メッセージ - 201304のエントリ

Do you love me? (ヨハネ21:15-17)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ペテロはかつて、弱さのゆえに、三度、イエス様の事を知らないと公の前で宣言したが、イエス様はそんなペテロを、温かい食事のもてなしの後、個人的に取り扱われた。
「イエスはシモンペテロに言い給ふ、ヨナのシモンよ、汝はこれらに勝りて我を愛する(アガパオー)や。彼に言ふ、然り、主よ、汝は我が汝をねんごろに(フィレオー)し参らすことを知り(エイドー)給ふ。彼に言い給ふ、我が羔(こひつじ)を飼へ。」(ヨハネ21:15 永井訳)
イエス様はここで、ヨナの子、すなわち、人から生まれたシモンよ、と語りかける。あなたは「これら」すなわち、この人達や、漁師という職業、住み慣れた土地、それら以上に、わたしを愛(アガパオー)するのか、と。
ギリシヤ語の「愛」には三種類ある。イエス様がペテロにチャレンジした「アガペー」の愛は、ただ与える愛。
見返りを求めず、惜しみなく捧げ尽くす愛、人を生かし、いのちを豊かにする愛である。それとは真逆の愛が「エロス」の愛、すなわち、見返りを求め、相手から奪う愛。相手の美しさや若さ、お金など、メリットが無くなったら即切れてしまうような、人から奪い、人のいのちを廃らせる愛である。そして三つ目はペテロが答えた「フィレオー」の愛、すなわち、常に交わりを持つ身近な人に自然に芽生える親近感や親愛の情である。
主は、人に、チャレンジする。あなたは、周りのあの人この人よりも、職業や地位よりも、見返りを求めず、わたしを「アガペー」の愛によって愛し尽くすか?と。
以前のペテロなら、何の躊躇もなく、得意げに「はい」と答えたであろうが、今の彼には「アガペー」で応える事に、躊躇があった。彼は、私があなたに親しみを持っている事を、知っておられるでしょう、と答えた。
イエス様は「私の子羊を飼いなさい」と言われた。ここの「飼う」は、食物を与えて守れ、という意味である。
イエス様の所有である、幼い羊。それに食物を与え、守るという資格が与えられるのは、イエス様をフィレオーによってでも、愛する人である。

「また二たびめ彼に言い給ふ、ヨナのシモンよ、汝われを愛するや。彼言ふ、然り、主よ、汝は我が汝をねんごろにし参らすことを知り給ふ。彼に言い給ふ、我が羊(ひつじ)を牧(か)へ。」(ヨハネ21:16 永井訳)
シモンは繰り返し聞かれ、耳が痛かっただろうが、イエス様はなお訊ねた。私をアガペーするのか、と。
人間の子には、どんなに振り絞ってもアガペーの愛は出てこない事、主の基準には達しえない事を、思い知った事だろう。イエス様は今度は、「子羊」ではなく「羊」を、「飼いなさい」ではなく「牧し」なさい、と言われた。「牧す」とは、「飼う」よりも、より進んだ養いで、食べさせるだけでなく、訓戒し、治める事を意味する。
イエス様を「フィレオーする」と、なお重ねて告白する人には、羊を牧する資格が与えられる。

「三たびめは、彼に言い給ふ、ヨナのシモンよ、汝われをねんごろにするか。」(ヨハネ21:17 永井訳)
イエス様は、三度目の質問では、ペテロの不完全な愛のレベルに降りてこられ、同情するかのように「あなたは私を、フィレオーするのか」と言われた。あたかも、小さい子供が悪い事をして泣いている所に、大人がしゃがんで子供と同じ目線に来て、なだめてくれるかのように。それでペテロは悲しくなって、言った。
「主よ、汝はすべての事を知り(エイドー)給ふ、汝は我が汝をねんごろにし参らすことを知り(ギノスコー)給ふ。」(ヨハネ21:17 永井訳)
私達には、完全な愛など無い。主の基準には、達し得ない。だから私達もペテロのように、主に告白するしか無い。「あなたは、私達が弱く不完全で、アガペーの無い者である事を、感覚的に知っておられ(エイドー)、客観的にも知って(ギノスコー)おいででしょう、それでも私は、あなたを親っている、それしかありません。」と。 私達は結局、主が私達を「知っておられる」事に、よりすがるしか無いのである。
主は、天を押し曲げて降りて来られ、私達と同じ「人」として住み、同じ目線に立って下さり、辛うじて「フィレオー」しか出来ない私達に、イエス様の大切な羊を飼うようにと、主の働きを託して下さるのだ。
その時は、辛うじてフィレオーとしか答えられないペテロだったが、主と共に歩んで行き、主の羊達を養う内に、彼は「持ち合わせていない」と思っていたアガペーを、自然に身につけて行ったようである。
伝承によると、ペテロは後に、捕らえられ殺されると知りながらもローマへと戻って、迫害されているイエス様の羊たちを養い、捕らえられ、自らのいのちを投げ出してアガペーの愛を体現した。神の国は、御言葉の種が蒔かれたなら、夜は寝て朝は起き、そうこうしている内に、その人の内で育っていくものである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
新しい衣、新しい革袋、ぶどう酒(ルカ5:33-39):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:愆祭 - 罪過のためのいけにえ(レビ記5:14-6:7):右クリックで保存

レビ記5章14節から6章7節までの箇所は、愆祭(けんさい)、すなわち、罪過のためのいけにえについての規定が記されている。
この愆祭(アーシャーム、英:trespass offering 罪過のいけにえ)は、罪祭(カッタース、英:sin offering 罪のためのいけにえ)と同じように、罪を犯した時に捧げなくてはならないいけにえであり、罪祭と愆祭のおしえは一つである(レビ記7:7)
罪祭に比べ特徴的な事は、愆祭には損害賠償の性質がある事、また、通常のいけにえにプラスして、さらに、五分の一を加える事である。

『「もし人が不正をなし、あやまって主の聖なる物について罪を犯したときは、その償いとして、あなたの値積りにしたがい、聖所のシケルで、銀数シケルに当る雄羊の全きものを、群れのうちから取り、それを主に携えてきて、愆祭としなければならない。そしてその聖なる物について犯した罪のために償いをし、またその五分の一をこれに加えて、祭司に渡さなければならない。こうして祭司がその愆祭の雄羊をもって、彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。』(レビ記5:15-16)
ここでは、主に対して、罪だと知らずに犯した犯した不実に対する償いが規定されており、その場合、傷のない雄羊を捧げ、また、「聖なる物について犯した罪のために償い」として、その五分の一を加え、主に賠償しなくてはならない。
そうするならば、その人は赦される。

6章1-7節では、罪だと知りながらに罪を犯した場合が記されている。
『もし人が罪を犯し、主に対して不正をなしたとき、すなわち預かり物、手にした質草、またはかすめた物について、その隣人を欺き、あるいはその隣人をしえたげ、あるいは落し物を拾い、それについて欺き、偽って誓うなど、すべて人がそれをなして罪となることの一つについて、罪を犯し、とがを得たならば、彼はそのかすめた物、しえたげて取った物、預かった物、拾った落し物、または偽り誓ったすべての物を返さなければならない。
すなわち残りなく償い、更にその五分の一をこれに加え、彼が愆祭をささげる日に、これをその元の持ち主に渡さなければならない。』(レビ記6:2-5)

ここでは「もし人が罪を犯し、主に対して不正をなしたとき、、、」という言葉で始まるが、その具体的な内訳を見ると、主に対しての不正というより、誰か人間に対して意図的に損害を与えているような内容である。
ここから分かることは、悪意をもって人の物をかすめたり、欺いたり、しいたげたりする事は、人に対してというより、主に対する不正だ、という事である。

アナニヤとサッピラの夫婦は、共謀して捧げものの代金を偽ったが、ペテロはそれを「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と言った。(使徒5:1-4)
意図的に主のものをかすめる事は、人や教会に損害を与えたようで、実は、主に損害を与える事なのだ。

人のものを意図的にかすめるなどして主に不正をなした場合、そのかすめたものの全部、プラス、その五分の一を、罪過のためのいけにえを捧げる日に返さなくてはならない。
このように、人のものをかすめたり盗んだりするのは、損をする事、さらに財産を減らす事である。

愆祭のいけにえは、いずれも、傷のない雄羊一頭である。これはイエス・キリストをあらわしており、キリストこそ、まことの罪過のいけにえである。
私達は主に対し、莫大な借金を抱えているようなものだったが、主は赦して下さった。(マタイ18:23-35)
だから私達も、赦された者として、キリストにあって互いに赦しあうべきである。

礼拝説教メッセージ音声:必ずしなくてはならない罪の贖い(レビ記5:1-13):右クリックで保存

レビ記5章の1節から13節までは、罪祭の補足規定が記されている。
主は、人が犯す罪については、富んでいる人であっても、貧しい人であっても、徹底的に取り扱うべき事を示している。
羊を買う余裕の無い者に対しては、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を捧げるように、それさえ買えない人には、十分の一エパ(2.3リットル)の小麦粉を罪のためのいけにえとして捧げるよう定めている。

1節から4節までの所には、具体的な罪の事例が記されており、例えば、正しく証言しなくてはならない場面において、敢えて「言わない」事によって罪を犯した場合(1節)、また、気づいていても気付いていなくても、死体や人の汚れに触れる事によって、罪を犯した場合(2-3節)、また、軽々しくくちびるを用いて誓った場合(4節)など。
そのように、主から「してはならぬ」と言われている事の一つでもを犯した場合、自分自身の口で、その罪を告白しなくてはならず、それから、やぎでも羊でも、雌一頭を罪祭として捧げる事が命じられている。

人が死体に触れるたびに、あるいは、軽々しく誓いを立てた度に、主の御前に一つのいのちが捧げられ死ななければならないとしたら、いったい人は、一生の間、どれほどの命を身代わりの犠牲にしなくてはならないのだろうか。
それは守れる人はいないのではないかと思えるくらい、罪ある人間には厳しすぎる。

ある人は、解釈する。
この律法を守れる人は、ひとりもいない、だから罪の犠牲は必要なく、その代わりに主は、人が精一杯がんばって、なるべき清く、正しく生きる事を願っておられるのだ、と。
そうではない。人は罪を犯したら、確かに、犠牲の血をもって償いをしなくてはならず、そこには旧約も新約も、ユダヤ人もギリシヤ人も、富めるも貧しきも、変わりはない。
では人は一体、何によって罪から救われるのか。

動物の血によっては、人の罪を取り除くことは出来ず、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのみである。(ローマ3:20、ヘブル10:1-11)

『しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。』(ローマ3:21-25)
『キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。・・・これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。』(ヘブル10:14,18-19)

今や、私達の罪のために捧げられた、唯一完全なる犠牲、それは、イエス・キリストである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
法則のカウンターパンチ(エステル8:9-17):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つまづかないよう守って下さる方(ユダの手紙22-25):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:罪祭 - 民の指導者や一般人の場合(レビ記4:22-35):右クリックで保存

今回の箇所は、人々の上に立つ人、あるいは、一般の人々が罪を犯した場合の罪祭(罪のためのいけにえ)の捧げ方である。
それは、祭司やイスラエルの人々全体が罪を犯した場合の捧げ方とは、若干異なる。

上に立つ人が罪を犯した場合、捧げられる動物は、傷のない雄やぎ(レビ記4:22-26)で、一般の人々の場合は、傷のない雌やぎ、あるいは雌羊とされている。(レビ記4:27-35)
今回の場合も、祭司や民衆全体が罪を犯した場合と同様、罪の身代わりとしてほふられる動物の頭の上に手を置いて罪を転嫁する点では同じだが、今回の場合、祭司が血を指につけて塗るのは、聖所にある香壇にではなく、外庭の出入り口の所にある、全焼のいけにえを焼く祭壇に、である。
祭司や民全体が罪を犯した場合は、聖所の中の香壇に血潮を塗るが、それは、最も聖なる至聖所の手前に置かれている。それ程、祭司や民全体が罪を犯した場合の深刻度は高く、主の御近くで罪を贖う必要があるが、一般人の罪のためのいけにえは、祭司の場合に比べて、より一般的、より日常に近いものとなっている。

全焼のいけにえを焼く祭壇は、主の大庭に入ると真っ先に目にするものである。
この、幕屋における祭壇の位置は、私達が主の御前に出る時には、主への捧げものを真っ先にすべきであり、罪の赦しを真っ先に得るべき事を、示している。
私達も、主に捧げたり、罪の赦しを祈る事は、日常的に、そして真っ先にすべきである。

罪のためのいけにえを捧げなくてはならなくなるきっかけは、「主がするなと命じたすべてのうち一つでもあやまって行ない、罪に定められた場合、または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら」であり、民の指導者の場合も、一般人の場合も、全く同じ記述がなされている。(レビ記4:22-23、27-28)
自分たちが罪を犯した、という自覚が、たとい無くても、御言葉で定められた事に違反するのであれば、それは主の御前に罪であり、それが明らかになったのであれば、それを正しく対処しなくてはならない。
その時は、指導者でも、一般人でも、それぞれに見合った「犠牲」を捧げなくてはならず、そして、罪の代価を支払うには、必ず、血が流されなくてはならない。

自分が育ててきた、傷のない動物を捧げる事、それは、心に痛みを伴うものだが、罪を贖うには、心の痛みが伴わなければならない。
イエス・キリストこそ、全ての人のために捧げられた、まことの罪祭のいけにえであるが、もし私達が、神の尊い御子キリストが苦しまれ、痛まれ、叫ばれ、神と人とに捨てられた事について、何の心の痛みも覚えないとしたら、それは問題である。

私達に罪が示されたなら、真っ先にそれを悔い改め、イエスの血潮で清めていただき、いち早く「罪あり」の状態から脱却し、サタンから訴えられる口実を、そして、神と隔てがある状態からいち早く脱出する皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:罪が明らかとされたなら(レビ記4:13-21):右クリックで保存

今回の箇所は、イスラエルの全会衆が罪を犯した場合の罪祭(罪のためのいけにえ)の捧げ方で、前回の祭司が罪を犯した場合でのやり方と、ほぼ一緒である。
『もしイスラエルの全会衆があやまちを犯し、そのことが会衆の目に隠れていても、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをなして、とがを得たならば、その犯した罪が現れた時、会衆は雄の子牛を罪祭としてささげなければならない。』(レビ記4:13-14)

会衆が罪を犯した場合、その代表者である長老が主の御前に出て、犠牲の子牛の頭に手を置き、罪をその子牛に転嫁して、その子牛は主の前でほふられる。
祭司は、その血潮を携えて聖所に入り、指をその血に浸して、至聖所と聖所を仕切る幕の前で、主の前に七たび注がける。
また、その血を取って、聖所にある香壇の角にそれを塗り、血の残りは、ことごとく会見の幕屋の入口にある、全焼のいけにえを捧げる祭壇の土台に注がれる。(レビ記4:15-18)

捧げられる牛の脂肪の部分は、和解のいけにえのように、祭壇の上で焼かなければならず、このように、祭司が彼らのためにあがないをするならば、彼らの罪は、赦される。そして、その残りの肉は、宿営の外の灰捨場で焼き捨てられる。(レビ記4:19-21)
この残りの部分は、神に捧げたり、食べたりしてはならない。なぜなら、この牛は罪を負ったからである。

外に出されて捨てられる罪祭のいけにえは、イエス・キリストを意味している。
キリストも、都の外に出され、そこで十字架につけられ、神と人とから捨て去られた。
『わたしたちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは、その祭壇の食物をたべる権利はない。なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。』(ヘブル13:10-13)

全会衆の犯した罪が人々の目に隠れていて、自分たちが罪を犯したという事に気付いていなくても、御言葉で定められた事に違反するのであれば、それは罪であり、それが明らかになったのであれば、罪祭のいけにえを捧げる事が、定められている。
罪の意識が無いのに、それは罪だ、悔い改めよ、と言われても、良心が麻痺していて実感が沸かず、悔い改める気がさらさら無い人もいるが、自分が罪を犯したかどうかという判定は、御言葉の光によって罪が照らしだされてのみ知ることが出来、そして、自分が犯した罪を悔やみ、恥ずかしく思う気持ちなどは、聖霊の働きによって示される。

私達の内にある罪が明らかとされたなら、私達は、真正面からその罪に向き合って、対処しなくてはならない。
罪責感、それは、時間と共に薄れるものではなく、むしろ、対処しなければ、しない分だけ増し加わって行くものである。
なぜなら、罪がある状態では、神との隔てがそのまま残る状態であり、サタンに訴えられる口実をそのまま持ち続けるからである。

ある人が、イエス様を信じる前までは罪の認識が無かったのに、イエス様を信じた時、犯して来た罪の数々を示され、昔犯した罪も思い出すようになった事を、証していた。
その人は、戦後の食糧難の時、人の家で煮立っている食事を鍋ごと盗み、自分一人で食べた事を思い出し、主の御前に出る度に、その事がいつも心に残りとなり、ついには、いても立ってもいられなくなって、何十年も前の記憶を辿って東京のその家の場所へ行ったそうである。
そして、その家の門を叩き、出てきたその人に謝って、赦してもらい、とてもすっきりして帰って来たそうである。

彼のように、謝るべき相手が生きていれば、謝ったり償ったりする事は出来るが、しかし、もはやどうしようもないような場合もある。
そのような場合こそ、主の御前に出て、身代わりの犠牲となって下さった、イエス・キリストの血潮によって、扱うべきである。
「すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)

礼拝説教メッセージ音声:罪祭 - 罪のためのいけにえ(レビ記4:1-17):右クリックで保存

レビ記4章は、罪祭、すなわち、罪のためのいけにえについての規定が記されている。
1-3章のそれぞれのいけにえは、自分から進んで捧げる任意の捧げ物であったが、罪祭は、罪を犯した人が捧げなければならない義務的なものである。

この章は、3-12節では、油そそがれた祭司が罪を犯した場合について、13節以降は、イスラエルの全会衆が罪を犯した場合について、22節以降は、上に立つ者が罪を犯した場合について、27節以降は、一般人が罪を犯した場合について、それぞれ罪祭の捧げ方が記されている。
それぞれ、いけにえの動物に若干の違いはあるが、いずれも、人の罪を身代わりとなって引き受け、殺されるいけにえであり、これは、完全な罪祭のいけにえであるイエス・キリストを予表している。
『神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。』(2コリント5:21)

この、罪祭による動物のいけにえは、人の罪を完全に清め去ることは出来ない。もし出来たのであれば、一度清められたなら再び捧げる必要はないが、実際はそうではなく、むしろ、捧げるごとに罪が思い出されるものである。「なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。」(ヘブル10:1-4)

『それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、/「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。その時、わたしは言った、/『神よ、わたしにつき、/巻物の書物に書いてあるとおり、/見よ、御旨を行うためにまいりました』」。』(ヘブル10:5-7)
ここで記されているのは、詩篇40篇からの引用で、この箇所では「わたしのために、からだを備えて下さった」とあるが、その引用元である詩篇40:6では「からだ」ではなく「耳」となっている。

耳で聞く事は、からだと同等に大切である。
私達は肉体を持った人間である以上、罪を犯す事は免れない。そこで、私達が罪赦されるのは、いけにえによるのではなく、罪のからだがキリストにあって清められ、新しくされる事によってであり、そして、からだが贖われるには、イエスキリストを信じる信仰によって、そして、信仰は耳を用いて聞く事から始まる。

聞く事、そして、従う事は、どんないけにえよりも大切である。
『「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』(1サムエル15:22-23)
それ程、耳は重要であり、耳で御言葉を聞き、従う事こそ、主が喜ばれるいけにえなのだ。

『ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。』(ヘブル10:8-10)

祭司は、日ごとに同じようないけにえをささげるが、それらは、決して罪を除き去ることはできない。しかし、キリストは多くの罪のために、一つの、永遠のいけにえをささげた後、神の右に座された。彼は、自らの体を捧げられた事によって、私達を、清められた者として、永遠に全うされたのである。(ヘブル10:11-14)

『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19-21)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
迫害者に囲まれつつ失わない大胆さ(使徒4章):右クリックで保存

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