メッセージ - 201403のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主の宝の民(申命記26:16-19):右クリックで保存

申命記5章から26章までの所では、主が与えられた十戒や律法の再確認的なメッセージが続いていたが、いよいよ、それらの結論的なメッセージに入る。

『きょう、あなたの神、主はこれらの定めと、おきてとを行うことをあなたに命じられる。それゆえ、あなたは心をつくし、精神をつくしてそれを守り行わなければならない。』(申命記26:16)
主は私達に「心をつくし、精神をつくす」姿勢を、すなわち、主を愛し主に敬意をもって御言葉を守り行おうとする心をこそ、求めておられる。
それはちょうど、いかに出来が良くても親を敬わない子よりは、多少出来が悪くても、親を愛し敬う心で両親に聞こうとする子供のほうがかわいいのと同じである。

イスラエルの民は、モーセから示されていた主の教えを、守り、御声に聞き従うと明言した。(申命記26:17)
そして主は、これらの命令を守り行うなら、彼らをご自身の「宝の民」とされると約束された。(同18節)

宝。それは、適当に扱われるようなものではなく丁重に扱うものであり、放っておかれるものではなくいつも気にかけられ、時に取り出しては、眺められ、楽しまれるものである。
私達が、主への愛と敬意をもって、心と思いと力を尽くして御言葉を守り行うなら、ますます主との関係が豊かになり、必要の満たしを主から充分受ける事が出来、主に喜ばれる実を豊かに結ぶようになっていく。

『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。』(ヨハネ15:7-10)
主との愛の関係がますます深まると、主に何のわだかまりも無く求める事が出来、そしてそれらが与えられる。

このような、主の「宝の民」としての「特典」を享受するための条件が、本日の箇所に、まさに記されている。
すなわち、私達が心をつくし、精神を尽くして主を愛し、敬い、その御言葉に聞き従い、守り行う事。
そうするなら、主は私達をご自分の宝の民とされ、私達に誉と良き名と栄えとを与えて下さり、すべての国民にまさるものとして下さり、主の聖なる民として下さるのだ。
『主は誉と良き名と栄えとをあなたに与えて、主の造られたすべての国民にまさるものとされるであろう。あなたは主が言われたように、あなたの神、主の聖なる民となるであろう」。』(申命記26:19)

レメクとセツ - 神抜きで生きる子孫と、主を呼ぶ子孫(創世記4:19-24)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

神は、カインが犯した殺人と傲慢の罪に対し、彼が示した、僅かばかりの悔いる心に、憐れみで応え、誰もカインを撃つことのないようにと、しるしを与えて下さった。
彼は、その後、主の前から(KJV:主の臨在から)去って、町(城)を建てて住み、その町の名は、自分の子の名にちなんだ名をつけ、そうして子孫を産んで行った。
カインの来孫(らいそん)にあたるレメクは、二人の妻をめとり、家畜を飼う者の先祖・ヤバル、笛と竪琴を巧みに奏する者の先祖・ユバル、青銅と鉄のあらゆる用具の鍛治屋の先祖・トバル・カインとを産んだ。
地が呪われ、農耕ができなくなってしまったカインは、城を建て、結束し、その子孫たちは畜産や芸術、技術などの文明を発達させた。神に頼るのではなく、人々を結束させ、その力に頼って生きるようになった。
しかしそれは、アダムの以来の「いちじくの葉」の進化形に過ぎず、自分の裸を覆うための取り繕いに過ぎない。このいちじくの葉は、代を降るごとに発展し、鎧となり、城壁となり、兵器となって行く。
神抜きの必要の満たし、神抜きの娯楽や慰め、神から離れたテクノロジーの発達は、代を降って行くごとに暴虐さ邪悪さが増し加わって行くのだ。

カインの子孫は、代を重ねるごとに、どのような価値観を培ってきたのか。レメクの言葉から見る事が出来る。
『レメクはその妻たちに言った、「アダとチラよ、わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍。」』(創世記4:23-24)
カインを殺す者には七倍の復讐、だったのに、レメクの代では、それが七十七倍に増加している。
少しでも傷を受けたなら、相手を殺す。しかも、その事を妻たちに誇らしげに自慢している。
集結し、城を建ててそこに住み、文明を発達させ、やられたら倍返しする。まるでマフィア同じ性質だ。
神はなぜカインを生かし、カインを殺す者には7倍の復讐を受けるようにされたのか。それは、神の彼に対する憐れみであって、決して倍返しの爽快感を彼に味わわせるためではないし、誇らせるためではない。
それなのに彼は、神様が与えて下さった憐れみを、悪用し、自分のため、人を脅すために用いた。
このように、やられたら何倍にもして返す生き方、共に結束し、力を合わせて文明を発達させる生き方を続けて行くと、やがて地は堕落し、暴虐に満ちて行き、神が心痛めるまでになるのである。(6章)
カインのような者は、すぐにでも滅ぼせば良かったのに、と人は思うかもしれない。しかし、もし神がそのようなお方だったとしたら、人は誰も残っていなかっただろう。
神は、忍耐と赦しに富みたもうお方だからこそ、私達は救われたのだ。

神は、主を呼び求める子孫、すなわち、神と共に歩む子孫をも、備えて下さる。(創世記4:25-26)
カインとは別の、アダムとエバの子「セツ(約束された、倍賞)」の子孫は、主の御名を呼ぶ事をはじめた。
エバに約束された、サタンの頭を踏み砕く「女の子孫」は、彼の系列から生まれる。
世の中がいかに不信仰に満ちようとも、主は、残された民を備えておられるのだ。

私達はカインとセツのうち、属するとしたらどちらに所属して生きたいだろうか?
キリスト者なら「セツ」と答えるのが模範的だろうが、本当にそうだろうか。別の観点から質問しよう。
城を建て、その中で結束して住み、肉を食べ、スタイリッシュな音楽を聞き、発達したテクノロジーの恩恵に与り、力と知恵を集結して文化を発展させ、やられたら7倍返しができる。けれども、神様からは離れた価値観で生きている集団と、そのような神を知らぬ集団からは離れ、主の御名を呼び、主と共に歩む集団。
一体どちらに所属して生きたいだろうか?クリスチャンの中には、「セツの道を選びます」と口先で言いながら、実はカインの道に憧れて、そちらの集団で生きている者は、意外と多いのではないだろうか。
カインの子孫は、やがて水で滅ぼし尽くされ、カインの子孫と結合した神の子達も、同じ運命をたどる。
それは現代を生きる私達も、同じである。
私たちは、主に呼び出された者達、エクレシア(教会)である。私達は主キリストから呼び出されているからには、主の御名を呼ぶ事をやめてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:主の命令を守り行った事の報告(申命記26:12-15):右クリックで保存

前回の箇所では、主の側が、私達にどんなに良くして下さったのを告白し、報告すべき事を学んだ。
今回の箇所では、私達の側が、主から与えられた命令をどのように守り行ったかを報告するべき事が、示されている。

『第三年すなわち十分の一を納める年に、あなたがすべての産物の十分の一を納め終って、それをレビびとと寄留の他国人と孤児と寡婦とに与え、町のうちで彼らに飽きるほど食べさせた時、あなたの神、主の前で言わなければならない、『わたしはその聖なる物を家から取り出し、またレビびとと寄留の他国人と孤児と寡婦とにそれを与え、すべてあなたが命じられた命令のとおりにいたしました。わたしはあなたの命令にそむかず、またそれを忘れませんでした。』(申命記26:12-13)

この「十分の一を納める第三年」については、申命記14章で示されている。
その時には、十分の一を町の中に蓄え、それを町の中の在留異国人や孤児など弱い立場の人や、主の働き人であるレビ人に食べさせ、彼らを満足させなければならない、と命じられている。
「そうすれば、あなたの神、主はあなたが手で行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。」(申命記14:28-29)

私達は何かと、主から命じられた事を守り行う以前に「祝福を下さい」と祈りがちであるが、祝福が与えられるためには、まず、私達の側が主に敬意を払って、主から命じられた事を守り行う必要がある。
行いの無い信仰は、虚しく、死んだも同然である。
『ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。』(ヤコブ2:15-16)

働いてもいないのに、給料を「くれ」と求めても、無視されたり、怒られたりするのは当然であるように、主から「こうするならば祝福される」という言葉を無視し、実践しないままに、ただ祝福を「くれ、くれ」と求めても、主から無視されたり、怒られたりするのは、当然である。
しかし、働いたのであれば、給料は当然のように求める事が出来る。
だから私達も、主から命じられた事を、守り行ったのであれば、次のように求める事も正当である。
『わたしはその聖なる物を喪のうちで食べたことがなく、また汚れた身でそれを取り出したことがなく、また死人にそれを供えたことがありませんでした。わたしはわたしの神、主の声に聞き従い、すべてあなたがわたしに命じられたとおりにいたしました。あなたの聖なるすみかである天からみそなわして、あなたの民イスラエルと、あなたがわれわれに与えられた地とを祝福してください。これはあなたがわれわれの先祖に誓われた乳と蜜の流れる地です。』(申命記26:14-15)

主の命令を守り行う事、それは、律法の膨大な「こうせよ/するな」の集大成を記憶して、一つ一つ行ったか・行わなかったに注意する事ではなく、律法を成就して下さったお方・イエス・キリストを、愛をもって信じる事であり(ガラテヤ5:1-6)、この主イエス・キリストに日々導かれて歩む事である。
例えば、「うそをつくな」という御言葉が、特に最近主から示されているのであれば、そのように守り、「憐れみなさい」という御言葉が特に主から示されているのであれば、主にあって努めて憐れむ事。
そのように、都度、御言葉に導かれている通りに歩んで行けば良いのである。
『キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。』(ガラテヤ5:6)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
履き物を脱げ(出エジプト記3:1-6):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
癒されたら祭司の所へ(マタイ8:1-4):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
キリスト無き知識は悲しみの集大成(伝道者の書1:12-18):右クリックで保存

【概要】

伝道者の書1章12-18節を通して、この世の知恵の限界と、御霊によって与えられる真の知恵について学びます。ソロモンがこの世の知恵を極めても虚しさに行き着いたように、人間の知恵では神を知ることはできず、ただイエス・キリストを見つめることによってのみ、永遠の命と真の希望が与えられることを知ります。

【聖書箇所】

  • 伝道者1:12-18

  • ヨハネ3:5-8

  • 第1コリント2:6-16

  • マタイ11:11

【戒めの言葉】

この世の知恵、人間の知識だけを追い求めることは、霊的には虚しく、益を生み出しません。死んでいくこの世のありさまをいくら観察しても、そこに救いはありません。

【勧めの言葉】

イエス・キリストを一心に見つめ、離れずにいてください。御霊によって生まれ、御霊によって導かれる者となってください。天の御国に属する最も小さな者でも、バプテスマのヨハネより偉大なのです。

【励ましの言葉】

あなたがたがキリストにあって天の御国に属する者となったなら、どんなにIQが低くても、ソロモンより偉大なのです。神が愛する者のために備えてくださったものは、目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのない素晴らしいものです。

【***AIによる文字起こし***】

今日、恵みをいただく御言葉は、伝道者の書1章12節から18節までです。

「伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。私は、天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えた辛い仕事だ。私は、日の下で行われたすべてのことについて、知恵を用いて一心に尋ね、探り出そうとした。なんと全てが虚しいことよ。風を追うようなものだ。曲がっているものをまっすぐにはできない。なくなっているものを数えることはできない。私は自分の心にこう語っていった。今や私は私よりも先にエルサレムにいた誰よりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。私は一心に知恵と知識を狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。実に知恵が多くなれば悩みも多くなり知識を増す者は悲しみを増す。」

この伝道者の書は、ソロモンが書いたと言われており、事実そうだと論理的には導き出せます。なぜ論理的にそう導き出せるかというと、12節のところに「伝道者である私はエルサレムでイスラエルの王であった」とあります。要するにこれを書いたのは、イスラエルの王であった者ということで、かなり絞り込まれますね。

そして16節の方に「私は自分の心にこう語っていった。今や私は、私より先にエルサレムにいた誰よりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た」とあります。イスラエルの王であり、なおかつ先にエルサレムにいた誰よりも知恵を増し加えた者、とすれば、聖書の他の箇所のみでは、ソロモン以外の何者でもありません。

ソロモンに、世の誰よりも、先に生まれた者よりも、後に来る者よりも、誰よりも知恵を与える、そのように主が約束されました。ですから、ここはソロモンが書いたとしか言いようがないのですが、しかし、これをソロモンが書いたものでないとする人たちがいます。それは何でそういうことを言うかというと、この16節の言葉を嘘を言って、誇張表現して、私は先にエルサレムにいた誰よりも知恵を増し加えたと自称している者がこれを書いたのだと、そういうふうに言うのです。

これを聞くとき、人はちょっと心に雑念を覚えます。なんか、汚れを受けたかのような、ちょっとそわそわしたような心を受けます。なぜなら、そのように言う人のその言葉は聖書の権威を、神様がエバを欺いたように、神様の純粋な御言葉に混ぜ物を加えるからです。私たちはそのような時ですね、聖書の御言葉に、ここにはこう書いてあるけどどうなのという、そういうですね、心をかき乱されるような雑念が混じった時、聖書は聖書ですと、神の言葉です。その神の言葉に混ぜ物をするあなたは何者ですかと、そういうふうにですね、神様の御言葉を盾にとって、神様の砦の岩の中に留まればいいんです。そうしたら相手はですね、砂の上に建てられた城のように、すぐにぐらついてしまいます。

さて、ここの言葉、ソロモンは、この天の下で行われる一切のことについて、知恵を一心に尋ね探り出そうとした、この世の有様をですねよく観察してよく調べてよく論理的にいろいろなことを導き出す、そういう事業をソロモンはしたんですけども、でもその結果彼が得たのは「これは人の子らが労苦するようにと神が与えた辛い仕事だ」って13節に言ってます。

また14節でこう言ってます。行われることを探り求めたところ、それはもうただ労苦だ、それは辛い仕事だ、そういうふうにですね。聖書の他の、伝道者の書以外のところ、この伝道者の書だけです、この虚しいという言葉が何回も何回も言われているのは。それ以外の書、特に新約聖書の方では、本当に希望に満ちた、虚しさの逆が満ち満ちているんですけども、その方はなぜここに行き着いたか。それは彼がですね、要するにこの書物を書いた人が、神様を恐れない、神様を信じないから、そして御霊によってわきまえることができていなかったからです。

この14節の後半のところに「全てが虚しいことよ、風を追うようなものだ」と書いてあります。ここですね、風という言葉、これはルアハという言葉、要するに神の霊、神の息吹、霊と訳すことができる言葉で、キングジェームズバージョンではですね、この「全てが虚しいこと、風を追うようなものだ」、これはこういうふうに書いてあります。「全ては空虚で苛立たしい風だ」、あるいは「全ては空虚で苛立たしい霊だ」、そういうふうに書いてあります。

神様抜きで、キリスト抜きでこの世のありさまを観察するとき、それは確かにこのソロモンの行き着く先に至ります。それは当然の結果です。だってこの世のもの、この世のありさまは過ぎ去るものであり、もう人間のアダムとエバの堕落によって、もう全てが滅びに向かっているからですね、呪われてしまっているからです。

皆さんは死体って見たことありますか。人間の死体でも動物の死体でも。それはやがて腐っていくものですね。この世の有様は人間が善悪を受け入れるその罪の行いの結果、死体となってしまったようなものです。この世の有様は過ぎ去る。罪は全てを滅ぼす。ですからこの世はもう癌にかかった、もう末期的症状な、癌のような、あるいはもう死体のように腐っていく、ただそれだけのものです。

皆さんは死体の博士になって何の益があるでしょうね。いらないですね。ソロモンはその死体の博士になったようなものなんです。死体をじっと見て、やがて腐っていく。外で死んだ場合は何日以内にウジが湧くとかですね、匂いはこれこれ、火で死んだ人はこれこれの匂い、水で死んだ人はこれこれの匂いとか、ソロモンはそういうことを研究していたようなものです。それは虚しくなりますよね。

それはこれをじっと見て、これは人間の子らが労苦するように神が与えた辛い仕事だ。いや、そうじゃありません。神様が与えられた仕事は、そんな世のありさまを観察することじゃないんです。神様が与えられた仕事は、ただイエス・キリストという命の主を一心に見つめて、これから離れないこと。

イエス様はおっしゃいました。人々はこういうふうに質問したんです。「主よ、私が神の業を行うためには何をしたらいいでしょうか」。イエス様が答えられたのは、「神が遣わされたお方を信じること。それが神の業です」。

ですから、人は何か世のありさまを観察して、それに対抗する手段を得て、そういったことによって救いを得ることはできないんです。イエス様はただ熱心にイエスを一心に見つめること、これによってのみ皆さんは救いを得られるんです。

だから、このソロモンのようにですね、この世のありさま、滅んでいく人間、人間の愚かさ、狂気、人間にはこれこれの罪のタイプがあるとか、カインの罪を犯す者とか、盗みを働く者、人を殺す者、それぞれをですね、じっくりと観察していても、このソロモンのようになっていくばかり、全ては虚しくなるばかりです。むしろ、救いが見えなくなってしまうんです。私たちが一心に尋ね求めるべきは、イエス・キリスト、ただこのお方だけです。するならば、この「全てが虚しい」という、このスパイラルから脱却することができます。

ソロモンは15節で言ってますね。「曲がっているものを、まっすぐにはできない。なくなっているものを、数えることができない」と。それはキリスト抜きで何かやろうとすればそうです。いくらIQが何百何千ある人であったとしても、曲がってしまっている自分自身の罪、それをいくら正そうとしてもできなかったことをこの伝道者の人は証明していますね。全ての知恵知識を得ても、結局神様を知らない人の行き着く先がここに至ってしまうんです。

イエス様の方法は、曲がっているもの、無くなっているもの、罪深いこの体を死に明け渡すこと。十字架です。まず十字架につけて死と復活を得させてですね、その後にこそ私たちは新しく命の道を歩むことができるようになるわけです。

ソロモンは続いて、16節以降、「私は自分の心に、今や私は私より先にエルサレムにいた誰よりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。私は一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした」。

18節「実に知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」。ソロモンは知恵を追求しました。知識を追求しました。その結果、彼は「実に知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」と、その結論に行き当たりました。

ソロモンは何度も「風を追うようなものだ」とか、そういうことを17節でも言ってますね。14節の方でも言ってます。「それもまた風を追うようなものであることを知った」。風、それは主の息吹です。主の霊はどこに行くか人は知らないです。ニコデモというイスラエルの教師が夜、イエス様のところに訪ねていって、それでイエス様は教えました。「誠に誠にあなたに告げます。人は新しく生まれなければ神の国を見ることができません」と。

ニコデモはそれ、ん?って。どうして人は老年になってお母さんの中に戻ることができようか。イエス様は言うんです。「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」。

ですから水と御霊によって、水、まずバプテスマですね、死です。水、世の中ひとたび死を経ました。洪水によって全ての者は死に絶えて、そしてそこから新しくされました。ですから人はまず水によって、要するに死ですね、一旦全てをおじゃんにする。ソロモンは曲がったものはまっすぐにすることはできないと言いました。エレミヤもそう言いました。人の心は何よりも陰険で、癒しがたい。だから癒しがたい何かをやりくりして癒そうとしても、結局ソロモンのように癒せないと行き着くんですね。

イエス様の方法は全く違います。死です。まず死を経させること、そして復活させること。だからイエス様は「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃったんです。

それをさらにどうしてそんなことがあり得るでしょうか、不思議だったんですね。イエス様は、ヨハネの3章のところでそのやりとりがあるんですけども、ヨハネ3章5節からのところですね。

ヨハネ3:5-8「イエス様は答えられた。まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれたものは霊です。あなた方は新しく生まれなければならないと私が言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くか知りません。御霊によって生まれた者もみな、そのとおりです」。

御霊によって生まれることができる人というのはイエス様を信じる人です。

もう一箇所ですね。第1コリント2章を開きます。ソロモンはこの世の知恵によって神様を知ろうと何もかも悟ろうとしました。でも結局「全ては虚しい」と、無だとそこに行き当たりました。ソロモンだけでなく仏教もそういう思想ですね。悟りを得ようとね。でも結局行き着くところは無なんですね。何もないんです。

第1コリント2章6節からのところをお読みします。

第1コリント2:6-9「しかし私たちは成人の間で知恵を語ります。この知恵はこの世の知恵でもなく、この世の過ぎ去っていく支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは隠された奥義としての神の知恵であって、それは神が私たちの栄光のために世界の始まる前からあらかじめ定められたものです。この知恵をこの世の支配者たちは誰一人として悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく聖書に書いてある通りです。目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの、神を愛する者のために神の備えてくださったものは皆そうである」。

キリスト教会の中においてもですね、この世の知恵を用いて神の言葉を解き明かそうとする人がおります。伝道者の書、これはソロモンが書いたと言われているけれども、実はソロモンを自称する者が書いたのだとか、何もかもですね、善悪判断で食ってかかるのがこの世の知恵です。人間の知恵です。でも、キリストのことはこの世の知恵で測ることはできません。

「この知恵はこの世の知恵でもなく、この世の過ぎ去っていく支配者たちの知恵でもありません」。ソロモンは過ぎ去っていく支配者の知恵で何かを解き明かそうとしました。でも結局、虚しさに行き着いた。

そして「私たちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって」、この世の知恵ではないです。隠された奥義としての神の知恵、それをですね、私たちキリスト者は得るんです。そしてそれはどんなものか。「それは神が私たちの栄光のために世界の始まる前からあらかじめ定められたものです」。世界の始まる前から私たちのためにあらかじめ定められた素晴らしい知恵ですね。

そしてこの知恵はこの世の支配者たちは誰一人として悟りませんでした。あのIQがいくつだったか知らないソロモンでさえ、誰一人としてこの知恵を悟ることはできないんです。まさしく「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの」、それが私たちに備えられている知恵です。神を愛する者のために神の備えてくださったものは皆、この世の知恵が目で見たことのない、耳で聞いたことのない、心に思い浮かんだことのないようなタイプの素晴らしい知恵です。素晴らしいもの、それが私たちに備えられているものです。

10節以降、第1コリント2:10-12「神はこれを御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊は全てのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。一体人の心のことは、その人のうちにある霊の他に誰が知っているでしょう。同じように、神の御心のことは、神の御霊の他には誰も知りません。ところで、私たちはこの世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを私たちが知るためです」。

御霊のことは、御霊によってわきまえるものです。世の知恵、人間の心、そうしたものによっては、それを知ることはできません。人の心のことは、その人のうちにある霊しかわかりません。それと同じように、神様のことは、神の御霊の他には誰も知りませんと書いてあります。この通りです。

13節「この賜物について話すには、人の知恵に教えられた言葉を用いず、御霊に教えられた言葉を用います。その御霊の言葉によって、御霊のことを説くのです」。

ですから御霊の言葉、御霊の剣、これを解き明かすことには、この世の知恵であり、解き明かしても、これは何々が書いたと思われている、しかし、これは実は、あの人が書いたのだ、この人が書いたのだと、何の根拠があるのか、人の知恵を根拠にして、御言葉の根拠がなしのことをですね、持って、もう空虚な論争、あのソロモンが陥った、風を追うようなものだ、本当に御霊は風、本当にヘブライ語は面白いですね、風を追うようなものだ、そういうふうに行き当たってしまうんです。ですから、人間の論争、何々論対何々論、これは風を追うようなものです。虚しいんです。しかし、御霊のことは、御霊によってわきまえるものです。

14節「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは、彼らには愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは、御霊によってわきまえるものだからです」。

15-16節「御霊を受けている人は全てのことをわきまえますが、自分は誰によってもわきまえられません。一体誰が主の御心を知り、主を導くことができたか。ところが私たちにはキリストの心があるのです」。

もう書いてありました。神の御霊に属すること、肉にあって生まれている人は神の御霊に属することを受け入れはないです。どんなに知恵を働かせても、どんなに論理を駆使しても、生まれながらの人間、魂の人、肉の人間は神の御霊に属することを受け入れられないです。聖書に書いてあることは、世の人が見れば愚かさで満ちております。何、処女から生まれた?死人がよみがえる?永遠の命?愚かに聞こえるんですけども、しかし御霊にあって生まれた私はこれがとても希望ですね。とてつもない希望です。素晴らしいことです。

しかし肉にある人はそれを悟れないんです。ソロモンのような人がいくら知恵を駆使しても、それはもう処女から人は生まれない。はい、論破した。そういうふうになっちゃうんですけれども、でも御霊にある人は御霊によってそれをわきまえ受け入れ、この私たちのような罪に穢れた者でもキリストという真の命、真の種、神の言葉が入ったのであれば永遠の命をいただくことができる。これが持てます。これが私たちにとっての希望です。

そして御霊の人は全てのことをわきまえます。ですからですね、御霊にある人、御霊にあるIQ60の人、イエス・キリストは、御霊にない、IQ何千のソロモンよりも勝るんです。だってイエス様、おっしゃってますね。人間の中で誰が最も偉大か。

ソロモンじゃないんですね。ソロモンは全然偉大じゃないんですね。人間の中で最も偉大なのは、バプテスマのヨハネだとイエス様はおっしゃいました。だってイエス様を、人々をイエス様へと導いたからですね。結局人間にできることは、知恵、力ではないんです。イエス・キリストへと導くものこそ、何よりも勝る人にとっての最大なものですけれども、しかしイエス様はおっしゃいました。バプテスマのヨハネよりも、神の国の人は、バプテスマのヨハネより偉大だと。

マタイの11章にあるですね、それは。マタイ11:11「まことに、あなた方に告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより優れた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です」。

イエス・キリストにあって、天の御国に属する者となった皆さんは、バプテスマのヨハネより偉大なんです。皆さんのIQはいくつですか?60、70ぐらい?100ぐらい?それは分かりませんね。でも、皆さんのIQがいくら、たとえ60であったとしても、あのソロモンより偉大なんですよ。天の御国においては。天の御国からすれば、神様の視点から見れば、あのソロモン、IQが何であったか分からないソロモンよりも、ここにいるイエス・キリストにある皆さん一人一人、天の御国に属するどんな一番小さなものでも、あのバプテスマのヨハネより偉大なんです。

皆さんその自覚を持ってください。ますますですから、御霊の人になるべきです。この世の知恵、この世の追求心、それを持ちましてもですね、霊的には何の益も生み出しません。でも、皆さんがもしキリストを見つめて離さず、一心にですね、キリストから離れないのであるならば、皆さんの方があのバプテスマのヨハネよりも、ソロモンよりも偉大なものなんです。

どうか皆さん、この価値観に立ってください。この世の何かを追求することは霊的に無意味です。でも、キリストを一心に見つめて離さずに、ますますキリストの御霊にあって導かれていくのであるならば、皆さんの方がですね、あのバプテスマのヨハネよりも偉大になる価値があるものとなるんです。

私たちに備えられている恵みは何と素晴らしいものでしょうか。目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの、それが私たちに備えられているもの、この素晴らしい恵み祝福を感謝いたします。

どうか私たちはこの世の知恵に従っているものでなく、この世の何かを見つめるのではなく、この世の有様は腐っていく死体のよう、死体博士になっても何の益もありません。キリスト博士になる私たちでありますように。キリストをじっと見て、キリストを調べ、キリストをよく味わい、キリストに触れ、キリストを喜び楽しみ、その中において交わるものとしましょう。ますますキリストの似姿へと作り変えられ、この世の過ぎ去る有様は一切十字架の向こう側へと追いやって、私たちはキリストの側、キリストの永遠の命の側に立って幸いと祝福を得ていく、私たち一同でありますように。

【結論】

この世の知恵をいくら極めても、それは虚しく、風を追うようなものです。ソロモンが全ての知恵と知識を得ても行き着いたのは「知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」という結論でした。しかし、神は御霊によって、目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのない素晴らしいものを私たちのために備えてくださいました。御霊によって生まれ、イエス・キリストを一心に見つめて離れない者は、たとえIQが低くても、天の御国において最も偉大な者とされます。この世の有様を観察する死体博士ではなく、キリストを見つめ、キリストを知るキリスト博士となり、御霊によって導かれ、ますますキリストの似姿へと変えられていきましょう。

礼拝説教メッセージ音声:主への報告義務(申命記26:1-11):右クリックで保存

この章では、イスラエルが約束の地に入って、初めてその地の産物を収穫した時に為すべき事が命じられている。
その際、真っ先にすべきは「主への報告」である。
『あなたの神、主が嗣業として賜わる国にはいって、それを所有し、そこに住む時は、あなたの神、主が賜わる国にできる、地のすべての実の初物を取ってかごに入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる所へ携えて行かなければならない。そしてその時の祭司の所へ行って彼に言わなければならない、「きょう、あなたの神、主にわたしは申します。主がわれわれに与えると先祖たちに誓われた国に、わたしははいることができました。」』(申命記26:1-4)

モーセがこの命令をしている時点では、イスラエルはそれまでの40年、種まきや収穫はしておらず、食べ物は、主から一方的に与えられるマナによって養われていた。
しかし、これからすぐ後に入ろうとしている約束の地では、食べ物は天から降って来たりせず、地の産物を得なくてはならない。
そこでは自分の畑をしっかり管理し、種蒔きや収穫をする必要はある。
しかし、その「乳と蜜の流れる地」「天の雨で潤っている地」に生じる産物は、良いものであり、豊かであり、実にバラエティに富んでいる。

忘れてはならないのは、その土地を得させて下さるもの、天の雨を降らせて下さるのも、豊かな実りを実らせて下さるのも、全て「あなたの神、主」がして下さる事だ。
だから、主の御言葉によく聞き従い、歩み続ける必要があるのだ。

それは、キリスト者が世に出て行って働く時も同じである。
世での仕事がいつも潤され、祝福されるためには、主の御言葉にいつも聞き従い、歩み続ける必要がある。
自らの手で働き、自分自身や自分の家をしっかり管理すべきであるが、それによって結ぶ実は、良いものであり、豊かであり、バラエティに富んでいる。

主に報告すべき言葉は、五節以降に記されている。
『わたしの先祖は、さすらいの一アラムびとでありましたが、わずかの人を連れてエジプトへ下って行って、その所に寄留し、ついにそこで大きく、強い、人数の多い国民になりました。』(申命記26:5)
ここで、自分達の先祖は「アブラハム」とは言わせないで、「さすらいの一アラムびと」(KJVでは「A Syrian ready to perish」)と言わせている所が、興味深い。
自分達は元々、「いつでも滅びるための用意ができていた一さすらい人」であった事を、まず告白しなくてはならない。

バプテスマのヨハネは言った。
『自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。』(マタイ3:9)
だから、悔改めにふさわしい実を結べ、と。
私達キリスト者も、キリストにつながる事をせず悔い改めの実を結んでいないとしたなら、いつでも滅びる用意の整ってる、一さすらい人に過ぎない事を、忘れてはならない。

『ところがエジプトびとはわれわれをしえたげ、また悩まして、つらい労役を負わせましたが、われわれが先祖たちの神、主に叫んだので、主はわれわれの声を聞き、われわれの悩みと、骨折りと、しえたげとを顧み、主は強い手と、伸べた腕と、大いなる恐るべき事と、しるしと、不思議とをもって、われわれをエジプトから導き出し、われわれをこの所へ連れてきて、乳と蜜の流れるこの地をわれわれに賜わりました。主よ、ごらんください。あなたがわたしに賜わった地の実の初物を、いま携えてきました。』(申命記26:6-10)

この告白をする事によって、主は、弱くどうしよもない自分達をいかに救い出して下さったか、取るに足らない自分達を、どんなに良くして下さったかを、思い起こさせている。
私達も以前は、神から切り離された者達であり、いつ滅ぼされてもおかしくはない状況であった事を忘れてはならない。
そのような状況から助けだされ、祝福され、幸いを得た時、私達もイエス様がどんなに素晴らしい人生へと導いて下さったか、どんなに素晴らしい事を為してくださったかを、告白すべきなのだ。

『そしてあなたはそれをあなたの神、主の前に置いて、あなたの神、主の前に礼拝し、あなたの神、主があなたとあなたの家とに賜わったすべての良い物をもって、レビびとおよびあなたのなかにいる寄留の他国人と共に喜び楽しまなければならない。』(申命記26:10-11)
主が私達をそのように祝福し、富ませて下さったからには、その主からいただいた恵みを、貧しい兄弟姉妹や、主の働き人達と、共にわかちあうべきなのだ。
そして、「共に喜び楽しまなければならない」と命じられている。
兄弟姉妹や主の働き人と共に、喜び楽しむ事、それが主の命令であるからには、私達は大いに主に感謝し、喜び、楽しむべきである。

礼拝説教メッセージ音声:主の御前に正しく歩め(申命記25:13-19):右クリックで保存

『あなたの袋に大小二種の重り石を入れておいてはならない。あなたの家に大小二種のますをおいてはならない。不足のない正しい重り石を持ち、また不足のない正しいますを持たなければならない。そうすればあなたの神、主が賜わる地で、あなたは長く命を保つことができるであろう。すべてこのような不正をする者を、あなたの神、主が憎まれるからである。』(申命記25:13-16)

この「重り石」は、重さを量る天秤の分銅のようものであり、「ます」も、穀物などの分量を量る「はかり」である。
つまりここは、例えば9キロの重り石を10キロだと偽って「これは10キロのお米です」というような事を禁じている。
主はそのように、「はかり」の基準となるものを偽る事を、憎まれる。

そのような者に対する預言が、アモス書に記されている。
『あなたがた、貧しい者を踏みつけ、また国の乏しい者を滅ぼす者よ、これを聞け。あなたがたは言う、「新月はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは麦を売り出そう。われわれはエパを小さくし、シケルを大きくし、偽りのはかりをもって欺き、乏しい者を金で買い、貧しい者をくつ一足で買いとり、また、くず麦を売ろう」。』(アモス8:4)

ここのエパは「ます」で、シケルは「重り石」である。
それらを偽り、新月ごとに行われる主の祭日や、主を覚えるべき安息日を「早く終わって欲しいもの」とし、月曜朝の市場開始の時間になったら、早速偽りのはかりで乏しい者や貧しい者から搾取するような者に対して、主は、突然の災いを下される。
『主なる神は言われる、「その日には、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くし、あなたがたの祭を嘆きに変らせ、あなたがたの歌をことごとく悲しみの歌に変らせ、すべての人に荒布を腰にまとわせ、すべての人に髪をそり落させ、その日を、ひとり子を失った喪中のようにし、その終りを、苦い日のようにする」。』(アモス8:9-10)

世の中では一見、偽りのはかりを用いている者が栄えて、正直者がばかを見ているかように見えるが、主は、このような偽りや虐げで勢いづいている者を、いつまでもそのままにはされない。
彼らが栄え、「日盛りだ」と、思っているような時に、突然、災いを臨ませ、悲しませる。そして彼らの終わりは、苦々しいものとなる。

また、そのような者に対する、もう一つの災いは、「御言葉のききん」である。
『主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。彼らは海から海へさまよい歩き、主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる、しかしこれを得ないであろう。その日には美しいおとめも、若い男もかわきのために気を失う。』(申命記8:11-13)
こういうクリスチャンがいる。普段は、罪や欲望を存分に飲み食いして、いざ困った時になったら、神様に助けを求めればいいや、と思っているクリスチャンが。
そういう人は、突如とした災いに襲われ、その時、あわてふためいても、守りを宣言する御言葉も、救われるために告白する御言葉も、見つからないのだ。


また、主は命じられた。
『あなたがエジプトから出てきた時、道でアマレクびとがあなたにしたことを記憶しなければならない。すなわち彼らは道であなたに出会い、あなたがうみ疲れている時、うしろについてきていたすべての弱っている者を攻め撃った。このように彼らは神を恐れなかった。それで、あなたの神、主が嗣業として賜わる地で、あなたの神、主があなたの周囲のすべての敵を征服して、あなたに安息を与えられる時、あなたはアマレクの名を天の下から消し去らなければならない。この事を忘れてはならない。』(申命記25:17-19)

アマレクの性質は、一言で言うなら「弱い者いじめ」である。
彼らは、エジプトから出てきた会衆の後ろについて来ていた「弱っている人達」を狙い撃ちにした。
また、アマレクは後に、ダビデと部下達が留守中に女子供を狙い撃ちして、財産を妻子もろとも奪って行った。
また、さらに後のエステルの時代には、ハマンが権力を利用してイスラエル民族全部を皆殺しにしようと企んだが、このハマンは、アマレク人だと言われている。
未来も全て見通される主は、イスラエルや全て「弱い者」のために、このアマレクを必ず滅ぼし尽くさなければならないと命じられたのである。
主は、弱い者を狙い撃ちするようなサタンの性質の者は、滅ぼし尽くすよう、命じられるのだ。

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。』(1ペテロ5:8-10)
ししは、動物を襲う時、群れに向かって吠えたけり、恐れをなして動けないものや、群れからはみ出たものを、食いつくす。
私達も、サタンがほえたける時こそ、信仰のスクラムをしっかりと組み、信仰に固く立って、悪魔に抵抗するのである。
私達が信仰に立ち、神に従い、そして悪魔に立ち向かうのなら、悪魔は逃げ去って行く。(ヤコブ4:7)

主は「あなたの神、主が嗣業として賜わる地で、あなたの神、主があなたの周囲のすべての敵を征服して、あなたに安息を与えられる時、あなたはアマレクの名を天の下から消し去らなければならない。」と言われた。
平安が無い時や、信仰の基盤が確立されていない時は、まだ、悪しき者に戦いを仕掛けるべき時ではない。
主にあって十分に養いを受け、安息が与えられた、安定した時こそ、悪しき者と戦う事が出来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:子を残し、名を残し、いのちを繋げる事(申命記25:5-12):右クリックで保存

今回の箇所では、子々孫々へといのちを繋げる事や、一族の名を残す事の大切さが示されている。

現代の私達が、旧約律法を見ると、子孫を残す事について、結婚について、夫婦のつとめについて、ことさら大切に命じられている所が多いと感じるかもしれない。
現代の法律では、そうした事は強制する所は無く、自由裁量に任されて、あまり重視されていないが、神の国では、家の「名」を残す事、いのちを子々孫々へと繋げる事が、ことさら重要であり、その価値観は、そのまま神の国の住人である私達にも同じである。

『兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。そしてその女が初めに産む男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名をイスラエルのうちに絶やさないようにしなければならない。』(申命記25:5-6)
もし兄弟が死んでも、その亡くなった兄弟の妻をめとるのを、どうしても拒否するなら、彼女は、彼の足のくつを長老達の前で脱がせ、その顔につばきし、言う。
『「兄弟の家をたてない者には、このようにすべきです。」そして彼の家の名は、くつを脱がされた者の家と、イスラエルのうちで呼ばれるであろう。』(申命記25:10)

主は、アブラハムやヨシュアに「あなたの足の裏で踏む所は、ことごとく与えた」と言ったが、妻とすべき女性をめとる事を嫌がって「くつを脱がされた者の家」(申命記25:10)という烙印を押される事は、イスラエルの土地を踏み歩く権利を脱がされた者として、かなりの恥辱となる。
実際、ルツ記では、夫に先立たれたルツを買い戻すべき責任が最もある親類は、その権利を放棄し、自らくつを脱ぎ、次に権利のあるボアズに渡したが、彼の名は聖書の中には記されず、その名は除外されてしまっている。(ルツ記)

また、ユダの長男エルは主を怒らせるようになり、ついには子供を残さないまま主に殺されてしまったため、ユダは、次男のオナンに、彼女をめとって兄弟の務めを果たすよう命じたが、彼は子が自分のものとならないので、行為の度に子種を地面に流した。
それは「生んで増えて地に満ちる」という神の御心にも、また、父の命令にも、反抗する事だったため、主は彼をも殺されてしまった。
神にも父にも反抗してまで、自分を貫きたい、という者を、主は打たれるのだ。

永遠に名を残し、栄光の家系を受け継ぐ人とは、物質的・肉的な相続を優先させる者ではなく、信仰によって身寄りのない人を養い、御言葉を実践する人である。
ルツ記のボアズがまさしくそうである。
飢えた人にパンを分け与え、貧しい人々を家に入れ、裸の人に着せ、肉親の世話をするなら、暁のように光がさし出で、傷はすみやかに癒され、絶えず主に導かれ、焼けつく土地でも、思いは満たされ、骨は強くされ、潤された園のようになり、水のかれない源のようになるのだ。(イザヤ58:6-12)

ルツを買い戻したボアズは、キリストの予表である。
世の何者も、私達のような罪の負債だけの者を、買い取る事は無い。私達を買い取るメリットなど無く、ただ重荷にしかならないからだ。
しかしそれでも、イエス様は私達を買い取って下さった。
何のメリットも無いのに。それどころか、自分のいのちを投げ出さねばならぬという「究極のデメリット」しか無いのに。
それはただ、彼の大きな愛の故である。

『ふたりの人が互に争うときに、そのひとりの人の妻が、打つ者の手から夫を救おうとして近づき、手を伸べて、その人の隠し所をつかまえるならば、その女の手を切り落さなければならない。あわれみをかけてはならない。』(申命記25:11-12)
「隠し所」はマブシュ、男性の急所の意味もあるだろうが、「ひみつ」という意味である。
たとえ、正当防衛的な理由があったとしても、だからと言って、男性のその部分、すなわち、その家の”命のひみつ”を掴む事は、ゆるされないのだ。

命は主のものである。
イスラエルでは、家の「名」を残す事、いのちを子々孫々へと繋げる事が、ことさら重要であり、その価値観は、そのまま神の国において同じである。
なぜなら、天に私達の「名」が永遠に記され、キリストイエスにあって永遠のいのちをつなげていく事を表しているからである。

礼拝説教メッセージ音声:大いに望みをもって主の働きをせよ(申命記25:1-4):右クリックで保存

今回の箇所では、いかに罪人であっても、また、家畜に対してであっても、憐れみを施すべき事が命じられている。

『人と人との間に争い事があって、さばきを求めてきたならば、さばきびとはこれをさばいて、正しい者を正しいとし、悪い者を悪いとしなければならない。その悪い者が、むち打つべき者であるならば、さばきびとは彼を伏させ、自分の前で、その罪にしたがい、数えて彼をむち打たせなければならない。彼をむち打つには四十を越えてはならない。もしそれを越えて、それよりも多くむちを打つときは、あなたの兄弟はあなたの目の前で、はずかしめられることになるであろう。』(申命記25:1-3)
罪の刑罰として人を鞭打つ時、残酷に過ぎないようにと、命じられている。
鞭打つのは、矯正のためであり、憎むべきは、罪の行いであって、罪に支配された「兄弟姉妹」ではないからだ。

私達キリスト者は、福音の故に、時には、鞭打たれるような事もある。
パウロは、三十九の鞭を打たれた事が五度あったし、ペテロも、議会で鞭打たれた。
現代日本では、福音の故に実際に鞭打たれる事は、今のところ無いであろうが、イエス様を信じているが故に、迫害を受ける事はある。
しかし、そのような時、実は、幸いである。

『もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。』(1ペテロ2:19-21)
なぜ不当な苦しみを受ける時、幸いなのか。
なぜ、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍んでいるとするなら、それが神に喜ばれる事なのか。
それは、その時、その人はキリストに属する者である事が、神と人との前で、明らかになっているからである。
使徒たちが、御名のためにはずかしめられるに値する者とされた事を喜んだのは、そのためである。(使徒5:41)

そしてまた、天において報いは大きいからだ。
『義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。』(マタイ5:10-12)

キリストは、私達もそれにならって歩むようにと、模範を示された。
『キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。』(1ペテロ2:22-25)

私達は、キリストが身代わりに打たれた鞭の故に、癒やされた。
また、ヨーロッパや、全世界の、福音が伝えられている先々においては、パウロが打たれた鞭の故に福音が広まっており、それによって多くの人々は救われ、多くの永遠のいのちが生まれた。
パウロの背中の傷跡は、人の目から見れば恥かもしれないが、彼の伝道で救われたいのち達には、救いのしるしである。
私達も、キリストにならって、それぞれの十字架を負って歩むべきである。
私達全てにとっての、救いのしるしは、イエスキリストの十字架の傷跡である。

『脱穀をする牛にくつこを掛けてはならない。』(申命記25:4)
「くつこ(口籠)」とは、食べ物を食べられないようにするために口を拘束する道具であるが、働いている牛には、その働き場から食を得る事を禁じてはならない、と、命じている。

パウロは、働き人は当然、報いを受けるべき事を、この箇所で示している。
『すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。』(1コリント9:9-11)

御言葉の奉仕に専念する人が、それによって生活の資を得て良い事は、旧約聖書からも明らかである。
神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかれるし、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るように指示された、と、書かれてある。(1コリント9:13-14)

しかしパウロは、その当然たる権利を、敢えて、用いなかった。
むしろ彼は、なんと、「福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないこと」が、彼の受けている報酬だと言っている。(1コリント9:18)
なぜ、無代価で福音を伝える事が、そして、宣教者として持つ権利を利用しない事が「報酬」になるのか。
それは、パウロは、地上での廃れていく金銀や栄誉よりも、天に積み上がっている、永遠にすたれる事の無い栄光と富のほうに、遥かな価値がある事を知っていたからである。

天では、確かに積み上がって行く宝がある。
それは前述した通り、この地上において、福音の故に不当な苦しみを受ける時、善を行って苦しみを受け耐え忍んでいる時、無報酬で福音のために働く時、天では、その人がやがて受けるべき宝が、どんどん積み上がっているのである。
貧しい人のために働く時、その報酬を地上で望みえない時、その人たちはお返しができないので、幸いである。
なぜなら、義人の復活の時に、お返しを受けるからだ。(ルカ14:14)
だから私達も、パウロのように、望みをもって、福音のために働くべきである。

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