メッセージ - 201402のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:永遠的殺人罪(申命記13:1-11):右クリックで保存

人は、目に見えるしるしや奇跡に、なびきやすく、目に見えない神から、離れやすいものである。
それでモーセは、まことの神・以外から来る預言やしるし、奇跡などに惑わされないよう、注意を促している。

『あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるしや奇跡を示し、あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。』(申命記13:1-3)
そうした、しるしや奇跡が起こるのは、まことの神以外に別の神がいるから、ではなく、悪霊がそれをさせて、まことの神から離れさせようとしているからだ。
そして、それが起こる時、その人は、主から試されている。
果たしてその人が、心をつくし、精神をつくして、神である主を愛するかどうかを。

キリスト者の中にも、主のしるしを見たい、奇跡を体験したい、と言う人がいるが、奇跡を見たり、体験したりすれば信仰がレベルアップすると思ったら大間違いであり、むしろ、しるしや奇跡がなければ信仰を保てないようでいては、その人の信仰は、かなりレベルダウンしている。
聖書中、主のしるしや奇跡を、最も多く見、最も多く体験した、荒野の民六十万の内、一体何人が、約束の地に入れただろうか?
ヨシュアとカレブの、わずか二人だった。
この事からも、主のしるしを見れば良いというものではない事が分かる。

『同じ母に生れたあなたの兄弟、またはあなたのむすこ、娘、またはあなたのふところの妻、またはあなたと身命を共にする友が、ひそかに誘って『われわれは行って他の神々に仕えよう』と言うかも知れない。・・・しかし、あなたはその人に従ってはならない。その人の言うことを聞いてはならない。その人をあわれんではならない。その人を惜しんではならない。その人をかばってはならない。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、あなたがまず彼に手を下し、その後、民がみな手を下さなければならない。』(申命記13:6-9)
この命令は、現代の日本人の感覚からは、とても厳しいように、そして、非道いかのように見える。
なぜモーセは、そこまで徹底するよう命じたのか。

ここで私達は、思い返すべきである。
「永遠がある」という事を。
私達が、永遠という視点に立つ時、まことの神から人をそむけさせ、他の神々へと導く行為は、放火や虐待、殺人などより、遥かに重い罪である事が、分かるはずだ。
なぜなら、まことの神から引き離す行為は、その人を永遠の地獄の刑罰へと導く行為であり、また、この世においても祝福を断ち切らせ、呪いへと導く行為なのだから。

申命記をここまで読んできた皆さんは、次のようにモーセが言うのを、耳にたこが出来る程、繰り返し聞いてきたはずだ。
すなわち、もし主に聞き従って御言葉どおり行うなら、その人は祝福され、敵に勝利し、畑の産物も祝福され、子孫も多くなり、齢を長くし、栄える事が出来る事を。
そしてもし、主に聞き従わず、主にそむいて他の神々に走るなら、その人は呪われ、敵に負け、虐げられ、畑や家畜などの産物は出さなくなり、子孫は捕らえ移され、いのちは短くなり、落ちぶれてしまう事を。
そして、まことの神である主を捨てる人は、地獄での刑罰に永遠に苦しめられてしまう事を、聖書は言っている。
たとえ人を火で焼き殺すとしても、その人にとっての苦しみは、死ぬまでのわずかな時間であろう。
しかし、その人をまことの神から引き離し、地獄へと導くとしたら、その人がゲヘナで焼かれる苦しみは、永遠に続けさせてしまう事になってしまう。

つまり、まことの神から引き離すように人を誘惑する行為は、その人を、自分の手を汚さず敵の手で葬らせるも同然の行為であり、その人の畑や家屋など資産に火をつけるも同然の行為であり、その人に毒を盛って寿命を縮めてしまうも同然のであり、そして、その人の「永遠のいのち」を奪うという、通常の殺人より遥かに重い罪と言える。
御言葉を差し引きせずに見るなら、そういう事になるのではないだろうか。

多くの国では、殺人は罪に問うけれど、まことの神から引き離す事には、何の罪状も無い。
だから残念な事に、人は、まことの神から引き離す事が、そんなに大それた罪だとは、思えないのだ。
しかし、誰かをまことの神から引き離す罪は、永遠のいのちを殺してしまう「永遠的殺人罪」である。
だからモーセは、その罪から人々を救い出そうとして、あのような厳しい命令を下したのだろう。

礼拝説教メッセージ音声:きよい生活をキープせよ(申命記12:29-32):右クリックで保存

主が与えられる地で、聖なる、新しい歩みを始めるためには、まず住むべき地の”きよめ”からはじめ、次に、家族や奴隷、レビ人と共に、主が定められた所へ行って礼拝し、主の前で喜び楽しむよう、命じてられていた。
そして、生活が安定して来たなら、清められた生活をキープし続けるようにと、モーセは命じている。

『あなたの神、主が、あなたの行って追い払おうとする国々の民を、あなたの前から断ち滅ぼされ、あなたがついにその国々を獲て、その地に住むようになる時、あなたはみずから慎み、彼らがあなたの前から滅ぼされた後、彼らにならって、わなにかかってはならない。また彼らの神々を尋ね求めて、『これらの国々の民はどのようにその神々に仕えたのか、わたしもそのようにしよう』と言ってはならない。』(申命記12:29-30)

イスラエルがカナンに入り、先住民と偶像を滅ぼし尽くし、産物が祝福され生活も安定して来た時こそ気をつけるよう、モーセは注意喚起している。
以前そこにいたカナン人の罪深き行いを、掘り返して調べたり、それに習ったりしないように、と。

私達も、キリストに出会う以前は闇であり、神でないものを崇拝し、罪深き生活をしていたが、今やそれらの中から救い出され、光の子となった。
そうであるからには、以前の罪深き生活をなつかしんで逆戻りしたり、世の中で今なお闇を歩んでいる人々に習ったりしてはならない。
『あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。だから、彼らの仲間になってはいけない。あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。』(エペソ5:5-8)

ひと度、約束の地に入ったら、それで信仰生活はおしまい、というものではないし、その後は何でも欲しいままに振る舞って良いものでもない。
先住民や異邦の国の悪い行いを掘り返して、それに習ったりしないよう、モーセが命じたように、キリストにあって新しく生まれ変わった私達も、以前の悪い習慣や、考え方に戻らぬよう、清い生活をキープし続けるよう努めるべきである。

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」(ローマ8:1)
この御言葉は、ギリシヤ語原典(TR)から訳すと、次のようになる。
「こういうわけで、今や、肉に従ってでなく御霊に従って歩むキリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」

つまり、ひと度キリストにあって救われた人は、未来永劫罪に定められることは無い、という事では決してない。
もしそうなら、「キリストにあって救われて、もはや自分は罪に定められる事は無いのだから、安心して罪を犯し、肉に従って歩もうではないか」という事になってしまう。
そうではなく、継続的に肉に従う事を拒否し、日々御霊に従って歩む人が、罪に定められる事は無いのである。

私達は救われた以上、御霊を悲しませてはならない。
以前の古い生き方は捨て去り、御霊に従って歩み続けるよう、日々努力すべきだ。
『わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。』(ガラテヤ5:16-18)

私達がもし罪を犯しても、イエスの血によって清めていただく事が出来る。
もし自分を吟味するなら、自分が罪人である事は、明らかに分かるはずだ。
だからこそ主は、そんな私達のために身代わりとなり、血を流し、肉体を割いてくださったのだ。
私達は断然、イエス様の流された血を、また、裂かれた肉を感謝しつつ受け止め、清めていただくべきなのだ。
なぜなら、イエスの血によって清められない罪は、無いからだ。

『あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。』(申命記12:32)
モーセがここで言っているように、そして、黙示録の最後でも命じられている通り、御言葉は付け加えたり、減らしたりしてはならない。
エデンの園で、蛇は、御言葉を巧妙に取り除いてエバを欺き、エバは、御言葉に付け加えをして罠に陥り、パリサイ人は、御言葉に身勝手な解釈を付け加えて、人々からいのちを遠ざけてしまった。
『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。』(黙示録22:18-19)

蛇 - 悪魔 - の誘惑の徹底解剖 (創世記3:1-5)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

「主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。」(創3:1) この蛇こそ、天から投げ落とされた、全人類を惑わす者、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれる、あの古い蛇(黙12:9)である。
悪魔の「魔」、その漢字は、广(まだれ:家や庭を意味)の中に、二本の木があり、その間に「鬼」と書くように、悪魔の誘惑の特徴は、いかに人をいのちの木から遠ざけ、善悪の木に向かわせるか、という点にあり、御言葉の肝心な所を抜いたり、不純物を混ぜたりして、人に不安の波紋を起こさせ、御言葉否定へと導く。
神が言われたのは、?「園のどの木からも」 ?「思いのまま食べてよい」、?「しかし善悪の知識の木からは」 ?「取って食べてはならない」だった。(創世記2:16-17)
しかし悪魔であるこの古い蛇は、『?「園にあるどの木からも」 ?「取って食べてはならない」と、ほんとうに神が言われたのですか』(創3:1)、と言っており、肝心の、?と?を除いてしまっている。
蛇は、神様から与えられているあらゆる良き祝福には、全く言及せず、たった一つのしてはならない事にクローズアップさせ、あたかも神は、我々に制限を大きく課しているかのような錯覚を、吹き込ませた。
御言葉をしっかり覚えていないと、容易に騙されてしまう。エバはその掻き乱しに、まんまと乗ってしまった。
皆さんも、エバのように、神様は我々を大きく制限し、良き物を出し惜しみしていると思っていないだろうか。

エバは「園にある木の実を食べてよいのです」と答えたが、「どの木からでも」「思いのまま」を省いている。
神様からのあらゆる豊かな恵みが縮小されてしまっており、さらに「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」と続けた。
エバが「いけない」を3つも言った所に、神様は「いけない」を良く言うお方だという否定的認識を垣間見る。
皆さんも、エバのように、神様は「いけない」を良く言うお方だという思いに、曇らされていないだろうか。
もしそうなら、蛇は、皆さんの誘惑に成功し、神様からの、あらゆる豊かな恵みが、まんまと曇らされている。
神は「触れてはいけない」とは言っていなかった。エバとしては、神様をかばうつもりで、拡大解釈して言ったのだろうが、神様は、人間の力や思いつきによって弁護されるようなお方ではない。神様はむしろ、人間が御言葉にしっかり留まり、多くの実を結ぶ事によってこそ、栄光をお受けになるのだ。(ヨハネ15:7-8)
御言葉に人間的な解釈をつけ足しする事は、パリサイ派や律法学者の道であり、それは、ますます人を束縛し、人を御言葉の真理から遠ざけさせ、サタンを喜ばせる事である。

神様は「それ(善悪を知る知識の実)を取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われたのに、エバの中では「死んではいけないから」と変換されており、「必ず死ぬ」という確信が揺らいでいるのも分かる。
私達がサタンに、心かき乱されるような事を言われた時、答えに急いて、口からでまかせを言ったり、御言葉に根拠の無い、自分なりの解釈を、ぽろっと言ってはならない。
サタンは、御言葉に根拠の無い解釈や、人間的な力・知恵など、これっぽちも怖くはない。
むしろ、御言葉に付け足したり、差し引いたりする事は、サタンの大好物で、さらに付け上がって来る。
エバの中に御言葉への確信がなく、付け足したり差し引いたりしたのを見たサタンは、今度は、御言葉の完全否定を吹きかけて来た。「蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(3:4-5)
サタンの本質的な性質は、神を引きずり降ろし、自分が神のように高くなる事である(イザヤ14:12-15)。
それに対し、救いの道はその全く逆で、自分を降ろし、主を高くする事である。

私達が主とするべきお方は、唯一キリストのみ、土台とすべきは、自分の考えではなく、御言葉のみである。
主はサタンに試みられた時、御言葉によってを撥ね付けたように、私たちも、御言葉をそのまま、信仰を混ぜて宣言するなら、サタンはやがて去っていくのだ。
「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ3:16)
御言葉をたっぷりと蓄え、サタンの策略を知って見極め、その手には乗らず、御言葉によって勝利し、信仰者として堂々と歩み、サタンからはむしろ分捕っていく皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:肉と血(申命記12:15-28):右クリックで保存

荒野の民は、約束の地に入るまでの間、牛や羊、やぎを、身勝手に屠殺してはならず、それを食す時は、必ず「礼拝」を通さなくてはならなかった。
すなわち、それらを主の幕屋の前に連れて来て、酬恩祭(和解のいけにえ)として捧げなければならなかった。(レビ記17:1-9)

しかし、約束の地に入ったなら、牛や羊、やぎも含め、好きなように肉を食べる事ができるようになる。
『あなたの神、主が賜わる恵みにしたがって、すべて心に好む獣を、どの町ででも殺して、その「肉」を食べることができる。すなわち、かもしかや雄じかの肉と同様にそれを、汚れた人も、清い人も、食べることができる。』(申命記12:15)

なぜ、約束の地に入るまでの期間は、牛や羊、やぎの肉を勝手に食べる事は出来ず、必ず「礼拝」というステップを通さなくてはならなかったのか。
それは、彼らがエジプトにいた時に染まってしまった偶像崇拝の習慣からの、「霊的毒抜き」のためと思われる。(レビ記17:1-9)

エジプトでは、牛や羊、やぎなどは、崇拝の対象となっていた。
レビ記の命令が与えられた時点では、エジプトから出てそんなに経っていない時で、体は出エジプトしていも、心は完全に出エジプトしていない民が多かった。
事実、民数記を見ると、イスラエルの民の心は幾度もエジプトへ傾き、エジプトへ戻ろうという扇動が幾度もなされたが、そのような人達は皆、荒野で打たれ、屍となって荒野に置いてけぼりにされた。

イスラエルの民が、以前の奴隷の国・エジプトの習慣から、完全に抜け出す「毒抜き」のために、牛や羊、やぎなど、エジプトでは崇拝の対象となっていた動物をほふるときは、必ず主を通し、主の前で礼拝を行う事を、イスラエルの民は約束の地に入るまでの間、ずっと続けた。
同じように、私達も、毒抜きすべき、以前の「世」の習慣があるかもしれない。
それは、お酒や性的不品行などの肉体的な悪い習慣かもしれないし、あるいは、すぐ暴力を振るったり暴言を吐くといった、性格的な悪い習慣かもしれない。
それらは、奴隷のように私達を縛り、新しい聖なる生活へ入ろうとする事を邪魔する。
しかしそれらは、イエスの御名と血潮によって、束縛から開放される事は可能である。
イスラエルの民が行ったように、そこから完全に抜け出すまでに、自分の中でそれに関わる全てにイエスの御名を通し、兄弟姉妹の祈りを通すのだ。
その事を一定期間続けるなら、段々、以前の悪い習慣や誘惑は、ものともしなくなって行き、やがて、その束縛を断ち切る事が出来るようになる。

主は、約束の地では肉を好きなように食べることを許されたが、二点、注意しなくてはならない事がある。
一つは、牛や羊、やぎなどを「主への捧げ物」とする場合は、荒野で命じられた時のように、主が選ばれる場所でしか、食べてはならない事。(申命記12:17)
もう一つは、血を食べてはならない事。
『その血は食べてはならない。水のようにそれを地に注がなければならない。あなたの穀物と、ぶどう酒と、油との十分の一および牛、羊のういご、ならびにあなたが立てる誓願の供え物と、自発の供え物およびささげ物は、町の内で食べることはできない。あなたの神、主が選ばれる場所で、あなたの神、主の前でそれを食べなければならない。すなわちあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、および町の内におるレビびとと共にそれを食べ、手を労して獲るすべての物を、あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。』(申命記12:16-18)

血を食べてはならない、これはノアの時代以来、主が命じられた事であるが、血は、聖書では、とても重要な意味がある事が記されている。
実際、血には多くの情報が隠されている事が、科学的にも立証されている。
すなわち、赤血球や白血球など血潮に含まれる全ての細胞には、DNA情報が組み込まれており、その持ち主の全ての情報が記されている。

血は、いのちそのものであり、また、神との契約のしるしとして有効なものである。(出エジプト記24:8、マルコ14:24)
日本では印鑑は契約のしるしとして用いられるが、印鑑の押された文書は、ある種の荘厳さと説得力がある。
それに対し、契約のしるしである血は、印鑑よりも遥かに多くを語り、説得力がある。

血は、語る。血は、叫ぶ。血は、証しする。(創世記4:10、黙示録6:9-10、ヘブル12:24、1ヨハネ5:6-7)
また、血潮はきよめの役割を果たす。(ヘブル9:13-22)
不当に流されたアベルの血は、地面の中から主に向かって叫んだように、イエス様の血潮も、父なる神に向かって叫ぶ。
父なる神に対しては、キリストにある私達の弁護を叫び、サタンに対しては、イエスの血を流した事の罪定めを叫ぶのだ。

律法では、血を食べてはならない、その内にはいのちがあるから、と言われているが、唯一の例外がある。
いや、それどころか、その血を飲まなくては、いのちは無い、とまで言われている血がある。
それは、イエスの血である。
『イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。』(ヨハネ6:53-56)

聖書で血潮がとても重要なものとして位置づけられている理由は、イエスの血潮の重要性を示すため、と言っても過言ではない。
イエスの血潮は、私達の罪を完全にきよめ、神に対しては弁護を叫び、サタンに対しては罪定めを叫び、私達が贖われた事の、完全なる契約の調印のしるしである。
私達も、イエスのいのちそのものである血潮を頂く事によって、イエス様のあらゆる優れたDNAが、すなわち、イエスの聖なるご性質、神の子としての完全なご性質が、私達の内にも、組み込まれるのである。

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