造らせるであろう。』(出エジプト記31:2-6)
幕屋に必要な全ての設備品を造るために、要求される技術は、非常に多岐に渡る。
大工的なものもあれば宝石職人的な技術も要求され、服飾的なものもあれば、アロマの調合まで必要である。
これら全てを主の聖なる用に足りるレベルにまで造り上げるには、主の霊なくては到底出来るものではない。
神が幕屋について指示されて来た事は緻密で膨大であり、果たしてその通り出来るかという心配が、もしかしたらモーセにあったかもしれない。
しかし神は、出来ない要求をしていっちゃもんをつけるようなお方ではない。
神が「せよ」と言われるからには、それが出来るよう、必要な資材も、神の霊で満たされた知恵と力を持つ働き人をも、ちゃんと備えて下さる。
主の霊が与えられた技術者は、「これこれの物をつくりなさい」と言われた時、頭の中ですぐにイメージが与えられ、御心の通りに造り上げるのだ。
それは、現代の教会においても、そうである。
私達の教会が行くべき道が示された先には、現行の教会員や資力では到底出来ないような事を示される時があるかもしれない。
しかし、その示しが神から来たものであるからには、神がちゃんとそれが出来る御霊の知恵と力に満ちた人を用意し、必要な財力も備えて下さるのだ。
神の国の奉仕は、自分が活躍したいからなるものではないし、社会的落伍者が逃避的な目的でキリスト教界の奉仕者になるものでもない。
幕屋建設の奉仕者が、神から名指しで任命されたように、神の国の奉仕者は、神によって「任命」されてなるものである。
神が任命して下さるなら、どんな事でも可能であり、実績が必ず後を追い、人々からも認めるものである。
『主はまたモーセに言われた、「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。』(出エジプト記31:12-13)
幕屋建設の指示の最後は、なぜか再び安息日尊守の命令で締めくくられている。
これから具体的な作業に入るに当たって、全ての奉仕で決して忘れてはならない重要事項が「安息」であるようだ。
神の国の奉仕者が休まず働いて疲れ果ててしまうのは御心ではない。
必ず休みが必要であり、そして休みの時は、しっかり神の創造のみわざを覚えつつ心も体も休めるべきである。
安息日の主は、キリストである。
全ての種類の奉仕にあたり、決して忘れてはならない重要事項は、イエス・キリストを信じる信仰であり、この御方を脇においた自分流の奉仕は、無効である。(ヘブル4:1-3)
信じた者は安息に入り(ヘブル4:1-3)、安息に入った者は自分のわざを終えて休む。
『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』(ヘブル4:9-10)
『主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。』(出エジプト記31:18)
こうして、25章以降から詳細に指示されて来た幕屋建設の命令は終わり、モーセは律法の石板を神から頂いたが、残念ながら、この板は次章で粉々に砕かれてしまう。
次章以降、民の堕落とモーセの執り成し、神の憐れみを見て行きたい。
いちじくの葉か、犠牲の衣か(創世記3:7,21)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
人類に罪と死が入ってしまった瞬間、すなわち、アダムとエバが「善悪を知る実」を食べた時、真っ先に彼らに起きた事は、目が開かれ、自分達は裸であった事を知った事であり、その事を見て知った彼らが真っ先に実行した事は、いちじくの葉をつづり合わせて、裸を覆う事だった。(創世記3:7)
神との関係が絶たれてしまった人間は、呪われてしまった自然や環境、人間関係の脅威の中を、自身の体力や知識、思いや意志、感情をやりくりし、自力で渡り合って行かなくてはならなくなってしまった。
この、自分の恥ずかしい所、見られて欲しくない部分を覆う行為こそ、全ての人が持つ「取り繕い」である。
アダム以来人類の呪われた生き方は、自分の弱さや裸をカヴァーするために力を蓄え、知識を蓄え、技術を発展させ自活して行くもので、いちじくの葉はやがて発展し、鎧となり、城壁となり、兵器となって行った。そして、人はまた、浅知恵による言葉の「いちじくの葉」で自分を覆う生き方をも身につけた。
アダムは、自分の罪を告白せず、逆に神が与えて下さった妻が悪いかのように、詭弁といういちじくの葉によって自分の罪を覆おうとし、人を責め、神を責めた。エバもまた同様であった。(創3:12-13)
小さい子供は、誰からも教えてもらわないのに、言葉を覚えた当初から、詭弁という「いちじくの葉」で自己弁護する。そのように人は、生まれながらに取り繕う「くせ」が、身にしみてしまっている。
いちじくの葉がやがてぼろぼろになってしまうように、それは永遠に保つものではない。取り繕って一時的に救われた気がしても、永遠に続くものではないため、喪失への恐れや不安がどこかしらあるものだ。
神を離れた人がやる事なす事は、全て、主の御前に実を結ばない「取り繕い」である。(ヨハネ15:5)
神に対して有用な実を結ばない「いちじくの葉」という取り繕いだらけの人は、主によって枯らされてしまう。
イエス様が唯一、呪いの奇跡を行われたのは、葉っぱばかりのいちじくの木に対してであった。(マタイ21:18-22)
人は、何によって罪と裸を覆って頂けるのか。それは、神が一方的に与えて下さる衣によってである。
「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。」(創世記3:21)
主は、人を裸のままエデンの外に追い出す事をなさらず、呪われた地でもやって行けるように、何かしらの動物を殺して犠牲とし、その皮を剥がれ、それを人に着させて下さり、それから救いのご計画を発動された。
日本で犯罪を犯したら日本の法律に則って対処するように、神の御前で罪を犯したなら神の方法に則って罪を対処しなくてはならない。神の御前に有効な、罪の贖いの方法。それは、いのちの犠牲である。
イエス様は、たとえ話の中で、王が婚礼に客を招いた際に、礼服を身に着けてこなかった者は外に追い出された話をされた。礼服は王から支給されるものであり、せっかく支給されたものを跳ね除けて、自前の服を身に着けて行くなら、善人であれ悪人であれ、外の闇に追い出されてしまう。(マタイ22:11-14)
同様に、神の支給して下さったキリストという贖いの衣を身に着けず、自前のいちじくの葉で取り繕うなら、どんな善人であっても、天の王国から追い出されてしまうのである。
キリストこそ贖いの衣であり(ガラテヤ3:27)、この衣を着るなら、決して裸になる事は無く、死ぬべきものはいのちに飲み込まれるのである。(2コリ5:1-4)
アダムとエバはいちじくの葉で取り繕ったが、自前の方法では、神の前に罪や裸を覆った事にはならない。ただ、神の側が示された衣で覆われてのみ、御前に有効なのだ。
ヤコブは自前の服ではなく兄エサウの晴れ着や動物の毛皮を纏ったため父からの祝福をいただき、エステルは自分好みのものではなく勧められたもの以外は身につけなかったため王の好意を受け、大祭司ヨシュアは、ただ一方的に、汚れた衣を脱がされ、神が用意された礼服を着せられた。
ルツはナオミから言われた通り、ボアズの衣をまくって彼の懐に入り、「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」と言って迫ったために、栄光の家系へと入れられた。(ルツ記3:9)
私達も、まことのボアズであるキリストの懐に飛び込んで行き、申し上げるべきである。
「わたしはあなたのはしためです。」「あなたの贖いの衣でわたしを覆ってください。」「あなたは私を、罪と死から、いのちへと買い戻して下さるお方です。」と。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエス様から最高の賛辞を頂くには(マタイ8:5-13):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:特別な注ぎの油(出エジプト記30:22-38):右クリックで保存
幕屋の祭具は、用いられる前に特別な油が注がれる。その注ぎ油の調合は、次の通り。
『あなたはまた最も良い香料を取りなさい。すなわち液体の没薬五百シケル、香ばしい肉桂をその半ば、すなわち二百五十シケル、におい菖蒲二百五十シケル、桂枝五百シケルを聖所のシケルで取り、また、オリブの油一ヒンを取りなさい。あなたはこれを聖なる注ぎ油、すなわち香油を造るわざにしたがい、まぜ合わせて、におい油に造らなければならない。これは聖なる注ぎ油である。』(出エジプト記30:23-25)
これは全ての祭具に注がれる。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、机とそのいろいろな器具、燭台とそのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえのための祭壇とそのいろいろな器具、洗盤とその台とに。
これらに油が注がれるなら、それらは聖別され、主に対して有用なものとなり、それらに触れるものも、全て聖なるものとなる。(29節)
この油は、祭司や王など特別な任職をする際にも注がれる。
「キリスト」とは元々「油注がれた者」という意味であり、イエス・キリストこそ唯一の王、完全な贖いを成し遂げた大祭司である。
私達キリスト者は、キリストのからだの各部分、各器官である。
王であり大祭司であるキリストにつながる私達も、キリストから流れてくる聖霊の油にあずかる事が出来る。
幕屋の祭具には色々な種類があり、それら全てに同じ油が注がれるように、キリストの体の各器官である私達も、かしらなるキリストの頭に注がれた尊い油が私達に流れ滴り来るため、皆が同じキリストの香りがするのだ。
『見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。』(詩篇133篇)
キリストに留まり、キリストから流れ滴って来る油は、尊く、麗しく、そこにはとこしえの命の祝福がある。
キリストに繋がっていなければ、油は滴って来ないし、主に対して有用な実を結ぶ事も出来ない。しかし、キリストに繋がっているなら、豊かな実を結ぶ事ができる。(ヨハネ15:4-5)
この油は特別なものであって、勝手に作ったり、神から任命されてもいない者に、注いだりしてはならない。
『これはあなたがたの代々にわたる、わたしの聖なる注ぎ油であって、常の人の身にこれを注いではならない。またこの割合をもって、これと等しいものを造ってはならない。これは聖なるものであるから、あなたがたにとっても聖なる物でなければならない。すべてこれと等しい物を造る者、あるいはこれを祭司以外の人につける者は、民のうちから断たれるであろう。』(出エジプト記30:31-33)
神から任命されてもいないのに、自らを「油注がれた者」と自称し、純粋であるはずの神の言葉に混ぜ物をして売り物にするような者、御言葉を軽んじても良いような事を教える者はいるが、私達はそのような者に気をつけなくてはならない。
『主はまた、モーセに言われた、「あなたは香料、すなわち蘇合香、シケレテ香、楓子香、純粋の乳香の香料を取りなさい。おのおの同じ量でなければならない。あなたはこれをもって香、すなわち香料をつくるわざにしたがって薫香を造り、塩を加え、純にして聖なる物としなさい。また、その幾ぶんを細かに砕き、わたしがあなたと会う会見の幕屋にある、あかしの箱の前にこれを供えなければならない。これはあなたがたに最も聖なるものである。』(出エジプト記30:34-36)
聖所で御前に備える香りには、さらに特別なものがあり、それは至聖所のすぐ手前の幕の所に供えられる香りで、香料の樹脂を粉々に砕き、主の御前に供える。
主が喜ばれるのは、砕かれた魂、悔いた心であり、砕かれた心から立ち上る祈りの香りは、主に喜ばれる。(詩篇51:16-17、マルコ14:3)
私達は、かしらなるキリストにしっかり留まり、キリストに注がれた油が、からだである私達にも伝わって来て、キリストの香りをいたる所で放つべき者達である。
『神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。』(2コリント2:14-17)