メッセージ - 201308のエントリ
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主に手放す幸い(創世記26:17-22):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ただ罪の告白だけの祈り(エズラ記9:10-15):右クリックで保存
【概要】
エズラ記9章10節から15節におけるエズラの悔い改めと告白の祈りを通じて、神の命令を破ったイスラエルの民の罪を告白し、神の憐れみを求める姿勢を学ぶ。
【聖書箇所】
エズラ記9章10節から15節
【悔い改めの促しの言葉】
エズラの祈りは、神の命令を破ったことを深く悔い改め、神の前に自らの罪を告白する姿勢を示しています。私たちも自分の罪を認識し、神に告白することが求められています。
【***詳細***】
エズラ記9章10節から15節は、エズラがイスラエルの民の罪を神に告白する祈りの場面です。エズラは、イスラエルの民が神の命令を破り、異邦人との結婚を通じて神の忌み嫌う行いを行ったことを告白します。彼は、神が預言者たちを通じて警告していたにもかかわらず、民がその命令を無視したことを認めます。
エズラは、神がイスラエルの民に与えた地が異邦人の忌み嫌うべき行いによって汚されていることを指摘し、異邦人との結婚を禁じる神の命令を再確認します。「だから今、あなた方の娘を彼らの息子に訪がせてはならない。また、彼らの娘をあなた方の息子にめとってはならない。」(エズラ記9:12)
エズラは、神がイスラエルの民に対して本来の刑罰よりも軽く罰してくださったことに感謝しつつ、再び神の命令を破ることの危険性を訴えます。「私たちは再びあなたの命令を破って、忌み嫌うべき行いをするこれらの民と互いに縁を結んでよいのでしょうか。」(エズラ記9:14)
エズラの祈りは、神の前に立つことができない自分たちの罪深さを認識し、神の憐れみに頼る姿勢を示しています。「イスラエルの神、主、あなたは正しい方です。誠に今日あるように、私たちは逃れた者として残されています。」(エズラ記9:15)
この祈りは、神の前に自らの罪を告白し、神の憐れみを求めることの重要性を教えています。エズラは、神の命令を破ったことを深く悔い改め、神の前に自らの罪を告白する姿勢を示しています。
【結論】
エズラの祈りは、神の命令を破ったことを深く悔い改め、神の前に自らの罪を告白する姿勢を示しています。私たちも自分の罪を認識し、神に告白することが求められています。神は真実で正しい方であり、私たちが罪を告白するならば、許してくださる方です。エズラの祈りを通じて、神の憐れみと許しを求める姿勢を学びましょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
第六のラッパの災い - 二億の騎兵(黙示録9:12-21):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:先だって進む主の契約の箱(民数記10:29-36):右クリックで保存
モーセは義理の兄弟であるホバブに、一緒に行くよう勧めた。
彼は、モーセが40歳から80歳の時までの長きに渡って、ミデヤンの荒野で親しくしていた身内である。
「わたしたちは、かつて主がおまえたちに与えると約束された所に向かって進んでいます。あなたも一緒においでください。あなたが幸福になられるようにいたしましょう。主がイスラエルに幸福を約束されたのですから。」(民数記10:29)
モーセの言葉は、自分の身内への立派な伝道をしているように見える。
「主がイスラエルに幸福を約束されたのだから。」だから、私達と一緒に来れば、あなたも必ず幸せになれる、と。
しかしホバブは、自分はやはり国の親族の元に帰ると答えた。
彼はきっと不安があったのだろう。長らく住み慣れた、勝手知ったる土地を離れ、モーセと共に、全く新しい人生に飛び込む事に対して。
そして、神様の祝福の「約束」はあっても、現実的には、主の御助けが一時でも途絶えてしまったら、すぐに死んでしまうであろう荒野の状況に対して。
モーセはそんな彼に、今までの彼らしからぬ発言をする。
『モーセはまた言った、「どうかわたしたちを見捨てないでください。あなたは、わたしたちが荒野のどこに宿営すべきかを御存じですから、わたしたちの目となってください。もしあなたが一緒においでくださるなら、主がわたしたちに賜わる幸福をあなたにも及ぼしましょう」。』(民数記10:31-32)
主が、視覚でも聴覚でも、具体的に分かる導きを与えて下さり、それに従って実際、イスラエル二百万の人々が動き始めた所なのに、モーセはなんと人間であるホバブに「見捨てないでください」「わたしたちの目となってください」と願っている。
これは一体どうした事だろう。
モーセはもしかしたら、実際に動き出した大きな事に不安になって、長い間頼りにしてきた義兄弟に、頼りたくなったのかもしれない。
あるいはそうではなく、ただ単に親しい義兄弟を自分達の所に繋ぎとめ、彼も祝福にあずからせようとしたいがために、あえて、そのように言っただけなのかもしれない。
事実、モーセのこの時の説得によって、ホバブはイスラエルの民と共に、荒野を行ったようであり、その事は、後の時代にホバブの子孫たちがユダ族の土地に一緒に住んでいる事からわかる。(士師記4:11、1:16)
モーセの言葉の真意は分からない。
しかし、その後に主が為して下さった以下の事は、モーセとイスラエルの民全体の不安を、大いに払拭させ、勇気づけさせたに違いない。
『主の契約の箱は、その三日の行程の間、彼らに先立って行き、彼らのために休む所を尋ねもとめた。』(民数記10:33)
なんと、主の契約の箱が先立って進んで行き、彼らのために、休む所を探し求めてくださったのである。
前回の箇所を見ると、契約の箱の位置はケハテ族の所で、隊列のもっとも真ん中で守られていたはずだった。
ところが、それは先頭に立って進み行き、イスラエル全体を導いたのだ。
『契約の箱の進むときモーセは言った、/「主よ、立ちあがってください。あなたの敵は打ち散らされ、/あなたを憎む者どもは、/あなたの前から逃げ去りますように」。またそのとどまるとき、彼は言った、/「主よ、帰ってきてください、/イスラエルのちよろずの人に」。』(民数記10:35-36)
この短いシンプルな祈りの中から、主を全面的に頼りとするモーセの信仰がにじみ出ている。
主の契約の箱は、かつてエジプトの軍団に対しても、紅海に対しても、そして荒野の至る所においても、将来のヨルダン渡河においても、エリコ攻略の際でも、主は先んじて進み、イスラエルの歩むべき道を拓いて下さった。
主の契約が、主の約束が、主の御言葉が、先んじて進む。これ以上の安心はあるだろうか。
私達もモーセのように、行くにも帰るにも、主の守りと導きを祈る時、人生という荒野の旅を、安心して進み行く事が出来るのだ。
礼拝説教メッセージ音声:荒野を進み行く二百万の大行進(民数記10:11-28):右クリックで保存
今までの所では、主の雲の柱という目に見えるしるしと、耳に聞こえるラッパの音によって導かれる事を「学科」として学んだが、今回ついに、その今まで学んだ事を「実践」するべき時が来た。
『第二年の二月二十日に、雲があかしの幕屋を離れてのぼったので、イスラエルの人々は、シナイの荒野を出て、その旅路に進んだが、パランの荒野に至って、雲はとどまった。こうして彼らは、主がモーセによって、命じられたところにしたがって、道に進むことを始めた。』(民数記10:11-13)
主から学んだ事の最初の実践、それは、二百万にも及ぶイスラエルの民が、荒野を進み行く”大行進”である。
イスラエルの宿営全体は、上空から見たら、巨大な十字架の形をしていた。(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1551&cid=35 )
その陣形が定位置から進み行くべき時、ラッパの合図がなされ、民数記2章で主が命じられていたように、まず、東側に宿営する三部族が先頭に立って進んだ。
『先頭には、ユダの子たちの宿営の旗が、その部隊を従えて進んだ。ユダの部隊の長はアミナダブの子ナション、イッサカルの子たちの部族の部隊の長はツアルの子ネタニエル、ゼブルンの子たちの部族の部隊の長はヘロンの子エリアブであった。』(民数記10:14-16)
続いて、全宿営の真ん中に建っている神の幕屋が、レビ人たちによって解体され、幕屋周辺に天幕を張っていたゲルション、メラリの二部族が、その部材を牛車に載せて運搬しつつ、この行進に加わる。(民数記10:17)
それに続いて、ラッパの合図と共に、幕屋の南側に天幕を張っていた三部族が出立する。
『次にルベンの宿営の旗が、その部隊を従えて進んだ。ルベンの部隊の長はシデウルの子エリヅル、シメオンの子たちの部族の部隊の長はツリシャダイの子シルミエル、ガドの子たちの部族の部隊の長はデウエルの子エリアサフであった。』(民数記10:18-20)
そして、この大隊列の一番真ん中に位置するものは、やはり、神の幕屋の中の、聖なるなものである。
ルベンやシメオン、ガド族の隊列に続き、レビのコハテ族が、聖所の器物を担ぎつつ、その行進に加わる。(民数記10:21)
彼らは牛車を用いず、契約の箱や香壇、パンの机などについている担ぎ棒で担いで、荒野を進み行く。
それに続いて、ラッパの合図と共に、幕屋の西側に天幕を張っていた三部族が出立する。
『次にエフライムの子たちの宿営の旗が、その部隊を従えて進んだ。エフライムの部隊の長はアミホデの子エリシャマ、マナセの子たちの部族の部隊の長はパダヅルの子ガマリエル、ベニヤミンの子たちの部族の部隊の長はギデオニの子アビダンであった。』(民数記10:22-24)
そして最後に、ラッパの合図と共に、幕屋の北側に天幕を張っていた三部族が出立する。
『次にダンの子たちの宿営の旗が、その部隊を従えて進んだ。この部隊はすべての宿営のしんがりであった。ダンの部隊の長はアミシャダイの子アヒエゼル、アセルの子たちの部族の部隊の長はオクランの子パギエル、ナフタリの子たちの部族の部隊の長はエナンの子アヒラであった。イスラエルの人々が、その道に進む時は、このように、その部隊に従って進んだ。』(民数記10:25-28)
荒野の行進は、どこかが少し遅れても、速すぎても、大いに乱れてしまう。これは神の民全体の、連携プレーであり、チームワークである。
現代を生きる私達も、教会での礼拝や聖徒の交わり、伝道活動やミニストリーは、主にある兄弟姉妹との連携プレーであり、それぞれが御言葉から主のサインを学び、キリストという旗の元に連携し、自分の好き勝手は捨て去って、秩序正しく、それぞれに託された神の国の活動を為して行くべきである。
このように、二百万にものぼる大部隊が、荒野において、秩序正しく進んで行った。
それはいかに壮麗壮大な光景だっただろうか。
主の指示に従い、それを忠実に守り行う人々は、主の守りと、導きと、必要の満たしを、自分のものとし、そして、その様を見た人々は驚嘆し、まことに神は生きておられ、実際に働かれ、御言葉を守り行う人には、豊かな恵みを施し栄誉を与えて下さる事を、世は知るのだ。
礼拝説教メッセージ音声:神からのサイン - 銀のラッパの音(民数記10:1-10):右クリックで保存
『主はモーセに言われた、「銀のラッパを二本つくりなさい。すなわち、打物造りとし、それで会衆を呼び集め、また宿営を進ませなさい。』(民数記10:1-2)
前回は主ご自身が送られるサインを学んだが、それに続き、主は、イスラエルの民が規律正しく荒野で行動できるよう、銀のラッパを用いた民への指示の仕方を教えられる。
このラッパは、銀製の打ち物で、角笛とは違った特徴的な音が響く。その吹き鳴らし方によって、イスラエルの民への合図を送り分けるよう、命じられた。
『この二つを吹くときは、全会衆が会見の幕屋の入口に、あなたの所に集まってこなければならない。もしその一つだけを吹くときは、イスラエルの氏族の長であるつかさたちが、あなたの所に集まってこなければならない。』(民数記10:3-4)
まず、二本のラッパを同時に長く吹く場合は、イスラエルの民は全員集まれ、という合図であり、吹き鳴らされるのが一本だけの場合は、民の中の代表だけが集まるようにとの合図である。
『またあなたがたが警報を吹き鳴らす時は、東の方の宿営が、道に進まなければならない。二度目の警報を吹き鳴らす時は、南の方の宿営が、道に進まなければならない。すべて道に進む時は、警報を吹き鳴らさなければならない。また会衆を集める時にも、ラッパを吹き鳴らすが、警報は吹き鳴らしてはならない。』(民数記10:5-7)
口語訳で「警報」と訳されている言葉「テルーアー」は、新改訳では「短く吹き鳴らす」と訳されているが、ユダヤ教のラビの解釈では「短い音を連続して吹く」のではないかと言われている。
そのように吹き鳴らす場合は、陣営の一隊に対して「進め」という合図である。
また、敵と戦う際も、この「警報」という形で吹き鳴らす。
『あなたがたの国で、あなたがたをしえたげるあだとの戦いに出る時は、ラッパをもって、警報を吹き鳴らさなければならない。そうするならば、あなたがたは、あなたがたの神、主に覚えられて、あなたがたの敵から救われるであろう。』(民数記10:9)
主が示された通りラッパを吹き鳴らすなら、「あなたがたは、あなたがたの神、主に覚えられて、あなたがたの敵から救われる」という約束がある。
つまりこのラッパの音は、敵と戦いを交える合図であり、そして、神の救いを宣言する音でもある。
また、このラッパは、祭りや礼拝の合図でもある。
『あなたがたの喜びの日、あなたがたの祝いの時、および月々の第一日には、あなたがたの燔祭と酬恩祭の犠牲をささげるに当って、ラッパを吹き鳴らさなければならない。そうするならば、あなたがたの神は、それによって、あなたがたを覚えられるであろう。わたしはあなたがたの神、主である」。』(民数記10:10)
これは、聖徒が主とまみえる時の喜びの音、主を祝う事のうれしさを湧き立たせる音であり、「そうするならば、あなたがたの神は、それによって、あなたがたを覚えられる」という約束をも伴った、主の祝福のサインである。
この特別なラッパは、祭司の家の者のみ吹くことが出来、それ以外の者が身勝手に吹き鳴らしてはならない。
『アロンの子である祭司たちが、ラッパを吹かなければならない。これはあなたがたが、代々ながく守るべき定めとしなければならない。』(民数記10:8)
代々ながく守るべき定め、と記されているからには、このラッパに関する規定は現代も有効だという事であり、現代、私達キリスト者も、主からのラッパのサインを聞く時が来る。
以上のように、ラッパの音は主の民へのサインであり、集会の招集や出発、戦い、祭りの合図であった。そしてそれは守りと祝福のサインである。
主の民である私達は、主からのサインを正しく聞き分けなくてはならない。また、聞いたなら、それに従わなくてはならない。
聞き分けるためには、日々、御言葉によく親しむべきである。
イスラエルの民は、主からの合図の意味をしっかり学んだように、私達も御言葉に親しむ内に、主からのサインの内容を聞き分ける耳が鍛えられる。
主からのサインをしっかり聞き、その内容を見極め、その意味を悟ったなら、規律をもって正しく行動しなくてはならない。
『そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。』(マタイ24:30-31)
主が来られる大いなる日、すなわち、神の国の民があらゆる所から集められる日であり、この古き地上から出発すべき時、主の永遠の祭りが始まるその時、大いなるラッパの音と共にみ使いたちが遣わされ、神の民が地上のあらゆる所から集められる。
その時はいつか分からない。
それだからこそ、日々、霊的にしっかり目を覚まし、かの日には天に上げられる側の者されるよう、日々たゆまず信仰の内に歩む皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:百パーセントの主の守りと導き(民数記9:15-23):右クリックで保存
『幕屋を建てた日に、雲は幕屋をおおった。それはすなわち、あかしの幕屋であって、夕には、幕屋の上に、雲は火のように見えて、朝にまで及んだ。常にそうであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。』(民数記9:15-16)
荒野で幕屋を建てたその日以来、イスラエルの民は、この不思議な雲によって、岩砂漠の地を進み行く行程が守られ、導かれてきた。
『主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。 』(詩篇121:5-6)
とあるように、主は六十万を超えるイスラエルの民を、その照りつける日差しから、四十年もの間守り続けてきたばかりでなく、朝ごとにマナによって養い、岩からほとばしり出る水によって喉を潤した。
彼らは百パーセント、主の守りと恵みによって守られ続けて来たのであり、それが無かったら、すぐにでも死に絶えていただろう。
イスラエルの民は、今日はマナが降ったけれど、明日から振らなかったらどうしよう、今日は水があるけれど、明日からなくなってしまったらどうしよう、今日は雲によって守られ導かれているけれど、明日から雲が無くなってしまったらどうしよう、と、心配がよぎったかもしれない。
しかし主は毎日、一日もかかさず、律儀にそれらを与えて下さった。
彼らが滅ぼされても仕方ないような事を何度も起こしたにもかかわらず、それでも主は真実を貫かれ、毎日の恵みを忠実また誠実に与え続けてくださったのだ。
主は毎日、正しい人にも悪い人にも太陽を昇らせ、恵みの雨を与えて下さるお方だ。
『雲が幕屋を離れてのぼる時は、イスラエルの人々は、ただちに道に進んだ。また雲がとどまる所に、イスラエルの人々は宿営した。すなわち、イスラエルの人々は、主の命によって道に進み、主の命によって宿営し、幕屋の上に雲がとどまっている間は、宿営していた。』(民数記9:17-18)
イスラエルの民は、幕屋の上に雲が留まる時は進まず宿営し、雲がのぼったなら、幕屋の杭を抜いて出発した。
雲が留まるのが、たとえ二日であっても、一か月であっても、あるいはそれ以上であっても、主の臨在の雲が幕屋にとどまっているなら、イスラエルの人々は宿営し、それがのぼると、出発した。
私達の歩みも、主の臨在を第一に据えて歩むべきである。
主の臨在が留まったなら、たといそこが自分の思いとしては留まりたくなくても留まり、主の臨在が去ったなら、そこから出て行くべきである。
そうでないと、どんどん干からび、渇き、人生の歩みをますます見失って行ってしまう。
荒野の民が行く道先も、進むタイミングも、留まるタイミングも、全て百パーセント、主の導きによった。
この事は、自分で道を切り開き、自分の望む所を行きたがるような人には、つらいかもしれない。
しかし、主の導きを無視し、自分の行きたい道を行く人に待っているのは、百パーセントの滅びである。
一体人間の誰が、岩砂漠の中を四十年もの間、六十万以上の人を養い、導き、守る事が出来るだろうか。
私達キリスト者の人生の歩みも、イスラエルの荒野の旅と同じである。
誰も自分の力で、道を正しく切り開いたり、家族を養ったり、正しく導いたりする事は、誰にも出来ない。それは主の恵みと導きを要するのだ。
『すなわち、彼らは主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって道に進み、モーセによって、主が命じられたとおりに、主の言いつけを守った。』(民数記9:23)
彼らは、このおかげで荒野の行程を無事に終える事が出来た。
私達も、主の導きによってそこに留まり、主の導きに従って進み、そうして正しい道を歩む事が出来、家族を正しく養い導く事が出来るのだ。
礼拝説教メッセージ音声:礼拝をやむを得ず守れなかった人のために(民数記9:1-14):右クリックで保存
エジプト脱出の前夜、イスラエルの民は小羊の血を家のかもいと門柱に塗り、その内側で、安全に過越の小羊を食べていたが、そうでないエジプトの全ての家々では、初子が死ぬという災いが降され、それが決定打となって、イスラエルの民はエジプトを脱出する事となった。
そのちょうど一年目、主はこの過越の祭りを祝うよう命じられた。
『エジプトの国を出た次の年の正月、主はシナイの荒野でモーセに言われた、「イスラエルの人々に、過越の祭を定めの時に行わせなさい。この月の十四日の夕暮、定めの時に、それを行わなければならない。あなたがたは、そのすべての定めと、そのすべてのおきてにしたがって、それを行わなければならない」。』(民数記9:1-3)
過越の祭りは、イスラエル民族がエジプトから救い出され、神から特別な扱いを受けている者達である事を覚える、重要な祭りである。
エジプトを出てちょうど一年目の、イスラエルが自由になってから初めての、記念すべきこの過越祭を、たまたまその時、死体によって身を汚していて、皆と共に祝うことが出来なかった人達がいた。
『ところが人の死体に触れて身を汚したために、その日に過越の祭を行うことのできない人々があって、その日モーセとアロンの前にきて、その人々は彼に言った、「わたしたちは人の死体に触れて身を汚しましたが、なぜその定めの時に、イスラエルの人々と共に、主に供え物をささげることができないのですか」。』(民数記9:6-7)
彼らは記念すべきこの祭りを、皆と共に祝うことが出来なかったので、それが心惜しくてモーセに訴え出たのだ。
礼拝出来なかった事に心惜しさを覚える事は、霊的に健全な証拠である。
イスラエルの歴史を見るに、そのように健全だった期間はあまりなかったが、私達は、礼拝が出来なかった時に心惜しさを感じる霊的健全さを持っているだろうか。
『モーセは彼らに言った、「しばらく待て。主があなたがたについて、どう仰せになるかを聞こう」。』(民数記9:8)
モーセは、今までに無かったこのケースをどのように対処すべきか、自分で判断する事なく、その人達を待たせ、主に伺いに行った。
この態度は、私達も見習うべきである。
霊的な事で、何か分からない事や問題が起きた時、思いつくまま軽率に答えたり、勝手な判断で対処したりするのではなく、御言葉を開くなり祈るなり、主からの確信を得た上で対処するのが、正しいやり方である。
『イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうち、また、あなたがたの子孫のうち、死体に触れて身を汚した人も、遠い旅路にある人も、なお、過越の祭を主に対して行うことができるであろう。すなわち、二月の十四日の夕暮、それを行い、種入れぬパンと苦菜を添えて、それを食べなければならない。これを少しでも朝まで残しておいてはならない。またその骨は一本でも折ってはならない。過越の祭のすべての定めにしたがってこれを行わなければならない。』(民数記9:10-12)
主のこたえは、死体で身を汚している人だけでなく、遠い旅路にあった人など、諸々の事情でこの祭りを祝えなかった人達のために、ちょうど翌月の十四日に祝うように、という事だった。
それも、一切の手抜きをする事なく、全ての手順をしっかり行うように、という事である。
主は、礼拝を捧げたくても捧げられずに苦しんでいる人のためには、便宜を計り、その邪魔を全て取り除いて下さるお方である。
『わたしは/祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ/お前の重い恥となっていた。見よ、そのときわたしは/お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い/追いやられていた者を集め/彼らが恥を受けていたすべての国で/彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。』(ゼパニヤ3:18-19)
『しかし、その身は清く、旅に出てもいないのに、過越の祭を行わないときは、その人は民のうちから断たれるであろう。このような人は、定めの時に主の供え物をささげないゆえ、その罪を負わなければならない。』(民数記9:13)
特に差し迫った理由も無いのに、本来礼拝すべき時に礼拝せず、自分の都合で主を祝う事を先延ばしにする人は、主を軽んじる人である。
礼拝すべき時、主に聞き従うべき時、御心を実行すべき時があり、その「時」を軽んじていたら、取り返しがつかなくなくなってしまった、といった事柄は、聖書の至る所にあり、そういう人は、外の暗闇に追い出され、そこで泣いて歯ぎしりするものである。
主は、民が過越祭を確実に行えるよう、二重の備えを用意されたほどに、この祭りを重要なものとして位置づけられた。
傷の無い小羊をほふり、その血のしるしを自分達の所につけ、その中で、自分達のために犠牲となった小羊の肉を噛み締め、救われた事の喜びを味わう。これは、来るべきキリストを、ありありと表現している。
現代、私達キリスト者は、キリストの裂かれた肉と流された血を覚えつつ、聖餐式を行っている。
私達はそのキリストの尊い贖いを覚え、キリストのからだと血をわきまえ、救われた事の喜びを噛み締めつつ、この「祭り」を祝うべきである。
栄光の家系の女達 – ラハブ2 約束の赤いしるし(ヨシュア記2:8-21)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
城塞都市エリコの、城壁の中に建て込まれた部屋に住みつつ、身売りをしていた遊女ラハブは、全能なる神と、その民イスラエルの噂を聞き、このような日々の終わりが近いと、悟っていた。エリコの王も、城壁も、そして、遊女という罪深い事を強いるカナン全体のシステムも、義なる神によって、もうすぐ滅ぼされる、と。
そんなある日、神の民の二人の男が、この地を探るために彼女の元を訪れた時、エリコの人々は彼らを捕えようとしたが、ラハブは彼らの側につき、彼らをかくまい、自分とその家族が救われるよう、交渉を始めた。
皆さんも、救われるために、神の国からのおとづれが来た時、救いのための交渉をすべきである。
彼女は「主(エホバ)が」この地をイスラエルに賜わった、と、確信をもって告白している。(ヨシュア2:9)
彼女の「エホバ」に関する知識は、わずかだったかもしれないが、救われるには、必要十分なものだった。
「あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです。」(ヨシュア記2:11)
主こそ神で、この御方以外に救いは無いという告白。それこそ、救われるに必要十分な条件である。
彼女の知識はわずかだったし、そして彼女は遊女である。悪い事を日常的に行っていたが、救われるために知識はあまり必要無いし、それまでの人生、善人だったか悪人だったかも、救いには全く関係無い。
救いの条件、それは、イエス・キリストが、あなたを救う主だと信じ、この御方に助けを求める事である。
私達は、何かと勘違いしやすい。「神の救い」を得るためには、聖書知識を蓄えて勉強しなければならない、とか、善人にならなくてはならないとか、あの事この事も我慢しなければならない、などと。
しかし救いは、イエス(ユダヤ名:イエシュア=ヨシュア=「神は救い」という意味)を、救い主とする事にある。
聖書は彼女を「遊女」と記しているが、しかしそれでも彼女は、王族の女となり、イエスの母の一人となった。
私達もイエス様を救い主とするなら、いかに罪深くあっても、救われ、王族に加えられるのである。
救われるには、神の側から示された条件を、実際に「行う」必要もある。二人の男はその条件を示した。
その内容は、実にシンプルで、誰にでも出来る簡単な事で、それを守るなら、滅びの日が来ても恐れる事は無い。それはすなわち、救いの赤い印を、自分の所に結びつける事。(ヨシュア記2:18)
この救いの条件は、ラハブだけでなく、現代日本を生きる私達にも、そして、人類全体にも全く同じである。
エジプトに裁きが降される日、イスラエルの民は自分たちの身代わりとしてほふられた小羊の血の赤い印を、自分の所に塗って滅びを免れたように、私達も、イエス様が私達の身代わりとなってほふられ、流された血潮の、その赤いしるしを、信仰をもって私達に塗るのである。
イエス様が十字架上で流された、赤い血潮、それだけが、私達の救いのしるしである。
ラハブが赤い印を信仰をもって結びつけたように、私達も聞いた御言葉を、信仰をもって結びつけるのだ。
神の国に入れず滅ぼされた者達は、ヨシュア(イエシュア)の軍団が、間近に迫っても、警告のラッパの合図が七度、吹き鳴らされても、頑なになって、築き上げて来た城壁に頼り、神とその民に逆らったからだ。
『その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。』(ヘブル4:2-3)
『ラハブは言った、「あなたがたの仰せのとおりにいたしましょう」。こうして彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は赤いひもを窓に結んだ。 』(ヨシュア記2:21)
赤い印を結ぶのは、裁きの日の前日でも、滅びのラッパが吹き鳴らされる直前でも別にいいのだが、彼女は、彼らから教えられてすぐに結んだ。
「あなたの仰せのとおりに」。これこそ、苦もなく救われる人に特徴的な、主に対してよく発する言葉である。
大いなる裁きの日、赤い印を結んだ状態で、かつ、その中にいる事。それが救いの条件であるが、御言葉に対して「でも」や「だって」が多い人は、信仰の歩みに苦労が多い。そういう人は、御言葉を身勝手に解釈して、ややこしい事をしたり、人々に「あれせよ、これせよ」と言っておきながら、かんじんのその日、見事に赤いしるしを結び忘れていたり、あるいは、しるしの外に飛び出して、滅びてしまったりするのである。
ラハブや、イエスの母マリヤのように、「あなたの仰せの通りに」というこの言葉を、いつもシンプルに主に言える皆さんでありますように!イエスのお名前によって祝福します!