メッセージ - 201308のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
エズラの執り成しと告白(エズラ記9:5-9):右クリックで保存

【概要】

エズラ記9章5節から15節を通して、エズラの悔い改めの祈りと、神の憐れみについて学びます。エズラはイスラエルの民の罪を自らの罪として告白し、神の憐れみによって立ち直ることを求めました。

【聖書箇所】

エズラ記9章5節から15節

【悔い改めの促しの言葉】

エズラはイスラエルの民の罪を自らの罪として告白し、神の憐れみによって立ち直ることを求めました。私たちも自分の罪を認め、神の憐れみに頼るべきです。

【***詳細***】

エズラ記9章5節から15節は、エズラがイスラエルの民の罪を悔い改める祈りを捧げる場面です。エズラは、イスラエルの民が異邦の女を妻に迎えるという罪を犯したことを知り、ショックを受けました。彼は夕方の捧げ物の時刻に、神の前にひざまずき、衣を引き裂いて祈りました。

エズラは「わたしの神よ、わたしは恥を受け、わたしの神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います」と告白しました。彼は自分自身が罪を犯していないにもかかわらず、民の罪を自分の罪として神に告白しました。これは取りなしの祈りの一例です。

エズラは、神がイスラエルの民に与えた大きな憐れみを思い起こし、神殿の再建やエルサレムの城壁の再建が神の恵みによるものであることを認識しました。しかし、民がその恵みを無視し、罪を犯したことに対して深い悲しみを感じました。

エズラの祈りは、私たちが罪を犯したときにどのように神に向かうべきかを示しています。罪を認め、神の憐れみに頼り、心を新たにしていただくことを求めることが重要です。

詩編51編も参照し、ダビデが罪を犯した後に神に向かって祈ったように、私たちも罪を告白し、神の憐れみを求めるべきです。「神よ、御恵みによって私に情けをかけ、あなたの豊かな憐れみによって私のその気の罪を拭い去ってください」と祈ることが大切です。

【結論】

エズラの祈りは、私たちが罪を犯したときにどのように神に向かうべきかを教えてくれます。罪を認め、神の憐れみに頼り、心を新たにしていただくことを求めることが重要です。私たちもエズラのように、取りなしの祈りを捧げ、神の憐れみによって立ち直ることを求めましょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
第五のラッパの災い - 底知れぬ穴から出て来たいなご(黙示録9:1-11):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:年齢制限の無い天の奉仕(民数記8:20-26):右クリックで保存

『レビびとは次のようにしなければならない。すなわち、二十五歳以上の者は務につき、会見の幕屋の働きをしなければならない。しかし、五十歳からは務の働きを退き、重ねて務をしてはならない。ただ、会見の幕屋でその兄弟たちの務の助けをすることができる。しかし、務をしてはならない。あなたがレビびとにその務をさせるには、このようにしなければならない。』(民数記8:24-26)

レビ記を学んで来た方は、この「二十五歳」という年齢に、「おや?」と思ったかもしれない。
そう、四章では、レビ人として登録され数えられるのは「三十歳から五十歳まで」と書かれてあった。それがここでは二十五歳とあるのは、どういう事だろう。

よく読んでみると、ここ八章では、「二十五歳以上は、幕屋の務めにつかなくてはならない」と記されているのに対し、四章では、「レビ人の奉仕者として登録し数えるべきは三十歳以上」とある。
すなわち、二十五〜二十九歳は、神の奉仕者として「働く」事は出来ても、働き人としての「登録」はされないのである。
その期間は、働き人の見習いとして十分に学ぶべき期間を過ごし、そうして五年後、ようやく働き人として正式に登録されるものなのかもしれない。

ダビデの時代は、レビ人として数えるべきは「二十歳以上」と定められた。
『ダビデは言った、「イスラエルの神、主はその民に平安を与え、ながくエルサレムに住まわれる。レビびとは重ねて幕屋およびその勤めの器物をかつぐことはない。
――ダビデの最後の言葉によって、レビびとは二十歳以上の者が数えられた――』(1歴代誌23:25-26)
ダビデの時代は、神を礼拝する場所はもはや幕屋ではなく、神殿であり、レビ人の奉仕内容も、幕屋の器物をかついで運んだり、組み立てたり、という仕事ではなく、聖歌隊や門衛となり、奉仕内容は時代によって変わっている。

そして現代、神殿はもはや、どこかの場所に建っている建物ではなく、「私達キリスト者」が神殿であり、私達キリスト者がレビ人のような奉仕者として立てられている。
『神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。』(2コリント6:16)
もはや、肉体的な年齢制限は無い。幼子さえもキリストを賛美する事が許されている。そして、肉体の年齢制限は無い代わりに、私達は霊性においての成熟が求められている。
『この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。 』(2ペテロ2:5)

この地上の体は日々衰える。
しかし、私達の希望は、この肉体にあるのではなく、決して古びる事の無い天にあり、天地を治めておられる永遠の主にあって私達は望みがあるのだ。
『だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。』(2コリント4:16-18)

レビ人として幕屋の奉仕をするには、二十五歳から五十歳まで、という年齢制限があり、人生の内の、わずか二十五年しか、幕屋で務めをする事が出来なかったように、この地上での肉体には、限度がある。
しかし、天の御国では、決して朽ちる事の無い全く新しい体が与えられ、神の幕屋に共に住まい、涙がすっかり拭い取られ、昼も夜も、喜びをもって永遠に神に仕えるのである。
『彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。
彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。』(黙示録7:14-17)

礼拝説教メッセージ音声:献身者のきよめの手続き(民数記8:5-19):右クリックで保存

今回の箇所では、レビ人を「神に捧げられた者」として任職するため、経なくてはならない手続きが、主から命じられている。
『そして、あなたはレビびとを会見の幕屋の前に連れてきて、イスラエルの人々の全会衆を集め、レビびとを主の前に進ませ、イスラエルの人々をして、手をレビびとの上に置かせなければならない。そしてアロンは、レビびとをイスラエルの人々のささげる揺祭として、主の前にささげなければならない。これは彼らに主の務をさせるためである。』(民数記8:9-11)

民はレビ人の上に手を置き、神と人との前で公に「奉献物」として主に捧げ、民を代表する「神の奉仕者」としての務めに任じている。
彼らは、今で言う所の「献身者」という言葉が、ぴったり当てはまるであろう。
このレビ人を任職するための手続きから、現代の「献身者」すなわち「神の働き人」が、いかに整えられ、清められ、いかに主の仕事に間に合う者とされるのかを、知る事ができる。

『あなたはこのようにして彼らを清めなければならない。すなわち、罪を清める水を彼らに注ぎかけ、彼らに全身をそらせ、衣服を洗わせて、身を清めさせ、そして彼らに若い雄牛一頭と、油を混ぜた麦粉の素祭とを取らせなさい。あなたはまた、ほかに若い雄牛を罪祭のために取らなければならない。』(民数記8:7-8)

彼らを清めるために、最初に為される事は、「水の洗い」による清めである。
つまり、献身者たる者の第一の必要条件は、御言葉という水の洗いによって、清められている事である。
『夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:25-27)

続いて彼らは、全身にかみそりが当てられ、全身の毛を剃られるが、それは、ツァラアトからきよめられる人と同じ手続きである。(レビ14:8)
献身者は、諸刃の剣よりも鋭い御言葉によって全身が当てられ、その身から生じた一切の古き生成物は、全部切り捨てられるのだ。

続いて彼らは、衣服を洗って、身を清めさせられる。
黙示録には、その衣を洗って白くし、昼も夜も神の御前で仕えている群衆が出てくるが、彼らは小羊の血で衣を洗って白くしている。
私達は、小羊キリストの血によって、自分の行いという「衣」を洗って白くするのである。

こうして彼らは、古いものは全て過ぎ去り、誰の目にも明らかなまでに、全てが新しくなった。
実に、イエス・キリストの十字架上での犠牲の血潮により、滅びから免れ、古いものが過ぎ去り、全てが新しくされる事を、暗示している。
このようにして彼らは、神に有用な者として整えられるのだ。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(2コリント5:17)
という御言葉の通りである。

『わたしはイスラエルの人々のうちからレビびとを取って、アロンとその子たちに与え、彼らに会見の幕屋で、イスラエルの人々に代って務をさせ、またイスラエルの人々のために罪のあがないをさせるであろう。これはイスラエルの人々が、聖所に近づいて、イスラエルの人々のうちに災の起ることのないようにするためである」。』(民数記8:19)
レビ人以外の人、すなわち、主に身を捧げておらず、主のものとされていない人が、聖なる所に近づくと、災いが起きる。なぜなら、神は排他的な「聖」なるお方であるからだ。
私達も、主にますます用いて頂くためには、自らを捧げ、清く聖別しなくてはならない。
『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1)

礼拝説教メッセージ音声:奉仕をする時はともし火をともせ(民数記8:1-4):右クリックで保存

『「アロンに言いなさい、『あなたがともし火をともす時は、七つのともし火で燭台の前方を照すようにしなさい』」。アロンはそのようにした。すなわち、主がモーセに命じられたように、燭台の前方を照すように、ともし火をともした。』(民数記8:2-3)
幕屋の聖所の中は、四重の幕で覆われていて、真っ暗である。
そのため、燭台の七つのともし火を照らさなくては、祭司は正しく務めができない。

同様に、私達・神の奉仕者も、全て、光が無くては正しく奉仕が出来ない。
その光とは、キリストであり、御言葉である。
そして教会は、暗闇の世を照らす燭台であり(黙示録1:20)、その燭台がいつも掲げているべき「光」が、キリストである。

『燭台の造りは次のとおりである。それは金の打ち物で、その台もその花も共に打物造りであった。モーセは主に示された型にしたがって、そのようにその燭台を造った。』(民数記8:4)
この、聖所を照らす燭台は、「打ち物」、すなわち、一つの金のかたまりを槌などで打って、燭台の形にしたものである。
キリストが神に打たれたように、私達も、時に神に打たれ、そうして神に有用な形をなしていく。
また、この燭台は「台」の部分も、「花」の部分もあって、全体が同じ一つの金で出来ているように、教会はキリストのからだで全体は一つであり、聖徒達一人一人は、各々違った役割が与えられている各器官である。

キリストの光なしの奉仕、御言葉の光なしの奉仕は、暗闇の中を手探りでうろついているようなもので、そういう人は、躓いたり、尊いものを壊してしまったり、いたずらに自らを傷つけるだけである。
パウロは、キリストの光に照らされる以前は、神に貢献していると信じて疑わずにいながらにして、実は神に反し、御子キリストを迫害している者だったが、キリストの光に照らされて以来、彼の奉仕は、正しく的を射るものへと変わった。

『わたしは、祭司長たちから権限と委任とを受けて、ダマスコに行ったのですが、王よ、その途中、真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました。わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである。」・・・
わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。』(使徒26:12-18)

キリストこそ、世を照らすまことの光であり、そしてキリストは、ロゴス(御言葉)なるお方である。
御言葉は光、私達の足元を照らすともしびである。このともし火をともしてこそ、私達はつまづく事なく正しく道を歩む事が出来るのだ。
時には、御言葉が良く分からない時もあるが、いつかそれが光を放つ時が来る。その時まで、その御言葉に目を留めているべきである。
『こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。』(2ペテロ1:19)
この御言葉を私達に分からせて下さるのは、聖霊によるのであって、人間の知恵や力によるのではない。(同20-21節)

そして、燭台の光をともし続けるためには、その燃料である油、すなわち、聖霊の油が必要である。
10人の花嫁の中、5人の愚かな乙女は、ともし火は持っていたものの、油を用意しておかなかったために、花婿を迎えるべき大事な時に灯しておく事が出来ず、花婿に迎えてもらえなくなってしまった。
いくら御言葉の光を持っていたとしても、御言葉を守る事が持続できない人は、聖霊の油の蓄えが無い人だ。

そういう人は、「油絞り」の祈り、すなわち、「ゲッセマネ」の祈りをするのである。
主はゲッセマネで、「自分の願う所ではなく、御父の御心のままに」と祈り、自分を降ろして御父の御心に委ねた。
私達も自分を降ろし、自分の道を御心に譲るなら、どんどん油が滴って、蓄えられて行くのだ。

御言葉朗読(民数記7:10-88):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:省かれる事の無い捧げ物の目録(民数記7:10-89):右クリックで保存

この民数記7章は、聖書の中で2番目に長い章であり、そしてその中には、イスラエル12部族が主のために捧げた捧げ物の細かな内容が記されている。
主は、イスラエル12部族が捧げものをする上で、一日に一部族ずつが捧げるように、命じられた。

『第一日に供え物をささげた者は、ユダの部族のアミナダブの子ナションであった。
その供え物は銀のさら一つ、その重さは百三十シケル、銀の鉢一つ、これは七十シケル、共に聖所のシケルによる。この二つには素祭に使う油を混ぜた麦粉を満たしていた。また十シケルの金の杯一つ。これには薫香を満たしていた。また燔祭に使う若い雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の小羊一頭。罪祭に使う雄やぎ一頭。酬恩祭の犠牲に使う雄牛二頭、雄羊五頭、雄やぎ五頭、一歳の雄の小羊五頭であって、これはアミナダブの子ナションの供え物であった。』(民数記7:12-17)

このように第一日はユダ部族の代表が捧げた、そして第二日、第三日と、一部族ずつそれぞれの部族の代表が捧げて行くのだが、おのおのの部族が捧げた内容は、全て同じで、しかも、その数も、重さも、器の中に満たしたものも、全て一緒である。
ユダ部族が一番多く、マナセ族はその半分以下だが、ユダ部族は多く捧げ、マナセ族は少ないという事も一切なく、全て一緒である。

この箇所は、あたかもコピーペーストした内容をひたすら繰り返し読んでいるように、内容に起伏が無く、長い箇所なので、朗読する側も、聞く側も、飽き飽きしくるかもしれない。
しかし、各部族が捧げた物がいかに同じであったとしても、「以下同文」などと省かれる事はなく、一つも漏らさず記された。
同じように、私達が主に捧げたものも、奉仕も、全て、天の書物に正確に記録され、一切省かれるものが無いのだ。

私達は、主イエスにあって祭司である。
一つ一つの恵みを数えて感謝し祈る事や、家庭や職場を執り成す日々の祈りは、時に、あまりに同じ文句を祈っているようで、飽き飽きして来る事もあるかもしれない。
しかし、私達はそういう事に、飽きてはならない。
主の働き人も、もし誰かから献金や献品をいただいた場合、それが、わずかな食事の一杯であったとしても、ないがしろにせず、主に感謝し、その人のために主に執り成して祈る事を、省くべきではない。

これらイスラエル各部族が捧げた品々は、尊い器で、尊い事に用いられた。
将来の不信仰な王の時代に、強国への貢物にされてしまったり、バビロンの捕囚先ではベルシャツァル王によって、これら神殿の尊い器が宴会のさかなにされたりもしたが、主は真実なお方であり、そのような悪い者への報いはきっちり果たされ、そしてさらに将来、エズラによって、これら器は、再びエルサレムの神殿へと返された。

私達は、主の器であり、また、聖徒を導く人は、主の器を運ぶ者である。
私達は自分自身が尊い事に用いられる器として、日々自分を整えるべきであり、そしてまた、主から託された尊い器を、主の御元に納められるその日まで、しっかり管理するべきである。

礼拝説教メッセージ音声:奉仕者の便宜を思った献品(民数記7:1-9):右クリックで保存

『モーセが幕屋を建て終り、これに油を注いで聖別し、またそのすべての器、およびその祭壇と、そのすべての器に油を注いで、これを聖別した日に、イスラエルのつかさたち、すなわち、その父祖の家の長たちは、ささげ物をした。彼らは各部族のつかさたちであって、その数えられた人々をつかさどる者どもであった。』(民数記7:1-2)
モーセが幕屋を建て終わって聖別した日は、出エジプト記40:17によると、第二年目の1月1日であるので、時間的に少し遡った時の事を記している。
この民数記7章は、その日、イスラエル12部族の代表達の捧げ物について詳細に記している章で、聖書全体の中では、2番目に長い章である。

今までは捧げ物というと、動物のいけにえ等、直接主に捧げるものが多かったが、彼らはこの時、主の働き人にとって、「これがあるととても便利なもの」を捧げた。
『彼らはその供え物を、主の前に携えてきたが、おおいのある車六両と雄牛十二頭であった。つかさふたりに車一両、ひとりに雄牛一頭である。彼らはこれを幕屋の前に引いてきた。 』(民数記7:3)
彼らが捧げたものは、幕屋のもろもろの道具を運搬するための、車だった。
モーセが幕屋を建て終わり、イスラエルの民は、主の働き人達にとって便利なものは何だろう、と考えて、それらを準備したのだろう。

直接的な礼拝も主に喜ばれるが、主の働き人のために便宜を考え、それを捧げる事も、立派な礼拝である。
パウロも、彼らのために便宜をはかってくれたピリピの人達を喜んで、それは主が喜んで受けて下さる供え物だ、と書いている。
『私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。』(ピリピ4:18-19)

これらの車は、ゲルション族に二両、メラリ族に四両渡され、ケハテ族には一両も渡されなかった。(民数記7:7-9)
なぜなら、ゲルション族は幕屋の幕、布製品など、比較的軽いものを運ぶ担当で、メラリ族は、板や土台など、重いものを運ぶ担当であったが、ケハテ族が運ぶものは聖所の中の尊いもの、直接担いで運ばなければならないからであり、それらを必要としなかった、いやむしろ、それらを用いてはならなかったからだ。
聖徒の献品には、ある奉仕者には非常に助かるものもあるが、別の奉仕者にはそれが全く必要ない、むしろ、それを用いてはならないタイプのものもあるのだ。

ダビデの時代、ケハテ族が担いで運ぶべき契約の箱を、車を用いて運ぶという、「してはならない事」をした事があった。
ダビデも民も、神の箱が自分達の都に来る事を、大いに喜び踊ったが、牛車の牛が車をひっくり返そうとし、その時、ウザが箱を支えた所、ウザは聖なる箱に触れたため、主に打たれて死んでしまった。
ダビデ達の主を喜ぶその志は、人の目には良いものだったかもしれない。ウザのした事も、なぜ悪いのか、と人は思う。
しかし、主の法則を外した形で「主の契約」や「主の御言葉」が運ばれるのは、良くないのだ。
もしこの事件が無かったら、民の興奮と盛り上がりの中、律法はなおざりにされたままになっていたであろう。
しかし、この出来事の故に、ダビデはおそれをもって律法を調べ、正しい方法で契約の箱を運ぶ事となり、ますます恐れをもって主に仕えるようになった。

私達も奉仕する時、正しく御言葉にそっているかどうかを、常に点検すべきである。

栄光の家系の女達 – ラハブ1 城壁の町で身売りする日々から(ヨシュア2:1−7)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

イエス・キリストの系図に登場する二人目の女性は、ラハブである。
タマルの時代から下る事およそ五百年、死海北岸付近の、岩砂漠に囲まれたエリコという城塞都市である。
彼女は、イスラエル人が結婚するなどとんでもないとされている、カナン人で、しかも、遊女であった。
カナン地方は不道徳な地域で、弱肉強食の世界で、戦争も多かったが、それでも、彼女がエリコという堅固な城塞都市に住めた、という点では、生きて行く上では若干、有利な立場を得ていたかもしれない。
しかし決して、裕福な家に生まれた訳ではなかった。「将来、遊女になりたい」などと希望する子供など、いないだろうし、自分の家族が遊女になって欲しいなどと思う者は、いないだろう。
それでも彼女が身売りをしなければならなかったのは、それでも、生きて行かなくてはならなかったからだ。
先祖代々、補強して来た城壁の、その壁の中に立て込まれた家に住み、来る日も来る日も、欲望に駆られた、好きでもない男達に身を売り、いくばくかの報酬を得ては、家族に持ち帰る、という日々を送っていた。
彼女が「神殿娼婦」だったとしても、彼女が仕えるカナンの神々は、過酷な要求をするだけで、そんな彼女の生活を良い方向に変えるわけでも、生き方が改善するわけも、全然無かった。彼女の信じる神々も、決して変わる様子も無い膨大な日々も、ただ、彼女から若さと将来と希望を、削ぎ取って行くだけだった。

そんな彼女は、ある噂を聞いていた。すなわち、力ある唯一の神と、その神に導かれている民族について。
その民族は神の民と呼ばれ、神から与えられた律法を有し、優れた道徳と規律を持っている。
その民はエジプトを徹底的に敗退させ、海を割って渡り、水も食物も無い荒野で四十年もの間、超自然的に養われ、川向こうの強力な王達を滅ぼし、そして今、このエリコをも滅ぼそうと、近くまで来ているという。
過酷な要求ばかりする神々に搾取され、ただ過酷なだけのこの現実の日々は、もうすぐ、その正しき神とその民の制裁によって、崩壊するかもしれない。それも良いかもしれない。ただ願う事なら、自分達もその神の憐れみにすがって、救われたい。でも、彼らとコンタクトを取ろうにも為す術はなく、どうにもならない。
しかし、彼女のその心は、全能なる神に届いていた。なぜなら主は、御目をもってあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に、御力をあらわしてくださるからだ。(2歴代誌16:9)

そんなある日、彼女の元に、二人の男性が来た。彼らは今までのどんな男とも違い、分別と秩序があった。
彼女は直感した。彼らこそ、あの神の民で、斥候としてこの地を探りに来たのだと。
エリコの王が彼らを捕らえる為、兵士達を遣わし、家の戸を叩いた時、彼女は究極の決断を迫られた。
すなわち、エリコの側につく者として彼らを差し出し、王からいくばくかの報酬を得て、もう暫く同じような日々を生きるか。それとも、神につく者として、彼らをかくまい、神の民に入るための交渉を仕掛けるか。
彼女は、神につく決断を下した。リスクを犯して彼らを屋上に連れて行って、穂の束の間に彼らを隠した。(ヨシュア2:1-7) そうして彼女は、栄光の家系に入るチケットを手にした。

城壁の町で身売りをする日々から救われて神の民に入りたいと願っていたラハブに、神は目を留め、使いを送られたように、コンクリート砂漠の壁の中で、身売りをしつつ虚しく日々を過ごしている私達全てに、主は目を留めておられる。そしてもし、主に救いを求めるのであれば、神の国からの使いが直接訪ねて来る。
その時、決断しなければならない。滅び去っていくべき、罪にまみれた生活を捨て去り、新しい、きよい生き方へと飛び込むか。それとも、今まで通り、城壁を頼りに身売りしつつ漫然と生きていくか。
不道徳に満ちたこの世界の終わりが近づいている、と、ぼんやり認知し、その滅びから救われたい、と思う人は多いが、救われるためには、イエスキリストを主とする決断をし、そして、実際の行動が必要である。
『信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、「不従順な(アペイセオー:服従しない、逆らう)」者どもと一緒に滅びることはなかった。』(ヘブル11:31)
彼女が救われ、栄光の家系に加えられたのは、信仰によってである。そして、彼女とその家族以外が滅びたのは、力強き神の噂を聞き、神の民が近くまで来ていたのに、それでも逆らい服従しなかったからである。
神様に助けを求め、救われたいと願い、主を呼び求める事、それが救いの第一歩である。イエス・キリストこそ唯一の救い主とし、この御方に自分の支配権を全て委ねるなら、その人は必ず救われるのである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
祝福とは(民数記6:22-27):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
エズラの血の気を失わせた事(エズラ記9:1-4):右クリックで保存

【概要】

エズラ記9章1節から4節を通して、イスラエルの民が異邦の民と結婚し、神の戒めを破ったことに対するエズラの深い悲しみと悔い改めの促しについて学びます。

【聖書箇所】

  • エズラ記9章1節から4節

  • ネヘミヤ記13章23節から27節

  • 新明記7章1節から4節

  • 第2コリント6章14節から18節

【戒めの言葉】

異邦の民との結婚や連合は、信仰を損なう危険があるため、神の民としての清さを保つことが求められます。

【勧めの言葉】

日々の生活において、神の御言葉に従い、清い生活を送り、誘惑に負けないように注意しましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

過去の過ちを悔い改め、神に立ち返り、清い生活を送ることを心がけましょう。

【***詳細***】

エズラ記9章1節から4節では、イスラエルの民が異邦の民と結婚し、神の戒めを破ったことが記されています。エズラはこの知らせを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛と髭を引き抜き、色を失って座り込んでしまいました。彼のショックは、神の民が異邦の民と混じり合うことが、神に対する重大な罪であることを示しています。

ネヘミヤ記13章23節から27節でも、同様の問題が記されています。ネヘミヤは、異邦の女をめとったユダヤ人たちを厳しく戒め、彼らの子供たちがユダヤの言葉を理解できないことを問題視しました。これは、異邦の文化や信仰がイスラエルの民に影響を与え、神の言葉から遠ざける危険性を示しています。

新明記7章1節から4節では、神がイスラエルの民に対して異邦の民と結婚しないように命じています。異邦の民との結婚は、神から引き離され、他の神々に仕えることにつながるため、神の怒りを招くと警告されています。

第2コリント6章14節から18節では、「不信者と釣り合わぬくびきを一緒につけてはいけません」とあります。信者と不信者が一緒になることは、光と闇が交わるようなものであり、神の宮と偶像が一致することはないと教えています。

エズラは、異邦の民との結婚が神に対する重大な罪であることを理解し、深い悲しみを覚えました。彼の姿勢は、私たちが日々の生活において、神の御言葉に従い、清い生活を送ることの重要性を示しています。

【結論】

異邦の民との結婚や連合は、信仰を損なう危険があるため、神の民としての清さを保つことが求められます。私たちは、日々の生活において、神の御言葉に従い、清い生活を送り、誘惑に負けないように注意しましょう。過去の過ちを悔い改め、神に立ち返り、清い生活を送ることを心がけましょう。

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